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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ラタナ・スッタを紐解く-新型コロナウイルス感染終息のために

2020年04月17日 17時47分31秒 | 仏教に関する様々なお話
ラタナ・スッタを紐解く-新型コロナウイルス感染終息のために



世界中で今ラタナ・スッタが読誦されています。YouTubeで、RATANA SUTTAもしくは、Rathana Suthrayaと検索しますと、スリランカなどの僧侶による、いくつもの読誦を聞くことができます。それを聞きながら、世界の多くの仏教徒たちが手を合わせ、まさにお釈迦様方の声を聞く如くに、そのお経の声に感染終息を願っています。私も、久しぶりに、かつてインド僧として過ごさせてもらった、コルカタのベンガル仏教会に連絡した所、やはり比丘方で毎日ラタナスッタを唱えているようで、私も毎日唱えていることを伝えました。

ところで、かつての私の師、故ダルマパル大長老(Dharmapal mahathera)は特に経典読誦に関する古い唱え方を伝承されている方でした。そのいくつかを私も習う幸運に巡り合うことができたのですが、それはパリッタと呼ばれる日常読誦経典の、各経典毎に独特の節回しでお唱えになられるものでした。実は、そのお唱えになる声を、まだインド僧になる前のことですが、まだ暗い朝方に窓辺に聞き、何度も酔いしれたものでした。私が滞在していた頃、それらすべてとはいきませんが、テープに記録するように言われ、粗末なカセットレコーダーで録音しました。たしか、1995年1996年頃のことでしたが、すべてで4時間ほどになります。

この度、その懐かしいテープのことを思い出し、ラタナ・スッタの読誦の部分を何度も聞き、同じように唱えられるよう練習しました。そのラタナスッタを4月5日の土砂加持法会でも唱え、また、現在も日に二度朝晩唱えています。そして、毎日唱えておりましたら、その意味するところをより深く知りたくなり、20年ぶりに、パーリ語辞典と文法書をたよりにラタナ・スッタをデーヴァナーガリー文字でノートに書き出し、一語一語辞書を引き、文法書を片手に訳してみました。誠に拙いものではありますが、以下に試訳を掲載してみます。ご笑覧下さい。より深く意味するところを理解し唱え、そして、聞いてもらうことで、より強く新型コロナウイルス感染終息に繋がりますことを念じたいと思います。

宝経

ここに集まりきたる霊たちよ、地のものも、空のものも、すべてのものたちに、幸いあれ。ときに、語ることを恭しく聞きたまえ。

故に、実に、霊たちよ、すべてに注意深くあれ、人々に慈しみを生ぜよ、日中にも、夜にも、供物を運ぶ人々を、それ故に、実に、彼ら人間を怠りなく守れ。

この世の、あの世の、天界の勝れた宝でも、如来に等しき確かな財産はない、これも仏陀における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

入定せる釈迦牟尼は、煩悩を滅尽し、貪りを離れ、勝れた不死・涅槃に到達した、それ故に、何ものか、法に等しきものはない、これも法における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

殊勝の仏陀は、浄く、賞賛される三昧について、すぐに完全智に至るという、それ故に、この定に等しきものは知られない、これも法における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

この四つの対の、八人の賞賛されるべき人々(四双八輩の聖者)は、供養されるべき善逝の仏弟子たちであり、この供養により大きな果を与えられる、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

彼らは欲なきゴータマの教えを実に堅固な心をもって、努力し、不死の境地に入り、その利得を得て寂滅せる喜びを得た、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

地にとどまってある柱のように、四方からの風にも動揺しない、その如くに聖なる真理を確かに見たと善人が言う、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

仏陀によって、甚深なる智慧により説かれた聖なる真理を明らかに理解する(預流果に悟る)なら、たとえひどく放逸になったとしても八回目の生存はない、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

共に住して、目覚め(預流果)を成し遂げた人は、実に、有身見、疑、戒禁取の三つを捨て、また、他の煩悩も捨てて、四つの悪趣から自由となり、六重罪をなそうとしてもできない、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

たとえ、彼が、身口意の行為に悪をなしても、それを隠しておくことはできない、真理を見たる人は悪事を隠しておくことはできないと説かれた、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

夏の最初の月に、森の茂みで花が咲く頂点となる如くに、最上の有益な涅槃に逝く勝れた法を示した、これも仏陀における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

勝れた人は、最上なるものを知り、与え、取り出す、その最上の勝れた法を示された、これも仏陀における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

古き業は尽き、新しい業は生起しない、未来に生存したいという心から離れた彼は、種は尽き、欲は成長しない、灯火が消える如くに賢者は消えゆき再生しない、これも僧における勝れた宝である、この真実によって幸せであれ。

集まり来たれる、地にあるも、空にあるも、霊たちは、神々や人々に尊敬される如来、仏陀を礼拝するのです、幸せであれ。

集まり来たれる、地にあるも、空にあるも、霊たちは、神々や人々に尊敬される如来による、法を礼拝するのです、幸せであれ。

集まり来たれる、地にあるも、空にあるも、霊たちは、神々や人々に尊敬される如来の弟子たち、僧を礼拝するのです、幸せであれ。


参考文献 パーリ語辞典・水野弘元著 パーリ語文法・水野弘元著 
     南方仏教基本聖典・ウ・ウェープラ著 
     宝経法話・アルボムッレ・スマナサーラ著 
     ブッダのことば・中村元著 スッタニパータ現代語訳・荒牧典敏他  

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ラタナスッタを唱えて-新型コロナウイルス感染終息のために

2020年04月08日 12時09分27秒 | 仏教に関する様々なお話




4月5日國分寺の恒例行事土砂加持法会が執り行われました。世界が震撼する新型コロナウイルス感染拡大に伴い、受付時間を遅らせ飲食を控えるなどの対策のもとで執行いたしました。土砂加持法会は、檀信徒各家先祖各霊の得脱のために修される法会ではありますが、この度は新型感冒感染終息平癒祈願を併せ行いました。

お釈迦様在世時にヴェーサーリで飢饉から疫病が蔓延し人々が苦しむさまを見て、阿難尊者とともにラトナ経(宝経)を七日間唱え続けて平癒せしめたとの故事にのっとり、職衆が土砂加持法則により法要が進む中、導師は光明真言法を修し、前供養終わって、観法の間にパーリ・ラタナ・スッタを読誦し、祈念を凝らしました。

法句経290偈の因縁物語に次のような話が残されています。かつてベナレスの書店で手に入れたヒンディー語訳『ダンマパダ』(『Dhammapada』Bhikshu Dharmarakshit訳注・sanskrit pustakalay)より翻訳してみますと、「あるとき、ヴァイシャーリーに飢餓が起こり、疫病が蔓延し、鬼神が災厄をもたらしていた。そのとき、リッチャヴィ王はラージャグリハに行き、お釈迦様をヴァイシャーリーにお連れした。お釈迦様がヴァイシャーリーに来られラタナ・スッタを読誦させるとすべての病が沈静し、水が降り注ぎ、鬼神たちの恐怖も去っていった。お釈迦様がラージャグリハからヴァイシャーリーに行かれたとき、様々なやり方で道が飾り付けられ、沢山の供養の品々とともに旅をなされていた。ビンビサーラ王とリチャッヴィ王はガンジス河の両岸で各々の国で前代未聞の盛大な祭りを催したのであった。

お釈迦様は比丘たちからこの祭りの因縁を聞かれると、『比丘たちよ、私は過去世でシャンカという名のバラモンであったときスシーマという名の独覚の霊廟で供養を捧げていた。これらのお祭りや歓待尊敬はその時の業果によるものである。過去世にはわずかな施ししかしていないが、このように大きな果報があったのである。』と言われて説法をなされ、この偈文をお唱えになられた。「もし微少の安楽を捨てて広大な安楽を得べしとおもわば、賢者は広大な安楽をのぞみて、微少の安楽を捨つべし」」とあります。

実は、このヒンディ語本の解説は、元の因縁話からかなり話を要約しているようなのです。『パーリ語仏典ダンマパダ』(北島泰観訳注・中山書房仏書林刊)には、「ヴェーサーリーに到着したお釈迦様は、阿難尊者に命じてリッチャヴィの王子と共に三つの城門でラトナ経を一晩中唱えさせると、病人が癒えはじめ、その後お釈迦様自ら七日間に亘ってラトナ経を唱えられ、ヴェーサーリーの町は再び平和を取り戻した」とあります。

