住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法話 敬う心-御先祖様の示された教え

2017年10月31日 16時47分08秒 | 仏教に関する様々なお話
敬う心

今という時代は、敬うということが世の中からだんだんと失われているように思います。敬うなどという言葉自体が死語になりつつあるのかもしれません。大企業やお役所でも、政治家でも、何か不祥事を起こしたり、事故を招いたりして謝罪会見などというものが行われ、それがテレビで放映され、インターネットでいろいろとプライベートまで暴かれたりと、誰を敬っていいのか解らない時代と言えます。ですが、私は、この敬うということ、とても大切なことであると思っています。今日はこの敬うということをテーマにお話し申します。

お寺の住職として

お寺の住職として、敬うということについて、先ずお話し申しますと。仏様に対しては勿論のことですが、今は亡き先代住職を敬い、これまでなされてきたことを尊重することも大事なことであると思っています。それからまた、やはり亡くなられた檀家さんに対して、敬いの心をもって弔いをする、お葬式をするということであろうかと思います。通夜のお経の後そんな意味からも、その檀家さんがどのような方であったか、思い出などを語り、お寺にもどのような貢献をして下さって功徳を積まれたかと、お話し申します。

ですが、長患いをしたりで、そう簡単に話が出来ないケースもあります。どんなことか、二つのケースの話をしたいと思いますが。たとえば、國分寺の檀家の奥さんで、八十歳の時交通事故に遭い、脳挫傷で半植物状態となられた方があります。ほとんどベッドの上で横になり、話も出来ず11年間寝て亡くなられました。その間、向島に住む次男さん夫婦が盆に帰ってきてくれて、盆参りを毎年しておりました。

一年に一度お会いする度に、お母さんの様子を教えてくれるのですが、お二人どちらかか毎日一度は施設に参り様子を見るが全く反応もない日も多いとのことで、それでも、お二人ともとても明るく、「心臓が強いんですかね、頑張ってくれてます」といわれていました。若い奥さんは自分が乳癌になったりしたのに、お母さんの心配してたら癌がどこかに消えてしまったとのことでした。そうして、通夜の晩、お二人に、長いことご苦労様でした、だけではねぎらいにもならないと思いどう話すべきか考えました。

そこで、植物状態になった方の医学的な研究について調べをしてみました。すると、イギリスの医師で、エイドリアン・オーエンという博士が、植物状態の患者さんのMRIを測定しながら語りかけ、これからする質問にイエスならテニスをしていることをイメージして下さい。ノーなら家の中を歩いていることをイメージして下さいと指示すると、イエスの時には運動野、ノーの時には海馬が活動することを利用して、事故当時から意識がありましたかとか、見舞いに来た人のことが分かりますかといった質問をすると、とても意識的にイエスノーを使い分けられていることが分かったとのことでした。

通夜のお経の後、その話をして、お母さんは、お二人の献身的な看護も分かっておられたし、この十一年の歩みは決して無駄では無かった。仏教の修行の中に座禅という身体を動かさずにじっとして意識を保ちつつ心を静寂にする行があるわけですが、それと同じように心の修行を11年なされて、得心されて来世に旅立って行かれたのではないでしょうか、ご本人にとり、とても意味のある11年だったと思いますとお話し申しました。

またこの方よりも少し前のことですが、國分寺の総代を20年もされた方で、六十才から八十才まで、女子中学高校の校長をされて退職し、やっとこれから自分の好きなことをしようと思っていた矢先に、ALSという筋萎縮性側索硬化症、ルーゲーリック病になられた方がありました。お祖父さんお父さんは半農半僧の生活をされた一家であり、ご自身も信仰深い方で、得度されて修行したいと言われているところでした。徐々に筋肉の働きが失われて、寝たきりとなり、言葉も発せず、最後は瞼しか動かなくなるという病気なのですが。南岡山医療センターに入院されていて、私も度々こちら方面に来たときにはお見舞いに寄っておりました。

この方は寝たきりになり四年後に亡くなられました。亡くなられてやはり通夜でどのようにその四年間についてお話するか思案しました。そのときには、学校の先生ですから、生涯に何千人という生徒たちに言葉で教えを垂れてきて、最後に四年間も無言の行に入られ、このたびその行を成満されて来世に旅立たれたのではないかと話をいたしました。

