平成31年正月号(B5・16ページ・年三回発行)
〇正月から善行功徳を積む- 冬木弁天堂の思いで
正月、皆様はどちらかに初詣に行かれたことでしょう。このあたりですと、福山の草戸稲荷、岡山では最上稲荷に出かける人が多いと聞きます。草戸稲荷の隣には明王院という国宝の金堂と五重塔のある福山きっての名刹があるのに、こちらに参る人はごく一部の篤信家に限られているようです。
ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂に住まいしておりました。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られました。
冬木弁天堂は、当時は正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織・睦会(むつみかい)の人たちが大勢お手伝いに来られ賑わいました。年末には大掃除をして正月の飾り付けをし、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をするのです。
晩の十一時頃になるとちらほらと初詣のお参りの方たちが来だします。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教える役員さんがいました。
色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いていました。
昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯になるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれ、大忙しになります。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣を刻んだ布入りの肌守りも人気でした。
弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されています。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録ともいえるものです。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の材木問屋の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていました。
今ではおそらく門前仲町には芸者さんはおられないと思うのですが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町など遠くからお参りになる芸者さんもありました。ですから、それより一昔二昔前には芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(ほうかん)(男芸者)さんがお参りにこられていたようです。
弁天様は、もとはインドの神様で、サラスワティという河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽芸能の神となり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなり、弁財天と書かれたりもするのですが、もともとはやはり辯才天と書いていたようです。
インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところが多いのです。
日本三弁天の筆頭・安芸宮島の厳島神社もその一つで、そもそもの本尊八臂の弁天様は今では大願寺に祀られています。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)弁天は西国観音霊場の宝厳寺に祀られているのですが、この後に記す江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になってしまいました。
冬木弁天堂は、もともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人でした。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家は茶の湯を嗜み、尾形光琳(おがたこうりん)のパトロンとして、また後には弟の乾山(けんざん)をも支援したといわれています。光琳が筆をとり描いた国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたものであり、現在国立博物館に収蔵されています。