また、敬愛する某薬師寺院家様からは、ダンマパダ・アッタカターという注釈書の邦訳『仏の真理のことば(三)』(及川真介訳・春秋社刊)に、「阿難尊者はお釈迦様の水晶の鉢に水を入れて城門にいたり、ラトナ経を唱えつつ投げ上げると、鬼神や病人に銀の耳飾りのような水滴が落ち、するとただちに病気が鎮まった」という記述があることを教えていただきました。ヒンディ語文には、阿難尊者が投げ上げたという水については、「水(pani水または雨)が降り注いだ」という簡略された表現になってしまっているようです。

いずれにせよ、このラトナ経は、bhutaブータという、生類、鬼神、鬼類、または神とも訳される霊的なものに対して、信仰ある人々を、汝らに御供えしてくれる人間たちを慈しみ、守り給えと諭していきます。ブータというのは、日本で言えば幽霊、死霊、見えない何か恐ろしいものというような使われ方をします。神はdevaデーワとなります。つまりブータは化生の物質的な身体を持たないものたちのことで、彼らに向けて、悪さをするな、人々の為に慈しみをもって守るべきである、仏法僧の勝れたものたちを敬い礼拝せよ、精進せよ、幸せであれと諭していく経典となります。

あの世の財宝も、天上界の宝石も、如来の持つ宝に等しいものはない、仏陀におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
深い禅定によって渇愛の滅尽を説く、この法に等しき宝はない、法におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
最上の仏陀は清浄なる定を説かれた、この定に等しき宝はない、法におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
善人から称賛された聖者の段階(四双八輩)にある僧たちにおけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
確固たる心で努力して煩悩から脱し涅槃の幸福を得たる僧におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
煩悩に揺らぐことのない聖なる真理を観る教えを守る、それら僧におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
聖者に達したならば八回生まれ変わることはない、そのような僧たちにおけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
有身見、疑、戒禁取などの煩悩が無くなり、父母や阿羅漢を殺したりなど六重罪を犯すことがない、そのような僧たちにおけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
身口意に悪業をなしても預流果の聖者は隠すことがない、そのような僧たちにおけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
涅槃に導く法は無上の幸福をもたらすため仏陀により説かれた、仏陀におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
無比の智者、涅槃を観て勝れた道を教示し最高の真理を説く、仏陀におけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
過去の業は滅し新しい業は無く、未来の生存に執着なく、煩悩の根も根絶した、そのような僧たちにおけるこの宝こそ勝れている、この真理の言葉によって幸せであれ。
ここに集まれしブータよ、地にあるものも、天にあるものも。神々人間に尊敬される仏法僧に礼拝せよ、幸福であれ。

このように教え諭し、仏法僧の勝れた点を強調して価値観を転換させて、すべてのものたちによくあれ幸せであれと諭していくのです。お釈迦様自ら七日七晩唱え続けられたともあるこのラトナ経を私も新型コロナウイルス感染が終息するまで、毎朝毎晩お唱えしたいと思います。世界の仏教徒たち、特に南方のパーリ経典を読誦する人たちには、ともにこのラトナ経を毎日唱え、世界の新型コロナウイルス感染が終息するよう祈念して欲しいと思います。

(youtube)スリランカの比丘方によるラタナ・スッタの読誦です。すでに世界中で唱えられ、そしてまた多くの人たちがお経を聞きながら祈念しているようです

ヒンディー語本『ダンマパダ』の表紙・290偈解説とデーヴァナーガリー文字による『ラタナ・スッタ』


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備後國分寺だより 第55号(令和2年4月5日発行)

2020年04月01日 08時52分47秒 | 備後國分寺だより
令和2年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



◯薬師如来の真言は、なぜ「オンコロコロ・・・」なのか

これは長年解けない難問でした。薬師如来の真言は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。

まず、お薬師様の真言とされる「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」のいろいろな訳し方を見てみましょう。
「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」
「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」
「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏(ごうぶく)の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」
などなど。

ところで、藥師真言には以下のように三種類のものがあります。
小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
( oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)
中咒「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
(oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye bhaiṣajya samudgate svāhā)
大咒「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバ アランジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
(namo bhagavate bhaiṣajyaguru vaiḍūryaprabharājāya tathāgatāya arhate samyaksambuddhāya tadyathā oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye mahābhaiṣajya -samudgate svāhā)

それでは、さっそく小咒の意味を『真言事典』(平河出版刊八田幸雄著)を参考にして、ひもといてまいりましょう。訳としては、「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー。」とあります。

これは解説に、不空(ふくう)訳『仏頂尊勝(ぶつちようそんしよう)
陀羅尼念珠儀軌法(だらにねんじゆぎきほう)』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta -buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されているようです。

はじめに、オンとは、古来インド宗教で聖なる音とされ、仏教では帰命、供養、称賛を表すとされています。コロコロとは、歓喜の間投詞で喜ばしきことよとか、速疾に、と訳されます。

では、センダリ(正しくはチャンダリ)とは何でしょうか。caṇḍāliは『梵和大辞典』(山喜房仏書林)に、旃陀羅(せんだら)家女(けのおんな)とあり、caṇḍālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)、漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種(げせんしゆ)、執暴悪人などとあります。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触(ふかしよくせんみん)の一種姓を指します。

また、マトウギ(マータンギ)は、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[caṇḍāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽(せんだらまとうが)種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々(女性)を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようですが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳します。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じていたので、冒頭にあげたように訳されている意味合いにどうしたらなるのか、いかなる解釈を付けるべきか解らなかったのです。

しかし今朝(1/26)本尊薬師如来の供養法を修法していて、ふとこれらの疑念が一瞬にして溶解したのでした。その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ速やかに救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのです。

やや専門的な話になって恐縮ですが、真言宗の諸尊を供養し拝む修法の中で、入我我入観(にゆうががにゆうかん)という仏と一体となる瞑想にひたった後、本尊の真言を数珠を爪繰りながら唱える正念誦(しようねんじゆ)という祈念をするのですが、その際唱える真言はどちらが相応しいのか。つまり、小咒か中咒かという問題があります。

中院流という高野山の流派では小咒であり、國分寺が先代まで修法してきた三宝院流では中咒となるのです。そのため、これまで私も中咒を唱えていたのですが、次第にしっくりこないものを感じていました。本尊と一体不二となりながら中咒では不具合を起こすと言えばお解りがいただけるでしょうか。そして今朝、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に小咒の意味するものが了解されたのでした。

中咒は大咒をつづめたものに他ならないので、大咒の意味を確認してみますと、『真言事典』の大咒の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

つまり、これでは、自分と別の対象として、薬師如来に向けて唱えることになるのです。ですから、入我我入観の後に唱える正念誦は中咒よりも小咒が適当なのではないかと思うのです。本尊薬師如来と一つに、その願いをともに口に唱え念じることが肝要ではないかと思います。

このように思っておりましたら、ある方から、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんですよ」とご意見をいただきました。

勿論そのようなことも存じてはおりましたが、だからこそ冒頭にも記した、この真言の訳し方の事例の中にあったように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのです。が、はたしてそのような解釈でよいのであろうかと考えて、長年思案し続けてきたのでした。

ところで、田久保周誉先生の『梵字(ぼんじ)悉曇(しつたん)』(平河出版社)二一五頁には、「唵(おん) 喜ばしきことよ。旃蛇利(せんだり)・摩登祗(まとうぎ)女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付されています。

解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法(かんぎようぎきほう)』等に見える薬師如来の小呪である。呼嚧呼嚧(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(せんだり)(旃蛇梨正しくはcaṇḍāli)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化(きようけ)によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう。」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばなりません。

そもそもこの真言の出典が『薬師如来観行儀軌法』などとありますように、密教儀軌に由来します。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師本願功徳経』など薬師経は、五世紀中頃中国で漢訳されていますが、近年中央アジアなどで発見された薬師経写本も五世紀頃までさかのぼることができるといいます。

そして、それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる、雑密経典に『摩(ま)登伽経(とうがきよう)』があります。これが田久保先生も記される卑族旃陀羅教化の出典であろうかと思われます。

『大正新修大蔵経(だいぞうきよう)』に収録された経典までたどれないので、それからの引用である『佛弟子傳』五一二頁(山邊修学著無我山房刊)よりその内容を要約しますと、

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そして、その母親とされる呪師によって、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術がなされると、アーナンダがこころ迷乱してその家に誘導されていってしまいます。すると、天眼をもってそのことを知られた、お釈迦様が『戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみよう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ。』と偈文を唱えてアーナンダを救ったということです。

しかし、その後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むこと無く、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れると、それを知ったアーナンダは恥ずかしさ浅ましさを感じ、そのことをお釈迦様に申し上げました。

すると、お釈迦様は娘に、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母にもたしかめさせてから髪を剃り出家せしめたのでした。そして、『娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・』などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にもあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からか、チャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられるのです。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているということです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものでしょうか。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として余りにも残念な解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと私は考えます。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典』六八〇頁(法蔵館刊佐和隆研編)薬師如来の項に「医王善逝(ぜんぜい)などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益(けやく)する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。

