住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記40

2016年05月29日 13時43分06秒 | 四国歩き遍路行記
長尾寺を出て、しばらく車道を歩く。お昼過ぎだというのに多くの車が渋滞している。道沿いに立派な瓦屋根を連ねたお寺を横目に見ながら先を急ぐ。山あいに大きなダムが見えてきた、ダム左側に進み山道に入る。次第に道が険しくなり、標高八百メートル弱の女体山登山道をひたすら登る。途中岩場となり、見晴らしの良い頂上付近の大窪寺奥の院を経由して下り道となる。いつの間にか目の前が開け、気がつくと第八十八番大窪寺山門前に出ていた。それにしても大きな門である。これほどの仁王門は四国遍路では初めてだろうか。どことなしか高野山の大門を彷彿とさせている。

結願所・大窪寺は、背後に矢筈山が聳え、山の木々に囲まれるように諸堂が佇む。大窪寺は、養老年間(七一七~二四)に行基が開基した寺である。唐から帰朝した弘法大師が奥の院の岩場で求聞持法を修して、大きな窪の傍らにお堂を建て、自ら刻んだ薬師如来を祀ったという。このお薬師さまは左手に薬壺ではなく法螺貝をもつ珍しいもので、すべての災難病厄を吹き払ってくれるという。

礼堂、中殿、奥殿に分かれた珍しい本堂の、礼堂で立って理趣経を上げる。これで八十八回目の理趣経かと感慨深く思いながら、ざわざわした沢山の結願した遍路さんたちの思わず声高になる話し声をかき分け、奥殿に祀られたお薬師さまに向けてお勤めをさせていただいた。この時なぜか急ぎ足で大師堂に行き、お勤めを済まし、大師堂前のベンチに座った。

すると隣に私より少し年上のご婦人がお座りになり、どちらまで行くのか、と問われた。高野山に向かって歩いて行こうかと思います、とお答えしたように記憶しているが、まもなくご主人さんがお越しになり、二人でなにやら話をされていた。すると、徳島にこれから帰るのだけれど乗っていかないか、とおっしゃる。とにかくお接待はお断りしないことをモットーに遍路してきて、今日ここに結願したのだから即座に、ありがとうございます、と返事をしたのだろう。折角結願してゆっくり少しはその感激に浸ればよかった、とはその後思ったことで、その時はただお二人に身を任せて車に乗り込んだ。

二時間ほども掛かったのだろうか、いろいろと四国遍路の話をしてすごたように記憶しているが、あっという間に徳島駅に到着して、ではとお礼を述べて一度車を降りたのに、また私の前に戻ってこられて、これから小松島のフェリー乗り場まで行くのならそこまでと、お住まいとは離れているのに小松島まで乗せて行って下さった。そして、フェリー乗り場で写真まで撮って、後日東京の住所までその時の写真を郵送して下さった。その時の写真こそ、このシリーズ初回でも掲載した錫杖と網代傘を持った遍路姿の私である。そして今もって年賀状のやりとりをさせていただき、また一周しましたよなどと近況を知らせて下さっている。

折良く、すぐに和歌山港行きのフェリーに乗り込み、揺られながら弁当で腹ごしらえをする。夜8時頃には和歌山港に到着。和歌山城の脇を通り小一時間ほどで和歌山駅に着いたので、さて今日は和歌山駅近辺で寝ようか、駅のベンチで横になってしまおうかと思い、駅前のロータリーで思案していた。するとそこに、ジャージ姿の若い人が二人来られたので、この辺りに安い宿泊所などはありませんかと問うたところ、少し待って下さいと云われ、しばらくすると車が来て、乗りなさいと云う。

皆さんで小声で話し合われて、聞くと、明日は祝日だし成り行きで高野山まで連れて行ってあげようということになった。それから二時間あまり、そのまま高野山に向けてひた走ることになる。この間宗教の話やら、人が死ぬときの心理であるとか、仏教の話やら、みんな、おまえそんなこと考えてたのかというように、私が間に入ったことでそれまで三人の中では語り合ったことも無いような話をして、みんな少々興奮気味に、とにかく話尽きること無く話をした。特に印象に残ったのは、一人がオートバイで事故をしたときに身体から心が抜けて上から自分の身体が転がっていく様子をスローモーションのように見たという話で、それまで人に話すのさえ躊躇していたとのことであったが、私が仏教的な解釈を申し上げると安心されたようだった。そして、この時運転して下さった方とも未だに年賀状のやりとりが続いている。

夜で一台の車とも出会うこと無く曲がりくねった坂道をひた走り高野山に到着。高室院前で下ろして下さった。皆さんに、一緒に今日はお泊まりになって、明日いっしょに朝勤行してからお帰り下さいと申したが、みんな修行させられたら適わないと言いたげに、お帰りになるというので、自販機でオロナミンCを三本買ってお礼とさせていただいた。午後四時頃大窪寺に結願し、なぜか夜中の十二時半頃には高野山に来ることができた。まったくもって素晴らしい御縁の連続。少しの時間のずれも許さない遍路の功徳、出会いの妙。みんな寝静まっていたので黙って客間に入り込み自分で布団を引いて寝てから、そのありがたさがこみ上げてきた。


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四国遍路行記39

2016年02月10日 19時12分01秒 | 四国歩き遍路行記
八栗寺手前の土手下にあった遍路宿にお世話になり、ゆっくりと骨休めをして、翌朝も七時には八栗寺に向けて歩き出す。

少し行くと前方に五剣山が姿を現し、その裾野にケーブルカーの八栗登山口駅が見えてきた。駅の左手の道を行く。徐々に勾配が急になるが、三十分ほどで八栗寺山門にたどり着いた。五剣山の岩肌を背景に青々とした銅板屋根の本堂に真っ直ぐに進む。

第八十五番八栗寺は、天長六年(八二九)、弘法大師開基のお寺である。山号は、五つの峰が剣のように聳えていたからとも、この地で求聞持法を修していて五柄の剣が降ってきたからとも言われるが、寺号は、大師が唐に留学している間に八つの焼き栗の芽が出て繁茂したから八栗寺というらしい。

