令和2年盆月号(B5・16ページ・年三回発行)
◯ラタナ・スッタを唱えて
新型コロナウイルス感染終息のために
四月五日、國分寺の恒例行事、土砂加持法会が執り行われました。世界が震撼する新型コロナウイルス感染拡大に伴い、受付時間を遅らせ、飲食を控えるなどの対策のもとで執行いたしました。土砂加持法会は、檀信徒各家先祖各霊の得脱のために修される法会ではありますが、この度は新型感冒感染症終息平癒祈願を併せ行いました。
お釈迦様在世時のことですが、ヴァッジー国の首都ヴェーサーリーで、飢饉から疫病が蔓延し人々が苦しむさまを見て、阿難尊者とともにラタナ・スッタ(宝経)を七日間唱え続けて平癒せしめたとの故事があります。そこで、職衆(しきしゆう)が土砂加持法則(ほつそく)により法要が進む中、導師は光明真言法を修法し、前供養終わって、観法(かんぽう)の間にパーリ・ラタナ・スッタを読誦し、祈念を凝らしました。
この故事にまつわる話が、法句経(ダンマパダ)二九〇偈の因縁物語に、次のように残されています。
かつて、ヴァラナシの書店で手に入れたヒンディー語訳『ダンマパダ』(『Dhammapada』Bhikshu Dharmarakshit訳注・sanskrit pustakalay刊)より翻訳してみますと、
「あるとき、ヴェーサーリーに飢餓が起こり、疫病が蔓延し、鬼神が災厄をもたらしていた。そのとき、リッチャヴィ王はラージャグリハに行き、お釈迦様をヴェーサーリーにお連れした。お釈迦様がヴェーサーリーに来られ、ラタナ・スッタを読誦させるとすべての病が沈静し、水が降り注ぎ、鬼神たちの恐怖も去っていった。お釈迦様がラージャグリハからヴェーサーリーに行かれたとき、様々なやり方で道が飾り付けられ、沢山の供養の品々とともに旅をなされていた。ビンビサーラ王とリチャッヴィ王はガンジス河の両岸で各々の国で前代未聞の盛大な祭りを催したのであった。
お釈迦様は、比丘たちから、この祭りの因縁を聞かれると、『比丘たちよ、私は過去世でシャンカという名のバラモンであったときスシーマという名の独覚(どつかく)の霊廟で供養を捧げていた。これらのお祭りや歓待尊敬は、その時の業果によるものである。過去世にはわずかな施ししかしていないが、このように大きな果報があったのである。』と言われて説法をなされ、この偈文をお唱えになられた。『もし微少の安楽を捨てて広大な安楽を得べしとおもわば、賢者は広大な安楽をのぞみて、微少の安楽を捨つべし』」とあります。
実は、このヒンディー語本の解説は、元の因縁話からかなり話を要約しているようです。『パーリ語仏典ダンマパダ』(北島泰観訳注・中山書房仏書林刊)には、「ヴェーサーリーに到着したお釈迦様は、阿難尊者に命じてリッチャヴィの王子と共に三つの城門でラタナ・スッタを一晩中唱えさせると、病人が癒えはじめ、その後お釈迦様自ら七日間に亘ってラタナ・スッタを唱えられ、ヴェーサーリーの町は再び平和を取り戻した」とあります。
また、敬愛する薬師寺の院家(いんげ)様からは、ダンマパダ・アッタカターという注釈書の邦訳『仏の真理のことば(三)』(及川真介訳・春秋社刊)に、「阿難尊者は、お釈迦様の水晶の鉢に水を入れて城門にいたり、宝経(ラタナ・スッタ)を唱えつつ投げ上げると、鬼神や病人に銀の耳飾りのような水滴が落ち、するとただちに病気が鎮まった」という記述があることを教えていただきました。
ヒンディ語文には、阿難尊者が投げ上げたという水については、「水(pani水または雨)が降り注いだ」という簡略された表現になってしまっているようです。
いずれにせよ、このラタナ・スッタは、bhutaブータという、生類、鬼神、鬼類、または神とも訳される霊的なものに対して、信仰ある人々に、疫病をまき散らすことなく、汝らに御供えしてくれる人間たちを慈しみ、守り給え、悪さをするな、仏法僧の勝れたものたちを敬い礼拝せよ、精進せよ、幸せであれと諭していく経典となります。