つまり、薬師如来というよりも医王、もしくは薬師仏としての原初に返って、お薬師様を捉えてはいかがであろうかと思うのです。そう考えるならば、両部曼荼羅に薬師如来が不在なのもこれで了解できます。薬師如来が十二の大願をもって如来となったという大乗経典にある説は、後世の人々にとっての願いをこの如来に託しつくられたものでありましょう。

では、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」をあらためていかに解釈すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての命あるものたちが苦悩なく幸福であらんことを)」としてはいかがでしょうか。さらに、この意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳したいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」

お釈迦様は何の躊躇もなく、まさに世間では卑しく蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた願い、四姓(カーストなどの階級)の別なく、すべてのものたちがよくあらんとされる心、心病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、すべての衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。

その心に随喜して、私たちもともにこの誓願を念じさせていただくのだと思い、すべてのものたちに思いを拡げ、その中にはお唱えする私たちも当然含まれているのですから、ともにこのすべての生きとし生けるものがよくあれと、この真言を唱えることで、自分自身の願いも叶うと思いお唱えしたいと思うのです。

お薬師様の広大な慈悲の心に包まれ一体となって、その願いをともに念じ、「オンコロコロ…」とお唱えしたいと思います。(全)


◯【六大新報令和元年七月十五日号掲載】松長有慶先生著
『訳注(やくちゆう) 即身成仏義(そくしんじようぶつぎ)』を読んで

松長先生の最近刊となる『訳注 即身成仏義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。そもそも筆者が初めて『即身成仏義』(以下『即身義』と略す)を読んだのは、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』(高野山出版社刊)においてであり、専修学院に学んでいた頃であるから三十年も前のことである。誠に申し訳ないことではあるが、それ以来まともに『即身義』と対峙することもなかったのである。が、この度改めて松長先生の解りやすく、されど伝統的な解釈に忠実に懇切丁寧に説かれた本書を読んで、新たに様々なことを学ばせていただいた。

まず巻頭の「『即身義』の全体像」において、『即身義』は当時の天台の学匠や南都の碩学(せきがく)、知識人に、即身成仏という画期的な教えの根拠を示すものとある。それは単に成仏する時間の問題だけでなしに、人と仏、物と心というような二元的な存在の本来的同一、さらに山川星辰など非情も仏に他ならないことが説かれるとされる。

『即身義』の著作年代については、即身成仏という表現は弘仁の初期に書かれた『辯顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』中に、密教の四カ条の特色の一つとして登場するが、まだ即身成仏思想の構想は熟しておらず、その後の大師の著作などから思想形成の過程が語られ、弘仁六年以降遅くとも、高野山に金剛峯寺が建立され、東寺を下賜(かし)される弘仁の末頃までに『即身義』は出来上がっていたと推定せられる。

そして、即身成仏、特に即身という語を説くための三種のキーワードについて解説されており、六大については、現実世界を構成する要素ではなく、五大としての物質的なものと識大としての精神的なものとの総合体であり、物と心は元々同体として存在するとされる。

四曼については、特に法曼荼羅とは行者が金剛微細智(みさいち)の境地に入り体験する音や響き、声、光、根源的なコトバを表すものであり、羯磨(かつま)曼荼羅は活動智を表現するため本来は五仏以外女尊形で描かれるべきものであることが紹介される。

三密加持については、加持とは行者と仏との入我我入であり、三密加持とは身口意の三密それぞれが一体化した状態であり、仏・衆生・自然これら三者の三密も一体化し、融合していることをいうのであるという。

そして本編に入るが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示され、【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、平安時代から戦後にいたる三十四もの注釈書や著作の解釈に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】を参照すれば、難解な大師の著作が不思議なほど容易に了解できる。

大師は、二頌八句(にじゆはつく)を創作し即身成仏という四字を讃嘆し説明していかれるが、先の頌において、六大とは、物と心を総合し一体化しており、それはあらゆる存在の本源たる大日如来に外ならないのであり、そこから仏も衆生も万物自然をも生み出し、互いに融合し結びついているという。四曼は、その真理のありかたを四つの形で象徴的に表現したものである。

そして三密加持はその働きを身と語と心と捉え、仏と衆生の三密は本来ともに入り混じり互いに支え合っているので、仏と人との三密の関係をよく心得て三密瑜伽の行法を修すれば速やかに大悉地を得ることが出来るとするのである。さらにこの六大四曼三密は相互に一体化しておりそれを無碍という言葉でまとめられる。そして後の頌においては、人、動植物、環境社会が本体、形相、作用において仏に他ならないことを成仏という語で説明されていく。

この度、本書を読んで、『即身義』に不読段があることを知った。灌頂を受けていない者には説かない決まりがあるという。その段は、即身成仏を確信して、尚私たちはいかに生きるべきかを教えてくれているように思える。それは、理趣経系統の儀軌である『五秘密軌』を引用したくだりであり、受者が阿闍梨から三摩耶戒を授かり、金剛薩埵の五秘密瑜伽の教えを早朝・正午・夕方・夜半に日常生活の振る舞いの中で絶えず思念し実践すれば現世で初地を得るとあって、

続いて「五秘密の修法を修することによって、覚りとか生死に染まらず、執着せず、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、広く衆生の利益と安楽に努め、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き、最終的には金剛薩埵の位に到達させる。」(P140)とある。正に『理趣経』百字偈に説く勝れた智慧ある菩薩としての生き方そのものであり、『高野山萬燈會願文(まんどうえがんもん)』にある大師の誓願にも適うものであろう。なぜなら、その誓願をかなえるべく実働すべきは私たちなのであろうから。

釈尊はその生涯において、弟子たちの多くを阿羅漢果という最高の悟りをさとらせた。がそれが故に、解脱して死後再生せず、死とともに慈悲行を諦めざるを得なかった。解脱することが目的ではなく、何度も輪廻しつつ菩薩行に挺身することこそが大乗菩薩としての理想であることをここに示してくれていると言えよう。

『即身義』によって大師は、現代に生きる僧侶である私たちに何を訴えかけておられるのか。大師の思いを私たちの心にそのまま繋げて下さるのが本書である。本書は、今年九十歳になられる松長先生が真言僧侶関係者に向けて宗祖大師の著作を現代に生きかえらせようと渾身の力を振るって、そこに先生の持つすべてを注ぎ込まんとなされた労作である。多くを学ぶことが出来よう。是非御一読願いたい。(全)


◯【六大新報令和二年二月二五日号掲載】
『アジア的融和共生思想の可能性』第一章 保坂俊司先生執筆
「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)思想と神仏習合」に学ぶ

昨年十二月二十日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書(そうしよ)の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。

そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。

その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。

私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。

かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(二〇〇三年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。

先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含(ぞういつあごん)」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。

当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。

大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』二〇〇六年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。

そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。

そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。

そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。

最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝(けんでん)される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。

最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』(中央大学出版部)を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。(全)


月刊「佼成」令和元年五~八月号
「つれづれ仏教歳時記」 掲載

 
五月
国連ウェーサクの日
 五月の満月の日に、南方の仏教国では、お釈迦様の誕生とさとりと入滅を同時にお祝いする盛大なお祭りを催します。
 新暦の五月頃にあたる、インド暦の二月・ウェーサク月の満月の日にお釈迦様は誕生し、三十五歳の同じ日におさとりになられ、八十歳の同じ日に入滅したとされているからです。
 実はこの五月の満月の日は、一九九九年十二月国連総会にて、「国連ウェーサクの日」として、世界中の仏教徒にとり、もっとも聖なる日であると認められました。そして、この日に仏教徒が集い、祝うことを国連がサポートすると決議しました。
 これにより、毎年この日には、国連本部や地域事務所において、各国の仏教徒が集い相互理解を深め、世界の融和の為に会合が開かれています。
 お釈迦様は生まれると、すぐに七歩歩いて、「私は世界の第一人者、最年長者、最勝者である。これは最後の生まれであり、二度と生存はない」と、このように語ったと「希有未曾有経(けうみぞうきよう)」にあります。
 これは、さとりを確信されて生まれたお釈迦様が、さとりこそ人類にとって最も価値あることであると宣言したものといえます。さとりを開かれて説かれた教えは、世界中の人々にとって有益な教えであることも意味しています。特に、分け隔てのない友情と非暴力、共感と寛容を説く平和へのメッセージは、人類の平和共存のために不可欠な教えと言えましょう。
 今年の国連ウェーサクの日は五月十九日です。私たちもともにお祝いしたいと思います。