戦国時代には長宗我部元親の兵火により焼失するものの、文禄年間には復興し、現本堂は寛永十九年(一六四二)に藩主松平頼重が大師作の聖観音を祀り再建した。

朝勤行の気持ちを込めて、ゆっくりと理趣経をお唱えした。大師堂をお参りした後、家康の孫娘東福門院より賜ったという大師作歓喜天を祀る聖天堂に参拝する。早い時間なのに既に結構な人が参詣している。関西方面からも商売人たちの信仰を集める聖天さんには沢山の大根が祀られていた。

ケーブルの山上駅の方へまわり、東から南に向けて山を下る。土産物屋の前を通り進むと、歴代の墓が並ぶ。その中に高野山の管長をなされた中井龍瑞猊下の供養塔が目にとまり手を合わせた。五輪塔の側面から背後に足跡が記されている。阿字観という真言宗の瞑想法を多くの僧俗に宣布なされたことなどが目にとまった。体の小さな優しげなお方であったと地元の人からお話を聞いた。

山道を下り、親水公園から讃岐牟礼駅の前を通り、志度湾沿いの道を歩く。行く手に大きな五重塔が姿を現し、大きな草鞋が志度寺の仁王門を飾っていた。

第八十六番志度寺は、藤原不比等が開基したお寺だという。不比等の妹は唐の高宗皇帝に請われて妃になり、不比等が亡き父鎌足供養のために興福寺建立にあたり、唐に伝わる三種の宝珠を兄に送った。ところが、その船が志度の浦で難破して一つの宝珠を竜神に取られてしまう。宝珠を探すために志度を訪れた不比等は、土地の海女と情を通じて男児をもうけ、その子を跡継ぎにするとの約束を取り付け海女は海に潜り、その命と引き替えに宝珠を取り戻したという。

不比等は宝珠を興福寺に納め、この地に海女の墓を建てて堂宇を作り、「死度の道場」と名づけた。後にその男児は房前と名を改め、行基とともにこの地に来て、母の冥福を祈り大伽藍を造営したのだという。

国の重要文化財の本堂に上がり、理趣経一巻お唱えする。善通寺派のため、善通寺の遍照殿での朝のお勤めの時に顔を合わせた僧がおられ挨拶して外に出る。かなり広い境内ではあるが、木々が茂り苔むした五輪塔が所狭しと建ち並ぶ。潮風が漂う境内をゆっくり散策したいところではあったが、先を急いだ。

仁王門を出て、ひたすら南に向けて歩く。途中建設中の高速道路の高架の下を通り、平坦ながら車の多い道を一時間半ほどで第八十七番長尾寺に到着。仁王門をくぐり、広い境内を見渡す。今までのお寺と何か雰囲気が違うと思ったら、ここは江戸時代前期に天台宗に改宗されているのだという。

天平十年(七三八)行基がこの地を巡錫中に、道ばたの楊柳で聖観音像を刻み小堂を建て、後に弘法大師が入唐にあたり、この本尊に祈願して護摩供を修した。そして帰朝した大師は唐での大願成就を感謝して、大日経の一字一石供養塔を建立したといわれている。

その後度重なる兵火に遭い伽藍は壊滅しては再建を繰り返し、現本堂は藩主松平頼重によって再建された。頼重は、この長尾寺の本尊を「当国七観音随一」と讃え、秘仏として祀られている。

堂々とした唐破風の庇のついた本堂前で、急ぎ足で経を唱え、塔のように九輪がのった宝形造りの屋根の大師堂に参る。

ガランとした境内に大きな古木が枝を張っている。その下にあったベンチに腰掛けて、通り沿いのお店で買ったおにぎりをほおばる。まだお昼を過ぎたばかり、結願所大窪寺まで行けそうだ。



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四国遍路行38

2015年11月02日 19時11分28秒 | 四国歩き遍路行記
根来寺を後にして、次なるは四国第八十三番一宮寺に向け歩き出す。五色台みかん園から、車道を一時間ほど歩くと鬼無の駅が見えてきた。

駅前のよろず屋でパンを買い食べる。食べながら家に手紙を書き、駅前のポストに入れた。小さな駅だが、ロータリーの周りに新しく草花を植え整備されていた。さらに車道を歩いて香東川を渡って、一宮寺へ。

一の宮・田村神社の大きな鳥居の前から左に出ると一宮寺の仁王門が見えてきた。

一宮寺は、もともと奈良仏教隆盛の基を開いたとされる義淵僧正が奈良時代初期に開創したといわれ、当時は法相宗に属し、大宝院と称していた。

義淵は唐に留学して沢山の経典を持ち帰り、光明皇后に仕えて後に國分寺制や東大寺を創建する知識を授けたと言われる玄や國分寺の境内にも祀る行基菩薩の師にあたる人である。

後にその行基がこちらに来訪して、堂宇を建造し、田村神社の別当職となり一宮寺と改称した。

そして弘法大師が大同年間に巡錫の折に聖観音菩薩を刻み本尊に据えた。戦国時代には、この一宮寺も長宗我部元親の兵火にかかり、灰燼と化し、後の住僧らによって再建したという。

正面に進み、本堂でゆっくりと理趣経を一巻、そして、多くの燈籠が吊された大師堂の中に入り、香の香りに包まれながら心経を読み上げた。

どこからともなく子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。一宮寺はどこからがお寺なのかがわからないような敷地の中に堂宇が点在する。わざとそのような設営なのかもしれない。神社からお寺へと広々とした空間が広がる安らぎの中で楽しそうに子供たちが賑やかにするのは何ともいいものだと思えた。ゆっくりしたかったが、先を急いだ。

第八十四番屋島寺までは、十四キロほど。四時間はかかるだろうか。ひたすら車道を歩く。作り始めの高速道路の高架の下を通り、高松の賑やかな街中を歩く。なるべく下を見て歩いていたが、高野山讃岐別院という看板があった。

このときには立ち寄らなかったが、この翌年に遍路したときには丁度夕刻にさしかかり、一夜の宿を願い、名乗ったところ、高野山の師匠に電話をされて、なればどうぞと客間に案内され、かえって冷や汗をかくことになった。

