(大法輪誌平成十四年一月号掲載)
前回は、仏教伝来から南北朝時代までの中国仏教について述べました。今回は、その最盛期を迎える隋唐時代の仏教を中心に、その後現代にいたるまでの中国仏教を概観したいと思います。
隋の統一
北周の武帝による廃仏の後、無宗教政治が続いていた北シナでは、隋の創業主文帝(在位五八一ー六〇四)が即位すると、直ちに仏道二教復興の詔を出し、特に仏教に対しては自ら王家を率いて復興の先頭に立ったと言われています。
長安に新しい都城を建設し、城内に国立寺院として大興善寺が建てられ、隋唐にわたる名僧が住する中央仏教随一の名刹になりました。また全国の州県に州立県立の僧寺尼寺を建てるようすすめ、日本の国分寺制のもととなりました。
また、文帝は当時の最も学徳ある高僧を長安に招き、特別待遇を与え教学の宣揚をさせました。そこへ天下の学僧が集まり、南北朝時代までに培った教学を基礎とした宗派の開創に結びついていきました。
隋はその後、質素倹約を奨励して国力を充実させ、五八九年南朝の陳を制圧し天下統一を果たしました。討陳軍の総帥晋王広(のちの煬帝)は、揚州に駐在して仏寺や道観(道教寺院)を建て、もとの陳の宗教界の人材を招きました。これらの高僧の中には彼が特に親近し尊敬した天台宗の智や三論宗の吉蔵らがありました。
天台宗と三論宗
[天台宗]は今の浙江省にある神仙の棲む山として名高い天台山を聖地として、法華経を根本聖典とする学派でした。すべてのものを一切の条件を円満に欠けることなく具えた真実の姿であると捉え、喜怒哀楽に生きる私たちの現実そのままが仏のいのちに他ならず、すべてのものがさとりを開く条件を具えているという現実肯定の思想を説きました。
第三祖智(五三八ー五九七)は、「法華玄義」「摩訶止観」などを著して、こうした教学を大成するかたわら、当時の都の学問仏教もまた学問を忘れた無知の坐禅もともに真のさとりには至らないことを主張して、止観(禅)の実践を中心とした教観二門を説きました。智は晋王広に菩薩戒を授け、智者大師の号を賜りました。
智はまた、これまでに訳されたあまたの経典を価値評価する教相判釈を行ったことで有名です。お釈迦様の説法した時期を五つに分け、それぞれの時期で内容に変化があったとして経典を分類し「五時八教」の教判を示しました。
そして、その最後の時期に説かれた教えであるとする法華経と涅槃経こそがお釈迦様の本当に述べたかった教えであり、中でも法華経こそがすべてのものが成仏するという悉皆成仏の理想の教えを説いているとして、他の経典は仮の教えに過ぎないとしました。これは、当時経典が五月雨的にもたらされ、インドでの経典制作の背景や成立年代も知られていなかった事実をあらわしています。
この教判はその後の中国仏教、また日本仏教の行方に多大な影響を与えるものとなりました。が、近代の仏教研究によって、その評価は改められることになりました。
南京市東方の深山幽谷摂山を中心とする[三論宗]は、「空の哲学」を構築した龍樹が著述した中論、十二門論など三つの論書(羅什訳)を研究するグループから生まれました。
吉蔵は、これら三論の教理を簡潔にまとめた「三論玄義」を著して三論宗を大成し、空観に基づく中道を仏性との相即のもとに解釈しました。烈しい空観の修禅にその特徴があり、唐代以後は禅宗の中に吸収されていきました。
また、戒律を重視し律蔵の研究を進める人たちが[律宗]を開き、インドの部派仏教時代にそれぞれの部派が所持した律蔵を比較研究し、なかでも特に大乗色の強い「四分律」が重んじられました。
大唐帝国の誕生
皇帝の威光を天下に誇示するため大土木工事を強行した隋の煬帝は、晩年に高句麗征伐など無理な戦争を人民に強いると内地に反乱が起き、都を追われ江南に逃れてもなお豪奢を続けたと言われています。
山西省の鎮将であった李淵はその機に乗じて、子の世民とともに長安を陥れて、六一八年唐を建国。隋朝による搾取と戦乱で荒廃した土地に均田制を改めて生産力を高め、それをもとに大唐の繁栄が築かれていきました。
次の太宗(李世民)は、武略文治ともに傑出し、建国以来の外敵突厥を平定、また新興の吐蕃(チベット)とも友好を結びました。これにより唐の国勢が西域諸国に延び、長安はあらゆる文化民族を集める世界最高の文化都市となりました。
玄奘の活躍
六四五年玄奘三蔵(六〇〇ー六六四)は、十七年ものインド旅行から帰国し仏像経巻仏舎利などを多数将来しました。太宗は玄奘から西域インドの最新の知識を聞く機会を得て喜び、当時の仏教界の俊英を集結させて経論の翻訳を助けました。次の高宗は、慈母追善のために大慈恩寺を建て翻経院を設置し、玄奘が持ち帰った経巻や仏像が焼失するのを避けるため大雁塔を作るなど、彼の翻訳事業のために多大の便宜を図りました。
彼は、大般若経六百巻、大毘婆沙論二百巻など大部のものも含め、七五部一三三五巻もの原語に忠実な翻訳を手がけ、これにより中国仏教は一大飛躍を遂げたと言われています。
また、玄奘はナーランダーで学んだ当時のインド最新の仏教学であった無着、世親らの唯識説をもたらし、玄奘訳「成唯識論」により[法相宗]が生まれました。天台宗などが説く誰でもがさとりを開く素質があるとする悉皆成仏の思想を批判し、皆能力には違いがあることを主張しました。そして、私たちの心の根底にある阿頼耶識に貯め込んだ汚れを滅却する瞑想行を重んじ、現実主義実践主義の教えを貫きました。
武后と華厳宗
高宗の死後、皇太后武氏は我が子を即位させる間に武氏一族で朝廷の要職をおさえ実権を握り、六九〇年睿宗を廃して自ら帝位に上り、国号を周と改めました。
インドを始め三十国あまりを巡って六九五年に帰国した義浄は、則天武后の出迎えを受け、勅を受けて華厳経八十巻の新訳に協力。義浄はその後、律蔵や密教教典など多くの経巻を訳しました。
当時の仏教界の巨匠・法蔵(六四三ー七一二)は華厳宗を大成し、武后は法蔵に深く帰依して新訳華厳経の講義を受け、また宮中に内道場を設けて国家安泰聖寿長久を祈祷させたということです。
山西省の五台山を中心とする[華厳宗]は華厳経をよりどころとして、今の現実を離れて別に尊い聖なる領域があるのではなく、煩悩に覆われ自我を主張し苦悩に喘いでいる私たちの心そのものが仏のいのちの現れであると説きました。
また法蔵は、人間の自己省察の深まりを観点としてさまざまな教えを分類し評価を下した「五経十宗」という教判を示しました。天台宗、三論宗、法相宗などそれまでに成立した諸宗の教義を批判し、華厳宗の教えこそ究極の教えとして総合した広大な教学組織の上にその信仰実践を提唱しました。その後華厳宗は、諸宗を兼学した澄観によって急速に禅宗との調和がはかられていきました。
天台と華厳は中国が生んだ学問仏教として、中国仏教を代表する二大教学とたたえられています。その教学は漢訳された上で中国人の思惟により独特な読み方や解釈によって構築されたものであると言われています。つづく
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