六月
四国遍路の話
 三十年程前のことになりますが、五月から六月にかけて四国を歩いて巡礼したことがあります。四国八十八箇所は、弘法大師ゆかりの霊場とされますが、それより古くからあった四国の難所・辺路(へぢ)を遍く巡るところから遍路ともいわれます。
 ビニール紐で編んだ草鞋(わらじ)を履き、衣を着て頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)を下げ、網代傘(あじろがさ)と錫杖(しやくじよう)をもち、東京港から夜行フェリーで四国に入りました。一番札所霊山寺(りようぜんじ)から歩き始め、夜は寝袋に入り、雨の日は遍路宿や宿坊に泊まりました。
 次の札所まで、まだかまだかと思って歩くときにはその道のりは遠く、ただ一歩一歩、ひたすら足下を見て歩いていると、気がつくと札所の前に来ていたということが何度もありました。
 道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり、食堂でお会いした方が車で次の札所にお連れ下さり、そのまま善根宿(ぜんこんやど)をお接待いただいたこともありました。こうして、お接待して下さる四国の方々のやさしい心に支えられ、八十八番大窪寺(おおくぼじ)まで千四百キロの道のりを三十九日で結願することができたのでした。
 夕刻札打ちを終えてベンチに腰掛けていましたら、隣に座るご夫婦に話しかけられ、小松島のフェリー乗り場まで送って下さいました。そして、フェリーで和歌山港へ。その後も車のお接待をして下さる方が現れ、その日の晩遅くには高野山にお礼参りできたのでした。
 誠に不思議なご縁とご利益(りやく)がある四国遍路。是非一度お参りされてみてはいかがでしょうか。

七月
七月はお盆月
 推古天皇十四年(六〇六)七月十五日に、わが国で初めてお盆の行事として、僧侶に食事を施す斎会(さいえ)が行われています。
 この七月十五日は、僧侶が雨期の三ヶ月間遊行(ゆぎよう)せず、精舎(しようじや)の中で修養に勤める安居(あんご)の最終日にあたります。「仏説盂蘭盆経(ぶつせつうらぼんきよう)」には、この日安居を終えた沢山の清浄なる僧侶に食べ物などを供養した、その功徳によって、死後長く餓鬼の苦しみの中にいた目連尊者(もくれんそんじや)の母が救われたとあります。
 私たちのご先祖様の中に、同じように餓鬼道に苦しむ人が万が一にもあってはならぬと、毎年この時期にご先祖各霊をお迎えして供養の誠を尽くすようになったのでしょう。今日のようにお盆の行事として一般に広まったのは、江戸時代から。明治時代の改暦以降、東京や南関東などでは新暦の七月十三日から十五日に、その他の地方では一月(ひとつき)遅れの八月に行われています。
 東京のお寺にいる頃は、七月十三日に持仏堂(じぶつどう)の位牌を精霊棚(しようりようだな)に移して、ホオズキや素麺などを供え、盆提灯を出し、夕方玄関先で麻幹(おがら)を焚いて先師尊霊(せんじそんりよう)方をお迎えしていました。
 ところによっては、精霊棚ではなく、床の間に位牌を並べて、その各々の前に素麺を御供えしたり、また、暗くなってから提灯の火をたよりにお墓からご先祖様をお迎えしたりと、地域によって風習が違うようです。
 いずれにせよ、お盆は、ご先祖様方があっての私たちであることを改めて思い起こさせてくれる、ありがたい日本の仏教行事といえましょう。

八月
夏の夜の万灯会
 ここ國分寺では、毎年八月二十一日、夏の風物詩・万灯会(まんどうえ)が開かれます。
 日が落ちるころ、参道両側の石灯籠や本堂の軒に釣るした、たくさんの提灯(ちようちん)が点灯されます。提灯の下には、献灯申し込み各家の「先祖代々各霊菩提の為」と書いた短冊が取り付けられています。
 そして、晩の七時半から、本堂では結衆寺院方(けつしゆうじいんがた)による法会(ほうえ)が始まります。読経の中、参拝者一人一人、本堂東南角の縁に設えた施餓鬼壇(せがきだん)に進み、焼香のあと、水の子(洗米にナス、キュウリを采の目に切って混ぜたもの)を蓮の葉に供え、水を掛けて餓鬼に施します。最も身近にいて、人間界から功徳が廻向(えこう)されるのを待っているといわれる、餓鬼たちに向けて供養するのです。
 そもそも万灯会は、天平十六年(七四四)奈良平城京朱雀路(すざくじ)と金鐘寺(こんしゆじ)(後の東大寺)に一万杯の燃灯供養を行ったのが、わが国での最初とか。罪障を懺悔(さんげ)して、四恩(しおん)(父母・国王・衆生・三宝)に報いるために一万の灯明を献じる法会であります。
 私たちは誰もが、四恩のおかげで、人として命を与えられ成長し平穏に暮らしています。ですが、日頃そのことに思いいたらずに過ごしているのではないでしょうか。そこで、改めてその恩恵に思いをいたし、四恩をはじめ、生きとし生けるものに感謝の心を捧げるのです。
 お釈迦様の教えは、よく暗闇を照らす灯火に譬(たとえ)られます。私たちも、たくさんの灯明が法の導きとなって世の中を明るく照らし、生きとし生けるものが幸せであるよう祈りたいと思います。(全)


当山中興快範上人書『國分寺中興基録』 を読む⑤
『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、同長弐間 幅一尺五寸厚さ弐寸五分弐枚
   壱枚付拾匁五分宛 弐拾壱匁
           御物(ぎよぶつ)の上すがるはふ(縋破風(すがるはふ))
 一、同長三間半七寸角壱本
   弐拾三匁           御物のけた(桁)
一、同長壱間半五寸角弐本
   壱本付四匁弐分宛八匁四分   脇旦入用
 一、同長弐間半三寸に七寸の丁拾壱本 
   壱丁付九匁四分宛百三匁四分  本間のぬき(貫)
 一、同長弐間半弐寸五分に六寸の五分の丁六丁 
   壱丁付七匁三分宛四拾三匁八分     同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六丁
   壱丁付六匁九分宛百七拾九匁四分    同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六本 
   壱丁付五匁三分ツヽ(宛(つつ))八拾四匁八分  同断
 一、同長弐間弐寸五分に九寸の丁六丁 
   壱丁付六匁七分宛四拾目弐分  内陣廻り敷井
 一、同長弐間弐寸五分に三寸わり物百拾本 
   壱本付弐匁五分宛弐百七拾五匁
               けしゃうたる木(化粧垂木)
 一、同長弐間弐寸四分に弐寸七分五拾六本 
   壱本付弐匁壱分五り宛百八匁弐分  天井ふち(縁)
 一、同長壱間半弐寸五分に六寸五分わり物三丁 
   壱丁付四匁ツヽ拾弐匁     御物前入用
 一、同長壱間半三寸に七寸の丁六丁 
   壱丁付五匁六分宛三拾壱匁弐分 はふの前包入用 
                  同とびのお共に
 一、同長八尺四寸の丁弐枚 
   壱枚付五匁六分宛拾壱匁弐分  下陣地廻り
 一、同長壱間あつみ壱寸三歩板八間半 
   壱間付九匁宛七拾六匁五分   椽板(縁板)
 一、長壱間五歩板七間
   壱間に付き四匁宛弐拾八匁   床の上はり同
                けこみの板(蹴込板(けこみいた))共に
乄(しめて) 弐貫七百壱匁五厘     上方材木
       貫 万事板共に
  右は御作事屋御比官宮崎庄右衛門 同阿坂五右衛門
  作事や小頭小林太郎右衛門三人請相(うけあい)にて鞆材木屋の内  
  播磨屋理兵衛請取(うけとり)上方より下す福山より牛車弐百七拾
  五匁にて国分寺迠引(までひく)
   外に
 一、百八拾目(匁) 伊与(伊予)枌(そぎ)(枌板(そぎいた)・そいだ薄い木の
                    板、屋根を葺くのに用いる) 
                        弐百四拾束代   
 一、九拾八匁       檜木ふしなし  二丁 代
   合 弐貫九百七拾九匁五り
 一、五百七拾三匁 長弐間木 地山松木 弐百三拾七本
内百拾五本東中条村にて、くみ立足代木
   外は大屋ね 野けた(野桁) 野たる木(野棰木) う立(うだち、梲、卯建)共に 
 一、六拾四匁 長三間   引物三本代
 一、百五匁  長弐間   尾引(大引き、尾引き)
              同えんねた(根太(ねだ))共に拾六本
 一、三百六拾四匁五り 釘諸事鉄物代かち(鍛冶(かじ))五兵衛へ
            同六兵衛へ
 一、弐百七拾五匁     牛車代   長右衛門に渡す
 一、四百三拾目四分 たりかわら(瓦)代 久右衛門に渡す
 一、七拾三匁八分五り   作事こや竹
       本堂こまい竹(木舞・小舞)
       屋根土居ふせ竹共
 一、弐百六拾壱匁七分   木洩ふち方作領共に
 一、三拾六匁五分     こや入用のなわ
              本堂こまひ入用
              屋ねふせ竹まきなわ
 一、八匁         大なわ とう□き
              えりなわに成る
 一、拾八匁        かいるまた 木代 作領ふち方
 一、百六拾目       石代 石切 すえ前
        同かつら石 つき石共
 一、三拾壱匁       山野山木代
              日用銀同木の番礼銀共
 一、六匁八分       同平野山木切ふち方
       日用同木預け所礼銀共に
 一、弐拾壱匁       本堂壁もみすさ 
              同土仕半兵衛日用共に
 一、六百三拾壱匁九分   四歩板
              五歩板
           八歩板
            山野山松板代   
              同日用銀共に     つづく


