住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

國分寺創建の背景

2014年05月27日 07時31分42秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
聖武天皇はどのようなお方で、なぜ國分寺を造られたのか。仏教が伝来し、それを積極的に受け入れた蘇我氏、その系統から聖徳太子が出て仏教は興隆した。仏教は、国の教えとなり政治を底辺で支えた。

諸外国に学び、進んだ政治制度である律令国家への歩みを進めていたとき、乙(いつ)巳(し)の変が起こった。私たちが大化の改新と習った政変である。天皇家を貶め専横を極める蘇我氏を暗殺し、後の天智天皇と後に藤原氏となる中臣鎌足が政権を奪取し新しい行政改革を行ったといわれる。次の時代に編纂される「日本書紀」では彼らは英雄とされた。しかし、事の真相はそれほど単純なものではなかったであろう。

そもそも日本の起こりは、近年発見された三世紀前半の最大の大型建物跡が発掘された纏向遺跡(まきむくいせき)から地方各地の土器が発見され、それは地方豪族による合議共存によってヤマトが成立したことを推定させる。それを根本から崩す政治を天智と藤原氏は目指していたという。それは、雄略、武烈というかつて倭の五王と言われた天皇と同類の独裁を目指すものであった。

しかし、天智天皇の死後、のちの天武天皇が繰り広げた壬(じん)申(しん)の乱(らん)は、それを再度ヤマト古来の合議共存への政治回帰であり、実際に各豪族の協力のもとに律令制度の基本となる土地制度改革が進められた。

そして、聖武天皇とは、天武の孫文武天皇の子ではあるが、母は鎌足の子藤原不(ふ)比(ひ)等(と)の娘であり、初めて皇室外の母を持つ天皇であった。そして、後の世で天皇と外戚関係を結び政治の実権を握る藤原氏の政治手法の最初の天皇でもあり、生まれたときから不比等邸で育てられた。

聖武天皇は、大宝律令ができた七〇一年に生まれ、奇しくも皇后となる不比等の娘光明子も同年に生まれた。不比等の死後、天武の孫長屋王の政権を面白く思わなかった不比等の息子たちは、光明子を臣下の娘として初めての皇后とすべく暗躍し、長屋王を冤罪で身罷らせる。

しかし、その後蔓延した天然痘でその不比等の息子たち四人が瞬く間に死す。それは、長屋王の祟りと恐れられ、恐怖した聖武、光明は仏教施策に奔走する。一切経を書写させ、諸国に丈六の釈迦如来像を造立させ、七重塔のある寺を造らせる。

議政官を独占していた藤原四兄弟が亡くなると橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備が政権を担い、九州に左遷された藤原広嗣が九州で挙兵。それを期に、聖武は藤原氏の造った平城京を出て彷徨。はじめに向かった東国ルートは、天武が壬申の乱で挙兵すべく向かったルートに重なる。藤原の天皇から脱し、天武を意識し、その政治を理想とし継承することを目指したのであろうか。結局、その後五年にわたり各地へ遷都を繰り返し、この間に國分寺の詔も発せられる。

汚れた政治権力の抗争を離れ、真に理想の国家建設のために何が必要かを深く思索していったのであろう。そして、大仏造立を発願する。唐から帰った玄(げんぼう)の諸国造寺の進言と、東大寺初代長老良弁(ろうべん)から学んだ華厳思想が融合し、國分寺制と大仏造立が一つの理念に結ばれたのである。

すべてのものは相関し、個は全体の縮図であり、全体は個に影響するという思想のもと、国土全体を華蔵世界になぞらえ、諸国國分寺に釈迦仏を、帝都に毘盧遮那大仏を造り、時空を越えた理想的仏国土建設を志したのであった。

聖武太上天皇一周忌には、東大寺と諸国國分寺にて盛大な法要が営まれた。



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四国遍路行記34

2014年05月26日 11時14分55秒 | 四国歩き遍路行記
本山寺の瓦置き場の寝袋の中で目を覚ました。六時少し前だった。手水鉢の水をいただいて洗顔。戻って寝袋を丸めて紐で止め頭陀袋に結ぶ。そして本堂へ朝のお勤めに参上した。

本山寺は、大同二年(八〇七)に平城天皇の勅により、弘法大師が井の内村から伐採した用材で一夜のうちに七間四方の堂宇を建立したのが始まりといわれる。そのとき本尊として馬頭観世音菩薩を刻んで安置したという。観音様は柔和なお顔と決まっているが、馬頭観音だけは頭に馬を乗せた忿怒相に変化していて、明王のような恐ろしい形相をしている。人間の煩悩を取り除き諸悪を断じてくれるのだという。本尊と同時に刻んだ 阿弥陀、薬師の両如来ともに国宝に指定されている。

本堂も鎌倉時代建立の寄せ棟造りの本瓦葺きで、国宝。二十あまりの坊があるほどに栄えたが、戦国時代に本陣にしようと長宗我部氏が入り、それを押しとどめようとした住職は斬られるという歴史があった。見事な五重塔は明治末期の再建である。

