備後國分寺だより 第69号(令和7年1月1日発行)
令和六年十月十三日
ふくやま美術館特別展
「ふくやまの仏さま」記念法話
『仏さまとの出会い方』
〈前編〉
國分寺の横山でございます。さて、今日は三十三年ぶりの明王院様の本尊御開帳にあわせて開催されました特別展「ふくやまの仏さま」に際しましての記念法話ということです。まずは、この特別展のために長期に亘り準備を重ねてこられた関係各位に敬意を表し御慰労申し上げたいと思います。
ところで、この三月に、私ども國分寺でも三十年ぶりに本尊様のご開帳をいたしております。福山コンベンションセンターの皆様のおかげで、新聞ラジオなど多くのメディアにて告知いただき、遠方からも沢山の皆様がお参りにお越し下さいました。遠くは名古屋、大阪、呉、広島などからもお越し下さり、改めて仏さまの人を引きつける力を再認識させられました。
そして、今日は、「仏さまとの出会い方」というお題を頂いております。結論を先に申し上げますと、特別な出会い方があるわけでもなく、皆様がそれぞれの思いで出会っていただければよいのではないかと思っております。ですが、今申したように、仏さまという存在には人々の心を引きつける力があります。それはどういうものなのかとたずねてまいりますと、出会い方ということも見えてくるのではないかと思います。
そこで、お尋ねいたしたいと思うのですが、皆様は、これまで、仏さまとどのような出会いをされてこられたでしょうか。子供の頃、お祖母さんのあとをついて仏壇の前に座り、何かよくわからなかったけれども仏さまと出会っていたという方もあるかもしれません。
実は、私の生まれた家には仏壇もなく、仏教などとは縁もゆかりもなく、勿論親戚にお寺さんがあるということもありませんでした。ですが、まったく仏教と縁の無かった私が、僧侶となり、その後沢山の仏さまと出会うことで、今こうして國分寺に住まわせていただいております。
そこで、まずは、私にとりましての仏さまとの出会いについて語らせていただき、それから仏さまについて、なぜ人々の心を引きつけるのかと考察を進めて参りたいと思います。
=================
私は東京の生まれでして、小さな家でしたので仏壇もなかったのです。ですが、小さな頃、浅草の浅草寺(せんそうじ)の境内を通って、父親の会社に連れられ行くときに、十八間四面の本堂前の大きな香炉の煙を身体に、行くたびに掛けられていたことを思い出します。
それから、やはり子供の頃、父方の祖母が、私の顔を見ると、おまえはお祖父さんの生まれ変わりだね、といつも言っておりました。何度も何度も言われたせいで、自然と人は生まれ変わるのだと頭に刷り込まれていたようです。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界をグルグル生まれ変わるという輪廻転生という生命観を前提とする仏教の第一関門が、このお祖母さんのお蔭ですんなりとクリアされていました。
また母親からは、小学生の頃ですが、周りの子たちに良くしてあげなさい、そうすれば回りまわって他の子からよくしてもらえるとか、汚い言葉を使ってはいけない、人を悪く言ってはいけないなどとよく言われました。それは、今思えば、仏教の縁起、因果応報という教えに繋がるものだったのかもしれません。
そして、中学の三年間、毎年のように、お祖母さん伯父さん同級生が亡くなるということがあり、それぞれお葬式に参加し、正確には高校一年の時にも中学の先生が亡くなり、やはり葬式に参列しております。
皆様も、大体10代20代で祖父母との別れを経験しているのではないかと思います。亡き人の菩提を願うとき、故人のことではなく、仏さまとの出会いもあるわけですが、その仏さまがその後の人生に、どのように関わってくるかということが大事なことではないかと思います。
私には、その後大学に入ってから、一冊の仏教書との出会いがありました。お釈迦様の仏教を専門とする増谷文雄先生と哲学者の梅原猛さんとの共著ですが、①『仏教の思想1知恵と慈悲・ブッダ』角川書店という本です。
この本との出会いが運命的に私の人生を変えていくことになります。この本で学んだことは、お釈迦様は神でもスーパーマンでもなく、人としての最高の人格を得られた方であり、私たちの理想であり、目標であるということでした。
そして、その内容は、明治時代にヨーロッパ経由の近代仏教学が伝来し、お釈迦様の実像を、漢訳ではないインドの原典から研究することによって明らかにしたものでした。このお釈迦様の原典による教えを初めから学ぶことが出来たことは私の仏教観に大きく影響を与えるものであったと思っています。
それ以来、毎日仏教書を読む日が続き、それから今日に至るまで、仏さまの教えを学ぶということが私の人生の中心を占めることになります。それは、教えの上から仏さまと出会うということだったのだと思います。
大学を卒業する頃には出家をしたかったのです。ですが、やっと二十六歳のとき西早稲田放生寺(ほうしょうじ)様にご縁をいただき高野山で高室院前官(たかむろいんぜんがん)様の弟子として出家得度を受け、翌年高野山専修学院に入りました。一年間七十人程の得度したばかりの修行僧たちと寮生活をし、お経を習い百日間の修行をして、寺院に住職する資格の得られる学校でした。
寳壽院(ほうじゅいん)というお寺の中の学校でしたが、その本堂の②本尊大日如来様には、毎朝のお勤めでお経を唱えていました。が特に、二学期に百日の修行の最後七日間断食することにしたとき、七十人のうち三四名ですが、加行(けぎょう)監督に何があっても自己責任とするという誓約書を書き、その後、私は一人本堂に入り、この本尊様に修行の無事成満を一心に祈願しました。
高野山の学院を卒業後、東京の放生寺に役僧として勤め、その間に資金を作り、仏教はインドに行かねば解らないというような切迫した気持ちから、初めてインドに行きました。それが二十九歳の時です。この時は、コルカタ、ブッダガヤ、リシケシ、ダラムサーラ、デリーと旅をしました。
インドでは沢山の神様仏様の御像を見て参りました。これは③ネパールのルンビニの摩耶夫人(まやぶにん)堂というお寺に祀られているご像ですが、ルンビニは誕生所ですから、お母さんと生まれたばかりのお釈迦様です。
みんなこのような雑な作りの物が多いのですが、現地インドの人たちはそんな御像にも敬虔(けいけん)に手を合わせ御供えをしていきます。それはお姿がどうこうではなく、まずは来世のために徳を積むために神仏に対する思いや行為こそ尊いものなのだと信じているからだと思います。
それから、最初にインドに行った次の年から二年続けて四国の歩き遍路を三十余日を掛けて二度、一四〇〇キロを歩きました。この間沢山の仏さまに出会いましたが、それらの中で一番印象が残るのは、④十二番焼山寺(しょうざんじ)に向かう山道の中で出会った弘法大師の修行行脚(あんぎゃ)姿のご像です。もやのかかった山道を登り、急な石段を上がっていくと前に大きなお大師様が居られ、思わず手を合わせていました。