このように、亡くなられた壇家さんを敬い、どのようにその方の人生を讃え、いかに価値ある一生であったかと話し、沢山の功徳を積んできたことを改めてご本人にもお知らせをして、お送りするということがとても大切なことではないかと私は思っております。

敬うから学べる

ところで、昔スリランカ人のお寺さんに、御縁ありいろいろと教えを受けていた時期があるのですが、「人間は人間から学ぶものです。そして、敬いの心が無ければ学ぶことはできません」と教えられたことがあります。そのお寺さんに対する私の敬いが足りないということだったのかもしれませんが、今ではその方は日本に来て40年、日本語で説法され、テレビにも登場し大変に有名になられ、本も沢山お出しになり、もう近よりがたくなくなりましたが、もっと敬うべきであったのだと思います。敬う心があるから、立派なお祖父さんのようになりたいと思い、お祖父さんの背中に何事かを学んでいくということになります。敬う心があるからその方から学び、努力して成長できるということになります。

敬う心と供養

人として向上するには敬う心が不可欠だということですが、では次に仏教的に敬うということについて考えてみたいと思います。今日は皆さん、塔婆供養をお参りに来られたわけですが、供養とは、インドの言葉で、プージャーと言います。インドでプージャーと言いますと、神さまの前に沢山のお供えをして香を焚き、礼拝し延々とお経を読んだりいたします。ですから、供養とは、御供えする、礼拝する、祈る願うということになります。ですが、このプージャーという言葉は、もう一つ大切な意味があります。それは尊崇する、敬うという意味です。

インドに行くと、学校の前などでよく目にする光景あります。子どもたちが学校の先生に会ったりすると、先生の前でしゃがんで右手で先生の足に触れて、その手を自分の額に持っていきながら立ち上がり、合掌して挨拶するのです。日本とは大違いですが、まさにそうして敬いの心を表す行為が礼拝ですが、全身で敬う心を表す行為が礼拝であり供養であるということです。私たちも仏様を敬い尊敬する気持ちがあるからこそ、御供えし礼拝するのです。

仏様の心

わたしたちにとって、敬い礼拝する対象とは、仏様です。その仏様とは、私たちにとって、どのような存在なのでしょうか。日本では様々な仏様がおられます。大日如来様、観音様、・・、そのおおもとにはお釈迦様の悟りがあり、その功徳御利益がそれぞれに分け与えら名前をいただいている。インドでは仏陀といいますが、仏陀とは目覚めた者という意味です。何に目覚めたかというと、この世の中の真実のあり方、それが分かるとすべての煩悩が無くなり静かな心になるそうです。仏様の心とは、大きな波の起たない海のような心だと教えられたことがあります。

大きな海のような心なので、何を投げ込まれても、大きなものでも尖ったものでも、一瞬にして心の波が消えてしまうんだそうです。高飛び込みという競技がありますが、上手な選手が飛び込むと波がほとんど起たないようにですね。そして、鏡のように何でもありのままに映し出してしまう大きな海のような心とも言われてました。

どうですか、私たちは小さな石ころのようなものを投げられても、いつまでも波が消えず、余計に波たたせたり、濁っていて、自分勝手にいろいろなものを色眼鏡で見ていたりしますね。何があっても、どんなときも堂々と落ちついて静かな満たされた心でいたいものです。が、つい先のことを考えて不安になり、心配して落ち着かなかったり、過去のことを何度も思い出してはクヨクヨして苦しんだり、イライラして怒ったり。そういうことがまったくない仏様のような心になりたいものだと、私は思いますが、皆様もそうだと思います。

ですから、仏様というのは、私たちにとっての、理想的な心をもつ方、目標とでもいえるのではないかと思います。敬うべき存在であり、私たちもそのような心を持つ人になりたいものだと思わせる存在といえます。ですから、私たちは、亡くなられた人にもそうあって欲しいと思って、通夜葬儀の時に焼香するときに「どうぞ早く成仏して下さい」、法事の時には、「何回忌の菩提のために」と、亡き人、故人に成仏や菩提を願うのではないでしょうか。

