顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

涸沼の砂州…自然が造り出した地形

2024年09月30日 | 日記
茨城町、鉾田市、大洗町にまたがる涸沼(ひぬま)は周囲約22km、湖水面積9.35㎢に及ぶ関東唯一の汽水湖です。シジミやハゼ釣りでも知られ、また野鳥の宝庫でもあり、望遠レンズのカメラマンにも人気の自然いっぱいの湖沼です。

この涸沼には、自然が造り出した沖に突き出た地形、砂洲(さす)があり、google航空写真ではっきりと分かります。

砂洲とは、河川によって運ばれた砂礫が、風や沿岸流によって堆積してできた砂嘴(さし)が成長して、やや沖合に細長く伸びた地形です。砂州の代表的な例は「天橋立」、砂嘴の例は「三保の松原」といわれます。


涸沼の砂州は北側が「親沢公園」、南側が「網掛(あがけ)公園」になっています。



親沢公園は、涸沼に突き出した一画に松林などの林が手入れよく並ぶ景勝地になっています。最大25張りのテント設営可能なキャンプ場もあり、ロケーションの素晴らしさから人気があるそうです。

松の木の間から筑波山が、山容がよりどっしりした形で見えています。ここからは「ダイヤモンド筑波」が10月10日前後に見られると出会ったカメラマンの情報です。

ヒガンバナも咲いていました。釣りをしていた方に聞いたら、今年のハゼは水温が高いせいかぜんぜん当りがないと嘆いていました。




さて対岸の網掛公園、広々としていますが夏草の刈り取りがまだのようです。


突き出した砂洲の湾曲した部分が良く分かります、大きなボラがたくさん水面から飛んでいますが、ここでも釣り人の釣果は散々なようです。ボラは水中の酸素濃度が低下しているため酸素を取り込もうと飛ぶので、魚の活性が低下している状況になり魚は釣れないという説もあります。




こちらは涸沼の出口に近い「広浦公園」…この一帯は、以前は沖合400mくらいまで黒松の生えた細長く突き出た岬状の砂州で「常陸の天橋立」と言われたそうですが、干拓等の埋め立てにより現在は砂嘴となっています。


あんば様で知られる大杉神社の鳥居とコブハクチョウ、多分ここに住み付いている個体です。


ここは、風波と東日本大震災時の0.2mの地盤沈降により侵食が進んだことから、平成25年(2013)久慈川の河床堆積土砂2,000 ㎥を運び込みましたが、まだ浸食が続いているようで砂浜がずいぶん後退しています。


水戸藩9代藩主徳川斉昭公が選定した水戸八景「広浦の秋月」の碑です。左側には保勝碑が建っていますが、常陸太田産の寒水石(大理石)のため、風雨に晒され細かい文字はよく読めなくなっています。


ところでこの涸沼は平成27(2015)年に、スズガモ、オオセッカ、オオワシの生息・越冬地としてラムサール条約湿地に登録されました。
※ラムサール条約とは「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい1971年イランのラムサールで開催された国際会議で採択された、湿地の保全と利用、学習に関する条約です。

沿岸の自治体である鉾田市と茨城町では、ラムサール条約に関連した水鳥湿地の保護施設を今年度中に開設することになっています。


4月にオープンした鉾田市の「みのわ水鳥センター」です。観察センタ3階の屋上からは広々とした湖水を眺められ、また双眼鏡の無料貸し出しも行われています。

湖岸堤防には遊歩道があり、野鳥などの営巣地や水性植物の群落となる湿地の中には木道が敷かれて観察や散策、釣りには絶好のポイントになりました。


古墳のような高台には、お子様に人気の芝生の滑り台スロープが設置されています。


この施設のちょうど対岸には、沿岸自治体の茨城町が建設中の「涸沼水鳥湿地センター」が間もなく完成の予定です。(完成予想図は茨城町のウェブページよりお借りしました)



この一画にある「いこいの村涸沼」は、日本一の宿泊率を誇る国民宿舎「鵜の岬」の姉妹館として人気の茨城県営の宿泊施設です。夏の大プールや64ホールの林間芝生コースを完備したグラウンドゴルフ場も好評です。