お釈迦様自ら、七日間にわたり唱えられたとされる、このラタナ・スッタを、私も新型コロナウイルス感染が終息するまで、毎朝毎晩お唱えしたいと思います。世界の仏教徒たち、特に南方のパーリ経典を読誦する人たちとともに、このラタナ・スッタを唱え、世界の新型コロナウイルス感染にまつわる騒動が一日でも早く終息するよう祈念したいと思います。(全)
◯月例薬師護摩供後の法話から
なぜ葬儀は必要か
最近葬儀社の方とお会いしましたら、この神辺でも、数年前から葬儀もせず、会館で一晩寝かせて火葬するという家が出始め、昨年は特に多くなったと言われていました。
都会では、かなりそうした直葬が増えているとは聞いていましたが、古い家が多く、近所との関係が濃い土地柄と思っていましたので、この神辺で直葬があるとは驚くばかりです。が、知り合いの近県のお寺さんでは、盆参りに行ったら、いつもすぐに出てくるお婆さんが居ないから尋ねると、実は亡くなったのですが、…とのことで、急遽仏間で略式の葬儀をして戒名を付けてあげたという話を聞いたことがあります。
ではどうしてお葬式をしなくてはいけないのでしょうか。私が思うには、人はどのように一生を過ごしてきたのだろうかと考えなくてはいけないと思うのです。人は一人では生きられません。一人が生きるには、家族だけでも、親族だけでもなく、沢山の周りの人たち、衣食住に関わるすべての人たちのお蔭で長い人生を生きてきた訳です。
それを死にましたらからと、もう居ませんから関わりが無くなりました。という訳にはいかないのが人間ではないでしょうか。長年皆様のおかげで生きてまいりました、故人に代わり御礼申し上げ、故人亡き後もご交誼を願うのが本来ではないかと思うのです。
今頃はペットとして可愛がられた動物でも葬儀をして火葬にし、さらには供養までする時代です。それを何十年も生きてきた人が亡くなって、何も周りに言わずに、直葬で済ませましたというのでは、その方のお陰でこの世に生を受け育てられた子孫として、なすべき勤めをなさず、余りにも故人に気の毒であり、近隣の人たちに対しては誠に礼儀を欠く行為ではないでしょうか。
そもそも亡くなったご本人は何を頼りにみまかるのでしょうか。残された遺族や親しかった人は、どのように心の悲しみや心の空白を癒やすのでしょうか。
葬儀は告別式ではありません。葬儀において、導師は改めて三帰五戒を授け、戒名を授与します。これは出家得度式であり、徳の高い行為であるとされるからです。日本では古来高貴な人々が、このように出家をして亡くなることが最も尊い功徳あることとされ、なされたきた伝統が一般の人々に広まり、戒名を授けて引導を渡す葬儀が連綿と執り行われてまいりました。
インドでは、今でも、仏教徒が亡くなると、子や孫が一時出家し白い衣姿で、僧院内でしばらくの間生活して功徳を積むという習慣があります。また、平安中期の公卿藤原道長公は亡くなる数年前に出家をし、九体の阿弥陀仏の手に結んだ五色の糸を握って、西向きに横になり、多くの僧と共に念仏を唱えながら亡くなりました。
私たち日本人は、後生がいい、悪いという言葉があるように、自分の死後のことを気にかけて生きてきました。ですが、現代人は今のこの刹那のことにばかりに気を取られ、まったく余裕がなくゆとりのない生き方をしているが故に、自分の後生はもとより、身近な人の死後のことも気にかけてあげられないというのが実際ではないでしょうか。
後生がいいか悪いか。死後の行き先がよいかわるいか、それは生前の行いにもよりましょうが、ともに生きてきた家族親族の方々にとっては、故人が死後もよりよくあって欲しい、よいところに逝って欲しいという思いを託す場として葬儀がありました。祈り手である導師にその思いを託し、死後の安楽を願う場です。
直葬で、という方には勿論のこと、深刻な事情があることでしょう。ですが、何かできることがあるはずです。今風に立派な会館でしなくても、小さな会場でも、家ででも、近い人たちだけの心のこもったお葬式はできるはずです。