しかし、翌朝本堂でお勤めをしてから賄いのおばさんが昼食を用意してくれたので食していると、そこへ、総代で弘法大師の著作もある中橋健氏がお参りに来られ、折良く、光明真言を二百万遍唱えた話やいろいろと弘法大師信仰についてご教示賜ったことはさすがに有り難い遍路の功徳と思ったことである。

このときには、ただひたすら前を通り過ぎ、琴電の踏切を越えて屋島寺への道を急いだ。山道に入ると、蛇腹の道が続く、小さな祠や地蔵が所々に現れだしたら、屋島寺の入口にさしかかっていた。

屋島寺は、唐から日本に正式な授戒作法を伝えるために、国禁を犯し五回も渡航に失敗した末に、十一年も掛けて来朝した鑑真和上が、太宰府から奈良に入る途中、天平勝宝五年(753)に立ち寄られて屋島の北嶺に普賢堂を建てられたことに由来する。

後に弘法大師が、弘仁六年に訪れて、北嶺から南嶺にお寺を移して本堂を建立、千手観音を刻み本尊とした。慶長十六年、元禄二年、そして昭和にも解体修理が施された、本瓦葺きの本堂は、現在、国の重要文化財となっている。

柱が白くなった本堂前で理趣経一巻、そして、大師堂に参る。

源平の合戦の地でもあり、また瀬戸内海が見渡せる風光明媚な高台でしばしのんびりしたいところであった。が、多くの観光客で賑わっていて、なぜか場違いな雰囲気を感じ、隠れるように遍路道に入り、八栗寺へ向かう。

屋島ドライブウェイを横切るあたりで振り返ると、まさに屋根のような屋島の地形が目の前に迫っていた。

途中、清盛の娘建礼門院の子で壇ノ浦で平家一族とともに入水した安徳天皇を祀る、安徳天皇社の前を通り、八栗寺登山口手前あたりで暗くなりかけ、丁度土手下にあった遍路宿にやっかいになることにした。


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四国遍路行記37

2015年06月14日 16時16分54秒 | 四国歩き遍路行記

讃岐國分寺の多宝塔造りの大師堂をお詣りし、奈良時代に鋳造されたという梵鐘が吊されている鐘楼を拝見する。国の重要文化財。今では、広大なかつての寺域が国の特別史跡に指定されており、近年の発掘により珍しく僧坊跡が確認され一部復元されている。資料館に復元模型が展示されているという。

國分寺を後にして、住宅街を通ってしばらくして案内板の矢印に従って山道に入る。山道はやはり楽しい。登りで体はきつくとも、生き物と共にあることを肌で感じるからか。国道の側道を歩いていると体が衰弱してくることが分かる。一時間ほどで休憩所があり、しばし休んでまた歩き出す。急坂が続く、いわゆる遍路転がしと言われる難所である。途中地蔵菩薩の祀られた広場から左に白峰寺右に根香寺という道しるべがあった。そこから左に歩いて半時間ほどで第八十一番白峰寺にたどり着いた。三段に掛け下ろしの瓦屋根の山門をくぐる。

白峰寺は弘法大師が弘仁二年(八一五)に山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り衆生済度を祈願したのが始まりという。その後天台宗の智証大師が白峰大権現の神託をえて瀬戸内海の流木で千手観音を刻んで本尊とした。その後、天皇寺に流罪で逗留していた崇徳上皇が荼毘に付されたのがこの地であり、寺の裏山に葬られ白峰御陵として祀られている。たまたまお遍路さんの姿が見えなかったからかもしれないが、ひどくひっそりとして天気は晴れやかなのに暗い境内を歩き、長い石段の先に建つ本堂に、そして大師堂に参った。夕刻が迫っていたこともあり、早々においとまして、次なる根香寺に向かった。

実は、白峰寺から根香寺までの遍路道は、歴史的な面影を色濃く残しているとされ平成二十五年に国指定の史跡となっている。道が史跡になるというのは珍しいことなのではあるまいか。百メートルごとに立つ丁石、中務茂兵衛の道標や閼伽井があり、記憶に強く残る遍路道の一つである。木々に囲まれた自然のトンネルのような遍路道を心地よく二時間ほど歩いて根香寺山門にたどり着いた。 

仁王門前には、山号ともなっている青峰山にいたと伝承される大きな牛鬼像が祀られていた。仁王門を入ると下りの石段があり、しばらく行くと登りの石段が続く。その右手には修験道の開祖である、大きな役行者像、左手には水掛地蔵尊が祀られていた。

第八十二番根香寺は、入唐前に弘法大師が五大明王を祀り、草庵を結んだところといわれている。後に智証大師が巡錫して、香木で千手観音を刻み本尊とした。その時香木の根まで香り高かったためそれが寺号になったと言い伝えられている。鎌倉時代には九十九院を誇る大寺となり後白河法皇の勅願所だった時代もあるとか。しかし兵火にかかり一時衰退し、寛文四年(一六六四)に高松城主松平頼重によって再興され、その時天台宗に転じている。

このとき既に暗くなりかかっていた。その日は夕食を手当もせず、買い物出来る場所もない。仕方なく、大師堂の脇に置かれた縁台にそのまま寝袋を広げた。夜中にオートバイのエンジン音をふかす音で目覚めると、数人の若者たちが大きな声で話しながら近くまでやってきた。慣れたものなのだろう、人が寝ていても知らん顔で去って行ってくれた。翌朝は六時前に起き出して洗面を済ませ、そこからさらに石段を登り、回廊を巡って本堂前に出て理趣経一巻。大師堂、それに、弘法大師ゆかりの五大尊堂にお詣りした。

五大尊とは、本山大覚寺の本尊でもあるが、不動明王(中央)はじめ、降三世明王(東方)、軍荼利明王(南方)、大威徳明王(西方)、金剛夜叉明王ないし烏枢沙摩明王(北方)の五尊のこと。明王の明とは、智慧の光明を生ぜしめる真言・陀羅尼のことで、それは最も重要なものとして王と尊んで、その真言を宣布する尊格を各々○○明王と呼ぶ。えてして悟り難き衆生を調伏するために忿怒の形相をして威圧する姿をとる。

 

