住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第69号(令和7年1月1日発行)

2024年12月19日 07時09分02秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第69号(令和7年1月1日発行)




令和六年十月十三日 
 ふくやま美術館特別展
「ふくやまの仏さま」記念法話
『仏さまとの出会い方』
〈前編〉


國分寺の横山でございます。さて、今日は三十三年ぶりの明王院様の本尊御開帳にあわせて開催されました特別展「ふくやまの仏さま」に際しましての記念法話ということです。まずは、この特別展のために長期に亘り準備を重ねてこられた関係各位に敬意を表し御慰労申し上げたいと思います。

ところで、この三月に、私ども國分寺でも三十年ぶりに本尊様のご開帳をいたしております。福山コンベンションセンターの皆様のおかげで、新聞ラジオなど多くのメディアにて告知いただき、遠方からも沢山の皆様がお参りにお越し下さいました。遠くは名古屋、大阪、呉、広島などからもお越し下さり、改めて仏さまの人を引きつける力を再認識させられました。

そして、今日は、「仏さまとの出会い方」というお題を頂いております。結論を先に申し上げますと、特別な出会い方があるわけでもなく、皆様がそれぞれの思いで出会っていただければよいのではないかと思っております。ですが、今申したように、仏さまという存在には人々の心を引きつける力があります。それはどういうものなのかとたずねてまいりますと、出会い方ということも見えてくるのではないかと思います。

そこで、お尋ねいたしたいと思うのですが、皆様は、これまで、仏さまとどのような出会いをされてこられたでしょうか。子供の頃、お祖母さんのあとをついて仏壇の前に座り、何かよくわからなかったけれども仏さまと出会っていたという方もあるかもしれません。

実は、私の生まれた家には仏壇もなく、仏教などとは縁もゆかりもなく、勿論親戚にお寺さんがあるということもありませんでした。ですが、まったく仏教と縁の無かった私が、僧侶となり、その後沢山の仏さまと出会うことで、今こうして國分寺に住まわせていただいております。

そこで、まずは、私にとりましての仏さまとの出会いについて語らせていただき、それから仏さまについて、なぜ人々の心を引きつけるのかと考察を進めて参りたいと思います。
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私は東京の生まれでして、小さな家でしたので仏壇もなかったのです。ですが、小さな頃、浅草の浅草寺(せんそうじ)の境内を通って、父親の会社に連れられ行くときに、十八間四面の本堂前の大きな香炉の煙を身体に、行くたびに掛けられていたことを思い出します。

それから、やはり子供の頃、父方の祖母が、私の顔を見ると、おまえはお祖父さんの生まれ変わりだね、といつも言っておりました。何度も何度も言われたせいで、自然と人は生まれ変わるのだと頭に刷り込まれていたようです。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界をグルグル生まれ変わるという輪廻転生という生命観を前提とする仏教の第一関門が、このお祖母さんのお蔭ですんなりとクリアされていました。

また母親からは、小学生の頃ですが、周りの子たちに良くしてあげなさい、そうすれば回りまわって他の子からよくしてもらえるとか、汚い言葉を使ってはいけない、人を悪く言ってはいけないなどとよく言われました。それは、今思えば、仏教の縁起、因果応報という教えに繋がるものだったのかもしれません。

そして、中学の三年間、毎年のように、お祖母さん伯父さん同級生が亡くなるということがあり、それぞれお葬式に参加し、正確には高校一年の時にも中学の先生が亡くなり、やはり葬式に参列しております。

皆様も、大体10代20代で祖父母との別れを経験しているのではないかと思います。亡き人の菩提を願うとき、故人のことではなく、仏さまとの出会いもあるわけですが、その仏さまがその後の人生に、どのように関わってくるかということが大事なことではないかと思います。

私には、その後大学に入ってから、一冊の仏教書との出会いがありました。お釈迦様の仏教を専門とする増谷文雄先生と哲学者の梅原猛さんとの共著ですが、①『仏教の思想1知恵と慈悲・ブッダ』角川書店という本です。

この本との出会いが運命的に私の人生を変えていくことになります。この本で学んだことは、お釈迦様は神でもスーパーマンでもなく、人としての最高の人格を得られた方であり、私たちの理想であり、目標であるということでした。

そして、その内容は、明治時代にヨーロッパ経由の近代仏教学が伝来し、お釈迦様の実像を、漢訳ではないインドの原典から研究することによって明らかにしたものでした。このお釈迦様の原典による教えを初めから学ぶことが出来たことは私の仏教観に大きく影響を与えるものであったと思っています。

それ以来、毎日仏教書を読む日が続き、それから今日に至るまで、仏さまの教えを学ぶということが私の人生の中心を占めることになります。それは、教えの上から仏さまと出会うということだったのだと思います。

大学を卒業する頃には出家をしたかったのです。ですが、やっと二十六歳のとき西早稲田放生寺(ほうしょうじ)様にご縁をいただき高野山で高室院前官(たかむろいんぜんがん)様の弟子として出家得度を受け、翌年高野山専修学院に入りました。一年間七十人程の得度したばかりの修行僧たちと寮生活をし、お経を習い百日間の修行をして、寺院に住職する資格の得られる学校でした。

寳壽院(ほうじゅいん)というお寺の中の学校でしたが、その本堂の②本尊大日如来様には、毎朝のお勤めでお経を唱えていました。が特に、二学期に百日の修行の最後七日間断食することにしたとき、七十人のうち三四名ですが、加行(けぎょう)監督に何があっても自己責任とするという誓約書を書き、その後、私は一人本堂に入り、この本尊様に修行の無事成満を一心に祈願しました。

高野山の学院を卒業後、東京の放生寺に役僧として勤め、その間に資金を作り、仏教はインドに行かねば解らないというような切迫した気持ちから、初めてインドに行きました。それが二十九歳の時です。この時は、コルカタ、ブッダガヤ、リシケシ、ダラムサーラ、デリーと旅をしました。

インドでは沢山の神様仏様の御像を見て参りました。これは③ネパールのルンビニの摩耶夫人(まやぶにん)堂というお寺に祀られているご像ですが、ルンビニは誕生所ですから、お母さんと生まれたばかりのお釈迦様です。

みんなこのような雑な作りの物が多いのですが、現地インドの人たちはそんな御像にも敬虔(けいけん)に手を合わせ御供えをしていきます。それはお姿がどうこうではなく、まずは来世のために徳を積むために神仏に対する思いや行為こそ尊いものなのだと信じているからだと思います。

それから、最初にインドに行った次の年から二年続けて四国の歩き遍路を三十余日を掛けて二度、一四〇〇キロを歩きました。この間沢山の仏さまに出会いましたが、それらの中で一番印象が残るのは、④十二番焼山寺(しょうざんじ)に向かう山道の中で出会った弘法大師の修行行脚(あんぎゃ)姿のご像です。もやのかかった山道を登り、急な石段を上がっていくと前に大きなお大師様が居られ、思わず手を合わせていました。

その後、またインドに行くチャンスがあり、二度目にインドに参りましたとき、インドのベンガル仏教会という仏教教団(本部コルカタ)に御縁が出来ました。そしてその翌年、そこで再出家してインド僧になりました。これは⑤ウパサンパダーという南方仏教の得度式の後の写真です。コルカタの街中を流れるフーグリー河上の船の中に結界を作り、二人の受者のために十五、六人のインド僧が参加された受具足戒(じゅぐそくかい)式でした。この着ている袈裟はタイ製で、横275㎝縦190㎝のとても大きなものです。

 ◯[ベンガル仏教会について]
インドの仏教は十三世紀初頭に衰滅したとされています。その遙か前に八世紀頃からイスラム勢力がインドに侵入を繰り返すようになり、それを嫌った中インドのマガダ国の末裔(まつえい)とする仏教徒たちが東に避難を始めたとされ、たどり着いた先が今のバングラデシュのチッタゴンでした。隣国との様々な抗争に巻き込まれながら仏教徒として生きて、ムガール帝国の時代にはインド東部にまでその勢力が迫り、お寺はモスクにされお経も唱えられない時代が続き、仏教の伝統が失われた時期もありました。

その後十八世紀にベンガル地方は英国植民地となり、その軍隊に志願することで仏教徒は地位を回復し、十九世紀半ばビルマのサーラメーダ長老により受具足戒式が行われ仏教の伝統を復興しチッタゴンやダッカに仏教会を造り、カルカッタに移住していた仏教徒のためにクリパシャラン長老により一八九二年ベンガル仏教会が創立されました。セイロン仏教徒であるダルマパーラ師がインドの仏跡地の復興に活躍するのもこの時代のことでした。・・・

私は、それからインド僧として、バラナシの北10キロほどのサールナートという、お釈迦様が最初に説法を成功された、初転法輪(しょてんぽうりん)の聖地の近郊にあるお寺、法輪精舎(ほうりんしょうじゃ)に一年あまり滞在しました。そこには⑥ダメークストゥーパという大きな仏塔や僧院跡のある遺跡公園があり、塔は高さ43メートル周囲は百メートルほどはあるでしょうか。

その法輪精舎から遺跡公園までの三キロほどの道は、⑦田園風景の中に道の両脇に大きな街路樹が植えられ、牛が行き交い横になり、そこに人々が生活していて、まさにお釈迦様が歩かれているお姿を彷彿とするような道でした。お釈迦様がその先を歩いていると、その姿を思い描きながらいつも歩いていました。

サールナートの考古学博物館には⑧サールナートブッダと言われる説法の印を結ぶお釈迦様の御像が安置されていて、とても有名なものです。五世紀頃の作品で、高さが155㎝巾が87㎝です。インドのものとしては珍しくすばらしい造形の仏様です。レプリカが、明治時代にダルマパーラ師により造られる新しいお寺に祀られ、その堂内の壁画は野生司香雪(のうすこうせつ)画伯が釈迦の一生を描いたものとして知られています。

そして、これは⑨釈迦四相です。誕生と成道(じょうどう)と初転法輪と涅槃の姿を表しています。これは正にお釈迦様の一生を塔に見立てたものです。

それから、インドの師匠が居られ、私も併せて一年程度暮らしていたベンガル仏教会のコルカタ本部の仏様についてご覧頂きますと、この⑩大きな真鍮のお釈迦様は一階の礼拝所の仏様です。これはミャンマーの仏像で、教団の歴史を感じさせる仏像です。毎朝のお勤めのときに拝んでいました。

こちらは⑪二階の本堂の本尊様です。どちらの仏像も、右手が膝を覆い指先が地に触れ、修行の真実なることを大地に証明してもらったことを示した触地印(そくちいん)のお釈迦様・成道仏です。

そしてこちらは⑫創立者クリパシャラン大長老の石像です。

インドではこのような仏様方を礼拝し暮らしていました。この間、日本に帰りますと、放生寺に居候させて貰いながら、スリランカ仏教の長老に、親しく仏教の基本や今ではマインドフルネスと言われる瞑想法について、トータルにしますとかなりの時間になりますが、学ばせていただきました。

そうしてこの大きな袈裟をまとって、インド僧として都合三年半ほど、インドと日本を往来していました。ですが、コルカタでマラリアに二年続けて感染してしまい、健康の不安もあって捨戒して帰国し、日本の僧に復帰いたしました。

それから、東京深川の七福神の札所でもあった冬木弁天堂の堂守を三年ほどしています。出世弁天とでもいうのでしょうか、戦前は日本三弁天の一つ江ノ島の弁天様と同体の弁天像が祀られていたという御堂で拝んでおりましたら、倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)様が御縁を繋いでくださり、福山に参りました。

國分寺では⑬御本尊・藥師如来様に毎朝仏飯御茶湯御経をお供えしています。・・・つづく
(当日はプロジェクターで、丸数字の写真をご覧いただきながらお話をいたしました)


十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄

『十善の法話』 下


十善を行じて四恩(しおん)に報いるべき事

私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。

そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。

そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。

さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。

我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。

このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。

このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。

十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事

今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。

どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。

また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。

世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。

それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。

今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。

ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。

よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。

もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。

そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。

さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。

自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。

ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳(いんとく)と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔(はつろさんげ)と言うのです。

例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。

善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。

これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫(いちごう)も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。

よって律の偈にも、「たとえ百劫(ひゃっこう)という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵(りつぞう)の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。

よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随(したが)いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途(めいど)に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨(さまよっ)って死者のいく黄泉(こうせん)に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。

それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。

ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終(みょうじゅう)を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。

善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。

ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。            了


平成二十年三月二八日記
信楽峻麿(しがらきたかまろ)著(法蔵館)
『親鸞とその思想』を読んで


著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方です。しかし、今日その宗門からは異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだそうです。

しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者先生です。目の前の利益や地位を優先して、自分の考え方や信じるものをまげてまで、いい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もですが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思えるのです。

この本は、先生の四回の講演を本にしたものです。この本を読むと、親鸞さんという人は、本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した人に思えてきます。

非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではありますが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた人のようです。

極楽往生と言い、浄土教とは、みな死後の往生を願い、疑いを差し挟むことなく信じることだという思い込みがあります。しかし、親鸞さんは、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにあるとして、おのれの生き方を振り返り、誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわったのだといいます。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるというのです。

ですから、親鸞さんの説く信とは、阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではなく、煩悩のまま何も自分を変えることなく、ただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではありません。

きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだというのです。

ここで先生は『倶舎論(くしゃろん)』における信の捉え方を記述されるのですが、ようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのです。

ですから、往生という言葉の意味も、当然のことながら、普通私たちが考える往生とはわけが違ってきます。往生とは往いて生きることをいうとあります。ですから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならないというのです。極楽もまだ輪廻の中、ということなのです。

さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われています。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎない、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということなのだとあります。

寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎないということです。

つまりは、すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということなのです。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるというのです。

ですから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であらねばならないと説かれています。

縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではなく、浄土に生まれなければ仏にならないということなのですから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになります。

私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しないのです。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのですから、この信心ということこそがもっとも大切なことになります。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだということです。

ですから、他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではありません。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われています。

自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではありません。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事、事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだというのです。

さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされています。

おそらくこの信心が決定(けつじょう)したならば念仏は一度でも結構ということなのでしょう。回数は問題なのではありません。念仏が大切なのでもありません。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なのであるということです。

だからこそ真宗と言われたのでありましょう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではないでしょうか。

最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励しています。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばなりません。それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われるのです。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられます。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したいと思います。

今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思えます。


寄稿 S様 (令和六年六月記)
『信楽先生のご本で心のゆとりを』


突然ですが、私の子供の頃はほとんどの家庭は貧乏でしたが、幸せを感じながら生活をしていました。何が幸せだったのか考えても何もなく、家族が仲よく助け合いありがとうの気持ちでほんわかと過ごしているだけです。ご近所も同じようでした。今は子供たちも成長し夫婦二人で年金暮らしですが、お友達や趣味などに恵まれ幸せに過ごしておりますが、何故か子供の頃の幸せ感が懐かしいのです。

