顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

茨城空港…コンパクトな地方空港

2022年01月26日 | 日記
茨城空港は小美玉市にある自衛隊と民間の共用飛行場で、関東で唯一戦闘機が配備されています。もともとこの地には、百里原という東茨城、行方、鹿島3郡に及ぶ広大な原野があり、そこに1937年百里原海軍航空隊の飛行場ができ、戦後の1966年には自衛隊の百里基地飛行場が誘致され、2010年に民間共用化されて茨城空港としても営業を開始しました。

2,700mある2本の滑走路は、茨城空港寄りの西側滑走路(03L/21R)は主に民間航空機、百里基地寄りの東側滑走路(03R/21L)は主に自衛隊が利用しているようです。なお、航空管制は航空自衛隊の管制官が担当しています。


開業の2010年度の国内国際の乗降客数は203,070人だったのが、2019年には776,002人まで増えてきた矢先、コロナの影響で2020年は国際線ゼロ、国内線208,570人まで落ち込み、その状態が続いています。もっとも、災害時の防災拠点としての機能なども持つ重要なインフラの空港は、収支だけでは判断できないかもしれませんが…。


現在の国内定期便は、神戸、福岡、札幌だけで那覇便は運休、台北、上海、西安便などの国際便はしばらく運休のままです。そういうわけで離発着の写真のタイミングは難しく、運行しているスカイマークの写真をお借りしました。


撮影日の離発着は2便だけ、手前が国内線カウンターで、奥の国際線は運休のためパーテーションロープも設置されていません。


広い展望デッキは人影もまばら、この空港は密の心配が今のところ全くありません。


開港時には、自衛隊基地のある右側が見えないように曇り(偏光)ガラスでしたが、茨城県議会で問題になり4年後に透明のものに替えられました。隠す必要があったとも思えませんが。


たまたまジェット機が数機帰還しました。コンデジの望遠ではこれがやっと、多分F-2という最新型の戦闘機でしょうか。音速の約2倍、マッハ2の性能だそうです。


レストランの配置もゆったりしてのセルフサービスで、地元の和食店「すぎのや」の経営です。滑走路側にはカフェテラスもあり、窓際から発着も眺められます。


売店も3か所、地元の特産物なども揃えてあります。


ここの利点の一つは3600台収容の無料駐車場です。利用者促進のため東京駅までの高速バスが1000円(航空機利用者は500円)だったので、仙人もよく利用させていただきましたが、県の補助も終わって1530円になり、しかも利用者減で現在は運休中でした。
左手奥に筑波山が見えています。


空港南側にある空港公園には、F-4EJ改 要撃戦闘機とRF-4EJ戦術偵察機闘機が展示されています。小高い丘やベンチもあり飛行機の離着陸を眺めることができる広々として公園です。

地方空港特有のコンパクトさで、駐車場からの動線が大変短く短時間で乗降でき、また高速道路との連携もよく東京、北関東、福島へのアクセスも容易です。コロナ禍が過ぎて早く元の姿に戻り首都圏北部の地方空港の良さを十分に発揮してもらいたいものです。

長者山城…八幡太郎義家伝説の地(水戸市)

2022年01月22日 | 歴史散歩

1月6日の拙ブログ「台渡里遺跡群…飛鳥~平安時代の役所、寺院跡」で紹介させていただいた飛鳥、奈良、平安時代の台渡里遺跡群は、常陸国那賀郡の郡役所や寺院の跡ですが、その遺跡群と重なる東の部分に中世の長者山城址があります。


城址の入口に「一盛長者伝説地」という石碑が建っています。
碑文には、「この長者山は源義家によって滅ぼされたという一盛長者の伝説地である。後三年の役のとき10万の兵を率いて奥州に向かった義家は、長者の家に泊まって豪勢なもてなしを受けた。奥州平定後ふたたびここに泊まり前に劣らぬ接待を受けた義家は、このような富豪は後日災いになると考え、急に長者を襲って滅ぼしてしまったという」と書かれています。

