住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

理趣経要旨

2021年06月01日 19時38分19秒 | やさしい理趣経の話
理趣経要旨


 
初段  大楽(大きな欲)の法門 金剛薩埵が教えの全体像を説く

◯如是我聞 あるとき 大毘盧遮那如来(大日如来)が欲界最上部の他化自在天にて 
 八十倶胝の菩薩衆  金剛手  観自在    虚空蔵  金剛拳 
           文殊師利 纔発心転法輪 虚空庫  摧一切魔の八菩薩に
◯(理趣経の眼目) 一切法の清浄の句の法門を説く(現象世界に存在するすべてのものが本質として清浄である)
◯十七清浄句 これら十七の清浄句は菩薩の境地である
                                    
①妙適は、男女の快楽を指すが、「妙適清淨」となると、自と他の分け隔て無い自他不二平等ということ
②欲箭は、その快楽を得んとする欲望の起こることを指すが、「欲箭清淨」となると、永劫不滅の清浄の境地を得んとする欲を起こすこと
③触は、この欲により抱擁することであるが、「触清浄」とは、欲箭を本として正しく大楽の実相に触れること
④愛縛は、触によって離れがたい心を生ずることであるが、「愛縛清浄」とは、大楽の実相を一切の者に与え、一切衆生を愛護する心のこと
⑤一切自在主とは、すべてを征服した気になることだが、「一切自在主清浄」とは、自他の分別なく衆生を利益せんが為に活動すること
⑥見とは、欲望を起こして一切を見ることであるが、「見清浄」とは、正しくその大安楽の実相を開見すること
⑦適悦とは、蝕の抱擁による喜びのことであるが、「適悦清浄」とは、大楽の実相に触れて安楽を得ること
⑧愛とは、愛縛によりいつまでも忘れ得ぬ情を生じることであるが、「愛清浄」とは、衆生を悉く悟らせんとの心を生ずること
⑨慢とは、一切自在なりとの心より生ずるものであるが、「慢清浄」とは、縁無き衆生強者をも救わんとの大自信のこと
⑩荘厳とは、見を本として自ら美しく飾ることであるが、「荘厳清浄」とは、大楽の実相を開見して自ずから荘厳を得ること
⑪意滋澤とは、抱擁の適悦により心に満足を得ることであるが、「意滋澤清浄」とは、実相を開見した大安楽から心に満足を得ること
⑫光明とは、渇愛から前途に光を認めることであるが、「光明清浄」とは、実相に触れて天眼等の五眼を得ること
⑬身楽とは、慢によって全ての畏怖を忘れることであるが、「身楽清浄」とは、五眼を本に仏の三十二相を得ること
⑭色とは、自身を荘厳する本となるものではあるが、「色清浄」とは、仏の姿を示現すること
⑮声とは、抱擁の適悦を語るものであるが、「声清浄」とは、一切衆生が仏の教えを聞くにいたること
⑯香とは、愛の光明により清涼を得ることであるが、「香清浄」とは、この説法をきくことによりそれを信ずること
⑰味とは、それを体験することであるが、「味清浄」とは、かくして本尊と合一して一味となれること

◯般若理趣を聞く功徳 四種の障り(悟りに至るのを邪魔する障り、貪瞋癡、正法を受持できない妨げ、自らの行為による妨げ)などを積み重ねても地獄に堕せず
◯受持して日々読誦作意思惟する功徳 自己と宇宙の真理、絶対者が一つとの悟りを得て、金剛界四仏の悟りを身につけ、大日如来となる
◯金剛手菩薩(金剛薩埵)が金剛のように壊れることなき悟りの真髄を説いた フーン


第二段 証悟の法門 大日如来が総論を具体的に説く

◯大日如来(修生始覚の大日如来)が、一切如来の現等覚、つまり本当に完全な悟りとはいかなるものかを説く

①金剛平等(大円鏡智・阿閦如来の智慧)の悟りは、絶対に壊れない永遠の歪みないものであり、衆生にも金剛の如く堅固な永遠の智慧をもたらす。完璧で永遠なる時間を生きる 
②義平等(平等性智・宝生如来の智慧)の悟りは、二つとない値打ち、利益あるものであり、衆生もかけがえのない価値、値打ちがある。すべてのものに、とうとい価値を見いだす
③法平等(妙観察智・阿弥陀如来の智慧)の悟りは、一切のものの有り様を観察すれば、本性清浄であり、衆生も汚れた世に生きてはいても本性は清浄である。よく観てその清らかな性質、 価値に気づく
④一切業平等(成所作智・不空成就如来の智慧)の悟りは、一切の働きにおいて区別対立のないものである。衆生の活動も含め相互に関連し影響していく働きにより、すべてのことは成立している

◯この四出生の法を聞き読誦し受持する功徳として、無量の重罪を犯しても一切の悪趣を超えて、速やかに無上の悟りを得られる
◯大日如来が本性として仏も衆生も絶対の世界も平等、本来一つという真言を説いた アーハ

<◎第三段から第六段は、金剛界四仏の悟りの境地を説く>

第三段 降伏の法門 釈尊が大日如来となり阿閦如来の悟りの境地(怒りとは何か)を説く(聞き手は金剛手菩薩)

◯完全な悟りを得るためには貪瞋癡をなくすのではなく、それらを起こす分別、対立、こだわりをなくすことが求められる。それが無戯論という見方であり、ものを差別して対立的に見るのではなく、自分という中心を離れ、自と他、自分と自然という対立を超えて全体として物事を捉えていくことによって、絶対に壊れない永遠なる智慧が得られる。
◯怒りとは、自分にこそ向けられるべきであり、本来あるべき怒りとは自他の分別を超越した、世の中の不幸や社会の不正に対し憤り怒ること

①「欲無戯論性」とは、欲は、自分の小欲を満たすものでなく、本来自と他の分別、対立を超えて、一切の衆生を苦しみから救い悟らせんとする大きな欲とすべき
②「瞋無戯論性」とは、欲がこのようなものであるので、その欲から導かれる怒りもまた自分の感情に逆らい起こるのでなく、世の中の不正に対するような大きな怒りとすべき
③「痴無戯論性」とは、欲、怒りがこのようなものであるので、それらから発生する痴も自己の執着を離れて、衆生の為に働く叡智となる
④「一切法無戯論性」とは、貪瞋痴がこのようなものであるので、それらから発生するすべてのものも、般若の智慧も本来自他の対立を超えたものである

◯この般若理趣を聞き受持読誦する功徳として三界の一切の衆生を害しても地獄に堕ちない
◯金剛手菩薩が降三世の印を結び、微笑み怒り、忿怒をなすという意味の心真言を説いた フーンカラ

 
第四段 観照の法門 阿弥陀如来・観自在菩薩の悟りの境地(汚れた世の中で清らかさを保つにはどうするか)を説く(聞き手は金剛手菩薩)

◯現象世界の一切のものが自他の対立を超えて平等であると自在に観察する智慧の印を表す般若の教えを説く。世の中は自分自分という思いから貪瞋癡の三毒によって歪み汚れているけれども、その中でいかに世の中を観察し生きていくべきか。

①世間における欲も自他の対立を超えた見方で観察すれば、それは清らかなものであるとわかる。即ち、それから生する怒りも本来清らかなものである
②世間における貪瞋癡の垢、心の汚れも、自分というとらわれから解放されれば、それは清らかなものとわかる。即ち、それから生じる罪とがも清らかなものである
③世間におけるすべてのものは、各々誰それのものという範疇を超えた清らかな存在である。即ち、その中にある一切の衆生もみな本来清らかなものである
④世間におけるすべての智慧は、ありのままに物事を知見するならば、分別対立を超えた清らかなものであるとわかる。即ち、自分という意識を離れた般若の智慧も清らかなものである

◯欲も怒りも、それらから身に付く垢も罪も様々な思いも、自他を区別して自分を中心とした思いの中から生まれてくるものであり、その対立を離れて観るならば、泥の中に凜として咲く蓮の花が泥に汚されることないように、そこに清らかな心が、つまり一切の衆生を我が身と見る智慧が湧きだしているということ。
◯観自在菩薩が生きとし生けるものの様々なあり方を示す心真言を説いた フリーヒ


第五段 富の法門 宝生如来(一切三界主如来)の悟りの境地(三界の主となるにはどうしたらよいか)を説く(聞き手は虚空蔵菩薩)

◯四種の布施によって、三界にある全てのものを宝にかえる智慧、この世、宇宙全体は仏の灌頂智という宝の蔵であるということを教える智慧を説く。一切のものの中に価値を再認識し、世の中の人の持っている特徴、持ち味、よいところの価値を見つけ出し導く。

①「灌頂施」とは、頭頂に法水を頂く儀礼によって、宇宙大の広い自由な世界を発見する目を開くこと、つまりすべてのものに価値を見いだしていく心の目を開く布施
②「義利施」とは、灌頂施によって身についた財や福徳を器量高徳の修行者などに施すこと。それによって心が満たされ願いが叶えられるようになる
③「法施」とは、読経や講説など精神的施しのこと、この世の真理の教えを広く施すこと。それによって全てのことが好ましい方向に収束されていく
④「資生施」とは、生を助けること。衣食住など生活に必要なものを施してあげること。それによって身口意の行いがもとより安楽となる

