住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

追悼 松長有慶猊下

2023年04月25日 17時24分11秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
追悼 松長有慶猊下




私は教え子でもなく、お寺の関係者でもない。しかし猊下の最晩年にご縁をいただき、ご厚誼賜ったものとして誠にごくわずかのその関係についてのみではありますが、四月十六日ご遷化された松長先生の記憶を追悼の意を込めてここにとどめておきたいと思います。

松長有慶猊下についてはWikipediaにある通り、仏教学者密教学者としても、また真言僧侶としても最高の位置に自ずと推挙せられて上られました。そのご生涯は、真言宗ならず日本仏教界における金看板ともいえる存在でありました。急逝が惜しまれてなりません。

〈Wikipedia〉 松長有慶 1929年〈昭和4年〉7月21日 - 2023年〈令和5年〉4月16日)高野山真言宗の僧侶で仏教学者。高野山・補陀落院住職、元総本山金剛峯寺第412世座主、同宗管長(2006-2014年)。全日本仏教会会長(2008-2010年)高野山大学名誉教授、元同大学長。21世紀高野山医療フォーラム名誉会長。
経歴
1929年(昭和4年) 高野山南院住職松長有見高野山大学教授の長男として誕生。
1941年(昭和16年) 高野山南院道場において藤村密憧を戒師として得度
1951年(昭和26年) 高野山大学密教学科卒業
1959年(昭和34年) 東北大学大学院文学研究科博士課程修了
1968年(昭和43年) 高野山補陀落院住職に就任(~現在)
1977年(昭和52年)~1979年(昭和54年)高野山大学によるラダック地方の仏教文化調査
            「ラダック・ザンスカール仏教文化調査隊」に隊長として参加。
1978年(昭和53年) 密教学芸賞受賞・九州大学より文学博士号を授与(博士論文『密教経典成立史論』)
1983年(昭和58年) 高野山大学学長に就任
1995年((平成7年) 耆宿宗会議員(~1999年)
1999年(平成11年) 高野山寳壽院門主・高野山専修学院院長に就任(~2007年)
2002年(平成14年) 高野山第503世検校法印(~2003年)
2006年(平成18年) 11月15日高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主、高野山真言宗管長就任(~2014年)
2008年(平成20年) 財団法人全日本仏教会会長に就任(~2010年)。春、瑞宝中綬章受勲。
2009年(平成21年)11月にダライ・ラマ14世と面会
2010年(平成22年)1月、東寺(教王護国寺)での後七日御修法の大阿(阿闍梨)真言宗長者
          スイスダボス会議(世界経済フォーラム)に出席。
2011年(平成23年)天台宗の半田孝淳座主に申し入れて、12月25日に比叡山にて
            天台・高野山真言宗トップ対談を1200年ぶりに実施。
2023年(令和5年)4月16日、膵臓がんのため死去。93歳没。

四十年以上前、私がまだ仏教を学び始めて間もない頃、原始仏教関係の本ばかりを読んでおりましたがインドつながりから、松長有慶訳・アジット・ムケルジー著『タントラ-東洋の知恵』(新潮社)を読んだのが先生の本との最初の出会いであろうかと思います。その後真言僧となるにあたりその基礎知識として読ませていただいたのが『密教 コスモスとマンダラ』(日本放送出版協会)であり、大変わかりやすく、身体感覚として法身大日如来というものの存在を体感できたのは特に印象にのこっています。『密教の相承者 その行動と思想』(評論社)は高野山専修学院の教科書として真言八祖の伝記を学ばせていただきました。そして、『秘密の庫を開く 密教教典 理趣経』(集英社)は、わかりやすく常用経典について学ぶテキストとして、今日まで何十回と読ませていただいています。

このように学者先生として仰ぎ見てきた先生がこの福山の地に来たところ、國分寺の先代が先生とは高野山大学の同期であり、盆暮の挨拶は勿論のこと、著書の出版記念パーティや宝寿院門主、法印、管長という重職につかれるたびに祝儀を送り旧交を温めてきた関係であったと伺いました。それが故に、平成二十六年十月二十二日高野山真言宗の福山近在の御寺院の檀信徒へ管長猊下としてなされる御親教のために福山にお越しになられると、翌日午前中の開き時間に國分寺にお立ち寄りいただいたのでした。

その一週間後には前年に亡くなった先代和尚の一周忌が予定されており、亡くなった時義母が訃報の連絡をしており、それを気にされていたと後になって聞いたのですが、何の事前通知もなく前日夕方に明日午前九時半にお越しになられると連絡が入りました。急遽、庭の掃除から始まり御通しする部屋の設い、お茶菓子、拝まれる座の用意など準備して、予定の九時前には仁王門前で待機しました。黒塗りの車が参道を入ってきて、合掌してお迎えしました。

開口一番、誠に気さくに「突然にすみませんなあ」と言われたように記憶しています。ほとんど初対面に近いこともあり、緊張してかしこまっていた当方もこのお言葉で気持ちがほぐれたことを思い出します。中門から客殿前の門を入り直接上段の間にご案内し、床前の毛氈の上に敷いた赤座布団にお座りいただき、菓子とお茶をお出ししました。

前年亡くなった先代の話から、その年の春にドイツ人の早稲田大学名誉教授で真言宗僧侶のヨープスト・雄峰先生にこちらの教区に講演にお越しいただいた話や仏教雑誌『大法輪』での執筆の話など砕けた話をしたことが思い出されます。それから本堂へご案内して先代の位牌を拝んでいただこうとすると、こちらにも毛氈赤座布団は用意していたものの経机の前にお座りになられ、理趣経一巻をお唱え下さいました。誠に有り難く思われ、あとから録音しておけばよかったと思われたのでありましたが。それから上段の間から外にお出になられ、本堂をバックに写真を撮らせていただきました。そして、仁王門前に駐車された車にお乗りになりお帰りになられたのですが、ちょうど一時間のご滞在でありました。

何のお礼にもならないものの、早速赤白のしの「菓上」と保命酒を送らせていただいたところ、後日、沢山のご著書と直筆の手紙を頂戴しました。そしてその翌年の四月丁度高野山開創千二百年の記念法要に高野山に団参で訪れた際に義母とともにご自坊にお礼のあいさつに伺いました。

その後送ってくださったご著書を読んで学ばせていただいたことなど手紙を出さねばと思っていて書きそびれて三年ほども経過した頃、令和元年六月、突然筆者がパソコンに向かっていたところ先生からのメールを着信したと表示されたのでした。その後寺報を送らせていただいていたのでアドレスを知られてのことではありますが、驚いてメールを拝見すると、本を送るように手配してあるので読んで欲しい、戦後の弘法大師の著作についての現代語訳が粗雑であり、誤解される恐れがあるので、残りの余生をその現代語訳に捧げるつもりである。この度は『訳注即身成仏義』(春秋社)であるが読んで少しでも取るところがあるなら勝手なお願いで済まないが感想を仏教関係誌に書くように。日常的に平易な文章を書きなれたあなたにお願いしたいとの内容でした。

早速にご自坊補陀落院にお電話し、直立不動の姿勢で、身に余るお話で期待に沿えないと申し上げると、そんなことではなくただ読んで思ったことを書いてくれればいいからとおっしゃられ、浅学を顧みずお引き受けすることとなりました。もとより不勉強の身のため、ただ読んで思ったことの羅列に過ぎないものを書いたように思われるのですが、六大新報誌に「新刊紹介」として二頁ほどの原稿が掲載されました。ただただ先生のご著書を汚すことにならないかと心配されたのでした。

その翌年六月には『訳注声字実相義』が送られてきて、令和三年には『訳注吽字義釈』が。先生は大師が命ぜられたとお感じになられて、御高齢の上、病を抱えながらもパソコンに向かわれ、大師の著作の現代化のため十巻章の訳注シリーズの出版と総まとめとしての新書版『空海』発刊のために管長退任後の余生を捧げられたのでした。そして昨年一月に『訳注弁顕密二経論』、六月には岩波新書『空海』を出版され、大師とのお約束を成就されました。その都度こちらにもご送付下さり、六大新報社からも連絡が入り、つごう五冊分「新刊紹介」を書かせていただきました。身に余る光栄であります。

この間二度ほど高野山に用事で出かけた際にご自坊にお伺いさせていただきご挨拶もうしあげました。昨年一月二十四日、小雪の降る中お伺いした際には、玄関までお出ましくださりお話させていただきました。六月に予定している『空海』で生涯著作が五十冊となるが、これが最後だと思ってやっている。全く新しい空海像を描いているが難しい表現が入るから一般の人にはどうかと思うと言われるので、最近の読者はよく勉強されるから少しばかり難しくても大丈夫ですと申し上げました。

また、いつも新刊をすぐに読んでまた文章を書いてくれてと言われるので、的外れのことばかり書きまして申し訳ありませんとお詫び申し上げました。ただそれでも先代は喜んでくれている、先代の供養と思って書かせていただいていると申し上げ、またあるお寺様が大師と語れる最後の先生でありこれからもご壮健で頑張って欲しいと申していたことをお伝えしました。これから高野山は寒いので九州に転地療養に行かれるとも言われていました。終始にこやかにお元気そうで、九十三才とは思えないほど声も表情も活気に満ちておられ、かえってこちらが元気をいただいたように思えたのでした。

その後三月十八日のメールでは、送付させていただいた寺報に関連して、上座部仏教の瞑想について今後もっと研究せねばならない領域であるとされ、先駆けて注目している点に深い敬意を呈上する。六月には『空海』の題名で岩波新書を出版する予定で、おそらく最後の著作となると思うが、真言宗の方々の常識をいくつか覆し、びっくりされる内容と思うが、瑜伽にいのちを掲げられた大師のお考えの核心と思う点を一般の知識人に訴えてみたいとありました。

また、六月二十三日にもメールを頂戴し、早速、的確な『空海』の御紹介に御礼を申し上げる。短時間の間にこれほど深いところまで読み込んでくれて感謝している。これを書き上げてほっとすると同時に疲れを感じるとありました。そして、これが最後の著作となると思うが、今年の日本密教学会、種智院大学で特別講演を村主学長から頼まれましたともありました。ですが、その後体調がすぐれず、この講演は先生の用意された原稿を高野山大学の学長先生が代読されたと伺いました。

そして、十二月四日、このメールが先生からの最後のメールとなるのですが、十月に腹痛で入院し、以後医師の指導の下に食生活をし、お酒も甘いものも控えるように命じられている。今年もまた著作の紹介をかたじけなくし感謝している。最後に、くる年もいい年でありますよう祈り上げます、と書いてくださいました。私のようなものにまで体調のすぐれない中メールを送ってくださり誠に申し訳なく思ったことでした。

そして今月十六日、朝八時過ぎに一本のショートメールで先生のご遷化を知ることになりました。通夜葬儀は十八日十九日高野山南院にてと知って、丁度その両日、東京のお寺の法会に出仕する予定であったため、当初出席するのは難しいと諦めていました。ですが、これまで賜ったご芳情を思い、急遽十九日早朝五時に宿を出て、六時品川発の新幹線に乗り高野山に向かいました。

降りしきる雨の中、十一時過ぎに南院へ。門を入ると目の前にずらっと並ぶ供花に、まずは圧倒させられました。広間の建物の外から廊下、門正面の植え込みの周りにも。荷物を置き、上がらせていただき、棺の前に進み線香を立て投地礼。小声ながらこれまでの恩義に感謝の言葉を述べさせていただきました。それから一度退出して、再度十二時過ぎに南院に参り、奥の間で黒衣如法衣に着替え、山内寺院方のすぐ後ろの随喜参列寺院席に着席。管長猊下はじめ山内寺院院家様、上綱様、前官様方が着席され、理趣経一巻唱和。管長猊下と山内住職会会長の弔辞、弔電、挨拶が続きました。この頃から雨脚が強くなり屋根にあたる音がわかるようになります。