以前より新聞・テレビのニュースなどの事件・事故の信じられないような人の行いなどを思う度、何十年かの歳月で人間が変わってしまったのかと思っておりました。でも、人間は簡単には変われません。心が変わったんだと思うようになりました。

國分寺でのお話会(仏教懇話会)やそこにともに参加している友人の振る舞いなどを見て、ひとつ心を穏やかに癒やすのに大切なものが宗教があげられると思っていました。そう思っていましたところ、信楽峻麿先生の『親鸞とその思想』(法蔵館刊)の「現代社会と親鸞の思想」(一頁から四〇頁)を読ませて貰い、時代が変わり価値観が違っても心の持ち方、考え方が大切だとわかりました。

 「物質中心の生きざまが強くなり、精神的なものが失われていきつつある。人間の心がやせ細っている」
 「宗教は、人間の悲しみ悩み苦しみは時代によって変わっていくが、それを癒やす為の働きがある」
 「人間だけ恥ずかしいという心を持っている。またありがとうと言える心も人間だけ、だから向上心が生まれる」
 「一人では生きていけない、親の思い・世間の皆様のお蔭、また自分も誰かを思い、お蔭様と思われている」
 「仏教の根本原理は現実の人間が理想の人間に成長していくこと、これはお釈迦様の教えです」

そして、今年七十七になる私にできることは何でしょうか。

國分寺でのお話会でのお勉強、皆様とのおしゃべりやご本も紹介されたりお借りしたりして、向上心も少しは残っております。子供の頃より明治生まれの父母より「感謝」しながら生活しなければいけない、「徳」を積まなければいけないと言われておりました。これからも父母の教えを忘れずに、皆様の手助けを借りながら「理想の人間」に一歩でも近づけるよう頑張ろうと思っております。

最後に、娘より「まだまだ七十七歳では長寿の御祝いなんかできないわよ」と言われました。ですが、世の中の子供たちにお婆ちゃんからお願いです。未来を築くのはあなた達です。どうか自分の周りの人や物に感謝しながら、小さな感動を一杯して心豊かに育って欲しいです。ほんわかとした幸せが待っていますよ。

國分寺様には、お話会、本の紹介など、このような機会を下さりありがたく思っています。奥さんのおいしい御茶も楽しみの一つです。感謝


【國分寺通信】 謹しんで新春のお慶びを申し上げます

『彼国(かのくに)の 池の蓮(はちす)の 上ならで 
浮世(うきよ)の中の 名こそおしけれ』
 (慈雲尊者和歌集より)

この世には名を留めることもせず、彼の国つまり弥陀の浄土へ身罷ることを待っている人があるという。けれども、この世ですべきこともせずに、彼の世で蓮台に上って、なんの意味があろうか、という解釈となるでしょうか。短い限られた人生で、しっかりと自らの役割を生き、名を汚すことなく、記憶に留められるような生き方をせよと言われているようです。自分のため周りの人たちのため、自らが生きた証をしっかりと残す今を生きてまいりたいと思います。

◯本号一頁から六頁まで掲載しました特別展「ふくやまの仏さま」記念法話は、昨年十月十三日日曜日午後二時から、ふくやま美術館一階ホールにて定員百名のところ百三十五人もの皆様がご来場下さり、熱心にご傾聴下さいました。寺院法要後の法話は何度も経験しておりましたが、美術館では初めての法話となりました。法話はプロジェクターで写真をご覧いただきながらの話となり予定の一時間を超え、さらに質疑応答を終えましたのは三時半を過ぎておりました。貴重な機会を与えてくださいました、ふくやま美術館学芸課並びに福山市文化振興課の皆様に深く感謝申し上げます。


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備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)

2024年07月22日 06時58分04秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)





三十年ぶりのご開帳の一日

三月三十一日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。

五時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。

午前八時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会(しゅえ)時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。

神辺結衆ご寺院はじめお寺様方全員お集まりになり、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために職衆(しきしゅう)みな色衣紋白(しきえもんじろ)帽子を着しました。

この日午前九時から午後五時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に九時から予定の涅槃会(ねはんえ)に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇(しゅみだん)に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤(らいはん)に進み、涅槃会勧請(かんじょう)の頭(とう)を発音(ほっとん)。総礼(そうらい)の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供(てんぐ)、祭文(さいもん)などが順に唱えられ、略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。

この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。

このあと、稚児行列のため、衲衣袍(のうえほう)服(ぶく)に着替え、檜扇(ひせん)、装束念珠(しょうぞくねんじゅ)を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒(かなぼう)持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺(ほら)の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。

本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して、塗香護身法、洒水(しゃすい)。前讃(ぜんさん)発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。

慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。

それから、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらい、ささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服(のうえほうぶく)に着替え、午後一時に入堂。

職衆が土砂加持法則(ほっそく)にしたがい声明(しょうみょう)を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法(こうみょうしんごんぼう)を修法しました。光明真言法において勧請(かんじょう)する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれているように感じられ誠に有り難たい法悦にひたり修法を終えました。

土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和三年十月十一月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。(四頁から一九頁参照)

最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、三時十五分頃散会となりました。

お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ御礼申し上げお見送りいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し、またの再会を約しました。その後五時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせて頂き、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった一日を語りつつ祝杯をあげました。

午後五時丁度再度参詣下さった圓照寺ご住職様とともに真言を唱え、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。

遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。今年一月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。

最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンター、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に御礼申し上げます。       (全)



三月三十一日
※当日の内容を一部再構成・修正
御開帳記念講話
 徳島文理大学文化財学科教授 濱田 宣 (はまだあきら)先生 

『御開帳の仏像を観察する』


ただ今ご紹介いただきました濱田です。私事で恐縮ですが、私は今日を以て、めでたくと申しますか、徳島文理大学を退職いたしました。退職日が近づくと、退職後のことをよく聞かれます。私は広島県内の市町の文化財保護審議会(委員会)委員をしていまして、この福山市もそうなんですが、仏像を中心とした仏教美術の調査研究を行うため、各寺院が所蔵する仏像の悉皆(しっかい)調査を約二十年前から行っており、退職後はその仕事に専念しようと考えています。因みに、令和三年度にこちらの國分寺の仏像すべてを調査させてもらいました。

そこで皆さんにお伺いしますが、このお寺に仏像が何体おられると思われますか。実は八十体以上おられるんです。現在、福山市内の寺院が所蔵する仏像の悉皆調査を福山市文化財振興課と共に進めており、十七か寺を済ませ、今後も続けていきます(福山市内には約二〇〇か寺所在)。仏像に関する記録を残していくことの意義は何かと申しますと、今現在の重要な歴史記録を残すということで。そのことは今すぐに評価されるようなものではなくて、私がいなくなって二百年後三百年後に歴史的に役に立つものと確信をもってやっています。

仏像の観方

前置きはそのくらいにして本題に入ります。

今日こちらで御開帳されている薬師如来像をはじめとして、須弥壇に安置されている仏像を、皆さんご覧になられています。今日は何も資料を用意しておりませんので、皆さんとやりとりをしながら、仏像の観方を学んで頂きたいと思います。学ぶというのは、私の考えですが、楽しみながら学ばないと身に付かないし、興味も湧いてこないんではないかなと思っています。

私は、仏像の話を方々でやっていまして、仏像に関する話は約三十五年くらい続けていて、合計五百回くらいになるかと思います。福山では、NHK福山文化センターにおいて十年間で百二十回、引き続き福山リビングカルチャーで二年で二十四回、仏像の観方について講義しており、まだ百回くらい続けないと私が学んできた仏像の話は終わらないんですね。それくらいの分量のことを本日は三十分でお話しいたします(笑)。

仏像の何を見ればどんなことが解るのか。仏像の姿や形、持ち物などから、それらが何を意味するのか、そこから何が言えるのか、ということなのですが、私もまだ解らないことだらけです。解らないことに出会って、それが解るとうれしいですね。そういう感覚が私に長く仏像の研究を続けさせてくれているのではないかと思っています。

例えば、わたしがこういう風に立っています。これはどんな格好をしているのかということを皆さんに読み取ってもらいたいのです。例えば、両手でマイクを持っています。めがねを掛けています。頭、かなり刈り込んでいます。そういった情報をひとつ一つ集めていくと、仏像の成り立ちが徐々に解っていくんですね。人間同士がはじめて接触して、挨拶したり、話をすると、まず相手の名前を知りたいですよね。あなたの名前はなんといわれますか、どこの出身ですか、誕生日はいつですか。そういうようなことをどんどん深めていくことによって、相手を知ることが出来るわけです。

如来と菩薩

さて、この御本尊、名前はもうご存知ですね、秘仏の薬師如来が御開帳になっているわけですから、いまお目にかかれているのが薬師如来、何で薬師如来といわれるのでしょうか。また、如来ということですが、如来とは何でしょうか。如来と名前の付く仏像はそんなに多くありません。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、これが代表格です。他にも阿閦如来とか、大日如来。ただし大日如来は如来と言っても本来の如来の姿をしていません。大日如来は密教の最高最尊の仏なので、特別な姿をしています。

如来はというと、仏像のなかで一番粗末な格好をしています。観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩などの菩薩の像はゴージャスな格好をしているのに、なぜ如来は粗末な格好なのか。ゴージャスというのは、装飾品を身に着けているということです。私も手首に石(ブレスレット)を巻いていますが、こういう飾りを菩薩の像は身に着けています。そのほか冠を被っていたり、胸飾りを身に着けていたりします。冠を被っていると言ったら、われわれ人間の世界では、王様ですよね。

では、なぜそんな装飾品を身に着けているのでしょうか。仏像の姿というのは、モデルは釈迦なんです。釈迦如来の姿というのは、如来の姿ですが、菩薩も釈迦の姿を根本としています。釈迦が二九歳の時に出家して六年間苦行をして、三五歳の時に悟りを開くわけですね。これが如来の姿です。それから仏教を興こして、インド国中に布教して回って、四十五年経った、八〇歳の時、今日午前中涅槃会をされましたが、入滅した、つまり涅槃されたということになっています。菩薩の姿は釈迦が二九歳以前の出家する前の姿をモチーフとしています。釈迦はシャカ族の王子として産まれ、宮廷で生活する貴族であるということから、装飾品を身に着けたゴージャスな姿になっているというわけです。

観察するということ

ところで、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体がまとめて本尊になっているお寺があるんです。普通は、薬師か釈迦か阿弥陀は別々に各寺院の本尊となります。しかし、その寺ではこの三つの像が一つのお堂の中に同等に安置されてほぼ本尊になっています。何というお寺かご存じでしょうか。それは奈良の法隆寺金堂です。ところが、法隆寺金堂を拝観された方に聞いてみると、真ん中にある釈迦三尊しか、皆さんの記憶には残っていないことが多いのです。記憶をたどると十体前後は何かいたな、とはなりますが…………。ほぼ同じような大きさの仏像として、釈迦三尊の向かって右に薬師如来、左に阿弥陀如来がおられます。

我々が仏像を見ると言っても、漠然とみているだけで、何を持っているのか、どんな格好をしているのか、ほとんど意識せずに、ただ漠然と眺めているだけなんです。つまり、これは「見る」ということですが、「観る」つまり観察するというのが、何かを意識して「観る」ということになります。研究者は様々なことを意識して観ないと研究にならない。それが先ほど「どのような格好をしていますか」という問いかけに相当します。

薬壺のこと

そこで、薬師如来というのは、薬を入れた壺を持っています。薬というのは何を意味するのでしょうか。病気を治す、苦しみを解く、しかも薬というのは即効性のある、例の先生の「今でしょ」と、今の私たちをすぐに救ってくれる仏ですね。釈迦というのは、今から約二千五百年前に、仏教を興して亡くなっているので、過去の人、ですから、先祖菩提とかが中心になるんですね。阿弥陀はというと、阿弥陀の極楽浄土と言われるように、いわゆる未来。つまり薬師は現代、釈迦は過去、阿弥陀は未来を担当するわけです。これを三つの世と書いて三世(さんぜ)と言いますけれども、現在過去未来。私と同じ年代、誰かがうたった歌にありますよね。「現在過去未来」という言葉がサビに使われた歌がありましたよね。そういう意味合いがあるんです。

薬師は左手に薬壺を持っているのですが、でも調査の時に、現状ではその薬壺が失われていることもあります。両手の格好はこうです。右手を胸の高さに挙げて前に向けて開き、左手は膝上に置いて仰いでいます。そうするとこの格好というのは、釈迦如来の格好なんです。釈迦如来の格好で左手に薬の壺を持っていると薬師如来に名前が変わってしまいます。だからこの手の格好をしていたら、釈迦如来と名前を付けたくなるのですが、掌を見ないと解らない、そこに接着のあと、薬壺を差し込んだあとがあったりということがよくあります。

ところが、難しいのは奈良時代以前においては、薬壺を持っていない薬師如来が存在しています。一番著名なものが、奈良の薬師寺金堂の薬師如来です。あれは薬壺がなくなっているのではなくて、持たないタイプの薬師如来です。従って、両手の格好からだけでもって仏像の名前を決めつけてはならないということです。研究は慎重でなくてはなりません。

藥師如来の印相

このように、この薬師如来と釈迦如来の手の格好は同じです。右手がこのように前に向けているのは、何を意味しているかというと、これは「施無畏印」と言うんです。せは施す、むは無い、いは畏れ。畏れないでいいよ、大丈夫だよと、と言うことを示しているのです。では左手は膝の上に置いて掌を仰いで前方に差し出している、これは何でしょうか。「与願印」と言い、願いを与えてくれることを意味しています。

私は子供たち向けにも仏像教室をしているのですが、「みんな仏像の格好してごらん」というと、かなり多くの子がですね、親指と人差し指をつけて丸くして右手を上にして、左手は下にして掌を開くんです。こうするのは、実はよく見ている仏像が阿弥陀如来ということだと思います。阿弥陀如来は左手も親指と人差し指をつけますが、掌を開くのは、奈良の大仏のイメージがあるのだと思います。

そこで、子供たちに「施無畏・与願印」の話をした後、「君たち、さきほどの右手と左手はどういう意味なの」と聞くと、「先生わかるよ、お金頂戴でしょ」と、名答だと思いました。これもちゃんと意味を表していますよね。こういったところで子供たちに興味を持ってもらい話をしています。

