顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

畦道の雑草…年の暮れ

2016年12月30日 | 季節の花
田んぼの畦ではホトケノザ(仏の座)が赤紫の花を見せ、下の方にはイヌフグリ(犬陰嚢)のブルーの小さな花、絮毛(わたげ)と黄色い花を同時に付けているのはノボロキク(野襤褸菊)という哀れな名前を付けられた花です。
水路に映る冬の雲は、わた雲と呼ばれる積雲でしょうか、穏やかな年の暮れです。

ホトケノザの群落です。ほとんど一年中咲いているように見かけるオドリコソウ属の花、春の七草のホトケノザはキク科の別種です。

気の早いタンポポ(蒲公英)が咲き出しました。寒そうに首を葉の間に引っ込めたように咲いているのを、無理やり茎を引っ張り出して見ると、萼片が反り返っているセイヨウタンポポです。最近ニホンタンポポはあまり見かけなくなりました。

ところで、「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ  (坪内稔典)」、「たんぽぽのぽぽと絮毛のたちにけり (加藤楸邨)」という有名な2句がありあります。読者の自由な解釈にまかせるのが俳句の醍醐味と言われるように解釈はいろいろ…、正月酒に酔いながら考えることにしました。
どうぞ良い年をお迎え下さい。

偕楽園好文亭奥御殿の襖絵「萩の間」

2016年12月28日 | 水戸の観光
好文亭は、天保12年(1841年)9代藩主斉昭公が、「一張一弛」の教育方針を掲げ、藩校弘道館とセットで創った偕楽園にあります。平屋部分の奥御殿は藩主夫人が來亭の際の休息所で、明治になってから斉昭夫人の貞芳院が、仮住まいのために水戸城中御殿より移築した3部屋を加えて合計10部屋あり、そのうち9室の部屋に描かれた花木の襖絵が部屋の名前になっています。さて、いまからご紹介の萩の間は、お付きのご女中衆の詰所、休息の部屋でした。
終戦13日前の昭和20年8月2日、水戸大空襲により市街地の80%くらいが消失し、この好文亭も焼け落ちてしまいました。戦後の再建は寺社建築などを専門とする、世界最古の578年創業を誇る金剛組が1955年から施工し、襖絵は当時の東京芸大の須田珙中助教授によって、松の間、紅葉の間、梅の間、萩の間が描かれ、竹の間に取りかかった時に病に倒れたため、後を引き継いだ田中青坪教授によって菊の間、桃の間、躑躅の間、竹の間、桜の間が完成しました。
しかし昭和44年、午後4時過ぎに起こった夕立の中、奥御殿の萩の間付近に落雷、奥御殿部分は全焼してしまいました。幸いにも、開亭時間中で屋根から燃え出したため、大事な襖絵は運び出すことができましたが、萩の間の天袋の襖絵だけが間に合いませんでした。
さて、昭和47年の奥御殿再建の時に描きなおしたという萩の間の天袋をアップで見ると、日輪と雀の隅に青坪の落款があるのがわかります。当時田中青坪画伯は69歳、萩の絵を描いた須田珙中画伯はすでになくなっていたので、彼が描き足したようです。
戦後の再建時には、創建時の襖絵の資料がほとんど残ってなくて苦労したようですが、再建なった萩の間は見ているわけですので、門外漢には白い萩の絵とのバランスが取れてないような気がし、また日輪の部分は以前は右側にあった筈とか、いろんな疑問はふつふつと湧きますが、各部屋を周りながら華麗でダイナミックな須田画伯と、静謐で力強い田中画伯の作風を見比べ、空想と妄想の世界で楽しく遊ぶしかありません。
(後で仲間のSさんから頂いた資料によると、須田画伯の門下生である水戸出身の谷中武彦画伯が、関係者の話や資料を元にして天袋襖絵の落雷消失前のイメージを再現した写真があり、それによると襖絵の銀色の月の上半分と萩の枝先が見えるだけのシンプルな天袋絵だったようです。)
(また、1989年に須田画伯の門下生、この谷中武彦と今井珠泉、鈴木至夫の三人の画伯が3日がかりで須田襖絵の剥離部分を無償で修復したということです。)
(なお天保13年の創立時の襖絵は、萩谷遷喬、三好守真、岡田一琢の作ですが、水墨画のようで弘道館の襖絵に似ていましたという古老の話が残っています。写真の弘道館の正庁、藩主の正席の間袋戸に萩谷遷喬によって描かれた梅の絵で想像するしかありません。)

2022年9月、この萩の絵が須田珙中画伯の描いたであろうという姿に復元されました。詳しくは、萩の偕楽園…好文亭奥御殿「萩の間」の襖絵(2022.9.12) をご覧ください。


来春の偕楽園の梅は?