この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われています。いまも裸の上に白衣と着物をお召しになっていますが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像です。正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳(み)の日に行われる大祭の時だけご開帳されていました。
大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこざるを得ないような仕組みになっていました。当日は、近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院住職がご出仕になられ息災護摩を焚き、読経。講元を当時は渡辺さんという元建具師の方がされていて、老齢をおして、祈願をお申し込みの百枚近い護摩札を火にあぶっていました。
終わると、賑やかに会食が始まり、下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いたものでした。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がるのですが、大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていました。
もちろん行事でないときにも、毎朝お参りにられる人もありますし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、向かいにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていました。
毎日お参りに来られる元町内会長の奥さんがおられて、あるとき、毎日何を拝んでいるのか尋ねたことがありました。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれました。で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。
東京の下町で、狭い家に二世帯が暮らすのですから、それはいろいろあったのでしょう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったその奥さんに、「最近はどうですか」と水を向けると。
「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね。ついこの間、お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったけど、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・」そんなやり取りを記憶しています。
お参りに来られる人の中には、定期的に沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもありました。少ない手当の身にはそれがことのほかありがたく、きっと施主にはその後よいことがあったことでしょう。
冬木家も自分のためだけでなく才能ある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店(おおだな)が多かった中にあって、何代にもわたって身代を相続し江戸末期まで存続できたのです。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れます。因果応報、自業自得の世の中。さて、今年も正月から善いことをするといたしましょう。(全)
〇当山中興快範上人書 『國分寺中興基録』を読む①
延宝元年(一六七三)のこの地を襲った大水害の後、建物も何も流された國分寺に晋山し、今日のような伽藍を構想し造られていくのが、当山中興一世となる快範上人であります。三百二十五年前に現在の本堂が水野勝種侯を大檀那に再建されたあと、その当時の事々が快範上人によって『國分寺中興基録』(B5版和綴じ五十二頁)として記録され、その後國分寺資料庫に大切に保管されてまいりました。
この記録は、冒頭は漢文が続き大きな字で楷書で書かれていますが、途中から小さな草書かな交じりの和文となり、古文書を読める方でないと解読できないものでした。ですが、なんとか解読したいと念願しておりましたところ、古文書の会で長年研鑽を積まれた五百籏頭孝行(いおきべたかゆき)氏が平成二十二年四月に國分寺に入檀され、一昨年より菅茶山記念館古文書講師になられました。