仏教伝来時の仏像について

実は、先ほど話した法隆寺金堂にある三つの如来像のうち、阿弥陀如来は鎌倉時代に造り替えられているので、後世の格好になりますが、真ん中の釈迦如来と右の藥師如来は、同じ格好をしているんです。右手はこうして前に向けているんですが、左手は親指・人差し指・中指を伸ばし、残りの指は握っているという特殊な格好なんです。これは、飛鳥時代に中国や朝鮮半島から日本に伝わってきて、最初に日本人がでくわした仏像が、実はその格好をしていたんです。

法隆寺金堂の釈迦如来は、六二三年に造られたもので、わが国最古級のものです。現存する古いものでは六世紀の終わり頃の仏像が確認されています。仏像が日本に来たのはいつかというと、記録では日本書紀や元興寺縁起によれば、五三八年とか、五五二年と歴史の授業で学んだ記憶があると思います。五〇〇年代の半ばには日本人は仏像と出遭っていることになります。わが国最古級の仏像、如来の像は、当時は釈迦如来も阿弥陀如来も薬師如来も如来はすべてその格好であったことがわかっています。

因みに、法隆寺金堂内の釈迦如来像と同じような手の格好をしている仏像を、たぶん皆さんはふくやま美術館において、この秋に観られることになると思うんですが、鞆の安国寺にある阿弥陀三尊のうちの阿弥陀如来像が同じ手の格好をしています。よくご存知の方は、あれは鎌倉時代の仏像なのにと思われるかもしれませんね。(種明かしは別の機会に……。)

阿弥陀如来の話

皆さんが普段よく見ている阿弥陀如来像は、両手共に親指と人差し指の先を丸めてつけており、右手は胸の高さに挙げ、左手は下ろしています。たまにお腹の前に合わせたりしていますが、一番多いのは、右手を上にして左手を下にしている姿です。こういった両手の位置や合わせる指の違いは、極楽浄土には九つの段階があることを示しています。そこで一番上位の極楽浄土に往きたい方は、両手の親指と人差し指を合わせて、お腹の辺りに構えている阿弥陀如来を選んでください。これが「上の上」の極楽浄土です。先に申し上げた右手を胸の高さに挙げ、左手を下ろしているものは「上の下」、つまり三番目の極楽浄土になり、皆さんがよく見かける阿弥陀如来のタイプです。

なぜ、一番目の極楽浄土ではなく、三番目を求めるのか、何と日本人の謙虚なことか。一番一番と言っていたら欲が出る、三番目で良いと。ですが、そういった意味ではないのかなと、私は最近考えるようになりました。両手を上下に構える格好の阿弥陀如来は来迎像といって、極楽浄土に居る阿弥陀如来が亡くなった人の所へ自ら迎えに来てくれて、極楽浄土へ連れて帰ってくれるんです。自分で一生懸命浄土に上がっていかなくてもよく、阿弥陀如来のお迎えを待っていればいい。だから日本人は謙虚なんじゃなくて、実は横着なんですね。(笑)

本尊藥師如来について

さて、ここの厨子の中の真ん中に薬師如来がおられ、その左右に現状向かい合わせに立っているのが日光菩薩・月光菩薩です。日光は日(太陽)の光、月光は月の光のことです。向かって右側の日光菩薩は、円輪の中に赤く太陽を表すものを手に持ち、左側の月光菩薩は、円輪の中に白い月を表すものを手に持っています。これは何を意味しているかというと、薬師如来は現世(今)の衆生を救ってくれるわけですが、日光月光菩薩、つまりお日様とお月様がいるということは、二十四時間営業ということです。四六時中助けてくれるということを表しています。

さらにそれらの左右には六体ずつ、十二神将という仏様方が居られます。十二という数字は、いろいろなことに繋がりますよね。一年が二ヶ月、十二の時、東西南北などの方角、干支である十二支など。時とか方角とか全部を含めて、周りの十二神将がサポートしている。すべて薬師如来が一番活躍できるように、三六五日、一年中サポートしています。

薬師如来は日光・月光菩薩と合わせて三尊一具、先ほどの阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩がいて三尊一具となります。釈迦如来も文殊菩薩と普賢菩薩がいて三尊一具、というように、どれも真ん中に如来、両脇が菩薩というサポート役がつきます。

この組み合わせって、天下の副将軍水戸光圀が介さん角さんを従えているのと同じですね。これはたぶん仏像の三尊一具からきているんだと思います。三尊一具で大きな力を発揮します。さすがに黄門さんだけでは頼りないですから、締めの所は周りのサポートで大きな力を発揮するということになります。

十二神将のこと

それでは最後に、仏像を「よく観る(観察する)」ということで私の話を締めくくりたいと思います。先ほど、十二神将は十二支と関わりがあると申しました。この十二神将像の頭上には干支が表してありますのでご覧ください。子丑寅卯……その象徴するものが頭上にのっています。今まで私が観てきた十二神将像としては一例しか知らないくらい大変珍しいことなのですが、こちらの十二神将は干支の全身を表しています。通常は干支の頭部だけしか表さないのです。是非、後ほどよくご覧になってみてください。

このように細かい所までしっかりと仏像を観ていくと、少しずつ楽しくなるかなと思います。かわいいなとか格好いいなとか、すごく穏やかで救われる気持ちになるとか……。それでも良いのですが、そこから一歩掘り下げて、どうしてそうなるのかを追究していくと観方が変わってきます。そういうことがあるので私も仏像の話を何度やっても、百四十回やっても終わりません。毎月第四月曜日、福山リビングカルチャークラブにおいて仏像講座を行っていますが、まだ百回分くらい話す内容がありますので、興味がある方はお越しください。退職後もこの取り組みも一つの生きがいとして、諸寺院が所蔵する仏像の悉皆調査研究とあわせて頑張ってまいりたいと考えているところです。
それでは私の話は以上となります。ご静聴ありがとうございました。



三月三十一日
※当日の内容を修正・一部加筆
御開帳記念講話
 中央大学国際情報学部教授  保坂俊司(ほさかしゅんじ)先生 

『「國分寺建立の詔(みことのり)」から仏教と日本文化を考える』
    
  
ご紹介いただきました保坂です。今日は、備後國分寺でのお話ですので、國分寺に関係の深い、そして日本仏教の発展に聖徳太子同様に尽くされた聖武天皇についてまずはお話します。こちらには聖武天皇のお位牌が安置されているそうですが、奈良時代に國分寺建立を発願された大檀那である聖武天皇とはどんなお方だったのかということについてです。

また、國分寺とはどういう意義を持つお寺なのかという話を基本として、仏教と日本文化を引き継ぐ意義についてもお話したいと思います。つまり、日本人にとって、あるいは日本文化にとって、仏教とはどんな宗教なんだろう、私たちにとって仏教はどういう存在なんだろうということについて考えてみたいと思います。

仏教という言葉

ところで、皆さん仏教という言葉はよく聞かれると思いますが、仏教という言葉は、実は古い言葉ではありません。明治二十年代頃、仏教をキリスト教、イスラム教など色々な宗教と並べて、はじめて仏教という言葉が現代のように使われるようになりました。当たり前の事ですが、これがなかなか理解するのが難しいのです。細かいことは、省きますが、仏教という漢字熟語は、仏と教に分解できます。そして仏は、お釈迦様ですね。さらに、教はその教えということですから「仏の教え」を仏教と表現するのは、当たり前のように理解出来ます。

ですが、これはキリスト教をモデルにして、教え、教祖、儀礼、教団を合わせて宗教と呼び、仏教もこの様な考えで捉えるようになりました。しかし、明治以前に日本の文化、特に今の仏教を語るときには、仏の法(ミノリ)や仏道(ブツドウ)と言われたのであり、仏法(教えを中心に)、仏道(各種の実践を含む)というのが主流でした。

というのも、仏教と言ってしまうと、その時点で、キリスト教をモデルとした宗教体系になってしまいます。そもそも仏教の教えとは、キリスト教におけるキリストのように、唯一の絶対の神の言葉(契約とも云える)を伝えるものではなく、どうすれば悟れるか、救われるかの体験記なのです。

ですから、仏の教えとは、釈尊をはじめ仏(現在のように、死者の隠語ではありません。理想を完成させた人のことです)になった人々の教え、つまり悟りへの体験記というわけです。ですから、実際に体験記通りに自らも行動を起こさないと仏道にはならないのです。しかし、キリスト教的な宗教を把握する意味としての仏教という言葉ですと、教えを信じるという点に重点が置かれてしまいます。

そのため、近代以降の仏教は、明治以前に仏法や仏道として捉えられていた感覚とづれてしまうのです。いずれにしても、仏法は仏の法、つまりその教えを仏道として実践することを教えるものです。そして仏道ですから、仏の教を実践するということが基本となります。特に、在家の人々は教えを生活の中で実践することこそが、仏教の基本であるということです。つまり、仏教の教えが社会に生かされていた世界への理解が、仏教と表現すると行の部分が抜けてしまうので不十分になります。

今普通に使われているその他の言葉でも、近代明治以降になって作ったものとか、意味を改めて使われるようになったものがたくさんあります。これを一般に翻訳語といいますが、言葉を換えると、内容の理解が変わってしまうのです。私たちの仏教に対する理解、意味するものは、ですから、その以前とは違ってしまっています。その典型が神と仏の関係です。

神と仏は一体

ところで、明治初年から十年くらいにかけて激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という野蛮行為が行われました。実は、その後も仏教への一種の攻撃は続き、その結果廃仏から嫌仏(けんぶつ)という伝統が形成され、現代に至ると私は考えております。これは私見ですが。

いずれにしても、明治初頭に、神道国教化政策の一環として神仏分離令が発令されまして、仏教などというよそ者の宗教と、古来の神道と分けなさいとされたのです。そして、暴徒化した民衆がお寺を壊し仏像や経巻を焼き払いました。その結果、日本中で神仏分離が行われ、結果的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。こちらの隣にも八幡神社がありますが、もともと一つだったものが、明治以降お寺と神社とは別々のものとされてしまったのです。

このお寺と神社が一揃いで存在するという形式は、奈良の東大寺に原型があります。少なくともそのモデルです。東大寺に行かれて、南大門を入り右に折れて進んでいくと手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)があります。そもそも八幡さんと東大寺は一セットだったのです。この形式が明治までの東大寺で、かつ日本の寺院と神社の標準的な関係でした。

何故、そうなったかというとそれは東大寺の大仏建立と深い関係があります。聖武天皇は、東大寺は國分寺の総本山であり、日本国の総国分寺、総鎮守東大寺に、大きな仏像を作りたかったのです。ですが、なかなか思うように進展しませんでした。鋳造金銅仏ですから高度の技術知識も必要です。当時の日本には、その技術がまだ無かった。

でも聖武天皇はどうしても作りたい。しかし技術的に行き詰まってしまった。そこに九州にある宇佐八幡の託宣を携えて巫女さんが、わざわざ輿に乗り奈良の東大寺にやってこられた。(*これが全国の神輿行列の先例といわれています。因みにインドでも古くから同じような祭りがあります)そして、全面協力を申し出てくださった。当時の宇佐は、大陸と交流があり、恐らく高度な鋳造技術を持った集団が一緒に来たのではないか、と推測されます。

いずれにしても、八幡神の協力があり、東大寺の大仏は完成します。以来、仏と神と一体となって、日本国を支えてくださることになります。この東大寺の造営形式が基準となり、全国の國分寺も、またその後他の寺院にも、神と仏が一緒になって、それぞれの地域を守るという、そういう伝統が形成されます。

「國分寺建立の詔」の精神とは

聖武天皇が発せられた「國分寺建立の詔」は、天皇という現人神(アキツカミ)が国を守るためにどうしても仏の力を借りたい、その事情、理由を述べたものです。読んでもらうとわかりますが、天皇は仏の教えに深く帰依されています。当時の考えは、現在主流の近代西洋的な支配者像と違い、天皇陛下は、この世は天皇のものであり、天皇=この世ともいえるものでした。

その様な世界観の中で、聖武天皇が即位すると、運悪く天変地異が襲います。日本の国土の地殻変動期ですね。現在もこの地殻変動期に入ったと言われてます。つまり、阪神大震災から東日本、熊本、今年は能登半島と、十年二十年のスパンで考えると離れているように感じられますが、千年二千年という歴史的な時間から考えると、最近の日本には一瞬にいくつも続けて大地震が起こっています。それだけでなく、その間に疫病も流行し、国民は非常な困難に直面しました。聖武天皇の御代もこの様な混乱期だったのです。

この時、聖武天皇は、大災害が頻発し、国民の苦しみを我が事とお感じになって大変苦しまれたのです。これが、日本の天皇の世界観であり、政治思想です。ですから、私のものというのは所有物ということではなくて、私の体と一体だということです。古い文献には、国家という文字は「みかど」と、国家=天皇陛下を表わすように仮名が振ってあります。

今、国家=天皇というと、ヨーロッパの偉い王様や独裁的な君主のように、国をわたくし視しているように思うかもしれませんが、そうではありません。天皇は、日本という国、あるいはこの天下(アマツシタ)を、自分の身体と一緒、あるいはその一部のように捉えられていたのです。ですから国が乱れ、民が苦しめば自らのからだが病んでいるように感じたわけです。そして、それは自分の行いが悪いからそうなったとお考えになられたのです。

私たちも、病気になれば心を病みます。何でこんな病気になってしまったのか、何が悪いのか、原因を考え反省します。それと同じように、何でこんなに疫病がはやるのか、なぜこんなに地震があるのだろう、何で私が天皇を継いでから民衆を安らかにしてあげられないのだろうと、聖武天皇はものすごく苦しまれたのです。その時、仏の力を借りて自分が強くなれば、元気になれば、国も元気になるとお考えになります。

そこで、仏の力で日本を護ってもらおうと、各国に東大寺のミニ版とも言える國分寺をおつくりになられたのです。そして、その総仕上げとも云うべき総國分寺として、国家鎮護の寺として、東大寺に巨大な毘盧遮那仏の建立が計画されました。

特に、國分寺の総仕上げであり、国家の守り神的存在として、大仏をお造りし、皆が一丸となりこの大きな大仏さんに帰依したならば、日本が一緒に救われるのではないかと、そう聖武天皇はお考えになられて大仏造立は発願されたのだと思います。このように申し上げると、迷信だと感じるかもしれませんが、コロナ禍の最中に、医療だけでは救われなかった私たちの心の安心、社会の安全を神仏に祈る形で維持できたことは、我々も体験済みですね。人間は千年二千年前も今もそんなに変わらないのです。その様な安心、安全をそれぞれの國分寺は、歴史的に託されてきたわけです。

