住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

空の思想は空論か2

2006年10月31日 20時00分20秒 | 仏教に関する様々なお話
「空(くう)」とは、何だろう。空は、インドの言葉「シューニヤ」を中国語訳した言葉だ。現代ヒンディ語で、「シューニヤ」というと、虚空、空、虚無、真空、天を意味する言葉であり、数学の零を発見したインドの、その零のことでもある。この空という発想があったればこそ、インド人は零を発見できたのであろうか。

また関連語である「シューニヤワーディ」には、空論者、仏教徒、無神論者という意味があると辞書にある。インドでは空を説く者が仏教者だということになるのであろう。わが国でも仏教と言えば、般若心経。般若心経と言えば、空を説くと考えられている。だから、この空が分かれば仏教が分かったと思われているようだ。

ところで、水野弘元先生の「仏教要語の基礎知識」(春秋社刊)によれば、空は、無我と同義とある。無常なるが故に、苦であり、無我であるという時の無我である。ヒンドゥー教などインド哲学において、アートマンという自己の永遠不変の我があるとする考えを否定して、お釈迦様は無我・アナートマンを唱えた。

すべてのものは、無常であり、様々な因と縁の織りなす縁起に基づいて存在する。その結果がまた原因となって、縁をともなって果をもたらす。つねに変化を繰り返す。だから永遠不変のものなど存在しない。

たとえば、氷という固体があるとする。それは室温が零下であれば、固体であろうが、室温が零度以上に上昇すれば、液体である水となる。そしてさらに温度が上昇して100度を超えれば気体となる。常温で水であったものがその条件によって、様々な変化をともなう。

それは物質だけの話ではなく、心も同じこと。一つのことに凝り固まって、これはこうあるべきだ、と頑張ってしまう人であっても、様々な周囲の状況によっては、少し周りの意見を聞いて気が変わることもある。また、年でも取って、そんなことはどうでもよいという心境になることもあるだろう。

こうした一人一人のものである身体と心があり、それによってなされる行為、身と口と意(こころ)の行いが業(ごう)となり、私たちの今がある。それはすべての人に言えることであって、すべての人のそれぞれの業の連鎖の中で私たちは暮らし、それによって、この世の中も存在する。だれもが、様々な原因と条件の縁起を他とともにして、その折り重なった中で、他に依存しつつ私たちは暮らしている。けっして一人生きているわけではない。

そのものだけで存在しているものなどない。独立自存ではない。だから、つねに、不安定でもあり、不完全に時を重ねていく。心には不満が残り、不安定さの中にある。それがために、この身体が物質としての寿命を迎えても、心はそれで終わりにはならず、輪廻転生を繰り返す。

私たちは他の影響をいやが上にも受けつつ、またその助けによって、また他を助けたり影響を与えつつある。願う願わないにかかわらず、生きているということは、他と共存する関係の中にあるということになる。

したがって、一人自分だけよければいいという幸福はあり得ないし、一人の不幸は他の者の不幸でもある。そこで、自分が幸せでありたいと願うならば、他の者とともに、生きとし生けるものとともに幸せであることを願う必要がある。

すべての生きとし生けるものが幸せであって欲しい、それは自分のためでもある。たとえ亡くなっていったものたちであっても、すべての生き物たちもよくあってこそ、私一人の幸せもあるということになる。

このことは、己への執着を捨てて自己を犠牲にしてまで他を救うというのとは少し違う。自分が不幸になることは他の者を不幸にすることにもなる。他の者の命を犠牲にしなければ救われない命があるとするならば、その救われない状況に導いた自己の業を静かに受け入れるということも必要になるのではないか。

「空」という教えは、ただ、すべてのものが空に帰する、何ものにもこだわりを捨てよ、という無執着を教えるだけではない。すべてのものが無常であり、縁起によって他に依存して存在する。しかるに、私とすべてのものたちとが繋がり、みなともどもに、ともに幸せであらねばならない。そうあってほしいと自然に願う、あまねく慈しみのこころが導き出されなければならない教えなのではないか。

だからこそ、「願わくば、この功徳をもって、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、みなともに、仏道を成ぜん」という回向文(えこうもん)が、わが国の各宗派において読経の最後に必ず唱えられるのではないだろうか。

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薬師霊場合同法要と岡山スピコン

2006年10月29日 10時04分04秒 | 様々な出来事について
昨日、朝7時にお寺を出て、岡山市沢田にある恩徳寺さんに向かった。中国49薬師霊場会の合同法要に参加するためだった。毎年、各県毎に回り持ちで法要を行っている。恩徳寺さんは、岡山市街の東に位置する操山の麓にある。

8時半頃山門前に到着すると既にたくさんの車で道の片側はびっしりと、うまっていた。運良く出た車の後に駐車して、山門へ。山門で山口県北西端油谷半島にある32番向徳寺さんにお会いした。一昨年お参りし、その時海女さんのお寺として印象が残っていた。今でも海女さんたちはいい稼ぎをしては、お寺に寄進して下さると言われていた。檀家さんというものをたくさん持たずにも、海女さんたちの信仰で成り立っている珍しいお寺さんだ。

集会所にはいると、既に沢山のお寺さんがたがお見えになっており、挨拶して座に坐る。その部屋の、名僧方の書を貼ったふすまに目がいった。どれも立派な枯れた字だ。私の目の前には、「自心無一事」とあった。無心の境地を言い表したものであろうか。

法要は、33人の霊場寺院により、まず本堂で般若心経3巻と大般若の転読、そして薬師真言を108回唱え、回向文を読み、それから、外に出て境内での特設護摩壇にて、柴燈護摩供が修された。

合同法要に出席するといつも思うが、何か物足りない思いが残る。多宗派の坊さんが集うので、一緒に唱えるお経が般若心経しかないということだ。誠にお粗末きわまりない。そんな風に思えてしまう。