その後、またインドに行くチャンスがあり、二度目にインドに参りましたとき、インドのベンガル仏教会という仏教教団(本部コルカタ)に御縁が出来ました。そしてその翌年、そこで再出家してインド僧になりました。これは⑤ウパサンパダーという南方仏教の得度式の後の写真です。コルカタの街中を流れるフーグリー河上の船の中に結界を作り、二人の受者のために十五、六人のインド僧が参加された受具足戒(じゅぐそくかい)式でした。この着ている袈裟はタイ製で、横275㎝縦190㎝のとても大きなものです。
◯[ベンガル仏教会について]
インドの仏教は十三世紀初頭に衰滅したとされています。その遙か前に八世紀頃からイスラム勢力がインドに侵入を繰り返すようになり、それを嫌った中インドのマガダ国の末裔(まつえい)とする仏教徒たちが東に避難を始めたとされ、たどり着いた先が今のバングラデシュのチッタゴンでした。隣国との様々な抗争に巻き込まれながら仏教徒として生きて、ムガール帝国の時代にはインド東部にまでその勢力が迫り、お寺はモスクにされお経も唱えられない時代が続き、仏教の伝統が失われた時期もありました。
その後十八世紀にベンガル地方は英国植民地となり、その軍隊に志願することで仏教徒は地位を回復し、十九世紀半ばビルマのサーラメーダ長老により受具足戒式が行われ仏教の伝統を復興しチッタゴンやダッカに仏教会を造り、カルカッタに移住していた仏教徒のためにクリパシャラン長老により一八九二年ベンガル仏教会が創立されました。セイロン仏教徒であるダルマパーラ師がインドの仏跡地の復興に活躍するのもこの時代のことでした。・・・
私は、それからインド僧として、バラナシの北10キロほどのサールナートという、お釈迦様が最初に説法を成功された、初転法輪(しょてんぽうりん)の聖地の近郊にあるお寺、法輪精舎(ほうりんしょうじゃ)に一年あまり滞在しました。そこには⑥ダメークストゥーパという大きな仏塔や僧院跡のある遺跡公園があり、塔は高さ43メートル周囲は百メートルほどはあるでしょうか。
その法輪精舎から遺跡公園までの三キロほどの道は、⑦田園風景の中に道の両脇に大きな街路樹が植えられ、牛が行き交い横になり、そこに人々が生活していて、まさにお釈迦様が歩かれているお姿を彷彿とするような道でした。お釈迦様がその先を歩いていると、その姿を思い描きながらいつも歩いていました。
サールナートの考古学博物館には⑧サールナートブッダと言われる説法の印を結ぶお釈迦様の御像が安置されていて、とても有名なものです。五世紀頃の作品で、高さが155㎝巾が87㎝です。インドのものとしては珍しくすばらしい造形の仏様です。レプリカが、明治時代にダルマパーラ師により造られる新しいお寺に祀られ、その堂内の壁画は野生司香雪(のうすこうせつ)画伯が釈迦の一生を描いたものとして知られています。
そして、これは⑨釈迦四相です。誕生と成道(じょうどう)と初転法輪と涅槃の姿を表しています。これは正にお釈迦様の一生を塔に見立てたものです。
それから、インドの師匠が居られ、私も併せて一年程度暮らしていたベンガル仏教会のコルカタ本部の仏様についてご覧頂きますと、この⑩大きな真鍮のお釈迦様は一階の礼拝所の仏様です。これはミャンマーの仏像で、教団の歴史を感じさせる仏像です。毎朝のお勤めのときに拝んでいました。
こちらは⑪二階の本堂の本尊様です。どちらの仏像も、右手が膝を覆い指先が地に触れ、修行の真実なることを大地に証明してもらったことを示した触地印(そくちいん)のお釈迦様・成道仏です。
そしてこちらは⑫創立者クリパシャラン大長老の石像です。
インドではこのような仏様方を礼拝し暮らしていました。この間、日本に帰りますと、放生寺に居候させて貰いながら、スリランカ仏教の長老に、親しく仏教の基本や今ではマインドフルネスと言われる瞑想法について、トータルにしますとかなりの時間になりますが、学ばせていただきました。
そうしてこの大きな袈裟をまとって、インド僧として都合三年半ほど、インドと日本を往来していました。ですが、コルカタでマラリアに二年続けて感染してしまい、健康の不安もあって捨戒して帰国し、日本の僧に復帰いたしました。
それから、東京深川の七福神の札所でもあった冬木弁天堂の堂守を三年ほどしています。出世弁天とでもいうのでしょうか、戦前は日本三弁天の一つ江ノ島の弁天様と同体の弁天像が祀られていたという御堂で拝んでおりましたら、倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)様が御縁を繋いでくださり、福山に参りました。
國分寺では⑬御本尊・藥師如来様に毎朝仏飯御茶湯御経をお供えしています。・・・つづく
(当日はプロジェクターで、丸数字の写真をご覧いただきながらお話をいたしました)
十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄
『十善の法話』 下
十善を行じて四恩(しおん)に報いるべき事
私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。
そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。
そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。
さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。
我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。
このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。
このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。
十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事
今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。
どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。
また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。
世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。
それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。
今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。
ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。
よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。
もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。
そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。
さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。