形は心を映す

この国家鎮護という考え、つまり仏の力で国を護るという教えは、『金光(こんこう)明最勝王経(みょうさいしょうおうきょう)』という護国経典にあります。國分寺には、そのお経を祀る塔が造られました。國分寺の塔は七層、七重塔です。普通は五重塔ですね。三重塔もありますが、東大寺の七重の塔は創建当時、高さが六十八メートルあったそうです。鎌倉時代には九十七メートルの再建された塔があったとか?何れも落雷や戦禍で消失しましたが。(最近の研究は、『日経新聞』令和六年四月二十六日に詳しく紹介されてます)

今の人は、それは形にすぎないとか、それで心が救われるわけではないなどと批判するのですが、そうではなく、形は心を映す、というより心を具現化したものです。つまり現存する形(仏像などは)は、心の有り様を造形として表現したものです。ですから形としてあるものには、きちんとした意味があります。

そして、それを維持していくことが伝統となるのです。放置して、廃らせては、意味がないわけです。作ったら、みんなでそれを支えていく、護っていこうとする、これは一種の仏道の実践です。そうすると、そこに一つの共同体ができて、お互いの理解ができていきます。そして共通観念が生まれ、安心感が生まれ、相互に守られているという意識になります。そうして、お寺を中心とした一つの安定した社会ができることになります。

恐らくそういうことを聖武天皇はお考えになられたのだと思います。いずれにしても、徐々に全国各地域に六十八の國分寺がつくられていきます。

この國分寺の立地に関しては、余り町に近いと喧騒がありますから正しい信仰にならない。また、山の中にあると、人々が何かあった時に、お願いしたり、お詣りできないので、町に遠からず近からず、程よい地域で、なおかつ豊かで、環境の良いところが適しているとされました。

何度かこちらに寄せてもらっていますが、すごく良いところですね。こういうところに國分寺を建てて、封戸という五十戸の家の収穫が徴税としてお寺の維持費のために充てられました。そうして、このお寺をずっと守っていけば、この地域の人々は、豊かで幸福に暮らせるはずであると願われたのです。聖武天皇は自分のために、利己的に、東大寺や國分寺を作ったわけではないということです。

個と全体は一体である

明治以降の仏教研究者の多くが、國分寺などは国家仏教だと、支配者のための宗教だと言うのですが、それは近代ヨーロッパ的な、つまり近代キリスト教文明の考え方です。そうではなくて、仏教では、全ての存在が相互に結びついていると考えます。

ですから、仏教思想を基本とした聖武天皇は、民衆一人一人を救うために、天皇が身を粉にして懸命に働きました(事実、聖武天皇は大仏建立時に手ずから土を運んだとされます。これは象徴的な表現ですが、その精神は明確です)。そして民衆もそれに応じて相互に助けあい、社会や国を作り支え合うという相互連関の社会の実現を目指されたのです。

つまりすべての人間が、それぞれの役割を得て全体を支えるという考えです。勿論、それは個々人を顧みないということではありません。なぜなら全体も部分があってこその全体ですし、部分も全体の一部として生かされるわけです。どちらか一方ではない、ということです。

これは、お釈迦様以来の仏教の根本の教えです。お釈迦様も最初は自分のための修行を行ったのですが、悟りと言われる境地を得た後は、その様な独善的な考えを捨てます。勿論、一人一人の幸福を考えることは大事なのですが、それだけでは真の幸福は得られません。というのも個人は全体と連なって個人であり、決して個々別々にあるのではないからです。そこで、他者の存在も自分と同じように考えよと教えます。これが仏教の基本となる考え方で、いわば悟りの根本といえます。一見簡単に聞こえますが、これが実践となると難しいのです。

為政者とは全体に奉仕する存在である

この教えを、とかく独善的となり、人の命を何とも思わないような専制君主、暴君になりがちな支配者の多い中で、自ら実践されたのがアショーカ王です。インドで紀元前三世紀、紀元前二百七十年頃から二百三十年頃活躍された王様ですが、このアショーカ王が聖武天皇のモデルだったのではないかと思います。

アショーカ王は、仏教の非殺生の教えにより軍隊を廃止して、失業した兵士たちに、道を作らせています。東海道五十三次のように、四キロを一里として、街道にマンゴーの木を植えて、マンゴーが実るとそれを売って、街道の維持のために使わせたのです。武器などはそれを鍬にして、農民のために使わせています。また病院を作ったりもしました。この様に民を富ませ、安楽にして、最後に自分が喜ぶという政策をとられたのです。

彼は大きな宮殿でふんぞり返っていたわけではなく、今のインド、パキスタン、バングラディシュにわたる、広大なインド亜大陸をほぼ統一し、各地を視察し、また役人を派遣して仏教的な統治、つまり平和の実現を通じて民衆の幸福を実現するという理想的政治の実践に努めました。その理想で、広大なインドを一つにし、争いのない国作りを実現しました。

この偉業は、それから千八百年後に、イスラム教のムガール帝国が成し遂げるまで、誰も成し遂げることの出来なかったことです。ただしムガール王朝は武力による征服と統治でした。ともあれ、アショーカ王という王様は、インドという国を最初に統一した大王ですが、武力に頼らず、大王でありながら最後に喜ぶというような政策を実行した王です。その証しともいえますが、彼は帝王とか皇帝という称号は用いず、「民衆に奉仕するもの」・「慈愛溢れるもの」という称号を用いました。

これがどれほど凄いことかということは、ほぼ同じ時代に、中国の秦の始皇帝と比較するとわかります。始皇帝は、自分の権勢のために墓作りに四百五十万人もの自国の民衆を殺害したり、宮殿を建てるために三十万人の人を動員使役しています。工事の人員が足りないと、厳しいルールを作り違反させて、その罰として宮殿作りに徴用する。そこに誰が住むのかというと始皇帝と愛妾三千人と言われています。インドと中国は同じ大国ですが、正反対なのです。

仏教による国造り

聖武天皇の前に聖徳太子があり、仏教に深く帰依されています。ところが、聖徳太子は、今の教科書に書かれなくなってしまいました。日本史の関係者は不思議なことをされます。とにかく聖徳太子にあたる人が仏教による国造りをしていかれたのです。中国では、仏教が伝来された時にすでに、儒教による文明がありました。そのため、あまり影響を受けていません。ですが、日本はそんなに高い文明はなかったので、仏教が伝えられた時、日本独自の文化、さらには文明を作るために仏教を採用したわけです。仏教は、やはり当時の日本人に合った教えだったのでしょう。

というのも、日本は古来中国の影響をすごく受けましたが、日本の天皇で秦の始皇帝のような専制的な暴君はおられません。あえて言えば申し上げ難いですが後醍醐天皇があげられます。後醍醐天皇は自分のために日本があるというような天皇でした。後醍醐天皇は一応仏教徒と言われていますが、発想は中国的、特に朱子学でした。

朱子学では、分かりやすくいうと、国とは為政者の所有物のようなもので、民は為政者に一方的に服従し、奉仕する存在にすぎません。つまり、道具なわけです。そこには権力の中心に向かう下からのべクトル、支配と服従という方向しかありません。ですから権力者は、自分の欲望のためにその道具を存分に利用できると考えるのです。しかもどんなに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(税金その他を厳しく取り立てること)しても余り痛痒を感じない。仏教的な政治論に従う聖武天皇のように、民を自分の体の一部と考えないからです。勿論、道具としては大切にすることはありますが。

いずれにしても、後醍醐天皇には、聖武天皇のように、平和志向、民衆へ回帰、つまり慈悲心というベクトルは余り感じません。両天皇は、同じように、日本は私のものだと考えても、後醍醐天皇は、民の傷み苦しみも私のものだという考えは余りなかった様です。

聖武天皇は、仏教への帰依と実践、つまり仏道を政治の世界で実践されたわけです。この伝統が、日本の天皇の伝統として主流でした。勿論、朱子学でも、素晴らしい為政者として立派な統治者は居りましたが、やはり民衆の痛みを我が事として感じ、それを政治の基本、特に平和主義に徹した方はまれでしょう。

いずれにしても、日本の天皇で自分の欲のために国を動かして、自分のものにするという方は、ほとんどいません。民の苦しみを自分の苦しみとする、という考えが徹底してきたからです。これは縁起の思想とも言えますが、みんなつながっているという考え方です。

民の苦しみは私の苦しみであり、天皇が病むと民も苦しんで、国土が苦しむとでも言うのでしょうか、天変地異になったりしたら、みんなが苦しむ。そして、みんなでこれを乗り越えようということになって、その時に、その先頭になるのが聖武天皇その人でした。その遺志を東大寺はじめ全国の國分寺は継いでいるわけです。残念ながら、現存する國分寺は少数ですが、その中でこの備後國分寺は、聖武天皇以来の伝統を継いで来られたという意味で大変貴いお寺です。

聖武天皇の心を繋ぐ國分寺
それを守る意義

既に検討したように、聖武天皇は、民の苦しみは私の苦しみであり、私の不徳により民が苦しんでいるとお考えのうえに、國分寺を建立されました。つまり日本の安定には、そして民の幸福を作り出すためには、私がしっかりしなくてはいけない、それには仏の力が必要であり、そこでお寺を作ろうということになります。迷惑だという人もあるかもしれませんが、そうしてみんなが集い、心を一つにする場があり、それを中心に毎日、毎月、毎年続けていると安心できる社会が出来てまいります。

例えば、今日稚児行列もありました。今回は参加が半分と聞きましたが、それでも小さなお子さんが、きれいな格好をして、今は何をしているかわからないかもしれませんが、十年後二十年後に、私が稚児行列をしたお寺だから、自分の子供も参加させようということになります。それこそ文化の継承といえます。そして、そこに國分寺があるというのは、この地域の人にとって非常にすばらしい伝統といえます。

つまり、「國分寺建立の詔」があった七四一年を創建とすれば、今年で千二百八十三年となります。この間いろいろなことがあって、國分寺も盛衰があり、消滅の危機もあったわけです。ですが、この地域の人たちが、支えたのです。お殿様がお堂は造ってくれたかもしれませんが、日常の草むしりとか、建物が壊れたから直そうとまではしてくれません。皆さんのご先祖が、お寺を護ってこられたのです。

それらの行為は、表面的には、お寺のためにすることですが、それはお寺だけのためではなく自分たちのためです。さらには日本国全体のためであり、そういう仏教的な縁起の世界観の中での奉仕であり、仏法の実践といえます。つまり、このお寺を先祖が守ってきたように自分たちも守る。そして、自分も先祖と同じように、子孫に伝えてゆくという魂のリレーです。実はこれが仏道の実践、つまり修行にあたるのです。そういう伝統が、今日まで千二百八十三年続いたということは、すごいことです。

今國分寺として残っているのは四十ヶ寺ほどと聞いています。國分寺跡として遺跡だけになっているところが沢山あります。行ってもなにもありません。礎石が痕跡としてあるだけです。私の故郷にも國分寺があったんですが、今は、碑が立っているだけです。ですから、伝統を守りたくても、受け継ぎたくてもその中心がないわけです。

そうした中、こちらはこうして、立派なお堂があって、仏像が安置されていて、しかも皆さんがこのように参集されて、協力されている。お稚児さんもそうですし、まさに世代を超えて、そんな格好いいものではないよと言うかもしれないですが、こういうことが延々と運営されている。これは貴い文化の力です。

古き伝統の意味を自覚する

こうしたことをもっともっと今の日本がやるようにすれば、今日の日本の衰退といいますか、「失われた三十年」と言われるような事態はなかったのではないでしょうか。千二百八十余年の歴史は、失われた三十年どころではありません。その間にいろいろなことがあったはずです。そういうところから私たち日本人は学ぶ必要があります。短いスパンでものごとを考えずに、もっと先祖から自分も含めて子孫のことも考える。

みなさんは、その点で、千二百年以上という長い歴史から今を捉えていくことが具体的に出来る、大変恵まれた環境の下に居られます。その文化的な財産を子孫に継承していくということはとても大切なことです。そして、それは皆さんにとっての仏道修行であり、心に安心の徳を積むということになります。

何れにしても、この國分寺の維持ということをもっと自覚して行うことが大切であろうと思います。皆さんは、これまでやってこられたことの意味に、あまり気がついていないのです。AI時代といわれ新しいものがどんどん取り入れられていますが、日本に足りないものは、古くて、続いていてきたものの価値や意義を自覚することだと思います。新しいことは、直ぐに廃れますから。しかし、千二百年以上もこうやって國分寺というお寺が続いてきている、その伝統を守り継いできたということに、すごく意味あることをしているのだと自覚することが必要です。そこには、ただ奉仕するだけじゃなくて、喜びや楽しみ、やりがいがあります。 

今日のこうした御開帳のための準備やら、時間もお金も気遣いも何も大変だったと思いますが、終わった後の達成感と言いますか、それが次の世代に、受け継がれていきます。こういう行事、これは文化の維持のためにとても大切であり、私たち日本人は営々とこれを繰り返してきたのです。だからこの地域では國分寺が残っています。そういう意味で、このコミュニティを含めて、正にパワースポットであると言えます。

もっと盛大に発信していって欲しいと思います。今日本人に一番足りないのは、発信力ではないでしょうか。今日はいろいろメディアの方が居られるようです。メディアの人たちも、よく勉強されて、どういう風に伝えたらいいか、お考えください。そして、今日は國分寺さんで三十年ぶりの御開帳がありましたではなくて、これはいったいどういう意味なんだ。千二百八十三年続いた意味は何なんだ、そしてこの文化をどう未来につなげていくか。この地域だけのものではなく、これは日本全体の問題です。これは私たちが未来の子供たちのために考えなくてはらない課題とも言えます。

お祭りは面白いだけではなく、時間がかかり大変ですが、そこに喜びがあります。これを守り継いできた先祖と、これから守っていってくれるであろうお子さんやお孫さんと心が繋がるのです。それが何よりの仏道修行です。だから次につながるのです。これからも皆さんで備後國分寺を盛り上げてください。それはこの地域の伝統であり、使命でもありますから、次の世代へのつなぎ役だと思って、続けていって欲しいと思います。そして何よりそれが仏道の修行、仏の悟りへの道に繋がるものであり、幸福の道でもあります。 ですから三十年と言わず、五年とか十年とか、この様な法要をやっていくと地域の活性化にもなります。そのうちそこに、お寺の前にお店ができるかもしれません。是非、この國分寺を次の世代につなげていく、その役割を皆さんが自信をもって今後も担っていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。



【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます

〇五月七・八日、高野山と京都三か寺の参拝旅行に神辺霊場会七カ寺の檀信徒の皆様とともにお参りしました。まずは高野山に向かい、奥の院参拝と納骨塔の納骨供養会を行いました。そして、すぐに下山して、その日は大阪の心斎橋のホテルに宿泊。翌八日は、四天王寺に参詣してから一路京都大覚寺へ。到着してすぐに寺方は鞆・地蔵院住職から門跡となられた山川龍舟門跡猊下に宮御殿までご挨拶に参上し、その後、檀信徒とともに心経前殿にて写経奉納式に臨みました。それから自由参拝し、大覚寺を後にして、昼食を済ませ東寺に参詣。五重塔の特別内拝期間にあたり、はじめて第一層に祀られている五智如来を参拝させていただきました。高野山に京都のお参りも堪能し、皆さん大満足で家路につきました。