たとえば、各宗派別に、たとえば、真言宗系、天台宗系、禅宗系という大きな分け方をして、各々20分ずつ受け持って、法要をしてはどうかと密かに思っている。そして最後に一緒に心経でも唱えたらおもしろいのではないか。そう思っている。

各宗派の特色が出て聞いている参詣者も楽しいであろう。それこそ各宗派の持ち味、雰囲気、個性が興じられよう。なかなかそういう各宗派の法要を一同に聞けるお参りする機会はないのではないかと思うのだが。いかがであろうか。

合同法要が思ったより早く終わり、11時半には市内に入り、この日丁度行われている岡山スピコンに行ってきた。東京では既に、21回、私の地元福山でも今年3月に行われ、とても盛会であったという。スピコンとは、スピリチュアル・コンベンションの略で、精神世界のブースが会場所狭しとたくさん出店して、お手軽なメニューで様々な体験をしてもらおうというものだ。

岡山スピコンの会場は、吉本興業が作った三丁目劇場。ひと頃大変な人気だったと言うがほとぼり冷めて、廃業し会場だけが残ったという。お昼前というのに、多くの人が詰めかけていた。オーラ写真、前世催眠、クリスタル、占星術、波動、インド系の小物、さまざまなブースが出店していた。場違いに坊さんのご登場にみんな、おやおや、という顔をしていたが、次の瞬間にはみんな、にこやかな笑顔で迎えて下さった。

そう大きな会場ではないが、40ものブースがあっただろうか。知り合いの高田由美さんが主催する「催眠ルーム満足漢」は、行くと催眠中だという。そこで、もう一つ別に出店されている満足漢で学ばれたひろさんのブース「元気足心・ひろ」で国際若石(じゃくせき)研究会の足もみをしていただいた。黒い法服姿で足を揉んでもらっていると、目に付くのか、ご婦人衆が寄ってきて、どうですか気持ちいいですか?と質問してきた。良いですよ、と言うと、いくつか予約が入ったようだ。

揉んでもらっていたら、高田さんが来られた。笑顔満面。いつもキラキラと陽が差しているように輝いている方だ。午前中の催眠では5人中2人が前世退行して、ボロボロ泣いていた、とのことだった。団体での割安な催眠はスピコンだけ。普段は個人の受付にてセッションをなさっている。

またインド系の小物を販売しているブースには、國分寺の坐禅会にも顔を見せてくれる若い方たちが集っていた。これからインドに行くという愛知県から来た青年と暫しインド談義。楽しいひとときを過ごすことができた。

スピコンというと、ちょっと精神世界かぶれのオタクたちの集いと思いがちではあるけれども、意外とみんな真面目に、それぞれの持ち味を出して、工夫して出店している様子を窺い知ることができた。自らの心に向き合い、自然と調和して、人々がより良く生きる手助けとなるであろう。私たち仏教人も見習うところがたくさんある。来年の2月には、また福山で第2回のスピコンが行われる。是非また参加したいと思った。

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四国遍路行記14

2006年10月24日 15時10分48秒 | 四国歩き遍路行記
次の日は、5時頃起きた。誰かお参りに来ても、外で迎えられるように、目を覚ますとすぐさま荷物もろとも外に出た。薄暗い中で顔を洗い、衣を着込む。寝袋を畳み、荷造りをしてすぐにでも歩き出せる用意をしてから、神前で般若心経一巻。一宿の御礼に心をこめて唱えさせていただいた。

海岸沿いに国道を歩き、山側に開けたところができたと思うと、大きな鳥居が目に入った。神峰(こうのみね)神社の一番鳥居だろう。そちらに向いた道にはいる。そして、それから、ひたすら蛇腹折りの登り道。筍の季節だったのか、竹藪の前に軽トラが止まっていた。ふと後ろを振り返ると、太平洋が青々ときれいな色を湛えている。

さまざまな石の記念碑が見えだすと、27番神峰寺の山門があり、納経所があった。本堂は、そこから、また上に150段もの石段を上がる。その前に、石段下から噴き出す清水をいただく。神峰の名水だ。汗を吹き出しつつ、石段を上がる。本堂は、新しい木の香りが匂い立つようだった。本尊十一面観音。

大師堂には、大きな等身大のお大師様がおられた。この翌年歩いたときには、神峰寺で夕刻を迎えた。ご住職に、「ひさしでもお貸し願いたいのですが」と申し出ると、こころよく、納経所の畳で寝るように言われた。お言葉に甘え、畳に寝袋を開き、寝かしてもらった。翌朝起き出すと、なんとご住職がお盆に朝食をのせて持ってきて下さった。誠に申し訳ない思いがした。

実は、地元神辺のお寺さんがたとのバスによる団参の折、ご住職にお会いしたので、10年以上前のこの時の御礼を述べた。「ああ、そうかい、元気でな」と、まことに素っ気なく言われてしまった。神峰寺では、そんなことは日常茶飯事のことなのであろうか。それにしても、ありがたいお寺である。

山門を後に海を見ながら坂道を下る。水平線がとてもきれいだった。すると一台のワンボックスカーが止まり、白装束のお遍路さんが降りてくる。何事かと思うと、私に「お接待します」と言って、白い紙に包んだ物を下さった。丁重に御礼を言って歩き出す。また、水平線を見つつ歩く。ありがたくて、なにか申し訳なくて涙が出た。

またひたすら、国道を歩く。28番大日寺まで、39キロ。大日寺のある野市町までたどりつき、あと少しというとき、土建屋さんの車が止まった。中から奥さんが声を掛けて下さった。大日寺まで乗せてあげる、と言う。小雨が降り出したこともあり、ご厚意に甘える。

少しずつ雨が強くなる。この後、今日のお宿はあるの?と問うので、いや予定がありません、と言うと、知り合いの宿を世話してあげよう、ということになった。大日寺でお参りする間、下の道で待っていてくださって、ありがたいことに丸米旅館に連れて行って下さった。新しくはないが、とても小ぎれいな気持ちよい宿だった。