◯一切三界主如来が形を変えた虚空蔵菩薩(はてしない財産が次々に出てくる蔵との意)が、無限の財産である人々のもつ価値に目覚めよと、一切の灌頂を与えて悟りに至らせるような無限の宝の心真言を説いた トラーム


第六段 実働の法門 不空成就如来(一切如来智印如来)の悟りの境地(働くとはどうあるべきか)を説く(聞き手は金剛拳菩薩)

◯一切如来の三密(身語意)の活動を観察し、如来の加持をもって四印(大印・法印・三摩耶印・羯磨印)を観想して、社会に実際に働きかける姿について身と語と意の三密が一体となる働きを示す。

①「一切如来の身印」とは、自分という思いを離れて、世のため人のために働くこと。それがそのまま一切如来の体となる
②「一切如来の語印」とは、自分を忘れて仏の教えを説いて異端邪説を退けて正しい道に導くことで、一切如来の法を得る
③「一切如来の心印」とは、悪業をなす衆生をも大悲心により叱りつけてでも救済することによって、一切如来の悟りを得る
④「一切如来の金剛印」とは、身語意の働きが一体となり自在に活動する仏の働きによって、人々を救う活動が成就する

◯自分のためではなく世のため人のために一心に働くことが本来の活動のあり方意味であり、そうすることで自分の身語意による行為が仏がやらせてくれたものと気づき、この上ない悟りを身につけられる。
◯金剛拳が三摩耶の印を結び、悟りの自身の真実なる心真言を説いた アーハ

<◎第七段から第十段は金剛界四仏の悟りに至る方法について説く>

第七段 転字輪の法門 文殊師利菩薩(一切無戯論如来)の境地(執着を乗り越えるために現象世界をどう見るべきか)を説く

◯人間の計らい、分別はすべて本来的なものではなく、自と他の区別など対立のある世界はすべて仮のものであり、戯論といい、それをなくすためにア(否定の意)字を転じて現象世界のすべてのものを打ち消して真理に近づいていくことを説く。

①すべての現象は因縁により生じ滅するので、そのものの性なきものなので空と否定する
②すべての現象は空なので、当然その形(相)も仮のものに過ぎないので無相と否定する
③すべての現象は空であり無相なので、人の願い求めに応じたものではないので無願と否定する
④空無相無願と執着を払ったところに清浄なる智慧によりすべての現象に光明がある

◯転字輪とは、すべてのものにア字を当てはめ、この世のすべてのもののあらわれも、すべての如来の権威に象徴される一切如来の権威までも断ち切って、すべてのとらわれから解放される究極の姿を説く。
◯文殊師利菩薩が般若波羅蜜多の最勝の真髄である心真言を説いた アン


第八段 入大輪の法門 纔発心転法輪菩薩(一切如来入大輪如来)の境地(真理の世界に入っていくにはどうあるべきか)を説く

◯入大輪とは、金剛界の大曼荼羅に入ること。四つの平等が説かれるが、平等とは、等しいとの意ではなく、自分と仏が本質的には違わないということで、本来一つであるということ。

①金剛平等とは、ダイヤモンドのように壊れない永遠性という点で、自分も仏も本質的に違いないということ、そう観想することによって一切如来の曼荼羅に入る
②義平等とは、特質、特徴、持ち味という点で、自分も仏も本質的に違いないということ、そう観想することによって大菩薩の曼荼羅に入る
③一切法平等とは、一切の法・教えを有するという点で、本質的に自分と仏と一つであるということ、そう観想することによって妙なる曼荼羅に入る
④一切業平等とは、業つまり働き・活動が自分も仏も本質的に違いないということ、そう観想することによって一切の働きを表す曼荼羅に入る

◯纔発心転法輪菩薩が金剛の輪を転じて一切金剛の壊れることのない悟りの心真言を説いた フーン


第九段 供養の法門 虚空庫菩薩(一切如来種種供養藏広大儀式如来)の境地(本当の供養とはどういうことか)を説く

◯種々様々に供養する広大かぎりない数の儀式を執り行う如来が行為をもってなされる供養について教えを説く。
◯花や灯明香といった物の供養の先に、自ら教えを学び他を救い上に引き上げていくことこそが仏様方への最高の供養であることを説く。

①悟りを求めようとする心、何かしてあげようとする心、菩提心を起こすこと
②一切の衆生を救済すること、苦しむ人と一緒になって引き揚げていこうとする心を起こす
③この理趣経の精神を自分のものにし、受持すること
④般若波羅蜜の智慧を保持して読誦し書写し他に伝え思索し、他のために身体を動かして実践する

◯虚空庫菩薩が一切の活動が空しからず完成する一切の金剛のように壊れることのない悟りの真髄である心真言を説いた オーン


第十段 忿怒の法門 摧一切魔菩薩(能調持智拳如来)の境地(難化を調伏する智慧)を説く

◯どうしても言うことを聞かない者を仏道に引き入れるにはどうしたらよいかを説く。能く調し智拳を持したまえる如来とは、智拳印ではなく、知恵の拳印で牙の印をもち、牙をむき出す怒りの形相で相手を驚かし、よく調え伏せさせる如来との意。

①一切有情の平等とは、すべての衆生は本質的に仏と平等であり異ならないとのことで、それゆえに怒りもいかなる生き物にも差別なく平等である
②一切有情の調伏とは、すべての衆生は調伏(教化)されねばならないとのことで、それゆえに怒りもいかなる生き物にとり教化となる
③一切有情の法性とは、すべての衆生は本来真理そのものにより生じたるものであるとのことで、それゆえに怒りも真理真実に基づいたものとなる
④一切有情の金剛性とは、すべての衆生はダイヤモンドのように不壊の永遠性を持つものであるとのことで、それゆえに怒りも永遠性を持つものとなる

◯調伏の智蔵とは、力で仏道に引き入れることで、その際の忿怒はどうあるべきかということ。怒りは生きとし生けるものを制御して本来ある仏性に気づかせ悟りに向かわせるためにこそある。
◯摧一切魔菩薩が一切如来を恐怖せしめ、それから忿怒大笑の心真言を説いた ハッハ
           

第十一段 普集の法門 普賢菩薩(一切平等建立如来)の境地(真理の世界と世俗の世界を統合する智慧)を説く

◯この世に存在する自分も仏も自然界もありとあらゆるものが平等で同体であると、つまり一切のものが平等であるという境地に住している如来という名を持つ普賢菩薩が説法する。

①一切平等性、一切衆生は金剛のごとき不壊の菩提心があるゆえに同体なので、般若の智慧も同体であるとわかる
②一切義理性、一切衆生は功徳あり無限の価値を具えているので、般若の悟りも無限の価値を具えているとわかる
③一切法性、一切衆生は本来その本性は清浄であるので、般若の智慧も本性清浄であるとわかる
④一切事業性、一切衆生は身口意を用いて互いに働き仏に供養を捧げているので、般若の智慧も無限の供養をしているとわかる

◯①平等性は第三段第七段の境地、②義理性は第四段第八段の境地、③法性は第五弾第九段の境地、④事業性は第六段第十段の境地を総括した内容となっている。
◯金剛手菩薩はあらゆる如来と菩薩の集まった曼荼羅に如来の加持を得た悟りの境地にいり一切空しからざる完全に完成する悟りの心真言を説いた フーン


第十二段 有情加持の法門 大日如来が一切有情に加持をなす教え(私たちが仏であるというのはどういうことか)を説く

◯一切の生きとし生けるものに加持をなすとは、凡夫と思っていた自己が仏に他ならないと気づかせること。

①一切衆生には普賢菩薩(一切衆生を救おうという心)が遍く存在しすべてのものを救おうとして、そのまま仏の宇宙の中に住しているので如来蔵である
②一切衆生は無限の価値に目覚めるという切っ掛けを得ることにより、宝の蔵を皆自分自身の中に持っている
③一切衆生はもともと真実なる言葉を語っているので、妙法を語る宝の蔵を持っている
④一切衆生はもともと現実世界で仏の働きをしているので、無限の仏の働きの蔵を持っている

◯曼荼羅の一番外側のインドの神々がこの教えを明らかに聞いて歓喜して金剛自在の真実の心真言を説いた トリー


第十三段 諸母天の法門 七母女天の教えを説く

◯炎魔天母、毘紐天母、帝釈天母、倶吠羅天母、梵天母などの七人の有名なインド神の后が登場して、仏の足を頂礼して、仏教の道に入らない者を鈎で引っかけて中に連れてきて、仏教徒にして、煩悩を殺し、立派な人格に育て上げるという悟りの真実の真言を献じた ビョー


第十四段 三兄弟の法門 三兄弟の教え

◯梵天(ブラフマン)大自在天(シヴァ)那羅延天(ヴィシュヌ)というインドの最高神らが同じように仏教の信者になって、御足を頂礼して自己の心真言を献じた スワー


第十五段 四姉妹の法門 四姉妹の教え

◯大自在天の眷属で、ジャヤー、ヴィジャヤー、アジター、アパラージターという女神も自己の心真言を献じた ハン


第十六段 各具の法門 大日如来(無量無辺究竟如来)がこの世界のありよう(自と他の無限の重なり合い)を説く

〇世の中は帝釈天の帝網のように自分と現実世界のすべてのものとが相互に関係している広大な曼荼羅世界の教えを説く

①真実を見通すならば般若の智慧の世界は時空を超えて無量であるので、仏と衆生を含めた一切如来も無量である
②真実を見通すならば般若の智慧の世界は時空を超えて無辺であるので、仏と衆生を含めた一切如来は無辺である
③真実を見通すならば現実世界のすべてのものは本来清浄という同一の性質であるので、般若の智慧の世界も清浄な性質を持つ
④真実を見通すならば現実世界のすべてのものは自利利他を円満した究極の活動を達成しているので、般若の智慧の世界も永遠に活動をし続けている