〇五月十四日は結衆御寺院様方を國分寺に迎え、今年の涅槃会当番の寺院として、仏生会(ぶっしょうえ)を午後三時から厳修しました。仏生会は、お釈迦様のご誕生を祝う法会で、須弥壇上に特設した花御堂(はなみどう)に祀る誕生仏に甘茶をかけて祝う行事です。

〇同様に六月十二日、弘法大師誕生会を厳修。やはり花御堂に稚児大師像を祀り、甘茶をかけお祝いしました。

〇今年涅槃会にて、御詠歌衆の皆様が人数少ないながらも修行和讃を唱え、懸命に稚児行列を先導して下さいました。近年特に御詠歌に参加される方が減少しています。六年先にはすぐに涅槃会が回ってきます。御詠歌にご参加いただける方を募集いたしております。大きな声を出し、鈴鉦(れいしょう)を打ち鳴らし手指も使うので健康にもよく元気になります。皆さんお忙しいとは存じますが、是非ご参加ください。

  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時(8月はお休み)
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時(8月はお休み)
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時(8月はお休み)

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

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備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行)

2024年07月18日 07時07分34秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行



 祝・本尊御開帳

平成六年、本堂再建三百年祭を先代和尚が挙行され、その際に本尊御開帳してからはや三十年が過ぎました。

いつの頃からか、前回の法縁に見えることの出来なかった方々から、次の御開帳はいつですかと幾度となく問われてまいりました。
そこで、令和六年のお涅槃が前回御開帳から三十年の節目となることから、昨年の総代会にて協議の上、御開帳することと致しました。

平成六年四月三日、先代和尚は、御詠歌衆と稚児に先導されて本堂に入られ、神辺結衆御寺院様方と土砂加持法会を営まれた際に、『本堂再建三百年記念光明真言加持土砂噠嚫(たっしん)文』として、以下のように述べられています。

「・・・伏(ふし)て惟(おもん)みるに当山は天平の昔、聖武天皇の勅願に依って建立され、備後一円の平和と発展を祈願す。下りて天文年間の戦火、延宝元年の水害と二度に亘る災害に遭い堂宇荒廃すと雖(いえど)も、其(そ)の都度(つど)領主、諸人の発願に依って再建せらる。

今の本堂は元禄七年快範上人の発願に依り領主水野勝種公の援助と備後一円の善男善女の寄進に依り再建され今日に至る。其の間幕末、明治維新及び太平洋戦争敗戦という大変動に遇うも法灯絶やす事無く人々の信仰を集め来(きた)る。

今日三百年を迎え檀信徒各位の協力により、位牌堂を建て替え、本堂内の仏具の修理、畳替えを終え堂内の荘厳倍増せり。

茲(ここ)に有縁の聖衆を屈摂(くつしよう)じて加持土砂の法筵(ほうえん)を開き、歴代尊霊並びに檀信徒各家先祖各霊の追福菩提を祈る。本尊藥師如来、三世の諸仏諸菩薩、大慈を垂れ亡者を摂受(しょうじゅ)して安楽浄土に引摂(いんじよう)し玉わんことを。・・・」

このように先代和尚がお読みになられたように、前回は本堂再建三百年祭ということもあり、堂内中央の大壇の漆の塗り替え、仏具、霊具膳など様々なものが修繕ないし新調され、真新しい設えのもと法会が執り行われました。お陰様で三十年経ちましても十分きれいなものばかりではありますが、この度は客殿の畳、仏像が置かれた壇の水引、本堂前の鰐口の紐などのみ新調いたしました。

皆様ご存知の通り、六年前の平成三十年のお涅槃では、上田修三仏師のもと仁王像の文化財保存修理が行われたわけですが、その頃より文化財としての國分寺の堂宇尊像に関心が向けられてまいりました。

そうした中、御開帳に併せるかのように、はからずも、令和三年、福山市文化観光振興部文化振興課(榊拓敏次長)の皆様による美術工芸品実態調査として十月二十九日、十一月二十二日の二日に亘り、本堂客殿大師堂の、主に仏像の調査が行われました。

日本美術史の立場から調査指導のためお越しになられた徳島文理大学濱田(はまだ)宣(あきら)教授の御指導の下、本堂内に仮設のスタジオが設けられ、全ての仏像が撮影されました。

いくつもの角度から撮影されたことから当初一日の予定でしたが二日に亘ることとなり、日本文化史の分野からの調査指導として福山大学柳川真由美准教授、また福山城博物館の皿海弘樹学芸員、文化振興課職員の皆様、七、八名の方々により、ひとつ一つの仏像を下におろし、丁寧にホコリを拭い、縦横像高を計り写真に撮っていかれました。

勿論この調査は市内に所在する全ての寺院神社が対象であり、令和三年から六年間を目途に実施されるものではあるのですが、現國分寺の文化財としての価値来歴をあきらかにする意味で誠に有り難いことでありました。

この度調査撮影された仏像の中からそのごく一部ではありますが、主な仏像を抽出し、特別に濱田教授が仏像それぞれに解説を附して下さり、『備後國分寺仏像図鑑』として、お涅槃の記念品として編集いたしましたのでご覧頂きたいと思います。

なお、今回のお涅槃における本尊御開帳法会での『慶讃文(けいさんもん)』は以下の通りです。

「謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆。殊には、本尊藥師如来、日光月光、十二神将。総じては仏眼所照一切三宝の境界に申して言さく。

夫れ、藥師如来と者(いつぱ)、東方浄瑠璃世界に住して、いかなる有情(うじょう)にも一経其耳(いっきょうごに)の少縁、衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の功(こう)ありと説き給えり。されど遡(さかのぼ)るに医王善逝(いおうぜんぜい)と別称せられ、良医に喩えられし釈尊と同体にして、迷悟の因果を明らかにして有情の悩苦を化益(けやく)する大悲心を薬師如来と言えり。

延宝元年、水害により廃滅したる堂宇を、中興一世快範上人晋山して、福山城主水野勝種侯大檀那となりて復興なし給えり。ここに開帳せし如来は、再建せられたる本堂の本尊として、日光月光十二神将と共に、元禄五年京仏師林右近(はやしうこん)氏により彫成されたる尊像なり。

先代和尚、平成六年本堂再建三百年祭を挙行して御開帳以来、三十年の年月、瞬刻に過ぎ、本日吉辰(きっしん)を卜(ぼく)し、神辺結衆諸大徳並びに有縁の名刹諸大徳に光臨賜り、稚児の先導を受け、当山檀信徒の総意を以て、本尊御開帳の法筵(ほうえん)を布(し)き奉(たてまつ)る。

本尊薬師如来、実に三百三十年の長きに亘り信徒の安寧と仏行の成満のために数多の参詣人を守護し来たる。当山檀信徒並びに今日参詣善男善女人、その恩恵に報いて厚く信仰の誠をここに捧げん。

仰ぎ願わくは、本尊薬師如来、法会所設の六種の妙供を哀愍納受(あいみんのうじゅ)して威光倍増し、広大慈悲の願望(がんもう)改むることなく、檀信徒各各の惑悩を平癒し、永く快楽(けらく)を与え給え。加えて、天童子(てんどうじ)に擬したる稚児らの健やかな成長と無病息災を祈るものなり。

重ねて乞う、
備之後州 國分精舎 伽藍安穏 
護持檀信 万邦協和 利益衆生 
今日参詣 随喜諸人 家門繁栄 
子孫長久 除災招福 如意円満
乃至法界 平等利益
干時令和六年三月三一日
 唐尾山國分寺中興十四世全雄敬白」

この度は三十年ぶりの御開帳ということもあり、平成十四年の現住晋山式にお招きした倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)の釈子哲定僧正、総社西明寺(さいみょうじ)大畑哲俊僧正、東京西早稲田放生寺(ほうしょうじ)五島隆章僧正にも遠路遙々ご来駕(らいが)賜り、神辺結衆の御寺院様方とともに親しく法会にご参加いただきました。厚く御礼申し上げます。

お涅槃にあたり、この度も檀家各家には出費ご多端の折にもかかわらず涅槃会寄付を賜り、お陰様で本堂東側に昇降スロープ建設、大師堂再建、さらにはこうして本尊御開帳しての大法会を挙行することができました。ここに心よりお慶びと御礼を申し上げます。ありがとうございました。合掌       住持全雄
 

六大新報令和五年一月二十五日号掲載
薬師真言小呪の解釈について 


これは長年の難問でありました。薬師如来の真言(小呪)は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。お薬師様の真言とされるこの「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」は、いろいろな訳し方をされます。「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」などさまざまです。

御存じの通り、薬師真言として、以下の三種があります。
 小呪「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
 中呪「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
 大呪「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバアランジャヤ タタ ギャタヤ アラカテイ サンミャク          サンボダヤ タニャタ オンバイセイゼイバイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」

早速これら真言の意味について、手元の『真言事典』(八田幸雄著・平河出版刊)を参考に紐解いてみますと。小呪については、訳として「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー」とあり、これは解説に、不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念誦儀軌(ぎき)法』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta-buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されています。

では、チャンダリとは何かといえば、candāliは『梵和大辞典(山喜房仏書林)』に、旃陀羅(せんだら)家女とあり、candālaは、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあります。漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種、執暴悪人など。また、現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を意味します。

また、マータンギは、mātangaを『梵和大辞典』で引けば、象、または象たる主な最上の者とはありますが、最下級の種姓の人[candāla]ともあり、漢訳ではやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種となります。いずれにせよ、チャンダリとマータンギは、インド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーは、svāhāを『梵和大辞典』で引けば、「幸あれ、祝福あれ」とあり、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉として「(神に)捧げ奉る」と訳すようです。

また、中呪は大呪をつづめたものに他ならないので、大呪の意味を確認してみますと、『真言事典』の大呪の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じておりましたので、冒頭にあげた小呪の訳し方を、どのように受け入れたらよいか解らなかったのでした。

しかし二年前のことにはなりますが、本尊薬師如来の供養法を修法していて、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に、これまでの疑念が一瞬にして溶解しました。

その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてのものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思えたのです。

その後、そのようなことをある方と話しておりましたら、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんだよ」とご指導いただきました。勿論、だからこそ冒頭にも述べたこの真言の訳し方の事例にあるように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのでしょう。がしかし、はたしてそのような解釈でよいのであろうかということなのです。

そこで、さらに調べを進めておりましたところ、『梵字悉曇(ぼんじしつたん)(田久保周誉著・平河出版社)』三・梵字真言集二一五頁に、薬師如来真言を「唵 喜ばしきことよ。旃蛇利・摩登祗女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付加されていました。解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法』等に見える薬師如来の小呪である。呼鑪呼鑪(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(旃蛇梨正しくはcandali)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗(まとうぎ)はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、ですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばならないでしょう。

この真言(小呪)の出典とある『薬師如来観行儀軌法(かんぎょうぎきほう)』は八世紀初めに金剛智により漢訳されています。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師如来本願功徳経』など薬師経は、五世紀頃中国で漢訳されていますが、薬師経には大呪は説かれますが、小呪は説かれていません。それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる雑密経典に『摩登伽経』があり、これが『梵字悉曇』に説かれている卑族旃陀羅教化の出典であろうと思われます。

『大正新修大蔵経』からの引用と思われる『佛弟子傳(山邊修学著・無我山房刊)』五一二頁よりその和訳された内容を要約してみますと。

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そこで、その呪師である母親は、娘の願いをかなえるために、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術をおこなうと、アーナンダはこころ迷乱してその家に誘導されて行きます。天眼をもってそのことを知ったお釈迦様は「戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみょう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ」と偈文を唱えてアーナンダを救います。

しかしその後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むことなく、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れてしまいます。それを知ったアーナンダはその恥ずかしさ浅ましさから、そのことをお釈迦様に申し上げます。すると、お釈迦様は娘を呼び、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母に了解をとらせてから髪を剃り出家せしめます。そして、「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・」などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からかチャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられてまいります。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているようです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものであろうかと思うのです。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として肯定し得ない解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと思います。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典(佐和隆研編・法蔵館)』六八〇頁[薬師如来]の項に、「医王善逝などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。また、「釈迦如来と同体説:薬師の真言が無能勝明王の真言に同じである。同明王は釈迦の化身であ」る、などと記されています。

そこで、小呪が薬師の真言とされるのはずっと後のこととはいえ、薬師如来というよりも医王、釈迦仏一尊から諸仏が発生する原初の仏として、お薬師様を捉えて考えてみてはいかがであろうかと思うのです。

そこで、この「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」をあらためていかに解すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての生き物たちが苦悩なく幸福であらんことを)」との意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳してみたいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と。

お釈迦様は、何の躊躇もなく、まさに世間では卑しいとされ蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた思いは、四姓の別なくすべてのものたちがよくあってほしい、救われてほしいと願われる慈悲の心から生じたものでありましょう。心身の病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、一切の衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。その心に随喜してともに念じさせていただくのだと思って、この真言をお唱えしたいと思うのです。

もちろんこれが正解というようなものではございません。このような解釈のもとに唱えることが私にとり一番素直な気持ちでお唱えできるというに過ぎません。皆様からの忌憚のないご教示を賜りたいと存じます。

(尚本稿は本誌令和二年四月号に掲載した「藥師如来の真言はなぜオンコロコロなのか」を修正補足したものです)


十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄

 『十善の法話』 上

 
さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、ついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇(あそうぎ)と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以(ゆえん)、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。

まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見(だんけん)、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見(じようけん)に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業(しよぎよう)が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚(ほう)けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。

私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうはずもないのです。

ですが、今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。

一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。

今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。

ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。

どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったり、あるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。

このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行わざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。つづく



団体参拝の皆様に
「仏さまの声なき説法を聞く」


ようこそお参り下さいました。はじめに、國分寺の本尊様は秘仏となっておりまして、常に扉が閉まっております。多くのお寺でこのように扉を閉めたままの秘仏というところがあるわけですが、なぜ秘仏にしているのでしょうか。

一つには神秘性の強調といわれます。また、秘仏ですと御開帳したとき、仏様が目の前に姿を表す疑似体験ができるからとする人もあります。また、保存のためだと言われますが、河内長野の観心寺の国宝如意輪観音様も、美しい原色の仏さまですが、国宝に指定されてからやはり毎年のご開帳で傷んできたと言われています。