是非、身近な方で葬儀のことでいろいろと悩んでいる方があったら、こんな話をしてあげて欲しいと思います。私たちも、自分の後のことを考え、家族の後のことを思いやれる、ゆとりを持った生き方をしたいと思います。
今月もご参詣ありがとう御座いました。来月もまた皆さん二十一日、朝八時と早くからで大変とは思いますが、お誘い合わせの上お参り下さいますことをお待ち申しております。(全)
◯昨年十月二八日福山市長尾寺様の御縁日法会後の法話より
法話 般若心経にお釈迦様の教えを学ぶ・前編
ご紹介いただきました國分寺の横山で御座います。五年前にもこちらでお話しさせていただいております。その時には「しあわせに日々生きるために」というテーマで、海外で注目されている仏教の瞑想についてご紹介をし、仏事についてお話しました。そして、皆さんも仏壇の前で少し座って下さいというお願いをして終わったように思います。
今日は、皆さんが仏壇の前でお唱えされている般若心経に関するお話をしたいと思っています。
心経への新しいアプローチ
早速ですが、私たちの仏教は真言宗の教えです。真言宗の教えは、インドの仏教の中で最も新しい教えです。そもそも、仏教には二千五百年もの歴史があり、インドでお釈迦様が亡くなられるのが西暦で紀元前五世紀半ばのことです。一方、真言宗の教えが現れるのが七、八世紀ですから、お釈迦様の時代からゆうに一千二百年も経ってからの教えということになります。
ところで、医療現場では、少し前から統合医療という様な言い方がなされるようになりました。これは細分化した専門部署が統合して一人の患者さんを診ていくという試みです。そこで、仏教も単に真言宗の教えだけを言うのでなしに、仏教全体の理解から発想していくことも必要なのではないかと考えております。
実は、そう考えて見回してみますと、私たちにとって一番親しみのある般若心経が、そもそもの古い仏教と私たちの真言宗を結び付けてくれる格好の経典であると気がつきました。般若心経は五世紀頃に成立したとされていますが、心経にはお釈迦様の教えもきちん
と説かれているからです。
心経は皆さんよくご存知のように、観自在菩薩が、舎利子というお釈迦様の弟子に説く教えです。観音様という悟れるのに悟らずに、衆生を救うとされる菩薩が、阿羅漢というお釈迦様と同じ悟りを得られた、智慧第一のシャーリプッタ・舎利弗尊者に教えを垂れるという内容です。つまりすでに真理を悟った人に向かって説かれた教えであり、私たちのような凡夫に対して説かれた教えではないということです。
ですから、その中に説かれるお釈迦様の教え、この後解説していきますが、五蘊、十二処、十八界、十二因縁、四聖諦は、無と頭に付けられて、あたかも不要なものというように思われていますが、空ということを本当に解り切れていない私たちには、実は、これらの教えこそ、たよりに学び、歩んでいく必要があるのです。
心経は、最後の真言、羯諦羯諦の真言が大事だと、唱えればご利益がある、有り難い、と思われています。また色即是空空即是色こそ心経の中心であると説く方もあります。それは間違いではないのですが、今日は、普段説かれることなく見過ごされている部分、プリントに一部分取り出してある無無無と否定されたような表現になっているところの話をいたしたいと思います。
今日は、このお釈迦様の教えに学んで、私たちはいかに生きたらいいのか、また悟りとはどのようなものなのかということを見て参りたいと思います。
それでは、お手元のプリント(10頁)をご覧になられてお聞き下さい。順を追って話しますから、頑張って最後までお付き合いをお願いします。
五蘊とは何か
まずは五蘊とは何かということを話します。プリントの上部に四角く囲ってある心経の抄録があります。一行目には、「照見五蘊皆空度一切苦厄」とあり、二行目には、「是故空中無色無受想行識」とあります。心経は冒頭からこの五蘊が皆空と解れば、すべての苦しみがなくなるとあるように、五蘊は心経にとっての大切なキーワードであることが解ります。