歩きながら考えることは、その日の宿のこと、人にどう見られているかとか。また将来のことや両親のこと。それに、しんどいので車のお接待を誰かしてくれないかなとか、腹が空いたなとか、いろいろだ。

しかし、いろいろ考えているときには何一つ叶うことはなく。そんなことを何も考えずに、ただボーと歩いていると、突然声を掛けられ、車をお接待していただいたりするようだ。結局自分の思い通りになることなど、一つもない。ただ歩き、拝んでいれば、他のことがついてくるというにすぎない。

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「モリー先生との火曜日」を読んで-生きるとは何だろう2

2006年10月21日 20時20分49秒 | 仏教書探訪
第七火曜日。この日は老いることについて語る。年をとることに不安になったりしたことはありますかとのミッチの問いに、モリー先生は「年をとればそれだけ学ぶことも多い。ずっと22歳のままなら、いつまでも22のときと同じ無知だっていうことになる。老化はただの衰弱じゃない。成長なんだ」

そして、ミッチが、ではなぜ、人はよくもう一度若くなれたらなんて言うんでしょうか、と問うと「それは人生に満足していないんだよ。満たされていない。人生の意義を見出していない。だってね、人生に意義を認めていたら、逆戻りしたいとは思わないだろう。先に進みたいと思う」そしてこう続ける。「いいかい、これはぜひ知っていて欲しい。若い人はみな知っていてほしい。年をとるまいといつも闘ってばかりいると、いつまでもしあわせになれないよ。しょせん年はとらざるを得ないんだから」

さらに、どうして先生は若い人をうらやまずにいられるのか、と言うと「ミッチ、老人が若者をうらやまないなんて、そんなことあり得ないよ。ただ問題は、ありのままの自分を受け入れ、それを大いに楽しむことだ。30代が今の君の時代。私にも30代という自分の時代がかつてあった」「本当のところ、私の中にすべての年齢がまじり合っているんだよ。・・・今の君の年代をうらやましがってなんていられないよ、前に自分がそうだったんだから」とっても正直な中にも心意気を感じる。

第八火曜日。この世で大切なものとは何か、を語る。「みなまちがったものに価値をおいている。それが人生へのはなはだしい幻滅につながる」「この国では一種の洗脳が行われている。洗脳ってどうやるか知っているだろう?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にし聞かされて、・・・何が本当に大事なのか見境がつかないというわけさ」

なぜこうも簡単に洗脳されてしまうのだろうか?「これには私なりの解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、金や権力をいくら持っても、そんなものはさがし求めている感情を与えてはくれない、それを一番必要としているときにね」みんながむしゃらに探し求めて、気がつくと年を取っているということなのだろうか。


第十一火曜日。先生は、今の世の中の本質について語り出す。「人間はあぶないと思うと卑しくなる。それはわれわれの文化のせいだよ。われわれの経済のせい。この経済社会で現に仕事をもっている人でさえ、危険を感じている。その仕事をなくしはしないかと心配なんだ。危険を感じれば、自分のことしか考えなくなる。お金を神様のように崇め始める。すべてこの文化の一環だよ」

それから、「われわれ人間の持っている最大の欠点は、目先にとらわれること。先行き自分がどうなるかまで目が届かないんだ。自分にはどういう可能性があるか。そのすべてに向かって努力しなければいけないんだ」毎月の稼ぎが気になり、本当にしなければいけないこと、すべきことに乗り出せなくなる。それが私たちの常なることだと言えようか。


第十三火曜日。「死ぬのは生きるのと同じく自然なこと。人間の約束ごとの一部だよ」「みんな死のことでこんなに大騒ぎするのは、自分を自然の一部だとは思っていないからだよ。人間だから自然より上だと思っている。そうじゃないよね、生まれるものはみんな死ぬんだ」

「人間はお互いに愛し合えるかぎり、またその愛し合った気持ちをおぼえているかぎり、死んでも本当に行ってしまうことはない。つくり出した愛、思い出はそのまま残っている。この世にいる間にふれた人、育てた人すべての心の中に」生命の摂理、生き物たちとの一体感を得られたのであろうか。仏教徒としての視点を見出されたとも言えようか。

そして、第十四火曜日。先生はただ皮膚は青白く、目はぎょろっとこちらに向け、何か言おうとするが、低い呻き声しか聞こえない。それでも、「君はいい子だ、・・・じゃあな」と言い残す。その土曜日モリー先生はなくなった。

ここに、私が読んだ際に鉛筆でラインを入れた忘れがたいモリー先生の言葉を各章ごとに引用させていただいた。紹介したのは、先生の言葉のごく一部に過ぎない。全編が誠に示唆に富んだ好著であり、また翻訳も素晴らしい。臨場感にとんだものであった。是非ご一読願いたい。

さて、私の知るALSの患者さんは、実はみなもっと早くに声も出ず、顔の表情もなくなり、瞼だけがかすかに動くばかりになって亡くなった。今も南岡山の医療センターで一人寂しく看護を受けるALSの患者さんが居られる。昨年までは筆談で何でも言いたいことを表現できたのに、今年の初めにはもう手でものを書くことも出来なくなっていた。

パソコンに特殊な装置を取り付けて、かすかな筋肉の動きで文字を入力してメールのやり取りや手記を残される方もあるという。しかし、この方は高齢でもあり、今はただテレビの前で横になり、たまに来られる人にお会いになるだけ。誠に残念なもったいないことに思う。

モリー先生は亡くなる前週まで、愛弟子ミッチと、最期に思うことごとを、人生の意味や愛について、思いの丈を語り尽くすことができた。それだけでも、とてもしあわせだったのではないか。死と隣り合わせに時を過ごしたモリー先生の教えを、この本によって私たちもこうして学ぶことができたことは、誠にありがたいことだと思う。願わくば、多くの目の前の雑事に忘れ去ることなく、そのひと言ひと言を、ことある毎に振り返りたいと思う。