そして出棺となり、棺が広間中央に運ばれ、山内寺院方から順に花を棺に入れていきます。私も蘭の花を受け取り棺に添えさせていただきましたが、先生のお顔はお会いした時と変わらず端正な綺麗なお顔でした。そして棺が霊柩車に運ばれるころには土砂降りとなり、棺を乗せた車が動いた、まさに出棺のその時、ひときわ大きく雷鳴がとどろきました。

その時、「人の願いに天従う」という弘法大師の言葉が頭によぎりました。出棺を天が世の者に知らしめ先生を弔わんとされた雷鳴か、はたまた先生が皆のものへの挨拶としてとどろかしめたものかはわかりません。ですがいずれにせよ、霊柩車のクラクションと同時に鳴ったその音は、何か先生のご意思によるものと思われたのでした。

一つの時代が終わってしまったと思われて仕方がありません。先生は戦中戦後どんな思いで補陀落院を継承なされたのか。学問の道を極められた心の源は奈辺にあったのか。また、今の時代に私どもに向けて、もっと多くのことを言い残して欲しかったと思うのですが、いやいや、沢山のことを書き残しているではないかとお声が聞こえるようです。

そうなのです、先生は密教の学問的な研究の傍ら、宗教や信仰の枠を超えて、常に時代であるとか世の中の諸問題について、いかにとらえ対処すべきかを問い指針を示してこられました。それは例えば脳死と臓器移植についての捉え方が西洋の人々とは違った日本人の精神構造の観点からの理解が必要であるとされたり、遺伝子操作については不治の病に対する治療がなされるほかに人間のクローン化などへの不審が払拭されていないこと、終末期医療については長生きよりも命の質の問題への転換が必要とされるなど、医学や生命科学における諸問題の解決のため宗教者からの提言を積極的になされてこられました。

平成十七年には、現在では百四十を超える社寺が参加する西国神仏霊場会が発足していますが、先生は十七人の発起人の一人として神仏の宥和を推進されています。平成二十一年には、天台宗の半田孝淳座主を高野山で行われる宗祖降誕会に招待され、平成二十三年には比叡山を訪問されて、東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示すべく、半田座主と千二百年の時を隔ててトップ対談を実現されました。これもすべてのものを包摂する密教的発想からの宥和の実践をお示しくださったものといえます。

さらに平成二十二年、全日仏会長として世界経済フォーラムによるダボス会議にアジアの宗教者として初めて招請されました。その際になされた講演の内容は、まさに現状の国際社会のあり方に対して日本の仏教者の立場から警鐘を鳴らすものでした。自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から全体的、相互関連的に世界を見る立場への転換を提案し、先進文明を唯一絶対の価値あるものとして世界を統合するのではなく、地球上のあらゆる地域に存在する文化の独自の価値を尊重し共存すべきこと、私たちが現代社会に生きているとは環境破壊に関与して生かさせていただいていることに気づき、社会のため環境のために寄与奉仕する生き方が求められていると提唱されています。

ところで、先生の著作のいくつかにヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』の話が登場します。インド人の人生の三大目的であるカーマ(愛欲)とアルタ(富貴)を経験し尽くし、その後無一文となってモークシャ(解脱)を求めて生きる主人公を本当の意味での自由な生き方の手本と書かれています。最後は、わが子とも決別して悩み苦しみつつも、すべてあるがままに現実を受け入れ生きんとする主人公に憧憬を寄せておられるようにも感じられました。

三年ほど前のことにはなりますが、生涯坐禅に取り組まれた仏教学者玉城康四郎先生の著作に学んでいることをメールでお伝えしました。すると、先生からは、生前よく存じ上げており、東大教授でしたが仏教を学問的に研究するだけではなく、ご自身の生き方の中に常に求め、それを生かそうと努めておられた方で尊敬している。今日このような求道的な態度で仏教に接しておられる研究者はほとんど見かけなくなり残念です。老齢ながら、余生の中にこの態度を取り込み生かしたいと考えているとご返信いただいて大変恐縮したことがあります。最後の著作となった『空海』において、先生は大師の思想と生涯の行動が瑜伽(観法・瞑想)に始まり瑜伽に終わると記されていますが、先生ご自身も日々瑜伽観法を丁寧に修法なされ、世俗を超越し無限なる世界と繋がる時間を何よりも重んじてこられたのであろうと思われます。

だからこそ、いつも飾ることなく、一つも偉ぶるところなく、誰にも変わりなく優しいまなざしで、気安くお声がけくだされた。そんな先生に数えきれないほどの多くの人が心癒されたことと思います。私もその中の一人にすぎないのですが、晩年にご高誼を賜りましたことの感謝の気持ちを込めて一文認めさせていただきました。本当にお世話になりました、感謝申し上げます。どうか兜率浄土より安らかにお見守りください。合掌



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追悼 ボーディパーラ比丘 Bhikkhu Bodhipala

2020年07月28日 20時47分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
追悼 ボーディパーラ比丘 Bhikkhu Bodhipala

インド・ベンガル人比丘ボーディパーラ師が、昨日27日午前8時20分コルカタの病院で亡くなられたという。まだ52、3なのに、なぜ死んでしまったのか。一昨日入院して、新型コロナ検査陽性だったとしか解っていない。はたして死因は何だったのか。遠く離れていて聞くこともかなわない。ベンガル仏教会(The Bengal Buddhist Association)の事務総長(General Secretary)として、連日パワフルな身体を揺らしながら、コロナの為に困窮している家族や施設、また水害に遭った地域に慰問に出かけ、食料や水を施している様子がフェイスブックでいくつもアップされていた。かなり疲労がたまっていたのかもしれない。最後に見た彼の動画は黒い肌が白く見えるほど生気がなかった。

いつもフェイスブックでやりとりをしていた。彼は英語が堪能で、彼の英語のメッセージを読み、私はヒンディー語をアルファベットで表記して送信していた。この5月には、新型コロナウイルスに関するアメリカ人医師の動画を参考に見てみたらとメッセージしたところだった。忙しいのかその時には、sureとしか返事がなかった。その前4月には、この新型コロナ騒動を終息させるべく、お釈迦様の時代の故事にある、ヴェーサーリーでの疫病退散のために読誦したとされるパーリ・ラタナスッタを一緒に唱えよう、二人の師であるダルマパル師のCDに録音したものを聞き、その独特な節を付けて唱えようと呼びかけ、「久しぶり、元気そうでよかった、わかった了解」と返事が来たのだった。誕生日には毎年律儀にメッセージを送ってくれていた。

彼ボーディパーラ比丘は、実は私の恩人とも言える人である。27年前、私が上座仏教の正式な比丘になれたのは、彼がいたからなのだ。その年、具足戒式(ウパサンパダーUpasampada)を受けるバルワ仏教徒がいるから、その4月にサールナートで沙弥となったばかりの私にも一緒にしてはどうかと取り計らってくださったのである。本来ならそう簡単にはウパサンパダーはできないと言われていた。なぜなら正式な儀式を挙げるには最低10人の比丘が参加しなくてはいけないから。直接のご指導を仰ぐ和尚、受具足戒式を仕切る羯磨師、年齢や借金がないか、両親の許しはあるかと設問する尋問師、そして証人となる比丘が7人以上必要となる。そして実際には、1993年6月22日、コルカタのフーグリー河船上で行われた具足戒式には14人もの長老比丘方が参加され、中にはムンバイからはるばる駆けつけた長老やチャクマ仏教徒のラージグルも御越し下さっていた。

このように各地に分散している比丘方を召集し、その交通費から滞在費食費まで負担しなくてはいけない。さらには儀式に参加いただく布施やその日には豪華な施食をしなくてはならず大変な出費となる。彼ボーディパーラは、1892年10月5日に創立された、このベンガル仏教会の創設者クリパシャラン大長老の親族の家柄で、資産家でもあり、そのためおそらくその経費のほとんどを彼の家が負担してくれたのだと思う。つまり、もとより私のためになされた儀式でもなく、彼のために、彼の親族ないし全バルワ仏教徒の将来を託すべき人物の盛大なる記念すべき儀式に、まるでつけたしのように私はその儀式に入れていただけたのであった。

その前年、私が何の計画もなく訪れたインドで、たまたまコルカタで立ち寄ったベンガル仏教会本部で、時の事務総長ダルマパル・バンテーからサールナートの後藤師に遭いなさいといわれ、コルカタから夜行の急行列車でバラナシに行き、初転法輪の聖地サールナートを訪ねた。チベタンインスティチュートの隣に位置するベンガル仏教会サールナート支部にしばらく滞在し、日本人住職後藤恵照(プラッギャラシュミ)比丘からインド仏教の近代史をうかがった。それまで現代インドに由緒正しき仏教はすでにないと思っていた私だったが、彼らバルワ仏教徒は、マガダ国の王家の末裔であり、イスラム勢力がインドに侵入する前にインド東部、今のバングラディシュチッタゴン丘陵地に避難した伝統ある仏教徒であることを知った。彼らをベンガル仏教徒もしくは彼らの姓からバルワ仏教徒という。そして、自分もインドで再出家しようと即断し、すぐに帰国してヒンディー語やパーリ語を習い、その翌年留学ビザを取得して再度インドに入ったのであった。

そして、具足戒を受けた後私はサールナート支部法輪精舎に帰り、サンスクリット大学のパーリ語科に自転車で通っていたが、彼ボーディパーラ比丘はナーランダー大寺(Nava Nalanda Mahavihara)で、将来のベンガル仏教会事務総長になるべく英才教育を受けていた。たまにコルカタの本部で顔をあわせることもあった。私の方が10近くも歳は上ではあったが、比丘は先に出家した方が上、ウパサンパダーでは私より先に彼が教誡を受けている。対等以上に上から物を言う彼ではあったが、何かいつも兄弟のような感覚が私には芽生えていた。

その後私は日本に一時帰国したり、留学条件の変更などで帰国を余儀なくされたりで、三年半ほどで比丘を諦め日本の僧侶に復帰した。二人の師であったダルマパル大長老も亡くなり、縁遠くなった頃、フェイスブックによって交流が細々と繋がった。彼はいつの間にか事務総長になり、インドの教団を代表して世界仏教徒会議にも参加し、代表して壇上に立ち演説するようになっていた。日本にも何度か招かれてきていて、一昨年も11月に開催された日本仏教会主催の世界仏教徒会議日本大会に参加していた。この時には連絡は無かったものの、その前たしか平成28年4月に来日した際には電話が入り滞在先の東京に私も出向く予定にしていたところ、結衆寺院住職が遷化されて、残念ながら再会をはたせなかった。いつでもまた会える、そんな気持ちでいたが、今思えば誠に残念なことであった。

師のダルマパル大長老同様に四十代で事務総長になり、これからのインド仏教界、ないし、世界の仏教徒を代表して世界に向けて仏教の平和共存を旨とする精神性を説くべき人がこんなに早く亡くなってしまうとは。人間世界にとっての大きな損失であると言っても過言ではないだろう。インドで彼が奮闘している、私も頑張ろうと思ってきた。誠に残念でならない。一生忘れることの出来ない、兄弟にも思えるボーディパーラ比丘。来世で、是非また仏教徒として世界の人々を導いて欲しい。あらためてあの日を思い彼の分も精進を重ねて参りたいと思う。ありがとう、ボーディパーラ比丘。本当にご苦労様でした。お疲れさまでした。sadhu sadhu sadhu


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インド上座仏教長老プラッギャラシュミ 後藤恵照和尚 追悼

2016年11月26日 16時57分13秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
 
 インドのブッダ初転法輪のサールナートで、日本人僧後藤恵照大和尚が亡くなった。日本人僧というより、インド国籍を取得されてもいるから、日本を母国とするインド僧プラッギャラシュミ長老というべきであろうか。「世界を変える100人の日本人(2010年7月)」「SUGOI日本人3(2008年9月)」などテレビ東京系の番組でも紹介されているから、ご存知の方も多いのかもしれない。
 在印38年、初心貫徹された後藤恵照師の最期を、現地メディア『24タイムズ・トゥデイ(ヒンディニュースポータル)』は11月25日付けで次のように報じた。