〇この教えを聞き読誦思惟すれば仏菩薩の行において究竟を得るとあり、悟りを通り越して、世の中に還元する、つまり自分の利益を他のために振り分け、他の利益を受けつつ、仏と自分と他者が平等である、同体である、一つの絶対のものであるという境地を得るということ。


第十七段 深秘の法門 金剛薩埵の教えをまとめて説く

〇毘盧遮那如来のあらゆる現象界の中の秘密である真理を手に入れた、分別と対立の見方を捨てた如来(大日如来)が教主となり、最高の初中後のない、永遠の真理の絶対の安楽で、不壊の絶対の悟りの真理を表す般若の教えを説く。

①欲を捨てるのではなく大きな欲にすることで、絶対的な楽しみ、永遠に続く楽しみ、つまり自分を捨てて人のために尽くす大楽を得られる
②大楽を完成させることで、一切如来の絶対の悟りが得られる
③一切如来の絶対の悟りが得られると、水難火難といった災難、病気やもめ事として襲いかかる魔を砕くと同時に自らの心の魔、つまり貪瞋痴の煩悩も除かれ、現世利益と精神的な幸福 を得られる
④大力の魔を砕くと、欲の世界・欲を超えた世界・禅定の世界においても全くの自由を得られるということ。自分のおもむくまま、必要な物が手に入り、心も常に満たされた状態となる
⑤そうして悟りの世界にとどまることなく、生死の世界であるこの世にあって、生けるものたちを救い利益し安楽を与えるために精進することが究極の理想とする姿である

百字の偈

第一偈 すぐれた智慧ある菩薩は、死ぬまで多くの生き物たちの利益のために活動し、悟りの世界に行かない
第二偈 悟りの智慧と現実世界への働きかけによって、その一体となった知恵の働きによって加持を受けて、一切の生き物たちを清らかにする
第三偈 大欲などによって世間の人々を浄めていき、地獄から天の最上部までの全ての生きとし生けるものたちを正しい方向に連れて行く
第四偈 泥沼に咲く蓮が泥に染まることがないように欲も本来清らかなものであって、染まることなく大衆を利益する
第五偈 我のない大欲は本来清浄であって、絶対の安楽であり、豊かであり、あらゆる世界で自在になって大きな利益をなすことができる

〇この五偈が理趣経の曼荼羅五秘密尊のそれぞれの悟りを表し、理趣経の最高の理想像。
〇毎日朝夕にお唱えし聞くならば、一切の安楽、心の平安、そして最高の理趣経の悟りさえ得て、現実世界で一切法の自在の悦楽を得て、金剛界四如来の悟りを身につけ、金剛手の位を 獲得する フーン


流通分(るずうぶん)

〇一切の如来や菩薩たちが集まり、この理趣経の法を成し遂げるために説き手の中心にあった金剛薩埵を称賛する。
 
〇善哉善哉 サードゥーサードゥーと、大菩薩たち、大安楽、大乗の教え、偉大な智慧を善きかな善きかなと褒め称え、よくこの理趣経の教えを演説し、このお経に仏の力を加えになられた。
〇この最勝の教えを持する者はどんな悪魔も打ち砕き、仏菩薩の最高の位を得て、永遠に諸々の悟りを得ることができる。
〇そして、一切の如来菩薩は今まで説いてきた非常にすぐれた説を説き終わり、理趣経を持する者みんなに悟りのきっかけを与えようとすると、皆喜んでそれを受け入れ大いに喜んだ。


合殺(かっさつ)

ひろしゃだふ ヴァイローチャナーブッダ 
〇これは大日如来の念仏


回向(えこう)

我らが為した般若理趣の悟りの功徳を最上の悟りに回向します
仏よ、我らをあわれみ、仏の誓願の中に取り込み、行いのさわりを消し除いて、大楽の悟りを得せしめ給え
この功徳によって諸天神祇もその威光を増し、当所鎮守権現も法楽を増し、高祖大師も法楽を増し給わんことを
一切の諸聖霊も仏道を成ぜんことを 天皇の御代が安穏にしてその聖寿を増し、四海天下平和にして正法興隆し
教法を継承する弟子を護持して不詳を除き、罪障を滅し善功徳を生ぜしめ仏道を成し遂げんが大願を成ぜんことを
悟りへの修行とその願いを捨てることなく、三界の衆生を引導して仏の世界に進め、皆悉く一つであるが故に大日の阿字の世界に入らしめん
                                          以上理趣経大意

                         参考文献 中公文庫・理趣経・松長有慶著
                          大法輪閣・理趣経講讃・松長有慶著

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やさしい理趣経の話-9 常用経典の仏教私釈

2012年02月03日 18時25分06秒 | やさしい理趣経の話
第七段の概説

「ふぁあきぁあふぁんいっせいぶきろんじょらい・・・」と第七段が始まる。ここに「一切の戯論を無くした如来」とあるが、これは教主大日如来が世間の分別、見方を超越した如来・文殊師利菩薩として登場し教えを垂れるのである。

前段までの四段は、それぞれ教主大日如来の智慧を分担する阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四人の如来が登場して、第二段で示した四つの平等の智慧とはいかなるものかを開示するものであった。そして、この第七段からの四段は、四人の菩薩が次々に姿を現されて、その智慧を獲得し、悟りの境地に至るにはどのようにしたらよいのか、その具体的な実践について説くのである。
 
その最初に登場する菩薩、文殊菩薩は智慧の仏として有名ではあるが、その智慧とは分別、煩悩を断ち切る智慧を意味する。私たちがものを考え判断する際の知識、情報はそれぞれに自己の目を通してその理解力によって捉えたものに過ぎない。だから、何かに悩んだり、人間関係に支障をきたすとき、また心とらわれるとき、私たちはそれぞれのこだわり、損得や名誉、メンツに振り回され、自己を主張して妄想し、自己を正当化し、自己弁護に戯れる。

それらは小さな個としての執着、妄想に他ならない。このように、およそ私たちの考え、計らいは自他にとらわれ、本質を捉えることなく、煩悩に振り回されている。そのことを戯論といい、そうした煩悩にとらわれた心を断ち切り、真実を観る智慧を持つ仏が文殊菩薩であり、だからこそ無戯論如来と言われるのである。

そして、第七段では、その文殊菩薩が説く教えを、「転字輪の般若理趣」であると提示する。転字輪とは、字輪を転じること。字輪とは、すべての根源を表す阿(ア)の字を転じ、その立場でこの世の一切を観るのである。が、ここでは特別に、文殊菩薩の真言にある五字輪を意味すると教えられている。

「(オン)・ア・ラ・ハ(パ)・シャ・ノウ(ナ)」という真言の中に表現されている五字である。この五字を転ずることを簡潔に述べるならば、すべての存在は移り変わり、美醜、清濁、長短、軽重など物事を比較、差別、批評する世間的なものの見方により私たちはこだわりや執着を生むのであるが、こうした見方を超越し、なんの差別もない永遠なる時間軸でものごとを観ていくことによって、すぐれた心の働きが生じ、真実の姿を開顕することが出来るとするのである。それは文殊の利剣によって諸々の戯論を払いつつ真実に近づいていく様に喩えられる。

三解脱門と光明

その教えを具体的に展開するならば、まず「諸法を空なり」と観よ、とあり、なぜなら「すべてのものは無自性であるから」と続く。自性がないとは、そのものが独立自存ではないということで、すべてのものが他によって他の影響によって生じ存在せしめられているということである。あらゆるものはそのようなあり方をしているのであるから、瞬間的に存在している仮の存在に過ぎないと観よというのである。

次に、「諸法は無相なり」と観よ、なぜなら「すべてのものは無相であるが故に」という。本来のあり方としてすべてのものが無相、つまりその特徴とするものなどないのだからそのように観なさいということ。

続いて、「諸法は無願なり」と観よ、「すべてのものは無願であるが故に」とある。これも本来すべてのものに無願、つまり目的などないのだからそのように素直に観なさいということ。

これら、空・無相・無願は、迷いから解放され涅槃に入ろうとする者が必ず通らねばならない解脱に至る三つの門と言われる。

私たちは見るもの聞くものすべてのものに接するとき、ものの出来具合、良し悪し、大小などその特徴を見て、そして、その働き、役割、目的などを見て、自分にとって好ましいものか、役に立つものか、利益になるものかと考え、そのものに関心を持ち、執着し、とらわれていくであろう。

甘い物が好きな人は、一つの饅頭を見るとき、それはどこの饅頭で、どのような物で造られ、どのような味のするものかを一瞬のうちに見て取る。そしてそれを手に入れ食べたいと思う。しかし、その好きなものでも食べすぎたら、その嗜好はにぶり、それでも食べ続ければ、様々な障害をきたすことになる。それこそ長くそのような習慣を続ければ糖尿病にもなるかもしれない。