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「モリー先生との火曜日」を読んで-愛とは何だろう1

2006年10月19日 16時07分03秒 | 仏教書探訪
ある仏教の瞑想法の本に紹介されていたので買い求めた。昨日、空いた時間を費やして読了した。軽快なタッチで読みやすく書かれてはいるが、そこにこめられた意図は計り知れない。より多くの読者に、おそらく哲学書など読むこともない人たちにも手にとって欲しい。そして、恩師が死の床で何を思ったかを多くの人に知って欲しい。そんな著者ミッチ・アルボムの思いが溢れているようだ。

1920年代に生まれ、シカゴ大学で修士と博士号を取ったモリー・シュワルツ先生は、50年代後半から80年代にかけてマサチューセッツ州ウォルサムのブランダイス大学の社会心理学教授であった。多くの学生にその独創的な教育手法によって慕われるが、退官間際にALSという難病・筋萎縮性側索硬化症に侵されてしまう。

ALSとは、日に日に身体の力が失われていく。足の先から次第に運動神経が侵され、ついには自分の意志で動かせる筋肉がすべて動かなくなってしまう恐ろしい病気である。しかし、手や足、腹筋、背中、顔、呼吸筋まで少しずつ動かなくなるのに、感覚や頭脳が侵されることはない。

16年前にモリー先生の教え子で、学生時代、先生と過ごす時間の多かった、スポーツライター、ミッチ・ボルモアは偶然テレビで恩師が難病に侵されていることを知る。直ちに会いに行き、それをたいそう喜ばれたモリー先生が、自ら発案して毎週火曜日、先生とミッチが、「人生の意味」について論じ合った。その様子を綴ったのが本書「モリー先生との火曜日」(別宮貞徳訳・NHK出版)である。

読みながら思わず鉛筆でラインを入れていた。そんな箇所をいくつか紹介しながら本書の要点を述べてみよう。

最初の火曜日。ミッチが行くと先生は泣いていた。病気のことを悲観してかと思ったが、そうではなかった。その日のニュースで、ボスニアの市民が通りを走っていただけなのに銃殺された。それを見て、その場に吸い寄せられるように自分の苦しみのように感じてしまったのだということだった。

その後、先生は、この病気になって一番教えられていることは何だと思うかと問う。それは「人生で一番大事なことは、愛をどうやって外に出すか、どうやって中に受け入れるか、その方法を学ぶことだよと」言われる。そして、レビィンという賢者の言葉を付け加える。「愛は唯一、理性的な行為である」と。他者の思い、気持ちをわがことのように感じ取り、それをやさしく思いやることが愛ということなのであろうか。

第二火曜日。先生は、徐々に身体が動かなくなっていくことに悲しみが襲い、朝泣いてしまうことがあることを告白する。しかしそんなとき思い切って泣いて、それから人生にまだ残っているものに気持ちを集中する。二、三粒涙を流して、それで今日一日、さあやろう、と気合いを入れる。ミッチの知人には、目の覚めている間中我が身を哀れんでいる人がいる。それなのに、先生はこんなに恐ろしい病気に罹っているのにどうしてそんなに積極的な考えができるのか、と思う。

それに対し先生は、「おそろしいと思うからおそろしいだけなんだ」「私には、さよならが言える時間がこれだけあるのはすばらしいことでもある、みんながみんなそれほどしあわせってわけじゃない」どんな情況にあっても、どんな苦境にあっても、できることに光明を見出していくことがどれだけ大切なことであろう。救われることであろう。



第四火曜日。先生は死について語る。「誰でも(本当は)いずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。信じているなら、違うやり方をするはずだ」「(死に直面すれば)よけいなものをはぎとって、肝心なものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっと変わるよ」「いかに死ぬか学べば、いかに生きるかを学べる」



第六火曜日。様々な思いからの開放、物や思いに執着しないということについて語る。「それは経験を自分の中にしみこませないことじゃない。むしろその反対で、経験を自分の中に十分にしみこませるんだよ。そうしてこそ、そこから離れることができる。ある女性への愛でも、愛する者を失った悲しみでも、私が今味わっているような死にいたる病による恐怖、苦痛でもいい。そういった感情に尻込みしていると、つまりとことん付き合っていこうという考えを持たないと、自分を切り離すことができない。いつもこわがってばかりいることになる」

「そういった感情に自分を投げ込む、頭からどーんと飛び込んでしまう、そうすることによって、その感情を十分にくまなく経験することができる。痛みとはどういうものかがわかる。愛とは何かがわかる。悲しみとは何かがわかる。そのときはじめてこう言えるようになるんだ。よしこの感情を私は経験した。その感情の何たるかが分かった。今度はしばらくそこから離れることが必要だと」つづく

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高野山にお参りして2 

2006年10月16日 12時07分24秒 | 様々な出来事について
先週金曜日、恒例の懇話会があった。この度は、前回申し上げたことの訂正と、「法の六徳」と「五戒について」お話した。その後、毎回ご出席の男性から、高野山参拝の感想と以下のような質問があった。

「今回高野山に参らせてもらって、何年かぶりで参ったのだが、それなりに有り難かった。しかし、奥の院の弘法大師の御廟の前で、多くの参詣者が行き交う中でお経を上げたのだが、何かこんなものだろうかという感慨が残った。つまり真言宗の宗徒にとって一番有り難いはずの場所で、立って手を合わせるだけで、あそこへ跪いて額づいて手を合わせるという気持ちにならなかったのは、どうしてだろうか」と言われた。