また、34.5haの広大な敷地を誇る涸沼自然公園は、自然を丸ごと取り込んだ中に広場や遊戯施設が散在しており、隣接して規模の大きいテントサイト、オートキャンプ場も備えています。

海抜0mのため海の干満の影響で最大40cmくらい水位が上下する涸沼…、砂州や砂嘴ができやすくこれが葦原となり、海水と淡水が混じり合うため鳥たちの餌となる魚類やシジミなども豊富で、冬になるといろんな鳥類の群れで湖面がにぎわいます。この自然いっぱいの涸沼の豊かな生態系を後世に残そうと水質浄化や自然環境の保全に取り組む運動が行われています。

昭和のほのぼの家族…安部朱美創作人形展

2024年08月02日 | 日記
茨城県立歴史館ではいま「安部朱美創作人形展 昭和の家族 -伝えるこころ-」が開催されています。(9月16日まで)

猛暑の午後、懐かしい昭和の時代を思い出させてくれる人形たちに会ってきました。



作家の安部朱美さんは1950年鳥取県の生まれ、30歳を過ぎて3人の子どもに読み聞かせる本を探しに図書館通いをしていた頃、ふと手にとった「紙粘土人形の本」がきっかけだったそうです。
技法や材料も分からない手探り状態から始めましたが、模索を重ね独自の創作粘土人形の技法を編み出してきました。

石粉粘土人形で表現された昭和30年代の家族の姿はほのぼのとした温かさがあり、子供の歓声や当時の匂いまでするような気がしました。今ほど文明が進んでなく家庭に車やエアコンが無くても、ずっと豊かな気分だった……暫し昭和のノスタルジーに浸りました。


最初の作品「かあちゃん読んで」は、人形の寺として知られる京都の宝鏡寺門跡主催の創作人形公募展で大賞を受賞し、国民読書年ポスターにも起用されたため世に知られるようになったそうです。


おうまさん


床屋はかあさん


夕焼け小焼けで日が暮れて


いろり端


背伸びたかな


こたつでカルタ


アイスキャンデー


紙芝居


カミナリおやじ


たき火


おいしいうどん


しょうぎ


ベーゴマ


駄菓子屋


魚屋さん


肩たたき


唄声は浜辺に」   『二十四の瞳』より


この子らに報復の銃は持たせたくない


祈り」「萌し」   
おばあちゃんのいつもの祈りとそれを真似て手を合わせる孫…明るい萌しに向かって進んでいこうというコメントで展示が締められていました。

顔の表情やしぐさがいかにも自然で、さらに衣装や小道具などのきめ細かい仕上がりが素晴らしく、昭和30年代の世界につい引き込まれてしまいました。撮影、SNS可でしたので、暑気払いに71点の展示から20点を紹介させていただきました。

地球のすべてが私のスタジオ…石岡瑛子Iデザイン展

2024年06月28日 | 日記

1966年、前田美波里を横須賀功光が撮った資生堂ポスター「太陽に愛されよう」で受けた強烈な印象は、地方の広告会社に勤めていた20代の時でした。そのデザイナーが当時まだ20代だったというのは今回知りました。石岡瑛子I(あい)デザイン展が7月7日まで茨城県立近代美術館で開かれています。


ほとんどが撮影可の作品でしたが、作品表面に周りが写りこんでしまうため、約500点の中のほんの一部を雰囲気だけのご紹介となってしまいました。

 

1970年にフリーランスとなった瑛子は、1973年に渋谷パルコが開業するとメインのキャンペーンを総括し、「新しい時代」の象徴としてのパルコのブランドイメージを築く中心的な役割を担っていきます。右のポスターのコピーは「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」です。1976年


沢田研二の裸の写真も話題を呼びました。写真のコピーは、「時代の心臓を鳴らすのは誰だ」。1979年


パルコのロゴだけで商品広告などは一切無しのポスター、その挑戦的なメッセージとヴィジュアルは一世を風靡し、「石岡瑛子といえばパルコ」「パルコといえば石岡瑛子」と語られるほどでした。
真ん中上の写真のコピーは「女たちよ大志を抱け」です。1975年


