住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

般若心経とは何か

2011年09月18日 19時26分51秒 | 仏教に関する様々なお話
今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきであろう。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその効果、力があると言えるのではないか。心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈すべきなのであろう。
 
ただ真言を唱えても苦しみに対処できない。周りのものを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という事物の真のありようを、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのであろう。空なるものの見方を理解するためにはその基礎となる釈迦の教説も必要であろう。真言だけに功力があるわけではない。心経に網羅された法を一つ一つ吟味し読誦するために心経の本文がある。

ただ、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼だと解釈すると一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのかもしれない。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、最終的に完全に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観音菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないかとも思える。

観音菩薩の境地に至るための大乗の教えと修行を通して、その基盤には仏陀の教説があることを考えれば、当然のことながら凡夫に過ぎない我々はその基本から歩み出さねばならない。仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。それも知らずに単に真言を唱えるだけでよいとするのは余りにも乱暴な説き方であろう。

最後に説かれる真言が最上の修行とされることによって、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言える。結果的に鎌倉新仏教の一部は唱えるだけでよいと説かれるようになった。これだけでよいと説く仏教は本来のものではない。

心経は、仏教徒の物の見方、考え方、歩み方を指導し、悟りへ疾くつとめよと、早く悟れと奨励する教えではないかと私は考えている。煩悩を滅するためには少しずつ順序立てて滅するために多くの段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。

この身体また形あるものがどのように生じ、どのように存在しているのかと探求すれば、それ自身で生まれ出たわけでもなく、そのものだけで存在しているのでもない空なるものと発見する。周りの存在のあり方を観察すればそれはみな他に依存した空なるものだと気づく。つまり、この身体や形あるものの究極のあり方は空そのものであり、空だからこそすべてのものは存在することができる。

釈迦の根本教説である五蘊十二処十八界十二因縁四諦の教えが登場するが、これらは仏教徒なら誰もが理解すべき仏教的な物の見方を教えている。五蘊は、私とは何であるか、ということだ。十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。

十二因縁は、刺激に反応し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し人生とは何かを明らかにし、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。四諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。

そして心経では、それらも空という究極のもののあり方を直接的に体験している心には存在しないと述べるに過ぎない。それなのに、通俗的な解説には必ずといってこのくだりを、お釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨しているとする説き方が横行した。

こうして心経は仏陀の教説を否定し、あたかも大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為にかえって日本仏教から仏教の根幹たる教えが失われたのではないか。

心経は観音菩薩の境地を述べたものに過ぎない。凡夫である我々は、まず、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び、そして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力せよ、そこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し督励した教えが、般若心経なのであろう。このように私は思い受持したいと思っている。


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コメント (4)
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