イスラム教の人でも、また他の仏教国の人たちもきちんと五体を投げて礼拝するのが習慣となっている。キリスト教でも神の前に跪き胸の前で手を合わせる。昔「ニクソン」という映画を見たが、その中にニクソン大統領と国務長官キッシンジャーがともに跪き神に感謝を述べる印象的なシーンがあったのを思いだす。

私たち日本人は、お辞儀をする習慣があり、腰の低い国民性があるのに、神仏を前にして跪いて手を合わせたり、五体を投げて礼拝するということをしない。なぜなのだろう。神や仏というものに対する畏敬、崇拝の念が小さな頃からの生活習慣の中で育っていないということなのだろうか。

神とはどれだけありがたいものか。仏とは私たちが生きていく上でなくてはならないものだという意識が、私たちにあるだろうか。毎日仏壇や神棚に御供えをし、手を合わせていても、その神仏と先祖とを実際のところ混同して手を合わせてはいないだろうか。

神仏とご先祖とを同じように思っていて、改めて神とは何か、仏とは何か、と考えずにそれほど特別ありがたいものとも思っていないのではないか。私たちは、神や仏から、生きることに、また日常の生活に、そして人生に、規範となり、指針となり、教えとなるものを、はたして受け取っているであろうか。

もしもそのような受け取るものがなければ、真摯に身を投げて、手を合わせ礼拝しようという気持ちになれないのは当然のことなのかもしれない。ただ、あるせっぱ詰まった状況に追い込まれて、本当におすがりするしかない、もう追い込まれて、誰にも助けを求められない、神仏に救いを求めるしかない。

そういう気持ちになっときには、心から神仏にひれ伏し、願い祈る、すべてをお頼みするそういう気持ちになって、思わず神仏を前に跪き額づくということがあるかもしれない。逆に言えば、そういう状況に追い込まれてみないと、私たちは本当に神仏のありがたさを理解できないということなのではないかと思う。

昨日ある大手のエレベーター管理会社の幹部の方にお会いして話を伺った。50代のその方の話によれば、人の命に関わる仕事をしているからか、自分も含め同僚も、結構毎朝出社前であるとか、外出の折などにお寺や神社に立ち寄っては、手を合わせ、今日も1日無事でありますようにと祈るのだ、ということを聞いた。

この話を聞いてなぜかとてもうれしくなった。そうして、企業戦士も神仏へ手を合わせ、心から事故などトラブルが起こらないことを祈り安寧を得ている。そして、それがまた自らのストレス解消にも繋がっているのであろうと思う。そんなことをあれこれ話し合った。

近年、米国式経営の影響からか他社との競争やノルマ、社内の競争と人間関係、家庭の問題などで精神的に疲弊した中堅社員に心の病を抱える人が急増している。10月17日の朝日新聞には、上場企業の30代で6割近い人がメンタルヘルスに問題を抱えているとある。ストレスをいかに解消するか、その方法の一つとして神仏との自分なりの関わり方を模索してみては如何であろうかと思う。

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東京巡礼

2006年10月11日 11時04分59秒 | 様々な出来事について
9日朝一番の全日空で広島空港から羽田に飛んだ。その日正午から執り行われる新宿区西早稲田・放生寺の放生会(ほうじょうえ)に出仕するためだった。連休最後ということからか東京に向かう機内は空席が多く、快晴の中快適な一時間を読書に費やした。途中「富士山が左下にご覧になれます」とのアナウンスが流れたが、右側の席だったため見ることもなかった。

が、そのことを後でお寺で言うと「それは残念でしたね、席を移動しても見たら良かったのに、上から富士山を見れる機会などそうあるものではないし、富士山を見ると良いことがあるという人もありますよ」と言われた。まあ、それもそうかとも思ったが、別にそこまでして見たいという気持ちにはなれず、見たからどうとも思わない。一事が万事私はそんな感じだ。

ところで、ホウショウジという名のお寺はよく耳にするが、この字を書くお寺は他に知らない。放生寺は古くは放生会寺と言った。三代将軍徳川家光公から賜った寺号だ。開創の良昌上人が若い頃修行されたときに夢告から家光公の世継ぎ誕生を祈願して、後の家綱公がお生まれになり、その後中野の宝仙寺に居られた頃、放生寺の上に位置する辺りに八幡神を祀る話が起こり、その長官職に任命されて招かれ、それで高田八幡宮ができた。

当時は神仏習合の時代で、また江戸幕府が仏教を国教の位置に定めていたこともあって、神社を造営するとかいうと僧侶がその役割を担っていた。上に八幡社を建て、下に僧坊を造り、土地を崩していたときに穴が見つかり、そこから阿弥陀の小像が出てきた。阿弥陀仏は、八幡神の本持仏で、それが土地から出てきたということは八幡神を祀る適地であるとのことで、そのことが喧伝されて穴八幡との通称ができ、今ではそれが正式名称になっている。

そして良昌上人が夢告で徳川家の世継ぎ生誕祈祷をされたとのことが家光公の耳に達し、鷹狩りでお出ましの際に良昌上人を訪ねになり、お寺で修されている放生会の盛大なることを聞かれて寺号を光松山放生会寺と定め葵の御紋を寺紋とすることを許され、徳川家の祈願所とされた。

それで、江戸時代には、観音信仰が盛んになって江戸三十三観音の札所としても賑わい、「一陽来福」という金銀融通のお札が人気を集めて有名になった。このお札は、一陽来復という冬至の日に陰きわまって次の日から一陽一陽日が長くなることを意味する易経の言葉に観音経偈文にある「福聚海無量」の福の字を併せて一陽来福とし、観音菩薩の修法祈願により冬至の日に一般に頒布した。冬至の日の晩十二時に次の年の恵方に向けて居間の鴨居に貼り、金銀の融通と家族の幸福を願うという縁起の良いお札であった。