仏壇は敬う心を養う場

ところで皆さん、突然ですが、テレビで水戸黄門、大変な長寿番組ですが、毎日再放送をご覧になっている方もあると思いますが、どのようなシーンが記憶にございますか、この紋所が目に入らぬか、お銀の入浴シーンでしょうか。水戸黄門といえば、仏壇がよく出て来ると思いませんか。武家でも商家でも、何かお家の大事というと仏壇の前に行き、今は亡き先代や御先祖様に相談されたり指示を仰いだり、許しをもらったりするシーンがよく登場します。仏壇はそれほどに日本人にとって、この上なく大事なものであることがわかります。そこで、次に仏壇から敬うということを学んでみたいと思います。

皆さんは、その仏壇とはなんだと思いますか。生まれたときからありますから余り特別に考えることもないかもしれません。たとえば、お孫さんが外国の友達を連れて家に来て、一番上等な部屋に案内したらそこに仏壇があったとして、その友達がこれは何ですかと言われたらなんとお答えになりますか。仏様を祀るものですよと、では、こちらの家はブッディストの家なんですねということになります。つまり仏壇とは仏教徒のシンボルといえるものです。

そして、そこには御先祖様が祀られています。仏壇の前に行けば御先祖様に語りかけることができると思われています。少なくとも水戸黄門ではそのような設定になっていて、そのことに違和感なく私たちは水戸黄門を楽しんでいます。ですから、私たちもそのような感覚で生きています。仏壇には御先祖様がおられて、自分があるんだと感じ取ることができると思うのですが。

今という時代は、何でも自分で出来ると思いがちな世の中ですが、実はすべて御先祖様や先代が残して下さったものにより生活し、周りの人たち、生き物たちのお蔭で恙なく生きているということに気づかせていただく、そういう謙虚な気持ちになり感謝と報恩の心、敬う心が生じて来る場所であります。周りの人たちにも敬いの心をもって接することになり、自然と信頼されて、人間関係も良好になります。敬う心を養う場、そういう場所が仏壇ではないでしようか。

仏壇から教えられること

さらに、仏壇からいろいろなことを学ぶことが出来ると言われるのですが、どんなことを学ぶことが出来るでしょうか。全体の形はいかがでしょうか。仏壇は形も大きさも様々ですが、古い仏壇はたいてい、このように上と下に末広がりで、七つほどの段になり、開放部が一番幅が狭くなっています。また、このように上がもう少し段が多いものもありますがとにかく上下が広く末広がりになった形です。この七つの段々になった形は七界を表しています。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界の六つの衆生世界と仏界で七界となります。

地獄は、地の底にある牢獄のような世界で、熱地獄、寒地獄、孤地獄とあり、他の命を奪ったり、人の大事なものを盗んだり、嘘を言って人を陥れるようなことをすると地獄に行きます。
餓鬼は物欲しそうに指をくわえて暗いところに醜い姿で佇んでいるイメージがありますが。餓鬼には、食べること飲むことに執着して、嫉妬したり憎しみをもったりすると行かされるところです。寿命がないので、仏教ではよく施餓鬼というのをしてあげるわけです。
畜生は、畜養の生類との意で、食べるために殺し合いを辞さない死と隣り合わせの生き物たちの世界です。

修羅とは、あの興福寺で有名になった阿修羅ですが、争いの心の強い荒々しい殺伐とした戦闘の神々の世界です。
そして私たちの人間界、一番生まれ変わりにくい世界で、善悪を自らの意志で決められ、功徳を積むことの出来る唯一の世界でもあります。
天界は、恵まれた幸福感をずっと味わえる世界ではありますが、毎日快楽の世界で幸せを味わっていないといけない。それに飽きてしまったり寿命があり下に堕ちてくるときには地獄の36倍もの苦しみを味わうと言われています。

私たちはお釈迦様のように悟って仏界に行くまで、この六つの衆生世界をその業によって何回もグルグル生まれ変わると考えられ、仏壇の形はそうした仏教の生命観を表しています。こう考えるとやはり何度も人間に生まれ変わり徳を積んで心を清める人生を重ねることが大事だと分かります。