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四国遍路行記36

2015年02月11日 14時43分22秒 | 四国歩き遍路行記
道照寺を後にして、車に乗り込み、第七十八番郷照寺へ。県道二十一号線を北に進む。歩けば二時間もかかるところを二十分ほどで送り届けて下さった。尼僧さんはそのまま善通寺にお帰りになり、一人参道から山門をくぐった。

郷照寺は神亀二年、この地を訪れた行基が55センチほどの阿弥陀如来像を彫造して本尊として道場寺と称した。その後、大同二年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、自らの像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」と呼ばれ地元の人々から崇敬されているという。

京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し仁寿年間(851〜54)修行した。また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したとされている。

さらに、仁治四年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を寓居とした。道範阿闍梨は、堺の船尾で生まれ、17歳で出家。高野山正智院に住み、金剛峯寺の執行として高野山の中心人物となった。新義派の祖である覚鑁上人が根来へ高野山から下りて百年あまり後、根来寺と再度不和になり根来伝法院を高野山僧徒が焼いたことの沙汰として讃岐へ流され、六年間滞在した。

また、時宗の開祖となる一遍上人(1239〜89)が正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開き、以来この寺には真言・念仏二つの法門が伝わることになる。後に郷照寺と改めたのは寛文四年(1664)高松初代藩主・松平頼重公のときのことで、寺名とともに時宗に改めている。重層の本堂に詣り、大正時代に再建さけたという大師堂で心経を唱えた。

山門を出てもお迎えはない。とぼとぼ車で来た道を東に歩く。大束川を渡り、JR予讃線の踏切を越えて、国道三十三号線をさらに東に進む。今では瀬戸中央自動車道の高架になっているあたりはその頃工事中で、そこからさらに一時間ほど歩くと、道沿い左に、第七十九番天皇寺の赤い鳥居が見えてきた。

天皇寺は高照院として銘記されてきた。この地は元々日本武尊が悪魚退治にやってきて、その悪魚の毒で八十八の兵士とともに倒れてしまったとき、横潮明神が泉の水を持ってきて飲ませたところみな回復したと言われ、以来その水は八十場の泉と呼ばれてきた。弘法大師が巡錫の折にも、その泉のあたりで霊感を感じ、近くの霊木で十一面観音を刻んで、堂宇を建立して安置、摩尼珠院と号した。脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造。この本尊の霊験著しく、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであったという。

保元元年(1156)7月、皇位継承に不満を持つ崇徳上皇が摂関家を巻き込み、源氏平氏ともに敵味方となって戦った保元の乱に敗れた上皇が流された先がこの地であった。上皇は阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御。二条天皇は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営し、また、後嵯峨天皇の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転した。明治新政府の神仏分離令により摩尼珠院は廃寺となったが、天皇社は白峰宮となって摩尼珠院主が落飾して初代神官となった。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっているというまことに複雑な縁起をもつお寺である。

鳥居をくぐり、正面に白峰社があり、その左手に江戸時代再建という本堂と大師堂がある。ゆっくりと理趣経、心経をそれぞれにお唱えして、ベンチでお弁当を開いた。善通寺の宿坊のおばちゃんが作って下さったお弁当。釈迦堂の尼僧さんが一声添えて下ったものだろう。ありがたくいただく。

そして、重たいお腹を抱えるように歩き出す。次なる第八十番國分寺も、六キロほどの距離である。予讃線が見えたり隠れたりしながら、予讃線国分駅からすぐ先に國分寺が見えてきた。山門には見事な松が垂れている。境内全域が讃岐國分寺跡として特別史跡に指定されているという。奈良時代の建物の礎石が並ぶ中、正面の本堂へ進む。本尊千手観音様のお姿を偲び経を唱え、納経所の横から多宝塔形式の珍しい大師堂を拝んだ。


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四国遍路行記35

2014年11月08日 19時36分29秒 | 四国歩き遍路行記
済世橋を通って、第七十五番善通寺に入り、高野山の専修学院で同期だった炭田師を訪ねた。その頃善通寺の役僧をされていた炭田師は、来訪を殊の外よろこんで下さった。すぐに宿坊に案内してくれて、荷物を置き、弘法大師を祀る御影堂の奥に案内してくれたので、そこでまずは理趣経一巻。それから、地下法場・戒壇巡りへ。真っ暗な中、手探りで御大師様の身元に参り、あたたかい温もりを感じ取ることができた。それから宝物館に参り、大師が師の恵果和尚から授けられた国宝の錫杖などを拝観した。

その後宿坊の部屋でしばし休息をとり、夕食までまだ間があったので、しばし、寺内諸堂をお参りして歩いた。さすがは善通寺、どこに行っても人があり、地元の信徒とお遍路さんが絶えることはない。善通寺は、言わずと知れた弘法大師空海生誕の地である。大同元年(806)、唐から帰った大師は、自家佐伯家の先祖を祀る氏寺建立を発願。父田公から譲られた土地に唐の八大霊場の土砂を撒いて、唐の青龍寺を模した伽藍を造営した。自ら薬師如来を刻み、金堂に安置、七年がかりで弘仁四年(813)、七堂伽藍が完成する。背後に聳える香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五峰に因み、山号を五岳山とし、寺号は父田公の名前から善通寺としたという。

善通寺は、東院と西院に分かれている。東院は、金堂、釈迦堂、五重塔、五社明神社、それに樹齢千年を越えるという楠の大木があり注連縄で荘厳されている。西院は、御影堂、地蔵堂、本坊、それに、護摩堂や、親鸞堂があり、昔日の賑わいの様を想像しながら夕刻の日が暮れだした伽藍を一人散策した。

翌朝は6時から御影堂で勤行があった。遍路姿で参ると、なぜか執事さんから内陣に入るように言われ、善通寺のお坊様方と共に座ってお勤めさせていただいた。このとき、途中の遍路道で何度かお会いして見覚えのある中年のお遍路さんが手を振っていた。思えば、そうして記憶に残るその方は、実はその十年ものちに、この地に来て再会を果たした平野の先達さんだった。今も毎月のお護摩にお参り下さることを思うと、誠に不思議なご縁と言えようか。

