顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

2日続けて落城…関城址と大宝城址

2017年07月29日 | 歴史散歩
南北朝時代の常陸の国は、所領を巡っての対立が北朝側と南朝側に分かれての争いになり、結城氏・小山氏・佐竹氏・大掾氏などは北朝側、小田氏や結城氏の庶流である白河結城氏・関氏・下妻氏・伊佐氏などは南朝側につきました。
南朝側の一大拠点だった関城跡は、筑西市(旧関城町)関舘の梨畑や田畑に囲まれた平地の一画にありました。(現地の案内板です。)

Googleの航空写真に現地の案内図を取り込んでみました。約8.5ヘクタールの館は、当時は東西南が大宝沼に囲まれた天然の要害の地で、南方に位置する下妻氏の大宝城とは船で行き来ができました。

関城の関宗祐・宗政親子は南朝側に立って2年間も北朝方の高師冬軍と戦いましたが、来援を期待していた結城親朝の離反にあい、興国4年・康永2年(1343)11月11日ついに落城し、親子は城と運命をともにしました。関宗祐親子の墓とされる宝篋印塔が建っています。

2年前の興国2年(1341)には、南朝の重臣北畠親房が身を寄せていた小田城が北朝方に降伏したため、関城に移りここで「神皇正統記」の執筆を完成させました。しかし落城に伴い親房は脱出して吉野に帰還します。

北朝方の総大将高師冬が、関城の物見櫓を攻め落とすために鉱夫を使って地下道を掘った跡が残っていました。地盤が柔らかかったため、結局この作戦は失敗しましたが相当に攻めあぐんだ戦いだったようです。

670年の年月を経ていますが、民家の敷地にも当時の堀と土塁の痕跡が残っているのがそれとなく分かります。



大宝沼を挟んで関城の南側2.5キロに位置する大宝城には、同じく南朝方の下妻政康が守っていましたが、関城の落ちた翌日11月12日には、勢いづいた北朝側の軍勢が一気に攻め落とし、城主下妻政康は討ち死にしたと言われています。
小田城から移って籠っていた後醍醐天皇の孫興良親王は西走し、南朝の武将春日顕国は龍ケ崎馴馬城などで転戦しましたが、やがて落城し処刑されました。
Googleの航空写真に城郭図を重ねてみました。

今は本丸一帯が大宝八幡宮となっている10.7ヘクタールの城域には小学校などの施設や民家が散在しています。

城の北西東側は大宝沼に囲まれた岬のような台地ですが南側は陸続きのため、南側にある東曲輪の大手馬出し跡に残る大きな土塁は高さ5m、上端幅4mもあり、この城の堅固な守りが窺えます。鬱蒼とした林に、鬨の声のように蝉が賑やかです。

北西側は比高10数メートルある急な崖で下を関東鉄道常総線が走っています。ここも当時は大宝沼の湖面でした。

本堂裏に「贈正四位下妻政康忠死之地」の碑が巨木に囲まれて建っています。南北朝争乱の時代、その正統性に殉じるというよりは、勢力争いによる一族の存亡を賭けた戦いだったのでしょう。


夏草や兵どもが夢の跡  松尾芭蕉
蝉しぐれ覆い尽くせず忠死の碑  顎髭仙人

田んぼアートみと 2017

2017年07月27日 | 日記
水戸市川又町の水田に今年で4回目の田んぼアートが出現しました。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の常澄―大洗駅間にあり、ちょうど高架区間のため車窓から見て一番いいようにデザインされています。

手前の畦道には、毎年足場を組んだ展望台が車窓よりちょっと下の目線で設置され、市のマスコットキャラクター「みとちゃん」や2019茨城国体のキャラ「いばラッキー」が浮かび上がります。

地元の川又田んぼアート協議会が茨城大学工学部の協力のもとに、「円柱投影法」という技法で斜め上からの視野に沿って立体的に絵が見えるように、縦50メートル、横100メートルの水田に、5色の観賞用稲と主食用稲(ゆめひたち)を植えてあります。