そして、ひとたび病気になってから、その大好きな饅頭見るとき、その饅頭を食べたならば内臓に苦痛をもたらす、ないし病状を悪化させるとしたなら、まったくこれまでとは違う感覚で同じものを見ることになるであろう。自分にとって好ましいもの、好きなもの、とらわれるものに対して、そのような見方で、無感覚で、つまり、無相、無願に見ていけるならば、そのものの空なることにも通じて、諸々の戯論を廃していくことが出来るとするのである。

すべてのものは空なのだと、何もずっとそのものとして存続するものなどなく、みな移り変わり変遷していく。断定的、固定的な物の見方も、こだわりも、とらわれもなく物事を見ていくとき、そこにはすべてが清浄に光り輝くものとして姿を現す。だから、このあとに、「諸法は光明なり。般若の智慧は清浄なるが故に」と続くのである。すべてのものが光を放って存在することを見るとき、自と他の対立を越えた般若の智慧によってすべてのものが清らかなものとしてあることを観るからである。
 
文殊菩薩の心真言

以上の教えを説き終わり、文殊菩薩がこの教えを改めてもう一度重ねて明らかにするために、微笑まれた。そして、自分の利剣でもって一切の如来の教えを断ち切り、この般若波羅蜜多の最勝のすぐれた教えの真髄、すべてのものに阿字を配することで真実なる世界が明らかになる転字輪を意味する、真実なる心真言「アン」を唱えた。


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やさしい理趣経の話-8 常用経典の仏教私釈

2011年10月24日 19時10分05秒 | やさしい理趣経の話
第六段の概説

「ふぁあきぁあふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい・・・」と第六段が始まる。ここに「一切如来の智印を得たまえる如来」とあるが、教主大日如来が、そのはからいによる慈悲と智慧による実践教化の部分を象徴する如来・不空成就如来として登場する。

第二段にて、完全な覚りを展開して四つの平等の智慧に分けたが、第六段では、その中の④衆生を救う仕事を円満に成就させる智慧とはいかなるものかを開示している。

第五段では、どんなものにも価値を見出し、適材適所に活用されればすべてのものがかけがえのない宝となる智慧(平等性智)を明らかにした。それは等しくすべての生き物たちを養い培うものとして無限の価値となって輝きだす。

そこでこの第六段では、それらがどのような活動を為すべきかを説くのである。「一切如来の智印加持の般若理趣」とあり、智印とは如来の心から湧き出る様々な身口意の働きを意味する。加持とは仏の大悲心と衆生の信心の寄り添うことによって仏の不可思議な力が発現されることをいう。

仏教で行いと言うとき、それは身体による行いと口でなす言葉によってなされる行い、そして心の中でいろいろと考え思うことも行いとされる。これら凡夫の行いを三業というのに対して、仏の身口意の行いを三密という。

凡夫が仏にならい善い行いを心がけつつ、仏の側も慈悲を垂れて衆生を救う働きかけがあるならばそこに三密相応の不可思議な加持感応が起こり、衆生全体が共に働き努力して自他ともに悟りの世界に向かって精進していくことが出来る。第六段は、このようにすべてのものたちの心を成長させ育むための実際の活動に関する智慧(成所作智)を説くのである。

お釈迦様のお悟りになった境地のことを阿羅漢果という。阿羅漢という最高の悟りを獲得した人は、自分のためには為すべき事は何もないのだという。そこで無為とも無学とも言われ、もはや悟りのために学ぶべき事はないという。当然ながら悪事をなすことはなく、たとえ善い行為を行っても来世に繋がる業にはならないと言われる。しかし、唯一、世の中の人々を教え導く仕事のみ残されているのである。

お釈迦様は縁ある衆生すべてに対して分け隔てなく教えを垂れた。外道と言われる異教徒たちに対しても、どんなに攻撃的な問答に対しても、落ち着いた心のまま、その人が良くあるように教え諭された。その人が一歩でも悟りに近づくことを願って、教え導かれたのである。

四種の印

そうした仏の他に教え教化して共に悟りの世界に導く慈悲の心に応えるべく、凡夫である私たちはどうあればよいのであろうか。お釈迦様の私たちへ向けられた心にふさわしい働きとは何か、それを説くのが、次なる四種の印の教えである。

まず、「一切如来の身印を持すれば一切如来の身を為す」とある。身印を持するとは、自らのためにではなく、仏のように他を悟らしめ、他を救わんがために奉仕して働くということ。そうすれば自ずと一切如来の身を得ているのと同じ事なのだというのである。

次に、「一切如来の語印を持すれば一切如来の法を得る」とあるが、これは、今日のように様々な情報が乱れ飛び、流言飛語、異端邪説が横行する世の中にあっても、縁ある人々を正しい教えに導き、仏のように他の者のためのみに真摯に教えを説くことで、一切如来の正法を体得することが出来るというのである。

そして、「一切如来の心印を持すれば一切如来の三摩地を證す」とあるが、これは、人々を仏の教えに導くためには様々な障害、困難が待ち構えているけれども、堅忍不抜の心でそれらを克服して人々を正法に導くことで、自らも三摩地つまり悟りを證することができるというのである。

さらに、「一切如来の金剛印を持すれば一切如来の身口意業の最勝の悉地を成就す」とある。金剛の印とは身口意の仏の働きが一体となって自在の活動を為すことで人々を救うこと。それがダイヤモンド(金剛)のような堅固な智慧の働きとなることで、最も勝れた悟りを成し遂げることができるというのである。

仏のように働く、仏のように法を説く、人々を救うと言っても、それはそう簡単なことではないだろう。しかし、何事もそれを理想として少しでも真似て馴染み、なりきることによって本物に近づいていくものなのではないか。

私なども、法事の後の法話など、はじめは自ら何を言わんとしていたのかさえも分からなくなることを繰り返しつつも、こらえて学び思惟しつつ何度も説き続けることで、徐々にその真意が伝わるようにもなるであろう。何事もひるんだり、飽きたり、へこたれることなく、お釈迦様の衆生に対する眼差しに応えて、自らを奮励督励し続けることが必要なのであろう。

第六段の功徳

この段も、教えを聞く菩薩衆の代表である金剛手菩薩に呼びかけ功徳が説かれる。この教えを聞き受け取り、思索するならば、すべてに自在となり智慧とその働きと果徳を得ることができる。さらには、仏の身口意とそれらを一体とした妙果を得ることで無上なる正しき悟りをすみやかに証得するという。

「即身成仏」とも言われるが、それは、この身このまますぐに成仏するというような簡単なことではないであろう。大切なことは、この身において、将来ではなく来世でなく今を大切に、すべてのものたちの最高の幸せのために努力することがそのまま悟りに繋がっているのだと受け取ってはいかがかと思う。

金剛拳菩薩の心真言

そして最後に改めて、世尊大日如来が不空成就如来から娑婆世界での姿として金剛拳菩薩に変化されて、仏と衆生の心と行いが一つになる瞑想に入られた。

そしてその教えを自らの姿に現そうとされて、法悦の微笑をたたえ、左右の手に金剛拳をつくり左は仰げて腹の前に置き右はその上に覆いしかも着けずに重ねる三摩耶の印を結んで、真実なる心真言「アーハ」を唱えた。


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やさしい理趣経の話-7 常用経典の仏教私釈

2011年01月28日 15時15分00秒 | やさしい理趣経の話
第五段の概説

「ふぁあきぁあふぁんいっせいさんかいしゅじょらい・・・」と第五段が始まる。ここに「一切三界主如来」とあるが、教主大日如来が、万宝を施して一切の衆生を救済することで三界の主となる宝生如来として登場する。

第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第五段では、その中の②世の中の宝を見つけ出す智慧とはいかなるものかを開示している。

第四段では、小さな自己にとらわれることなく、自他の境を取り払い、すべてのものを一つ一つつぶさに見ていくならば、すべてのものがそれぞれに異なり、だからこそみな尊く、清らかなるものであると観察する智慧(妙観察智)を解明した。そしてそれらは単に清らかであるだけでなく、皆尊い価値ある存在であり、有用なものだと見出される。

そこで、この第五段では、「一切如来の灌頂智蔵の般若理趣」とあるように、灌頂という密教儀礼によって、一切のものの中に物質的にも精神的にも等しく価値を見出す智慧を覚り、三界の主として、物質世界でも精神世界でもその主となるための教えを説くのである。

昔インドの王様は四海の水を頂きに注ぐ灌頂の儀礼によって即位し、王としての知恵や能力を開顕したという。そのように、密教儀礼としての灌頂においても、その儀礼によって、一切如来の、つまり宇宙一杯の宝を見つけ出す智慧、それぞれが持っている長所に目覚める智慧、どんなものにも平等に価値を見出す智慧(平等性智) を授かるのである。そして、その智慧はこの世の中のすべてのもの、この宇宙のすべてのものが、価値ある宝物と見出すことができるという。つまりこの宇宙は、仏の宝の蔵であると発見する教えを説く、とこの段の趣旨が述べられる。

高野山で学んでいた頃、ある先生から「つまらぬと言うは小さな知恵袋」という言葉を教えて貰ったことがある。どんな物も、どんな経験も、つまらないものなどないのだと。この世の中にある森羅万象、ありとあらゆる物は、無用ではなく、皆それぞれに価値のある物であり、だからこそこの世に存在している。押し入れやタンスの中にある整理できないたくさんの物も皆その持ち主にとったら宝物であろう。

