「空(くう)」とは、何だろう。空は、インドの言葉「シューニヤ」を中国語訳した言葉だ。現代ヒンディ語で、「シューニヤ」というと、虚空、空、虚無、真空、天を意味する言葉であり、数学の零を発見したインドの、その零のことでもある。この空という発想があったればこそ、インド人は零を発見できたのであろうか。
また関連語である「シューニヤワーディ」には、空論者、仏教徒、無神論者という意味があると辞書にある。インドでは空を説く者が仏教者だということになるのであろう。わが国でも仏教と言えば、般若心経。般若心経と言えば、空を説くと考えられている。だから、この空が分かれば仏教が分かったと思われているようだ。
ところで、水野弘元先生の「仏教要語の基礎知識」(春秋社刊)によれば、空は、無我と同義とある。無常なるが故に、苦であり、無我であるという時の無我である。ヒンドゥー教などインド哲学において、アートマンという自己の永遠不変の我があるとする考えを否定して、お釈迦様は無我・アナートマンを唱えた。
すべてのものは、無常であり、様々な因と縁の織りなす縁起に基づいて存在する。その結果がまた原因となって、縁をともなって果をもたらす。つねに変化を繰り返す。だから永遠不変のものなど存在しない。
たとえば、氷という固体があるとする。それは室温が零下であれば、固体であろうが、室温が零度以上に上昇すれば、液体である水となる。そしてさらに温度が上昇して100度を超えれば気体となる。常温で水であったものがその条件によって、様々な変化をともなう。
それは物質だけの話ではなく、心も同じこと。一つのことに凝り固まって、これはこうあるべきだ、と頑張ってしまう人であっても、様々な周囲の状況によっては、少し周りの意見を聞いて気が変わることもある。また、年でも取って、そんなことはどうでもよいという心境になることもあるだろう。
こうした一人一人のものである身体と心があり、それによってなされる行為、身と口と意(こころ)の行いが業(ごう)となり、私たちの今がある。それはすべての人に言えることであって、すべての人のそれぞれの業の連鎖の中で私たちは暮らし、それによって、この世の中も存在する。だれもが、様々な原因と条件の縁起を他とともにして、その折り重なった中で、他に依存しつつ私たちは暮らしている。けっして一人生きているわけではない。
そのものだけで存在しているものなどない。独立自存ではない。だから、つねに、不安定でもあり、不完全に時を重ねていく。心には不満が残り、不安定さの中にある。それがために、この身体が物質としての寿命を迎えても、心はそれで終わりにはならず、輪廻転生を繰り返す。
私たちは他の影響をいやが上にも受けつつ、またその助けによって、また他を助けたり影響を与えつつある。願う願わないにかかわらず、生きているということは、他と共存する関係の中にあるということになる。
したがって、一人自分だけよければいいという幸福はあり得ないし、一人の不幸は他の者の不幸でもある。そこで、自分が幸せでありたいと願うならば、他の者とともに、生きとし生けるものとともに幸せであることを願う必要がある。
すべての生きとし生けるものが幸せであって欲しい、それは自分のためでもある。たとえ亡くなっていったものたちであっても、すべての生き物たちもよくあってこそ、私一人の幸せもあるということになる。
このことは、己への執着を捨てて自己を犠牲にしてまで他を救うというのとは少し違う。自分が不幸になることは他の者を不幸にすることにもなる。他の者の命を犠牲にしなければ救われない命があるとするならば、その救われない状況に導いた自己の業を静かに受け入れるということも必要になるのではないか。
「空」という教えは、ただ、すべてのものが空に帰する、何ものにもこだわりを捨てよ、という無執着を教えるだけではない。すべてのものが無常であり、縁起によって他に依存して存在する。しかるに、私とすべてのものたちとが繋がり、みなともどもに、ともに幸せであらねばならない。そうあってほしいと自然に願う、あまねく慈しみのこころが導き出されなければならない教えなのではないか。
だからこそ、「願わくば、この功徳をもって、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、みなともに、仏道を成ぜん」という回向文(えこうもん)が、わが国の各宗派において読経の最後に必ず唱えられるのではないだろうか。