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備後國分寺だより 第51号(平成31年1月1日発行)

2020年04月01日 07時17分12秒 | 備後國分寺だより
平成31年正月号(B5・16ページ・年三回発行)




〇正月から善行功徳を積む- 冬木弁天堂の思いで

正月、皆様はどちらかに初詣に行かれたことでしょう。このあたりですと、福山の草戸稲荷、岡山では最上稲荷に出かける人が多いと聞きます。草戸稲荷の隣には明王院という国宝の金堂と五重塔のある福山きっての名刹があるのに、こちらに参る人はごく一部の篤信家に限られているようです。

ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂に住まいしておりました。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られました。

冬木弁天堂は、当時は正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織・睦会(むつみかい)の人たちが大勢お手伝いに来られ賑わいました。年末には大掃除をして正月の飾り付けをし、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をするのです。

晩の十一時頃になるとちらほらと初詣のお参りの方たちが来だします。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教える役員さんがいました。

色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いていました。
昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯になるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれ、大忙しになります。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣を刻んだ布入りの肌守りも人気でした。

弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されています。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録ともいえるものです。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の材木問屋の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていました。

今ではおそらく門前仲町には芸者さんはおられないと思うのですが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町など遠くからお参りになる芸者さんもありました。ですから、それより一昔二昔前には芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(ほうかん)(男芸者)さんがお参りにこられていたようです。

弁天様は、もとはインドの神様で、サラスワティという河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽芸能の神となり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなり、弁財天と書かれたりもするのですが、もともとはやはり辯才天と書いていたようです。

インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところが多いのです。

日本三弁天の筆頭・安芸宮島の厳島神社もその一つで、そもそもの本尊八臂の弁天様は今では大願寺に祀られています。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)弁天は西国観音霊場の宝厳寺に祀られているのですが、この後に記す江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になってしまいました。

冬木弁天堂は、もともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人でした。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家は茶の湯を嗜み、尾形光琳(おがたこうりん)のパトロンとして、また後には弟の乾山(けんざん)をも支援したといわれています。光琳が筆をとり描いた国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたものであり、現在国立博物館に収蔵されています。

この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われています。いまも裸の上に白衣と着物をお召しになっていますが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像です。正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳(み)の日に行われる大祭の時だけご開帳されていました。

大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこざるを得ないような仕組みになっていました。当日は、近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院住職がご出仕になられ息災護摩を焚き、読経。講元を当時は渡辺さんという元建具師の方がされていて、老齢をおして、祈願をお申し込みの百枚近い護摩札を火にあぶっていました。

終わると、賑やかに会食が始まり、下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いたものでした。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がるのですが、大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていました。

もちろん行事でないときにも、毎朝お参りにられる人もありますし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、向かいにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていました。

毎日お参りに来られる元町内会長の奥さんがおられて、あるとき、毎日何を拝んでいるのか尋ねたことがありました。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれました。で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。

東京の下町で、狭い家に二世帯が暮らすのですから、それはいろいろあったのでしょう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったその奥さんに、「最近はどうですか」と水を向けると。

「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね。ついこの間、お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったけど、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・」そんなやり取りを記憶しています。

お参りに来られる人の中には、定期的に沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもありました。少ない手当の身にはそれがことのほかありがたく、きっと施主にはその後よいことがあったことでしょう。

冬木家も自分のためだけでなく才能ある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店(おおだな)が多かった中にあって、何代にもわたって身代を相続し江戸末期まで存続できたのです。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れます。因果応報、自業自得の世の中。さて、今年も正月から善いことをするといたしましょう。(全)


〇当山中興快範上人書 『國分寺中興基録』を読む①

延宝元年(一六七三)のこの地を襲った大水害の後、建物も何も流された國分寺に晋山し、今日のような伽藍を構想し造られていくのが、当山中興一世となる快範上人であります。三百二十五年前に現在の本堂が水野勝種侯を大檀那に再建されたあと、その当時の事々が快範上人によって『國分寺中興基録』(B5版和綴じ五十二頁)として記録され、その後國分寺資料庫に大切に保管されてまいりました。

この記録は、冒頭は漢文が続き大きな字で楷書で書かれていますが、途中から小さな草書かな交じりの和文となり、古文書を読める方でないと解読できないものでした。ですが、なんとか解読したいと念願しておりましたところ、古文書の会で長年研鑽を積まれた五百籏頭孝行(いおきべたかゆき)氏が平成二十二年四月に國分寺に入檀され、一昨年より菅茶山記念館古文書講師になられました。

そして、そのお忙しい貴重な時間を費やして、この度、この快範上人書『國分寺中興基録』を見事に解読下さいました。誠にありがたく改めて感謝申し上げ、筆記いただいたものを少しずつではありますが活字に換え連載してまいりたいと考えております。是非一字一句味わいつつお読み下さい。(全)

『國分寺中興基録 快範書』(五百籏頭孝行氏解読)

「山陽備後の國、安那郡下御領の郷、唐尾山国分寺と者(いつぱ)、三密瑜伽(さんみつゆが)の精舎一國不二の霊崛(れいくつ)なり。昔日(そのかみ)御門(みかど)坐(おわし)ます。聖武皇帝と号(なつけ)奉(たてまつ)る。信身堅固の胸の中(うち)には佛像を造り、金陵(こんりよう)の御袂(たもと)には泥土を運び、精舎を建つ。一天泰平の為には、日域に於いて六十六箇寺の御誓いの寺を立て国分寺と号し、天平九年御草剣(創建)なり。本尊は東方浄瑠璃世界の教主藥師如来尊像なり。抑(そもそも)諸佛如来の本誓悲願区々(まちまち)になるといえども、勝而(すぐれて)この尊は十二の大願を立て、像法転時の衆生を憐れみ、手持ちの一壺には理智教の三薬を収め、一切衆(生)の病患を救い、種々の善功を廻らし、末法像(法)時の群迷を利益(りやく)し、日月の二大士は昼夜を守護し、十二神将(じゆうにじんしよう)は二六時中を警固し、八万四千の夜叉眷属は衆生念々の中を鑑み、現在有餘の栄福を授け、当来数千蓮華の上に坐さしめ、本有不生(ほんぬふしよう)の得果をあたへ、利生広大なること翰墨(かんぼく)に尽くしがたし、是(これ)を以て諸佛の能生諸神本地万法の根元、衆生の父母眼前の理なり。(経)文(もん)に曰く、我此名号(がしみようごう)一経其耳(いつきようごに)衆病悉除(しゆびようしつじよ)信心安楽(しんじんあんらく)、此の文の如くんば、尊重するに足(あきたら)ず、一念信仰の輩は寿算久しく霜を重ね、随縁真如(ずいえんしんによ)の水澄みて、五智円明(ごちえんみよう)の月、影を移し、即身成仏の御(おん)結縁(けちえん)疑い無し。

右是(みぎこれ)迄(まで)寺号本尊の縁基をしるすものなり。是より寺の威義を記す

抑(そもそも)当寺国分寺は西(国)三十三ヶ国打札御納経申す最初の霊地。古来、越え聞く内外の坊舎十二ヶ寺にして佛法繁栄の砌(みぎり)なれども時代不信なれば信徳も次第に劣し、寺領の分米ありといえども、乱世の兵災、又は時の国司、是(これ)を取上げ、又は度々焼失して、其の威義次第におとろへおわんぬ。