過去に経験した知識や思いも、全てのことは現在に生かされている。どんなにつまらないと思えるような体験でも、それらすべてが今の自分を形成しているとも言える。私自身も学校を出たばかりの頃に会社で憶えた簿記、会計実務、情報出版社で経験した雑誌の企画、営業。僧になって試行錯誤してきた遍歴も、それらのすべてが今に生きている。誰しもがすべての過去からの時間を相続しつつ、今がある。過去の経験や知識も皆その本人にとっての宝物だと言えよう。

どんなものにも価値がある。それを見出し適材適所に用いれば、それらはすべてかけがえのない宝となって輝き出す。
 
四種の布施

では次に、この世のすべてのものにそうした無上なる価値を見出すにはどうしたらよいのか。それには四つの布施をすることだと教えが展開される。

一つには、灌頂の布施。それによって、私たちの心の中に仏と同等の価値を見出す。つまり自分の心の中の菩提心という宝に、まずは気づくということが大事であるという。すると忽ち心眼が開かれ、この世の至る所から宝を発見する智慧が沸いてくる。そうすることによってすべての者たちの願いに応えて宝を与え、またそれらの能力を引き出すことで人々に慕われ指導者となるというのである。

二つ目には、義利(利益)の布施。宝物を手に入れる智慧によって得られた富や福徳を自分だけのものにしないで他のものたちにも施すことによって、それらの願いが叶い幸福を分かち合うことができる。

三つ目には、法の布施。正しい教えを体得したなら、それらを他の人々にも説き導いて、苦しみから解放し安楽を得させる。自他ともに精神的にも満たされるようにすること。

四つ目には、資生(生活の糧)の布施。虚空の中から作り出した宝の中から、人々の衣食住にかかわる物資を施して、人々が楽しく安らかに幸福に暮らしていけるようにすること。

こうしてすべてのものの中に宝を見出すことは、一部の宝を独り占めにし、多くの他のものを貧しいままに据え置くことでは得ることはできない。すべての人々、生きものたちが等しくその恩恵に浴し、すべてのものたちがそれぞれの価値に気づき、精神的にも物質的にも満たされることによってのみ実現せられるものであろう。そうしてこそ、それらは相互に必要不可欠な存在となり、みな世のためになり、すべてのものが等しく互いに生きとし生けるものを養い培う無限の価値ある宝になると見出すことができる。

虚空蔵菩薩の心真言

第五段は、これまでこの部分に挿入されていた、この経典を読誦したときの功徳が省略されている。そして、改めて大日如来が宝生如来の姿から、この世での姿である虚空蔵菩薩に転身して、この世の中のあらわれをすべてみな価値ある宝と観る瞑想に入られる。

その教えを自らの姿に明らかに示そうとされて、法悦の微笑みを浮かべて、ダイヤモンドの首飾りを自らの首に掛け、すべての者たちに仏心の宝を施す覚りに入る。そして、清らかな心に人の世の宝を見出し豊かな人格を創造することを表す虚空蔵菩薩の心真言「タラーン」を唱えた。

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やさしい理趣経の話6常用経典の仏教私釈

2010年10月17日 07時19分47秒 | やさしい理趣経の話
第四段の概説

「ふぁあきゃあふぁんとくしーせいせいせいはっせいじょらい・・・」と第四段が始まる。ここに「得自性清浄法性如来」とあるのは、教主大日如来が、この世の中を自在に観察し、すべての物事の本質はみな清らかなものだと照らし観る如来に転じた姿。つまりこの世を自在にご覧になる観自在菩薩と同体とされる阿弥陀如来となって登場する。

第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第四段では、その中の③清らかな目で世の中を観る智慧とはいかなるものかを開示している。

第三段では、貪瞋痴の三毒に関して、小さな自分という、とらわれた分別からの開放を説いた。それによってこの現実世界が広大なる清浄世界であると知られる(大円鏡智(だいえんきょうち))と、自(おの)ずからものの見方も清浄になる。

そこで、この第四段では、「一切法平等観の自在の智印が出生する」とあるように、どんなものも、それぞれに異なり、その違いを如実に観察する。すると、各々に尊く等しく価値あるものと見出される。このように、阿弥陀如来の眼差しで、あらゆるものが悉く等しく清らかな価値あるものと観察する智慧(妙観察智(みょうかんざっち))を、ここに明らかにしようというのである。

たとえば、ただやっかいなものと思いがちな落ち葉も朽ちて土壌となり、動物の排泄物も肥やしとなって作物を生長させる。私たちの心に霧が掛かっているかのように存在する欲や怒りや愚かしい思いも、自分というとらわれた思いがなくなれば、すべてのものを利する智慧となって輝き出す。

まるで波打つ湖面が静まると湖底まできれいに見通せるように、すべてのものにそのものの本来の価値を見出すならば、みなそれぞれが平等に清らかに光り輝いていることが分かる、その清浄なる見方でものを観る教えをここに説くと、簡潔にこの段の趣旨を説明している。

ものの見方を清浄にする

そして、「そーいーせーかんいっせいよくせいせいこー」と教えが展開されていく。はじめに、いわゆる世間のすべての欲が本来清らかなものであると言う。清らかというのは、既に何度か述べているとおり、自他の対立を越えたものであるということ。意識的に自分と他の境をなくしていくと、波のない湖底を見通せるようにそのものの本質が顕現する。

人々の心を汚し、不幸に陥れ、争いの原因ともなるような欲や怒りの心も、その心が生じたとき、一瞬にしてその心に気づき、全体として一つなのだという清らかな心で捉え直していくならば、どんなに醜いと思われる欲の心も、純粋な心のエネルギーとして、命を育み向上させていく力として存在している。

ダライラマ法王は日本人社会学者上田紀行氏との対談(『ダライ・ラマとの対話』講談社文庫)の中で、偏見に基づいた欲望はなくすべきだが、利他の心、覚りを求める心など価値ある良き欲望は滅すべきではないと述べられている。自分のための、偏見に基づいた欲の心を利他や覚りを求める欲へと転換させることで、良い欲の心として生かされていく。

またダライラマ法王は、怒りについても、愛情や慈悲の心が存在していて怒りが生まれる場合は相手を害するような悪い動機はなく、社会の不正を正していこうというような有益な怒りであるとも述べられている。

欲の心がすべてのものを向上させる、全体が良くあることを願う利他の力となるならば、そのような欲の心が満たされずに発する怒りの心は、世の中の不公平な不正な状態に対する怒りとなり、怒りの心もすべてのものが良くあるようにと働きかける力となるであろう。

そのような自他の区別をつけないで欲や怒りの心を捉えてみると、それら煩悩にとらわれ愚かしく頑な心も、それによって引き起こされる様々な罪業も、無始なる輪廻世界での行為と捉えるならば、本来はそれぞれに純粋な心に導かれるべき行いと捉えることが出来る。

だから、すべてのものも、生きとし生けるものも、純粋なる心に向かいつつある、清らかな存在である。そうした清らかな存在である人々のすべての知識も、また覚りの智慧も、一切衆生を清らかな世界に導く教えとなり、すべての心も存在も清浄なるものだというのである。

第四段の功徳

次に、この教えを聞く菩薩衆を代表する金剛手菩薩に呼びかけ、この第四段の功徳が説かれる。

「貪る人々の中にありて、貪なく、いと楽しく生きん。貪る人々の間にありて、貪なく暮らさん」(法句経一九九)と、お釈迦様は教えられているが、ここでは、ものの見方を清浄にするならば、そのような世間にあっても完全なる覚りを証得すると説く。

つまり、その教えを聞き、それを信じ、その智慧を体得すべく努力するならば、たとえ世間の中にあって、欲にまとわれ怒りや愚痴の心が生じたとしても、蓮華が泥の中にあってその周りの泥にけがされること無く清らかな花を咲かせるように、それら諸悪に染まることなく、すみやかに、無上なる正しい覚りに至ることが出来るというのである。

観自在菩薩の心真言

そして最後に、改めて、世尊大日如来が阿弥陀如来から娑婆世界での姿である観自在菩薩に変化(へんげ)せられて、この世の中のあらわれをすべて清らかなものと照らし観る瞑想に入られる。

そして、その教えを自らの姿に明らかに示そうとして、その法悦を顔面に顕(あらわ)して微笑し、左の手に蓮華を持ち、右の手をもってそれを開かせようとの勢いをなす。

一切の衆生の様々な異なる姿そのものに各々の価値を観察し、煩悩の中にあっても汚染されることなく、みな清らかなものであるとの心を説き示し、その心髄を表す一字真言「キリーク」を唱えた。


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やさしい理趣経の話5常用経典の仏教私釈

2010年02月09日 12時51分49秒 | やさしい理趣経の話
第三段の概説
「しーちょうふくなんじょうせーきゃぼーちじょらい・・・」と第三段が始まる。ここに「調伏難調釈迦牟尼如来」とあるように、この段は教主大日如来が、様々な煩悩の火を吹き消して覚https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/り、その教えによって多くの迷える人々さらには教化しがたい者たちをも覚らしめたお釈迦様となって登場する。

第二段では、真に完全なる覚りとは、①永遠なる堅固広大なるもの、②無限なる価値あるもの、③尊く清らかなもの、④すべての行いがその計らいを超えて互いに救済しあっているものであり、すべてのものが一体平等なるものと見てきた。第三段では、その①永遠なる堅固広大なるものとしての覚りの意味を展開していく。