この地は奈良時代から陸奥の国へ通じる古代の東海道に面した土地で、長者といっても財力のほかに一帯を支配する軍事力を持った勢力が、城のような防御を固めた屋敷に住んでいたと思われます。

その伝説の地に現在残る土塁や堀の跡は、中世(15世紀半ば)に水戸城主となった江戸氏の重臣である春秋(はるあき)氏一族の居城で、水戸城の北西の守りを固めていました。


土塁と堀の一部が残っているだけですが、比較的形状が残るⅠ郭のほかⅡ郭、Ⅲ郭も民家の敷地になっています。Ⅳ郭、Ⅴ郭などの外郭は、ソーラーパネルで覆われて確認することはできませんが、フェンス越しに高い土塁らしきものが見えます。


Ⅰ郭の南側の土塁と空堀です。


Ⅰ郭の南側の堀、直角に曲がって急斜面につながります。


東側にも深い堀が複雑に巡っています。その先の北東側は約15mの断崖で敵を寄せ付けません。


立ち入りできない本丸西側の空堀はGoogle Mapでのご紹介です。


台渡里廃寺跡に建つ八幡神社の西端の土塁も、長者山城の外郭の一部という説もあります。


約300m南方にある勝幢寺です。ここの棟札に「大旦那春秋駿河守」とあるそうですが、他には春秋氏と長者山城の資料はほとんど残っていないのが現状のようです。
春秋(はるあき)という名前の人はいま全国で約60人とか、もとは常陸国鹿島郡春秋村出自の桓武平氏大掾氏の家系で、水戸地方に進出して江戸氏の麾下に入り、江戸氏が河和田城から水戸城へ移ると河和田城の守将となり、一族を見川城、長者山城に配置して水戸城の備えとしました。


長者山城址で発掘された遺物が水戸市埋蔵文化財センターで開催中の「悠久の水戸史」で展示されていました。
常滑大壺(15世紀後半~16世紀前半)


志野菊皿や丸皿(16世紀後半~17世紀前半)


刀の鐺(こじり)や武具の飾り金具、棹秤(さおばかり)の分銅も発見されました。

さて、この長者山城の最後です。
天正18年(1590)8月1日、豊臣秀吉は常陸と下野両国にある佐竹氏の所領を安堵しましたが、その中には大掾氏や江戸氏の所領など、佐竹氏に服属していない領主の支配地もあったといわれます。秀吉の朱印状による水戸城明け渡しの要求を拒んだ江戸重通に対し、12月19日佐竹義宜は三方に分けた軍勢で水戸城を急襲しわずか一日で攻めおとし、江戸重通は子の実通とともに城を棄て、妻の兄結城晴朝を頼って落ち延びました。この戦いで長者山城も西方から攻めあがった長倉義輿の軍に瞬く間に蹂躙されてしまったようです。
翌20日には残った河和田城などが攻められ、主な武将が前日の戦いで応援に出て討死にしていたため一日で落城したと伝わっています。江戸氏による約160年の水戸支配の終焉、勝者の佐竹氏も関ヶ原の戦いでの中立的態度を徳川家康に咎められ、わずか12年後の慶長7年(1602)に出羽国秋田に移封されてしまいます。

額田城…二度も宗家に叛いた中世の城址

2022年01月16日 | 歴史散歩
陸奥国への街道の要衝、額田(茨城県那珂市)の地に築かれた額田城は、340年の歴史を持つ中世城郭です。前半の170年は佐竹氏の分家が、後半の170年は佐竹家臣が宗家に従属して治めましたが、独立志向が強く城域を拡大しながら大きな勢力を維持してきました。

鎌倉時代の建長年間(1249~1256)に佐竹氏5代義重の二男義直が築城し(前期額田氏)、10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。
その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり(後期額田氏)、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代照通まで続きますが、「照通に異心あり」として攻められ落城しました。

戦国末期に伊達政宗と内通して宗家に攻められた後半の城主小野崎氏は、弊ブログ「伊達政宗の起請文…額田城主小野崎氏宛 2021年12月24日」で紹介させていただきました。