普通のカメラではとても一枚には入りきれず、パノラマ合成ソフトも手元になかったので手作業で合成してみましたが、ズレが生じてしまいました、ご容赦。

ヤマホロシ → ツルハナナス

2017年07月26日 | 季節の花

ヤマホロシ(山保呂之)の名で数年前に購入したこの花は、調べてみるとツルハナナス(蔓花茄子)が本当の名前というのが一般的のようです。
蔓状で茄子のような花という名前の通り、ナス科ナス属の常緑つる性低木で、星型の花の色は薄紫からだんだん白に変化して楽しませてくれます。

ヤマホロシというのは、同じナス科ナス属の日本古来の植物で、山を滅ぼすほどの勢力を持つところから、その名が付いたとも言われています。確かに検索図鑑で写真を見ると、花も小さく、濃い紫色でしかも草本なので明らかに違いました。
もっとも近似種の名で流通している例は他にもあるので、そんなに目くじらを立てることもないのかもしれません。

江戸中期の…穂積家住宅

2017年07月23日 | 日記

常磐道高萩インター近くにあるこの茨城県有形文化財は、安永2年(1773)の建築とされ、農業、酒造業、林業の他に明治時代には製糸業も行った穂積家のいわゆる豪農の館です。
桁行(けたゆき:建物の長辺)12間半、梁間(はりま:建物の短辺)6間の建物を中心に曲がり部を突出させ、屋根は寄棟造で正面に一部入り母屋を載せています。

茅葺の屋根は、数段重ねて葺かれており、その造りは「五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造(ごだんかやぶき なかたけふしそろえ かどいちまつもよう よせむねづくり)」という、形態をズラリ並べた長い名前、とても覚えきれません。

正面入り口の長屋門は、城郭にみられる楼門型櫓門のように立派です。昭和初期の改修で2階部分を載せたりして、数回の改築が行われているようです。右の前蔵は嘉永2年(1849)の建築、美しいなまこ壁が時代の特徴をよく表しています。

江戸時代末期に描かれた穂積家屋敷絵図屏風の古写真が展示されていました。長屋門は平屋で、前蔵の後ろに2階建ての書院など、今では見られない建物が描かれています。

板敷きの大きな広間、タンスの見える部屋は納戸です。今でも火で燻して、煙による屋根裏の防虫を時々すると管理人の方が話してくれました。

手前は前座敷、精巧な造りの欄間の向こうは奥座敷です。天袋に違い棚、地袋の清楚な床脇と床の間が見えます。

奥には2階建ての土蔵作りの衣装蔵が昭和4年に増築されおり、母屋との通路は大正ロマンさながらの洒落た雰囲気を漂わせていました。

藁葺きの内側を見上げると、竹と藁で組まれた見事な天井です。竹などの部材は、原則として劣化したものだけを取り替えているということで、新旧入り交じっているのがわかります。

ずい分前にこの天井の煤竹で作ったという耳かきをもらったことがあります。渋い色合いと、柔らかい肌触りの逸品は、江戸時代中期から明治、大正、昭和と…天井から見てきた歴史が染み込んでいました。

カサブランカ

2017年07月20日 | 季節の花

カサブランカといえば、渋さのハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの往年の名画がすぐ出てきますが、その舞台のカサブランカはモロッコ最大の都市です。
原産国のオランダでは、交配や品種の固定をする花に都市の名前を付けることが多かったといわれており、カサブランカはスペイン語で、 【casa=家】【blanca=白】という意味なので、まさしくピッタリの名前になりました。

鉢植えで咲いた花の奥を、小さなアマガエルが占拠中、まさしくcasa blanca… 、白いマイホームからドヤ顔で築40年余の棲み家の主を眺めていました。

ゆりの一種なので夏の季語ですが、例句はあまり見当たりません。

カサブランカとかや云う百合咲き出せり  高澤良一
侵されてなお真白なりカサブランカ  顎髭仙人