顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ハナグモ(花蜘蛛)…優雅な住環境と名前

2020年10月29日 | 季節の花

今を盛りのシュウメイキク(秋明菊)を撮っていたら見つけた、蜘蛛の共喰い?いや違う、脱皮でした。調べると、蜘蛛は幼体時に7,8回脱皮を繰り返すとか、骨格を持たず体全体が外骨格とよばれる固い殻で覆われているため、大きくなるためには脱皮しなくてはならないようです。

数日後に同じ蜘蛛が我が家然として居座っていました。抜け殻は見当たらず、もしかして?食べてしまったような顔をしていましたが…。
ウェブ図鑑で見たら、花に潜んで獲物を待つ「ハナグモ(花蜘蛛)」、羨ましい名前と住環境の蜘蛛でした。

カメラを向けると花の陰に…脚が見えるのに隠れた積もりです。
やがていつの間にかこのハナグモは姿を消してしまいました。伴侶を得て豪華なマンションに引っ越したのでしょうか。

ところでシュウメウギクは長い間花が咲いている植物ですが、夜には下向きになって花弁を閉じて眠るような姿になるのに初めて気が付きました。(下の写真は早朝の撮影です)
植物とはいえ、なんとも親しみの持てる姿態に思わず見とれてしまいました。

宮ヶ崎城と宮ケ崎古館…広大な中世城址

2020年10月26日 | 歴史散歩
茨城町宮ケ崎の涸沼右岸に突き出した台地突端部、いわゆる「崎」の場所で涸沼の水運を管理する重要な拠点でした。今は畑地になっている城跡は、土砂採取などで一部消滅したところもありますが、残った堀や土塁などが800年前の歴史を語ってくれます。

築城は鎌倉時代初期、常陸大掾一族の鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に土着し宮ヶ崎氏を名乗り、南北朝から室町初期には近在に領地を広げ、宗家の鹿島氏に並ぶ勢力を持ったといわれます。応永23年(1416)上杉禅秀の乱に連座して宮ケ崎氏は滅亡し、9代200年の支配を終えますが、重要な拠点のため当時の水戸城主だった江戸氏の時代(1550年頃)に拡張整備し、対立する府中の大掾氏に備えたといわれています。

地元の高齢者クラブが建てた大きな案内板があります。史跡としてまだ行政の指定は受けていませんが、地元の歴史を後世に伝えるという意気込みが伝わってきます。

案内板のあるⅣ郭からⅡ郭へは、2,3m高くなっています。航空写真②の場所

一段上がると広いⅡ郭は薩摩芋などの畑で、奥に1郭が見えます。農作業をしていた方が親切に説明いただき、掘りたての芋までいただきました。

Ⅱ郭とⅠ郭の間には、堀と土塁の跡が一部残っています。航空写真③

1郭奥には城址の標柱と保存整備の記念碑が地元有志によって建てられています。航空写真④
右手奥の一段と高い場所(国土地理地図で25.1mの三角点)には涸沼のどこからも見える櫓が建っていて、権威を示していたのではという説もあります。

Ⅱ郭の西側に見える山並み、左手の先には筑波山があります。

汽水湖の涸沼はほぼ海抜0m、そこに突き出した比高約25mの城は、左右を浸食谷に守られた要害の地であることがわかります。当時は城の直下まで涸沼があったと思われます。⑤
ラサール条約登録の涸沼は野鳥の宝庫で、オオワシも飛来すると農作業をしていた方の話です。

城主の居館は鹿島神社の南にある「古館、きゅうでん堀」と呼ばれる場所にあり、南北約140m、東西約100m、宮ケ崎氏の勢力がうかがえる県内最大級の館跡で、北東の2辺には堀、土塁が残っています。①