ところで、この生まれ変わるということ、輪廻と申しますが、2年ほど前ある家の法事でそんな話をしておりましたら、生まれ変わるなんて妙なことを言うといわれました。この中にも不審に思われる方もあるかも知れませんが、生まれ変わりの研究は今世界的に進んでおりまして世界中で沢山の事例が報告されています。アメリカではヴァージニア大学で、前世の記憶をもとにその人物の実在を確認し過去世の人格を特定するという研究が進められ、日本でも、産婦人科医の池川明さんという博士が胎内記憶や前世を記憶する子どもたちの研究を行っており、このような「前世を記憶する日本の子どもたち」という本を書かれています。

私たちは死んで終わりと考えがちですが、死は体と心の分離と考えます。関連しまして、臨死体験という言葉聞いたことがあると思いますが、身体が事故や病気で仮死状態になって、身体から心が離れて、病室の上の方から自分の身体を見ていたりという体験のことです。昔四国で出会った青年はオートバイの事故の時、電柱にぶつかった瞬間に体から心が出て上のほうからスローモーションのコマ送りのように自分の体が転がっていくのを見たんですよと話してくれました。

また檀家の奥さんで大腸のポリープの手術をするのに麻酔を打ったら、気が付くとお花畑の中にいて、向こう側に川が流れていて、すっと近づくと向こう岸には亡くなった人がたくさん立って居て行きそうになったら、亡くなった旦那さんの声で「おーい芋を見にいけよ」と言われて、気が付くとベッドの上でしたと話されました。身体を離れて私たちの心は存在するということなのです。体の寿命が終えると体から心は離れて四十九日の間この三次元の空間にいて満中陰の法要の功徳をもって来世に旅立っていくのです。

そしてその仏壇の開放部は、丁度人間界に当たり、中は上中下三段ありますが、それぞれどのようにお祀りされていますか。一番上に仏像や仏様の掛け軸。中段に位牌、下段にはいろいろなお供えがきていますね。こちら側から、下の段に御供えをして、上段の仏様を拝み法楽を捧げ、中段に祀られた御先祖様やお位牌の精霊の成仏を願い廻向します。

そして、今生きている私たちも、いずれは位牌になり仏壇の中段に祀られます。そうなりますと、こちら側に座る遺族家族から手を合わされて成仏を願われる存在になります。つまり仏壇の中段から上段にある仏様に昇っていくようにと願われるわけです。

こちら側から御供えをしていた立場から、中段に上がり、さらに上段に昇っていくべき私たちの生き方、あり方を示してくれています。ですから、何度生まれ変わったとしても仏様になるように生きよ、と御先祖様が仏壇にその願いを込めて、代々大事に継承してこられたのだと思います。

仏壇のお供えに学ぶ

そして、そこにはどのようなお供えをいたしますか。皆さん、花、灯明、香、飯食、茶湯をお供えされてると思いますが、さらに塗香という、身を清める塗る御香を入れて六つお供えすると、それを六種の供養といい、この六つは、六波羅蜜という大乗仏教を行ずる時のわきまえるべき内容を表します。

六波羅蜜とは、学ばれたことがあるかとは思いますが、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という具合になります。

先ず布施をして功徳を積むことが大切だというのですが、金品を施すだけでなく周りの人たちがよくあるように手助けをしてあげたり、優しい言葉をかけたり、にこやかな笑顔を施すことなども含んでおります。

次に持戒は、十善戒などを守り清らかな生活をするということですが、これらの戒をきちんと守って生活しておりますと、来世人間界以上に生まれること間違い無しと言われます。

忍辱は、人生いろいろなことがありますが、イジメにあうこともあるかもしれませんが堪え忍んで、思い詰めるようなことないようにということですが、なぜここに忍辱が入っているかというと、人生には堪え忍ぶべき事態が突然にやってくるものだと弁えなさいということだと思います。

また精進は、悪しきことをせず善きことに励むことですが、善いことをしたと憶えておくことも大切です。2500年前のインドの話ですが、コーサラ国パセーナディ王の妃マッリカーは死ぬ寸前に生涯一度だけついた嘘を思い出し暗い心で死に餓鬼の世界に行ったのですが、しばらくして「なんでたくさん功徳を積んだ自分がここに来たのか」と思った瞬間に、都卒天に転生したということです。皆さんもお寺にたくさん寄進をし布施をした功徳をいつも忘れずにいなくなていけないということです。そして万が一下の世界に転生したら、マッリカーのようになんで自分はこんなところに来たんですかと言えるように自分の功徳をきちんと覚えておくことが大切です。