爰(ここ)に、永禄五年癸酉(みずのととり)(正しくは壬戌(みずのえいぬ)) 三月当寺兵乱の為、焼失してける時、当国神辺の城主杉原播磨守(はりまのかみ)盛重公、伽藍焼滅の跡を見たまいて、安那一郡分米集銭を以て、本堂七軒四面の草葺(くさぶき)に御建て之れ有り。其れより本堂小破の修覆の時節は安那一郡より集銭する事度々に及べば、寛永十九年丙寅(ひのえとら)(正しくは壬午(みずのえうま))歳に至って、本堂草屋ねの故に霊(零)落に仍(よ)って、七軒四面を五軒四面にして瓦葺きに再興す。年月久しくして、延宝元癸丑(みずのとうし)の年五月十四日洪水の時大原の池切れ、寺院悉く流れうせ、本堂は残るといえども内陣外陣のしとみ(蔀)打ち破れて、本尊を初め諸尊悉く泥土に埋もれ、方々より尊躰をひろひ、かつぎもてきたり、破堂にかりに松の木板を以て、かこいとして荒れたる尊躰をかくし置けり。此の時、俗家数十軒人の死ぬる事六十三人老若男女なり。是より此の院住僧無住にして六年なり。

一当寺住侶某甲(なにがし)生まれたる所は、当国大橋村高田氏の末葉なりしが、出家に望み深く、備中有田村小田原山教積院(きようしやくいん)にて、玄海法印剃髪(ていはつ)の弟子となり、福田村福性院に住職するといへども、当寺無住に依って郡奉行(こおりぶぎよう)神谷九郎兵衛、同豊田九郎左衞門、宗旨奉行豊岡彦四郎対談して本寺明王院宥仙上人に届けて曰く、国分寺の儀、只今寺も之れ無く、本堂も大破に及び、御佛も之れ無く候(そうら)へども、寺号旦那も絶へず、一国一寺の札所なり、福性院を以て彼の住寺に然(しか)る可(べ)き旨(むね)達(たつし)ていわれける故、無住六年目、午(うま)の歳四月廿六日に当寺に移り来るなり。

然(しか)るに、当地に渡りて見るに本堂は四方に一枚の戸もなく、椽(たるき)より軒の下板まで泥土にぬれ敷板所々に打ち付けて、旦(だん)上には松の木板を以て藁(わら)なわにてかこひ、ゆいぶし(結い節)の間より御佛を拝するに、尊躰続いる所もなく、深山埋木枝なきがごとく成るを一間の旦(だん)になげこみて有り、扨々(さてさて)、有るべき事にこそかかる御ありさま、ぢょくせ(濁世)の今といいながら、おそろしき事共(ことども)かなと、なみだながらに拝し奉る。それより菴(あん)に至って見るに、よもぎう(蓬生)のしげれるやどに雨もりて、月のさすべき、まどもなく、むぐら(荒れ地野原に繁る雑草)しげりて、草深く、いさご(砂子・すな)びょうびょうとして、はまどりのねやをもとむる一こえも、只しんしんとして、あわれにも心をもよおし、夜に入りては佛旦(ぶつだん)に至って読経えかふ(回向)事(こと)おはり、ふけ行くそらの月をだに、ながふる事も、なつの夜に蚊虻のこへ、雷をなし事とふ夜すがのともとては、田面(たのも)の蛙こえそえて、のきねになきし厄蛙の外(ほか)はなし、我つらつらおもひけるも、うれしきすまいかな、ほうねんぐそく(法縁具足)の心もなし、藁筵(わらむしろ)六枚は。」   つづく


〇大法輪平成30年9月号 特集 仏教でやってはいけない10カ条 掲載

日々のお勤めでやってはいけない10カ条

①灯明の火は息で吹き消してはいけない
日々のお勤めをするとき、仏壇の前に座り蝋燭に火を灯して、お線香をつけて香炉に挿し、お勤めいたします。

そして、終われば灯明を消すわけですが、普通は小さな柄杓のような火消しを上からかぶせて火を消したり、掌で軽くあおいで消していることでしょう。ですが、時に急いで、ふっと息を吹いて消してしまうということもあるかもしれません。

その時、強く吹いてしまうと、溶けた蝋が周りに飛び散り、仏壇や仏器に落ちることもあるでしょう。飛び散った蝋は掃除しにくく、いつまでも跡が残るものです。きれいな仏壇、荘厳のためにも息で吹き消すことは厳禁にしたいものです。

人の息は、汚れ不浄であるから仏様に失礼にあたるので息を吹きかけて灯明を消してはならない、との受け取り方もあるようです。が、浄不浄の分別を超えた空の立場からは、決して人の息が汚れていると決めつけることもできません。

灯明とは仏様の智慧に喩えられます。仏様の智慧は、灯明が暗闇の中で足元を照らし進むべき方向を示してくれるがごとく、真実を照らして煩悩を断じ、仏菩薩を生み出すもとになるものです。仏様がそこに立ち現れるとの思いで火をつけ、消すときも心して行いたいものです。

②御鈴は乱暴に叩いてはならない
お勤めは何のためにするのでしょうか。ご自分も含め家族みんなが幸せに過ごし、ご先祖様方に感謝を捧げる行為としてあるならば、お勤めの内容にかかわらず心静かに念じるものであり、御鈴もそれに相応しく音を出すべきでしょう。

乱暴に叩くという行為に至る心はいかなるものかと推察しますと、心に余裕なく、朝御供えして御鈴を叩き、すぐに他の用事に取り掛かることに心が向かっているような場合でしょうか。

家族中に御鈴の音に触れてもらうにはよいかもしれませんが、乱暴に叩いた音に日頃のストレスのはけ口を感じさせたり、しなくてはいけない不満を感じるさせるようなら逆効果と言えます。やはり御鈴はきれいな音で、家族に安らぎを与えられるように鳴らして欲しいと思います。

③水を何日もかえないのは良くない
お供えとは何でしょうか。仏様には水の他にも灯明・花・香・飯食(おんじき)・塗香(ずこう)などを御供えします。これらを六種の供養と申して、先ずお勤めの前にはこれらのお供えを済ませてから、礼拝しお勤めするのが順序であります。

この供養という言葉の原語プージャー(puja)には、供養の他に尊敬、礼拝という意味があり、敬うべき尊いお方だからこそ御供えし礼拝するということになります。心の中で敬い尊敬していたらよいというものではありません。形に表すことが大切であり、それが供養です。

仏壇の仏様ご先祖様方は、尊いありがたい存在であり、そうして今私たちがあると思えるならば、私たちが毎日の生活に欠かせない飲み物食べ物を摂るのと同様に、少量ではあっても毎日お供えして感謝の心を表すのが本来であろうかと思います。

しかし、毎日かえなければ何か悪いことが起こるというようなものではありません。感謝の心を伝える尊い行為、徳を積む折角の機会が失われたとお考えになったらよいかと思います。

④トゲのある花を供えるべきではない
花は、どなたに差し上げるものでしょうか。花を仏様ご先祖様方に供えるものなら、花の向きはあちら側に向けるところですが、花はふつうこちら側に向けてお供えします。なぜなのでしょうか。

たとえば、灯明も線香も、仏様にと思ってお供えしても、こちら側にも明かりが届き香の香りも室内に広がります。仏様にお供えしたものが私たちにも、仏様の側からその恵みが還ってきていることになります。また、それによって仏様の世界がそこに現出している様を目の当たりにすることになります。花も同様に仏様の世界を表現する、飾るという意味合いから、こちら側に向けて供えられるのでありましょう。

仏様ご先祖様方に差し上げ、その仏様の世界が現れるところに、トゲのある花、毒のある花などを差し上げるのは、やはり控えるべきでしょう。たとえ綺麗な花であっても、仏様の世界をトゲや毒あるものとすることになります。お供えするときに、トゲで怪我をしないためにも避けたいものです。

⑤仏壇の主役は先祖ではなく本尊であることを忘れてはならない
仏壇とは何なのでしょうか。たとえば、息子さんなりお孫さんが外国人の友達を連れて家にやってきたとして、どうぞと案内した奥の間に仏壇があり、その外国人の友達が「これは何ですか」と尋ねたら、なんと答えるでしょうか。

たとえば、これは「マイ・ファミリー・ブッディスト・オールター(My Family Buddhist Alter・直訳すると、わが家の仏式祭壇)」です、と答えたとすると、「そうですか、こちらの家は仏教徒の家なんですね」ということになるでしょう。

ということは、仏壇とは仏教徒のシンボルであると考えられます。そうしますと、仏壇とは御先祖様のおられるところではありますが、まずは一番上の上段中央に本尊として祀る仏様のために設えた場であるということになります。それは私たち仏教徒の理想であり、敬い礼拝する対象として祀られたものと言えます。

そうした神聖な場に、御先祖様方も仏になるべく精進されているものとして、仏壇中段に位牌として祀られているのです。

そして、私たちも、いずれその仲間に入り位牌に祀られ、仏になるべく生まれ変わり、ともに精進を重ねていく存在であることも忘れてはならないことでしょう。

⑥読経は近所迷惑になるほど大声でするべきではない
昔高野山の専修学院に学んでいたとき、ある日の夕方のお勤めで、八十人もの学生が真面目にお唱えするお経に倍音が発生し、まるで天界の音楽のような、心地よい様々な楽器の音色を聞くことができました。