靴のダイアナ、三陽商会のポスター 1974年


「百、花、曼、荼、羅」というコピーの東急百貨店のポスター 1989年


「女性よ、テレビを消しなさい 女性よ、週刊誌を閉じなさい」角川書店ポスター 1975年


「NEW MUSIC MEDIA」音楽祭ポスター 1974年


EXPO‘70日本万国博ポスターとシンポジウム・現代の発見 1965年


国際キャンバス家具コンペ(太陽工業) 1973年 布の袋の中にダンサーが入って踊るのを写真にしたそうですが、そんな発想はどうしたら出てくるのでしょうか。


マイルス・デイヴィス 「TUTU」レコードジャケット 1986年 写真は巨匠アーヴィング・ペンでグラミー賞最優秀レコーディング・パッケージ賞受賞


マイルスのレコードジャケット製作に参加したクリエイターやスタッフと対話を重ねる細かい下書きや絵コンテなども展示されており、細部に至るまで完璧な仕上がりを求めた瑛子の姿勢がうかがえます。


西武劇場「三宅一生ショウ」のポスター 1975年


名匠フランシス・フォード・コッポラとは映画「地獄の黙示録」(1979)のポスター・デザインを経て、「ドラキュラ」(1992)では担当した衣装デザインでアカデミー賞を受賞しました。 


アメリカ映画「イノセント」日本語版 1978年、「コヤニスカッテイ」のポスター 1983年


東京セントラル美術館ポスター 1974年


装丁した本や雑誌も数多く残っていますが、表紙やカバーだけでなく、紙質やサイズ、文字組みなどの細部までにも関わっています。 1974年~1976年


ECO'S LIFE STORY  1957年


商品のパッケージデザインも多数手がけましたが、1981年の山本海苔店の作品はグラフィックデザイナーだった父、石岡とみ緒が商品名の書を、妹で同業の石岡怜子がデザインを担当し、家族による唯一の合作となっています。


「Timeless  普遍的であるか?」「Originality  独自性はあるか?」「Revolutionary    革新的であるか?」 という三つの言葉を常に自らに問い続けたという石岡瑛子の、その通りの作品群に圧倒されました。

 
石岡瑛子 1938年生まれ、2012年1月21日膵臓癌のために死去(73歳)  類まれな才能がまたひとつ、地球上から失われました。合掌。

大洗港の第4埠頭…浚渫(しゅんせつ)船

2024年05月22日 | 日記

たまたま出かけた軽い散歩コースの大洗第4埠頭に浚渫船が停泊していました。ちょうど日曜日で港内の作業は休み、岸壁では家族連れが竿を出し、小さな子がサバの幼魚に歓声をあげていました。
何にでも興味を示すのが認知予防の妙薬と心得る仙人は、早速浚渫船を調べてみました。


浚渫船とは、港湾や河川の水底の土や砂を掘り取って水深を深くする船で、ポンプで泥を吸上げるポンプ式,グラブを底に落して泥をつかむグラブ式,長い柄付きひしゃくのようなもので泥をすくうディッパー式,底開きの泥倉をもつホッパーつき浚渫船などがありそれぞれ専用の機械を備えています。


この船は横浜に本社のある松浦企業㈱所有の第7金剛丸、今日は格納されていますが、土砂をつかみ取る大きなグラブがあるのでグラブ式浚渫船です。
●浚渫船 第七金剛丸 総トン数:2,200トン 全長:59.0m/全幅:24.0m/深さ:4.4m 喫水:2.5m