「法輪精舎創立者プラッギャラシュミ師、五大と化す バーラーナシーより配信/仏教寺院法輪精舎の設立者で、尊敬すべきプラッギャラシュミ(後藤恵照)尊者の葬儀が木曜日に仏式にて行われた。
 まず、サールナートの寺院内で比丘たちによって偈文が読誦される中、厳粛に葬儀が執り行われた。その後直ちに、法輪精舎から、遺体は車に乗せられ、サールナートの街をくまなく巡回された。多くの人々が駆け寄り、プラッギャラシュミ尊者の身体の上にたくさんの供物を御供えした。午後二時半、サラーヤモーハナーのタターガトガートで彼の遺体は火葬された。

 プラッギャラシュミ尊者は水曜日(11月23日)午後3時頃寺院内で遷化された。行年八十四歳。数年前から病を患っており、この訃報によりサールナートの信徒たち、地元の人々が悲しみの涙に暮れ、寺院内は最期の対面のために駆けつけてきた人で溢れかえった。
 その場には、中央チベット研究大学総長ナヴァングサムテン教授、マハーボーディソサエティ・インド総領P・シーワリー長老、ミャンマー寺名誉住職ユーバンナドゥワジ長老、ジャンブディパ・スリランカ仏寺住職シリースメーダ長老、クシナガラ・スリランカ仏教精舎住職ナンダラトナ尊者、シグラー・ミャンマー仏教精舎住職ソーバナー尊者、宗教教育協会、サールナートのチャンディマー尊者、ラメーシュ・チャンドラ・ネーギー教授、ラメーシュ・プラサード教授、ギャーナローカ尊者、ジーヴァンジョーティ盲人学校設立者シスター・アーイリーン師、スジータ・モウリア氏、サカラナーラーヤン・クスワハ氏、等々の人々が参列。遺体が市内を巡る間、大群衆がその後に従った。

 火葬は、法輪精舎法嗣ダルマプリヤ比丘と学校法人理事長サンジャイ・クマール氏によって執り行われた。火葬には、アジャイ・クマール・モウリア氏、ラジェンドラ・クマール氏、アニル・モウリア氏、サンジャイ・シュリワースタワ氏等とともに、法輪精舎インターカレッジの全教員が出席した。

 (略歴)プラッギャラシュミ比丘は1933年1月1日日本(茨城県土浦市)にて出生。幼少より仏教に深い信仰あり、後に45歳の時日本を出立してブッダ初転法輪の地に来たりて、仏教の宣布を始めた。1979年には法輪精舎仏教寺院をサールナートのチベット大学隣のマワイヤ地区に建立し仏教の布教に尽力した。
 そして自らのたゆまぬ努力によって法輪精舎国際仏教教育研究所並びにパーリ単科大学、法輪精舎インターカレッジ、法輪精舎小中等学校、法輪精舎女性職業訓練校、法輪精舎日曜学校を創立。今日ではこれら併せて1000人もの生徒たちがが熱心に勉学に励んでいる。
 さらに、ベナレスヒンドゥー大学日本語ディプロマコースの運営を支援し、初期の教員には献身的な援助をなした。そればかりか、サンプールナナンド・サンスクリット大学においても多くの生徒に長年に亘り日本語教官として教育を施した。そして、自らの寺院内でも1979年から2011年まで、日本語、中国語(漢文)、パーリ語など古典言語について、多くの学生たちを教育し指導した。」

 後藤恵照師は、農家の次男に生まれ、小学生の時母親と死別、畑仕事に明け暮れつつも勉学に励み定時制高校を卒業。その後全国三大花火大会の一つとして名高い土浦全国花火大会を時の住職が私費を投じて開催したという曹洞宗神龍寺(じんりゆうじ)に入寺。二年後には鶴見の大本山総持寺に安居している。その頃のエビソードとして、人が座禅しているときは昼寝して、人が寝ているときに1人座禅をしたとお聞きした。腹が減るので台所に行くと先輩僧たちもなぜか自分には怒らずに何かを食べさせてくれたとも。そして駒澤大学に学び、原始経典語であるパーリ語と出会う。

 卒業後は時宗の大本山遊行寺塔頭小栗堂住職夫妻の養子となり後藤姓に改名。時宗の本山内にもかかわらず座禅会を開いては若い駒沢の学生たちと朝まで学問論議に花を咲かせた。この間小栗堂仏教研究会として仏教系大学生を対象に、門司の世界平和パゴダのミャンマー僧をはじめとする講師を招いてパーリ語の学習会を開き、『アビダンマッタサンガハ』という貴重な仏教の哲学教義概説を訳出するにあたっては、これに協賛し訳注されたお二人に小栗堂において一年もの間食住を提供した。この頃小栗堂を訪れた実弟夫妻に「仏教ってそんなにいいの。仏教って何なのかしら」と問われ、池に小石を放りその波紋を見て「あれだよ」と一言つぶやいたという。

 そして養父母を看取り、インドへ旅立つ。1977年2月15日コルカタのベンガル仏教会に掛錫し、将来の永住を念頭に、まずはヒンディー語を学ぶ学生としてビザを取ることとなり、シャンティニケタンのタゴール大学の仮入学許可書を取得して帰国。本格的に渡印準備に入り、たくさんあった蔵書類を方々に処分。残った蔵書を11箱に梱包してタゴール大学日本学科に空輸寄贈されたというが、それらは仏教を中心とした古代文学現代教養文化および当時入手困難な珍本ばかりで、日本学科図書室に千金の重みを添えたという。

 そしてシャンティニケタンのタゴール大学でヒンディ語を学ぶ間に、ベンガル仏教会にて再出家して上座仏教比丘となりプラッギャラシュミと名乗る。
 一年学んでベンガル語圏からベナレスのサンスクリット大学に居を移し、パーリ語を学びつつ、サールナートの遺蹟地区からは二キロほど離れたマワイヤに300坪の土地を購入。煉瓦を重ねコンクリートを上塗りしただけの建物を作り、一尺ほどの真鍮製の釈迦像を祀って、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎を設立した。郷里の実兄から送金をたよりにゲストハウスを作り、日本人旅行者の便宜をはかった。朝は7時から毎日日本語ガイド向けの日本語教室を開き、終わるとサールナートの遺蹟に出向いて旅行者に寄付を募った。夕方からは自転車で10キロも離れたサンスクリット大学に出かけて日本語を教え、日曜日には地元の小さな子供たちに英語を教えパンとビスケットを施食した。

 私が初めてお会いしたのは、もうかれこれ26年前、そんな生活からいよいよ新たに無料中学校を設立しようとされている頃だった。法輪精舎にお訪ねし、インドで今も仏教が生き続けていることを知らされた。一緒に歩いてサールナートに向かうと、方々から小さな子供たちが駆け寄り、「グルジーマナステー」と後藤師の足に触れてから胸の前で合掌する。そんな子供たちの頭をこつこつと打って抱き寄せては耳を嚙んだりする。みんなニコニコとうれしそうに。そんな様子を見るに付け、まさに今良寛ともいえるお坊様がこの時代におられたのかと思わず涙が溢れ、この方とともにあってお役に立ちたいと思い、インド比丘となって法輪精舎に住み込むことを即決した。

 実際にはその翌年から一年、ともに暑いときにはパイプベッドを外に出し蚊帳をつって寝た。寒いときには朝水を張ったバケツを屋上に置き、昼食後水浴びをした。地元のミャンマー寺の住職に頼み沙弥式をして、ともにコルカタに出向き、後藤師の寄附した日野のバスに乗りフーグリー河岸まで行き船内で具足戒式を受けた。信徒の家に招待を受け食事を供養されたり、結婚式に招かれた時も一緒に参加させてもらった。

 法輪精舎では無料中学校の教室が急ピッチで造られ、生徒の制服や学用品まで提供して開校した。その後、手狭となり近隣に約600坪の土地を買い足して新たに校舎を建設。支援団体友の会の皆様の努力により資金も集まり、瞬く間に高校、仏教大学設立へと突き進まれた。現在校舎は1階と2階に職員室と事務室をいれて16部屋、3階は理科室と実験室そして図書館とトイレがある。中学校、高校は州政府の認可が下り、州全体でも大変優秀な学校として認められるまでになっている。

 今日世界的に多くのボランティア、慈善活動が盛んだが、この後藤師だけは寄付金を私のものとせず、自らはまったく贅沢もせず、もちろん飲酒妻帯せず、それまでと同様古びた衣を纏い、中古の壊れかかった自転車に跨がり、粗末な食材を用いて自ら調理して質素な生活のまま、そのすべてを貧しい子供たちの教育のために捧げられた。だからこそ地元のモウリア族の子供たちが中心となり後藤師を支え、今では彼らが学校の要職に就き、運営全般を担っている。小さいときに父親を失ったサンジャイ・クマール氏が学校法人の理事長を勤めているが、彼は私が居た頃から後藤師を父のように慕い、後藤師のために毎日昼食を届けてくれていた子である。

 インド国籍取得後2005年に23年ぶりに先祖の墓参りのため来日。2008年には曹洞宗正法伝光会から「社会教化賞」を受賞し受賞式に招かれて来日。その際には広島県福山市にまで足を伸ばして下さり、親しく備後國分寺に滞在、檀信徒向けに講演までして下さった。また2012年にはサンジャイ理事長を伴い来日して高野山、総持寺に参詣された。

 後藤師創立の法輪精舎中学校からインターカレッジまで学んだサントーシュ・クマール氏は「グルジー後藤先生は2016年11月23日に遷化。師はその人生のすべてをベナレスのすべての人々に仏教と教育を広めるために捧げられました。師は偉大なる教師でありました。私が今日あるのはすべて師から受けた恵みのお蔭であります。師は以前から体調が良くありませんでした。最後お会いしたのは今年の8月のこととでありましたが、その時体調が良かったのか師の笑ったお顔に触れ、それだけで私をとても幸せな気持ちにさせてくれました。ここに御霊の安からんことを祈ります」と11月24日フェイスブックに追悼文を寄せた。

 このように後藤師は、たくさんの方々に寄付を募り功徳を積ませたが、それを基にインドの多くの子供たちに学ぶことの大切さ楽しさを授けることに成功した。サールナートという仏教発祥の地ともいえる初転法輪の聖地近くに、宗教を問わず貧富にかかわらず誰もが学べる立派な学校を布施した後藤師は一人の仏教徒として正に最高の功徳主であると言えよう。筆者も生前にご高誼を賜り、そのお蔭で私の今があります。深く感謝し追悼といたします。合掌


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タイ上座仏教長老・チンナワンソ・藤川清弘和尚追悼

2010年02月28日 19時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他

藤川和尚を支援する『オモロイ坊主を囲む会』のホームページからの貼り付け。

『~藤川和尚のこと~ (2010年2月24日)2010年2月24日午前0時過ぎ、娘さん家族、息子さんに見守られる中、 藤川和尚が永眠されました。享年68歳。先週金曜日19日の夕方、意識不明となり救急車で病院へ。脳の血管が大きく破裂しておりました。胃がん、糖尿病、帯状疱疹の後遺症の激痛、白内障などで、 後半はかなりつらいご様子でした。ご本人の遺言で、葬儀告別式は行われず、近親者の方々のみで荼毘に付されます。どうぞ、ご理解頂けますようお願い申し上げます。後日、オモロイ坊主をしのぶ会を、賑やかに行う予定です。追ってご案内申し上げます。福本@世話人会』

突然のことで何がどうなっていたのか分からないままに、ただこの事実だけを知り書いています。数年前までここ國分寺にもお越し下さり、「タイの僧侶と語る会」を四度企画させていただいた。その後は御無沙汰をして特に日本にお帰りになられてからは連絡も満足に取っていなかったことが悔やまれる。いつも元気に明るく賑やかなお方だっただけにお体がそんなに病んでいるとはつゆ知らず、数々の恩義に何のお礼も出来ずに亡くなられてしまったことが、ただただ残念でならない。