自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。
ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳(いんとく)と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔(はつろさんげ)と言うのです。
例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。
善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。
これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫(いちごう)も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。
よって律の偈にも、「たとえ百劫(ひゃっこう)という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。
律蔵(りつぞう)の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。
それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。
よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随(したが)いついていくものはありません。
大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途(めいど)に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨(さまよっ)って死者のいく黄泉(こうせん)に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。
それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。
ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。
この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終(みょうじゅう)を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。
善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。
もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。
ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。 了
平成二十年三月二八日記
信楽峻麿(しがらきたかまろ)著(法蔵館)
『親鸞とその思想』を読んで
著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方です。しかし、今日その宗門からは異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだそうです。
しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者先生です。目の前の利益や地位を優先して、自分の考え方や信じるものをまげてまで、いい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もですが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思えるのです。
この本は、先生の四回の講演を本にしたものです。この本を読むと、親鸞さんという人は、本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した人に思えてきます。
非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではありますが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた人のようです。
極楽往生と言い、浄土教とは、みな死後の往生を願い、疑いを差し挟むことなく信じることだという思い込みがあります。しかし、親鸞さんは、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにあるとして、おのれの生き方を振り返り、誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわったのだといいます。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるというのです。
ですから、親鸞さんの説く信とは、阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではなく、煩悩のまま何も自分を変えることなく、ただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではありません。
きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだというのです。
ここで先生は『倶舎論(くしゃろん)』における信の捉え方を記述されるのですが、ようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのです。
ですから、往生という言葉の意味も、当然のことながら、普通私たちが考える往生とはわけが違ってきます。往生とは往いて生きることをいうとあります。ですから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならないというのです。極楽もまだ輪廻の中、ということなのです。
さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われています。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎない、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということなのだとあります。
寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎないということです。
つまりは、すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということなのです。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるというのです。
ですから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であらねばならないと説かれています。
縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではなく、浄土に生まれなければ仏にならないということなのですから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになります。
私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しないのです。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのですから、この信心ということこそがもっとも大切なことになります。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだということです。
ですから、他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではありません。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われています。
自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではありません。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事、事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだというのです。
さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされています。
おそらくこの信心が決定(けつじょう)したならば念仏は一度でも結構ということなのでしょう。回数は問題なのではありません。念仏が大切なのでもありません。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なのであるということです。
だからこそ真宗と言われたのでありましょう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではないでしょうか。
最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励しています。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばなりません。それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われるのです。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられます。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したいと思います。
今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思えます。
寄稿 S様 (令和六年六月記)
『信楽先生のご本で心のゆとりを』
突然ですが、私の子供の頃はほとんどの家庭は貧乏でしたが、幸せを感じながら生活をしていました。何が幸せだったのか考えても何もなく、家族が仲よく助け合いありがとうの気持ちでほんわかと過ごしているだけです。ご近所も同じようでした。今は子供たちも成長し夫婦二人で年金暮らしですが、お友達や趣味などに恵まれ幸せに過ごしておりますが、何故か子供の頃の幸せ感が懐かしいのです。
以前より新聞・テレビのニュースなどの事件・事故の信じられないような人の行いなどを思う度、何十年かの歳月で人間が変わってしまったのかと思っておりました。でも、人間は簡単には変われません。心が変わったんだと思うようになりました。
國分寺でのお話会(仏教懇話会)やそこにともに参加している友人の振る舞いなどを見て、ひとつ心を穏やかに癒やすのに大切なものが宗教があげられると思っていました。そう思っていましたところ、信楽峻麿先生の『親鸞とその思想』(法蔵館刊)の「現代社会と親鸞の思想」(一頁から四〇頁)を読ませて貰い、時代が変わり価値観が違っても心の持ち方、考え方が大切だとわかりました。
「物質中心の生きざまが強くなり、精神的なものが失われていきつつある。人間の心がやせ細っている」
「宗教は、人間の悲しみ悩み苦しみは時代によって変わっていくが、それを癒やす為の働きがある」
「人間だけ恥ずかしいという心を持っている。またありがとうと言える心も人間だけ、だから向上心が生まれる」
「一人では生きていけない、親の思い・世間の皆様のお蔭、また自分も誰かを思い、お蔭様と思われている」
「仏教の根本原理は現実の人間が理想の人間に成長していくこと、これはお釈迦様の教えです」
そして、今年七十七になる私にできることは何でしょうか。
國分寺でのお話会でのお勉強、皆様とのおしゃべりやご本も紹介されたりお借りしたりして、向上心も少しは残っております。子供の頃より明治生まれの父母より「感謝」しながら生活しなければいけない、「徳」を積まなければいけないと言われておりました。これからも父母の教えを忘れずに、皆様の手助けを借りながら「理想の人間」に一歩でも近づけるよう頑張ろうと思っております。
最後に、娘より「まだまだ七十七歳では長寿の御祝いなんかできないわよ」と言われました。ですが、世の中の子供たちにお婆ちゃんからお願いです。未来を築くのはあなた達です。どうか自分の周りの人や物に感謝しながら、小さな感動を一杯して心豊かに育って欲しいです。ほんわかとした幸せが待っていますよ。
國分寺様には、お話会、本の紹介など、このような機会を下さりありがたく思っています。奥さんのおいしい御茶も楽しみの一つです。感謝
【國分寺通信】 謹しんで新春のお慶びを申し上げます
『彼国(かのくに)の 池の蓮(はちす)の 上ならで
浮世(うきよ)の中の 名こそおしけれ』 (慈雲尊者和歌集より)
この世には名を留めることもせず、彼の国つまり弥陀の浄土へ身罷ることを待っている人があるという。けれども、この世ですべきこともせずに、彼の世で蓮台に上って、なんの意味があろうか、という解釈となるでしょうか。短い限られた人生で、しっかりと自らの役割を生き、名を汚すことなく、記憶に留められるような生き方をせよと言われているようです。自分のため周りの人たちのため、自らが生きた証をしっかりと残す今を生きてまいりたいと思います。
◯本号一頁から六頁まで掲載しました特別展「ふくやまの仏さま」記念法話は、昨年十月十三日日曜日午後二時から、ふくやま美術館一階ホールにて定員百名のところ百三十五人もの皆様がご来場下さり、熱心にご傾聴下さいました。寺院法要後の法話は何度も経験しておりましたが、美術館では初めての法話となりました。法話はプロジェクターで写真をご覧いただきながらの話となり予定の一時間を超え、さらに質疑応答を終えましたのは三時半を過ぎておりました。貴重な機会を与えてくださいました、ふくやま美術館学芸課並びに福山市文化振興課の皆様に深く感謝申し上げます。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村