それで、その下に①と書いてある四角をご覧下さい。下に向けて色受想行識と展開してあるものですが、五蘊とは、五つの集まりという意味です。これはもともと、仏教において、私という存在はいかなるものかと規程するものです。私とは尊い、常住不変の永遠なるもの、我(が)などではなく、うつろいゆく五つの集まりに過ぎないのだという意味なのです。
いろと書く色(しき)は、私にとっての物質のことですから、身体ということです。正しくは身体の物質的なエネルギーのことです。心臓が動き、血液が身体を流れています。呼吸をして酸素を体中に巡らしてもいます。ですからジッとしていても常に動き流れ変化しています。長い目で見たら、皆さんもかなり変化していますね。五年前、十年前とは別人のように。そこまで変わっていないかも知れませんが、瞬間瞬間変わりつつあります。
それが色です。この色つまり身体に、これからお話しする受想行識という四つの心の働き、これらをまとめて名(みよう)と言い、身体に心がはいり、心と体が一つとなって私たちは生きています。因みに、死は心と体の分離と定義します。
心のはじめに受(じゆ)があります。これは感受するといいますが、感じることです。見たり聞いたり、嗅いだり、また痛いとか、暑いとか。身体の感覚の変化をずっと感じつつあるということです。
ここに関係してくるのが、十二処(じゆうにしよ)、十八界(じゆうはつかい)です。②の四角ですが、十二処は身体に感じられる情報の取り入れ方を説明するものです。「無眼耳鼻舌身意無色声香味觸法」と心経にあるところですね。眼耳鼻舌身意が六根(ろつこん)と言って、外からの情報が入ってくる場所で。そのあとの色声香味觸法が六境(ろつきよう)と言って、外から入ってくる対象・情報のことです。この六根と六境を併せて十二処となります。
六境の色(しき)、形あるものが眼に入ります。声(しよう)というのは音ですね、音が耳に入る。香(こう)は香りが鼻に入る。味(み)あじのするものが舌に入る。触れるものの情報が身・皮膚に入る。法(ほう)とは、頭に浮かんだもの、記憶とか感情とか思い、それを受け取るのが意(い)という場所ですね。眼に入るものも次々に変わっていき、その間に香りや音がしたり、何かを口に入れて味わったり、体に何か触れたりと刻々と感じつづけます。それが受ですね。
次は、想(そう)です。受によってとらえられたものがどんなものかと瞬時に捉え、イメージすることです。頭の中にどんなものかと概念を作り出すことです。
たとえば目に入ってきた物が茶色く丸い物で、甘い匂いがして、手に触れると柔らかいとイメージした物が、饅頭という概念にあてはめていくというような過程になるわけです。感覚として入ってきたものを次々に瞬時にそれは何かととらえていくことです。これが想という心の働きです。
そして行(ぎよう)がきます。行は想によって概念化したものについて、何かしたいと行為を誘発していきます。想によって饅頭ととらえたものに対して、食べたいという気持ちを起こすことになります。この何かしたいという意欲が行という心の働きです。饅頭を口に入れたら、もっと食べたい、隣のものも食べたい、今度はお茶を飲みたいというように次から次にと意欲が消えずに流れていきます。
最後に識(しき)がありますが、これは知るという働きで、図の六識とあるものですが、目でものをとらえる際に知るという心の働きがあって、はじめて感覚として捉えることになります。耳も鼻、舌、皮膚、意にそれらの対象が入る際にこの識という心の働きによって知ることになります。
識という、この知るという働きですが、これは心のことで、この機能があることが生きているということ、生命であると仏教では考えます。
そして、眼耳鼻舌身意と色声香味触法、それに眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識を併せて十八界と言い、心経には、「無眼界乃至無意識界」とあります。これは、外界を私たちがどのように認識しているか、その仕組みをお釈迦様が解明したものです。