そして、そのお忙しい貴重な時間を費やして、この度、この快範上人書『國分寺中興基録』を見事に解読下さいました。誠にありがたく改めて感謝申し上げ、筆記いただいたものを少しずつではありますが活字に換え連載してまいりたいと考えております。是非一字一句味わいつつお読み下さい。(全)
『國分寺中興基録 快範書』(五百籏頭孝行氏解読)
「山陽備後の國、安那郡下御領の郷、唐尾山国分寺と者(いつぱ)、三密瑜伽(さんみつゆが)の精舎一國不二の霊崛(れいくつ)なり。昔日(そのかみ)御門(みかど)坐(おわし)ます。聖武皇帝と号(なつけ)奉(たてまつ)る。信身堅固の胸の中(うち)には佛像を造り、金陵(こんりよう)の御袂(たもと)には泥土を運び、精舎を建つ。一天泰平の為には、日域に於いて六十六箇寺の御誓いの寺を立て国分寺と号し、天平九年御草剣(創建)なり。本尊は東方浄瑠璃世界の教主藥師如来尊像なり。抑(そもそも)諸佛如来の本誓悲願区々(まちまち)になるといえども、勝而(すぐれて)この尊は十二の大願を立て、像法転時の衆生を憐れみ、手持ちの一壺には理智教の三薬を収め、一切衆(生)の病患を救い、種々の善功を廻らし、末法像(法)時の群迷を利益(りやく)し、日月の二大士は昼夜を守護し、十二神将(じゆうにじんしよう)は二六時中を警固し、八万四千の夜叉眷属は衆生念々の中を鑑み、現在有餘の栄福を授け、当来数千蓮華の上に坐さしめ、本有不生(ほんぬふしよう)の得果をあたへ、利生広大なること翰墨(かんぼく)に尽くしがたし、是(これ)を以て諸佛の能生諸神本地万法の根元、衆生の父母眼前の理なり。(経)文(もん)に曰く、我此名号(がしみようごう)一経其耳(いつきようごに)衆病悉除(しゆびようしつじよ)信心安楽(しんじんあんらく)、此の文の如くんば、尊重するに足(あきたら)ず、一念信仰の輩は寿算久しく霜を重ね、随縁真如(ずいえんしんによ)の水澄みて、五智円明(ごちえんみよう)の月、影を移し、即身成仏の御(おん)結縁(けちえん)疑い無し。
右是(みぎこれ)迄(まで)寺号本尊の縁基をしるすものなり。是より寺の威義を記す
抑(そもそも)当寺国分寺は西(国)三十三ヶ国打札御納経申す最初の霊地。古来、越え聞く内外の坊舎十二ヶ寺にして佛法繁栄の砌(みぎり)なれども時代不信なれば信徳も次第に劣し、寺領の分米ありといえども、乱世の兵災、又は時の国司、是(これ)を取上げ、又は度々焼失して、其の威義次第におとろへおわんぬ。
爰(ここ)に、永禄五年癸酉(みずのととり)(正しくは壬戌(みずのえいぬ)) 三月当寺兵乱の為、焼失してける時、当国神辺の城主杉原播磨守(はりまのかみ)盛重公、伽藍焼滅の跡を見たまいて、安那一郡分米集銭を以て、本堂七軒四面の草葺(くさぶき)に御建て之れ有り。其れより本堂小破の修覆の時節は安那一郡より集銭する事度々に及べば、寛永十九年丙寅(ひのえとら)(正しくは壬午(みずのえうま))歳に至って、本堂草屋ねの故に霊(零)落に仍(よ)って、七軒四面を五軒四面にして瓦葺きに再興す。年月久しくして、延宝元癸丑(みずのとうし)の年五月十四日洪水の時大原の池切れ、寺院悉く流れうせ、本堂は残るといえども内陣外陣のしとみ(蔀)打ち破れて、本尊を初め諸尊悉く泥土に埋もれ、方々より尊躰をひろひ、かつぎもてきたり、破堂にかりに松の木板を以て、かこいとして荒れたる尊躰をかくし置けり。此の時、俗家数十軒人の死ぬる事六十三人老若男女なり。是より此の院住僧無住にして六年なり。
一当寺住侶某甲(なにがし)生まれたる所は、当国大橋村高田氏の末葉なりしが、出家に望み深く、備中有田村小田原山教積院(きようしやくいん)にて、玄海法印剃髪(ていはつ)の弟子となり、福田村福性院に住職するといへども、当寺無住に依って郡奉行(こおりぶぎよう)神谷九郎兵衛、同豊田九郎左衞門、宗旨奉行豊岡彦四郎対談して本寺明王院宥仙上人に届けて曰く、国分寺の儀、只今寺も之れ無く、本堂も大破に及び、御佛も之れ無く候(そうら)へども、寺号旦那も絶へず、一国一寺の札所なり、福性院を以て彼の住寺に然(しか)る可(べ)き旨(むね)達(たつし)ていわれける故、無住六年目、午(うま)の歳四月廿六日に当寺に移り来るなり。