それで、私の考えはというと、仏様は形ではないよということではないかと思っています。どうしても私たちは形にこだわってしまう。形からはいると鑑賞してしまうんですね。

東京の国立博物館で、国内のものとしては最高の入館者があったと言われます、あの阿修羅像にしてもそうです。はたして八十万人のうち合掌して礼拝して、ご覧になった方が何人おられたでしょうか。

姿形から何かを得ることもあるかもしれませんが、その仏様が自分にとってどれだけ意味のあるものか、価値のあるものかという観点から接していないのです。

ところで、「山川草木悉有仏性(さんせんそうぼくしつうぶっしょう)」という言葉があります。やまかわくさきで、さんせんそうぼく。しつうは、ことごとくある。ぶっしょうは、ほとけのせいしつと書きます。山も川も草木もみんな仏様なんだという意味です。「山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」とも、また「草木成仏」とも言うようですが。

環境問題の会合でも、時折この言葉が使われ、みんな仏様なんだから大切にしなくてはいけない、仏教はいいことを言うなぁと、まあそんな言い方もされているようです。

ですが、山も川も仏様というのは本当でしょうか。私はどうもへそ曲がりでして、本当かなと。で、どうして山も川も仏様なのか、この言葉の意味するところが私は分かりませんで、長年分からなかったのです。ですが、ある時、閃きまして、そうかと。

それは、仏様というのは何かと言えば、法を説く者、真理を説く人のことです。そして、山や川や草木はというと、それらをよくよく観察してみると、みんな自然の中でそのまま森羅万象の摂理、この世の真理を私たちに表現して説法してくれていると見ていくことが出来ます。だから仏様なのだと。そう思えたのです。いかがでしょうか、山も川も常に移り変わり、草木も一つとして同じものがない、周りの影響を受け常に変化している、無常や無我という真理をそのまま示してくれています。

そう捉えると山も川も草木もちゃんと仏様なんだということになります。ただ受け取る側がきちんとその説法を聞く受け取る努力をしなくてはいけないということになります。

そこで、そのように自然を見るのと同じように、仏像を前にしたときも、姿形を見るだけではなくて、その仏様がお説きになっている教え、その説法の声なき声、メッセージを聞く味わうという努力を私たちはしなくてはいけないのではないかと思うのです。

それで、これからそのように、この本堂の仏様がたの説法、メッセージとはどのようなものかという観点からいくつか見ていこうと思います。

まず、本尊様お薬師様は、薬の師、薬の先生と書きますように、私たちの体や心の病を癒してくださる仏様です。が、本堂の入り口の外の扁額に「醫王閣」と書いてありまして、別名を医王、医者の王様な訳です。ですが、その昔インドで医王と言うとお釈迦様ご本人を指していました。

お釈迦様のところに行くと誰でも癒されてしまう。その説法も当時の医者の診断処方の仕方にそうようなものだったと言われています。とても科学的論理的なお話をなさった。だから医王と言われたわけです。

それでどんなことをお話しになったかというと、生きるとは総じて苦である、ではなぜ苦しむのか、本来目指すべき幸せとは何か、そこに至るためにいかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。

これを四つの聖なる真理と言いますが、短くお薬師様のと言いますか、このお釈迦様のメッセージを申し上げますと、「悩み苦しみ多い人生ですが、自分、自分というとらわれを捨てて、きれいさっぱりした安らいだ心で、苦しんでいる人たち、生きとし生けるものたちにも同じように安らぎが訪れ幸せでありますようにと願い行動しよう」ということになろうかと思います。

そして、お薬師様の脇侍として日光月光両菩薩が厨子の中に一緒に祀られています。それから、インドの古い神である十二神将が厨子の両脇に祀られ、そして右奥には真言宗祖弘法大師空海上人、そして地蔵菩薩が祀られています。

お地蔵様のメッセージというと皆さんお分かりでしょうか。涎掛け(よだれかけ)をつけていたりしますから、早くに亡くなったお子さんの霊を救ってくださると言われます。が、それもあるのですが、本来は、六道(ろくどう)に輪廻(りんね)する衆生の信心に応えてお救い下さる仏様です。ですから、六地蔵として祀られていますね。そのメッセージというのはいかがなものでしょうか。
「私たちは、みんな死んで終わりではなく、生まれ変わり生きていかねばなりません。地獄餓鬼畜生などに転生しないように、善きことに励みしっかり生きよ。でも万が一苦界に行ったときに困らぬよう信心ごころだけは忘れずに」と、それがお地蔵様のメッセージであろうかと思います。

そして、胎蔵界、金剛界の曼荼羅があり、左奥には奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)菩薩、観音菩薩が祀られています。

観音様をご信仰なされている人はありますか。慈みの心をもって苦しんでいる人困っている人と同じ立場お姿になってお救い下さるという観音様ですが。ただ合掌してお救い下さい、助けて下さいというのではやはりいけないわけで、「皆さんも一緒に観音となって周りの人たちを助けてあげよう。共に寄り添うという思いをもって、誰彼となく差別したり分け隔てをしないように」というのが観音様のメッセージではないかと思います。

それから左奥には、隣の八幡神社のご神体であった本地仏(ほんじぶつ)を明治以降お預かりしてお祀りしています。

ところで、沢山の仏様がこのようにそれぞれのメッセージを表現されておられるわけですが、この本堂の中心はどこだと、思われますか。本尊様でしょうか。

実はこの大壇(だいだん)と言っておりますが、この正方形の壇こそが本堂の中心なのです。真言宗寺院の他にない特徴と言えます。拝む仏様にこちらにお越し願ってこの塔の中の小さな仏様の御像にお招きします。この前にある礼盤(らいはん)に座った導師がその仏様と一体になって供養をして、正にここに仏様が顕現しているとして、様々な御祈願を致します。ですから、まあ、一番ありがたい場所ということになるのです。

いろいろと器がありますが、香を焚く火舎(かしゃ)、それに六器(ろっき)、飯器(ぼんき)、華甁(けびょう)などがあり、それらに盛られた御供えをお招きした仏様に供養するという設(しつら)えになっています。

以上、お祀りしている主な仏様がたのそれぞれの声なき説法と言いますか、発しておられるだろうメッセージを聞くという観点から少しお話しをさせていただきました。

いかがでしたでしょうか。仏様がたの願いは、「私たちを慈悲深く見守ってくださっているというよりも、やはり、しっかりと仏様のメッセージを体して信仰の生活に励んで下さい」というエールを私たちに送って下さっているのではないかと思います。

皆様も団体参拝の旅の後は、是非いろいろと疑問を持って仏教を探求し、仏様方の声なき声に耳を澄ませていただけたらと思います。
本日はご参詣いただき誠に有り難う御座いました。



【國分寺通信】
◯この度は、備後國分寺の涅槃会(ねはんえ)並びに稚児行列、御開帳法会、そして土砂加持法会にご参詣いただき、誠に有り難うございました。土砂加持法会は毎年四月の第一日曜日に執り行いますが、六年に一度、こうして朝からお釈迦様の御入滅を追慕して涅槃会を修し、天童子に擬した稚児の行列に先導してもらって、法会を営む大行事を行っております。今年は三十年ぶりの本尊御開帳も併せ行いました。また三十年後にも御開帳が出来ますかどうか。次の住職にご期待いただきたいと思います。

◯涅槃会は、常楽会ともいい、本来お釈迦様の亡くなられた二月十五日に行われます。鎌倉時代の高僧明惠(みょうえ)上人作の四座講式(しざこうしき)が唱えあげられる法会で、(涅槃講(ねはんこう))御入滅の功徳を讃えて供養を捧げ、(羅漢講(らかんこう))十六羅漢ら弟子たちの法灯護持の徳を称え、(遺跡講(ゆいせっこう))各地にあるお釈迦様の遺跡について功徳を嘆じ、(舎利講(しゃりこう))ご遺骨である舎利の功徳を讃嘆する、つごう四座を十四日の夜から翌十五日午前中まで一晩かけてお勤めされるものです。神辺の真言宗寺院では、それらを毎年一座ずつお唱えする涅槃会を、三月末頃に執行しています。来年は平野の法楽寺様にて行われる予定です。

◯左記の毎月行っている月例行事には、どうぞお気軽にご参加下さい。坐禅会は、歩行禅の後、三十分の坐禅を二回いたします。仏教懇話会では、五月ころから今回の御開帳にあわせ発行した記念誌を読みながらお話する予定です。


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備後國分寺だより 第66号(令和6年1月1日発行)

2024年01月29日 08時16分33秒 | 備後國分寺だより
 備後國分寺だより 第66号(令和6年1月1日発行)


七回忌の法事にて
  極楽は極楽か


「お疲れさまでした。長いお経を聞いてくださり、また、ご一緒に『仏前勤行次第』を御唱和いただきご苦労様です。今日は七回忌ですから、こちらの塔婆に書いてありますように、七回忌の本尊様阿閦如来に沢山のお供えをし、読経供養を施し、その功徳を六年前に来世に赴かれている○○大姉に手向けるというのが今日の法事です。

こちらにあります塔婆には、上から梵字で「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」と書いてあるのですが、これはよく先祖墓に見られる五輪塔を表していまして、その意味は下から地水火風空となります。これはそれぞれに大をつけて、五大ともいわれるこの宇宙全体を構成する要素となるものです。

それぞれの意味は、地大は堅さを性質としてものを保持する働きを表し、水大は湿り気を性質としてものを収めとる働き、火大は暖かさを性質としてものを成熟させる働き、風大は動きを性質としてものを成長させる働き、空大は虚空のことでこの場合空間を意味しています。

これは、その成り立ちそのものである大日如来を表わしているものともいえ、五輪塔を建立することは、多くの人を幸せに導く仏教のシンボルとして、誠に功徳あるものです。そこで、法事にあたり薄い板ではありますが、その五輪を刻んであしらい、五輪塔を建立する功徳を今日の法事の○○大姉に手向けるために建立されるのです。 そして、塔婆には、その下に回忌の本尊様を象徴する梵字が書かれ、そのあとには「○○院○○○○大姉七回忌菩提の為也」とあります。

七回忌の菩提ですが、菩提とは覚りのことですから、七回忌の覚りというものが特別にあるのかというとそうではなく、この七回忌の法事に当たり前世の家族親族であった皆様の供養する功徳をいただかれ、さらに覚りに向かい一歩でも前進して心清らかにご精進くださいという意味となります。

あれ、そうなんですか、死後は極楽浄土に逝けるという宗旨もあるのにとお考えになられるかもしれません。

が、少しお考えいただきたいと思うのですが、この煩悩だらけの私たちの考える極楽と仏様のお考えの極楽とは随分と環境や居心地が違うのではないかと思うのです。ちょっと待ってください、コンビニに行ってきますというわけにはいかない世界です。仏様の世界に逝くというのはそのまま仏様を目の前に教えをいただき仏様のように過ごすことです。きらびやかな荘厳にとらわれがちですが、仏様の世界は禅定の世界です。

昔禅宗のお寺にご縁あってお世話になっていたことがあります。そこでは「接心(せつしん)」という、一週間一日に十時間以上座禅する坐禅会があり、三度ほど参加させてもらいました。

周りは禅宗のお寺さんばかりで、はじめはじっと座っているだけで緊張し、体中の筋という筋が突っ張りゆったりと座ることもできませんでした。そうした時に警策(けいさく)という棒で肩から背中にかけてパンパンパンと叩いてもらうと、スッと身体の緊張が解けて楽になったことを思い出します。

皆さんが突然そうした坐禅会に参加されたらどんな感じになられるでしょうか。私は高野山やインドに行った後にご縁をいただき参加させてもらったので多少の下地はあったのに、それでも大変でした。

さらに韓国の禅宗にはその坐禅会の期間が五十日に及ぶところがあるとか。またスリランカやミャンマーなどでは、期間を設けずに、横になって寝るのは一日二三時間だけで、あとはずっと坐禅瞑想ばかりしている森林派のお寺さんもあるとか。そんなところに突然放り込まれても、おそらく一週間と持たないと思います。

極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界と思わなくてはいけないとすると、そこにいられるだけの心、つまり欲も怒りもない、何があってもなくても動揺しない心を作ってから行くべきではないかと思うのです。

インドの仏教徒たちは、また死後も人間に生まれ変わりたいと言います。もちろん今よりも裕福な家に生まれたいと。そのために沢山の功徳を積んでおきたいから、お寺に行きブッダを礼拝し、ドネーションしてお坊さんたちに食事を食べて修行してもらって功徳をたくさん積んでおきたいと思っています。

今日の法事の○○大姉もおそらくそんな厳しい世界ではなく、○○家の皆様同様の敬虔な仏教徒の家に生まれ変わり、そこでたくさんの功徳を積み、心を浄めて、一生でも早く仏様のような清らかな心を作ってくださるべく精進されているものと思います。

そのために皆さんも今日の法事において、たくさんの功徳を積まれ、来世におられる○○大姉に向けてその力となるべく功徳を回向されたということです。

この次は十三回忌、少し先になりますが、それまで仏壇から功徳をご回向してあげて欲しいと思います。本日は誠にご苦労様でした。」

○この法話を実際に聞いてくださった方々が、聞いていておそらく頭の中に?マークがついたのではないかと思われる点について、解説を補足してみたいと思います。

まずはじめに、「来世に赴かれている」という表現についてです。死んだら無に帰するとか、仏になるという表現もありますから、死後のことは心配いらないとお考えになる方もあるかもしれません。ですが、仏教は死とは体と心が分離することであるとされ、身体はこの世の借りものなのです。心が本人であると考えます。そして、すべてのことに原因ありとする教えです。この世に生まれ、こうして私たちが縁あり、この話を聞いてくださるのにも原因と縁があってのことです。

ですから、亡くなったら身体は荼毘(だび)に付されますが、心には様々な思いが残り、それが因となり、その心に相応しい来世に赴くと考えるのです。それを輪廻するというわけですが、間違いのない生涯であれば人間界以上の世界に、もしも暗い心で亡くなったりすると餓鬼の世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に生まれ変わる可能性があるとされるのです。

実はこの生まれ変わりに関する研究は学問的に古くからインドやスリランカで進められており、日本では東京の産婦人科医池川明さんが有名です。米国ではヴァージニア大学において一九六〇年代から専門に研究する超心理研究室がつくられ、世界ですでに二千件もの間違いのない生まれ変わりの事例が確認されているとか。学んでもいない行ったこともない地方の言葉を話し出す子供がいて、その地域に連れて行くと、ある家の家族の大人に自分の子供に対するようにその子が語り掛けたりということが実際にあるそうです。