標高約30m比高約15mの額田台地の南北に有が池と久慈川の天然掘を配した連郭式平山城です。その総構えは南北に約800m、東西に約1200mで約960,000㎡、東京ドーム約20個以上の広さでした。しかも現在残っている本丸跡が約16,000㎡、二の丸、三の丸の堀と土塁まで含めた総面積は約77,000㎡、中世の城跡としては県内でも有数の規模です。


阿弥陀寺からの本丸方面に向かう遊歩道は、天然の堀らしき沼沢地で川が流れています。  上記額田城主郭航空写真 ◎1


郭間の空堀は幅約20m、深さ9mの大規模なもの、右が本丸、左が二の丸です。 写真 ◎2


右手が二の丸、左手が三の丸間の堀です 写真 ◎3


三の丸は住宅地や畑になっていますが、土塁や空堀跡が散在します。 写真 ◎4


二の丸から三の丸への土橋です。 写真 ◎5


広い二の丸、随所に詳しい案内板が建てられています。本丸、二の丸はほぼ完全な姿で残っているのが魅力です。 写真 ◎6


本丸北端の堀には水が湧き出しています。何か所かの湧水も見られ、当時は一部の堀は水堀であったともいわれています。 写真 ◎7


平坦で広い本丸はなんと16000㎡もあります。この一帯は民有地でしたが、最近市で買い上げて歴史公園に整備すると近所の方に聞きました。ぜひあまりいじらないで遺構をしっかり残してもらいたいとその方も話していました。  写真 ◎8


本丸土塁の上は銀杏の葉が散り敷かれていました。右手が二の丸との間の空堀です。  写真◎9

この大規模な城の最後の戦いは、小田原を征圧した豊臣秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹義宜が、翌1591年に額田城主に異心ありとして攻めたものでした。
近隣では群を抜く強力な兵力といわれた額田700騎で分かるように、当時の戦いは数百人規模のものであったかもしれませんが、結局この堅固な城は、宗家佐竹氏の攻撃だけでは落とすことができず、太閤秀吉の名で退城勧告を突きつけられて、城主小野崎氏は城を退去したと伝わっています。

弘道館の蝋梅…春の香りをさきがけて

2022年01月11日 | 水戸の観光

水戸藩の藩校弘道館には数本の蝋梅があり、数輪咲き始めた早咲きの梅より先に、黄色い花を咲かせて芳香を漂わせています。蝋梅でも基本種の地味な「和蝋梅」という品種です。

弘道館は天保12年(1841)水戸藩9代藩主の徳川斉昭公が開設した藩校で、ここでの学問は「水戸学」といわれ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

幾度かの戦火を奇跡的に免れた正門、正庁、至善堂が当時のまま残っており、国の重要文化財に指定されています。


正面玄関は6坪の板貼りの式台があり、尊攘の雄渾な掛け軸がかかる24畳の諸役会所(控えの間)につながります。


正面玄関の鬼瓦に付いた水戸葵紋、冬空と蝋梅が鮮やかです。


左手には藩主隣席の儀式などを行う正席の間、二の間、三の間があります。


正庁の畳廊下には銃痕や刀疵が残っています。明治元年(1868)10月、ここでの藩内抗争最後の戦いで約200人ほどの藩士が亡くなっています。


正庁の奥の至善堂は、藩主の休息所と諸公子の勉学の場所、最後の将軍で斉昭公の第七子慶喜公もここで5歳から文武に励まれました。雨戸の部屋が藩主の御座の間です。


至善堂一番奥の御座の間は、慶喜公が約3か月ここで謹慎して朝廷に恭順の意を表したことで知られています。


至善堂には御座の間のほかに二の間、三の間、四の間、溜りの間があり、正庁との間は十間の畳廊下で結ばれています。


蝋梅と築地塀…、正門の袖塀は重要文化財なので、東日本大震災の補修は国の施工、築地塀は県の施工で行ったそうです。


早咲きの八重寒紅にも白壁の築地塀が似合います。


こちらは八重冬至、冬至の頃に咲くから名付けられた早咲きの梅です。何年か振りに7cmの降雪を記録した雪が残っています。

斉昭公の有名な七言絶句、「弘道館中梅花を賞す」で「雪裡春を占む天下の魁」(雪の残る中で春を独り占めして天下のさきがけのようだ)と梅の花を詠っていますが、幕末の動乱や藩内抗争で2000人近くの藩士が亡くなった水戸藩の、先駆け過ぎた悲哀を感じてしまいます。

