11月4日に紙上に発表された朝日新聞の死生観を問う世論調査によれば、「宗教が生きていく上で大切なものだと思いますか」との問いに、そうは思わないという人が62%。また、「宗教を信じることにより、死への恐怖がなくなったり、やわらいだりすると思いますか」との問いに、そうは思わないという人が68%にも上るという結果が出ている。誠に嘆かわしいことだと思う。
宗教というものがまったく分からない時代になっていると言えまいか。核家族化して、子々孫々に伝えられてきたであろう、家の教え。その家で大切にすべきものは何か、そんなことはまったく教えられず、ただ日々の寝食と知識教育、労働だけの日常に明け暮れている現代人の姿が想像される。
私たちは何のために生きているのか。生きるとは何なのか。そんな問いに今の教育はまったく答えられないのではないだろうか。少し前に、知り合いのあるお医者さんが命の大切さについて講演を頼まれたが、どう話して良いものか分からないのですと言われていたことを思い出す。医学の知識経験はあっても、命そのものについて学んできたわけではない。それはやはり宗教の領域であろう。
宗教とは何だろう。おそらく他の動物に宗教はあるまい。他の動物と人間の違い、それは正に生きるということそのものを問う営みを持つか否かではないだろうか。毎日目を覚まし、ご飯を食べ、仕事に行く。仕事に行くからこそお金を手にして暮らせるのではあるけれども、それは生きていくためであろう。生きながらえるために働き、ご飯を口に出来る。
そのための技能、知識、マナーを学ぶために、現代の私たちには学校があり生まれてから約20年もの長い時間をそのために費やす。他の動物も生きるために食物を口にすべく育てられ様々な経験の元に食を繋ぎ生きながらえていく。そこには人間と何も変わりはないように見える。そこで、私たちはそれと同じような一生を過ごすだけでよいのかという問いが必要になる。
人として生まれたからにはそれだけではいけないのではないか。なぜならば私たちは物事を考え自らそれを実行する能力を有するものとして生まれてきているのであるから。生きるということそのものを問う営み。そのためにこそ宗教がある。宗教は生きるということと密接に関係しているのであり、ただ祈りを捧げるために宗教があるのではない。儀式儀礼のために宗教があるのでもない。それは副次的な事項であって、本来私たち自身がいかに生きるべきか、そのことを問う営みこそが宗教であろう。
お寺や神社、教会に行ったらこうしなくてはいけない、持ち物やお供えの仕方、作法、・・・そんなことは本来どうでもよいことなのであって、大切なことではない。大切なことはその儀式儀礼に参加してその人自身がそのことにどのような意味、価値を持って参加されているかということであろう。姿形、形式、作法にとらわれる余り、その中心課題にはまったく無頓着に関わりを持つが故に、宗教というものの本質すら分からない時代となってしまっているのではないか。
生きるとは何か。いかに生きるべきか。人生とは何なのかを問う営みには、多くの先人の足跡が参考となるであろう。彼らがいかにしてそれを獲得したのか。その足跡を訪ねつつ学び、自らの思索を深め、体験を重ねていくことこそが宗教に他ならない。そういう意味において、本来宗教とは人生そのものなのだと言えよう。
「宗教が生きていく上で大切なものだと思いますか」こんな問いが世論調査に入ってくるのは我が国くらいのものであろう。このこと自体誠に不名誉なことであるとも言えるが、当の宗教者自身さえもがこのことに何の反応もない、無自覚無感覚に飼い慣らされてしまった、誠に嘆かわしい末世の時代でもあるのである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
宗教というものがまったく分からない時代になっていると言えまいか。核家族化して、子々孫々に伝えられてきたであろう、家の教え。その家で大切にすべきものは何か、そんなことはまったく教えられず、ただ日々の寝食と知識教育、労働だけの日常に明け暮れている現代人の姿が想像される。
私たちは何のために生きているのか。生きるとは何なのか。そんな問いに今の教育はまったく答えられないのではないだろうか。少し前に、知り合いのあるお医者さんが命の大切さについて講演を頼まれたが、どう話して良いものか分からないのですと言われていたことを思い出す。医学の知識経験はあっても、命そのものについて学んできたわけではない。それはやはり宗教の領域であろう。
宗教とは何だろう。おそらく他の動物に宗教はあるまい。他の動物と人間の違い、それは正に生きるということそのものを問う営みを持つか否かではないだろうか。毎日目を覚まし、ご飯を食べ、仕事に行く。仕事に行くからこそお金を手にして暮らせるのではあるけれども、それは生きていくためであろう。生きながらえるために働き、ご飯を口に出来る。
そのための技能、知識、マナーを学ぶために、現代の私たちには学校があり生まれてから約20年もの長い時間をそのために費やす。他の動物も生きるために食物を口にすべく育てられ様々な経験の元に食を繋ぎ生きながらえていく。そこには人間と何も変わりはないように見える。そこで、私たちはそれと同じような一生を過ごすだけでよいのかという問いが必要になる。
人として生まれたからにはそれだけではいけないのではないか。なぜならば私たちは物事を考え自らそれを実行する能力を有するものとして生まれてきているのであるから。生きるということそのものを問う営み。そのためにこそ宗教がある。宗教は生きるということと密接に関係しているのであり、ただ祈りを捧げるために宗教があるのではない。儀式儀礼のために宗教があるのでもない。それは副次的な事項であって、本来私たち自身がいかに生きるべきか、そのことを問う営みこそが宗教であろう。
お寺や神社、教会に行ったらこうしなくてはいけない、持ち物やお供えの仕方、作法、・・・そんなことは本来どうでもよいことなのであって、大切なことではない。大切なことはその儀式儀礼に参加してその人自身がそのことにどのような意味、価値を持って参加されているかということであろう。姿形、形式、作法にとらわれる余り、その中心課題にはまったく無頓着に関わりを持つが故に、宗教というものの本質すら分からない時代となってしまっているのではないか。
生きるとは何か。いかに生きるべきか。人生とは何なのかを問う営みには、多くの先人の足跡が参考となるであろう。彼らがいかにしてそれを獲得したのか。その足跡を訪ねつつ学び、自らの思索を深め、体験を重ねていくことこそが宗教に他ならない。そういう意味において、本来宗教とは人生そのものなのだと言えよう。
「宗教が生きていく上で大切なものだと思いますか」こんな問いが世論調査に入ってくるのは我が国くらいのものであろう。このこと自体誠に不名誉なことであるとも言えるが、当の宗教者自身さえもがこのことに何の反応もない、無自覚無感覚に飼い慣らされてしまった、誠に嘆かわしい末世の時代でもあるのである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村