顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

道端の雑草はほとんど外来種…大洗港の初夏

2022年05月27日 | 季節の花

大洗港第4埠頭と大洗マリーナ周辺の道端の雑草を撮ってみました。

豪華クルーザーも停泊するマリーナの周辺は雑草のお花畑になっています。


黄色いのはコマツヨイグサ(小待宵草)です。明治時代に北米から渡来、夕方開いて翌日には紅くなって萎んでしまう一日花です。鳥取砂丘では緑化してしまう雑草として駆除の対象とされているそうです。


アカツメクサ(赤詰草)とシロツメクサ(白詰草)、クローバーの名の方が一般的かもしれません。江戸時代にガラス器を輸入する際のクッション材として渡来し、今では牧草などに利用される有益な帰化植物になっています。


道路わきの狭い緑地でもいろんな雑草が咲いています。

チガヤ(千茅)は少年の頃、ツバナと言ってこの若い穂を食した思い出があり、薄甘い記憶が残っています。


黄色い花は、大きいのがコメツブウマゴヤシ(米粒馬肥し)で、小さいのは多分コメツブツメクサ(米粒詰草)です。葉はクローバーに似ており、どちらも牧草としてヨーロッパから渡来したものが野生化しています。


始めて見ました。調べてみるとマンテマというナデシコ科の植物で、江戸時代に観賞用に持ち込まれたのが本州中部以南で野生化していると載っていましたが、すでに本州北部へも侵略しています。


ニワゼキショウ(庭石菖)は北米原産のアヤメ科の外来種で芝生の間などからも出てきますが、それほど嫌われていないのか園芸種もあるようです。


間もなく一帯を覆うかもしれません、1本見つけたヤセウツボ(痩靭)、牧草に混入して地中海沿岸から渡来し要注意外来生物に指定されています。葉が退化して光合成が出来ず、クローバーなどの植物に寄生して養分を手に入れる図々しい奴です。


ハマヒルガオ(浜昼顔)は嬉しいことに日本原産、というか世界中にも広く分布しているそうです。海辺に生育し日中も咲いていることから名前が付いた一日花です。


第4埠頭の先端公園に植えられたハマナス(浜茄子)です。知床旅情でも歌われた北国の花、ここから約30km南の鹿嶋市が太平洋沿岸の南限地になっています。
ニュースで見る知床は、遊覧船事故で悲しい現場になってしまいました。

道路沿いの植栽には、よく似た海辺の常緑低木が植えられています。

公園などにも植えられているシャリンバイ(車輪梅)は、この沿岸でも自生が見られます。花が梅に似て枝の(または葉)出方が車輪のスポークに似ているので命名されました。


海沿いに自生するトベラ(扉)は、強い匂いから魔よけとして戸口に掲げられ「扉の木」とよばれたことから名前が付きました。


第4埠頭のこの日のお客さんは、愛媛県西予市の菱幸丸、調べてみると2016年竣工、749トンの貨物船で三菱ケミカル物流の傭船でした。
※傭船とは運送用に船舶を借り入れること。また、その船。チャーター船。(コトバンク)

山入城址の桜…100年続いた「山入の乱」

2022年05月22日 | 歴史散歩

4月半ば、佐竹氏内乱の拠点山入城跡には人影はなく、満開の桜がつかの間の春を告げていました。


常陸太田市国安の西方にある標高186m、比高約100mの要害山頂にある山入城(国安城)は、延元年間(14世紀)西野民部大夫温通が築き,のちに佐竹氏8代貞義の7男師(もろ)義が修築して居住し山入氏を名乗ったと伝わります。この師義の子與(とも)義は、応永14年(1407)佐竹氏が宗家相続で関東管領山内上杉憲定の次男の竜保丸(のちの佐竹氏12代義人)を養子にしたことに反発し、額田、長倉、稲木などの庶家などとともに山入城を拠点に兵をあげました。これが佐竹4代約100年にわたる山入の乱の始まりです。


さらに関東における上杉氏内部の対立や関東公方と室町幕府対立などが複雑に絡んで乱は長期化し、一時は落城の憂き目を見た山入城でしたが、やがて勢力を盛り返した山入氏は、延徳2年(1490)義藤、氏義の代には宗家15代佐竹義舜(きよ)の太田城を奪い14年も占拠したこともありました。しかし永正3年(1506)義舜の反撃に遭い、太田城を追われた氏義は子の義盛と共に殺され、山入城を守っていた天神林義益も,その子三郎とともに討ち死にして100年にわたる山入の乱は終結しました。


その後、太田城の詰めの城として整備された山入城は、この地方最大規模の山城として佐竹氏の秋田移封まで約500年以上の歴史を刻みました。現在残る遺構はほとんどその時代のものだそうです。
現地の案内板にある山入城想定図(国安げんき会制作)を、Google航空写真にはめ込んでみました。


山頂部にあるⅠ郭は縦横30mほどの平坦地で北側には郭を守る3つの堀切があります。




1郭北側にある高さ2mほどの櫓台には崩れたままの石の祠があります。山頂には簡素な竜田神社が祀られているというネットの記述もありますが、詳細は分かりません。


東西が切り立った崖になっている山頂付近から尾根沿いに、郭や堀切が階段状に続いています。少しなだらかになる中腹より下の大きな郭群は、農地や梅林などになっており当時の遺構は残っていません。