然(しか)るに、当地に渡りて見るに本堂は四方に一枚の戸もなく、椽(たるき)より軒の下板まで泥土にぬれ敷板所々に打ち付けて、旦(だん)上には松の木板を以て藁(わら)なわにてかこひ、ゆいぶし(結い節)の間より御佛を拝するに、尊躰続いる所もなく、深山埋木枝なきがごとく成るを一間の旦(だん)になげこみて有り、扨々(さてさて)、有るべき事にこそかかる御ありさま、ぢょくせ(濁世)の今といいながら、おそろしき事共(ことども)かなと、なみだながらに拝し奉る。それより菴(あん)に至って見るに、よもぎう(蓬生)のしげれるやどに雨もりて、月のさすべき、まどもなく、むぐら(荒れ地野原に繁る雑草)しげりて、草深く、いさご(砂子・すな)びょうびょうとして、はまどりのねやをもとむる一こえも、只しんしんとして、あわれにも心をもよおし、夜に入りては佛旦(ぶつだん)に至って読経えかふ(回向)事(こと)おはり、ふけ行くそらの月をだに、ながふる事も、なつの夜に蚊虻のこへ、雷をなし事とふ夜すがのともとては、田面(たのも)の蛙こえそえて、のきねになきし厄蛙の外(ほか)はなし、我つらつらおもひけるも、うれしきすまいかな、ほうねんぐそく(法縁具足)の心もなし、藁筵(わらむしろ)六枚は。」 つづく
〇大法輪平成30年9月号 特集 仏教でやってはいけない10カ条 掲載
日々のお勤めでやってはいけない10カ条
①灯明の火は息で吹き消してはいけない
日々のお勤めをするとき、仏壇の前に座り蝋燭に火を灯して、お線香をつけて香炉に挿し、お勤めいたします。
そして、終われば灯明を消すわけですが、普通は小さな柄杓のような火消しを上からかぶせて火を消したり、掌で軽くあおいで消していることでしょう。ですが、時に急いで、ふっと息を吹いて消してしまうということもあるかもしれません。
その時、強く吹いてしまうと、溶けた蝋が周りに飛び散り、仏壇や仏器に落ちることもあるでしょう。飛び散った蝋は掃除しにくく、いつまでも跡が残るものです。きれいな仏壇、荘厳のためにも息で吹き消すことは厳禁にしたいものです。
人の息は、汚れ不浄であるから仏様に失礼にあたるので息を吹きかけて灯明を消してはならない、との受け取り方もあるようです。が、浄不浄の分別を超えた空の立場からは、決して人の息が汚れていると決めつけることもできません。
灯明とは仏様の智慧に喩えられます。仏様の智慧は、灯明が暗闇の中で足元を照らし進むべき方向を示してくれるがごとく、真実を照らして煩悩を断じ、仏菩薩を生み出すもとになるものです。仏様がそこに立ち現れるとの思いで火をつけ、消すときも心して行いたいものです。
②御鈴は乱暴に叩いてはならない
お勤めは何のためにするのでしょうか。ご自分も含め家族みんなが幸せに過ごし、ご先祖様方に感謝を捧げる行為としてあるならば、お勤めの内容にかかわらず心静かに念じるものであり、御鈴もそれに相応しく音を出すべきでしょう。
乱暴に叩くという行為に至る心はいかなるものかと推察しますと、心に余裕なく、朝御供えして御鈴を叩き、すぐに他の用事に取り掛かることに心が向かっているような場合でしょうか。
家族中に御鈴の音に触れてもらうにはよいかもしれませんが、乱暴に叩いた音に日頃のストレスのはけ口を感じさせたり、しなくてはいけない不満を感じるさせるようなら逆効果と言えます。やはり御鈴はきれいな音で、家族に安らぎを与えられるように鳴らして欲しいと思います。
③水を何日もかえないのは良くない
お供えとは何でしょうか。仏様には水の他にも灯明・花・香・飯食(おんじき)・塗香(ずこう)などを御供えします。これらを六種の供養と申して、先ずお勤めの前にはこれらのお供えを済ませてから、礼拝しお勤めするのが順序であります。
この供養という言葉の原語プージャー(puja)には、供養の他に尊敬、礼拝という意味があり、敬うべき尊いお方だからこそ御供えし礼拝するということになります。心の中で敬い尊敬していたらよいというものではありません。形に表すことが大切であり、それが供養です。
仏壇の仏様ご先祖様方は、尊いありがたい存在であり、そうして今私たちがあると思えるならば、私たちが毎日の生活に欠かせない飲み物食べ物を摂るのと同様に、少量ではあっても毎日お供えして感謝の心を表すのが本来であろうかと思います。
しかし、毎日かえなければ何か悪いことが起こるというようなものではありません。感謝の心を伝える尊い行為、徳を積む折角の機会が失われたとお考えになったらよいかと思います。
④トゲのある花を供えるべきではない
花は、どなたに差し上げるものでしょうか。花を仏様ご先祖様方に供えるものなら、花の向きはあちら側に向けるところですが、花はふつうこちら側に向けてお供えします。なぜなのでしょうか。
たとえば、灯明も線香も、仏様にと思ってお供えしても、こちら側にも明かりが届き香の香りも室内に広がります。仏様にお供えしたものが私たちにも、仏様の側からその恵みが還ってきていることになります。また、それによって仏様の世界がそこに現出している様を目の当たりにすることになります。花も同様に仏様の世界を表現する、飾るという意味合いから、こちら側に向けて供えられるのでありましょう。