次に、「この煩悩だらけの私たちの考える極楽」とありますが、中には死ぬとそれこそ仏になれるのだから、今の自分とは次元が違う心になると考える人もあるかもしれません。船橋の大念寺というお寺に大島祥明さんという住職さんがおられます。実際にお会いしてお話を伺ったこともありますが、『死んだらおしまいではなかった』(PHP研究所)という本に、亡くなられた人の死後の心について書かれています。

十年間ばかりの間に二千件ものお葬儀をされたということなのですが、しばらくすると通夜のお経を唱えていると亡くなった人の心が語りかけてくるのがわかるようになったというのです。誰が亡くなっても急に人が変わることはなく、その人の本質的なものがあらわになって語りかけてくると書かれています。誰もが亡くなった時の心にしたがって死後の心もあるということなのです。

それから「仏様の世界は禅定の世界」ということについてですが、仏様の世界の下には、無色界、色界という天人の世界があるとするのが仏教の世界観です。私たち人間界はその下の欲界にあるとします。色界、無色界は共に深い禅定を修めた人たちが死後に生まれる世界とされています。その上に位置する仏の世界は当然それ以上の静謐(せいひつ)なる世界と言えます。

そこで、「極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界」という表現となっているのです。そのことについては、浄土真宗のお寺出身の武蔵野女子大学教授花山勝友先生がお書きになった『仏教を読む・捨ててこそ得る[浄土三部経]』(集英社)という本から核心の部分を転載させてもらいます。

「古来浄土経典とよばれるものを典拠として、死後の世界としての極楽が説かれてきたわけですが、教義の上からいいますと、実は、極楽という世界は、経典に描かれているような、人間にとっての理想的な世界では絶対にあり得ないのです。…浄土というのは、人間の欲望の対象になり得るようなものがあるはずはないのです。

…浄土を極楽と名付け、そして、その世界がいかにも人間にとっての理想的世界のように描写しているのは、一人でも多くの、煩悩を抱いている、まだこの世に生きている人間を導こうという目的のためであって、これを仏教では方便といっているのです。(P19~P22)」以上


中村元東方研究所
 東方学術賞授賞式に参加して 

昨年十月十日、東京九段のインド大使館で、公益財団法人中村元東方研究所の第三十三回中村元東方学術賞の授賞式が行われ、参加しました。

今回の栄えある授賞者には、これまで何度も本紙にご著作を紹介して学ばせていただき、また平成二十二年三月福山に本派研修会にお越しの際に当山にもご参詣をいただいたこともある、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生が選考されました。

以前先生から東方研究所の会報をお送りいただいたご縁で、数年前から会員にさせていただいておりました。

先生は長年にわたり、シク教の研究やイスラム資料からインド仏教の盛衰を研究され、それのみならずインド宗教全般の幅広い研究に多大なる実績を挙げられての受賞でありました。

受賞後のご挨拶で先生は、「学問研究もただ自らの成果とするばかりではなく、広く世の中に、特に世界の平和と人々の安寧に寄与するものでなければならず、昨今の国際情勢の不穏な現状にも貢献できるための比較思想、比較文明論であらねばならない」と述べられ、とても印象に残りました。

なお、若手の研究者を対象にした学術奨励賞には、明治の傑僧といわれた釋雲照律師の研究書『釋雲照と戒律の近代』(法蔵館)を出版された亀山光明氏が受賞しています。

亀山氏は真宗寺院の寺族でありながら、近代の真言僧の戒律について研究する矛盾を感じつつも、自らの出自で悩んだ過去の煩悶が近代の仏教を学ぶ中で救われる思いがするという経験から研究を続けているとのことでした。

後日読んでみますと、とても丁寧に明治時代の資料を渉猟してなされた研究であることがわかりました。そして、雲照律師の戒律思想は理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであり、近代に相応しい活動であったと結論しています。

近代仏教は、真宗僧ばかりが取り上げられる「真宗中心史観」ともいわれる状況でしたが、こうした若い研究者のお陰で見直されつつあるのはありがたいことであると思います。今後の研究にも注目したいと思います。


お茶会を終えて  

昨年九月十七日、ここ國分寺を会場にお茶会が開かれました。尾道のNPO法人・茶の湯歳時記同好会主催の百人を超える参加者が来訪される盛大な茶会でした。

同会は、これまでにも尾道の浄土寺や海龍寺、光明寺、三原の極楽寺などで茶会を開催してこられました。この度は、『茶の湯~西国街道をゆく~』と題された連続茶会の今年五月に開催された第四回尾道海龍寺文楽茶会に続く、第五回神辺備後國分寺茶会として行われたものです。

ことの始まりは、今年二月に神辺在住の表千家教授である理事さんが訪ねてこられ、是非客殿で茶会を開かせて欲しいと申し入れがありました。これまで茶会などとは縁のなかったこともあり、総代さん方にも相談の上快諾を得て、その後理事さんとのやり取りの中で日程も決まりました。

今年五月ころだったでしょうか、副理事長さんと実際に茶会で作法される先生方が会場の視察に来られ、部屋割りや出入り口の確認をしていかれました。そして八月末にもう一度理事さんが会場の確認に来られ、茶会前日には茶道具や花、掛け軸を持参され、会場の設えがなされて当日を迎えました。

当日は先生方は午前八時前にはお越しになり、九時から本堂で本尊様へお茶をお供えする供茶式法要がありました。同会理事長の壇上博厚氏より挨拶と来賓の紹介があり、そのあと供茶式が行われ、梵語の心経を独唱の後、理事さん方や茶会に参加される皆様方と心経を読誦しました。

遠くは京都や広島からお見えの方もあり、午前A九時半、午前B十一時十分、午後C十三時十分の、それぞれ定刻には定員を超える三十五名の予約されたお客様方が集い、客殿奥の間の濃茶席・中の間の薄茶席・客間の点心席と移動しながらゆっくりとお茶を飲み、國分寺での茶会を堪能されお帰りになられたことと存じます。濃茶席は表千家流十友会、薄茶席は表千家流雛の会が担当されました。先生方にはこれまでなされた大寺とは違い手狭に感じられたかもしれません。

皆さまが片付けを終えてお帰りになったのは夕方四時半ころだったでしょうか。九月半ばとはいえ夏の暑さの残る中丸一日着物でご奮闘なされ誠にご苦労様でした。後日早速に理事長様から丁寧な毛筆の礼状が届きました。「吹く風の 色こそみえね 唐尾山の 古代の松に 秋は来にけり」と歌を添えてくださいました。ありがとうございました。

國分寺では、夏の行事万灯会が八月二十一日に終わって、次の日から庭屋さんが入り庭園から境内の樹木の剪定が行われ、今年は殊の外丁寧な作業が二週間続きました。その間庭園や境内の草取り、中門外や参道の草刈り、本堂の縁や茶室の濡れ縁の掃除、そして茶会の前日まで本堂客殿の室内ももちろんのこと清掃に勤めました。普段しないところまで掃除ができ、あらためて掃除の大切さが知られるということもありました。

お寺は専門的な言葉では現前僧伽(げんぜんさんが)の役割として檀信徒に維持していただき様々な行事法務に勤しむ活動をしているわけですが、一方で世界のすべての仏教施設は四方(しほう)僧伽として、すべての仏教徒に門戸を開き適切な対応がなされなければならないものです。勿論ここにある僧伽とは僧の集団をさすわけですが、僧園や精舎などの施設は四方僧伽に属するともあります。今日の寺院も僧伽と考えれば、一般的にも寺院は公共の施設として捉えられもしますが、本来お寺は四方僧伽としてより広く人々に開かれてあることが本来のあり方と言えます。

そう考えますと、この度の茶会も、伝統文化の普及発揚のためになされた、人々の心を豊かに育むための活動に対する四方僧伽としての役割を果たしたものといえましょう。私どもも茶会が行われたことで多くのことを経験し学ばせていただきました。お茶会のため、残暑厳しい中参道の草刈り、草取り、外トイレの清掃にご精進くださった檀信徒の皆様に改めて感謝し御礼申し上げたいと思います。


三方よしということ           

三方よしという言葉があります。近江商人の心得とも、モットーともいわれますが、売り手も買い手もそれから世間にも良いことを言うのだといいます。

ネットの言葉検索で「コトバンク」を見てみると、『「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。』とあります。

世間良しのところを社会貢献に置き換えてしまっています。これでは世間良しは商いと別物のように受けとられかねません。商いそのものが世間にとってもよいものである必要があるという本来の意味を読み違えそうな表現ではないかと思えます。商いと社会貢献を切り離しては本来の意味の三方よしにはならないでしょう。

ところで、昔サラリーマン時代に、「てんびんの詩」という映画を見たことがあります。ある情報出版社で営業企画の仕事をしていて、営業マンたちの研修に参加して一緒に見たのです。研修用の映画というので、誰もがこれ見よがしの教育ビデオ程度に思って見始めたのですが、終わった時にはみんな涙を浮かべて、見てよかった、もっと早く見ておきたかったと言い合ったものでした。みんなしんみりと、自分の営業の至らなさを思い知った人もありましょうが、その人生の根幹にまで思いを馳せ考えさせられる内容に誰もが重たい気分になりました。

制作した会社のホームページ『日本映像企画・オフィスTENBIN』には、次のようなあらすじが書かれています。
「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋(なべ)の蓋(ふた)が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。

しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。

行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。

無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。大作は、その場に手をついて謝る。「堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです。」女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった。」

そして、鍋蓋を買ってくれた女は、近所の人たちにも声をかけてくれて、おかげで大作の鍋蓋は売り切れ、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」という商いの神髄を知ることができたのでした。大作は父もしたようにてんびん捧に“大正十三年六月某日”と鍋蓋の売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰っていきました。商いに関すること以上に、親の子に対する思い、世間の他所の子に対する接し方、幼い主人公の心の葛藤など、学ぶべきことの多い作品でしたが、今の時代、教育という観点からも一度は若いうちに見ておきたい映画の一つではないかと思います。

主人公が農家の井戸の洗い場にあった鍋蓋を見て考えて、思い改めて涙があふれ、そのときその鍋蓋はただ自分が売るための商品ではなく、自分にとってかけがえのないものであり、ただただ、いとおしくなった鍋蓋。気がつくと無意識のうちにその場に下りていき汚れた鍋蓋を一心に洗っていました。自分は何もわかっていなかった、商いということがわかっていなかった、鍋蓋のことも、それを使う人の気持ちも。その素直な気持ちが農家の奥さんの気持ちを動かし、鍋蓋を売ることにつながりました。

売り手と買い手、そして、その周りの人たちにも、お父さんお母さんや店の人たちにも喜びや安どの気持ちをもたらしたことでしょう。主人公の少年から鍋蓋を買った奥さん方はその鍋蓋を大切に使用したであろうことも想像されます。まさに三方よしといえましょうか。

ところで、たとえばお堂の材木は伐採され製材した材木の売り手があり、その材を買い手として大工さんや工務店があり、お堂の一材として建設されます。勿論買い手と売り手が適正な価格取引に満足してのことであり、そして、そこに集う参拝する人々が世間としてそのお堂で様々な祈願をなし、多くの人の集う場となることによって、三方よしが成立します。

また様々な病気や感染症に対する薬やワクチンがあります。まず、それを作る製薬会社があり、それを症状ある人や感染を危ぶむ人が購入し、飲用したり投与する。それにより世間の人たちは安心し健康な生活を享受できる。それで快復改善されるばかりなら問題はなく三方よしとなりますが、その価格が適正なものではなく、さらに副作用が想定よりも多くなり、社会に不安を与えるようなら、それは三方よしとはならないでしょう。

広島県では昨年、県が許可した三原市の産廃最終処分場から染み出した水の汚染度が法定の水質基準の二倍を超えているなどとして地域住民による訴えがなされました。地裁にて県の審査の不備が指摘され建設と操業差し止めの仮処分が決定したにもかかわらず、それに対し県は控訴するとした問題がありました。処分場建設会社と土地を提供した県の二方に、世間としての地域住民がよければ三方よしとなるのでしょうが、残念ながらそうはならなかったケースといえます。当事者だけ良い取引ではやはり後々問題が生じ世間からは後ろ指をさされる可能性があるということでしょう。

日本の仏教は、その教えの基本的な考え方として自力とか他力とか言われることがあります。ですが、真言宗では三力という考え方をいたします。修行する自らの功徳力とそれに対して仏の側からの救済の力、それに宇宙の万物に宿る生命力によって悟りは成し遂げられると考えるのです。やはり三方の力が総合されて初めて良しとする考え方といえるでしょうか。

さらに慈悲も自らがよくあってこそ他を慈しむことができるわけですが、慈悲の心を養う瞑想法では、まずは自らの幸せを願い、身近な人たちの幸せを願い、そして生きとし生けるものの幸せを願います。やはり三方がよくあらねば慈悲も成り立たないということです。何事にもこの三方よしを確認することによって、当事者だけでなく周囲の人たちや社会にとってもよい、間違いのない行いをなすことができるということにもなります。

近江商人が育てあげた総合商社に伊藤忠商事があります。その創業者伊藤忠兵衛の言葉に『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉があるといいます。これは近江商人の先達たちに尊敬を込めて語ったとされるのですが、いにしえの商人方は実業も仏行と捉えられていたということです。仏の心にかなう行いを心掛けたいと思うなら、近江商人に倣い、この三方よしを確認すべしということであろうと思います。


國分寺に掛けられている書画について


まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。

本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。

玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。

「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。

左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya svaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書かれたのは私の出家の師となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官(こうりゆうぜんかん)です。梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。 

客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜(くさなぎぜんぎ)猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師(しやくうんしようりつし)によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園(つらじまそうえん)にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。

この書は高野山の執行長(しぎようちよう)時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。

そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚心」が掛けられています。

同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄(りゆうちみつおう)猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を描いた額があります。

そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍(どきほうりゆう)師の書もあります。師は明治二十六年(一一八九三年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。

そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城(ごんごほうじよう)」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。

この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞(りゆうずい)猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶(とも)に了々たり」と二行に書かれています。

また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(一八四一年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。

そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊(ぎよくうん)の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。

同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄(ぶんゆう)師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 

北側には雲照律師が安政六(一八五九)年に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮(はちす)を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る」と書いてあります。

それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。

弘法大師の著作『秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。

この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。

そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。

北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治時代になると仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。

そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯(じようによたんがい)猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。

「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴  小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清 
 東林吐月々更明 此夕何夕最多清  床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
 独在香楼費吟句 何厭翫月至五更  天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」と、先代が書き残してくれていました。

ご参詣の折に、是非ゆっくりとご覧ください。


【國分寺通信】
 朝な朝な 出づる日影は 我ために
  こことをしふる 西の山端  (慈雲尊者和歌集より)