本堂、大師堂と拝んでいたら、後ろにYさんが既に来られていた。早速車に乗り込み、次なる七十一番弥谷寺に向かう。十一キロほどの距離。下の駐車場に車を止めて歩き出す。

弥谷寺は石段のお寺。駐車場から二百六十二段もの石段を登ると大きな六メートルもある金剛拳菩薩がお目見えした。金剛拳菩薩は金剛界四仏の十六ある供養尊の最後で、行者の修行の完成を意味する姿。胸の前で両手の拳を上下に重ねる印は悟りの境地を世間に結びつけることを意味する。

そこからさらに百八段登ると大師堂に、そしてさらに百七十段登って本堂へ。途中、薄暗い岩壁を横に見ながら登っていくと、大師の修行場だったという弥陀三尊の磨崖仏龕や、沢山の地蔵尊が彫られていたりと、ゾクゾクするようなエキゾチックな雰囲気に満ちていた。

弥谷寺は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創した時には山頂から瀬戸内海を挟んで八国が望めたので八国寺と称したとされる。が、大同二年に弘法大師が修行していると五本の剣が降ってきて蔵王権現が示現したので山号を五剣山、また一帯に谷が多いことから寺号も弥谷寺と改めたという。

岩穴に堂を取り付けたような本堂の前で本尊千手観音に理趣経をお供えし、洞穴の中のような大師堂では薄暗いお堂の中で心経を唱えた。Yさんもさすがに何か感じられるのか怖そうに私の後ろに貼り付いて手を合わしていた。大師堂の裏側には弘法大師が幼少の頃勉学に励んだという獅子岩窟もあり、祖霊の集まる所といわれる弥谷寺独特の雰囲気を醸し出していた。

次なる札所七十二番曼荼羅寺までは四キロ弱、車なので瞬く間に到着した。

曼荼羅寺は、もともと世坂寺といい弘法大師の生まれた佐伯氏の氏寺で、唐から帰国した弘法大師は、青龍寺を模した伽藍を立て、大日如来を刻んで本尊とした。唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅も安置し、寺号も曼荼羅寺と改めた。永禄三年(一五六〇)阿波の三好実休の兵火にかかり焼失したあと再興されたのが今の伽藍。境内一杯に広がった老松は弘法大師お手植えと伝わるが、残念ながらこの見事な松は平成十四年に枯れてしまった。

待っていて下さるYさんに気遣いつつ、早めに理趣経と心経を唱え、一キロも離れていない次なる札所へ。

七十三番出釈迦寺は、山号を我拝師山という。が、実は曼荼羅寺も同じ山号で、ともに我拝師山に連なる伽藍であったのであろう。

この出釈迦寺から南に続く山はもともと倭斯濃山(わしのやま)といったが、弘法大師が幼少の頃、山頂で一切衆生を救わんと誓願して「我が願い叶うならお釈迦様どうか現れ給え、叶わぬなら我が身を捨てて諸仏に供養し奉る」と崖から身を投げると、紫雲たなびきお釈迦様と天女がすくい取って下さったという。そこで、この山を我拝師山と名付け、釈迦如来像を刻んで本尊とし、それが出釈迦寺の基となったのであろう。

我拝師山への道の右側に本坊、大師堂、本堂と続いている。このとき、読経を済ませ、一人我拝師山に登山した。途中水の湧くところで喉を潤し、置いてあった杖を借り急斜面を登る。大きな通夜堂があって、その脇から弘法大師が子供の頃身を投げたという捨身ヶ嶽禅定と言われる崖から下を覗いた。足下は大きな岩がごろごろしている。早々に引き返し山道を下った。

Yさんは車の中で待っていて下さった。今日の夕方までご一緒すると言われていたので仕方なくお付き合いしているようでもあった。七十四番甲山寺はいよいよ善通寺のお膝元。平地に戻り田んぼの中に見える低い山、標高八七メートルという甲山(かぶとやま)を目指す。

このあたりは弘法大師のふるさとで、善通寺と曼荼羅寺の間に寺院を建立しようと霊地を探していたとき、甲山の麓で一人の老翁に出会い、この地を勧められた。大師は早速、毘沙門天像を刻み、山の岩窟に安置した。これが甲山寺の開基となった。

落ち着いた雰囲気の本堂そして大師堂をお参りする。弘法大師作と伝える薬師如来が本尊様。大師堂の近くには大師が刻んだと言われる毘沙門天を祀る岩窟もあった。

お腹を空かしたYさんは既に車の中。乗り込むとすぐに善通寺目指して走り出した。善通寺の駐車場近くのうどん屋さんで讃岐うどんをごちそうになった。既に二時を回っている。遅い昼食をご一緒して、二日間の同行に感謝しお別れした。