私たち人間は常に苦しみの中にあると、お釈迦様はご覧になった。四苦八苦の苦しみと言うように、生まれた瞬間から生老病死の四苦の苦しみが生じ、これに愛別離苦(愛する者と別れねばならない苦しみ)、怨憎会苦(憎しみ合う者と会う苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(身と心から盛んに生じる苦しみ)を併せて八苦の苦しみが襲い来る。

これら四苦八苦を生じる根本の原因となるのが、人の心に巣くっている、貪瞋痴の三毒と言われる三つの根本的な煩悩である。それによって、誰しもが迷い怒り愚かしい心を持つにいたる。お釈迦様は、これら苦しみの原因となる三毒を真実なる智慧を開かれることによって克服なされた。

カピラ城を出て遊行し、六年間の苦行を経て、菩提樹下で瞑想する修行者シッダールタの前には、沢山の魔が夜ごと襲いかかったと言われる。代表的な魔は、様々な煩悩である煩悩魔、苦しみを起こさせる色受想行識の五蘊の陰魔、死をもたらす死魔、天に住み人の善事を邪魔する天魔の四魔であったと言われる。

これらが襲い来たとき、お釈迦様は、右手を膝の下に降ろし地に触れて、大地の神にこの世の真理を獲得し解脱せんとの堅い決意が不動なる真実であることを証明して見せたことによって魔は退散していったという。正にこのお姿が前回述べた四仏・四智の一つ「大円鏡智」を象徴する阿閦如来(あしゅくにょらい)のお姿でもある。

つまり、真実を示すこと、それが魔との戦いに勝利することになった。それと同じように真実の姿、この世のあり様を真実なる智慧によって見るとき、人間の根本的な煩悩である三毒も消えて無くなってしまう。小さな自己の欲求に取り巻かれている人々が、正しく貪瞋痴を制御するためにこの世の中の真実の智慧を授けるのが、この段の教えであると趣旨を説明する。

無戯論ということ
私たちは無意識のうちに、眼と耳と鼻と舌と皮膚から入る刺激に反応して、それが自分にとって好ましい物なら欲の心を、好ましくない物なら怒りの心を生じさせている。心の中で思い巡らす刺激に対して欲や怒りの心から妄想していくのも同じこと。しかしその好ましい物でも、ずっとその刺激が続くと逆に苦しみ、そして怒りに転じていく。

甘い物が好きで、ケーキを食べたいと欲の心で食べたとしても、三つも四つも食べたらムカムカして、もう食べたくない見たくもないという怒りの心が生じる。それなのにもっと食べたいと思い、吐きだしてまでご馳走を食べるなどという愚かしいと思えることも、中世のヨーロッパの貴族の間では実際に行われていたと聞く。好きな音楽も何時間も聞き続ければ、もう耳にしたくないという怒りの心にも転じる。香りの良いお香でも、沢山焚いてしまえば悪臭に転じていく。

しかしたとえば同じ欲でも、何か人に喜んで欲しい、助けてあげたいという気持ちから、欲っしていた物を見つけてあげたり、困っている人を助けてあげたようなときに、心から感謝されてこちらもうれしく思うような喜びの心はとても長く心楽しい気持ちでいさせてくれる。さらには、自然の中で少し落ち着いた気持ちで心静かに過ごしたり、坐禅でもして心の中に何もない安らぎ心地よさを経験することは、さらに大きな喜びを永く味わうことが出来る。

欲や怒りの心は良くないと思っても、特に欲は次々に生じてくるものなので捨てられるものではない。捨てることを考えるのではなく、外からの刺激をどう受け取るか、受け取る側の反応の仕方が問題なのである。物事にとらわれず、蓮の上の水玉の如く周りに囚われず自由に安らかにあるべきだと教えられている。

無戯論・戯れの論がないとは、小さな自分だけの好き嫌いの感情から欲をつのらせたり怒ったり愚かな思い行為に至ることから離れ、自他の対立を離れ、自他が一体なるものとの認識の元に、自分も周りも、もっと沢山の人たちや生きものたち全体が良くあるように幸せであって欲しいと、大きな欲に心を導いていくことをいう。

貪瞋痴の三毒をこのように小さな自分の中のとらわれた分別から開放して、より広く大きな、長い時間に亘って喜びを感じられる清らかな心に転じていくことによって、一切法、つまりすべてのこの世の現実世界も、本来このような小さな個による好き嫌いを超えた清らかな存在である。すべてのこの世の現実世界が清らかな広大な永遠なる存在であると目覚めれば、真実なる般若の智慧も開かれていくと説くのである。

第三段の功徳
そして「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。すなわち、この段の聞き手である金剛手菩薩に対し、この欲望を正しく導く教えをよく受けとめ、実践していくならば、たとえ欲望にまとわれた人々を殺害するようなことがあったとしても、地獄の暗闇の世界に墜ちることはないと諭している。ここでの殺害とは、悪業を生む心の中の煩悩を殺害することを意味しており、それによって、自他共々に真実なる智慧を速やかに獲得するからであると説かれる。

降三世の印を結ぶ
そこで、金剛手菩薩は、この教えを重ねて明らかにせんとして、心に巣くう頑なな自己に固執した欲や怒りの心を粉砕すべく、三世を支配するというインドの神・シヴァ神を倒した降三世明王の忿怒の形相で、蓮華を持ちその姿が広大な慈悲心から現されたものであることを明かすために微笑みさえ浮かべて、すべての者たちの豊かな人格の形成を念じる。

降三世の印とは、両手の甲を胸の前に交差させ小指を掛け合わせた形であり、仏の心と迷える衆生の心、さらには、小さな自己と真に広大なる宇宙大の自己との一体不二なることを表している。そして、その心の心髄を表すべく、降三世明王がシヴァ神を打ち倒したときの勇猛なる心・金剛吽迦羅心の一字真言「フーン」を唱えた。

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やさしい理趣経の話4常用経典の仏教私釈

2009年10月10日 11時26分29秒 | やさしい理趣経の話
第二段が、「しーふぁきゃふぁん、ひろしゃだじょらい・・・」と始まる。冒頭に「時薄伽梵毘廬遮那如来」とあるように、大日如来が登場する。初段は大日如来の教えを金剛薩埵が代弁して、自と他の壁が解消することによって、どんな煩悩もその本質は清らかなものであり、自分だけの小さな欲から、より多くの生きとし生けるものの幸せのためになる大きな欲に転じていく教えを説いた。ここでは大日如来みずからがお出ましになり、その覚りそのものについてより具体的にお説きになる。

「一切の如来の静寂法性」とは、静かなる真に完全なる覚りということ。現にいま正にそのあらゆる対立を越えた平等の覚りに至った、その究極の教えを説く、と簡潔にこの段の趣旨を説明する。

理趣経は、このあとずっと、各段ごとに各々四つずつに内容を分解して教えを展開していく。これは、大日如来の、周りに配置される四仏の覚りの境地をいろいろな角度から解明していくというスタイルで説かれていくため。真言宗の仏様の世界を表す曼荼羅の、金剛界の仏様たちの中心に位置するのが大日如来で、その周りを東南西北の順で四仏が取り囲む。四仏とは、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来(釈迦如来)の四人の如来を言い、この四仏は大日如来の智慧を四つに分けたものとも言われる。その四つの智慧とは、

①[絶対に怒らないと誓った誠に意志の堅い仏・阿閦如来の智慧]大きな円い鏡がすべてのものを映し出すように永遠なる天地宇宙の一切を了解している誠に大きく深い智慧(大円鏡智という)、

②[世の中の宝を見つけ出す仏・宝生如来の智慧]すべてのどんなものにでも平等に価値を見出す智慧(平等性智という)、

③[誠に清らかな心で衆生をご覧になる仏・阿弥陀如来の智慧]個々の違いを見出してその尊さに目を向け無限の優しさをたたえる智慧(妙観察智という)、

④[衆生を救う仕事が円満に成就せしめる仏・不空成就如来の智慧]すべてのものを成長させ育む智慧(成所作智という)を言う。

そして、この第二段は、大日如来の覚り・大菩提とは、これら四つの智慧の平等なる覚りであると説かれる。ここで言う平等とは、等しいという意味ではなく、初段で述べた清浄と同義で、みな一つ、一体、不二同体ということ。

四つの平等なる覚りとは、①ダイヤモンドのように堅固でかつ永遠なる覚りがすべてのものに周遍しているから金剛平等の覚りといい、金剛平等の覚りでは、覚りは永遠に不変で滅することもないので、永遠なるいのちの平等に目覚めよと教えられている。みな初めのない輪廻を生きている衆生は、平等にいのちの連続を生きている。誰にも刻一刻、時間が平等に経過していくように、今という瞬間の連続であるいのちは平等なるものと言えよう。

②すべてのもの、生きとし生けるものに何でも願いをかなえてくれる宝珠の如く、等しく福徳をもたらすので義平等の覚りといい、義平等の覚りでは、覚りはすべて平等に福徳をもたらすので、すべてのものの無限なる福徳の平等に目覚めよと教えられている。どんなものにも価値がある、使いようによっては宝になる。ゴミから沢山の資源が回収されるように。どんなものにも無限の価値、可能性があり、私たちはみんな違ういのちを生きている、だからこそ一人一人に平等に生きる意味と価値、可能性がある。