禅定は、時に座禅などをして心穏やかに平静な心でお過ごしをいただくことですが、大事なことは、今ここにある自分の行いに意識があるということです。どういうことかといいますと。インドのサールナートで住み始めたばかりの頃いろいろなことに慣れず言葉もなかなか通じなくて悶々としていた時期に、日本人の学生たちがたまたま泊まり、彼らの食べ終わった沢山の食器を一人洗うことに心を傾注していると、そのことに専念して、皿を洗うだけの自分がそのときありました。何も考えていない自分に気づくと、これでいいんだ考えても考えなくても同じ、と思え、その瞬間に心が晴れ、その後は何もかもがうまく進行し難なく一年を過ごすことができました。そのように、今ここにある行為だけに心を向ける、なりきることが禅定で、その時に気づいた思いにより心が楽になったりする、その気づきが智慧であり、それにより煩悩が薄くなっていきます。

このように、この六波羅蜜は、私たちの生き方、歩み方を示してくれています。

仏壇というハード、法事というソフト

このように仏壇とは、私たちの仏教的世界観、仏教的生き方を表現したものであり、そうした教えを大切に生きよと御先祖様が子孫に伝えようとされているとも受け取ることが出来ます。こう考えると、仏壇とは御先祖様の思いを受け取る大事な場所ということにもなります。仏壇の掃除から毎朝の御供えお勤めもすべてお祖母さんひとりの仕事という家も多いかもしれませんが。ご家族皆様がそこからなにがしかの力をいただくことのできるものだと思います。今の言葉では、一家のパワースポットと位置づけられます。

また、私たちは、水戸黄門の仏壇が登場するシーンにあるように、今でも、様々な場面で人生の岐路に立って悩んだり、迷うことがあると、仏壇の前に行き、亡くなったお父さんお祖父さんに語りかけたり相談したりしているのではないでしょうか。また祝い事を報告してみたり。このように、迷った自分に力をもらったり、悩んだ心を癒やす仏壇の役割もあります。そういう仏壇の役割について、アメリカの宗教学者デニス・クラスという人が、20年ばかり前に日本に来て古い家庭に入り調査をして、仏壇とは人類の資源であると高く評価しています。

また、その先生は、日本人が先祖から伝え今も行っている法事について、亡き人を弔い、身近な親族友人が集い、心の喪失感を癒やすために行う儀礼として、西洋にない、誠に理に適った、よいシステムであると西洋に紹介してもいます。キリスト教徒が、日本の法事の時期に合わせて、49日や一周忌に、みんなで集まり儀礼をして、お茶を飲み亡き人について語り合うことで心癒やす会が開かれるようにもなったということです。

ところで、皆さん携帯、スマホを持っていると思いますが、機械であるハードの中にソフトが入っていていろいろな機能がうまく作動します。これと同様に、仏壇はハードウエア、法事はソフトウエアであると思います。ハードである仏壇は、敬う心を養い、私たちの仏教的世界観、生き方を示してくれている場所です。一方、ソフトである法事は、身近な人の死にあたり心の癒やしをえるとともに、仏様御先祖様にお供えしお勤めすることで、敬う心を表し、周りの親族とともに功徳を届けるシステムといえます。

御先祖様の示された教え

このハードとソフトによって、私たち日本人は、心の健康を得て、敬いの心を育て、他と折り合う、ともによくありたいという優しい、穏やかな性格を現代においても保っていられるのではないかと思います。災害時にパニックにもならず助け合い、混乱無く落ち着いて対処出来る、他国にない日本社会を作ったのはこうした御先祖様から大切な仏壇と法事というシステムを継承し培ってきた心あってこそではないかと思います。これからも仏壇と法事、大切になさっつて欲しいと思います。

本日は敬うということをテーマにあれこれ仏壇を中心にお話しさせていただきました。その仏壇の大元には檀那寺があります。檀那寺を大切に、敬うことの大切さを是非若い人たちにも説いていただきまして、益々家門繁栄なされますことを願っております。皆様にとり何かご参考になることがありましたならばありがたく存じます。長時間ご傾聴ありがとうございました。


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コメント (2)
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