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四国遍路行記33

2014年05月23日 11時05分01秒 | 四国歩き遍路行記
六十六番雲辺寺は徳島県にある。が、札所としては、ここからが涅槃の道場、讃岐の国に入る。

弘法大師が若き日にこの地にいたり、霊気にうたれて一宇建てたと伝承されるが、唐から帰朝後大同二年に巡錫の折に、秘密灌頂の儀式を行ったとも言われる。その後嵯峨天皇の勅により、千手観音を刻み本尊として安置した。

四国高野とも呼ばれて学侶が集い七堂伽藍が整って、末寺八か寺を擁する巨刹となるものの戦国時代には兵火にかかり、江戸時代蜂須賀家の庇護により再興されたと伝えられている。

丁度本堂建て替えの時期に当たり小さなプレハブの仮本堂の前で読経。大師堂は大きな宝形造りの庇の中で般若心経一巻。昨日の暑さが嘘のようにひんやりする中、椿堂で頂戴したお弁当をベンチに座って食べる。

それからロープウェイの乗り場付近にある展望塔を訪ねた。大きな毘沙門天が立つその展望塔には、昨年高知の護国寺の座禅会でお会いした禅僧が坊守をされていると聞いていた。小さな部屋で坐禅するように座られていたがにこやかに迎えてくれて、しばし歓談。五十を過ぎてこの道に入られたが、なかなか居場所に恵まれないというような話をされていたと記憶している。

山道を下る。下界は温かい。山道から車道に合流して、県道二四〇号線をひたすら歩く。岩鍋池に沿うように歩き、しばらく行くと田圃が広がるのどかな風景の先に大興寺があった。

到着して石段を上がろうとしたら、車で来ていたご婦人に話しかけられた。炊き込みご飯は要らないかと言う。いただけるものは何でも頂戴しますと答えたのだったか、とにかく、待っているからお参りしてこいと言う。石段を駆け上がり、本堂と大師堂で読経して、あんまり時間がかかったのでもう居ないだろうと思ったら待っておられた。次の札所まで車のお接待をして下さるというので、車に乗り込む。

因みに、六十七番大興寺は、天平年間に東大寺の末寺として建立されたとも、嵯峨天皇の勅願により弘仁十三年に弘法大師が開山したとも言われているが、中世には天台、真言両宗の修行道場として栄えたという。が、天正年間に長宗我部元親による兵火で焼失、その後再興されたのが現在の建物。現在でも境内に弘法大師を祀る大師堂と、中国の天台智(ちぎ)を祀る天台大師堂があって、今は真言宗に属しているが、宗派色を感じない不思議な雰囲気のあるお寺である。

Yさんは、業務用のようなライトバンに私を乗せて、次なる神恵院と観音寺に向かった。歩いたら二時間はかかる距離も車なら二十分ほどだったろうか。観音寺の駐車場は、大型バスでひしめいていた。ここは一か所に二つの札所のあるところとして有名である。

六十八番神恵院は、琴弾山(ことびきやま)の頂きに鎮座する琴弾八幡宮がもともとの六十八番札所であったという。神恵院は八幡宮の神事を司る別当寺で、もとは神宮寺宝光院という名称だった。明治の神仏分離令に当たり八幡宮と分離したため、麓にあった観音寺境内に神恵院を移したのだという。

そもそも琴弾八幡は、法相宗の日証上人がこの地に草庵を結んでいたとき、沖に舟に乗った琴を弾く翁を見たので、浜に下りると「我は宇佐八幡大明神である」と告げたという。そして、上人がその舟と琴を山頂に祀ったのが琴弾八幡宮の開基となっている。

神恵院の本尊様は八幡神の本地仏阿弥陀如来。弘法大師が大同二年に巡錫して、この寺の第七代住職となり、この時琴弾八幡の神船は神功皇后ゆかりのもので観音様の化身と感得されて聖観音像を刻して安置。さらに仏塔建立の折、瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋めて地鎮祭を行ったことから七宝山観音寺と寺号を改め、別に霊場としたのだという。

どっしりした金剛力士像に睨まれ、仁王門をくぐり、石段を登るとひときわ彫刻の立派な鐘楼堂が眼に入る。境内中腹に神恵院の小ぶりの本堂があり、下に重要文化財の観音寺本堂を拝む。

この翌年遍路した際にはここで丁度夕刻になり通夜堂をお願いしたところ、御詠歌の練習のための古い建物に案内されて休ませていただいた。

この時はやはり既に夕刻になろうとしていたが、Yさんが境内の端で待っていて下さって、まだ接待するからと次なる本山寺までご一緒した。本山寺までは四・五キロ。十分ほどだったが既に暗くなりかけている。私は寝袋があるので本山寺の境内で瓦置き場に入り込み休むことにしたが、Yさんは近くの遍路宿へ泊まられた。Yさんからいただいた炊き込みご飯を食べてこの日は横になった。街中だったが静かな夜。思いもかけず同行Yさんの出現で歩を伸ばすことができた。これも、歩き遍路の妙と言えようか。


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