城と館の間の鹿島神社は、大掾一族が信奉する鹿島神宮の分祀で、長い杉並木の参道はなんと400mもあります。

薄暗い境内に白い野菊が群生していました。
歴史にはあまり登場しなかったとはいえ、近くにこんなに広い城跡が眠っていたとは驚きでした。

秋の道端で…②

2020年10月23日 | 季節の花

アケビ(木通)は、外の殻だけになってしまいました。地に落ちた果肉は動物や昆虫の思いがけない御馳走になり、やがて離れた場所で新しい芽を出すことでしょう。


ノギク(野菊)は野に咲く野生の花の総称で品種名ではありません。シラヤマギク、ノコンギクなどの判別には自信ありませんが、この辺で一番見かけるントウヨメナ(関東嫁菜)でしょうか、青色、白色があって秋の風情を感じさせてくれます。

やや湿った林の中に黄色い花の群生、最近覚えたキバナアキギリ(黄花秋桐)です。

上唇の中に雄蕊と雌蕊があり、虫が蜜を吸うとき下唇の仮雄蕊を押すと、上唇の本物の雄蕊が傾いて虫の背中に花粉を付けるという、蜜腺のない花が受粉させる賢い仕掛けを持っています。
真っ赤なサルビヤもシソ科アキギリ属、花の形が似ていますね。

いつも見ているノアザミ(野薊)とは違います、悪名高きアメリカオニアザミがこの辺にも侵略!!?
ウェブ図鑑で見るとナンブアザミ(南部薊)か、トネアザミ(利根薊)のようでしたので、とりあえず安心しました。

カラスウリ(烏瓜)が紅くなってきました。まだかわいいウリボウ(瓜坊)状態のものもあります。猪の子の模様が似ているので付いた名前ですが、ウリ本体でも呼ばれているようです。

朝顔(ヘブンリーブルー)もそろそろ終盤を迎えて、上へ上へと花が移動してきています。花、咲き殻、蕾…まるで現在、過去、未来のような姿を撮ってみました。
番外編、偕楽園公園の田鶴鳴梅林で一番ウメが咲いたとの情報で撮ってきました。仙人もフォローさせていただいている情報提供の雑草さんのブログによると、超早咲きの「初雁」ではないかということです。数輪咲いていましたが、コンデジの望遠ではこれがやっとです。

上記写真のこの辺で咲いていました。
まわりの梅の木はまだ葉が付いていましたが、この木だけはすべて落葉していました。
間もなく偕楽園本園とその周辺の偕楽園公園一帯は、秋の色に染められて美しく化粧します。

弘道館の曝書…現存する数少ない藩校

2020年10月21日 | 水戸の観光

弘道館は天保12年(1841)に水戸藩9代藩主徳川斉昭公が開設した水戸藩の藩校で、文館、武館などのほかに医学館、天文台などもある全国一の規模をもつ総合大学のような教育施設でした。

曝書とは、 書籍を湿度の少ない晴れの日に虫干しする保存作業のことです。
藩校当時にも行われていたこの曝書が先日、弘道館の至善堂二の間と三の間で行われました。

今回は特に、水戸藩剣術の正式教科である神道無念流の道場に張り出された道場訓「神道無念流壁書」を藤田東湖が揮毫した拓本と版木が展示されました。神道無念流は文政年間(1818~1829)に、藤田東湖も師事した宮本佐一郎が水戸で指南を始め、弘道館開設に伴い佐一郎から印可を受けた長尾景英が武館で師範を務めました。
上段に版木、中段に巻物になった拓本、下段に読み下し文が展示されています。

「天下のために文武を用ゆるは治乱に備ふる也」から始まる道場訓は、神道無念流宗家二代目戸賀崎暉芳の作と言われ、江戸詰になった藤田東湖は、暉芳の弟子の岡田十松の開いた撃剣館に通って一級の実力を持っていたといわれ、この壁書を流れるような筆致で書き上げました。
神道無念流の起源から修行や心の持ち方までを説いた道場訓は、現在でも相通ずるものがあるといわれています。

藩校当時の弘道館には6000冊以上の蔵書が所蔵されていましたが、明治元年(1868)の弘道館戦争で被災、教授などからの献納や新規購入で同数に近く補充されるも昭和20年(1945)の水戸大空襲でも被害を受け、現在弘道館が所蔵している藩校当時からの書籍は54冊だそうです。

