住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

お釈迦様の言葉から 法句経二題

2013年03月20日 19時46分39秒 | 仏教に関する様々なお話
            
 無意義なる千偈を聞くは、 聞きて心静まる
 一偈を聞くに如かず。
      (法句経一〇一)

 仏教には、八万四千とも言われる膨大な教えがあります。それは、対機説法といって、お釈迦様がそれぞれの人の悩みや願いに応じて、またその人の性格や心の状態に合わせて教えを授けられたからです。

 おおよそどんなことをお教えになられたかはその後体系的に集約されてはいきますが、その時にその人の心に的中する教えは、それこそ一期一会。お釈迦様の絶妙なる説法によってこそ、それは叶えられたことでしょう。

 ここに紹介した偈文は、正にその一偈、その時その人の為に的中する一偈こそが尊いのだと教えています。

 ところで、この偈文には次のような因縁話が残されています。むかしある村に、きっと悟りを開いているに違いないと人々に噂されるほど心がきれいな修行者がいました。その評判を本人も知ることになり、本当だろうかと思って自分の心の中を調べてみると、ほんのわずかな汚れが残っていました。

 そこで、誰彼となく完全に悟った人を知らないかと尋ねていますと、ある時、サーヴァッティにゴータマという僧がいてブッダと呼ばれていると教えられました。彼は遠い道のりを歩いてその町までやってくると、お釈迦様のおられる精舎を訪ねました。

 と、丁度その時お釈迦様は朝の托鉢に出ておられ、お釈迦様はどちらの道を行かれたのかと尋ねます。そうして追いかけてやっとお釈迦様に会い、その場ですぐに真理の道をお授け下さいと懇請します。

 この人には時間がないと知ったお釈迦様は、往来の真ん中で次のような教えを授けられたと言われています。
「見るときには、ただ見る。聞くときには、ただ聞く。嗅ぐときには、味わうときには、触れるとき、ただ嗅ぎ、味わい、触れる。そして知るときには、ただ知るのです」

 何かにつけ私たちは先入観、偏見をもち、前に植え付けた反応の影響によって物事をゆがめて見たり聞いたりしています。目や耳などに入るもの、すべてに快不快、好き嫌い、良し悪し、欲や嫌悪などの反応をせずに、ただありのままに認識することが心を清らかにするのだというのです。

 このように教えられて間もなく、その修行者は事故に遭って亡くなりました。しかし、お釈迦様は、弟子たちに彼がその一偈を聞いて完全に悟ったことを話し、この偈文をお唱えになられたということです。

 簡単に思える教えも、それを授けられた本人に的中すれば悟りを開くほどの尊い教えになるのです。私たちも的中する一偈に出会うべく日頃から精進していたいものだと思います。


 たとえ悪しき行為をなすとも、善にてこれを償わば、 
 よくこの世間を照らす。 雲を出でたる月の如し。
      (法句経一七三)

 この偈文にある悪しき行為とはどんなことでしょうか。私たちが勤行次第の中で唱える十善戒の、そのそれぞれの項目から不を取り除いたものが十悪です。悪しき行為とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見のことです。

 私たちは生きている限り、悪しき行為を意図して行わずとも、気がつくとそのような行為に及んでしまっているということもあるでしょう。人の営みには悪事がつきものと言っても過言ではありません。

 つい急いでいて、道を横切る動物や昆虫をひき殺してしまうこともあります。つい人の言ったことを自分の考えのように話してしまうこともあるでしょう。公共のものを出来心から持って帰ってきてしまったということもあるかもしれません。人の言うことに反発して思わず汚い言葉を返してしまうこともありがちなことです。

 たとえそうして悪しき行いをしたとしても、それが悪業となって何をしてもダメというものではないことをこの偈文は教えてくれています。

 どんなに悪いことをしても、例えばこの偈文の因縁物語には、かの有名なアングリマーラとして知られる凶賊が登場します。アングリマーラは、多くの人々を殺してその右指を首輪にして吊すほどの悪事を働いたのに、お釈迦様は僧院に連れ帰り僧侶にして、善行で償わせ、さとらせてしまわれたのです。

 その場合の善とは、阿羅漢という最高のさとりを得るほどの高度な瞑想修行を指すのです。が、私たちはそこまでのことは出来ませんけれども、出来うる善行為を行うことで、過去の悪しき行為のマイナスは薄めていけるのだと教えられているのです。

 ところで、タイで修行されていた故チンナワンソ藤川師からかつて聞いた話では、タイのお寺にはよく、やくざ者が沢山の寄附をしていくのだそうです。ある時どうしてお寺にそんなに寄附するのかと問うと、普段している悪事を相殺するためだと答えたと言います。