松浦企業のHPに第7金剛丸が土砂を土運船に積み込んでいる写真が出ていましたのでお借りしました。


大きな柱のようなものが3本聳えています。これはスパッドといい、クレーン作業中に海上の船体を固定するためにこの巨大な杭を海底に打ちこみます。


松浦企業のHPによれば一回につかみ取る土砂の量は30㎥でダンプカー6台分と出ていました。

なお浚渫船とすくい上げた土砂を運ぶ土運船は自航できないので、押したり曳いたりする船と船団を組んでの作業になります。


浚渫船の四角い台船の後部に取り付いている二隻の船は、自航出来ない浚渫船と土運船を押したり曳いたりするタグボートの役目をするようです。
停泊していたのは、●押船兼揚錨船 1こんごう丸 1,200ps/19トン 全長:11.96m/全幅:5.99m/深さ:1.99m喫水:1.5m  ●押船兼曳船 第十八南海丸(データは見つかりません。)


土運船も台船の横に繋がれていました。●土運船1702松山丸 1,700㎥積 総トン数:782トン 全長:63.85m/全幅:15.0m/深さ:5.0m 喫水:(空)1.16m(/ 満)4.5m

5日後に来てみるとさらに2隻の船が加わっていました。

●土運船 1701松山丸1,700㎥積 総トン数:897トン 全長:63.80m/全幅:15.0m/深さ:5.0m 喫水:(空)1.16m(/ 満)4.5m ●押し船兼引船の第38安藝丸が加わりましたので、浚渫船×1、土運船×2、曳船×3…合計6隻の船団になりました。

これらの船の船籍港は横浜ということなので、ということは海の難所といわれる犬吠埼沖を曳かれてやってきたのでしょうか。大きな重い船をロープで曳いて来るのは大変な作業で、経験と技術が不可欠だそうです。



さて、第4埠頭には大きな広場がありその一画には地元の民謡「磯節」が流れる踊り子の石像があります。南側には大洗マリーナがありクルーザーやヨットが停泊しています。


第4埠頭から見た大洗マリンタワーです。地上60mのタワー3階の展望室からは、遠くは日光、那須の連山も眺められます。


今は静かな大洗港周辺ですが、間もなく環境省の「快水浴場百選」選定の大洗サンビーチをひかえたこの一帯は、海水浴シーズンで賑やかな夏を迎えます。

新春2024…穏やかな世を祈念

2024年01月01日 | 日記
明けましておめでとうございます。

近辺で初日の出の名所である「大洗海岸の神磯」はわが家より約8キロ、正月用の写真を撮ろうと年末に訪れました。穏やかな日が続いていたので、狙った豪快な波しぶきにさらされる岩と鳥居の写真どころか波ひとつない写真になってしまいました。

神が降り立ったと言われるこの神磯に立つ鳥居は、この上の高台にある大洗磯前神社の鳥居の一つです。紛争の絶えない地球に、穏やかな日々が戻りますように手を合わせてきました。

いつも偕楽園の早咲きの梅の花を載せていましたが、暖冬といわれる年なのに、年末に探しましたが咲いた花が見当たりません。やっと見つけた一輪の「八重寒紅」と偕楽園好文亭が何とか収まりました。
好文亭は南側の大きな木が枯れて伐採されたのでしょうか、下の梅林からその全体が見えるようになりました。

梅の花は11月末くらいからの氷点下の最低気温で開花スイッチが入るといわれます。それに適度な湿度も開花の必要条件ですので、この二つが足りなかったのでしょうか。



いつもは咲いている水仙もまだ固いつボミ、庭の隅にやっと見つけたフクジュソウ(福寿草)の芽もまだまだ固いものでした。


蕗の薹もまだ固い萼片に包まれています。これらも梅の花と同じような開花スイッチの条件が足りなかったのかもしれません。

予定していた春の兆しの写真が撮れず、偕楽園公園で撮ったツバキの色違い3種です。



紅白が正月らしい雰囲気を出していました。

白い花には侘助の名札が付いていました。

公園のコブシの蕾も目立つようになってきました。
枯れて黒い実は拳(こぶし)の形で、これがコブシの命名由来といわれますが、蕾の形や開花する様子が拳を開いたようだという説もあります。

暖かそうな毛に包まれたツボミは、いたって希望的ですが明るい未来の予感がするような気がしました。

老人に空みえ辛夷春を待つ  和知喜八
子の進路いまだ辛夷の萼鎧ひ   田所節子
綿衣の脱ぐ日辛夷の大志かな  顎鬚仙人