宿坊で朝食をいただき、釈迦堂へ。釈迦堂には私の母親ほどの年の尼さんが勤務されていて、つい時間を忘れて話し込んでしまった。修行の話からお堂のこと、行者さんたちのことなど。余りに長話をして遍路の予定を大幅に遅らせてしまったからと、その尼さんがその後、ありがたいことに郷照寺まで車のお接待をして下さった。

善通寺から次なる七十六番金倉寺は三.五キロの道のり。車なので、あっという間に到着。仁王門をくぐり正面に本堂、鎌倉様式の入母屋造り、赤みがかったカナダ檜をつかった新しい建物だが、この様式では四国随一と言われるように優美な美しさを醸し出していた。左手に大師堂。弘法大師の姪を母にもち、天台宗寺門派の開祖・智証大師円珍の生誕地。比叡山での修行のあと唐に渡り密教を学び、弘法大師と同じように青龍寺を模して伽藍を造営したといわれる。宝亀五年(774)長者和気道善の開基で当時は道善寺と号した。

鶏足山という山号をもつが、ちなみに鶏足山とは、もともとインドのマガダ国にあった山で、お釈迦様の第一弟子摩訶迦葉尊者が入滅した地と伝えられている。また、中国雲南省大理には、前に三つの峰、後背に一つの峰がありその形が鶏の足に似るところから鶏足山と名付けられた山があり、中国の仏教名山である五台山、峨眉山、普陀山、九華山と並び中国五大仏山の一つとされている。

金倉寺は、建武の争乱(1334~1336)、天文(1532~1555)の兵火に遭い焼失、寛永年間(1624~1644)讃岐の松平公により再建。現在の本堂は昭和に入ってから改築された。明治時代、乃木希典将軍が善通寺第11師団長の頃2年7ヶ月にわたって金倉寺の客殿を宿泊所としたことがあり、様々な遺品が残されている。車で待つ人があるので、手早く本堂で理趣経一巻、大師堂で心経を唱え、足早に失礼した。

そして、次なる七十七番道隆寺は、金倉寺を開基した和気道義の弟道隆が創建した。ある日道隆が桑畑で光る桑の木に矢を放ったところ、そこには矢が当たり倒れている乳母がいた。悲嘆に暮れた道隆は、桑の大木を切って薬師如来を刻んでお堂を建てた。その後弘法大師が巡錫の折、改めて薬師如来を刻み、道隆の仏像を胎内に納め本尊として安置。道隆の子朝祐が七堂伽藍を整え寺号に父の名をつけたという。この薬師は目なおしの薬師といわれ、眼病に霊験ありと有名である。小ぶりながら均整のとれた多宝塔に合掌して、本堂、大師堂に参る。


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四国遍路行記34

2014年05月26日 11時14分55秒 | 四国歩き遍路行記
本山寺の瓦置き場の寝袋の中で目を覚ました。六時少し前だった。手水鉢の水をいただいて洗顔。戻って寝袋を丸めて紐で止め頭陀袋に結ぶ。そして本堂へ朝のお勤めに参上した。

本山寺は、大同二年(八〇七)に平城天皇の勅により、弘法大師が井の内村から伐採した用材で一夜のうちに七間四方の堂宇を建立したのが始まりといわれる。そのとき本尊として馬頭観世音菩薩を刻んで安置したという。観音様は柔和なお顔と決まっているが、馬頭観音だけは頭に馬を乗せた忿怒相に変化していて、明王のような恐ろしい形相をしている。人間の煩悩を取り除き諸悪を断じてくれるのだという。本尊と同時に刻んだ 阿弥陀、薬師の両如来ともに国宝に指定されている。

本堂も鎌倉時代建立の寄せ棟造りの本瓦葺きで、国宝。二十あまりの坊があるほどに栄えたが、戦国時代に本陣にしようと長宗我部氏が入り、それを押しとどめようとした住職は斬られるという歴史があった。見事な五重塔は明治末期の再建である。

本堂、大師堂と拝んでいたら、後ろにYさんが既に来られていた。早速車に乗り込み、次なる七十一番弥谷寺に向かう。十一キロほどの距離。下の駐車場に車を止めて歩き出す。

弥谷寺は石段のお寺。駐車場から二百六十二段もの石段を登ると大きな六メートルもある金剛拳菩薩がお目見えした。金剛拳菩薩は金剛界四仏の十六ある供養尊の最後で、行者の修行の完成を意味する姿。胸の前で両手の拳を上下に重ねる印は悟りの境地を世間に結びつけることを意味する。

そこからさらに百八段登ると大師堂に、そしてさらに百七十段登って本堂へ。途中、薄暗い岩壁を横に見ながら登っていくと、大師の修行場だったという弥陀三尊の磨崖仏龕や、沢山の地蔵尊が彫られていたりと、ゾクゾクするようなエキゾチックな雰囲気に満ちていた。

弥谷寺は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創した時には山頂から瀬戸内海を挟んで八国が望めたので八国寺と称したとされる。が、大同二年に弘法大師が修行していると五本の剣が降ってきて蔵王権現が示現したので山号を五剣山、また一帯に谷が多いことから寺号も弥谷寺と改めたという。

岩穴に堂を取り付けたような本堂の前で本尊千手観音に理趣経をお供えし、洞穴の中のような大師堂では薄暗いお堂の中で心経を唱えた。Yさんもさすがに何か感じられるのか怖そうに私の後ろに貼り付いて手を合わしていた。大師堂の裏側には弘法大師が幼少の頃勉学に励んだという獅子岩窟もあり、祖霊の集まる所といわれる弥谷寺独特の雰囲気を醸し出していた。

次なる札所七十二番曼荼羅寺までは四キロ弱、車なので瞬く間に到着した。

曼荼羅寺は、もともと世坂寺といい弘法大師の生まれた佐伯氏の氏寺で、唐から帰国した弘法大師は、青龍寺を模した伽藍を立て、大日如来を刻んで本尊とした。唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅も安置し、寺号も曼荼羅寺と改めた。永禄三年(一五六〇)阿波の三好実休の兵火にかかり焼失したあと再興されたのが今の伽藍。境内一杯に広がった老松は弘法大師お手植えと伝わるが、残念ながらこの見事な松は平成十四年に枯れてしまった。