仏様ご先祖様方に差し上げ、その仏様の世界が現れるところに、トゲのある花、毒のある花などを差し上げるのは、やはり控えるべきでしょう。たとえ綺麗な花であっても、仏様の世界をトゲや毒あるものとすることになります。お供えするときに、トゲで怪我をしないためにも避けたいものです。
⑤仏壇の主役は先祖ではなく本尊であることを忘れてはならない
仏壇とは何なのでしょうか。たとえば、息子さんなりお孫さんが外国人の友達を連れて家にやってきたとして、どうぞと案内した奥の間に仏壇があり、その外国人の友達が「これは何ですか」と尋ねたら、なんと答えるでしょうか。
たとえば、これは「マイ・ファミリー・ブッディスト・オールター(My Family Buddhist Alter・直訳すると、わが家の仏式祭壇)」です、と答えたとすると、「そうですか、こちらの家は仏教徒の家なんですね」ということになるでしょう。
ということは、仏壇とは仏教徒のシンボルであると考えられます。そうしますと、仏壇とは御先祖様のおられるところではありますが、まずは一番上の上段中央に本尊として祀る仏様のために設えた場であるということになります。それは私たち仏教徒の理想であり、敬い礼拝する対象として祀られたものと言えます。
そうした神聖な場に、御先祖様方も仏になるべく精進されているものとして、仏壇中段に位牌として祀られているのです。
そして、私たちも、いずれその仲間に入り位牌に祀られ、仏になるべく生まれ変わり、ともに精進を重ねていく存在であることも忘れてはならないことでしょう。
⑥読経は近所迷惑になるほど大声でするべきではない
昔高野山の専修学院に学んでいたとき、ある日の夕方のお勤めで、八十人もの学生が真面目にお唱えするお経に倍音が発生し、まるで天界の音楽のような、心地よい様々な楽器の音色を聞くことができました。
お経はよどみなく雨だれの落ちるようなテンポで淡々とお唱えするものと教えられたことがあります。またお経は耳で読めとも言います。一人で読むときも大人数で読むときにも、お経の声をきちんと聞きながらお唱えするものです。そうして何人かで同じテンポでお唱えしておりますと、唱えるお経のきれいな音の波動が倍音となり、心地よい法悦の境地を味わうことができるのです。
あまり大声で唱えてはお経を聞くどころではないでしょう。一人で唱えるときにも、時と場合に応じて適度な大きさ速さでお唱えし、自分の声を聞きながら心清まるようにお唱えしたいものです。
⑦読経は経本を見ずにするべきではない
そもそもお経は何のために唱えられるのでしょうか。仏様に向かってお唱えしますが、仏様はそのお経を説法されたお方であることを考えれば、仏様のためにお唱えしているのではないことは明らかです。
仏様の前で、改めて仏様の教えられた言葉を自ら唱えながら聞くという行為は、すなわち仏様の説法を追体験していることになります。
その経典を暗唱していることもありましょうが、教えを学ぶためには、やはり経本を手にとり、文字を確認しながら読むべきでしょう。
難しい漢字を読みながら精神を集中すると、余計な雑念が湧くことがありません。そうしてリズムよく唱えるお経には、脳の中のストレス解消になり幸福感をもたらすセロトニン神経の働きを高める効果があるそうです。
お経に慣れて、そらで読んでいる方もあるかもしれませんが、心は上の空ということにならないよう、しっかり経本を手に雑念なく読経したいものです。
⑧数珠はあまりジャラジャラと擦るべきではない
昔、インドのヨーガの聖地リシケシに巡礼した折に見た、行者さんの神々しい姿が思い出されます。ガンジス河岸の大きな岩の上に座り、数珠を爪繰りながら、ずっとマントラ(真言)を唱えていました。
数珠は擦るためではなく数をカウントするためのものです。インドのマントラを唱える行者さんのように、何千回何万回と真言や念仏を唱えるときに数珠を爪繰ることで、きちんと唱えた数を数えられるように工夫された数取りの道具です。
数珠は一般に、百八の子珠と大きな親珠が二つ、親珠からは房が取り付けられ、その基に小さな弟子珠が十ずつついています。
真言を一回唱えて子珠を一つ爪繰り、一巡して百八回で百返と数え、弟子珠を一つ上にずらします。弟子珠を十すべて上にしたら千回となりますから、もう一つの親珠の房にある弟子珠を一つ上にして、それを十回繰り返すと一万回数えることが出来るのです。一万回以上数えるときには一万回数えたら小石を一つずつ置くのだとか。
ところで、数珠を擦るようになったのは、我が国でずいぶん時代を経て、堂外でお勤めをしたお坊さんたちが、唱える真言の終わりを知らせるため、数珠を擦って知らせたのが始まりと聞いたことがあります。
⑨だらしない恰好でお勤めするべきではない
僧侶であれば、衣を着て袈裟をまとって堂に入りお勤めいたします。袈裟は仏僧との標示であり、本来身なりを飾るなどの執着を断つために着されます。つまり心を調え修行に専心するためにあると言えます。