③泥の中から咲く蓮のように、すべてのもの、また生きとし生けるものも本来その本性は清らかなものであるから法平等の覚りといい、法平等の覚りでは、覚りは清く穢れないものであるので、すべてのもの、生きとし生けるものもその本性清浄なることの平等に目覚めよと教えられている。ひとつひとつ、一人一人、みんな違うものを持っている。その違いを優しい眼差しできちんと観察し見つめてみれば、みんな平等に清らかな輝きに充ちている。

④すべての働きや行いがみな人間のはからい分別を越えた仏の衆生済度の働きになるので一切業平等の覚りといい、一切業平等の覚りでは、覚りはすべてのはからいを越えたものであるので、不滅の業の平等に目覚めよと教えられている。一人一人すべての過去からの身と口と心による行いの果報・業はすべての者たちの覚り着く先にあってはそれらすべてがその帰結のため、つまり覚りのための行いと見ることが出来る。相互に関係し合っている私たちの業を考えればそれぞれの行いは平等に相互に済度し合っていると捉えることが出来よう。

このあと、「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。この四出生の法を聞くことあらばとあり、この四つの智慧の教えを信じ、受け入れ、読誦するならば、いかなる重罪も消滅して、死後地獄・畜生・修羅などの三悪趣に落ちるようなことがあってもそれを乗り越え、自己の完成を求め、覚りを強く求めるならば、無上なる覚りを得ることが出来ると説く。

そして、最後に、「しーふぁきぁふぁんじょしせっち・・・」と最後のまとめにはいる。世尊大日如来は、真実にして無上なる覚りをすべての人に授けんとされて、大悲の心を抱き、真実の智慧を表す智拳印を手に結び、すべて世界の究極の真理は平等心にあると説き示されて、その心髄を現す一字真言「アク」を唱えた。

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やさしい理趣経の話③常用経典の仏教私釈

2009年06月11日 09時36分51秒 | やさしい理趣経の話
前回までで、この理趣経の舞台設定を説く序文が終わって、ここから初段本文に入る。「せーいっせいほうせいせいくもんそい・・・」と唱え初段が始まる。「説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)」とは、「一切の法の清浄句の門を説きたもう」ということ。「一切の法」とあるが、仏教でいう「法」には様々な意味があり、仏教の教えを表したり、また真理であったり、この世に現れたものを意味する場合もある。ここでの「法」は最後の「現実に存在するもの」を意味する。

「諸行無常」という言葉があるが、現実に存在するものすべては移り変わっていくというこの無常は、なぜ無常かと言えば、他のものに依存して様々な条件のもとで仮にいま存在しているからであって、不安定だから常に変化している。すべてのものが他とともに存在すると言うこともできるので、すべてのものは相互に関係し、みな繋がった大きな一連の存在と見ることができる。

こうした自と他の繋がりを見ていくと、自も他もない一体不二の関係性が見えてくる。これを別の言葉で「縁起」ともいい、「空」ともいう。また「清浄」とも言う。このあたりが般若理趣経と言われる所以であって、「清浄句の門」とは、自も他もない「空」という関係性の教えとの意。だから、説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)で「すべてのものが自他の区別のない清らかな心の教えを説く」ということ。

そしてこの後、「○○せいせいくしほさいー」と唱える定型句が十七回繰り返される。これを十七清浄句と言い、男女の性交に関する言葉が登場するので有名なところである。まず「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)(妙適清浄の句は是れ菩薩の位なり)」とあり、「妙適」とは、まさに男女の性交のよろこびを意味する言葉であり、またより大きな楽しみという意味もある。理趣経はこうして男女の性という生命を生み育むおおもとの交わりを、一味一体の清らかなものと見て、それを菩薩の心と表現してより神聖なものと捉える。

その「妙適」が「妙適清浄」と表現されることによって、単なる男女の合体を性的意味合いから転換して個と宇宙、自と他、内と外という仕切りを取り払った全体として物事を捉える世界観を表現する言葉となり、大きくその意味合いが変わってくる。個々の私情をはるかに超えて自と他の境のない、つまり宇宙のすべてのものとの一体、一つであるとの意識により、より大きなよろこび楽しみへと心を差し向ける手かがりとして男女の性交を意味する言葉を表現している。

このあとも男女の交歓に関する言葉が四つごとのまとまりとして四組、つごう十六の言葉が唱えられるが、二つ目の清浄句からその具体的な内容に入っていく。まず、「欲箭清浄句是菩薩位」とあり、「欲箭」は快楽を求める矢のような心を意味するが、「欲箭清浄」では、すべてのものと一体一つになる境地を欲し、自他ともによくあらんと強く引きつけられるのは菩薩の心であると述べる。

同様に、欲の心から相手に触れることを意味する「触」、お互いに結びつき離れがたくなることを意味する「愛縛」、一体となりすべて思い通りになったことを意味する「一切自在主」という言葉が使われ、男女の行為の状況を表現しながら、それぞれ「触清浄」「愛縛清浄」「一切自在主清浄」となると、自他を区別する意識がなくなり一体となり、その心地にいつまでも浸りたいと思い、すべてのものと一つとなり、それらがよくあるようになし、すべてが思い通りにかなう心地にあるのは、それぞれ菩薩の心であると教えられる。

続いて、欲の心から見たいと思うことを意味する「見」、触れることによる悦びを意味する「適悦」、お互いに離れがたく思うことを意味する「愛」、一切のものが自在になったと思う「慢」という言葉を用いて、男女の関係の情感を表現しながら、「見清浄」「適悦清浄」「愛清浄」「慢清浄」となると、すべてのものと一つとなって世の中を見て、その同体なりとの安楽を得て、慈しみの心を持って愛おしく思い、すべてのものの中にある自分を実感する菩薩の心となる。

そして、お互いを意識して飾る「荘厳」、触れる歓びから心豊かになる「意滋沢」、愛によって光が差してくる「光明」、すべてが自在になった心地よさから「身楽」という言葉を用いて、男女の関係の心理を表現しながら、「荘厳清浄」「意滋沢清浄」「光明清浄」「身楽清浄」となると、この世のすべてのものと一つになった境地を得てすべてのものが美しく、心満たされ、光り輝き、身体に安らぎと心地よさを実感することに意味が転換される。

さらに、「色」「声」「香」「味」という、眼・耳・鼻・舌に入り感覚として私たちが貪瞋痴の煩悩でとらえがちなものについても、おのおの「色清浄」「声清浄」「香清浄」「味清浄」となると、覚りに導き入れる姿であり、説法となる音声であり、三昧に導く香りであり、歓喜にいたる法味となる。これら十六に展開された清浄なる心はみな各々が菩薩の境地なのであると唱えられる。

以上が十七清浄句である。次に、何故ならばとことわりがあり、「一切の法が自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり」と続く。一切すべてのものが本来別々に存在しているものではないので、般若波羅蜜多という覚りの智慧も自他の対立を離れて清浄であるということ。ここでは般若波羅蜜多の智慧は、本来私たちが獲得すべき智慧として捉えられているという。だから、私たち自身がそのような境地が開かれるように修行をし、自分自分という自己中心的な発想を止めて、自分以外の者との隔たりを超えて、自も他もない一つの全体が存在しているのだという、そういう見方でものごとを見ていかねばならないと強調される。

そして、次に、この初段本文、とくにこの十七清浄句についての功徳が述べられる。「金剛手よ」、と沢山の聴衆の代表として、金剛手菩薩に呼びかけ、「このような清浄を実現する般若波羅蜜の覚りの境地を聞くことがあるならば、覚りに至るまで、覚りを邪魔する様々な障害も、貪瞋痴の煩悩も、素直に正しい教えを聞けない障り、業によって生じてくる障り、これらを多く積み重ねたとしても地獄に堕ちることなく、さらに重い罪を重ねても消滅する。だからこの教えを大切に受持してよくよく日々読誦し、注意して深く思索するならば、この一生のうちにすべてのものが分け隔てないものだという覚りの心をえて、自も他もない融通無碍となり、心に歓喜を得て、十六大菩薩の功徳を身につけて、最高の覚りを開くであろう」とある。

本来は悪事を重ねることは覚りの障害の何ものでもないと考えられている。だから沢山の罪を重ね今に至る私たちは、どれだけの果てしない時間を要しても覚りなど手の届かないものだと諦めてしまいがちではないか。だから阿弥陀如来の本願にすがって念仏にたよろうとの気持ちにもなる。しかし、お釈迦様の時代にも、アングリマーラという多くの人を殺し恐れられた極悪凶暴なる者であっても、ひとたび改心して出家し、お釈迦様の教導により修行することによって阿羅漢果を得たという例もある。

ただし、もちろんのこと、なればいくらでも悪事に走ってもよいとするのではない。この経典に出会い教えを受け入れ唱えた、いま、心あらたまった、そのときにあっては、過去にとらわれず、たとえ過去にいかなる事があろうとも、覚りを求めることを捨てずに日々一歩でも前進し、今生での覚りを得られるほどに精進することを迫る、正にそのことを強烈にアピールするための功徳文なのだと言えよう。唱えれば誰でも簡単に仏になれる、そんな安易な意味でないことは当然のことであろう。