台渡里遺跡群…飛鳥~平安時代の役所、寺院跡

2022年01月06日 | 歴史散歩
水戸市西北部の渡里地区にある「台渡里遺跡群」は、那珂川を北に見下ろす河岸段丘の上にあり、飛鳥、奈良、平安時代の常陸国那賀郡の郡役所や寺院の跡で、国指定史跡になっています。

史跡指定地(総面積108,618㎡)をGoogleマップ上に大雑把に落とし込んでみました。(黄色い破線)

その中で台渡里廃寺跡は、古代の大寺院の跡です。発掘調査により観音堂山地区の寺院は、7世紀後半から末頃(飛鳥時代)に建てられ、9世紀後半(平安時代前期)の火災によって焼失したことが分かりました。なお、焼失後の再建とされる寺院跡が南方地区に残っています。


また台渡里官衙遺跡(長者山地区)は郡役所の一部である正倉院の跡です。発掘調査により東西約300m、南北約200mの地に瓦葺の倉庫群が整然と並んでいたことが分かりました。正倉院は全国各地で確認されていますが、総瓦葺の建物数棟が立ち並び、まわりを最大幅5m、深さ2mの二重の溝で取り囲んだ例はなく、貴重なものだそうです。
正倉とは、奈良時代の中央や地方の官庁や寺院に設置された倉庫のことで、数棟集まったものを正倉院といいますが、現存するのは東大寺の正倉1棟だけで、正倉院といえばそこを指す固有名詞になっています。


観音堂山地区の寺院跡では、推定範囲東西126m、南北156mの寺院地内から講堂跡、金堂跡、塔跡、中門跡、経蔵跡あるいは鐘楼跡に想定できる礎石建物跡が6棟確認されました。
当時の台渡里廃寺(観音堂山地区)のイメージ図です。(水戸市教育委員会資料より)


奥のいちだん高いところに寺院の建物が建っていたとされます。


南方地区の寺院跡では、推定範囲東西220~240m、南北210m以上の寺院地内に塔跡、金堂跡に想定できる礎石建物跡が2棟確認されており、観音堂山地区の寺院が火災で焼失した後に9世紀後半頃に場所を移して建て替えたとされています。


現在残っている南方地区の寺院跡の一部です。



水戸市埋蔵文化センターで開催中の「悠久の水戸市」展でも、台渡里遺跡群で発掘された瓦や土器類が展示されていました。


もっとも大きな正倉は7間×3間の総瓦葺きで、その建物跡から大量の瓦が出土しています。


川辺、大井などの郷名が押された文字瓦です。那賀郡には22の郷があり、これは常陸国や全国から見ても最大規模でした。


大伴、小倭などの人名をヘラ書きの瓦です。このような瓦は、当時の造営の様子や常陸国那賀郡の実態等を語ってくれる貴重な資料になるそうです。


観音堂山地区のいちだん高い所にある八幡神社は古代寺院の伽藍域であり、中世には水戸城主江戸氏の支城として築かれた長者山城の外郭の一部であったとされます。


この長者山地区には、一守長者伝説が残っています。
後三年の役 (1083~1087)で源義家が大軍を率いて奥州に向かう途中に立ち寄った一守長者屋敷で豪勢にもてなされ、帰路も前にもましての接待を受けたので、こんな勢力を持つ豪族は後々災いのもとと、一族を皆殺しにしたと伝わっています。
これは平安末期の話ですが、15世紀半ばには水戸城主となった江戸氏の重臣、春秋氏が長者山城を築いて北西部の守りを固め、現在その城跡が残っています。(上記航空写真の白い破線)

古代の蝦夷政策の中心地、多賀城(宮城県多賀城市)へ都から向かう東海道がここを通っていたとされますが、古道の跡や肝心の郡役所の跡はさらに調査が必要ということです。