その後明治に入ると神仏分離令から、当時の放生寺住職の弟子が還俗して坊さんを諦めて神官になり、穴八幡を経営することになる。しかし経営に困って、お寺で頒布している一陽来福を一陽来復の名で細々売り出した。そして、先の戦争で広大な伽藍を焼失した放生寺は戦後見る影もなく、その間穴八幡で頒布した一陽来復が地下鉄が延びたことで有名になり多くの人々が穴八幡の一陽来復を求めることになる。冬至から翌年節分まで数万人もの人が詰めかける。

近年穴八幡は見違えるような瀟洒な建物を新築された。今回行ってみるとまず目に付いたのが、お寺に隣接した緑と朱の塀に囲まれた黒塗りの小社である。それこそがあの阿弥陀仏が出てきたという穴八幡の名の由来となる穴を祀るものだという。まだ建設途中ではあるが、きちんと神仏習合時の歴史が分かる説明書きを立ててもらいたいものだ。

放生寺でも今大きな客殿と庫裡を建設中である。墓地の新たな募集もあり放生会の法要は多くの参詣者で賑わった。生き物の命を大切に、動物だけでなく、人間の命も大切にしなければいけないだろう。その晩宿に戻ると北朝鮮核実験のニュースが飛び込んできた。

既に織り込み済みとの経済界の受け取り方が賢明なところではないか。戦争を起こそうとする人々があり、それによって潤う人々がいる。経済が戦争無しには回っていかないという人類普遍の原理もあろうが、何時の世でも苦しむのは私たち庶民だけである。

今の時代が、あの戦争に向かっていった昭和の初期に似ていると指摘する識者もおられる。新聞テレビの報道もやや偏った傾向が見られ出した。マスコミやジャーナリストたちの見識を問い、報道の質を見定める目を、私たち自身が持たなければいけない時代となった。

私がテレビを全く目にしなくなって何年経つだろう。新聞に目は通すが、そのすべてを受け入れる気持ちになれない。世論調査もまったく信用していない。恣意的に選別し、私たちをどこかへ誘導するものとしてマスコミがあると思った方が良い。

何があっても冷めた目で、どういう力関係、人間関係のもとに起こってきたものかを見定めることが必要だとある先生に教えられた。9.11のテロもやらせであったということがやっと、日本でも知らされ始めた。何事も大きく仕組まれ騙されているということを知らねばならないということだ。

翌日、私にとってのお寺の原点である浅草・浅草寺(せんそうじ)にお参りした。戦後GHQが「センソウジとは勇ましい。しかし、けしからん。そんなお寺は壊してしまえ」と言ったとか。言わなかったとか。しかし後に単なる音が同じだけと分かり取り壊されることもなく、今にその賑わいを伝えている。

相変わらずその壮大な本堂の大きさに圧倒される。中門は改装中だった。子供の頃境内に出た蛇革のベルト売りやバナナのたたき売りに目を輝かせ、また後に仲見世横で托鉢した日を思いだしつつ歩いた。江戸庶民の信仰を今に伝える浅草寺。何時までも平和にそのままの偉容を後世に伝えて欲しいと思った。

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仏像とは何か

2006年10月08日 13時51分10秒 | 仏教に関する様々なお話
「仏像とは何か?」また、何か大上段に振りかぶって大仰なことを、とお思いの方もあろう。しかし、私にとって、これは大いに意味ある大事な問いであって、高野山にいる頃から、なぜ仏像などあるのだろうか。仏像などあるから仏教は堕落したのではないか。そんなことを考えていた。

前回申し上げた高野山の専修学院にいた頃、同じ修行僧にそう言ったところ、何も答えてくれなかった。高野山に修行に来るような信仰心の篤い人には、なかなか私の発した問いの発想は理解しがたいものがあったのであろう。意外と都会のど真ん中で、若い人に問うてみたらおもしろい答えが返ってくるのかもしれない。

後にインド・カルカッタのお寺にあったときも、そんな思いが沸いた。師匠の宗務総長ダルマパル・バンテーに問うと、「仏像があったからこそ、ここまで仏教が広まったのだよ」とだけお答えになった。

確かにそうなのだ、たしか西暦1世紀中頃クシャーン王朝の時代にガンダーラとマトゥーラーでほぼ同時に仏像が造られ始めた。それまでは、お釈迦様の御像を彫刻することは不遜なこと、お悟りになったお方の姿を刻むなどということはできなかった。それで、彫刻の様々な場面でお釈迦様をあらわす場合、菩提樹であるとか、法輪、仏足石を描くことでお釈迦様を表現した。

しかしお釈迦さま滅後500年して、仏像が造られたことによって、インド世界から他の西域、アジア東部へと仏像と経巻が運ばれ瞬く間に仏教が広まった。確かに教えだけでは仏教は無味乾燥なものであったかもしれない。仏像がなければ、僧侶が勉強したり生活する講堂や僧坊だけで、あっても仏塔くらいで、お寺には本堂もなく香も灯明も差し上げず、荘厳する場もなければいわゆる仏教文化の華は咲き誇ることなく終わっていたのかも知れない。

それでも私は、「仏像とは何か?」と問いたい。たとえば、観音様でも、お薬師様でも、沢山おられる。世界中のお寺に、もちろん仏像として。西国などの観音霊場なら、33カ所で33体もの観音様をお参りする。しかし観音菩薩、釈迦如来、阿弥陀如来、ありとあらゆる仏は本来やはりそれぞれお一人なのではないかと私は勝手に思っている。

四国の八十八カ所も本尊は別々かもしれないが、大師堂に祀られた弘法大師像は88体あって、それぞれにお参りする。しかし弘法大師は本当はお一人であって、来世に都卒天に転生して衆生を済度するのだと言われた。

それなのに沢山の弘法大師像を正にそこにお大師様がおられるかのように思い拝む。仏菩薩もありとあらゆる所に祀られているその御像を正に唯一の仏そのものと思い手を合わせるという。しかし私は、いくつおられても、それぞれをその仏菩薩そのものとして拝むという行為は少々受け入れがたい。それはどういう事かとどうしても考えて、私なりの納得をしなかったら、手を合わせるという行為が嘘になってしまう。そう思えたのだ。