令和六年十月十三日
ふくやま美術館特別展
「ふくやまの仏さま」記念法話
『仏さまとの出会い方』
〈前編〉
國分寺の横山でございます。さて、今日は三十三年ぶりの明王院様の本尊御開帳にあわせて開催されました特別展「ふくやまの仏さま」に際しましての記念法話ということです。まずは、この特別展のために長期に亘り準備を重ねてこられた関係各位に敬意を表し御慰労申し上げたいと思います。
ところで、この三月に、私ども國分寺でも三十年ぶりに本尊様のご開帳をいたしております。福山コンベンションセンターの皆様のおかげで、新聞ラジオなど多くのメディアにて告知いただき、遠方からも沢山の皆様がお参りにお越し下さいました。遠くは名古屋、大阪、呉、広島などからもお越し下さり、改めて仏さまの人を引きつける力を再認識させられました。
そして、今日は、「仏さまとの出会い方」というお題を頂いております。結論を先に申し上げますと、特別な出会い方があるわけでもなく、皆様がそれぞれの思いで出会っていただければよいのではないかと思っております。ですが、今申したように、仏さまという存在には人々の心を引きつける力があります。それはどういうものなのかとたずねてまいりますと、出会い方ということも見えてくるのではないかと思います。
そこで、お尋ねいたしたいと思うのですが、皆様は、これまで、仏さまとどのような出会いをされてこられたでしょうか。子供の頃、お祖母さんのあとをついて仏壇の前に座り、何かよくわからなかったけれども仏さまと出会っていたという方もあるかもしれません。
実は、私の生まれた家には仏壇もなく、仏教などとは縁もゆかりもなく、勿論親戚にお寺さんがあるということもありませんでした。ですが、まったく仏教と縁の無かった私が、僧侶となり、その後沢山の仏さまと出会うことで、今こうして國分寺に住まわせていただいております。
そこで、まずは、私にとりましての仏さまとの出会いについて語らせていただき、それから仏さまについて、なぜ人々の心を引きつけるのかと考察を進めて参りたいと思います。
=================
私は東京の生まれでして、小さな家でしたので仏壇もなかったのです。ですが、小さな頃、浅草の浅草寺(せんそうじ)の境内を通って、父親の会社に連れられ行くときに、十八間四面の本堂前の大きな香炉の煙を身体に、行くたびに掛けられていたことを思い出します。
それから、やはり子供の頃、父方の祖母が、私の顔を見ると、おまえはお祖父さんの生まれ変わりだね、といつも言っておりました。何度も何度も言われたせいで、自然と人は生まれ変わるのだと頭に刷り込まれていたようです。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界をグルグル生まれ変わるという輪廻転生という生命観を前提とする仏教の第一関門が、このお祖母さんのお蔭ですんなりとクリアされていました。
また母親からは、小学生の頃ですが、周りの子たちに良くしてあげなさい、そうすれば回りまわって他の子からよくしてもらえるとか、汚い言葉を使ってはいけない、人を悪く言ってはいけないなどとよく言われました。それは、今思えば、仏教の縁起、因果応報という教えに繋がるものだったのかもしれません。
そして、中学の三年間、毎年のように、お祖母さん伯父さん同級生が亡くなるということがあり、それぞれお葬式に参加し、正確には高校一年の時にも中学の先生が亡くなり、やはり葬式に参列しております。
皆様も、大体10代20代で祖父母との別れを経験しているのではないかと思います。亡き人の菩提を願うとき、故人のことではなく、仏さまとの出会いもあるわけですが、その仏さまがその後の人生に、どのように関わってくるかということが大事なことではないかと思います。
私には、その後大学に入ってから、一冊の仏教書との出会いがありました。お釈迦様の仏教を専門とする増谷文雄先生と哲学者の梅原猛さんとの共著ですが、①『仏教の思想1知恵と慈悲・ブッダ』角川書店という本です。
この本との出会いが運命的に私の人生を変えていくことになります。この本で学んだことは、お釈迦様は神でもスーパーマンでもなく、人としての最高の人格を得られた方であり、私たちの理想であり、目標であるということでした。
そして、その内容は、明治時代にヨーロッパ経由の近代仏教学が伝来し、お釈迦様の実像を、漢訳ではないインドの原典から研究することによって明らかにしたものでした。このお釈迦様の原典による教えを初めから学ぶことが出来たことは私の仏教観に大きく影響を与えるものであったと思っています。
それ以来、毎日仏教書を読む日が続き、それから今日に至るまで、仏さまの教えを学ぶということが私の人生の中心を占めることになります。それは、教えの上から仏さまと出会うということだったのだと思います。
大学を卒業する頃には出家をしたかったのです。ですが、やっと二十六歳のとき西早稲田放生寺(ほうしょうじ)様にご縁をいただき高野山で高室院前官(たかむろいんぜんがん)様の弟子として出家得度を受け、翌年高野山専修学院に入りました。一年間七十人程の得度したばかりの修行僧たちと寮生活をし、お経を習い百日間の修行をして、寺院に住職する資格の得られる学校でした。
寳壽院(ほうじゅいん)というお寺の中の学校でしたが、その本堂の②本尊大日如来様には、毎朝のお勤めでお経を唱えていました。が特に、二学期に百日の修行の最後七日間断食することにしたとき、七十人のうち三四名ですが、加行(けぎょう)監督に何があっても自己責任とするという誓約書を書き、その後、私は一人本堂に入り、この本尊様に修行の無事成満を一心に祈願しました。
高野山の学院を卒業後、東京の放生寺に役僧として勤め、その間に資金を作り、仏教はインドに行かねば解らないというような切迫した気持ちから、初めてインドに行きました。それが二十九歳の時です。この時は、コルカタ、ブッダガヤ、リシケシ、ダラムサーラ、デリーと旅をしました。
インドでは沢山の神様仏様の御像を見て参りました。これは③ネパールのルンビニの摩耶夫人(まやぶにん)堂というお寺に祀られているご像ですが、ルンビニは誕生所ですから、お母さんと生まれたばかりのお釈迦様です。
みんなこのような雑な作りの物が多いのですが、現地インドの人たちはそんな御像にも敬虔(けいけん)に手を合わせ御供えをしていきます。それはお姿がどうこうではなく、まずは来世のために徳を積むために神仏に対する思いや行為こそ尊いものなのだと信じているからだと思います。
それから、最初にインドに行った次の年から二年続けて四国の歩き遍路を三十余日を掛けて二度、一四〇〇キロを歩きました。この間沢山の仏さまに出会いましたが、それらの中で一番印象が残るのは、④十二番焼山寺(しょうざんじ)に向かう山道の中で出会った弘法大師の修行行脚(あんぎゃ)姿のご像です。もやのかかった山道を登り、急な石段を上がっていくと前に大きなお大師様が居られ、思わず手を合わせていました。