いかがでしょうか、ここまでで、五蘊、それを展開するところの十二処十八界も含めて、どんなものかおわかりいただけたことと思いますが、大事なことは、五蘊はみな変化しつつある、と見ていくことです。
私は、毎朝五時に鐘をついているのですが、ゴーンと鐘を突くと、中秋の名月のころですと、西の空に輝く満月が目に入ります。そして、鐘の音が少しずつ小さくなると、遠くの草むらでカサカサと音が耳に入り、何だろうと、目を向けます。すると、大きな黒いものが動くのが目に入ると、それが猪であるとわかり、さらによく見ようとすると、猛烈な勢いで山の方に走って消えていきました。その間にも鼻には前日掃除して火を付けていた草焼きの匂いが入っており、また耳にずっと虫の鳴く声が入っていることに気づきます。そうしていましたら、鐘の余韻がなくなるのに気づき、また鐘を撞くという具合に、この短い時間にさえ五蘊の働きは、次々に移り変わり流れていっていることが解ります。
五蘊は、色受想行識が、このように常に変化し移り変わっていく、無常なものであり、すべて私たちの前に現れる、見えるもの、聞こえるもの、匂いも、味も、みんな変わっていってしまうものなので、そのつど受と想と行の心の働きも刻々と移り変わっていきます。
好みの服もバッグも、流行り廃りがあり、手に入れても直にまた別のものに目移りします。好きな音楽も何度も聞いていたら耳障りになり、ほかの曲が聞きたくなります。大好物の饅頭も三つも四つも食べたらあいでしまいますが、何日かするとまた食べたくなります。
五蘊のそれぞれがみなそうして、六根に飛び込んできた六境に作用して移り変わっていく無常なもので、もうこれで十分、満足しましたと、もう何も要りません、とはならないのです。ですから、どんなものでも執着するに値するものではない、そこで、すべてのものは空であるという見方をしていきます。
つまり五蘊十二処十八界は、お釈迦様が、私とは常住不変の我(が)などではなく、無我(むが)であり、空(くう)であるということを証明するために説かれたものであり、だからこそ、空を解ってしまえば、無と言い得たわけです。
自我も空なり
さらに、この五蘊の過程の中の受ですね、感覚として受け入れていく際に、自分が見た、聞いたと、自分が入り込んで、自分という思いが生まれ、さらに、想のところで、いろいろな思い巡らせることで自分がいるという思いを強くしていくことになります。自分がいる、と自我が形成され、私たちは、みんな自分がいると確信しています。自分という思いにこだわり、他の人と比較して、羨望や嫉妬などの心を生み、大変に生きることを複雑なものにして、苦しみの元になっています。
ですが、仏教では、それは単なる幻想に過ぎないと考えるのです。この自分という思いも空なんだということです。自我は、この五蘊の中の受や想という作用により作られたものにすぎず、妄想なのだと捉えるのです。
うつろいゆく五蘊にすぎない自分も空であり、無我なのだと理解するのです。何か悩み事があったようなときに、一度冷静になって、そのように自分を捉え直してみますと、楽になることがあります。
あるとき境内の草取りをしていたときのことですが、ひどく疲れを感じることがありました。そのとき、仕事の途中に、ある郵便物が配達され、開いてその中身を見て、また仕事にかかりました。ですが普段感じないような異常な疲れを感じて仕事を終いにして、事務所に戻りました。そして、机に置いてあったその郵便物を見て、ああなんだ疲れの原因はこれだと、その郵便物に記された人たちについて、色々と頭の中で思いが巡っていたのでしょう。それで身体がグッタリしているのが解り、自我が、そうさせたのだと解った瞬間に、さっと疲れがとれました。
皆さんも落ち込んだり悩んだりしたとき、普段意識もしていない自我が悪さをしているのかもしれない、と見てみると不思議と楽になると思います。是非、試してみて下さい。・・つづく。