待っていて下さるYさんに気遣いつつ、早めに理趣経と心経を唱え、一キロも離れていない次なる札所へ。

七十三番出釈迦寺は、山号を我拝師山という。が、実は曼荼羅寺も同じ山号で、ともに我拝師山に連なる伽藍であったのであろう。

この出釈迦寺から南に続く山はもともと倭斯濃山(わしのやま)といったが、弘法大師が幼少の頃、山頂で一切衆生を救わんと誓願して「我が願い叶うならお釈迦様どうか現れ給え、叶わぬなら我が身を捨てて諸仏に供養し奉る」と崖から身を投げると、紫雲たなびきお釈迦様と天女がすくい取って下さったという。そこで、この山を我拝師山と名付け、釈迦如来像を刻んで本尊とし、それが出釈迦寺の基となったのであろう。

我拝師山への道の右側に本坊、大師堂、本堂と続いている。このとき、読経を済ませ、一人我拝師山に登山した。途中水の湧くところで喉を潤し、置いてあった杖を借り急斜面を登る。大きな通夜堂があって、その脇から弘法大師が子供の頃身を投げたという捨身ヶ嶽禅定と言われる崖から下を覗いた。足下は大きな岩がごろごろしている。早々に引き返し山道を下った。

Yさんは車の中で待っていて下さった。今日の夕方までご一緒すると言われていたので仕方なくお付き合いしているようでもあった。七十四番甲山寺はいよいよ善通寺のお膝元。平地に戻り田んぼの中に見える低い山、標高八七メートルという甲山(かぶとやま)を目指す。

このあたりは弘法大師のふるさとで、善通寺と曼荼羅寺の間に寺院を建立しようと霊地を探していたとき、甲山の麓で一人の老翁に出会い、この地を勧められた。大師は早速、毘沙門天像を刻み、山の岩窟に安置した。これが甲山寺の開基となった。

落ち着いた雰囲気の本堂そして大師堂をお参りする。弘法大師作と伝える薬師如来が本尊様。大師堂の近くには大師が刻んだと言われる毘沙門天を祀る岩窟もあった。

お腹を空かしたYさんは既に車の中。乗り込むとすぐに善通寺目指して走り出した。善通寺の駐車場近くのうどん屋さんで讃岐うどんをごちそうになった。既に二時を回っている。遅い昼食をご一緒して、二日間の同行に感謝しお別れした。

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四国遍路行記33

2014年05月23日 11時05分01秒 | 四国歩き遍路行記
六十六番雲辺寺は徳島県にある。が、札所としては、ここからが涅槃の道場、讃岐の国に入る。

弘法大師が若き日にこの地にいたり、霊気にうたれて一宇建てたと伝承されるが、唐から帰朝後大同二年に巡錫の折に、秘密灌頂の儀式を行ったとも言われる。その後嵯峨天皇の勅により、千手観音を刻み本尊として安置した。

四国高野とも呼ばれて学侶が集い七堂伽藍が整って、末寺八か寺を擁する巨刹となるものの戦国時代には兵火にかかり、江戸時代蜂須賀家の庇護により再興されたと伝えられている。

丁度本堂建て替えの時期に当たり小さなプレハブの仮本堂の前で読経。大師堂は大きな宝形造りの庇の中で般若心経一巻。昨日の暑さが嘘のようにひんやりする中、椿堂で頂戴したお弁当をベンチに座って食べる。

それからロープウェイの乗り場付近にある展望塔を訪ねた。大きな毘沙門天が立つその展望塔には、昨年高知の護国寺の座禅会でお会いした禅僧が坊守をされていると聞いていた。小さな部屋で坐禅するように座られていたがにこやかに迎えてくれて、しばし歓談。五十を過ぎてこの道に入られたが、なかなか居場所に恵まれないというような話をされていたと記憶している。

山道を下る。下界は温かい。山道から車道に合流して、県道二四〇号線をひたすら歩く。岩鍋池に沿うように歩き、しばらく行くと田圃が広がるのどかな風景の先に大興寺があった。

到着して石段を上がろうとしたら、車で来ていたご婦人に話しかけられた。炊き込みご飯は要らないかと言う。いただけるものは何でも頂戴しますと答えたのだったか、とにかく、待っているからお参りしてこいと言う。石段を駆け上がり、本堂と大師堂で読経して、あんまり時間がかかったのでもう居ないだろうと思ったら待っておられた。次の札所まで車のお接待をして下さるというので、車に乗り込む。

因みに、六十七番大興寺は、天平年間に東大寺の末寺として建立されたとも、嵯峨天皇の勅願により弘仁十三年に弘法大師が開山したとも言われているが、中世には天台、真言両宗の修行道場として栄えたという。が、天正年間に長宗我部元親による兵火で焼失、その後再興されたのが現在の建物。現在でも境内に弘法大師を祀る大師堂と、中国の天台智(ちぎ)を祀る天台大師堂があって、今は真言宗に属しているが、宗派色を感じない不思議な雰囲気のあるお寺である。

Yさんは、業務用のようなライトバンに私を乗せて、次なる神恵院と観音寺に向かった。歩いたら二時間はかかる距離も車なら二十分ほどだったろうか。観音寺の駐車場は、大型バスでひしめいていた。ここは一か所に二つの札所のあるところとして有名である。

六十八番神恵院は、琴弾山(ことびきやま)の頂きに鎮座する琴弾八幡宮がもともとの六十八番札所であったという。神恵院は八幡宮の神事を司る別当寺で、もとは神宮寺宝光院という名称だった。明治の神仏分離令に当たり八幡宮と分離したため、麓にあった観音寺境内に神恵院を移したのだという。

そもそも琴弾八幡は、法相宗の日証上人がこの地に草庵を結んでいたとき、沖に舟に乗った琴を弾く翁を見たので、浜に下りると「我は宇佐八幡大明神である」と告げたという。そして、上人がその舟と琴を山頂に祀ったのが琴弾八幡宮の開基となっている。

神恵院の本尊様は八幡神の本地仏阿弥陀如来。弘法大師が大同二年に巡錫して、この寺の第七代住職となり、この時琴弾八幡の神船は神功皇后ゆかりのもので観音様の化身と感得されて聖観音像を刻して安置。さらに仏塔建立の折、瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋めて地鎮祭を行ったことから七宝山観音寺と寺号を改め、別に霊場としたのだという。

