この度、大法輪閣より、『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』を上梓することになりましたのでお知らせします。
『大法輪』という、昭和九年創刊の我が国では最も権威ある仏教雑誌ですが、こちらにはこれまでに幾度となく原稿を書いて参りましたが、かねて編集長より単行本の原稿をまとめるようにとのお勧めをいただいておりました。長年の懸案ではあったのですが、やっとこの度下記のような内容で、原稿を収録し、できれば、気楽に読んでいただける分かりやすい内容にしたいと思い、一度書いたものをすべて口語体に書き改めて編集いたしました。
第一章は、お寺や福祉施設などで実際に行った法話を収録し、第二章第三章では、様々な仏教語や仏事について、また最近の話題についても、現代的な解釈や受け取り方を述べた短編が綴られています。本文で納めきれなかった詳しい説明は註を施し、さらに詳しく知りたい方のために参考になる本を紹介してあります。
本書をたよりに仏教の基本を学んでいただき、さらに関心のある分野に進んでいただけるように沢山の本を紹介してあります。
帯には、「仏教徒という生き方が現代人を救う!」という大それたことが書いてありますが、気楽に読んでいただきながら、特別なことではなく、日頃私たちがしていることを違った受け取り方をするだけで幸せに向かって明るく生きていけるということが全体のテーマとなっております。
是非、一度書店で手にとってご覧頂きたいと存じます。またご関心のありそうな方にもお勧め下さいますればありがたく存じます。定価は1,680円(四六判並製224頁)、6月8日全国書店にて発売の予定です。何卒宜しくお願い申し上げます。
目次と「はじめに」を下記に記します。
『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』
目次
はじめに
一、仏教で生きる
仏教とは何か-他寺院での涅槃会法話
仏教は心の教え-退職教職員組合の皆様への法話
仏教という教えの本質について-地元寺院結衆布教師法話
なぜお釈迦様はやさしい心でいられるのか-福祉施設での法話
お釈迦様は私たちにチェンジを求める-団体参拝者に向けての法話
「死ねば皆、仏様 誤解」を読みながら-老人会いきいきサロンでの法話
二、仏教の基本について考える
縁起ということ
空ということ
お釈迦様は亡くなろうとする人に何を語ったか
施論戒論生天論
仏法僧とは何か 仏の十徳 法の六徳 僧の九徳
五戒の教えについて
無常偈について
煩悩即菩提ということ
山川草木悉皆成仏とは
即身成仏について
救われるということ
最期は慈悲の心で ガンを患ったNさんへの手紙
供養の先のこと
布施ということ
仏事は何をしているのか
いのちの尊さとは何か 葬式簡略化に思う
報恩ということ
天人五衰
仏像とは何か
塔婆とは何か 塔婆にまつわる四方山話
数珠の話
般若心経の現代語訳と解説
三、仏教余話
千の風になって の誤解
家庭内暴力の話
宗教の眼目 ある新興宗教の話題から
霊の話
倍音読経 天界の音楽を聴こう
断食に学ぶ
にじうおの話
あとがき
『はじめに』
『生きるとは何なのでしょうか。私たちは何のために生きているのでしょうか。仏教を学びつつ、そう自問することで悩みもつらい思いも解消されることを私は知りました。
三十年ほど前に、私は仏教と出会いました。生まれた家には仏壇もなく、もちろんお寺に知り合いがあるわけでもなく。小さな頃よく連れて行かれた浅草寺で、何度もお香の煙を身体にかけられたことはよく記憶していますが、仏教になど特別縁のない、ごく普通の家で育ちました。
ですが中学三年の時、クラブ活動でも一緒だった友達がガンで亡くなりました。その日の朝私は雨音に目を覚まし、起き上がるとカーテンがひらめくのを目にしました。しかしその日は雨も降っておらず窓も閉まっていました。そして学校に行くと、その日の未明に友達が亡くなっていたことを知らされたのでした。
お葬式では弔辞を読み、四十九日の法要に参列し、納骨にも立ち会いました。そして気がつくと、月命日には学校帰りに一人で友達の家に寄り仏壇に手を合わしていたのです。それが年に一度になり、行かなくなって、忘れかけていた頃、忘れもしない大学二年の秋のことですが、高校時代の友人数人とつれだって様々な話に興じていたとき、自分がものの見方考え方を持ち合わせていないこと、何の心のより所もないことに気づかされました。
そして、その後ふと立ち寄った本屋で手にしたのが、『仏教の思想1知恵と慈悲〈ブッダ〉』(増谷文雄・梅原猛著・角川書店刊)でした。その本にはお釈迦様の生き様、教え、仏教の基本的なものの考え方が丁寧に説かれていました。私の心に火が灯り、次から次にと仏教書を読み、仏教の独学が始まったのです。