般若心経に、お釈迦様の教えを学ぶ
◯月刊「佼成」令和元年九~十二月号
「つれづれ仏教歳時記」 掲載
九月
曼珠沙華の咲く頃
秋の彼岸頃になると、いつの間に茎を伸ばしていたのか、赤い曼珠沙華(まんじゆしやげ)が仁王門前の側道に咲き出します。そうして毎年、彼岸入りが間もなくであることを知らせてくれるのです。
彼岸は、インドの言葉ではパーラミター。到彼(とうひ)岸(がん)と訳され、この世の迷いの世界である此岸(しがん)から悟りの世界・彼岸に到ることです。そこで、パーラミターは、彼岸にいたる修行をも意味するようになりました。
大乗の教えに生きる私たちにとっては、六波羅(ろくはら)蜜(みつ)という、なすべき六つの実践修行であります。それは、持てるものを他者に施し、みんなが良くあるように五戒(①生き物を殺すことなく②与えられていないものを盗らず③邪な行為をせず④うそを言わず⑤飲酒せず)をまもり、どんなことがあっても心をおさめ、善きことに励み、心のおちつきを得て、何事にも分け隔てなく、とらわれなく明るく生きることです。
お彼岸の中日には真東から日が上り真西に日が沈みます。日の沈み行く西の空に向かって、弥陀の浄土を敬慕し礼拝する好機であるとして、いつのころからか、この時期に仏道に精進するようになったのでしょう。お墓にお参りして彼岸が済んだと思うことなく、できればこの六波羅蜜を心がけて生活したいものです。
ところで、曼殊沙華は、天上に咲く花とも言われ、奇瑞が現れるときに天から降るとされています。いつの日か、私たちの六波羅蜜が完成するときにも、天上から花が降ってくれることでしょう。
十月
カティナ・ダーナ
スリランカ、タイ、ミャンマーなど南方の仏教寺院では、雨期の三ヶ月間、比丘(びく)(正式な戒を受けた僧侶)たちは外出せず僧院内で勉学修養して過ごす決まりがあります。それを安居(あんご)といいます。
二十五年ほど前のことになりますが、私もインド・コルカタの僧院で安居いたしました。そして、安居が開ける、太陽暦では十月の満月の日の翌日から、各地の寺院でカティナ・ダーナという行事が各地の寺院で催されました。
カティナは功徳衣、ダーナは施しとの意味で、安居開けの比丘にその先一年間纏(まと)う袈裟を施すことによって、命や財産の安全、健康や地位を得て幸せな生活が送れ、死後もよいところに生まれ変わる功徳が得られるとされるのです。
コルカタ郊外のある寺院に招かれたときには、昼前にご馳走が接待され、三時頃から野外の特設ステージに他の十数人の比丘たちとともに座り、その前には米、果物、皿、歯ブラシ、タオル、線香、蝋燭などたくさんのお供え物が並んでいました。ステージ下のゴザの上には溢れんばかりの大勢の仏教徒が座り、長老比丘方から延々と説法が続きました。そして比丘全員による読経の間に、たくさんの袈裟が盆に乗せられてステージ上に運ばれます。それから功徳を随喜する偈文が唱えられ、最後に全員で「サードゥ(善いかな)・サードゥ・サードゥ」と唱和し閉幕しました。
今年も十月後半からひと月間、私たちの知らないところで、南方仏教徒の一大イベントが盛大に行われることでしょう。
十一月
護摩を焚く
毎月二十一日、午前八時から境内の大師堂で薬師護摩供を修法しています。護摩の火の温もりがありがたく感じるようになる今月あたりから、遠方からも多くの方々が参詣されます。
護摩とは、そもそも火の中に注ぐことを意味する、インドの言葉ホーマの音写語です。供物を火の中にくべることによって煙や匂いとして天の神々に供養して利益を願う供儀のことです。
かつてインドを巡礼した折に、ベナレスのガート(沐浴場)で、一人のヒンドゥー教の修行者が小枝を井形に組んで小さな護摩を焚いていました。火を付け、マントラ(真言)を唱えながら供物を投げ入れると、白い煙がゆらゆらとまっすぐ上にのぼっていきました。
護摩は、このようにヒンドゥー教でも行われ、もともと古代インドのバラモン教の儀礼の一つだったものです。それを五世紀頃に仏教も取り入れ、密教の儀礼としたのでした。