その後、またインドに行くチャンスがあり、二度目にインドに参りましたとき、インドのベンガル仏教会という仏教教団(本部コルカタ)に御縁が出来ました。そしてその翌年、そこで再出家してインド僧になりました。これは⑤ウパサンパダーという南方仏教の得度式の後の写真です。コルカタの街中を流れるフーグリー河上の船の中に結界を作り、二人の受者のために十五、六人のインド僧が参加された受具足戒(じゅぐそくかい)式でした。この着ている袈裟はタイ製で、横275㎝縦190㎝のとても大きなものです。
◯[ベンガル仏教会について]
インドの仏教は十三世紀初頭に衰滅したとされています。その遙か前に八世紀頃からイスラム勢力がインドに侵入を繰り返すようになり、それを嫌った中インドのマガダ国の末裔(まつえい)とする仏教徒たちが東に避難を始めたとされ、たどり着いた先が今のバングラデシュのチッタゴンでした。隣国との様々な抗争に巻き込まれながら仏教徒として生きて、ムガール帝国の時代にはインド東部にまでその勢力が迫り、お寺はモスクにされお経も唱えられない時代が続き、仏教の伝統が失われた時期もありました。
その後十八世紀にベンガル地方は英国植民地となり、その軍隊に志願することで仏教徒は地位を回復し、十九世紀半ばビルマのサーラメーダ長老により受具足戒式が行われ仏教の伝統を復興しチッタゴンやダッカに仏教会を造り、カルカッタに移住していた仏教徒のためにクリパシャラン長老により一八九二年ベンガル仏教会が創立されました。セイロン仏教徒であるダルマパーラ師がインドの仏跡地の復興に活躍するのもこの時代のことでした。・・・
私は、それからインド僧として、バラナシの北10キロほどのサールナートという、お釈迦様が最初に説法を成功された、初転法輪(しょてんぽうりん)の聖地の近郊にあるお寺、法輪精舎(ほうりんしょうじゃ)に一年あまり滞在しました。そこには⑥ダメークストゥーパという大きな仏塔や僧院跡のある遺跡公園があり、塔は高さ43メートル周囲は百メートルほどはあるでしょうか。
その法輪精舎から遺跡公園までの三キロほどの道は、⑦田園風景の中に道の両脇に大きな街路樹が植えられ、牛が行き交い横になり、そこに人々が生活していて、まさにお釈迦様が歩かれているお姿を彷彿とするような道でした。お釈迦様がその先を歩いていると、その姿を思い描きながらいつも歩いていました。
サールナートの考古学博物館には⑧サールナートブッダと言われる説法の印を結ぶお釈迦様の御像が安置されていて、とても有名なものです。五世紀頃の作品で、高さが155㎝巾が87㎝です。インドのものとしては珍しくすばらしい造形の仏様です。レプリカが、明治時代にダルマパーラ師により造られる新しいお寺に祀られ、その堂内の壁画は野生司香雪(のうすこうせつ)画伯が釈迦の一生を描いたものとして知られています。
そして、これは⑨釈迦四相です。誕生と成道(じょうどう)と初転法輪と涅槃の姿を表しています。これは正にお釈迦様の一生を塔に見立てたものです。
それから、インドの師匠が居られ、私も併せて一年程度暮らしていたベンガル仏教会のコルカタ本部の仏様についてご覧頂きますと、この⑩大きな真鍮のお釈迦様は一階の礼拝所の仏様です。これはミャンマーの仏像で、教団の歴史を感じさせる仏像です。毎朝のお勤めのときに拝んでいました。
こちらは⑪二階の本堂の本尊様です。どちらの仏像も、右手が膝を覆い指先が地に触れ、修行の真実なることを大地に証明してもらったことを示した触地印(そくちいん)のお釈迦様・成道仏です。
そしてこちらは⑫創立者クリパシャラン大長老の石像です。
インドではこのような仏様方を礼拝し暮らしていました。この間、日本に帰りますと、放生寺に居候させて貰いながら、スリランカ仏教の長老に、親しく仏教の基本や今ではマインドフルネスと言われる瞑想法について、トータルにしますとかなりの時間になりますが、学ばせていただきました。
そうしてこの大きな袈裟をまとって、インド僧として都合三年半ほど、インドと日本を往来していました。ですが、コルカタでマラリアに二年続けて感染してしまい、健康の不安もあって捨戒して帰国し、日本の僧に復帰いたしました。
それから、東京深川の七福神の札所でもあった冬木弁天堂の堂守を三年ほどしています。出世弁天とでもいうのでしょうか、戦前は日本三弁天の一つ江ノ島の弁天様と同体の弁天像が祀られていたという御堂で拝んでおりましたら、倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)様が御縁を繋いでくださり、福山に参りました。
國分寺では⑬御本尊・藥師如来様に毎朝仏飯御茶湯御経をお供えしています。・・・つづく
(当日はプロジェクターで、丸数字の写真をご覧いただきながらお話をいたしました)
十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄
『十善の法話』 下
十善を行じて四恩(しおん)に報いるべき事
私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。
そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。
そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。
さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。
我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。
このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。
このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。
十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事
今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。
どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。
また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。
世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。
それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。
今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。
ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。
よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。
もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。
そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。
さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。