 悪事を働くために善を施すのでは本末転倒です。やはり、少しばかりの悪事はどうともなるなどと考えてはいけないのです。ですが、過去になしたことに思い悩み、後悔ばかりして暗い心で日々を過ごすよりは、それよりたくさんの善いことをして明るく生きようと考えた方がよいのだと、この偈文は教えてくれています。 

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阿含経典を読む 2

2013年03月06日 16時53分19秒 | 仏教書探訪
ここで取り上げる「阿含経典・全六巻」(筑摩書房刊)は、都留文科大学学長だった増谷文雄先生によって、漢訳四阿含のうちの雑阿含、ないしパーリ五部の相応部経典が訳されたものである。雑とは短小なる経の収録を雑砕せるものとの意で、相応とは、同じ類の経を結合せるものとの意味であるという。つまり、同じ内容の種類をもって編集された経典の収録である。

「マハーナーマ」

第3巻預流相応に「マハーナーマ」と題する経典があります。お釈迦様が生まれ故郷の釈迦族の国を訪れて、カピラヴァッツにおられたときのお話です。そこへ釈迦族のマハーナーマという在家者が、多分この人はかなりの高官に違いないと思われるのですが、お釈迦様がおられるところへ来て礼拝し、かたわらに座り尋ねます。

「カピラヴァッツは、富み栄え、民多く、雑踏しています。私は世尊や比丘たちに奉仕し終わって、城に入ると、狂奔するゾウや馬、揺れ動く乗り物に遇い、すると世尊を念じ、教法を念じ、僧伽を念ずることを忘れます。もし、その時私が命終わりましたら、いずれの処に生を享けるでありましょうか」

するとお釈迦様は「恐れることはない、マハーナーマよ。そなたには、けっして善からぬ死、恥おおき命終はないであろう。もし、ながきにわたって、その心を信を持って充し、その心を戒をもって充し、その心を聞くことをもって充し、その心を施捨をもって充し、また、その心を智慧をもって充満したならば、たとい、この物質的肉体、すなわち四大の成すところの、父母によって生まれ、食べ物を食べて育ち、そして、移ろい変わり、砕け散って、ちりぢりばらばらになってしまうこの身は、あるいは鴉や鷲、鷹、狗、野干の食むところとなっても、ながきにわたって、信をもって充し、・・・また、智慧をもって充せる心は、かならず上昇し、かならず最高処にいたるであろう」と、彼の人となりをご覧になられ確信をもってそう言われたのでした。

世尊であるお釈迦様、その教え、そしてその教えを生きる人たちへの信、それは単に信じるということを越えて、常に心の中に厳然と沸々とあって、自らの行いや言動や思いに能動的にはたらいている、生きている。そこまでの信があって、さらに戒、在家者であれば五戒に対する厳然たる戒めをもって生き、それによって心静まり、禅定に入る用意としての規則正しい規律ある生活をしている。また、これまでに聞いた説法を心に大切に保ち、さらに、施捨という他に施し他が満たされてあることを心からよろこび、そうあらんことを願う。なれば、この身が例えその時に獣に食まれるような状態でこの世を去ることになったとしても、何の心配も要らないということなのであります。

そして、それはあたかも、前回でも出てきた、ふかい池に酥(バター・オイル)もしくは油の入った瓶を投げて割ったとして、破片は沈むけれども、その酥もしくは油は浮かんで水面にいたるのと同じことなのだと諭されます。だから恐れることはない、そなたはけっして善からぬ死、恥おおき命終はないであろうといわれ、この経典は終わっています。

ここでお釈迦様の言われる善からぬ死、恥おおき命終とは、決して身体のこと、物質としての存在を言うのではなくて、心の存在が次にどうなっていくのかということを言われているのです。それに対する心配は不要であると。身体はたとえ不慮の事故などによって獣に食われることがあってむごたらしい最期を遂げたとしても、何も心配することなく善き来世が得られるということなのです。大切なのはどのような次生、来世に迎えられるかということなのだと言えましょう。

震災があり、多くの人が津波で非業の死を遂げたり、原発の事故でそれこそ惨たらしい死を迎えた人もあったことでしょう。たとえそうであったとしても、それは関係ないのだと、それまでの生前の行いによって、ちゃんと迎えられるべき処へ迎えられ逝くべきところへいっているかが大事なことなのであって、それは命終時の様子には関係ないということなのでしょう。お釈迦様は生前の善業によって死後のことは恐れることはないとはっきり約束して下さっています。ですが、逆に言えば、最期を安楽に迎えられたからといって安心は出ないぞということでもあるのです。やはり、いかに生きているか、どう生きてきたか、それが大切なのだと、この経典は教えてくれています。

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