真言宗寺院でなされる護摩供では、単に火に供物をくべるのではなく、行者は護摩供の本尊と一体となる瞑想を修し、心を寂静にとどめて護摩の火に供物を投じ、一切衆生の利益を願うのです。
護摩供に参詣された方々は、燃えさかる火を前に般若心経やご真言を何遍となく唱え続けます。一心に唱えつつ、心の中の様々な思い、計らい、願いのすべてを仏様にお任せし手放すのです。
そうして心の重荷を降ろし、軽やかな気持ちでお帰りいただけたら、ありがたい護摩のご利益と言えましょうか。
十二月
一陽来福
お寺の生まれでもなかった私が、初めてお寺の生活を経験させていただいた東京早稲田の放生寺(ほうしようじ)は、冬至に授与するお札で有名なお寺です。
毎年冬至には何万人という人々が詰めかけ、交通規制が引かれるほどです。もっとも、その多くの人たちはその由来を知らず、似た名前の御札を頒布する神社に並んでしまうのではありますが。
放生寺は、江戸寛永年間に良昌上人によって造営された高田八幡宮(現穴八幡宮)の別当寺(べつとうじ)として開創され、三代将軍家光公の来駕(らいが)を仰ぎ、徳川宗家(そうけ)の祈願寺でもありました。
江戸時代中期には、冬至に授与する金銀融通の御札を創始。易(えき)の言葉「一陽来復(いちようらいふく)」に因み、冬至に陰極まって一陽が生じるように、海の如く無量なる福が一陽一陽授かるよう、本尊正観音菩薩(しようかんのんぼさつ)に祈念して「一陽来福」と命名したのでした。
この御札は、冬至の晩の十二時、居間の鴨居などに明くる年の恵(え)方(ほう)に向けて貼る決まりがあります。が、今日では大晦日の晩、または節分の晩に貼ってもよいとされています。
ひと昔前には、鹿児島から冬至の前日に飛行機でやって来て、お堂の前で寝袋で休み、授与される朝五時に買い求めてすぐに飛行機で帰り、冬至の晩には家に御札を貼るというような熱烈な信者も多かったようです。
冬至には、一日五座、本堂で観音護摩供が修法されます。今年もご参詣の善男善女の除災招福(じよさいしようふく)を祈願して、私も護摩を焚かせていただきます。
皆様の一陽来福を祈念いたします。合掌(全)
◯当山中興快範上人書
『國分寺中興基録』 を読む⑥
『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)
「一、百拾三匁 てうの初(手斧初(ちようなはじ)め、おのはじめ)入用
餅米 酒 祝銀 万事
一、四拾七匁弐分 本堂荒壁日用
一、百参拾弐匁五分 棟上げ入用大工祝銀共に
一、百四拾八匁 門 大工ふち方
同作領 くぎ板代 万事
一、四拾九匁四分 本堂中ぬり 芝居安左右衞門ぬり
ふち方 共
作領共に
一、弐拾弐匁六分 同土仕手伝人 半兵衛に渡す
ふち方作領共に
一、拾七匁四分五り 白壁 合物 酒 油
ふのり かみすさ
一、四拾六匁 上ぬり ふち方
作領 同土仕半兵衛共に
一、拾九匁七分 本堂軒裏ぬり たん にかわ
さけ代共に
一、弐拾三匁弐分 本堂地祭諸事入用
一、百参匁八分五り 御入仏入用 ふち方 万事
一、拾八匁九分 同時餅米三十
石六拾三匁かへ
一、四拾八匁八分八り 本堂 地形メ 木やり弐人
同はばらつき
本石突き共に日用礼銀
ふち方 万事
一、壱貫四百目 大工請取前本堂敷板迠
一、三拾目壱分五り 本堂造作大工やといの分
ふち方万事
惣合七貫九百五拾九匁八り 本堂入用諸事
外に
一、壱貫六百八拾九匁弐分
内 壱貫五百六拾四匁五分 諸尊造立代
百弐拾四匁七分 堂佛前の寄進物代
二口合 九貫六百四拾八匁弐分八り
右は本堂作事同諸尊建立入用書付件(くだん)の如し
元禄七年戌十二月八日迠
一、本堂建立相究材木願の時節書付の通無残御立山にて
御下し下され其の外山出の人夫の書付
一、山野山串かはな山材木は山野村より八句ぞうと言
たわ(撓・峠?)まで一同村人夫にて山出し
一、八句ぞうより当村は 三谷村 東中条村 西中条村
湯野村 徳田村 霜田村(箱田村?)