自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。
ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳(いんとく)と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔(はつろさんげ)と言うのです。
例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。
善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。
これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫(いちごう)も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。
よって律の偈にも、「たとえ百劫(ひゃっこう)という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。
律蔵(りつぞう)の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。
それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。
よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随(したが)いついていくものはありません。
大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途(めいど)に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨(さまよっ)って死者のいく黄泉(こうせん)に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。
それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。
ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。
この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終(みょうじゅう)を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。
善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。
もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。
ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。 了
平成二十年三月二八日記
信楽峻麿(しがらきたかまろ)著(法蔵館)
『親鸞とその思想』を読んで
著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方です。しかし、今日その宗門からは異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだそうです。
しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者先生です。目の前の利益や地位を優先して、自分の考え方や信じるものをまげてまで、いい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もですが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思えるのです。
この本は、先生の四回の講演を本にしたものです。この本を読むと、親鸞さんという人は、本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した人に思えてきます。
非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではありますが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた人のようです。
極楽往生と言い、浄土教とは、みな死後の往生を願い、疑いを差し挟むことなく信じることだという思い込みがあります。しかし、親鸞さんは、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにあるとして、おのれの生き方を振り返り、誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわったのだといいます。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるというのです。
ですから、親鸞さんの説く信とは、阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではなく、煩悩のまま何も自分を変えることなく、ただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではありません。
きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだというのです。
ここで先生は『倶舎論(くしゃろん)』における信の捉え方を記述されるのですが、ようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのです。
ですから、往生という言葉の意味も、当然のことながら、普通私たちが考える往生とはわけが違ってきます。往生とは往いて生きることをいうとあります。ですから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならないというのです。極楽もまだ輪廻の中、ということなのです。
さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われています。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎない、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということなのだとあります。
寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎないということです。
つまりは、すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということなのです。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるというのです。
ですから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であらねばならないと説かれています。
縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではなく、浄土に生まれなければ仏にならないということなのですから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになります。
私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しないのです。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのですから、この信心ということこそがもっとも大切なことになります。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだということです。
ですから、他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではありません。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われています。
自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではありません。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事、事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだというのです。
さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされています。
おそらくこの信心が決定(けつじょう)したならば念仏は一度でも結構ということなのでしょう。回数は問題なのではありません。念仏が大切なのでもありません。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なのであるということです。
だからこそ真宗と言われたのでありましょう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではないでしょうか。
最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励しています。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばなりません。それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われるのです。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられます。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したいと思います。
今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思えます。
寄稿 S様 (令和六年六月記)
『信楽先生のご本で心のゆとりを』
突然ですが、私の子供の頃はほとんどの家庭は貧乏でしたが、幸せを感じながら生活をしていました。何が幸せだったのか考えても何もなく、家族が仲よく助け合いありがとうの気持ちでほんわかと過ごしているだけです。ご近所も同じようでした。今は子供たちも成長し夫婦二人で年金暮らしですが、お友達や趣味などに恵まれ幸せに過ごしておりますが、何故か子供の頃の幸せ感が懐かしいのです。
以前より新聞・テレビのニュースなどの事件・事故の信じられないような人の行いなどを思う度、何十年かの歳月で人間が変わってしまったのかと思っておりました。でも、人間は簡単には変われません。心が変わったんだと思うようになりました。
國分寺でのお話会(仏教懇話会)やそこにともに参加している友人の振る舞いなどを見て、ひとつ心を穏やかに癒やすのに大切なものが宗教があげられると思っていました。そう思っていましたところ、信楽峻麿先生の『親鸞とその思想』(法蔵館刊)の「現代社会と親鸞の思想」(一頁から四〇頁)を読ませて貰い、時代が変わり価値観が違っても心の持ち方、考え方が大切だとわかりました。
「物質中心の生きざまが強くなり、精神的なものが失われていきつつある。人間の心がやせ細っている」
「宗教は、人間の悲しみ悩み苦しみは時代によって変わっていくが、それを癒やす為の働きがある」
「人間だけ恥ずかしいという心を持っている。またありがとうと言える心も人間だけ、だから向上心が生まれる」
「一人では生きていけない、親の思い・世間の皆様のお蔭、また自分も誰かを思い、お蔭様と思われている」
「仏教の根本原理は現実の人間が理想の人間に成長していくこと、これはお釈迦様の教えです」
そして、今年七十七になる私にできることは何でしょうか。
國分寺でのお話会でのお勉強、皆様とのおしゃべりやご本も紹介されたりお借りしたりして、向上心も少しは残っております。子供の頃より明治生まれの父母より「感謝」しながら生活しなければいけない、「徳」を積まなければいけないと言われておりました。これからも父母の教えを忘れずに、皆様の手助けを借りながら「理想の人間」に一歩でも近づけるよう頑張ろうと思っております。
最後に、娘より「まだまだ七十七歳では長寿の御祝いなんかできないわよ」と言われました。ですが、世の中の子供たちにお婆ちゃんからお願いです。未来を築くのはあなた達です。どうか自分の周りの人や物に感謝しながら、小さな感動を一杯して心豊かに育って欲しいです。ほんわかとした幸せが待っていますよ。
國分寺様には、お話会、本の紹介など、このような機会を下さりありがたく思っています。奥さんのおいしい御茶も楽しみの一つです。感謝
【國分寺通信】 謹しんで新春のお慶びを申し上げます
『彼国(かのくに)の 池の蓮(はちす)の 上ならで
浮世(うきよ)の中の 名こそおしけれ』 (慈雲尊者和歌集より)
この世には名を留めることもせず、彼の国つまり弥陀の浄土へ身罷ることを待っている人があるという。けれども、この世ですべきこともせずに、彼の世で蓮台に上って、なんの意味があろうか、という解釈となるでしょうか。短い限られた人生で、しっかりと自らの役割を生き、名を汚すことなく、記憶に留められるような生き方をせよと言われているようです。自分のため周りの人たちのため、自らが生きた証をしっかりと残す今を生きてまいりたいと思います。
◯本号一頁から六頁まで掲載しました特別展「ふくやまの仏さま」記念法話は、昨年十月十三日日曜日午後二時から、ふくやま美術館一階ホールにて定員百名のところ百三十五人もの皆様がご来場下さり、熱心にご傾聴下さいました。寺院法要後の法話は何度も経験しておりましたが、美術館では初めての法話となりました。法話はプロジェクターで写真をご覧いただきながらの話となり予定の一時間を超え、さらに質疑応答を終えましたのは三時半を過ぎておりました。貴重な機会を与えてくださいました、ふくやま美術館学芸課並びに福山市文化振興課の皆様に深く感謝申し上げます。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村