インドのブッダ初転法輪のサールナートで、日本人僧後藤恵照大和尚が亡くなった。日本人僧というより、インド国籍を取得されてもいるから、日本を母国とするインド僧プラッギャラシュミ長老というべきであろうか。「世界を変える100人の日本人(2010年7月)」「SUGOI日本人3(2008年9月)」などテレビ東京系の番組でも紹介されているから、ご存知の方も多いのかもしれない。
在印38年、初心貫徹された後藤恵照師の最期を、現地メディア『24タイムズ・トゥデイ(ヒンディニュースポータル)』は11月25日付けで次のように報じた。
「法輪精舎創立者プラッギャラシュミ師、五大と化す バーラーナシーより配信/仏教寺院法輪精舎の設立者で、尊敬すべきプラッギャラシュミ(後藤恵照)尊者の葬儀が木曜日に仏式にて行われた。
まず、サールナートの寺院内で比丘たちによって偈文が読誦される中、厳粛に葬儀が執り行われた。その後直ちに、法輪精舎から、遺体は車に乗せられ、サールナートの街をくまなく巡回された。多くの人々が駆け寄り、プラッギャラシュミ尊者の身体の上にたくさんの供物を御供えした。午後二時半、サラーヤモーハナーのタターガトガートで彼の遺体は火葬された。
プラッギャラシュミ尊者は水曜日(11月23日)午後3時頃寺院内で遷化された。行年八十四歳。数年前から病を患っており、この訃報によりサールナートの信徒たち、地元の人々が悲しみの涙に暮れ、寺院内は最期の対面のために駆けつけてきた人で溢れかえった。
その場には、中央チベット研究大学総長ナヴァングサムテン教授、マハーボーディソサエティ・インド総領P・シーワリー長老、ミャンマー寺名誉住職ユーバンナドゥワジ長老、ジャンブディパ・スリランカ仏寺住職シリースメーダ長老、クシナガラ・スリランカ仏教精舎住職ナンダラトナ尊者、シグラー・ミャンマー仏教精舎住職ソーバナー尊者、宗教教育協会、サールナートのチャンディマー尊者、ラメーシュ・チャンドラ・ネーギー教授、ラメーシュ・プラサード教授、ギャーナローカ尊者、ジーヴァンジョーティ盲人学校設立者シスター・アーイリーン師、スジータ・モウリア氏、サカラナーラーヤン・クスワハ氏、等々の人々が参列。遺体が市内を巡る間、大群衆がその後に従った。
火葬は、法輪精舎法嗣ダルマプリヤ比丘と学校法人理事長サンジャイ・クマール氏によって執り行われた。火葬には、アジャイ・クマール・モウリア氏、ラジェンドラ・クマール氏、アニル・モウリア氏、サンジャイ・シュリワースタワ氏等とともに、法輪精舎インターカレッジの全教員が出席した。
(略歴)プラッギャラシュミ比丘は1933年1月1日日本(茨城県土浦市)にて出生。幼少より仏教に深い信仰あり、後に45歳の時日本を出立してブッダ初転法輪の地に来たりて、仏教の宣布を始めた。1979年には法輪精舎仏教寺院をサールナートのチベット大学隣のマワイヤ地区に建立し仏教の布教に尽力した。
そして自らのたゆまぬ努力によって法輪精舎国際仏教教育研究所並びにパーリ単科大学、法輪精舎インターカレッジ、法輪精舎小中等学校、法輪精舎女性職業訓練校、法輪精舎日曜学校を創立。今日ではこれら併せて1000人もの生徒たちがが熱心に勉学に励んでいる。
さらに、ベナレスヒンドゥー大学日本語ディプロマコースの運営を支援し、初期の教員には献身的な援助をなした。そればかりか、サンプールナナンド・サンスクリット大学においても多くの生徒に長年に亘り日本語教官として教育を施した。そして、自らの寺院内でも1979年から2011年まで、日本語、中国語(漢文)、パーリ語など古典言語について、多くの学生たちを教育し指導した。」
後藤恵照師は、農家の次男に生まれ、小学生の時母親と死別、畑仕事に明け暮れつつも勉学に励み定時制高校を卒業。その後全国三大花火大会の一つとして名高い土浦全国花火大会を時の住職が私費を投じて開催したという曹洞宗神龍寺(じんりゆうじ)に入寺。二年後には鶴見の大本山総持寺に安居している。その頃のエビソードとして、人が座禅しているときは昼寝して、人が寝ているときに1人座禅をしたとお聞きした。腹が減るので台所に行くと先輩僧たちもなぜか自分には怒らずに何かを食べさせてくれたとも。そして駒澤大学に学び、原始経典語であるパーリ語と出会う。
卒業後は時宗の大本山遊行寺塔頭小栗堂住職夫妻の養子となり後藤姓に改名。時宗の本山内にもかかわらず座禅会を開いては若い駒沢の学生たちと朝まで学問論議に花を咲かせた。この間小栗堂仏教研究会として仏教系大学生を対象に、門司の世界平和パゴダのミャンマー僧をはじめとする講師を招いてパーリ語の学習会を開き、『アビダンマッタサンガハ』という貴重な仏教の哲学教義概説を訳出するにあたっては、これに協賛し訳注されたお二人に小栗堂において一年もの間食住を提供した。この頃小栗堂を訪れた実弟夫妻に「仏教ってそんなにいいの。仏教って何なのかしら」と問われ、池に小石を放りその波紋を見て「あれだよ」と一言つぶやいたという。
そして養父母を看取り、インドへ旅立つ。1977年2月15日コルカタのベンガル仏教会に掛錫し、将来の永住を念頭に、まずはヒンディー語を学ぶ学生としてビザを取ることとなり、シャンティニケタンのタゴール大学の仮入学許可書を取得して帰国。本格的に渡印準備に入り、たくさんあった蔵書類を方々に処分。残った蔵書を11箱に梱包してタゴール大学日本学科に空輸寄贈されたというが、それらは仏教を中心とした古代文学現代教養文化および当時入手困難な珍本ばかりで、日本学科図書室に千金の重みを添えたという。