尾根を切る竪堀にかかる土橋です。


中腹より下には平坦な郭が何段も続きます。想定図では本城跡となっている一画です。


下界に下りて振り返った山頂付近です。



城跡で見かけた野草たち、「春の野や兵どもが夢の跡」でした。

キンラン(金蘭)、ギンラン(銀蘭)…街中の公園で

2022年05月17日 | 季節の花

この時期に山野の林間に咲くキンラン(金蘭)とギンラン(銀蘭)、以前見つけたことのある街中の公園で未だ健在かどうか行ってみました。

最初の公園は、県の施設に付随した林の中でのギンランの群生、これは数年前に施設でも気づいてロープの枠を設置しましたが、いつもの規模でギンランが咲いていました。


同じ状況の中で生育するキンランがきっとあるはずだと周りを探したところ、少し離れた植込みの中に1本のキンランを見つけました。どちらもラン科キンラン属、花は完全に開かないのは同じですが、キンランの花の方がひと回り大きいです。


もう一つの公園は、30年ほど前にできた大規模住宅団地の中の緑地、林や池の自然をそのまま残してある中で、何度か見つけたことがありました。

ありました!キンランが林の中にあちこち顔を出していました。それも増えているようです。


林の中で名前の通り金色に輝いているのですぐわかります。数十株は見つけたでしょうか。


銀も見えますが、ここでは金の方が圧倒的に多く見かけました。文章を打っていても、心地よい、まるで五輪の響きです。


絶滅危惧種に指定されている可憐な蘭が、街の中の公園で存続しているのを見て嬉しくなりました。
興味がなくて気付かないのか?それとも家に持ち帰っても生育しないということを知っているから? 

キンランギンランは、特殊な土壌の中の菌根菌(きんこんきん)という鐘の音のような名前の菌と共生して生きているので、持ち帰っての栽培は極めて難しいとされています。野草店でも取り扱いはほとんどありません。この情報が広く理解され、そっと見守るだけにしておきたいものです。

我が歳時記には未掲載、例句もあまり見つかりませんでした。

金蘭の霧の底ゆく人の声  角川源義
金蘭や小雨降りつつ金極む    雨宮美智子
金銀の蘭存わす森ニュータウン  顎鬚仙人  

三昧塚古墳…発見された黄金色の冠

2022年05月13日 | 歴史散歩

いま茨城県立歴史館では、行方市の三昧塚(さんまいづか)古墳の出土品が、3年かけた修復作業の完了したのを記念して展示公開されています。〈5月29日まで〉


この古墳は、昭和30年に霞ヶ浦堤防工事で墳丘を掘削の際に発見され、箱式石棺内の伸展葬の遺骸のまわりにいろんな副葬品があり、その中の金銅製馬型飾付冠などは日本の古墳文化を考える貴重な発掘品として注目を集め、ほとんどが国の重要文化財に指定されました。


5世紀後半に霞ケ浦北部を拠点にした有力首長の墳墓とされる前方後円墳は、全長85m、後円部径47m、高さ8m,前方部幅36.5m、高さ6mで、周囲は濠でめぐらされ、約2mの深さがあったとされます。


現地に掲げられた主体部の説明図です。

展示資料の一部をご紹介いたします。

金銅製馬形飾付冠  埋葬者の頭部に着装したような状態で発見され、複雑な透かし彫りや揺れ動く金具などで飾られた金銅製で、当時はキラキラと光輝く黄金色の冠であったとされます。
馬型飾りの付く冠は他に例がなく、古墳時代における馬の象徴性とともに被葬者の権威の大きさを示すものとして注目されています。


金銅垂飾付耳飾  ハート形と花形の垂飾を持つ耳飾りです。


ガラス小玉 大型の玉は右手、小型は左手に装着されていました。 


短甲残欠  古代に使用された短い鎧(よろい)、残欠とは一部分が欠けていて不完全なことです。古墳の主が、武人としての性格を持っていたことを伝える出土品です。


衝角(しょうかく)付冑(かぶと)  前頭部が軍艦の舳先に突き出した衝角のようになっている甲冑で古墳の代表的な出土品です。 


鉄刀  石棺内に置かれた鉄製の刀で、鹿の角で作られた刀装具が残っていて文様が彫られています。


鉄鏃(てつぞく)  いろんな形の矢じりです。


土師器  木棺の上から出土した土師器類は、人為的に割られています。実用品でなく古墳への供献を目的に造られたものとされます。


都から遠く離れた常陸の国でも古墳はなんと1862基あり、大型の前方後円墳は38基、その多くが霞ケ浦周辺にあります。被葬者の詳細は不明ですが、構造や副葬品の質量から周辺の盟主的権力者で、大和政権と深いつながりを持ち、霞ヶ浦の水運を治めた有力首長と想定されています。
(後円部より前方部、左手奥に筑波山が見えます)


前方部より後円部、右手には霞ケ浦が見えます。

※拙ブログ「霞ヶ浦周辺の前方後円墳  2019.10.16 」の一部でも紹介致しました。

踊子草…風の盆のように

2022年05月08日 | 季節の花

公園の斜面にオドリコソウ(踊子草)の群落がありました。


笠をかぶった踊り子たちが輪になって手を叩きながら踊っているようです。


越中八尾のおわら風の盆を思いました。行ったことはありませんので、テレビ画像や石川さゆりの「風の盆恋歌」での勝手なイメージですが…
※写真は越中八尾観光協会のホームページよりお借りいたしました。

 
薄紅色の花もありいちだんと艶っぽくなってきます。




ついついカメラを通して踊る姿に少しの間見とれてしまいました。
公園でも誰も気が付かずに通り過ぎていきます。お節介でも呼び止めて教えてやりたい気持ちに駆られました。



仲間のキバナオドリコソウ (黄花踊子草)は、長く伸びた茎が地面を這うようにして覆うのでツルオドリコソウ (蔓踊子草)ともよばれています。


こちらはヒメオドリコソウ(姫踊り子草)、どこにでも蔓延る雑草です。あまりにも小さい花で、踊り子の姿はよく確認できませんが。