どっしりした金剛力士像に睨まれ、仁王門をくぐり、石段を登るとひときわ彫刻の立派な鐘楼堂が眼に入る。境内中腹に神恵院の小ぶりの本堂があり、下に重要文化財の観音寺本堂を拝む。

この翌年遍路した際にはここで丁度夕刻になり通夜堂をお願いしたところ、御詠歌の練習のための古い建物に案内されて休ませていただいた。

この時はやはり既に夕刻になろうとしていたが、Yさんが境内の端で待っていて下さって、まだ接待するからと次なる本山寺までご一緒した。本山寺までは四・五キロ。十分ほどだったが既に暗くなりかけている。私は寝袋があるので本山寺の境内で瓦置き場に入り込み休むことにしたが、Yさんは近くの遍路宿へ泊まられた。Yさんからいただいた炊き込みご飯を食べてこの日は横になった。街中だったが静かな夜。思いもかけず同行Yさんの出現で歩を伸ばすことができた。これも、歩き遍路の妙と言えようか。


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四国遍路行記-32

2013年10月23日 19時21分30秒 | 四国歩き遍路行記
番外札所いざり松延命寺の大師堂の横の部屋に案内された。八畳間にこたつ。ポット、湯沸かし、ラジオ、それに布団まである。ありがたいことだ。お寺の前の商店に行き、カップヌードルに食パン、玉子ドーフ、天ぷらを買ってきて一人食べた。前日よく歩いたので熟睡できたようで、翌朝はスッキリと目を覚ました。大師堂、本堂でお勤めを済ませ遍路道へ。

国道十一号をしばらく歩いて松山自動車道の高架を過ぎたあたりから山道に入る。十キロ少々と思うのでなかなか三角寺にたどり着けない。昇り道に入り、野菜の無人売り場やよろず屋などを左手に見ながら歩く。広い踊り場に出たと思ったら、そこから石段を登ると三角寺だった。石段の上には楼門があり、「三角寺」と扁額にある。鐘楼をひと撞きして、一礼して寺内に入る。

65番三角寺は、聖武天皇の勅願寺で、行基菩薩の開基という。後に弘法大師が巡錫し、十一面観音を本尊として安置した。そして、21日間三角形の護摩壇で秘法を修したので三角寺と言われるようになるのだが、その跡が庫裏横の三角の池だと言われている。三角形の護摩壇は降伏護摩を修したことを意味する。何を降伏したのか、三角寺の奥の院は仙龍寺といい、その頃そこに居た龍が里に水をやらず困らせていたのであろう。大師に追いつめられた悪い龍は降参して里人のために「水」を出すと約束したのだという。

今ではその池の中に三角形の島があり弁天様が祀られている。唐破風の庇が鮮やかな本堂前で理趣経一巻。その長いお経に何事かと思ったのか、終えると副住職さんが声を掛けてくださった。高野山でのことなどを互いに話したと記憶している。

そのあと、境内のベンチに座り、ここへたどり着く前に托鉢した時もらったサンドイッチを食べた。伊予三島の町の商店街で初めて本格的に托鉢をした。店の前で延命十句観音経を唱える。短いお経だから、その間に何の反応もなければそのまま次の店に。関心のない人と困った様子の方とすぐに何かを持たせなくてはとあわてる方と様々だ。遍路途中でもあるので約三十分の托鉢だった。

今日まで、門付けの托鉢が出来なかったのは、歩くことに自信が無かったからか、心に余裕がなく、どうしても先に行きたい、足が痛くならないよう歩きたい、今日はどんなところで寝られるだろうかなどと考えていたからかもしれない。考えても考えなくても、ここ数日のように用意されていたかのような場所で寝られるものなのだ。まったく寝場所が見つからず放浪した挙げ句に、思いがけないお宿にたどり着くこともある。出たとこ勝負で行くしかないと諦めたら良いのだと思えた。

三角寺から、山を小川に沿って下る。高知自動車道の工事中だったのであろう、大きな道路工事中の道を通り過ぎ、しばし歩くと三時過ぎには番外札所椿堂に着いた。新しい大きな本堂の前に通りを隔てて小さな大師堂があり、そこから若い副住職さんが出てこられた。歩いてきたのならどうぞ、といわれて、プレハブ2階の通夜堂に案内された。大きなメガネを掛けた人の良さそうな方で、陽が差す温かい部屋で安心して寛がせていただいた。

椿堂は、大同2年(807)邦治居士なる人がこの地に庵を結び、地蔵尊を祀った。弘仁6年(815)10月15日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病が流行し住民が苦しんでいるのを見て、人々をこの庵に集めて杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去ったという。後にこの杖より逆さなる椿が芽を出し、住民はこの椿を大師お杖椿といって、この庵を「椿堂」と呼びこの地方の地名ともなった。安政六年(1859)に火災に遭ったが、現在の椿はその時焼けた株から芽を出したものといわれている。

早い時間だったこともあり、荷物を置いてゆっくりしてから、本堂に参り理趣経一巻唱える。唱え終わると、髭を生やしたご住職が納経所からお出ましになり、しばし団欒。「若い時には、成田山の断食道場で21日間の断食をしたり、滝に当たって修行したものだ、若いうちにどしどしおやんなさい・・・」などと、昔話に聞き入る間に、若い奥さんが夕飯を用意して下さった。通夜堂に戻り、肉じゃがにゴボウの煮物、大豆とひじき、じゃこ、ご飯に味噌汁、久しぶりの手料理。美味しいので、つい早飯になってしまって、食べ終わってから残念に思えたほどだった。

翌朝は5時過ぎに起こされ、年寄りのご住職と朝勤行をともにさせていただいた。朝食までご一緒し、なぜか私のことを大層気に入って下さり、実はこの翌年に遍路したときには、半月後の法事をして下さいと頼まれて、88番札所からこの椿堂へ引き返してくることにもなったほどであった。その時は、7時過ぎにお暇して遍路道に戻り、雲辺寺へひたすら歩いているとき、オートバイで副住職さんが、またなぜか御布施を持って追いかけてきてくれた。