お経はよどみなく雨だれの落ちるようなテンポで淡々とお唱えするものと教えられたことがあります。またお経は耳で読めとも言います。一人で読むときも大人数で読むときにも、お経の声をきちんと聞きながらお唱えするものです。そうして何人かで同じテンポでお唱えしておりますと、唱えるお経のきれいな音の波動が倍音となり、心地よい法悦の境地を味わうことができるのです。

あまり大声で唱えてはお経を聞くどころではないでしょう。一人で唱えるときにも、時と場合に応じて適度な大きさ速さでお唱えし、自分の声を聞きながら心清まるようにお唱えしたいものです。

⑦読経は経本を見ずにするべきではない
そもそもお経は何のために唱えられるのでしょうか。仏様に向かってお唱えしますが、仏様はそのお経を説法されたお方であることを考えれば、仏様のためにお唱えしているのではないことは明らかです。

仏様の前で、改めて仏様の教えられた言葉を自ら唱えながら聞くという行為は、すなわち仏様の説法を追体験していることになります。

その経典を暗唱していることもありましょうが、教えを学ぶためには、やはり経本を手にとり、文字を確認しながら読むべきでしょう。
難しい漢字を読みながら精神を集中すると、余計な雑念が湧くことがありません。そうしてリズムよく唱えるお経には、脳の中のストレス解消になり幸福感をもたらすセロトニン神経の働きを高める効果があるそうです。

お経に慣れて、そらで読んでいる方もあるかもしれませんが、心は上の空ということにならないよう、しっかり経本を手に雑念なく読経したいものです。

⑧数珠はあまりジャラジャラと擦るべきではない
昔、インドのヨーガの聖地リシケシに巡礼した折に見た、行者さんの神々しい姿が思い出されます。ガンジス河岸の大きな岩の上に座り、数珠を爪繰りながら、ずっとマントラ(真言)を唱えていました。

数珠は擦るためではなく数をカウントするためのものです。インドのマントラを唱える行者さんのように、何千回何万回と真言や念仏を唱えるときに数珠を爪繰ることで、きちんと唱えた数を数えられるように工夫された数取りの道具です。

数珠は一般に、百八の子珠と大きな親珠が二つ、親珠からは房が取り付けられ、その基に小さな弟子珠が十ずつついています。

真言を一回唱えて子珠を一つ爪繰り、一巡して百八回で百返と数え、弟子珠を一つ上にずらします。弟子珠を十すべて上にしたら千回となりますから、もう一つの親珠の房にある弟子珠を一つ上にして、それを十回繰り返すと一万回数えることが出来るのです。一万回以上数えるときには一万回数えたら小石を一つずつ置くのだとか。

ところで、数珠を擦るようになったのは、我が国でずいぶん時代を経て、堂外でお勤めをしたお坊さんたちが、唱える真言の終わりを知らせるため、数珠を擦って知らせたのが始まりと聞いたことがあります。

⑨だらしない恰好でお勤めするべきではない
僧侶であれば、衣を着て袈裟をまとって堂に入りお勤めいたします。袈裟は仏僧との標示であり、本来身なりを飾るなどの執着を断つために着されます。つまり心を調え修行に専心するためにあると言えます。

心さえしっかりお勤めに向かっていたら着る物など何でも良いと思いがちですが、やはり心をお勤めに向かわせるためには姿形も大切です。普段着で結構ですが、少なくともだらしないと自分が思うような恰好は控えるべきでしょう。

身なりを整え、背筋を伸ばし、合掌礼拝して、経本を持つならば、自ずから心落ち着き、よいお勤めができることでしょう。

⑩お勤めの終わりには、功徳の回向を忘れてはならない
私たちがつつがなく生きられているのは、四つのもののお蔭であると、仏教では考えます。それは四恩と言い、父母、衆生、国王、三宝の四つです。

父母のお蔭でこの世に生まれ、衆生の営みによって衣食住に事欠くことなく、国王(国家)あることによって安心して暮らすことができ、そして三宝に心の教えを学び、人としてより良く生きることができるのです。そうした恵みに心を配りつつお勤めいたしたいものです。

お勤めの功徳は唱えた人にあります。その功徳を自分だけのものにすることなく、恵みをいただいているとの感謝の気持ちを表し、周りの人たち、生きとし生けるもののためにふり向ける、つまり回向することでより大きな功徳となり、それがまた自分に還ってきます。

急いでお勤めするようなときであっても、少なくともお経の終わりには、「願以此功徳(がんにしくどく)・普及於一切(ふぎゆうおいつさい)・我(が)等与衆生(とうよしゆじよう)・皆共成仏道(かいぐじようぶつどう)」と回向文を唱え回向いたしたいものです。  (全) 


〇本堂の両部曼荼羅について

昨年八月、下の写真にあるように、大覚寺所蔵の両部曼荼羅(複製)を國分寺本堂にお祀りしました。約百六十㎝四方の額装仕立で、壁の上から下まで覆っています。

この両部曼荼羅は、昨年十月に京都大覚寺で嵯峨天皇御宸筆(ごしんぴつ)の勅封(ちよくふう)般若心経が御開封され法会が行われますのを記念して、特別限定にて複製されたものです。大覚寺で伝法灌頂(でんぽうかんじよう)など大切な儀式に際して荘厳として設えられる曼荼羅であり、仏様の衣などの特徴から江戸時代の製作ではないかと推定されています。明るい色使いで、一尊一尊の仏様も大きく、名前がすべてに標示されています。

そもそも、曼荼羅・マンダラとは、インドの言葉で、円、球形、輪、軌道、壇、集団、本質などを意味します。神さまをモチーフに円や線を用いて描いた幾何学的な図像をインドではマンダラと称してヒンドゥー教などで広く用いられてきました。

仏教徒にとっての究極の目的は悟りですが、悟り、ないし悟った人を言葉や図像で表現することは出来ないとされてきました。しかし時代を経て、仏像が現れ、お釈迦様以外にたくさんの仏様を発生させる教えが生まれていきます。その仏様方を教えに基づき規則的に配置することにより集合的な仏様の世界観ができていき、さらに仏様の悟りの世界を具象化して表わす曼荼羅が誕生しました。それは実際に修行者が前に置いて観想し瞑想修行する対象としても用いられるものでした。

弘法大師が唐から持ち帰られた曼荼羅に、胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅があります。これを両部曼荼羅といって、真言宗寺院では一対として御堂に祀ることになっています。この度本堂に祀られた曼荼羅も大覚寺所蔵の金胎一対の両部曼荼羅であります。

胎蔵曼荼羅は、その名の如く母胎が胎児を守り育み、月満ちて元気な子を生み出すように、如来が大慈悲により生きとし生けるものを産み育て、さらに仏心をその子の心に育成していく如来の大慈悲の本質を表しています。 

そこで曼荼羅の中央に、大慈悲を表す蓮を描き、その中心に大日如来、八葉の蓮華の上に四仏(宝幢仏(ほうどうぶつ)・開敷花(かいふけ)王仏(おおぶつ)・無量寿仏(むりようじゆぶつ)・天鼓雷音仏(てんこらいおんぶつ))と四菩薩(普賢菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・弥勒菩薩)を配しています。これを中台八葉院(ちゆうたいはちよういん)と言い、左図のように、その周りを持明院、遍知院、釈迦院などと名付けられたグループ分けされた二百尊を超える仏様方が縦横に四重に取り囲む構造になっています。

大慈悲を智慧と慈悲に分けて展開し、教えをこの世に実証されたお釈迦様とその弟子たちの集まりや、その智慧の目を開くための仏様方、自我の執着を取り除く仏様方、またいかなる苦難をも耐える仏様方、宇宙大の福智を身につけた仏様方など内から外へと大慈悲の仏心が展開されていく様子が描かれています。

次に、金剛界曼荼羅は、金剛石の如くに堅く、何ものにも砕かれることのない、大日如来の永恒に不滅の宇宙大生命そのものを表しています。そのいのちは白色の円、白浄の満月輪(まんがちりん)によって表現されており、そこにはすべてを包み込む永遠なる命と、生きとし生けるものに平等に価値あるものを与え、それぞれに適切な慈愛を以て育み、それぞれに応じた働き行動を起こす四つの智慧がそなわるとされます。

金剛界曼荼羅は、普通縦横三つずつに分け全体で九つの区画に分けられた九会になっていますが、この度の大覚寺所蔵の金剛界曼荼羅は、九会(くえ)の中心をなす成身会(じようじんね)という区画のみを大きく拡大させた一会(いちえ)の金剛界曼荼羅です。左図のように、大きな白い円・月輪(がちりん)の中に、中心と上下左右に五つの月輪があり、それぞれの中にさらに五つの月輪が描かれています。