2016年12月22日 | 水戸の観光

昨年は12月10日頃に開花情報が入り、このブログで12月24日には五分咲きの寒紅梅を紹介しました。
さて今年は、ということで暖かい18日の午後、偕楽園内と田鶴鳴梅林付近を探しました。いつも早咲きの木を目標に歩き回った範囲では開花を見つけられませんでした。

写真は常磐線沿いの陽だまり、例年早咲きの梅が咲く場所ですがまだ咲きそうな様子はありません。
去年は3月半ばまでにはほとんどの品種の梅が咲いてしまい、梅まつり終盤まで持ちませんでした。これからの気候次第ですが、来春は平年並みのような気がします。もっとも専門家の見解はまだ発表されていませんが…。

おかげで昨年の実梅の収穫はさっぱり、偕楽園に限っては平年の約1割、これは開花が早すぎて受粉時にまだ媒介する虫の活動が十分でなかったからとも言われています。ということは来春の実梅は、今年の不作の分栄養を充分蓄えているかもしれないので、さらに期待できそうです。

表門を入ってすぐにある一ノ木戸の屋根の葺き替え工事をやっていました。
この屋根は柮葺(とちぶき)といって好文亭の屋根の杮葺(こけらぶき)と同じ割板を重ねた葺き方、板の厚さが厚い(1~3センチ)のが柮葺、薄い(2~3ミリ)のが杮葺というようで、どちらも材質は椹(さわら)です。なお、杮(こけら)の字は柿(かき)と似ていますが、木偏の右側の真ん中の縦棒が上から下まで突き抜けるので、「市」とは違います。
(ブログでは、同じ字に表記されてしまいました)

水戸大空襲で偕楽園内の焼け残った建築物の一つですが、屋根や柱の下方部など経年劣化や腐食したものは修復しているようです。

アントラーズ善戦!

2016年12月19日 | 日記

クラブワールドカップの決勝戦、鹿島アントラーズは下馬評を次々と覆し、オセアニア代表、アフリカ代表、南米代表を破って決勝戦まで登りつめました。相手は欧州代表の世界に名だたるレアルマドリード、スーパースターのクリスティアーノ・ロナウド(新聞ではロナルド)を擁する超一流クラブです。

試合は開始早々1点を取られましが、アントラーズは臆することなく柴崎が同点ゴールで前半を折り返し、なんと後半また柴崎のゴールで逆転し2-1、このままいけば優勝との期待を抱かせるひとときもありましたが、惜しくもPKで同点、延長線では緊張が切れた一瞬に立て続けにロナウドにゴールを決められ惜しくも破れました。

負けるのは仕方がないが大差にならないでという願いの試合でしたが、終わってみれば世界のトップ選手たちを慌てさせる大善戦、創部25年、人件費総額が20億のクラブが100年以上の歴史を誇り、ロナルドだけでも年収97億と言われるトップスター軍団に充分立ち向かえました。

この経験、自信は他の Jリーグチームにも波及し、日本のサッカー界の大きなステップアップになることでしょう。よくやったアントラーズ!

松川藩陣屋跡(大洗町成田町)

2016年12月16日 | 歴史散歩
水戸藩の御連枝(支藩)として元禄13年(1700年)に守山藩2万石が成立、水戸藩同様定府制で参勤交代はなく、代々松平大学頭を名乗る藩主以下江戸大塚吹上の藩邸に住み、守山(郡山市)と松川の陣屋に郡奉行ほか数名の藩士が詰めていました。明治3年7代藩主松平頼之(徳川斉昭の22男))の時、藩庁を江戸藩邸からここ松川陣屋に移し松川藩と改称、藩籍奉還後一時松川県庁になりましたが、明治4年(1871)失火により陣屋は全焼し、藩士の多くは県外に去り、また一部土着した藩士もいたようです。

一帯はいま農地になっていますが、Google map上に当時の松川藩の配置図(夏海年代考(江原忠昭著)大洗アーカイブ掲載より)を重ねてみました。

藩政では水戸藩の監督を受ける立場にあり、天狗党の乱では加わった藩士がいて処罰されたり、新政府軍に早々と降伏するなど、小藩の悲哀の歴史は、いま農地の中に埋没しているようです。
(水戸の回天神社殉難志士名簿には、元治甲子事変殉難者として松川支藩林庸政義など7名の名前が記載されています)

戦いのない時代の陣屋でも、涸沼に舌状に突き出した比高20mくらいの台地の先端に位置して要害の構えが感じられます。前方に涸沼が見えます。

陣屋の一画にある豊姫稲荷神社は、この地に守山藩の松川陣屋を置いた時に、守護神として鎮座させました。たまたま開いていたので中が撮れました。

近所の方の話では、畑の中に大きな礎石があるということですが、車を停めた空き地にタイヤが埋まってJAFを呼ぶ始末になり確認できませんでした。狭い道なので車での進入はおすすめできません。