これもしばらくペンディング事項で、いっこうに自ら納得できる答えのないまま時間が経過した。そうこうしていたら、ある時、昔子供の頃テレビで見た「タイムトンネル」という番組を思い出した。二人の主人公が、時空を超越した旅に出る。目に見えないスポット(はざま)にはいると時代を超えて、たとえば300年も前の時代にと四次元空間の旅をして、行った先のハプニングに遭遇し、危機に陥るとまたタイムトラベルを繰り返すというSFものだった。

その時閃いたのは、そうか仏像とはそのスポットなのではないかと。つまり、本来一つの仏へ通じる時空を超えた、仏そのものに直結した四次元の空間が口を開けたスポット(はざま)こそが仏像なのではないかと。だから、その本来の一つの仏に向けて、時空を超えて直結するものとして各々沢山の仏像があるのではないか。そんな風に考えれば、それぞれ造形された仏像に開眼供養を施して、礼拝し拝むという行為に一つの意味づけができるではないか。そう私は納得して、それ以来その考えのもとで仏を拝んでいる。

そして、更に言わせてもらえば、私はそのおおもとの、本来一つである仏菩薩、明王などのすべての仏たち、それらも元を正せば一つであり、それらはすべて歴史的背景からしてお釈迦さまの悟りから発生したものであると考えなければいけない。すべてはお釈迦さまの悟りに端を発して時代に応じて様々に発展させてきたものだから。

お釈迦さまの数え切れないほどの智慧、お徳の一つ一つをそれぞれの仏菩薩たちに分担させているものであると言えよう。すべてはお釈迦さまに収斂されるのであって、様々な宗派も、もとは仏も一つ、教えも一つという発想に立ち返る必要があるのではないか。密かに一人そう思っている。

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高野山にお参りして

2006年10月05日 13時08分14秒 | 様々な出来事について
3日朝6時にお寺を出て、高野山に参拝した。國分寺参道入り口にバスが来て、4人の同行者と乗り込み、上御領、八尋を通って、38人。もう一台には22人の同行が乗り込んだ。総勢60人の団参。住職衆は6人。

山陽道、中国道、それに阪神高速から近畿地方を南下して橋本から高野山道路に入り、到着したのは、お昼を回っていた。途中バスの中で弘法大師1150年御遠忌記念のビデオを見た。高野山の山内行事を中心に専修学院生(高野山の僧侶養成専門道場)の修行風景を随所に紹介したものだった。

それを見ながら、かれこれ20年も前の自分の姿を重ね合わせて見ていると、次第に胸にこみ上げてくるものがあった。2月14日の晩から翌15日にかけて行う常楽会、9月から12月にかけて行ずる四度加行(しどけぎょう)中の両壇参拝、護摩の正行(しょうぎょう)、奥の院玉川での寒中水行など。

数カ所からゆらゆらと燃える護摩の火を眺め、また水行の感極まる心経の声を聞いていると胸が熱くなり、涙が流れた。当時の正に真剣に純粋に取り組んだ日々のことが思い出され、当時の思いが一つになって胸に飛び込んでくるような気がした。

かねて地元神辺結衆寺院の年間行事として毎年高野山にはこの時期参拝する訳ではあるが、住職衆も共に同行することが半ば義務となっていた。他の四国や薬師巡拝は檀家さんの参加のある寺院が出ればいいのではあるが、高野山は別格になっていた。そこにはどういう意味があるのかと思っていたのだが、この時やっとその意味が分かった。

自分たちの修行の地はやはり別格なのだと。若き日に、情熱を傾け、本気に取り組んだ、自分自身の信仰の証のような場にやはり一年一度は戻ってきて、当時の思い、志に心新たに向き合おうではないか。

下界に降りて、たとえお寺にあったとしてもその日常は世間の中で様々な喧噪に道心は埋没しがちであろう、一年一度もう一度身も心も清らかに清浄の中に立ち戻ることも必要だと。そういう意味合いがあったのではないか。おそらく、そういうことだろう。

私自身の場合は、その後インドに行ったり、四国を歩いたり、修行の思い出残る場所は多くある。しかしやはり、はじめてこの道に入って行というものに出会った場所として、高野山は特別の場所なのだろうと思う。そんなことに改めて気付かせていただいた。

世界遺産に登録されたり、高野山山内の様々な問題も耳にする。しかしそんなこととは一切関係なく、やはり古の規則を守り通し、今も厳然と修行の場としての姿勢を改めないだけでも高野山は格別なのだと思える。

参詣する人々、それぞれに思いは違う。しかしそれらの思いを受けとめられるだけの懐の広さがあるとすれば、それは弘法大師のご入定の地、伽藍の規模、建物の立派さもさることながら、やはり毎年100人を超える修行者が100日間も純真なる志をもって新たに修行する数少ない神聖なる道場であるからということなのではないだろうか。

翌日は、大阪に下り、四天王寺。宝塚の中山寺、清荒神清澄寺に参拝した。四天王寺は、聖徳太子が物部氏との戦に際し四天王像を刻み戦勝祈願して勝利し、その感謝をあらわして建てたお寺。

中山寺は女性の望みを聞いて下さるという観音霊場で、安産祈願に訪れる人が多い。明治天皇の祈願所だという。また清荒神は、火伏せの神。厄落としに火箸が沢山御供えされていた。ともに宗派本山として賑わっていた。

ところで、この度、60人の団参者のうち20代の方が10人近く参加された。おばあちゃんがお孫さん共々参加されたという家もあるし、おばあちゃんの供養に親子一家一同で詣られた方もあった。誠ににぎやかに有り難い参拝であった。