そもそも藤川和尚とのご縁は、いまから16年前に遡る。平成5年、私はインド・ベナレスのサンスクリット大学に留学し、ベンガル仏教会の比丘としてサールナート法輪精舎で1年間を過ごしていたが、翌年無料中学の寄付集めのために日本に一時帰国した際に、確か銀座線の赤坂駅ホームで南方上座仏教の黄衣姿同士で、藤川和尚と出会ったのだった。

親しく話しかけられ、名刺を一枚頂戴した。50を過ぎてタイで出家されたと伺った。バブルで儲けてタイにショッピングセンターを作っていたが、ひょんなきっかけから一時出家したら、やみつきになったと語られた。同じ位のお年の方二人と一緒だった。それは、ほんの数分の邂逅で、強く印象に残ることはなかった。その後お互いに連絡することもなく会うこともなかった。私はその年の暮れにはインドに戻る予定でいたが、丁度ペストがインドで流行し躊躇していた。そうしたら翌年1月17日に阪神大震災に見舞われ、私は現地でボランティア活動に邁進した。

ようやくその年の6月頃、雨安居のためにインドへ向けて飛ぶために成田に向かった。日本では東京早稲田の放生寺様に居候をさせて頂き細々と暮らしていたので、最低価格のチケットでカルカッタに向かうことになった。ビーマン・バングラディシュだったと記憶している。一目で宗教者と分かる出で立ちだったからであろうか、翼の前辺りの窓際の席だった。荷物を置き座って横を見ると、なんと藤川和尚が同じ座席番号の逆サイドの位置に座られていた。

二人で顔を見合わせ苦笑いをした。安いチケットだから、直接バンコクには向かわない。マニラ経由でそれも3時間ほどもトランジットがあった。二人とも機内から出てマニラ空港内をゆきつ戻りつ、ずっと二人で日本の仏教について、またそれぞれの国の仏教について語り合った。傍目にはおそらく日本人とは思われなかったであろう。裸足にサンダル、黄色い薄汚れた袈裟、頭は坊主、顔色も浅黒いときては日本人とわかる要素は皆無だった。

ただ話している言葉が日本語で、一人は日本人離れした大きな体格なのに訛りの強い京都弁だということくらいだろう。その時にも藤川和尚の日本の若者たちを仏教者が何とかしなくてはという気概を強く感じ、私には自分の古傷を探られているかのような居心地の悪さを感じた。それはその前に経験していた日本の僧侶としての数年間に何もそのような活動をしていなかったことに対する不明に恥じる気持ちがあったからだろう。

その後2年ほどして私は、日本の僧侶に復帰して東京深川の冬木弁天堂に堂守として3年ほど過ごした間に大法輪に掲載した記事をご覧下さり便りを頂いたように思う。一度くらいお訪ねを頂いたようにも記憶している。そして平成12年に私がこの國分寺に入寺した翌年だっただろうか、藤川和尚がタイから帰られて、四国八拾八カ所を歩いて遍路された。その帰りに疲れを癒されるために一週間ほどここ國分寺に逗留された。

かなりきつい旅になったようで、それぞれの札所でのイヤな思いを語られた。ある札所の通夜堂で寝ていたら警官がやってきて、「どこの人間や、不審なもんが居ると通報があった、パスポートを見せろ」と言われたと言っていた。何で日本人が母国でパスポートを出せと言われなあかんのか分からんと憤慨されていた。行く札所行く札所で、ぞんざいな扱いを受けられたようだった。気の毒なことだったと思った。黒い地下足袋を履いて、重い荷物を持ってそれはご苦労な歩き遍路旅であったのだろうと思う。

その年からだっただろうか、毎年のように5月頃日本に帰られるとこちらにお寄り下さった。若いタイ比丘を伴ってこられた年に、檀家さん方を中心に開いている仏教懇話会の特別企画として「タイの僧侶と語る会」と銘打って講演会を催させていただいた。タイのお寺での日常、それと対照的な日本のお寺のあり方などにも痛烈な批判を述べられたことを記憶している。

それからはミャンマーで藤川和尚が支援しているメッティーラ日本語学校のマンゲさんや学校長のススマーさんを伴ってこられ、ご講演と彼女らからミャンマー仏教徒の心得やミャンマー語の手解きなどを皆さんで伺ったこともあった。その間に藤川和尚は、藤川和尚を激賞され引き立てられた弁護士の遠藤誠氏が亡くなったときに急遽招聘されて葬儀に立ち会われたときのご縁からだっただろうか『オモロイ坊主になってもうた』という著作を出版された。

過去の人間藤川和尚の半生を綴った稀有なというか正に赤裸々な内容の著作に戸惑う人もあったかも知れないが、和尚にはこれを書かずしては逆に袈裟を着ていることが恥ずかしく思われたのかも知れない。それだけ潔白な方であったのであろう。ごまかし無くお釈迦様への思いを語るためには必要な過程だったのだと思う。

その後もアジアの仏教国を旅しての紀行記を著したり、BSのテレビで企画されたやはりアジアの仏教国を旅した様子を収録し放映されたこともあった。さらには北朝鮮にジャーナリストを伴って行かれ、仏教寺院を訪ねて僧侶にインタビューした様子がニュースで放映されたこともあった。彼らにはブッダよりも将軍様が大切なんだと情けなさそうに笑って話しておられたのを今も思い出す。

おそらく南方上座部の袈裟を纏っているからこそ出来た稀有なそれらの記録は、本当は誠に貴重なもので、他の人が決して真似の出来るものではなかったであろう。藤川和尚の行動力と何ものにも物怖じしない強さ、比丘としての気概、俺がやらずして誰がやるという強い思いがなさしめたものであったろうと思う。

タイにおられて気候のこと、食べ物のこと、言葉の不自由さもあり、やはり体調の優れないこともあったであろう。タイの人々に食べさせて貰ってお世話になっている、また一人日本人だからと良くしてもらうことに引け目もあったであろう、僧院の汚れたままに放置されていたトイレを一生懸命一人掃除したという。はじめはみんな比丘がそんなことをとバカにしていたが、そのうちみんながやり出して、今ではいつもトイレが綺麗なのだと誇らしげに語られていた。

3年ほど前に日本にお帰りになり大久保の一室で活動をなさっておられた。その数年前から藤川和尚の活動を助けておられた『オモロイ坊主を囲む会』の皆さんが支援して、活発な活動を展開されていた。講演会に瞑想会。BOSEバーでの若い人たちとの語らい。おそらく何の堅苦しさもなく、訛りのある言葉で話す藤川和尚に癒され救われた人たちはどれほどあっただろうか。

若い日に無茶をして警察に世話になり、大きくなっても決して堅気な生活をしていなかった和尚がお釈迦様に惚れて惚れて惚れ抜いて、真面目にお釈迦様の言葉を語る。それは誰よりも悩みを抱える人たちの心にストレートに染みいる癒しとなったであろう。そんな人はもう出てこないだろう。何もかも捨ててきたからこそあれだけの行動力、説得力、思いやりがあった。まだまだ活動をされて行かれるものと思っていた。

3年前日本にお帰りになったとメールを頂戴したとき、私も藤川和尚に負けないよう自分の道を歩みたいと返事をしてしまっていた。だからなかなかメールで気軽に様子することも出来なくなったと弁解させて下さい。あなたにもっとお越しいただけば良かったと今になって後悔します。誠に残念でなりません。来世では、きっともっとブッダのおそば近くに感じられるところにお生まれになられることと固く信じ、すばらしい価値のある一生を全うされたことを祝福させて頂きます。本当にご苦労さまでした。そして、ご厚誼を賜り本当に有り難う御座いました。合掌


因みに、参考までに。「タイの僧侶と語る会3」の様子は下記にてご覧下さい。

http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/14947b79aa03016ba3e1722d21663d98

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正月から善業功徳を積む-冬木弁天堂の思い出

2010年01月14日 17時15分19秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
正月、皆様はどこぞやに初詣に出られたであろうか。この辺りだと、広島県福山市・草戸稲荷、岡山の最上稲荷に出かけた人が多いという。草戸稲荷の隣には明王院という国宝の金堂に五重塔のある福山きっての名刹があるのに、こちらに参る人はごく一部の篤信家に限られているらしい。なぜか福山の人たちはお寺があまり好きではないようだ。

ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂にいた。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られた。冬木弁天堂は当時は、正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織で睦み会の人たちが大勢お手伝いに来られていた。年末には大掃除をして正月の飾り付けをして、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をする。

晩の11時頃になるとそろそろと初詣のお参りの方たちが来出す。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教えるおじいさんもいた。色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いてあげていた。

昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯にるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれてしまうこともあった。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣入りの肌守りも人気があった。弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されている。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録だ。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていた。

今では数えるほどしか門仲には芸者さんもいないが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町やらからお参りになる芸者さんがあったので、少し前にはかなり方々から芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(男芸者)さんがお参りにこられていたようだ。

弁天様は、もとはインドの神サラスワティといい、河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽の神ともなり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなった。だから弁財天。だが元は辯才天と書いたもののようだ。インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところもある。

日本三弁天の筆頭・厳島神社もその一つで、そもそもの本尊様は大願寺に今では祀られている。琵琶湖に浮かぶ竹生島弁天も宝厳寺に祀られている。この後に書く江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になっている。

冬木弁天堂はもともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人だった。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家では茶の湯を嗜み、尾形光琳のパトロンとして、また後には乾山をも支援した。光琳が筆をとった国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたもので現在国立博物館に収蔵されている。

この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われる。いまも裸の上に白衣着物をお召しになっているが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像である。この正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳の日に行われる大祭の時だけご開帳されていた。

大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこられていた。当日は、沢山の近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院御住職がお越しになり息災護摩が焚かれ、読経。講元の、当時は渡辺さんという元建具師の方が講元をされていて、老齢をおしてお申し込みの家内安全祈願などの護摩札を火にあぶっていた。

終わると、賑やかに会食が始まる。下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いた。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がる。大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていた。

もちろん何もない時期にも毎朝お参りにられる人もあるし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、迎えにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていた。毎日お参りに来られるおばあさんがあり、あるとき、毎日何を拝んでいるのと尋ねたことがあった。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれた。

で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。東京の下町で狭い中に二世帯が暮らすのだから、それはいろいろあるだろう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったそのおばあさんに、「最近はどうですか」と水を向けると。

「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね、その後、私も気をよくして、買い物に出たとき、ちょっとした甘いものを上げたりしてたら、今までと違う雰囲気になってさ。ついこの間お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったわよ。でも、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・でも、結局お金払わされて帰ってきたわ。」(笑)

「それでもいいじゃないですか、ご飯一緒に食べるのが家族と言いますから、若い人から認められるというのもおかしな話ですけど、近くに感じられるようになっただけでも」そんな話を今でも記憶している。お釈迦様は、在家者への説法の時には施論戒論生天論を語られたという。施論は施し、戒論は戒律を守る規則正しい生活、生天論は、そうすれば死後天界に生まれるということだが、ここでの施論は、施しをするというよりも、拝んだり、お祭りをすることよりも実務的実用的な良いことをしなさいということだろう。そうすればよいことがあると。良いことをしたら必ず結果が返ってくる。善業には善果がともなうということだ。

お参りに来られる人の中には、沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもあった。もちろん悪くなる前におろしてセッセと頂戴したが、少ない手当の身にはことのほかありがたく思われた。おそらくその後御供えした方にはよいことがあったであろう。

冬木家も自分のためだけでなく将来のある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店が多かったのに何代にもわたって身代を相続して江戸末期まで存続できた。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れる。因果応報、何事も自業自得の世の中。今年も正月から良いことをするとしよう。