心さえしっかりお勤めに向かっていたら着る物など何でも良いと思いがちですが、やはり心をお勤めに向かわせるためには姿形も大切です。普段着で結構ですが、少なくともだらしないと自分が思うような恰好は控えるべきでしょう。
身なりを整え、背筋を伸ばし、合掌礼拝して、経本を持つならば、自ずから心落ち着き、よいお勤めができることでしょう。
⑩お勤めの終わりには、功徳の回向を忘れてはならない
私たちがつつがなく生きられているのは、四つのもののお蔭であると、仏教では考えます。それは四恩と言い、父母、衆生、国王、三宝の四つです。
父母のお蔭でこの世に生まれ、衆生の営みによって衣食住に事欠くことなく、国王(国家)あることによって安心して暮らすことができ、そして三宝に心の教えを学び、人としてより良く生きることができるのです。そうした恵みに心を配りつつお勤めいたしたいものです。
お勤めの功徳は唱えた人にあります。その功徳を自分だけのものにすることなく、恵みをいただいているとの感謝の気持ちを表し、周りの人たち、生きとし生けるもののためにふり向ける、つまり回向することでより大きな功徳となり、それがまた自分に還ってきます。
急いでお勤めするようなときであっても、少なくともお経の終わりには、「願以此功徳(がんにしくどく)・普及於一切(ふぎゆうおいつさい)・我(が)等与衆生(とうよしゆじよう)・皆共成仏道(かいぐじようぶつどう)」と回向文を唱え回向いたしたいものです。 (全)
〇本堂の両部曼荼羅について
昨年八月、下の写真にあるように、大覚寺所蔵の両部曼荼羅(複製)を國分寺本堂にお祀りしました。約百六十㎝四方の額装仕立で、壁の上から下まで覆っています。
この両部曼荼羅は、昨年十月に京都大覚寺で嵯峨天皇御宸筆(ごしんぴつ)の勅封(ちよくふう)般若心経が御開封され法会が行われますのを記念して、特別限定にて複製されたものです。大覚寺で伝法灌頂(でんぽうかんじよう)など大切な儀式に際して荘厳として設えられる曼荼羅であり、仏様の衣などの特徴から江戸時代の製作ではないかと推定されています。明るい色使いで、一尊一尊の仏様も大きく、名前がすべてに標示されています。
そもそも、曼荼羅・マンダラとは、インドの言葉で、円、球形、輪、軌道、壇、集団、本質などを意味します。神さまをモチーフに円や線を用いて描いた幾何学的な図像をインドではマンダラと称してヒンドゥー教などで広く用いられてきました。
仏教徒にとっての究極の目的は悟りですが、悟り、ないし悟った人を言葉や図像で表現することは出来ないとされてきました。しかし時代を経て、仏像が現れ、お釈迦様以外にたくさんの仏様を発生させる教えが生まれていきます。その仏様方を教えに基づき規則的に配置することにより集合的な仏様の世界観ができていき、さらに仏様の悟りの世界を具象化して表わす曼荼羅が誕生しました。それは実際に修行者が前に置いて観想し瞑想修行する対象としても用いられるものでした。
弘法大師が唐から持ち帰られた曼荼羅に、胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅があります。これを両部曼荼羅といって、真言宗寺院では一対として御堂に祀ることになっています。この度本堂に祀られた曼荼羅も大覚寺所蔵の金胎一対の両部曼荼羅であります。
胎蔵曼荼羅は、その名の如く母胎が胎児を守り育み、月満ちて元気な子を生み出すように、如来が大慈悲により生きとし生けるものを産み育て、さらに仏心をその子の心に育成していく如来の大慈悲の本質を表しています。
そこで曼荼羅の中央に、大慈悲を表す蓮を描き、その中心に大日如来、八葉の蓮華の上に四仏(宝幢仏(ほうどうぶつ)・開敷花(かいふけ)王仏(おおぶつ)・無量寿仏(むりようじゆぶつ)・天鼓雷音仏(てんこらいおんぶつ))と四菩薩(普賢菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・弥勒菩薩)を配しています。これを中台八葉院(ちゆうたいはちよういん)と言い、左図のように、その周りを持明院、遍知院、釈迦院などと名付けられたグループ分けされた二百尊を超える仏様方が縦横に四重に取り囲む構造になっています。
大慈悲を智慧と慈悲に分けて展開し、教えをこの世に実証されたお釈迦様とその弟子たちの集まりや、その智慧の目を開くための仏様方、自我の執着を取り除く仏様方、またいかなる苦難をも耐える仏様方、宇宙大の福智を身につけた仏様方など内から外へと大慈悲の仏心が展開されていく様子が描かれています。