上御領村 八尋村 上竹田村
下竹田村
右十ヶ村の人夫にて御取り越し下され候
一、中条村の材木は 東中(条)村より国分寺迄出る人夫
東中条村・西中条村・道の上村
十九間や村・徳田村
右五ヶ村より御取り越し下され候
一、地形の地も御作事やより五拾人引きのとうづきやぐら
(胴突櫓)
参候は川南川北両村の人夫福山より取り越し下され候
一、同地も毎日四拾八人宛日数十六日穴(はばら)つき本石突共に
同上二人の木やり二人御作事屋より仰せ付けられ下され候
長右衛門
忠右衞門
人夫の数七百六拾八人内肝煎弐人与頭釣頭くみ合
一、三百四拾人は方々材木取
一、九拾五人は本堂立前人夫
一、参百拾九人は屋敷引人夫
都合千五百弐拾弐人
右は御公儀より下され候人夫
一、本堂引物尾引(おびき)の大木望(のぞみ)に付(つき)山奉行丹治弥市郎に仰せ付けられ方々御立山(おんたてやま)見分仕り候へ共之れ有るは難所人夫叶わず候故代弐百三拾目遣わされ川南村の材木買い此の材木は川北平野より寄進に当月十二日に当所両村より取り越し給わり候
一、諸事の御礼に御屋敷御老中御本〆(元締め)
中村治左衞門殿御作事屋御奉行郡方御奉行相勤められ申し候明る戌の春御勘定の節(せつ)也
戌の春
一、十六石御蔵前にて拝領定て本堂造営の扶持方大分入可申と仰せ上げられ候段御蔵入り米の内にて下され候
右本堂始終書付件の如し つづく
【國分寺通信】
新型コロナウイルス感染終息祈願のための朝晩のラタナ・スッタ読誦は五月二十五日で終えました。緊急事態宣言が解除され一段落を終えたのと、事の真相について考えるところがあり、祈願して済むものではないと理解したからです。
日本では今季三千人がインフルエンザで亡くなり、感染者は一千万人をはるかに超過しています。新型ウイルス感染症自体が重篤化し亡くなられた人は、はたして何人おられるでしょうか。人との接触を八割削減してまで感染予防をするほどのことだったのか冷静に考える必要があります。
九年前の震災の折に、私たちは特に原発事故の公の報道に対して、それは明らかに不誠実なものであったことを知りました。住民自らが本当の情報を得る難しさを知り、マスコミ報道をどのように聞き、判断すべきか。それは生死をもわける重要事項であったことを学びました。
今はたして本当の情報を私たちは手にしていると言えるでしょうか。マスコミに登場することのない立場にあっても、現状を憂え、真摯に本当のことを訴えている学者や医師の方々が世界中にいます。そうした免疫学病理学を専門とする先生方の声こそ、私たちは頭を白紙にして聞いてみる必要があると考えます。
ネットで「学びラウンジ」と検索してみてください。感染とは何か、PCR検査は本来いかなるものか、新型コロナウイルスは患者から分離されているのか、感染実験はなされたか、無症状者からの飛沫感染が本当にありえるのか、マスクや行動の自粛は必要なのか、ワクチンとは、こうした疑問に科学的にどう考えるべきかを優しく教えてくれています。
九年前をもう一度私たちは思い出す必要があります。ただ一つ違うことは、これは世界的な動きであることです。より深く考察しなければいけないことなのでしょう。
仏教は、自ら観察し理解を深め真実を知ることを教えています。何が真実か、これからの世界を生きるために私たち一人一人が取り組むべき課題だと思います。
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