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ネパール巡礼・七

2009年11月07日 08時32分40秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(1995.10.11~10.26~)

十月二十六日、一週間お世話になったサールナート法輪精舎の後藤師に別れを告げた。「カルカッタのバンテーによろしく言って下さい」と言われたのだったか。とにかく余り別れに執拗にものを言われない方なので、あっさりしたものだったことを記憶している。それは居なくなった後の寂しさをよく知っているからなのだろう。

お寺で部屋の片付けをしているとクリシュナさんがやってきて、オートバイで駅まで送ってくれるという。ベナレスから東に十七キロほどの所にあるムガール・サライという幹線列車の発着駅に向かう。

この一年半前、サールナートのこの法輪精舎で過ごし、大学に通ったり、お寺の無料中学が発足したり、出入りするインドの少年達と付き合い、また後藤師と暮らした一年間に一応のピリオドを付けて日本に帰ろうというとき、その時もクリシュナさんが駅まで送ってくれたことを思い出す。

ただその時は路線バスでであった。ムガール・サライ発カルカッタ、ハウラー駅行きの列車に乗るべく二時間前にお寺を後にしたのだが、バスでまずベナレスに出て、ムガール・サライ行きの別のバスに乗り換えたあたりから車が混み出し、車線も描かれていない道路なので後ろの車が右車線から前に出て、対向車もまた左に出てしまい双方がにらみ合う、インドではよく目にする最悪の事態になってしまった。そして、とうとう止まってしまって動かなくなってから警察官が来たが、どうともしようがない。

そこでバスを降りて、脇を通り過ぎていくオートバイを止めて、後部座席に私だけ乗せてもらい先に進んだ。ところが、駅の手前でそのオートバイも行き先が違うとのことで降ろされ、近くにいたオートリキシャに乗り継ぎ何とか発車十分前にホームに駆け込み、予約した座席を探し、乗り込むことが出来た。ゆるゆると列車が動き出した頃、やっとクリシュナさんが窓の前までやってきて手を振ったことを思い出す。しかし、この時は初めからオートバイだったので、何の心配もなく時間通りに駅に辿り着いた。

二等寝台で夜を過ごし、翌朝早くに到着。カルカッタの玄関駅ハウラー駅では両手に荷物を抱えているのに、ちっとも私にはクリーやタクシーの呼び込みが寄ってこない。大きな麻袋を二つ両手に持って頭陀袋を肩に掛け黄色い袈裟をまとった、見るからに貧乏な坊さんといった風体なのだから仕方がない。いつものように地下を通りフェリー乗り場に。朝の涼しげな風を額に感じつつ薄茶色のフーグリー河を眺める。周りはきちんとシャツを着込んだ人が多い。カルカッタの中心部ダルハウジー広場周辺で働くビジネスマンだろうか。

歩いてベンガル仏教会本部僧院に向かう。時折しも安居開けの一大イベント、カティナ・ダーナの期間中ということもあり、寺内は騒然としていた。そんな中、早速総長ダルマパル・バンテーの部屋を訪ね、ルンビニーの建設現場の様子、カトマンドゥのルンビニー開発トラスト事務所でのこと、またサールナートの法輪精舎の学校運営状況などを報告し、預かったベンガル仏教会のお金の精算書を提出し、決済を受けた。

私自身は、ルンビニーの個々のお寺の建設はさておき、全体計画の遅々とも進まない進捗状況に疑問を持っていたが、バンテーはただルンビニーに伽藍を建設するのに日本の縁故者たちがこの度も何とかしてくれるはずだという信念をもっておられるようだった。

ルンビニーに行くときからうすうす予感してはいたのだが、バンテーは「私の代わりに日本に行って、お釈迦様の生誕地ルンビニーにベンガル仏教会がインドを代表して伽藍を作る計画に、是非寄付してくれるように話をするため縁故者たちの所へ行くように」と命じられた。

それからは毎日のように顔を合わせればルンビニーの話だった。「この伽藍が完成したならば、お前はお釈迦様に祝福されて大変な功徳を手にするだろう」という話や、寄付をお願いする人たちのリストを何度も書き換えてはその人たちとの交際について話された。

また、忙しい行事の合間に、建設予定の伽藍を設計した設計士事務所まで私を連れて行き、建設費用の詳細を詰めたり、「日本の兄弟達に向けて」と題する英訳の寄附勧進の嘆願書を作られた、さらには、代理として寄付を募る私を紹介する文章まで用意された。

その年の暮れ帰国した私は、英文の寄付嘆願書やバンテーの履歴書、設計の概要、建設費用の概算表を一応和訳しワープロ打ちして、バンテーが言われた日本の縁故者一人一人に連絡し、会える人には会い寄付をお願いした。

ある宗派の本山に出向いたり、若かりし日にインドに留学していた学僧に面会するために、ある大学の学長室にまでお訪ねしたこともあった。また、お会いできず電話で詳細を申し上げて意向を伺った方もあった。

しかしながら、残念なことに時すでにバブルがはじけ景気の後退期にあり、総額二億円を超える寄付額の大きさに誰もが驚き、前向きの返事を返してくれる人はいなかった。またバンテー自身も高齢になり、ルンビニーがカルカッタから遙か遠くに位置するということも寄付に前向きになれない一因であった。

三ヶ月ほど寄付勧誘に明け暮れた末、この度の寄付嘆願に対する一人一人の反応返答を記した上で、残念ながらこの度は日本からの寄付は期待できないとする結論を英文の手紙にしたため、この仕事の一応の締めくくりとさせていただいた。

その後バンテーは台湾の仏教界と接触し、そこから寄付を引き出されることをお考えになった時期もあったようだが、結局この計画は完遂することなく沙汰止みとなり、借りた土地も返却することになった。

その年、カルカッタに伺った際には、一切このルンビニーの話をバンテーはなさらなかった。もう別のことに関心が移ったということだったのか、もう私には期待しないということだったのかはよく分からない。いずれにせよ、その時は別に建設が進んでいたラージギールの寺院のことに関心が集中していたようだ。

そしてこの時、南方の上座部で受戒して三年が経っていた私は、カルカッタにいて二度マラリヤに罹りこのまま過ごす難しさを思い、また日本に滞在する間の戒律を守れないもどかしさもあって、捨戒(上座部の戒律を捨て黄衣を脱ぐこと)することに踏み切った。

こう考えさせられたきっかけは、東京で外出しているとき、何度かミャンマー人やタイ人から道端で突然跪かれ、お布施を頂戴したことにあった。十分に戒律を守れず、かつ修道生活を送っている訳でもない自分が、わざわざ不法就労してまで日本に来ている人からお布施を賜る居心地の悪さを感じたからであった。

さらにはそれが契機となり、自分はやはり日本人なのにこんな格好で気取っていて良いのか、という気持ちをもつようにもなっていた。何か日本ですべき事があるのではないか。私のような紆余曲折をしたればこそ役に立つこともあろう、とも思えた。今思えば、その選択は年齢からしてその時が限界だったのかもしれない。御陰様で今日があるのだと思う。

それはともかくとして、ルンビニーのその後について一言しておこう。私が訪問したとき解体調査中であったマヤ夫人堂は、日本仏教会による調査が済み、きれいに復元再建された。建設途中だったベトナム僧院は三重の鳥居風の門に重層の本堂がある立派な寺院となった。また中国寺ではまるで東大寺大仏殿のような本堂が完成している。日本山妙法寺でも立派な世界平和パゴダと僧院が出来上がった。

しかし、やはり全体的にはまだ広大な計画の半分も済んでいないのではないだろうか。ネパールは現在、王室の悲惨な事件や国王によるクーデター等で政治的混乱状態にあり、益々ルンビニー開発計画は停滞を余儀なくされそうである。

ともあれ、こうしてネパールにおいて南方上座部の比丘なればこそ出来た貴重な体験をここに綴ることができた。記憶が薄れ思い出せなくなる前に書き残すことができたことに安堵している。他国の仏教徒の行状から、読んで下さった皆様が何かしら学ぶべきものがあったと念じたい。 終 

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ネパール巡礼・六

2009年10月27日 06時44分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(1995.10.11~10.26)

十月十九日、この日もカティナ・チーバラ・ダーン(功徳衣の供養会)に出かけた。昨日はカトマンドゥーの町中での供養だったが、今日は、パタンというカトマンドゥーからバスに乗って南に出た町。三世紀ごろから続く仏教徒の町で、仏像制作など工芸の町としても知られている。

アーナンダ・クティ・ビハールの数人の比丘たちとともに小一時間ほどバスに揺られた。パタン中心部に着き、そこから歩いてスマンガラ・ビハールというお寺に入った。もう既に三十人ほどの比丘たちが屋外のステージを囲むように作られた座席に腰掛けていた。私たちもその列に入り込む。長老方は正面のステージに用意された座席に向かわれた。在家の信者さんたちもぞろぞろと集まり、ステージ前に敷かれた敷物にじかに座っていく。

十時頃からここでもやはり長々と法話があった。有名なヴィシュワシャンティ・ビハールのニャーナプニカ長老の法話であった。気がつくと近くの席にスガタムニ師の姿もある。法話が終わって、カティナ衣の儀礼が済むと、食堂に案内され、スガタムニ師の隣で食事をいただいた。スガタムニ師はここでも七年ほど暮らしていたことがあると言っていた。この日は、昨日のように何人もの信者さん方から直接お布施をいただくのではなく、会場の関係からか、食事の後に小さな封筒に入れて一人一人に手渡された。

その後、アーナンダ・クティの比丘たちといったんお寺に戻り、午後休息をとってから、明日にはベナレスに飛ばねばならないため、カルカッタや日本の人たち向けにお土産を買うためバザールに向かった。

スワヤンブナートからアサンに向かう。何度も歩いて通った道なので、随分昔から居るような錯覚さえ憶える。バザールには、白い外国人に混じってアジアからの旅行者も多かった。二階建て程度の間口の狭い店が建ち並び、日本で言えば上野のアメ横商店街のような雰囲気。毛の敷物と綿のバック、それにろうけつ染めの仏陀像、お茶、それと現地のタバコなどを買い込む。

翌十月二十日、朝の軽食の後それぞれの比丘と別れを告げる。六日ばかりしか居なかったのに、みんな私との別れを惜しんで、紙に自分の名前と住所、大学名などをデーヴァナーガリー文字で書いてくれた。最後に住職のマハーナーマ大長老のところで三百ルピーのドネーション(寄附)をさせていただき、先代アニルッダ大長老にも挨拶に行った。ネパール語の自著とヒンディ語の仏教書を頂戴した。「また来なさい」と皆さんに言われ、「はい」と調子よく答えたものの、結局これまでに手紙一つ出しただけである。

十時にお寺を出る。スワヤンブナートから、乗り合いタクシーで町の中心部まで出て、そこからリキシャで空港へ向かう。やはりカトマンドゥ空港の記憶が欠落しているのだが、とにかく十一時五十五分発ベナレス行きインディアン・エアラインズに乗りこんだ。

小一時間でベナレスへ。インドへ戻ったという安堵の気持ちと何にも変わらないという気抜けした感覚を覚えた。それだけインドとネパールというのは文化的に同化しているとも言えるのかもしれない。

鉄道の駅よりもこぢんまりした、全体を黄色く塗られた空港からバスで街に向かう。裁判所が近くにあり、裁判という意味のムカドマと言われている地区まで出て、そこからオートリキシャでサールナートに向かった。

サールナートのチベット研究所隣の法輪精舎前でリキシャを降りる。正式名は、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎。ここの住職をつとめる後藤恵照師は、テラスで椅子に座り日本茶をすすっていた。

後藤師との出会いは、この時より三年前にさかのぼる。二度目のインド巡礼の折に立ち寄った際、十三世紀に仏教が消滅したとされていたインドに細々とその後も仏教徒が生き続けていたことを教えてくださった。その話は、現代インドには見るべき仏教はないと思っていた私には衝撃的だった。それは、私にとってのインドに対する思いが沸騰した瞬間でもあった。この後藤師との出会いがなかったなら、私はインドで坊さんにはなっていなかっただろうし、留学もしていなかった。