次に、金剛界曼荼羅は、金剛石の如くに堅く、何ものにも砕かれることのない、大日如来の永恒に不滅の宇宙大生命そのものを表しています。そのいのちは白色の円、白浄の満月輪(まんがちりん)によって表現されており、そこにはすべてを包み込む永遠なる命と、生きとし生けるものに平等に価値あるものを与え、それぞれに適切な慈愛を以て育み、それぞれに応じた働き行動を起こす四つの智慧がそなわるとされます。
金剛界曼荼羅は、普通縦横三つずつに分け全体で九つの区画に分けられた九会になっていますが、この度の大覚寺所蔵の金剛界曼荼羅は、九会(くえ)の中心をなす成身会(じようじんね)という区画のみを大きく拡大させた一会(いちえ)の金剛界曼荼羅です。左図のように、大きな白い円・月輪(がちりん)の中に、中心と上下左右に五つの月輪があり、それぞれの中にさらに五つの月輪が描かれています。
中心には、四人の波羅蜜菩薩に取り囲まれた大日如来が位置し、この曼荼羅では東にあたる下部には阿閦如来、南にあたる左側には宝生如来(ほうしようによらい)、西にあたる上部には無量寿如来、北にあたる右側には不空成就如来(ふくうじゆうじゆによらい)が位置しており、これら四仏の上下左右にそれぞれ四菩薩が配され、つごう十六の菩薩たちが取り囲み、それぞれの如来の徳を成就する役割を与えられています。
中心の大日如来の悟りの智慧が四仏に展開し、その四仏がそれぞれ四菩薩を生み、さらに大日如来と四仏とが供養し合い、大日如来の大生命が限りなく開き広がっていく様子を七十尊余りの仏様方によって表しています。そして、それはすなわち万物が相助け合い尊重し合い繁栄するという宇宙全体の理想的な姿を示すものでもあります。
曼荼羅の中に描かれた仏様は様々で、よく存じ上げている仏様もありますが、聞いたこともない難しい名前を持つ方も大勢おられます。
國分寺のご本尊お薬師様は、釈迦如来と同体とのことで、残念ながらこの両部曼荼羅の中にはおられません。釈迦如来は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院の上二段目に釈迦院があり、その中央に四尊の侍者に囲まれ、説法の印を結び蓮華にお座りになっています。
お薬師様の脇侍の日光菩薩は、胎蔵曼荼羅地蔵院の一番下、月光菩薩は、胎蔵曼荼羅文殊院の左中央に描かれています。
各家の仏壇の本尊様である大日如来は、胎蔵曼荼羅では、中台八葉院の中心に位置して五仏の冠(かんむり)を戴き髪を垂れ、条帛(じようはく)という布をまとう菩薩形で、臍の前に右の掌を左の掌の上に置き両親指を軽く着ける法界定印(ほうかいじよういん)に住しています。
金剛界曼荼羅では、中央の月輪の中心に位置し、五仏の冠を戴き結髪を肩に垂れ天衣(てんね)を肩から腰にめぐらし、胸の前で上に伸ばした左手の人差し指を右手の五指でまとう智拳印を結んでいます。
また、阿弥陀如来は、無量寿如来との名で、胎蔵曼荼羅では中台八葉院の西にあたる下の八葉に描かれ、金剛界曼荼羅では中央大日如来の月輪の西にあたる上の月輪の中心に描かれています。両手の親指人差し指を着けて臍の前で左右を合わせる弥陀の定印(じよういん)を結んでいます。
不動明王は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院のすぐ下の持明院の一番右に大きな火焰に取り巻かれたお姿で描かれ、観音菩薩は、胎蔵曼荼羅中台八葉院の八葉の中の北西にあたる左斜め下に描かれています。
観音菩薩はこの他、釈迦院、文殊院にもそれぞれ主尊の脇侍として描かれている他、中台八葉院のすぐ北にあたる左の蓮華部院には、聖(しよう)観音、如意輪観音、不空羂索(ふくうけんじやく)観音、馬頭(ばとう)観音、白身(びやくしん)観音など変化(へんげ)観音二十一尊が描かれています。
このように個々に見ていっても誠に興味深い曼荼羅ではありますが、それぞれ迫力ある曼荼羅全体から発せられるメッセージ、あるいは力を受け取っていただくことも一つの鑑賞の仕方ではないかと思います。美術作品ではありませんが、どちらが好ましく思われるかといった見方でもよろしいかと思います。
胎蔵曼荼羅は仏様の慈悲の温もりを表現しています。大きな曼荼羅の前に立ち、あたたかい母胎から生まれ出るようなやさしい慈悲の息吹を感じてみてください。悩み事があったり、心ふさがれ落ち込んでいるようなとき、この曼荼羅を眺めているだけで、ふと心晴れやかに穏やかになっていることに気づかれることでしょう。
金剛界曼荼羅は仏様の智慧の輝きを表現しています。大きな月輪の仏様方を前にすると、自然とそれらが立体的に躍動する様子が立ち現れてまいります。日々の生活に疲れ、力失っているようなとき、またこれからどうしたらよいか展望を見失っているようなとき、この曼荼羅を心に思い描くだけで、心の中に確たる力がみなぎってくることを実感されることでしょう。