弘道館の古い図面には編集方や彫刻場、帳とじ場などが描かれてあり、書籍や出版の事業が行われていたのがわかります。焼失を免れた版木が現在117枚保存されています。
版木は材質が堅く、強靭で、繊細な表現もできる、浮世絵にも使われた山桜の木を使っているそうです。
展示場所の至善堂に敷かれた畳の縁には葵の紋が入っています。

木版印刷や拓本に見られる書の繊細さに眼を奪われますが、他所と比べても腕のいい彫師の仕事だと学芸員の方は話していました。
また、水戸には「水戸拓」という伝統の拓本技術が残っています。文政年間に水戸の薬問屋だった岩田健文が長崎で中国人から拓本の技術を学び持ち帰ったものを、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家に受け継がれ、現在は4代目の奥さんが守っています。(弘道館敷地内 北澤売店)

曝書展示の至善堂は、藩主来館の折の休息所と諸公子の勉学所で、斉昭公の七男で最後の将軍となった徳川慶喜公(七郎磨)も幼少期にここで学びました。
大政奉還後の明治元年(1868)には、慶喜公はこの部屋で、静岡に移るまでの約4ヶ月間謹慎したことでも知られています。

斉昭公の原案をもとに、藤田東湖が起草した「弘道館記」の建学の精神に象徴されるここでの学問は水戸学とよばれ、全国の幕末の志士たちに大きな影響を与えたといわれています。(正庁・正席の間)

二度の戦災で施設のほとんどが焼失してしまいましたが、学校御殿と言われる正庁、至善堂と正門が奇跡的に残り、国の重要文化財に指定されています。(正面玄関・式台)

藤田東湖が安政大地震で亡くなってからまだ165年、世の中の変化はだんだん加速しているような気がしてなりません。(十間畳廊下)

秋の道端で…

2020年10月19日 | 季節の花

空蝉がまだ落ちないで生垣のキンヒバ(金檜葉)に掴まっていました。中身の主は夏を謳歌して子孫を残すことができたでしょうか。

秋は「引っ付きむし」という衣服に種が付き運ばれて子孫を増やす植物が多くなります。
接着力の強いのはオナモミ(雄菜揉み)で、マジックテープはこの実からヒントを得て作られたといわれます。子供の頃投げ合って遊んだ記憶が残ります。

付着したら外すのに苦労するコセンダングサ(小栴檀草)、キク科の花が終わって付く実のトゲは、逆さに向いていて釣り針の返しのようで外れにくく遠くまで運ばれるようになっています。

いつの間にかこっそり付いているヌスビトハギ(盗人萩)、ジーンズにもしっかとくっつきます。マメ科の実の形が、しのび足で歩く盗人の足の形に見立てたという説もあるそうです。

空き地にカタバミ(片喰)の群生、庭の芝生では憎まれ者ですが、まとまって咲けばきれいです。

海岸沿いの砂地のコマツヨイグサ(小待宵草)は、宵に花びらを開いて朝には赤っぽく萎びる一夜花ですが、昼間でも咲いている元気ものもおります。

道端に落ちていたトロピカルフルーツのような大きな実、振り仰ぐとホウノキ(朴ノ木)の実です。コンデジの望遠で何とかキャッチ、中の黒い実は、乾燥させて下剤、鎮痛薬などに利用されたようです。

ホトトギス(杜鵑草)にはいろんな種類がありますが、この普通の種が一番のお気に入りです。花の紫色の斑紋が鳥のホトトギス(時鳥、杜鵑、不如帰)の胸の斑紋と似ているのが命名の由来です。
葉に油染みのような薄黒色の斑点があるので、俳句では油点草(ほととぎす)と詠むこともあります。

渓の湯の石段せまし油点草  田中冬二
杜鵑草森にタールの匂い立つ  関口桂史
油点草紫出過ぎても居らず  中谷楓子