このときも後藤師は、相変わらず昼間はサールナートで寄附の勧募と無料中学校の運営、それに夕方からはサンスクリット大学の日本語教官として孤軍奮闘していた。バブルの崩壊からインド仏蹟巡拝ツアーの熱も冷め、日本人旅行者が激減し、寄附が滞っていることを懸念されていた。しかしその分とまではいかないものの台湾や韓国の仏教徒から定期的に寄附をいただくようになったり、日本のそれまで一つだった支援者の集まりが何カ所か増えて、ありがたいことだと言われていた。

そしてこの頃やっと新たに購入した土地に、校舎を建設するべく起工式を計画するまでこぎつけていた。この時既に在印十五年、一度も日本に帰らずインド国籍を申請していた。私がいた頃から申請していたのだが、その都度、間に入った人たちにリベートを騙し取られたと嘆いていた。この地で学校を作り骨を埋めるつもりでいる。

一年前まで一年あまり過ごした同じ部屋に、私は宿泊した。私が来ていることを聞きつけたアショカ王の子孫・モウリア族の若者たちが毎日のように顔をのぞかせる。細い高校生だった子供たちがみんな私よりも遙かに背も高く体格も立派になって口の上には髭まで蓄えている。

通りで店を経営していたサンジャイはここの学校の理事長として町の若者たちのとりまとめ役になっていた。バラナシサリーの絹糸を製造し、日本語を勉強に来ていたクリシュナさんは、ホンダのバイクでやってきて、私を自宅まで連れて行き夕食をご馳走してくれた。育ちの良い本当に優しいモウリアの人たちだ。

またお寺ではこの頃、モウリアの人たちがチューションスクールといわれる予備校を開校し境内を仮校舎として使用していたり、学校の生徒の制服を作っていたテイラーが門番兼寺男として常駐していたり、丸一年ぶりで来たので、お寺の様子もそれぞれに変化しているようだった。

後藤師は、私が行くと、自分の後のことをよく口にされた。何もかもこの寺につぎ込んできて学校まで作ったものの、そのあとが続かなくなっては元も子もない。本来お寺の檀那であるべき、ベナレスに住むベンガル仏教徒数家族たちとは余り良い関係にはなかった。私がいる頃も何度かたまにお詣りに来ていたが、お詣りするというよりは様子をうかがいに来たという感じで、少し話をして帰って行った。

その代わりに、実際毎日後藤師の昼食にと、金属製の段重ねになった弁当箱を持ってくるのはモウリアの子供たちだった。だから思いの違う人たちに乗っ取られ建学の趣旨を変えられてしまうよりは、自分が育てた子供たちモウリアの人たちに後を引き継ぎたい。出来ればお寺も仏教大学併設ということで学校に寄附してしまうか、もしくは、学校は他の大学の姉妹校ということにしておけば、何とかそのまま残るだろうか、などと思案されていた。 

それから十年。音信不通の間に後藤師は在印二十五年ほどにしてやっとの事インド国籍を取得し、今年三月来日された。昭和八年生まれだから七十二才になる。が、真っ黒に日焼けした健康そうなお姿からその年齢をうかがい知ることはできなかった。今では中学高校の上に、念願かなって文科系大学を併設するまでになった。

サールナートには、この時結局一週間お世話になった。サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパ(塔)前の木陰でゆっくり瞑想したり、野生司香雪画伯の壁画で有名なムルガンダクティ・ビハールへお詣りした。また、昔を思い出して遺跡公園で旅行者に声を掛けたりして日が過ぎていった。

カルカッタへ戻る日が近づいてきて、一日ゆっくりベナレスの町まで出掛け、街の中心部ラフラビルから旧市街チョーク地区を歩く。飲食店があったり、病院があったりする中に書店が何店舗かある。目指すはモティラル・バナーラシダースという出版社。

そこで、ロンドンのパーリ・テキスト・ソサエティが一九二〇年代に出版した仏教語パーリ語の今でも最も権威のあるパ英辞典を買った。もっともその再版である。一九九三年にこのインドの出版社が再版権を取得し四百五十ルピーで販売している。A4版で七八三ページもあって重い。

ここで、ロンドンで仏教語辞書の出版?と思われる方もあるかもしれない。しかし実は日本の近代における仏教研究はヨーロッパから入ってきた。明治の学僧がロンドンやパリに行って学び持ち帰ったものだ。

それに先立つ西洋人による仏教研究は、インド、セイロンなどへ十七世紀以降交易から入植し植民地経営をする中で官吏や宣教師が現地の宗教、風俗、習慣、法律を知るために史書などを研究翻訳することから始まった。英国人、フランス人らによってパーリ語の史書や仏典が研究され、辞書などが出版されていったのだった。

サールナートを去る前日、サンジャイの店で、線香やカレー料理に欠かせないマサラ(調合された香辛料)を沢山買い込んで数冊の本や辞書などと共に、ベナレスの郵便局から日本に発送した。 つづく       

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ネパール巡礼・五

2009年09月22日 17時46分54秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年十月十八日、九時頃歩いて街に向かう。カトマンドゥー中心部のチェットラパティとアサンの間に位置するスィーガーストゥーパを目指す。そこでカティナ・ダーナという仏教行事が行われるという。歩いていると大きなスピーカーの声が聞こえてきた。何やら演説でもしているようだ。

この一年前のことではあるが、インドのサールナートにいたとき、通っていたベナレスの大学でお釈迦様のお祭りがあるから来いと教授に言われ、行ったことがあった。その頃には既に日常会話程度ではあるが、だいぶヒンディ語が分かるようになっていた頃だった。ところがそのお祭りで話す講演の内容が、まったくと言っていいほど聞き取れなかったことを思い出す。壇に立ち、マイクに向かってがなり立てるように、また抑揚をつけて勢いよく早口でしゃべる演説口調には、ほとほと困り果てたものだった。

このときも、ブッダ、プンニャ、ダーナー、シーラー、そんな聞き慣れたパーリ語の仏教用語が飛び交っていた。だが勿論そのときは、ネパール語でのお説教であったから内容が分からないのは当然のことだった。声の方向に白い大きな塔が見えた。

上の方は日本で言えば法輪、それは鮮やかな金色に塗られ、それから下の塔部分は白い。塔部分は上が四角でその下は半円状に太くなっているだけだ。その塔の前に大きなテントが何枚も張られ二、三百人の信者が敷物を敷いてじかに座っている。

みんな白い衣装を身につけている。男の人たちは白いシャツに白いズボン、それに毛のベスト。女性陣はみんな白いサリーだ。日本では仏事にはどういう訳か黒を身につける。僧侶も法会では紫など色衣を用いるが、平素は黒の改良衣を多用する。インドなどへ黒の法衣で来てしまう日本僧侶を目にして、現地の人がイスラム教の人たちかと間違えたという笑えない話も聞く。やはり在家信者は白。僧侶は黄色から茶系の袈裟というのが世界の仏教徒の常識だ。

そのテントの最前部には十人ばかりの老僧方が椅子に座り、その中の一人が先ほどから法話をしていたようだ。近くに来てみると、一昨日お会いしたアシュワゴーシュ長老だった。よどみなく話す言葉には迫力があった。

そこは塔を中心にして七、八十メートル四方の広場になっていて、周りの三方の三、四階建ての建物の壁下に設えられた窪みに比丘(南方仏教の僧侶)たちが座っていた。私もその中に加えてもらい座る。

カティナ・ダーナは、安居開けの比丘たちに一年一度新しい袈裟を施すとても大事な行事だ。南方の仏教では今でも、雨期の三ヶ月間、およそ七月の満月の次の日から十月の満月の日まで僧院の中で外泊せず勉学修行に励む雨安居を行う。カティナ・ダーナは、五月の満月に行われるブッダ・ジャヤンティというお釈迦様のお祭りと対をなす仏教徒にとっての一大イベントでもある。

因みにブッダ・ジャヤンティは、生誕祭と成道祭と入滅祭をあわせ行うお釈迦様の日。私たちはお釈迦様のお生まれになったのは四月八日、悟られたのは十二月の八日、そして亡くなられたのは二月十五日と思っているが、南方の仏教では、お釈迦様はこの同じ日に生まれ悟り亡くなったと信じられている。

いつ終わるとも知れない説法は結局その後一時間半ほど続いた。勿論他の長老方の説法の他、在家信者らの話もあった。その間にぞろぞろと比丘衆が勢揃いして広場の周りの壁には隙間が無くなっていた。途中で昨日お訪ねしたバスンダラ寺の住職スガタムニ師と九十五才になる比丘も来られて私の隣に座られた。

総勢百五、六十人はいただろうか。その中には女性の出家者であるアナガリカと言われる人たちもいて、ピンク色の布をまとって参加していた。

法話が終わるとおもむろにそれまで静かに座っていた信者たちが立ち上がり、周りの建物にそって座る比丘衆一人一人に施しをして歩いた。静かにぬかずいて両手でお金や食べ物を差し出す。信者の列は止めどもなく続いた。その光景を初めて見た私は、それはとても信じられないような荘厳なものであった。  

ネパールの仏教会に属している訳でもない。インド比丘とは言え、ただの旅行者の私がこのような場にいて良いのだろうかとも思えた。スガタムニ師に「私がここにいてもいいものだろうか」と問いかけると、「いいんだ、座れ座れ」と言って笑っている。「おまえはそうやって彼らに功徳をあげるんだから、いいんだよ」と言う。

そんなものだろうかとも思えたが、何か悪い気がして居心地の悪さを感じていた。それほどまでに、布施する信者たちの気持ちが誠に純真なものに思えた。

みんな小銭ではあるけれども二十五パイサから二十ルピーもの布施をされる。その上お米や飴玉などを入れていく。ネパールルピーだから、通貨換算すれば五十銭から三十円といったところなのだが、一人一人には少額かも知れないが、それを全員に施す側にとったら結構な出費になるのではないか。

日本のタクシーとこちらのオートバイの後ろに座席を付けたようなリキシャとを簡単に比較は出来ないが、タクシーが千円以上もかかりそうな距離をこちらでは三十円で行けてしまう。単純に計算すれば三十分の一の物価水準ということだろうか。つまりは、生活感覚で言えば、差し出した額の三十倍程の価値がある。

私たちの感覚だと、一人当たり十五円から千円程度の布施を百五十人もの坊さんにささげたということになるのだろうか。一人一人に千円もの布施をした人は、それだけで十五万円もの布施を一度にしたことになる。一年一度の大切な法会だとはいえ大変なことに思えた。そんなことを考えながら無言で布施を受けた。

比丘たちは誰一人として布施を受けるときに頭を下げる者はいない。自然に私もそのままの姿勢で頂戴していた。僧侶が托鉢して頭を下げるのは日本くらいのものだろう。どの国でも托鉢する僧侶が頭を下げたりしない。布施を頂戴する代わりに功徳を授けている。そう考えるからとも言われるが、それよりもやはり立場の違いを厳然とわきまえているからとも思われる。

日本では、僧が在家者に対して合掌することは日常でも見かけられるが、南方の仏教国ではそのような光景を目にすることはない。インドのサールナートにある日本寺の本尊様は合掌した仏陀像なのだが、そうと分かると、せっかく来たのに礼拝もせずに帰ってしまう外国の仏教徒がいると聞いたことがある。

それなども、インド人の「ナマステ」と言いつつ合掌してなされる挨拶の意味するところが、その人の足もとにひざまずき御足を頂いてご機嫌をたずね、教えを乞うとの意味があるからであろう。お釈迦様は最高の悟りを得られた聖者であり、お釈迦様が合掌して教えを乞う人など無かったのであるから当然のことだと言える。