中心には、四人の波羅蜜菩薩に取り囲まれた大日如来が位置し、この曼荼羅では東にあたる下部には阿閦如来、南にあたる左側には宝生如来(ほうしようによらい)、西にあたる上部には無量寿如来、北にあたる右側には不空成就如来(ふくうじゆうじゆによらい)が位置しており、これら四仏の上下左右にそれぞれ四菩薩が配され、つごう十六の菩薩たちが取り囲み、それぞれの如来の徳を成就する役割を与えられています。

中心の大日如来の悟りの智慧が四仏に展開し、その四仏がそれぞれ四菩薩を生み、さらに大日如来と四仏とが供養し合い、大日如来の大生命が限りなく開き広がっていく様子を七十尊余りの仏様方によって表しています。そして、それはすなわち万物が相助け合い尊重し合い繁栄するという宇宙全体の理想的な姿を示すものでもあります。

曼荼羅の中に描かれた仏様は様々で、よく存じ上げている仏様もありますが、聞いたこともない難しい名前を持つ方も大勢おられます。

國分寺のご本尊お薬師様は、釈迦如来と同体とのことで、残念ながらこの両部曼荼羅の中にはおられません。釈迦如来は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院の上二段目に釈迦院があり、その中央に四尊の侍者に囲まれ、説法の印を結び蓮華にお座りになっています。

お薬師様の脇侍の日光菩薩は、胎蔵曼荼羅地蔵院の一番下、月光菩薩は、胎蔵曼荼羅文殊院の左中央に描かれています。

各家の仏壇の本尊様である大日如来は、胎蔵曼荼羅では、中台八葉院の中心に位置して五仏の冠(かんむり)を戴き髪を垂れ、条帛(じようはく)という布をまとう菩薩形で、臍の前に右の掌を左の掌の上に置き両親指を軽く着ける法界定印(ほうかいじよういん)に住しています。

金剛界曼荼羅では、中央の月輪の中心に位置し、五仏の冠を戴き結髪を肩に垂れ天衣(てんね)を肩から腰にめぐらし、胸の前で上に伸ばした左手の人差し指を右手の五指でまとう智拳印を結んでいます。

また、阿弥陀如来は、無量寿如来との名で、胎蔵曼荼羅では中台八葉院の西にあたる下の八葉に描かれ、金剛界曼荼羅では中央大日如来の月輪の西にあたる上の月輪の中心に描かれています。両手の親指人差し指を着けて臍の前で左右を合わせる弥陀の定印(じよういん)を結んでいます。

不動明王は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院のすぐ下の持明院の一番右に大きな火焰に取り巻かれたお姿で描かれ、観音菩薩は、胎蔵曼荼羅中台八葉院の八葉の中の北西にあたる左斜め下に描かれています。

観音菩薩はこの他、釈迦院、文殊院にもそれぞれ主尊の脇侍として描かれている他、中台八葉院のすぐ北にあたる左の蓮華部院には、聖(しよう)観音、如意輪観音、不空羂索(ふくうけんじやく)観音、馬頭(ばとう)観音、白身(びやくしん)観音など変化(へんげ)観音二十一尊が描かれています。

このように個々に見ていっても誠に興味深い曼荼羅ではありますが、それぞれ迫力ある曼荼羅全体から発せられるメッセージ、あるいは力を受け取っていただくことも一つの鑑賞の仕方ではないかと思います。美術作品ではありませんが、どちらが好ましく思われるかといった見方でもよろしいかと思います。

胎蔵曼荼羅は仏様の慈悲の温もりを表現しています。大きな曼荼羅の前に立ち、あたたかい母胎から生まれ出るようなやさしい慈悲の息吹を感じてみてください。悩み事があったり、心ふさがれ落ち込んでいるようなとき、この曼荼羅を眺めているだけで、ふと心晴れやかに穏やかになっていることに気づかれることでしょう。

金剛界曼荼羅は仏様の智慧の輝きを表現しています。大きな月輪の仏様方を前にすると、自然とそれらが立体的に躍動する様子が立ち現れてまいります。日々の生活に疲れ、力失っているようなとき、またこれからどうしたらよいか展望を見失っているようなとき、この曼荼羅を心に思い描くだけで、心の中に確たる力がみなぎってくることを実感されることでしょう。

私たちはみんな、一人ひとりいずれは仏になるために尊いいのちを授かっています。未来の自分がそこにあると思い、しばし目を閉じ、曼荼羅の中にいる自分を思い巡らしてみるのも面白いかと思います。是非お参り下さい。 (全)


〇万灯会連続法話『死ぬと生まれ変わる んですか?』前編

昨年夏の殊の外暑い猛暑に責任を押しつけるわけではないが、万灯会参加の四ヶ寺の法話を担当するとなっても、何も頭に浮かばず、初日から法会後皆さんに何か質問があればと問うてみることになった。

初日のお寺には丁度中学生がお参りになっており、その子から早速に「餓鬼とは何ですか」と質問がいただけた。何も質問がなければ、お施餓鬼の作法をお参りの方々にもしていただいているので、そのあたりのことでもお話しようかと思っていたところだったので、ありがたい質問であった。

「餓鬼とは、私たちのような身体を持つことなく、心だけの存在で、暗いところで、私たちのすることを見ていて、何か食べていたりすると物欲しそうに指をくわえて見ていたりするのですが、姿はとても醜いと言われています。私たちも死ぬ瞬間に暗い心で死ぬと餓鬼になると言われていて、生前自分さえ良くありたいと人をうらやみ妬んだりしていると死ぬときにも暗い心で亡くなる、そうすると餓鬼になると言います。

私たちは亡くなると、お釈迦様のようなお悟りを得ていないと、六道に輪廻するといって、六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のどこかに生まれ変わります。生前の行いによって、それに培われた心にしたがってどこかに転生すると考えられていますが、皆さんのようにこうしてお寺に来て徳を積み、勤行次第にもある十善をまもる生活をしていたら人間界以上の世界に転生するとされています。

間違っても地獄や餓鬼の世界に逝かないように、常にみんなと共に良くあるようにと明るく、何があっても思い詰めたりせずに暗くならないように生活することが大切です。

昔お釈迦様の時代に、ある王様の妃が若く死んで餓鬼の世界に転生したのですが、そこで、生前の自分のたくさん徳を積んだことを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思った、その瞬間に兜率天(とそつてん)に転生されたというお話しもあります。

その方は、お坊さんに食事の供養をし、その後いろいろな法話を聞くことが何よりの楽しみだったということです。皆さんも、万が一餓鬼界にいったら、生前の功徳、善いことをしたこと、お寺に沢山の寄付をしたことなどを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思えるように、自分のなした沢山の功徳をよく憶えておかなくてはいけないということです。

それで、今日の施餓鬼の作法は、洗ったお米にナス、キュウリを采(さい)の目に切って混ぜ併せた水の子を蓮の葉に盛り、そこに樒(しきみ)の葉で水を掛けて供養しますが、これは餓鬼は私たちが食べるご飯をそのまま食べることが出来ないため、わざと腐らせたようにして餓鬼に供養しているわけですが、無数にいるとされる餓鬼の供養は誠に大きな功徳があり、その功徳を御先祖様、近くに亡くなられた精霊の菩提の為にふり向ける、回向(えこう)する法会がこの施餓鬼会ということになります。」

次に、「悪霊と浮遊霊の違いについて教えて下さい、以前夜中に家に白い三角巾を頭に巻いた人が立っているのを見たことがあるのですが・・・」という質問があった。

「悪霊と言えば、人を恨み、憎んで亡くなった人の霊が、ずっとこの世に、それも特定の人の周りにとどまって悪さをするような霊のことで、浮遊霊は、亡くなっても、それが急な事故であったり、人知れず亡くなったりして葬式もしてもらえず、死んだこともわからずにこの世にとどまっているような霊のことです。

そうした霊は見える人にたよるところがあり、ちょうど貴方がその頃見える状態にあり、現れたのだと思いますが、私も高野山にいた頃同室のお坊さんが霊が見える人で、ある晩に寝苦しく夜中起きたことのあった翌朝、その方から、昨晩白衣を着た坊さんの霊が貴方の顔を覗いていきましたよと教えてくれました。

また、お施餓鬼という夕方暗くなってからする作法の最中には、ちょいちょい白衣を着た霊が来ていたと聞いています。ですから、沢山そうした浮遊霊はいるのですが、見える人を頼って姿を現すようです。今はもう見えないのなら寄ってきませんから安心してお過ごし下さい。」・・・つづく


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