そしてシャンティニケタンのタゴール大学でヒンディ語を学ぶ間に、ベンガル仏教会にて再出家して上座仏教比丘となりプラッギャラシュミと名乗る。
一年学んでベンガル語圏からベナレスのサンスクリット大学に居を移し、パーリ語を学びつつ、サールナートの遺蹟地区からは二キロほど離れたマワイヤに300坪の土地を購入。煉瓦を重ねコンクリートを上塗りしただけの建物を作り、一尺ほどの真鍮製の釈迦像を祀って、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎を設立した。郷里の実兄から送金をたよりにゲストハウスを作り、日本人旅行者の便宜をはかった。朝は7時から毎日日本語ガイド向けの日本語教室を開き、終わるとサールナートの遺蹟に出向いて旅行者に寄付を募った。夕方からは自転車で10キロも離れたサンスクリット大学に出かけて日本語を教え、日曜日には地元の小さな子供たちに英語を教えパンとビスケットを施食した。
私が初めてお会いしたのは、もうかれこれ26年前、そんな生活からいよいよ新たに無料中学校を設立しようとされている頃だった。法輪精舎にお訪ねし、インドで今も仏教が生き続けていることを知らされた。一緒に歩いてサールナートに向かうと、方々から小さな子供たちが駆け寄り、「グルジーマナステー」と後藤師の足に触れてから胸の前で合掌する。そんな子供たちの頭をこつこつと打って抱き寄せては耳を嚙んだりする。みんなニコニコとうれしそうに。そんな様子を見るに付け、まさに今良寛ともいえるお坊様がこの時代におられたのかと思わず涙が溢れ、この方とともにあってお役に立ちたいと思い、インド比丘となって法輪精舎に住み込むことを即決した。
実際にはその翌年から一年、ともに暑いときにはパイプベッドを外に出し蚊帳をつって寝た。寒いときには朝水を張ったバケツを屋上に置き、昼食後水浴びをした。地元のミャンマー寺の住職に頼み沙弥式をして、ともにコルカタに出向き、後藤師の寄附した日野のバスに乗りフーグリー河岸まで行き船内で具足戒式を受けた。信徒の家に招待を受け食事を供養されたり、結婚式に招かれた時も一緒に参加させてもらった。
法輪精舎では無料中学校の教室が急ピッチで造られ、生徒の制服や学用品まで提供して開校した。その後、手狭となり近隣に約600坪の土地を買い足して新たに校舎を建設。支援団体友の会の皆様の努力により資金も集まり、瞬く間に高校、仏教大学設立へと突き進まれた。現在校舎は1階と2階に職員室と事務室をいれて16部屋、3階は理科室と実験室そして図書館とトイレがある。中学校、高校は州政府の認可が下り、州全体でも大変優秀な学校として認められるまでになっている。
今日世界的に多くのボランティア、慈善活動が盛んだが、この後藤師だけは寄付金を私のものとせず、自らはまったく贅沢もせず、もちろん飲酒妻帯せず、それまでと同様古びた衣を纏い、中古の壊れかかった自転車に跨がり、粗末な食材を用いて自ら調理して質素な生活のまま、そのすべてを貧しい子供たちの教育のために捧げられた。だからこそ地元のモウリア族の子供たちが中心となり後藤師を支え、今では彼らが学校の要職に就き、運営全般を担っている。小さいときに父親を失ったサンジャイ・クマール氏が学校法人の理事長を勤めているが、彼は私が居た頃から後藤師を父のように慕い、後藤師のために毎日昼食を届けてくれていた子である。
インド国籍取得後2005年に23年ぶりに先祖の墓参りのため来日。2008年には曹洞宗正法伝光会から「社会教化賞」を受賞し受賞式に招かれて来日。その際には広島県福山市にまで足を伸ばして下さり、親しく備後國分寺に滞在、檀信徒向けに講演までして下さった。また2012年にはサンジャイ理事長を伴い来日して高野山、総持寺に参詣された。
後藤師創立の法輪精舎中学校からインターカレッジまで学んだサントーシュ・クマール氏は「グルジー後藤先生は2016年11月23日に遷化。師はその人生のすべてをベナレスのすべての人々に仏教と教育を広めるために捧げられました。師は偉大なる教師でありました。私が今日あるのはすべて師から受けた恵みのお蔭であります。師は以前から体調が良くありませんでした。最後お会いしたのは今年の8月のこととでありましたが、その時体調が良かったのか師の笑ったお顔に触れ、それだけで私をとても幸せな気持ちにさせてくれました。ここに御霊の安からんことを祈ります」と11月24日フェイスブックに追悼文を寄せた。
このように後藤師は、たくさんの方々に寄付を募り功徳を積ませたが、それを基にインドの多くの子供たちに学ぶことの大切さ楽しさを授けることに成功した。サールナートという仏教発祥の地ともいえる初転法輪の聖地近くに、宗教を問わず貧富にかかわらず誰もが学べる立派な学校を布施した後藤師は一人の仏教徒として正に最高の功徳主であると言えよう。筆者も生前にご高誼を賜り、そのお蔭で私の今があります。深く感謝し追悼といたします。合掌
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