そして、南方仏教の比丘は、私たち在家の側からではなく、お釈迦様の側から私たちに対していることをこうしたことからも窺い知ることができる。だからお経を唱えるときも、仏像を前に在家者と同じ向きでお経を上げることはない。必ず仏像を背にして在家者に向かってお経を唱える。

お釈迦様の側にあるということはそれだけ大変な心構えが常に求められている。日常を戒律で規定され、お釈迦様の教えに生きている気概が問われる。

そして、とにかく大勢の信者たちの布施をいただき持ちきれなくなったお金や菓子類を頭陀袋に入れた。最後の信者から布施を頂戴した比丘から順に立ち上がりちょうど向かい側にある食堂の方向に向かい歩き出す。

私たちもその列に加わるが、まだ食事には時間があるようで、「マンディル(お堂)に行こう」とスガタムニ師に誘われ、食堂斜め前に建つ建物の二階に案内された。二十畳ほどの部屋の正面にお釈迦様が祀られていた。

三人で揃って床に額を着け礼拝する。それから三人で記念撮影。壁には沢山の額に入れられた長老比丘の写真が飾られていた。

するとその横の部屋でアシュワゴーシュ長老が法話を終えて休まれていた。迷わず入らせてもらい、一昨日からのお礼と用件が済んだことを申し述べた。すると「(ルンビニーに建てるインドのお寺の件だが)やはり四カロールは難しいんじゃないだろうか。一カロールで建てねば。まずゲストハウスを作って、それから少しずつ本堂を造るようにしたらいい」そんなアドバイスをいただいた。

長老が言われた一カロールとはインドルピー建てで一千万ルピーということだから、約三千万円。そうなのだ、この程度なら何とかなるかも知れないと思える。しかし計画では、四カロールとなっていた。四カロールとは一億二千万円。やはり途方もない金額だ。そう思えた。

そんな話をしていたら食事時間になり、呼ばれて食事会場に向かう。比丘全員がホールで食事をする。みんな言葉を発することなく黙々と料理を口に運ぶ。「たくさん食べて上げることが施す側への功徳となる」そう前に聞いたことがある。

また、「比丘は美味しそうに食事を腹一杯食べることが仕事だ。施してくれる在家信者たちにとってそれが功徳になる。だから腹を大きくしろ」そんなことを言われたことがある。

カルカッタでウパサンパダーという得度の儀式を経て晴れて南方仏教の比丘になったとき、その儀礼後の食事会場で、私と一緒にその日比丘になったボーディパーラという比丘が言った言葉だ。彼は今ではインドのブッダガヤの象徴である大塔を所有する寺院マハーボーディ寺の管長になっている。英語に堪能な秀才で、確かベンガル仏教会の創始者の家系であった。

そんなことを考えつつ、たくさんの在家信者たちがここでも忙しそうに給仕をしている姿を眺めた。そして、そのころに比べ、少しは大きくなった腹に右手ですくった料理を流し込んだ。

食後スガタムニ師らと重いお腹を抱えるように、ゆさゆさと街を歩きながらバススタンドに向かう。そして、バスンダラ行きのバスに乗った。

カトマンドゥーの環状道路を循環するバスに乗り合わせたため、途中白い雪をいただくヒマラヤを遠望することが出来た。カトマンドゥーからヒマラヤを見られるというのは旅行者にとったらそうそうあることではなく、何度来ても見られない人もあるらしい。

お寺に着いてから、私の頭陀袋の中にあったお布施をすべてスガタムニ師のお寺の建築費用に充ててもらうために寄附させていただいた。つづく

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ネパール巡礼・四

2009年08月27日 16時21分36秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年十月十六日(カトマンドゥー・アーナンダクティ・ビハール)、朝六時頃呼ばれて一階の食堂で朝食。ここでも変わらずカレーにチャパティ。最後にバター茶だろうか、チベット人が好むお茶をご馳走になる。総勢六人、薄暗い床に座っていた。老僧二人に学生のような若い坊さんが四人。本当に気のよさそうな人ばかり。

歩いて街に向かう。お寺を出て東に進むとスワヤンブナートという大きなチベット寺の山門に出る。チベット仏教のエンジの僧服を着た僧やら沢山の人だかりをすり抜けて、さらに東へ。

お寺や学校の前を通り、大きな河に出た。河ではちょうど染色した布を洗っているのか、大きな色鮮やかな布を広げている。その近くで食器を洗う人、衣類を洗う人、様々な人の営みを見下ろしながら橋を渡る。

その河を渡ってすぐ右側にある四階建ての新しいお寺、サンガーラーマ・ビハールを訪ねた。ここの住職アシュワゴーシュ長老は、政府の要人とも親しいとのことで、まず初めに訪問するようにと言われていた方だ。

訪問の要旨を出てきた坊さんに告げると、そのまま四階の長老の部屋に案内された。きれいに整理された部屋で、太った小柄な長老が大きなクッションに座っていた。床に額を着け三礼してから、カルカッタの弟子であること、この度のルンビニーのお寺の件でLDT(ルンビニー開発トラスト)の事務所に用事のあることを告げる。すると、もう政府が変わってしまって、自分もLDTの副議長職を離れたことなどを手短かに話された。

すぐに一人の坊さんを電話で呼び、「この人に案内させるから行きなさい、帰ってきたらここで一緒に食事をしていって下さい」と、お昼の心配までして下さった。時間を無駄にしない、用件だけを手早く片づける。それでいてそこに温かさが感じられる。

自分の力でこの寺を作り上げ、その時十人もの坊さんを住まわせ、比丘(びく)トレーニングセンターも運営されているということだったが、それだけの手腕があるのだろう。いかにも仕事が出来る人だな、と思わせる人だった。

電話で呼ばれて来てくれたサキャプトラ比丘とお寺を出て、タメル地区というリキシャなどの中継地区からオートリキシャに乗り込みディリ・バザールに向かう。サキャプトラ比丘は、途中何やら盛んにヒンディ語でまくし立ててくる。「おまえは不浄観をやったか」とか、「人を見るときどう見ているか」とか。とにかく真面目なのだ。

迷いながらもバザールから民家の並ぶ小道へ入り、「Lumbini.Development Trust.Kathmandu」と大きく書いてある木造二階建ての建物に入る。「理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏に会う為にカルカッタのベンガル仏教会から来たのですが」と申し出ると、二階に通された。昔の小学校のような細い板を貼り合わせた床にワックスという懐かしさを感じさせる部屋。その壁は、この二十年間作り続けてきたLDTのポスターが飾っていた。

黒いソファに身を沈めて、今にもお出ましかと思って様々言うべき事を反芻していると、しばらくしてから「今日は来ない」と言う。仕方なく明日出直すことを伝え、退散することにした。

また来た道をサキャプトラ比丘と引き返す。随分待たされたからだろうか、もう十一時を回っている。サンガーラーマ・ビハールでは数人のウパーサカ、ウパーシカと呼ばれる在家の男女の信者さんたちが腰巻きを膝まで上げて、忙しく比丘たちの昼食の準備をしていた。

私はしばらく比丘のたむろする部屋に案内され、カルカッタの様子などいくつかの質問を受けた。だが、彼らは私が何人なのかを問わなかった。だからこちらも日本人だとも言わず、自然にただカルカッタに暮らす一人の比丘として自然な応対をしてくれた。お陰で、日本はどんな国か、航空チケットはいくらか、招待してくれないかと言った余計なことに答えずに済んだ。

年長の比丘が何やらネパール語で話をしている間に時間となり食堂に案内された。有り難いことに何の縁故もなかったこのお寺でまるで自然にいつもここにいる人間に対するように給仕を受けた。

午後はバザールを覗く目的で、一人お寺を出て歩く途中、旅行社に立ち寄る。バラナシ行きの飛行機の料金を聞くだけのつもりが、店のお兄さんお姉さんが愛想良く受け答えをするので、ついつい四日後のフライトに予約を入れさせられてしまった。七一ドル。現地人価格だというが確かに安い。

ついでにそこから国際電話をカルカッタのバンテー(尊者の意、ここでは師匠のダルマパル総長のこと)に入れた。ここまでの簡単な報告のためだ。ルンビニーでのこと、ここカトマンドゥーでのことなど。結局バンテーは「アッチャー(よい、よろしい)」を連呼するだけで何も言われなかった。電話代が勿体ないと思われたのかもしれない。

古いバザールを通り、四キロほどの道のりを歩いてアーナンダ・クティ・ビハールに向かう。二三階建てのレンガ造りの店が建ち並ぶバザールは、日本のどこにでもかつてあった大きな寺院の参道にできた仲店といった風情。四つ角の広場には、三間四方程度のお堂があってヒンドゥー教の神様が祀られている。その前には移動式の棚の上に沢山の果物や乾物、お茶などを乗せて所狭しと、いくつもの店が出ていた。

昼間だというのに、そこに大勢の人がぶつかり合うように行き交うので、落ち着いて品物を手に取り思案することも出来ない。結局何も買わずにただ様子を見て歩くだけでお寺の近くまで戻ってきてしまった。大部人通りの少なくなった辺りで、線香と、下着を買った。

線香は部屋に染みついた、すえた臭いを消すためであり、下着は朝晩の冷え込みに体調を壊してはいけないと思われたからだ。本来比丘は中に着る物であっても袈裟の色である黄色から茶色系統の衣類しか認められていない。が、このときだけは染めるわけにもいかず、白いものを着込むことになった。

十月十七日、この日もLDTに行かねばならなかったのだが、午後の約束だったため、朝から歩いてタメル地区に出て、リキシャでバグ・バザールまで行ってもらった。そこにスマンガラ長老という日本の大正大学に留学していた方がおられると聞いていたのでお訪ねした。

バク・バザールを南側に路地を入る。しばらく行くとガラス張りのショーウインドウの中に仏さまを祀ったようなきれいな装飾を施した小さなお寺があった。門にはダルマ・チャクラ・ビハールとある。ダルマは法、チャクラとは車輪、ビハールは精舎という意味で、訳せば法輪精舎となる。私がかつてサールナートで世話になっていたお寺と同じ名だ。

親しみを憶え中に入り、ブッダ・ビハールはどちらかとお尋ねした。すると縁のないネパール帽をかぶってジャケットを着た初老の紳士が出てきて道案内をしてくれた。プレム・バードゥル・タンドゥカール氏という。スルスルと細い道を進み、路地の一番奥にブッダ・ビハールはあった。四階建ての大きな建物。ひと昔前の日本の高等学校を思わせる鉄筋の建物だ。

玄関を入って正面から階段を上がると、二階にスマンガラ長老はおられた。さすがにきれいな日本語で応対して下さった。もう七十才になろうかというお年。立正佼成会と孝道教団から今も寄附をもらっていると言う。学校と老人ホームを経営しているが、「お陰様でとても忙しいです」と言われた。

建物の様子もだが雰囲気が日本のようで、ネパールやインド特有のまったりした空気が希薄だ。瞑想センターもあるが活発とは言えない、毎朝数人が来る程度だと言う。このときも忙しい合間に話しかけてしまったようで、階段ホールでの立ち話程度で仕事に向かわれてしまった。厚い眼鏡を掛けて表情は日本人と変わらない。気ぜわしく仕事をするスタイルも日本で学んで来られたのだろうか、などと考えつつお寺を後にした。

すると門の所で、先ほどのプレムさんが待っていてくれた。「どうぞ私の家にお越し下さい」と言う。バザールに面した縦に細長い家へと案内された。そして、三階だっただろうか、若いときの写真を飾った部屋に通された。

しばらくするとネパールの紅茶にビスケットが運ばれてきた。ニコニコと嬉しそうに合掌して、「お越し下さって有り難い、どうぞゆっくりくつろいで下さい、私は昼食の準備をして来ます」と言うと居なくなってしまった。お茶をすすりながら窓の景色を見た。