それから、山道に入り2時間は歩いただろうか、11時半頃に66番札所雲辺寺に到着。標高900メートルの雲辺寺はその名の通り雲の中だった。霧が立ちこめて視界は30メートル。上はさすがに冷たかった。

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四国遍路行記-31

2013年05月22日 09時18分51秒 | 四国歩き遍路行記
香園寺をあとにして、国道十一号を東に歩く。一キロほど歩くと、通りの左側に面して六十二番宝寿寺があった。もとは聖武天皇の勅願で伊予一の宮のご法楽所であったというが、栄枯盛衰、特に明治時代には一時廃寺となりその後の復興と言われ、現在の景観は気の毒なことである。もとは中山川の下流にあって、金剛宝寺と称していたが、弘法大師が参詣の折、光明皇后をモデルに十一面観音を刻んで本尊として寺号も宝寿寺と改めたという。

銅板葺きの本堂の鮮やかな青色が印象的な本堂で一巻理趣経を読み、大師堂で心経一巻。先を思い急ぎ足の読経。その姿が一心不乱に見えたのか、終えて振り返ると車でお越しのお遍路さん方からありがたいお接待を頂戴した。早々に宝寿寺を出て、国道を東に進む。

やはり一キロ少々歩くと、六十三番札所吉祥寺に到着した。城門のような山門を入り、正面奥に本堂、左手前に大師堂があった。ここは平安時代、弘法大師開山のお寺。弘法大師がこの付近を巡錫した際に光り輝く檜を観て、毘沙門天と吉祥天を刻んだのが始まりという。

その頃は現在より南方の坂元山にあり塔頭二十一坊を擁していたが、天正年間に兵火にあって全焼、以後現地に再興された。吉祥寺という寺号ではあるが、毘沙門天が本尊である。四国八十八箇所にあってもここだけであるが、全国の寺院を見回してもきわめて珍しい。毘沙門天は四天王の一尊で、多聞天とも言われ、北方を守護する。天部の仏を修法するときには、仏菩薩を修法するときに必ず修する入我我入観がない。

入我我入観とは、仏が我に入り我が仏に入ると観想する密教の観法(瞑想法)で、インドの神々である天部の仏は行者に入るべき存在ではないと考えたのであろうか。ところが、唯一この毘沙門天の修法だけには実は入我我入観がある。北方ヒマラヤを頂く聖地を守護する尊格として敬い別格扱いとしたのであろう。境内にある石像のくぐり吉祥天女の下を通って本堂に至り読経した。

吉祥寺を出て少し国道を行くと、旧道への矢印があった。火の見櫓や細い水路がある道だった。六十四番前神寺は、石鈇山と山号するように、もとは石鎚神社の別当寺だった。今の前神寺が石鎚山への登山口に相当するのであろう。この道も沢山の石鎚信仰者たちが登山するために通った道に違いない。そんな往時を思わせる古い佇まいの家並みを眺めつつ歩く。小一時間で前神寺に到着。現在では真言宗石鈇派の総本山でもあるので、山門の左側にコンクリート造りの宗務所が大きく眼に入る。石鎚修験道の本山であることを示す、石鎚山と書いた扁額を支える門は、太い二本の柱のみ。

石畳を踏み本堂への道を歩く。地蔵堂、御滝不動の前を通り石段を登る。奥の奥に開けた空間の奥に銅板葺きの豪壮な本堂があった。本尊阿弥陀如来。役小角が石鎚山頂で示現させた石鎚大権現の本地仏である。小角が自ら刻んだ阿弥陀如来だと伝えられている。前の空間は大祭に催される柴燈護摩のためのスペースであろう。後に上仙道人が山頂への道を開き、桓武天皇の病気平癒を祈願して効験ありとのことで、七堂伽藍が調えられ、また弘法大師が求聞持法を修して霊場に定めたのだという。歴代皇室も帰依され、仏像や経巻を奉納しているが、慶応四年の神仏分離令で修験道は廃止されたのに伴い廃寺となり、明治十一年に現在地に下りて再興された。

急ぎ足でここまでたどり着いたという気持ちもあって、ゆっくりと理趣経一巻唱え、下の唐破風の宝形造りの大師堂の見事な細工瓦を眺め心経をお唱えした。そろそろお昼に近づいていたが、今日のお宿は何としてもいざり松までと決めていたので、先を急いだ。前神寺の前あたりに湯之谷温泉という看板を見かけた。また来たときにはゆっくりしたいものだと思う。この辺りから石鎚山までは八里、昔の話ではあるが土地の人は朝四時に出て山頂で拝み、晩の八時には戻ってきたという。

国道に戻り歩道をひたすら歩く。町に入るとパチンコ屋やら派手な看板が多くなり、世俗の雰囲気に馴染まない。と言うよりも、人と顔を合わせることに疲れを感じるからかもしれない。山道は自然に囲まれて静かに楽に歩ける。それに比べ町に出てくると途端に下を向いて歩いている自分に気がついた。途中公園があって、小さなお堂の前で香園寺でいただいたお弁当を開ける。ここも昔はどなたかお守りするお坊さんのいるお寺だったのではないかと思わせた。ブランコがあり、鉄棒がある。誰も居なくなり、お堂だけが残り管理する人もなく、地元の自治会が公園としたのであろうか。行き交う車を眺め冷たくはなっても温かいお弁当を食べた。

夕刻、やっといざり松として有名な番外札所延命寺にたどり着いた。ここは、弘法大師四国巡錫の時、いざりの松の辺りに足の不自由な人が苦しんでいるのを見て、千枚通しの霊符を創札され、一枚を授け加持すると、たちまち全快したという。これより千枚通しの名が全国に広がり千枚通し本坊として有名になった。明治の頃までは直径五メートル、東西三十メートル南北二十メートルも枝を伸ばした巨木だったというが現在は枯れた幹が残されているのみである。ご住職に挨拶すると、大師堂横の通夜堂を案内された。八畳間にこたつ、ポット、湯沸かし、ラジオ、それに布団まで。山門を出て、食パンに玉子ドーフ、天ぷらを買ってきて一人食べた。

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