そしてその後、縁あって高野山で出家得度し、四度加行という初歩の修行を済ませ、インドへ旅したり、四国遍路を歩いたり。また、三年余りの短い期間ではありましたがインド・コルカタの仏教教団で南方上座部の仏教僧として過ごし、もともとの仏教とはどのようなものであったかを学びました。そして、前世からのご縁でもあったのでしょうか、備後の国に来て國分寺の住職として勤めさせていただきましても、やはり、仏教について学び思索し続けています。
阪神大震災の折には、そのときインド僧で黄衣を纏っていたのですが、ボランティアとして避難所に住み込み沢山の被災者の皆様からお話を聞かせてもらいました。夜、焚き火に手をかざし語るお年寄りたちの話は、この世は無常なのだ、苦なのだと、まさにお釈迦様の教えが訥々と言葉にされていったことを記憶しています。そして、何でこんな事になったのかと誰もが思索されていました。おそらく、そうならねばその時そんなことを思い語ることもなかったことでしょう。
いま多くの方々が未だ仮設住宅に住まわれ、また故郷から離れて避難しておられる東北の人たち。大変な苦難の中にあります。亡くなられた方も行方不明者を併せると二万人に迫ろうとしています。三月十一日は、私たち日本人にとって未来永劫に忘れがたい日となりました。しかし、たとえそうして何があっても、この世の現実を鋭く見つめ、それを仏教の目からどのように見て、どう受けとめていくべきかと考えねばならないのでしょう。そこから、人として大切な何かを学びつつ生きるしかないのかもしれません。一日も早い被災地の復興を願いたいと思います。
仏教とは、供養や慰霊、癒しのためと思われがちですが、その教えそのものが意味あるものとして私たちの心に訴えかけるものでなければならない、そうあってこそ、その力もあるのだと思います。仏教の様々な教え、また日本人が大切にしてきた仏事、行いの一つ一つが私たちにとってどんな意味があるのか、どう受け取ったらよいのかと考えています。
本書が、仏教の基本について学び、今をいかに生きるべきかを考えるための一助となればありがたいと思います。
平成二十四年三月 著者識』
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『大法輪』という、昭和九年創刊の我が国では最も権威ある仏教雑誌ですが、こちらにはこれまでに幾度となく原稿を書いて参りましたが、かねて編集長より単行本の原稿をまとめるようにとのお勧めをいただいておりました。長年の懸案ではあったのですが、やっとこの度下記のような内容で、原稿を収録し、できれば、気楽に読んでいただける分かりやすい内容にしたいと思い、一度書いたものをすべて口語体に書き改めて編集いたしました。
第一章は、お寺や福祉施設などで実際に行った法話を収録し、第二章第三章では、様々な仏教語や仏事について、また最近の話題についても、現代的な解釈や受け取り方を述べた短編が綴られています。本文で納めきれなかった詳しい説明は註を施し、さらに詳しく知りたい方のために参考になる本を紹介してあります。
本書をたよりに仏教の基本を学んでいただき、さらに関心のある分野に進んでいただけるように沢山の本を紹介してあります。
帯には、「仏教徒という生き方が現代人を救う!」という大それたことが書いてありますが、気楽に読んでいただきながら、特別なことではなく、日頃私たちがしていることを違った受け取り方をするだけで幸せに向かって明るく生きていけるということが全体のテーマとなっております。
是非、一度書店で手にとってご覧頂きたいと存じます。またご関心のありそうな方にもお勧め下さいますればありがたく存じます。定価は1,680円(四六判並製224頁)、6月8日全国書店にて発売の予定です。何卒宜しくお願い申し上げます。
目次と「はじめに」を下記に記します。
『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』
目次
はじめに
一、仏教で生きる
仏教とは何か-他寺院での涅槃会法話
仏教は心の教え-退職教職員組合の皆様への法話
仏教という教えの本質について-地元寺院結衆布教師法話
なぜお釈迦様はやさしい心でいられるのか-福祉施設での法話
お釈迦様は私たちにチェンジを求める-団体参拝者に向けての法話
「死ねば皆、仏様 誤解」を読みながら-老人会いきいきサロンでの法話
二、仏教の基本について考える
縁起ということ
空ということ