家族の連帯、意思の疎通が問題になっているこの時代に、こうして多くの若い世代が共に参加して下さったことに感謝したい。と同時に、福山市も決して例外ではなく、様々な精神的な問題を抱える人たちが増えつつある。

そうした人たちにもこういう機会に参加いただき、日常では得られない聖なる静寂の中に心癒される機会としていただけたらありがたいと思う。山陽道をひたすら西走し、神辺に到着。ところに応じて少しずつ下車していく同行者に名残惜しく思いつつ、お別れした。

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即身成仏ということ

2006年10月02日 19時03分15秒 | 仏教に関する様々なお話
真言宗ではよく即身成仏(そくしんじょうぶつ)ということを言う。他の教え、つまり顕教(けんぎょう)という密教以外の教えが三劫(さんごう)という果てしない時間の末にしか成仏できないといわれるのに比べ、誠に優れた即身成仏できる教えが真言密教であるという。弘法大師は「即身成仏義」という書を著して様々な論証をされ、それに基づいて後生の学僧が研究されてきた。

はたしてこの即身成仏とはいかなる教えなのか。それらの研究書では専門用語ばかりか、説かれる言葉も難しく、引用される経論は更に難しい。その真義をくみ取り、今の時代にどう、そのメッセージを私たちは受け取るべきなのか。長い間、私にとってのペンディング事項の一つであった。

ずっとそのままになっていたのだが、つい一昨日だったか、朝のお勤めの後坐禅をしていて閃いた。閃いただけだから、これが即身成仏の解釈である、などと言えるようなものではない。ただ、今の私にとって即身成仏とはこういうこととして受け取ったらいかがであろうか、というにすぎないことをお断りしておく。

即身成仏は古来、大きく三つの意味に取れるという。一つは、「すなわち身、なれる仏」と読み、この宇宙森羅万象すべてが仏の現れとしてみる立場から、私たち人間も含めたすべてのものは、そのまま仏であると解釈する。

しかし普通、私たち凡夫は沢山の悩み苦しみを抱えて自らを仏とは思えないものなので、速疾に成仏できるとする密教の修法が必要となる。そこで二つめは、「身に即して仏となる」と読み、煩悩に覆われて隠れている仏を開き見るために、凡夫は身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を想う三密の修行をもって仏と一体となる境涯を一時的に体験する。

そして、三つ目が、「すみやかに身、仏となる」と読んで、その一時的な境涯を絶えず積み重ねることで、常に四六時中仏と一つになり仏の働きを生きることができるとする。これが真言密教における伝統的解釈のようだ。

しかし、人間そう簡単に理論どおりに生きることもできなければ、継続する忍耐にも欠けている。密教の修法も専門に修行する僧侶としてならいくらもできようが、一般在家の人々には及びもつかない。

それでも即身成仏というその意味するところが現代の私たちにとってまったくナンセンスなこととも言えまい。この言葉を、凡夫の一人である私たちは、それでも意味あるメッセージとしてどのように受け取ったらよいのであろうか。

さて、即身成仏が言われる前には三劫成仏が唱えられていた。三劫もの時間を経なければ成仏できないというと、果てしない後の世に向けて私たちはどうしたらよいのか皆目見当もつかないということになる。

劫とは、牛車で1日行く距離を一辺の長さとする大きさの四角の石を百年に一度薄い布で払ってその石がなくなってもその劫は終わらないというほどの長い時間を言う。三劫成仏とは、その劫が三回経過してやっと人は悟りが開けるというのだから、無理ですと言われているのに等しい。

それに対して即身成仏という言葉が使われたのであるから、そんなに先のことと思わずに、速やかに悟れるのだから、今この瞬間を真剣に、大切にしなさいということではないか、と私は思う。たとえば、来年受験するからさかのぼって今の時期はこれとあれと勉強しなければと思うのであって、それが10年も20年も先に受験があると思えば、何のことはない毎日遊んで暮らしてしまうであろう。

悟りもそれと一緒で、今という思いが大切だということなのではないか。明日でもなく、今日の、それも今ということではないかと思う。即身とは、今この自分において、ということだろう。今この自分において悟りということと真剣に向き合って生きよ、ということではないか。

悟りというと何か縁遠いことに思われるかもしれない。しかし、悟りとは最高の幸せのことであって、誰もが求める幸せの最高のものだと思っていただいたらいかがであろう。お釈迦さまは、自らその最高の幸せである、何者にも依存しない、何にもわずらわされることのない、安穏な境地に至られた。それを成仏と言う。だから死んだら成仏するということでは勿論ない。

だから今この自分の悟りに真剣になるということは、自分が今本当に幸せであるように生きよ、ということではないか。ではどうすれば本当に心から幸せだと思えるだろうか。今幸せであるようにとは、今さえよければいいという先々のことを考えない刹那主義のことではない。

また、自分だけ良くあればいい、自分だけ喜べればいい、一人幸せな気分を味わえば満足だということでもないだろう。少しも空しさが残らないように、後悔が少しでもないようにするには、やはり自分も家族も周りの人たちも、みんな良くあることが必要になるであろう。

周りの人々がにこやかに幸せな顔をしていて、はじめて心からの満足感、幸福感が沸いてくるのではないか。周りの人たちに何か自分がして喜んでもらう、善いことをした満足感、役に立ってうれしく思う、そうしてはじめて今のこの自分の幸せを手にできる。もちろん、そのためには自分もその立場に応じて、しっかり生きていなければいけないだろう。そうして身近な小さい幸せかもしれないけれども、その積み重ねが本当の幸せということに繋がるのではないか。

仏教では、身と口と心のなすことを行いという。その瞬間瞬間のそれらの行いがすべて業となり、後の自分をつくっていく。今がやはり大切なのだ。だから明日ではなく、10年先でもなく、死んでからでもなく、来世でもなく、今を真剣に最高に幸せに生きようではないか、というメッセージとして即身成仏という言葉を受け取ってはいかがなものかと思うのである。

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