実はカトマンドゥーに来たら、一つレストランにでも入ってやろう、と考えていた。チベット料理や中国料理も手頃な値段で美味しいところがあると聞いていたからだ。だが、この日も含め結局カトマンドゥーにいた四日間すべて供養を受けることになり、レストランに入ることは叶わずカトマンドゥーを後にすることになった。夕方になって比丘がレストランになど入れるはずもなく。

それだけネパールの人たちに坊さんを見たら昼飯を食べさせるものだという観念が徹底しているとしか思えない。それが何よりも自分たちの喜びなのだという。この日がそのことをしっかりと思い知らされた日でもあった。

ただ道を聞いただけなのに、自分の家に見ず知らずの、それもネパール語も出来ない坊さんを連れ込んで、ゆっくりしろだのご飯を食べてくれと言うのだから。まったくもって無防備というか底抜けの人の良さにかけては徹底している。それも飛び切り上等のご馳走だ。勿体ない。

普通、ご馳走の後にはパーリ語のお経を唱え、大きめのお盆と水差しを用意して、その水を盆にゆっくりとかえしてもらいながら功徳随喜の偈文を読む。このときまでお恥ずかしながら一人で供養を受ける経験もなかったので、偈文がとっさに出てこず、メッタスッタ(慈経)だけで我慢してもらった。

最後に聞けば、このプレムさんはインドの有名な瞑想所の一つであるイガトプリで比丘として修行した経験もあるという。袈裟の中に冷や汗をかきながら階段を下り振り返ると、プレムさんはニコニコと合掌して送りだして下さった。

そこから歩いてLDTに向かった。二階の執務室で、すでに待ちかまえていた理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏と会う。いかにもネパールの貴族然とした威風堂々とした人物だ。

簡単な挨拶の後、「全体の計画が大きく道路工事なども進まず大変な計画ですね」と水を向けると、わが方がインド寺院の建設になかなか着手できないでいることを催促するかのように、「いやいや、インドは大きな国だ。ハルドワール(デリーから北にバスで六七時間のガンジス河沿いの聖地)にあるお寺は賽銭だけで二十四カロール(二億四千万ルピー)ものお金を貯めて、とてつもないお寺を造った。ネパールは小さな国だが、インドならルンビニーのお寺のためにお金を集めるのも簡単でしょう」などと曰った。

そこで、「とんでもない、その殆どがヒンドゥー教徒ではないですか。仏教徒はごく僅か。ベンガル仏教徒はその一部なのだから、大変なのだ」と応戦した。日本や台湾などに支援を要請しているがなかなかうまくいかないことを告げると、ルールでは調印後六ヶ月で建設に着手し三年で完成する事が謳われている、などと追い込みを掛けてきた。

実は韓国のお寺で一件キャンセルが出ていたりと、なかなか他のどの国も建設が予定通りに進んでいないことに焦りがあったのであろう。その後、ベンガル仏教会が借り受けている土地の地代一年分五千ルピーを払い、レシートを書いてもらい退室した。

階段の所で、「近々カルカッタに行く用事があるのでお寺に泊まらせてもらいます。その時は宜しく。バンテーにも」とお愛想を言ってきた。「どうぞどうぞお越し下さい。お待ちしています」と私も返事をした。が、彼らのような上流意識のある特権階級が施設の調わないお寺になど泊まるはずがない。それはどこの国でも同じことだろう。

何か後味の悪い思いを引きづりながら、来た道を引き返した。セントラルバススタンドまで行き、そこからバスンダラという地区までバスに乗った。そこで小さなお寺を造った、かつてカルカッタのバンテーの所にいたというスガタムニ師を訪ねた。

バスを降りて道を斜めに入ると小さなストゥーパ(塔)が見えた。小太りで日焼けした坊さんが黄色い腰巻き一つで出てきた。初めてお会いしたのに、以前からの知り合いのように親しみを感じさせる四十くらいの人だ。カルカッタの寺の写真を見せると喜んでくれて、自分がカルカッタにいたときはこの辺りがまだ平地だったというような話をしてくれた。

傍らに年老いた比丘が居た。九十五才になるという。あわてて礼拝しようとすると、待てと言う。年老いて行くところも身寄りもなく、お寺で比丘にさせて置いて上げている、だから自分の弟子で、まだ出家して五年なのだ
からと。そんなことをこともなげに言われる。

それでいてお寺にホールを造るのだといって、自分でセメントをこねてレンガを重ねていくような工事をしている最中でもあった。決して裕福なお寺などではないのだ。その彼らのひたむきな姿を思い出し、こう書き進めつつ我が身を振り返ると、誠に申し訳ないような気持ちにつつまれ、涙が溢れて仕方がない。

その日は泊まれと言われたが、用意もなく結局帰ることになった。帰り際、明日、市内のスィーガ・ストゥーパでカティナ・ダーナ(安居開けの袈裟供養のお祭り)があるから来るようにと言われた。      ・・つづく

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ネパール巡礼・三

2009年08月10日 07時06分56秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
十月十五日、今日はカトマンドゥに飛ぶ日だ。荷物をまとめて外に出ると、朝靄の中、エンジ色の袈裟を身につけた端整な顔立ちのお坊さんに出会った。まるで、時代劇の役者がカツラをかぶらずに登場したような風貌。英字の名刺を差し出された。「Bhikkhu Rewata」(比丘レーワタ)、住所はミャンマーのヤンゴンとある。私と同年配だろうが、法蝋を聞くと既に十年を過ぎていると言うので、その場で礼拝し話し出す。

カトマンドゥから、ジョンというタスマニアで瞑想センターを主宰している中年のオーストラリア人と一緒に巡礼をしてきて、今朝到着したとのこと。そのジョンも三週間前まではヤンゴンの瞑想所で比丘として三ヶ月間瞑想していたという。インドの仏教聖地を回った後には日本にも招待されているということもあり、是非今日はミャンマー寺の建築現場で昼食を招待したいと言うので、十一時過ぎに再会を約した。

ミャンマー寺へ着くと、既に布を敷いた台の上に先ほどのレーワタ比丘が座っている。隣に座らせてもらい、建設中の塔の地鎮祭の写真を拝見する。沢山のお坊さんたちが招かれ、その前で派手な民族衣装を着た人たちが踊りを披露している写真や、ストゥーパの基礎の中心に経本を置き、周りに緑、クリーム、赤、金、銀といった八色のレンガを丸く敷いて儀礼を行っている様子、太い鉄骨の櫓が組まれ、その周りにレンガを巻いてコンクリートを塗っているストゥーパの内部の様子などが写されていた。

その写真に写っている工夫だけでも百人を遙かに超えて二百人を数えようかという凄まじさ。柴田氏によれば、ミャンマー寺では一律で工夫を雇うのではなく、職能に応じて四十、五十、六十ルピーという具合に賃金を設定し雇い入れているのだということであった。その後私たちの前には置ききれないくらい沢山の小皿に盛りつけた料理が運ばれてきた。野菜の炒めたものや野菜と魚の煮物など、ミャンマー料理を堪能した。

食事の後、建築途中の足組を登り、ストゥーパの上部で空洞になった内部をバックにしてレーワタ比丘と私、それにジョンで写真を撮った。その日カトマンドゥに飛ばねばならない私は、そのあとお寺に戻り、二百ルピーをドネーション(寄附)として払い、リキシャとバスを乗り継いでバイラワに向かった。

バイラワの空港は、平屋の小さな建物の前に小学校の校庭ほどのコンクリートが広がっていた。ロビーにはカウンターがあるだけ。出発時刻の二時間も前に到着していることもありロビーには誰もいない。インドで列車に乗るときも私はこの調子で、二時間前には駅に着くように出る習慣がある。その余った時間、周りの人たちの様子や動きを見ているだけで飽きないし、すぐに二時間くらい過ぎてしまった。

しかしこのときばかりは時間をもてあました。なにせ人が居ないのだから。仕方なく、ルンビニでの出来事や見聞したことをメモしたり、これから向かうカトマンドゥの様子をガイドブックで確認したり。そうこうしていると、にわかに一人二人カウンターを出入りし出した。そして五、六人の旅客と共に田舎の駅の改札なみのゲートを通り抜けると、ぽつんと一機。私たち乗客を待つ飛行機は、その目の前にある、なんとも小さなプロペラ機なのであった。新しい飛行機ではあったが、こんな小さなプロペラ機で乗客を乗せて首都カトマンドゥに向かうとは。

まるでトヨタのタウンエースを縦に二つ並べたほどの大きさしかない。いやそれよりも天井は低く狭苦しい。しっかりシートベルトを締めて揺れる機体に運命を預けた。十五時四十五分定刻発。下の景色がわかるほど天候も良くなかったが、それでも雲を眺めている間に一時間ほどで、カトマンドゥーの空港に無事着陸した。

実は、カトマンドゥーの空港はこのときと、この五日ばかり後にインドのバラナシに飛ぶときの二回使用したはずなのだが、まるで記憶にない。自分でもなぜだか分からないが、紀行文を書く身としてはただ申し訳ないと言うより仕方がない。そのかわりと言っては何だが、空港から出てオートリキシャに乗った所の光景は良く覚えていて、金網を張ったカーブした所を走るときの何ともなま暖かい風を浴びたことを記憶している。

途中信号で止まる車の間をスルスルと前に進みつつ、思ったよりも早く、スワヤンブナートという有名なチベット寺院の下あたりまで到着していた。小高い丘の上に四方に目を描いた仏塔が位置する、東京の浅草寺のような賑わいの大寺の仲店入り口でリキシャを降りた。道の両側には食品やら衣料品やらの小さなお店や屋台がひしめいていた。

夕方で暗くなる前に着かなくてはと、誰彼となく目指すお寺の名前を言っては道を尋ね、チベットの色とりどりの小旗のはためく小高い丘を越えて、何とかカトマンドゥでの宿と勝手に決めていたアーナンダ・クティ・ビハールに到着した。坂を下りると幼稚園の庭程度のところに人の背丈より少し大きな仏塔があり、そこから下の方に多くの人が大きな荷物をもって行き交う街道が見渡せた。二階建て二棟の小さなネパール上座仏教の僧院であった。

カルカッタのバンテーより、マハーナーマという名の長老を訪ねよ、と言われていた。マハーナーマ長老はその時この寺の住職さんで、用件を告げると、疲れていると思われたのか、すぐに二階の隅の大きな部屋に案内された。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない部屋であったが、マットのあるベッドが一つあり、何とか静かに寝れそうであった。

温水のシャワーが出るとのことだったので早速汗を流しに行く。大理石の床に広いシャワールーム。三人四人が一緒に浴びれるくらいの広さがある。蛇口をひねる。しかし、水がちょろちょろ出てくるだけで、いつまで経っても温水にならない。物寂しい思いにとらわれながら、結局タオルに水を浸して身体を拭くだけで出てきてしまった。標高千四百メートルのこのあたりでも、昼間は三十度近くなるはずだが、夕方には急に冷え込んでとても寒く感じる。冷たい水を身体にかける気にはなれなかった。

部屋に戻るとノックがして、小さな子供をおぶったせむしの女がミルクティを運んできてくれた。部屋に女性とだけ居ることを禁じている比丘の戒を気遣ってのことだろう。するとそこへ黄色い袈裟をまとった十代の沙弥(見習僧)がやって来て、私の荷物から覗いている文房具やカメラを触っては質問し、聞きもしないのに自分の名前を紙に書いたり、何しに来たのかとしつこく聞いて出て行った。おそらく年長の比丘たちから言われて偵察にでも来たのだろう。

ネパールは、国民の八割以上がヒンドゥー教徒で、残りの数パーセントを仏教、キリスト教などが分け合っている。仏教も、チベット仏教を継承するネワール仏教と言われる人たちと一九三〇年頃からは上座仏教も存在する。日本のように様々な宗教施設が街に混在し、ヒンドゥー教徒も仏教徒も双方の寺にお参りしても何の違和感も感じないという。ネパールの人たちは、顔や気性ばかりか、そうしたところも私たちに似ているようだ。 つづく・・。

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