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また関連語である「シューニヤワーディ」には、空論者、仏教徒、無神論者という意味があると辞書にある。インドでは空を説く者が仏教者だということになるのであろう。わが国でも仏教と言えば、般若心経。般若心経と言えば、空を説くと考えられている。だから、この空が分かれば仏教が分かったと思われているようだ。
ところで、水野弘元先生の「仏教要語の基礎知識」(春秋社刊)によれば、空は、無我と同義とある。無常なるが故に、苦であり、無我であるという時の無我である。ヒンドゥー教などインド哲学において、アートマンという自己の永遠不変の我があるとする考えを否定して、お釈迦様は無我・アナートマンを唱えた。
すべてのものは、無常であり、様々な因と縁の織りなす縁起に基づいて存在する。その結果がまた原因となって、縁をともなって果をもたらす。つねに変化を繰り返す。だから永遠不変のものなど存在しない。
たとえば、氷という固体があるとする。それは室温が零下であれば、固体であろうが、室温が零度以上に上昇すれば、液体である水となる。そしてさらに温度が上昇して100度を超えれば気体となる。常温で水であったものがその条件によって、様々な変化をともなう。
それは物質だけの話ではなく、心も同じこと。一つのことに凝り固まって、これはこうあるべきだ、と頑張ってしまう人であっても、様々な周囲の状況によっては、少し周りの意見を聞いて気が変わることもある。また、年でも取って、そんなことはどうでもよいという心境になることもあるだろう。
こうした一人一人のものである身体と心があり、それによってなされる行為、身と口と意(こころ)の行いが業(ごう)となり、私たちの今がある。それはすべての人に言えることであって、すべての人のそれぞれの業の連鎖の中で私たちは暮らし、それによって、この世の中も存在する。だれもが、様々な原因と条件の縁起を他とともにして、その折り重なった中で、他に依存しつつ私たちは暮らしている。けっして一人生きているわけではない。
そのものだけで存在しているものなどない。独立自存ではない。だから、つねに、不安定でもあり、不完全に時を重ねていく。心には不満が残り、不安定さの中にある。それがために、この身体が物質としての寿命を迎えても、心はそれで終わりにはならず、輪廻転生を繰り返す。
私たちは他の影響をいやが上にも受けつつ、またその助けによって、また他を助けたり影響を与えつつある。願う願わないにかかわらず、生きているということは、他と共存する関係の中にあるということになる。
したがって、一人自分だけよければいいという幸福はあり得ないし、一人の不幸は他の者の不幸でもある。そこで、自分が幸せでありたいと願うならば、他の者とともに、生きとし生けるものとともに幸せであることを願う必要がある。
すべての生きとし生けるものが幸せであって欲しい、それは自分のためでもある。たとえ亡くなっていったものたちであっても、すべての生き物たちもよくあってこそ、私一人の幸せもあるということになる。
このことは、己への執着を捨てて自己を犠牲にしてまで他を救うというのとは少し違う。自分が不幸になることは他の者を不幸にすることにもなる。他の者の命を犠牲にしなければ救われない命があるとするならば、その救われない状況に導いた自己の業を静かに受け入れるということも必要になるのではないか。
「空」という教えは、ただ、すべてのものが空に帰する、何ものにもこだわりを捨てよ、という無執着を教えるだけではない。すべてのものが無常であり、縁起によって他に依存して存在する。しかるに、私とすべてのものたちとが繋がり、みなともどもに、ともに幸せであらねばならない。そうあってほしいと自然に願う、あまねく慈しみのこころが導き出されなければならない教えなのではないか。
だからこそ、「願わくば、この功徳をもって、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、みなともに、仏道を成ぜん」という回向文(えこうもん)が、わが国の各宗派において読経の最後に必ず唱えられるのではないだろうか。
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