私たちはみんな、一人ひとりいずれは仏になるために尊いいのちを授かっています。未来の自分がそこにあると思い、しばし目を閉じ、曼荼羅の中にいる自分を思い巡らしてみるのも面白いかと思います。是非お参り下さい。 (全)
〇万灯会連続法話『死ぬと生まれ変わる んですか?』前編
昨年夏の殊の外暑い猛暑に責任を押しつけるわけではないが、万灯会参加の四ヶ寺の法話を担当するとなっても、何も頭に浮かばず、初日から法会後皆さんに何か質問があればと問うてみることになった。
初日のお寺には丁度中学生がお参りになっており、その子から早速に「餓鬼とは何ですか」と質問がいただけた。何も質問がなければ、お施餓鬼の作法をお参りの方々にもしていただいているので、そのあたりのことでもお話しようかと思っていたところだったので、ありがたい質問であった。
「餓鬼とは、私たちのような身体を持つことなく、心だけの存在で、暗いところで、私たちのすることを見ていて、何か食べていたりすると物欲しそうに指をくわえて見ていたりするのですが、姿はとても醜いと言われています。私たちも死ぬ瞬間に暗い心で死ぬと餓鬼になると言われていて、生前自分さえ良くありたいと人をうらやみ妬んだりしていると死ぬときにも暗い心で亡くなる、そうすると餓鬼になると言います。
私たちは亡くなると、お釈迦様のようなお悟りを得ていないと、六道に輪廻するといって、六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のどこかに生まれ変わります。生前の行いによって、それに培われた心にしたがってどこかに転生すると考えられていますが、皆さんのようにこうしてお寺に来て徳を積み、勤行次第にもある十善をまもる生活をしていたら人間界以上の世界に転生するとされています。
間違っても地獄や餓鬼の世界に逝かないように、常にみんなと共に良くあるようにと明るく、何があっても思い詰めたりせずに暗くならないように生活することが大切です。
昔お釈迦様の時代に、ある王様の妃が若く死んで餓鬼の世界に転生したのですが、そこで、生前の自分のたくさん徳を積んだことを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思った、その瞬間に兜率天(とそつてん)に転生されたというお話しもあります。
その方は、お坊さんに食事の供養をし、その後いろいろな法話を聞くことが何よりの楽しみだったということです。皆さんも、万が一餓鬼界にいったら、生前の功徳、善いことをしたこと、お寺に沢山の寄付をしたことなどを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思えるように、自分のなした沢山の功徳をよく憶えておかなくてはいけないということです。
それで、今日の施餓鬼の作法は、洗ったお米にナス、キュウリを采(さい)の目に切って混ぜ併せた水の子を蓮の葉に盛り、そこに樒(しきみ)の葉で水を掛けて供養しますが、これは餓鬼は私たちが食べるご飯をそのまま食べることが出来ないため、わざと腐らせたようにして餓鬼に供養しているわけですが、無数にいるとされる餓鬼の供養は誠に大きな功徳があり、その功徳を御先祖様、近くに亡くなられた精霊の菩提の為にふり向ける、回向(えこう)する法会がこの施餓鬼会ということになります。」
次に、「悪霊と浮遊霊の違いについて教えて下さい、以前夜中に家に白い三角巾を頭に巻いた人が立っているのを見たことがあるのですが・・・」という質問があった。
「悪霊と言えば、人を恨み、憎んで亡くなった人の霊が、ずっとこの世に、それも特定の人の周りにとどまって悪さをするような霊のことで、浮遊霊は、亡くなっても、それが急な事故であったり、人知れず亡くなったりして葬式もしてもらえず、死んだこともわからずにこの世にとどまっているような霊のことです。
そうした霊は見える人にたよるところがあり、ちょうど貴方がその頃見える状態にあり、現れたのだと思いますが、私も高野山にいた頃同室のお坊さんが霊が見える人で、ある晩に寝苦しく夜中起きたことのあった翌朝、その方から、昨晩白衣を着た坊さんの霊が貴方の顔を覗いていきましたよと教えてくれました。
また、お施餓鬼という夕方暗くなってからする作法の最中には、ちょいちょい白衣を着た霊が来ていたと聞いています。ですから、沢山そうした浮遊霊はいるのですが、見える人を頼って姿を現すようです。今はもう見えないのなら寄ってきませんから安心してお過ごし下さい。」・・・つづく
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