そして最後に、「しーふぁきぁふぁんいっせいじょらいたいしょうけんしょうさんまーやー・・・」と唱え、初段のまとめに入る。聞き手の代表だった金剛手菩薩が登場して、大日如来の唱えた教えをもう一度復唱し、覚りの心髄としての一字の真言をお唱えになる。

この金剛手菩薩は、世界のすべての人々を残りなく教化しすべての教えをマスターして、満面の微笑みを浮かべて、左の手は拳にして腰に当てて右手にした金剛杵を揺さぶり、自信に満ちあふれた姿で、すべては一体不二で清らかなものだとすべての人に知らしめようと心静かに願って瞑想に入り、その心髄を現す一字真言「フーン」を唱えた。読誦する場合には、この部分は唱える音調に変化を加えて唱え、最後は「さーんまやーしーん」と各所を引きのばして唱える。そうして、この唱えるとき、正に唱え手もそのままに、この菩薩の瞑想の中に没入するのである。

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やさしい理趣経の話②常用経典の仏教私釈

2009年01月15日 14時24分09秒 | やさしい理趣経の話
そして、経題を唱え終わると続いて「如是我聞一時薄伽梵(じょしがぶーんいっしふぁきぁふぁん)」と読経が始まる。「如是我聞」とは、お経が始まるときの常套句で、かくの如く我聞く。

この場合の「我」とは、お釈迦様に最後まで随侍したアーナンダ長老のことで、仏滅後の雨安居の際に第一の弟子マハーカッサパ長老のもとで500人の阿羅漢がラージギールの七葉窟に集会して、最初の仏典結集(けつじゅう・お経と戒律の編集会議)が行われた。

その時アーナンダ長老が長年近くにあって記憶していたお釈迦様の説法を集まった長老たちの前で確認する際に、このように「かくの如く我聞く」と言ってからお唱えした。この言葉がお経の出だしの文句として常用され、大乗経典にもそのまま採用された。

「一時」とは、あるとき。「薄伽梵」は、バガヴァーンというインド語の音訳で、尊敬すべき人、徳のある人、幸福、吉祥ある人との意味。経典には、ただバガヴァーンという言い方でお釈迦様を表している。この場合のバガヴァーンは、世尊と訳す。またヒンディ語では、最高神との意味もあり、ヒンドゥー教の神様にも使う。

ところで、今でもインドの仏教徒は、バガヴァーン・ブッダという言い方をする。だから、ヒンドゥー教的な神様という意味しか知らない人には、インド仏教徒はお釈迦様を神様だと思っていると勘違いされることもあるようだ。

10年ほど前にNHKが企画したNHKスペシャル『ブッダ大いなる旅路①輪廻する大地・仏教誕生』でも、とても良い企画ではあったが、コルカタのベンガル仏教徒にインタビューした際にそのような言辞があった。

ただし、ここでの薄伽梵は、密教経典を説く教主・大毘盧遮那如来、つまり大日如来を形容している。そして理趣経は、このあと長々と教主大日如来のお徳が口上される。

つまり、すべての如来のダイヤモンドのような堅い金剛によって加持された永遠なる悟りの智慧を有し、すべての如来の灌頂宝冠を得てこの世の宝を自分のものとした精神世界物質世界の主となり、すべての如来のすべての智慧を自在に駆使して利益する、すべての如来の働きを成し遂げる力を有し、すべての生きものたちの願いをかなえ、そして三世にわたって常に物質的音声的精神的なすべての活動に従事するありがたい如来であると。

毘盧遮那とは、インド語のヴァイローチャナの音訳で、光り輝く者との意。すべての者に昼夜に問わず光りと恵みをもたらす大きなお日さまを表し、この宇宙の摂理、真理をそのままに尊格にした仏様ということになる。だから、大毘盧遮那如来で、大日如来。この世の中のすべてはこの大日如来の表れであるとも言われる。

その大日如来が、欲の世界の最も高いところと言われる他化自在天(たけじざいてん)という天界で、この理趣経を説いた。そこは、一切の如来がおいでになり幸福にみちた宝物に溢れた宮殿で鈴や鐸の音が響き、装飾の施された布が揺らぎ、たくさんの宝石、宝珠、円い鏡などに飾られている。そして、そこには、八十億からの菩薩たちが大日如来の説法を聞こうと勢揃いしている。

それらたくさんの菩薩たちの代表として、悟りを求める心を表す五鈷という法具を持ち一心に精進する金剛手菩薩、つねに慈悲の心で見て人の心の清らかさを見出す観自在菩薩、この世のあらゆるものに宝を見出す虚空蔵菩薩、身体と口と心が常に一体となって永遠に働く金剛挙菩薩、智慧の利剣で人々の煩悩を断つ文殊菩薩、発心してとたんに説法が出来る纔発心転法輪菩薩、人々にこの世のあらゆる宝をを広大に供養する虚空庫菩薩、一切の魔を退治する摧一切魔菩薩がおられた。

これら八大菩薩の名が掲げられ、ぐるりと八方に大日如来を取り囲み、誠に巧みな意味深い清らかな説法が大日如来によってなされたと記される。そしてこれにて、理趣経が説かれる場の設定に関する長々しい解説、つまり序文が終了する。


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やさしい理趣経の話①常用経典の仏教私釈

2009年01月14日 07時54分20秒 | やさしい理趣経の話
「理趣経(りしゅきょう)」という経典がある。「般若理趣経」とも言い、真言宗の常用経典である。真言宗の僧侶が執り行う葬儀や法事で読まれるのは、まず間違いなくこの経典だと言ってよい。普通の経典が呉音で読むのに対し漢音で読むため、聞いていて誠に軽快な感じがするお経だ。

たとえば金剛というのを「こんごう」ではなく、「きんこう」と読んだりする。清浄を「しょうじょう」ではなく、「せいせい」と読み、如来を「にょらい」ではなく、「じょらい」と読む。また一切を「いっさい」ではなく「いっせい」だったりと、聞いただけでは言葉が当てはまらない。

なぜこんな読み方をするのかと言えば、そこにはいわゆる煩悩の中でも最もやっかいな性欲を大胆に肯定しているように読めたり、どんな悪事を働いても成仏するというような文言があるためで、いわゆる仏教徒にとってはそのまま受け取りがたい内容を含んでいるから、聞いただけでは意味を解せないためとも言われている。がしかし、本当のところは、当時洛陽や長安といった中国の都は漢音を中心にした世界であり、また日本でも平安の初期は漢字は漢音で統一するという時代だったためという。

ところで、この経典は、通称を「般若理趣経」と言われているので、もともと大乗仏教が西暦紀元前後に新たに生起した頃大乗仏教徒によって新たにまとめられた般若経典の一種でもあり、その流れをくんでいる。だから真言宗ばかりか、たとえば禅宗のお寺さんでも、大般若経転読法会といえば、玄奘訳『大般若経六百巻』の中の五七八巻にある般若理趣分が導師によって読誦されたりする。

つまり、同じ理趣経でも成立時期が様々なものがあり、玄奘訳は7世紀中頃に訳され、この他7世紀の終わりには金剛智や菩提流志らによって翻訳されている。そして、現在真言宗で常用されている「般若理趣経」は、長安第一の大寺・大興善寺におられた不空三蔵によって、七六三年から七七一年にかけて、あの玄宗皇帝の次の粛宗帝の勅により国家事業として翻訳された。

その新訳を初めて日本にもたらしたのは弘法大師であろうか。唐の国からこれだけの経巻宝物を持ち帰ったと朝廷に差し出した『請来目録』には、「新訳等の経」の一巻として『金剛頂瑜伽般若理趣経』とあるから、おそらくこの不空訳の「般若理趣経」のことであろう。

この理趣経は、正式名を「大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品」という。読んで字の如く、「大きな楽しみ、それは金剛つまりダイヤモンドのように堅い、空しからざる、真実なる、三摩耶つまり悟りに至る経典」ということになる。ただ、大きな楽しみとは、私たちの俗世間的な楽しみではなく、この宇宙全体がよくあるようなことに対する楽しみのことであり、堅いというのは菩提心、つまり悟りを求める心が堅固であるとの意であるという。

「般若波羅蜜多理趣品」は、「般若」が智慧、「波羅蜜多」は完成に至るとの意で、「理趣」とは、そこに至る道筋、「品」は章ということで、智慧の完成に至る道を説く章という意味となる。全体では、堅固な菩提心により智慧の完成を導き、必ず真実の悟りを得て、宇宙大の利益をもたらす道筋を述べたお経だということになる。

ただ理趣経は、今日では、この経題の前に、読経する人が経典の説き手である大日如来をお招きしてお祀りする啓請と呼ばれる偈文を読むことになっている。だから理趣経のはじめは、「みょーびーるしゃなー」で始まる。「みょー」というのは、帰命の帰の字を略して読むからで、本来は帰命、帰依しますということ。「びーるしゃなー」は、毘盧遮那仏の仏を略して引声して唱える。「帰命毘盧遮那仏」、大日如来様に帰依しますという文言から理趣経がはじまる。

そのあと、「むーぜん、しょーうじょう、せーいせい」と唱え、煩悩に染まることのない執着のない真理に至る、生まれ生まれてこの偏りのない教えに遇い、常に忘れず唱え教えを受持しますと宣誓しつつ、弘法大師にこのお経の法味を捧げたり、過去精霊の菩提のために唱えることなどを述べてから経題を唱える。

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