お釈迦様は亡くなろうとする人に何を語ったか
施論戒論生天論
仏法僧とは何か 仏の十徳 法の六徳 僧の九徳
五戒の教えについて
無常偈について
煩悩即菩提ということ
山川草木悉皆成仏とは
即身成仏について
救われるということ
最期は慈悲の心で ガンを患ったNさんへの手紙
供養の先のこと
布施ということ
仏事は何をしているのか
いのちの尊さとは何か 葬式簡略化に思う
報恩ということ
天人五衰
仏像とは何か
塔婆とは何か 塔婆にまつわる四方山話
数珠の話
般若心経の現代語訳と解説
三、仏教余話
千の風になって の誤解
家庭内暴力の話
宗教の眼目 ある新興宗教の話題から
霊の話
倍音読経 天界の音楽を聴こう
断食に学ぶ
にじうおの話
あとがき
『はじめに』
『生きるとは何なのでしょうか。私たちは何のために生きているのでしょうか。仏教を学びつつ、そう自問することで悩みもつらい思いも解消されることを私は知りました。
三十年ほど前に、私は仏教と出会いました。生まれた家には仏壇もなく、もちろんお寺に知り合いがあるわけでもなく。小さな頃よく連れて行かれた浅草寺で、何度もお香の煙を身体にかけられたことはよく記憶していますが、仏教になど特別縁のない、ごく普通の家で育ちました。
ですが中学三年の時、クラブ活動でも一緒だった友達がガンで亡くなりました。その日の朝私は雨音に目を覚まし、起き上がるとカーテンがひらめくのを目にしました。しかしその日は雨も降っておらず窓も閉まっていました。そして学校に行くと、その日の未明に友達が亡くなっていたことを知らされたのでした。
お葬式では弔辞を読み、四十九日の法要に参列し、納骨にも立ち会いました。そして気がつくと、月命日には学校帰りに一人で友達の家に寄り仏壇に手を合わしていたのです。それが年に一度になり、行かなくなって、忘れかけていた頃、忘れもしない大学二年の秋のことですが、高校時代の友人数人とつれだって様々な話に興じていたとき、自分がものの見方考え方を持ち合わせていないこと、何の心のより所もないことに気づかされました。
そして、その後ふと立ち寄った本屋で手にしたのが、『仏教の思想1知恵と慈悲〈ブッダ〉』(増谷文雄・梅原猛著・角川書店刊)でした。その本にはお釈迦様の生き様、教え、仏教の基本的なものの考え方が丁寧に説かれていました。私の心に火が灯り、次から次にと仏教書を読み、仏教の独学が始まったのです。
そしてその後、縁あって高野山で出家得度し、四度加行という初歩の修行を済ませ、インドへ旅したり、四国遍路を歩いたり。また、三年余りの短い期間ではありましたがインド・コルカタの仏教教団で南方上座部の仏教僧として過ごし、もともとの仏教とはどのようなものであったかを学びました。そして、前世からのご縁でもあったのでしょうか、備後の国に来て國分寺の住職として勤めさせていただきましても、やはり、仏教について学び思索し続けています。
阪神大震災の折には、そのときインド僧で黄衣を纏っていたのですが、ボランティアとして避難所に住み込み沢山の被災者の皆様からお話を聞かせてもらいました。夜、焚き火に手をかざし語るお年寄りたちの話は、この世は無常なのだ、苦なのだと、まさにお釈迦様の教えが訥々と言葉にされていったことを記憶しています。そして、何でこんな事になったのかと誰もが思索されていました。おそらく、そうならねばその時そんなことを思い語ることもなかったことでしょう。
いま多くの方々が未だ仮設住宅に住まわれ、また故郷から離れて避難しておられる東北の人たち。大変な苦難の中にあります。亡くなられた方も行方不明者を併せると二万人に迫ろうとしています。三月十一日は、私たち日本人にとって未来永劫に忘れがたい日となりました。しかし、たとえそうして何があっても、この世の現実を鋭く見つめ、それを仏教の目からどのように見て、どう受けとめていくべきかと考えねばならないのでしょう。そこから、人として大切な何かを学びつつ生きるしかないのかもしれません。一日も早い被災地の復興を願いたいと思います。
仏教とは、供養や慰霊、癒しのためと思われがちですが、その教えそのものが意味あるものとして私たちの心に訴えかけるものでなければならない、そうあってこそ、その力もあるのだと思います。仏教の様々な教え、また日本人が大切にしてきた仏事、行いの一つ一つが私たちにとってどんな意味があるのか、どう受け取ったらよいのかと考えています。
本書が、仏教の基本について学び、今をいかに生きるべきかを考えるための一助となればありがたいと思います。
平成二十四年三月 著者識』
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