「極楽願求のこころを」と題する和歌となります。
毎朝拝む朝日に手を合わせ、一日の安穏を祈り、尊者が提唱された十善の生活の中で、十悪を避け、たくさんの徳を積む。そして、一日の終わりには沈む夕日に西方浄土の方角を教えられ、一日無事に過ごせたことに感謝の心を捧げつつ、合掌する。そうした極楽を思い信仰の生活を送る人の営みが自然と目に浮かぶ一句と言えましょうか。

○今年は御涅槃です。そして、平成六年以来のご本尊の御開帳を予定しています。当日は朝九時には御開帳し、夕方五時に扉を閉じる予定です。この間に、九時過ぎからお釈迦様の涅槃会を厳修し、十一時ころから稚児行列・御開帳記念法会、午後一時からは土砂加持法会、御法話となります。

この間にいつでも本堂に参詣できますので、ご都合の良い時間にお越しになり、是非お姿をご覧になりお詣りください。御稚児さんは、参道を歩き本堂内にお詣りします。たくさんのご参加をお待ちしています。若い方々へお声がけくださいますようよろしくお願い申し上げます。

 
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)


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備後國分寺だより 第65号(令和5年8月1日発行)

2023年08月01日 16時50分32秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第65号(令和5年8月1日発行)


大師堂落慶を祝して

四月二日、めでたく大師堂が落成しました。前日まで左官屋さん、大工さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださいました。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わりました。

明治三十四年五月発行の『廣島県名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑があります。

それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺之真景」とあります。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂(こもりどう)らしき建物が描かれています。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物でしょう。

唐尾山は國分寺の山号であり、寺の背面に位置する山を唐尾山と通称しています。四国八十八箇所の札所本尊を彫った石仏が山一円に順に設置されていて、山の西麓に屋根を設けた一番札所があり、そこから北西の斜面を上がり下御領下組の共同墓地を経て、山上の石鎚社に登ります。その西側の三十八番札所から接待堂を経て、途中古墳をいくつか横に見ながら石段が設けられた山を下るのです。國分寺の庭園を見下ろしながら降りてくると本堂西の裏にあたる八十七番札所があり、八十八番結願所は境内に設けられていました。一巡すると小一時間はかかるでしょうか。

江戸時代初期に四国霊場の巡礼は盛んとなり、その後全国各地にミニ霊場が作られていきます。その一つとして、天保の大飢饉をきっかけに開創されたとされています。霊場開創百四十年記念誌に記載された開創当時の施主帳には、天保十二庚丑(かのえうし)年秋八月吉祥日開眼、法印光蓮代とあります。天保四年(一八三三)に大雨による洪水や冷害による大凶作により始まり、天保十年ころまで続いたとされる天保の大飢饉を乗り越え、風雨順時五穀豊穣を心底願われて開創されたのでした。

そして、明治二十一年に近在の信者約五百人から浄財をいただき籠堂を建立したとあります。それも九十年余りが経過して損壊甚だしきことから再建の話もあったとありますが、おそらくお籠りする人もない時代となったため、境内に置かれた八十八番の本尊と大師像を祀る大師堂として昭和五十六年に建立が発願され、千五百人近い人々から浄財を頂戴し、八月二十日に落慶されました。

それから四十年余り、唐尾山八十八箇所は二十年前頃まで毎朝何人かが巡っていましたが、巡る人が徐々に減少。接待堂でのボヤ騒ぎや不審者の滞在など風評が広がりさらに減って、近年はイノシシが駆ける道となってしまったことも災いしました。

大師堂は毎月の薬師護摩供の道場として特に十年ほど前から多くの参拝者を迎えるようになり、数名の人たちが外にベンチを並べてお詣りするようになっていました。加えて、南に位置する休み堂をどのように再興するか以前から懸案となっていたことから、二つの建物を繋いで内拝できるお堂として再建することが検討されたのです。

旧大師堂建立の経緯から、昭和五十六年に建設した際に世話になった大師講の世話人方にこうした事情を説明し了解をとる必要があり、丁寧にこの度の再建計画に至る事情を説明。お寺の敷地内のことでもあるからとご了解いただき、令和三年四月には建設にとりかかる予定でしたが、コロナ禍の中、物流がストップするなど資材が揃わず延期となり、昨年令和四年十一月やっとのこと解体にこぎつけたのでした。

四日に午後から石仏を搬出し境内に安置、護摩壇は本堂に移されました。七日より解体が始まり、三日ほどで二つの建物の解体が済み、十日に急遽倉敷の宝嶋寺様に伺い土公供(どこうく)の伝授を受け、十一月十二日午前に鎮壇具(ちんだんぐ)を地面下に埋納する土公供を執行しました。

当日朝から、六文銭を取り付けた土公申幣、幣足十二本、五寶・五香・五薬・五穀・五色を納めた宝鋲(ほうびよう)、さらには水、酒、色紙を小さく刻んだ切花、洗米に五色の紙を刻んで入れた散米、五穀粥、塩を用意。お堂予定地の中央と四方に一尺ほどの穴を掘り、その前に幣を立て、穴に納める鎮壇具を前方の机に用意して午前十時から修法開始。四十五分に終わり、中央には宝鋲と法輪橛(ほうりんけつ)、四方には法輪橛を納めました。そして翌週からといわれていた基礎工事がその日午後から急遽開始されたのでした。

十一月二十六日基礎工事完成。十二月十日木工事のための木材搬入、十二月十九日総代方四人と工事関係者七人が参加されて、圓照寺住職に御助法いただき午後四時半、上棟式を執行しました。導師が仏式上棟式作法を修法する中、心経発音(ほつとん)、立義分(りゆうぎぶん)を共に唱え、諸真言、光明真言、御寳号、一字金輪と次第して唱和を終えました。棟梁に、棟木に幣と棟札を飾り、四方に酒・米・塩を供えてもらい、挨拶、乾杯の後祝儀を差し上げ直会(なおらい)を行いました。

翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事、電気工事などが施されました。

三月三十日、まず石仏が搬入され、護摩壇を本堂から運んでいただきました。それから茶室などに仮置きされていた仏像を一体一体運んで、護摩壇に橛を差し込んで壇線を張り、仏具を移して荘厳し、大師堂入り口の蔀戸など建具が取り付けられました。さらに法要前日に、外にベンチが設置され、流しの横には棚が作られました。そして、大師堂前には紫の寺紋入りの幕、外陣部分には五色の幕が張られ、見事落慶法要の準備が整いました。落成に向け懸命な作業に邁進してくださった職人様方に深く感謝申し上げます。

四月二日、快晴の中、地元神辺の真言宗結衆寺院六ケ寺八師と圓照寺御住職により、午後一時から落成慶讃法要が執り行われました。次第は、入堂着座、奠供(てんぐ)一讃、心経、慶讃文、諸真言、挨拶、祝辞、退堂。慶讃文は以下の通り。

 『大師堂落成慶讃文』
「敬って、真言教主大日如来、両部界会諸尊聖衆、殊には本尊聖者薬師如来並びに高祖弘法大師、総じては一切三宝の境界に申して言さく。
 夫れ惟んみれば、堂塔は秘密荘厳の標幟。伽藍は信心培増の方便にして、本尊之によって威光を輝かし衆生之を仰いで信心を運ぶ。
 茲に当山大師堂と者、そもそも天保十二年開創せし唐尾山大師道の籠堂として明治二十一年に建立。九十年余りを経て損壊甚だしきことから、昭和五十六年八十八番札所大師堂として近在の数多の信徒より浄財を募り再建す。以来、月例護摩供を修して檀信徒の護持並びに参詣善男子善女人の除災招福を祈願せり。然るに、此の度新たに建立を企てるは、先住和尚並びに檀信徒の念願にして、護摩供参詣者の便に資し、精進功徳を積みて人心の暗迷を除き正路に就かしめんが為なり。
 殊に、本年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、宗祖大師を讃仰し報恩謝徳に資するは幸甚この上なし。依って本日落慶にあたり、神辺結衆諸大徳の親修を仰ぎ法会を厳修す。
 期する所は、
 世界平和 国家安穏 弘法大師 
 倍増法楽 護持檀信 家内安全 
 息災延命 如意吉祥 
 乃至法界 平等利益
 干時令和五年四月二日
    唐尾山國分寺 住持全雄敬白」

お寺は福田(ふくでん)とも申します。お参りくださった方々が善行を施し、心を耕し功徳を収穫していただく場であります。是非これからも多くの皆様が大師堂に集い、沢山の功徳を持ち帰ってくださる福田となりますことを心より願っております。     合掌   



オカゲサマデ

数年前の朝日新聞一面に、ハワイの日系三世がハワイ州知事になり、その就任式で、日本語で、オカゲサマデ、コドモタチノタメニ、という言葉を入れて話をしたとありました。

オカゲサマデ、日本でも死語になりつつある言葉なのかもしれませんが、それがハワイで語られ、それも日本語で発音されて語られた意味は深いものがあります。

オカゲサマデという言葉の背後には、みんなつながっている、みんな無関係ではない、みんなのお蔭で自分があるという感覚があります。

これはそもそも仏教で言うところの縁起という教えから発しているものだと私は思っていました。みんな縁りて起こる。他のものの影響、作用によって、変化し、成り立っています。

袖触れ合えば他生の縁とも言います。わずかな関係でも、それが縁となり、その先様々な変化影響のもとに発展し、結果をもたらしていくということです。

相互に関係し、相互に依存する関係性。そういう相互に関連したものを肌で感覚としてとらえ、日本人は昔から、皆様のお陰様で生きております、という気持ちとして表現してきました。

ですが、それも風前の灯火。今の学校の先生で「他生の縁」という言葉を正しく解釈できる人が少ないのだとも新聞にありました。これも死語になりつつあるのかもしれません。

そんなことを前日の記事を読みながら考えていたら、次の日の朝日新聞には、オピニョンという紙面に、人類学者の川田順造教授の「人類の未来のために」と題するインタビュー記事が掲載されていました。

フランスの社会人類学者で「悲しき熱帯」の著者レヴィ・ストロースを師と仰ぎ、アフリカの文字を持たない未開の地に入り研究された先生ならではの体験から、誠に意味深い考察の末に絞り出された叡智の言葉が綴られていました。

地球四十六億年の歴史の中で、今の人類が誕生したのは二十万年前のことでしかないのに、誰のものでもなかった土地に強いもの勝ちで縄張りをつくり、追い出したり追い出されたりしながら、ヒト同士の殺戮を重ね、他の動植物の種も絶やしてきた。地球の危機は人類のゆがみがもたらしたと指弾しています。

本来、他と共に危険をおかし、食を獲得し分け合い、生き延びてきたからこそ今の人類の発展があったのだといいます。人類は、過酷な自然環境の中で、他との共存、共同の中で他との折り合いをつけ、自己を抑制して精神的な成長を経て、他と助け合いながら、今日の繁栄を見ることができたのだというのです。

そして、個々の私たちは、これまで死んでいった人たちやこれから生まれようとする人たちを繋ぐ、つながりの一部に過ぎないという謙虚さも必要であると。だからこそ日本でも、どの地域でも共同体とのつながりを大切にし、それが自己肯定感につながるものとしてあったのだといいます。

しかし、日本においては高度経済成長の始まった一九六〇年代からそれが揺らぎ始め、この二〇年ばかりのITの急速な発展と普及により、他者への関心と思いやりにかけ自分に閉じこもる人たちを増やしてしまいました。人のために役立とうという意識、弱いものへのいたわりといった倫理は薄れてしまったといわれます。

物質的には確かに豊かになりましたが、ですが、そうして豊かになりすぎると逆に精神的には幼児化が進むのだとも。各国の為政者たちを見ていても、また、何でも世の中の風潮だからと受け流してしまう今の私たち日本人もそう言えるのかもしれません。

そして、今の時代への提言として、まず地球に傲慢すぎるのではと自問する謙虚さと他の生き物の命で生かされているという自覚により自然とのつながりを取り戻すことが第一歩であり、そして、問題のありかを考える知的好奇心と想像力、他の人々や自然とつながろうとする感覚がこの困難を克服する武器であると諭されています。

オカゲサマデという感覚。それは仏教に学んだのであろうと思っていましたが、それはもっと古い時代から人類が生き残るために必要としてきたものでした。

人類が、他の動物たちも含め大自然に対して、圧倒的に弱い存在だと自認し一人では生きられないがために、群れとしての共同体と折り合いをつけ生きるしかなかった、そうした古代からの伝承によるものであると、この記事から学ぶことができました。

オカゲサマデ、コドモタチノタメニという原初の思いを、これからも大切に生きてまいりたいと思います。
                                                     (全)


元高野山真言宗管長・元全日仏会長
元高野山大学学長
追悼 松長(まつなが)有慶(ゆうけい)猊下(げいか)


私は教え子でもなく、お寺の関係者でもありません。ですが猊下の最晩年にご縁をいただき、ご厚誼賜ったものとして、誠にごくわずかのその関係についてのみではありますが、四月十六日、九十五歳をもってご遷化された松長有慶猊下の記憶を追悼の意を込めてここに留めておきたいと思います。

松長先生は、仏教学者密教学者としても、また真言僧侶としても最高の位置に自ずと推挙せられて上られました。そのご生涯は、真言宗ならず日本仏教界における金看板ともいえる存在でした。急逝が惜しまれてなりません。

仏教を学び始めてから長年学者先生として仰ぎ見てきた先生が、この福山の地に来たところ、國分寺の先代が先生とは高野山大学の同期であり、盆暮の挨拶は勿論のこと、著書の出版記念パーティや宝寿院門主、法印、管長という重職につかれるたびに祝儀を送り旧交を温めてきた関係であったと伺いました。

それが故に、平成二十六年十月二十二日高野山真言宗の福山近在の御寺院の檀信徒へ管長猊下としてなされる御親教のために福山にお越しになられると、翌日午前中の開き時間に國分寺にお立ち寄りいただいたのでした。

その一週間後には前年に亡くなった先代和尚の一周忌が予定されており、訃報の連絡があって、それを気にされていたと後になって伺ったのですが、何の事前通知もなく前日夕方に明日午前九時半にお越しになられると連絡が入りました。急遽、庭の掃除から始まり御通しする部屋の設い、お茶菓子、拝まれる座の用意など準備して、予定の九時前には仁王門前で待機しました。黒塗りの車が参道を入ってきて、合掌してお迎えしました。

開口一番、誠に自然に「突然にすみませんなあ」と言われたように記憶しています。ほとんど初対面に近いこともあり、緊張してかしこまっていた当方もこのお言葉で気持ちがほぐれたことを思い出します。中門から客殿前の門を入り直接上段の間にご案内し、床前の毛氈の上に敷いた赤座布団にお座りいただき、菓子とお茶をお出ししました。

前年亡くなった先代の話から、その年の春にドイツ人の早稲田大学名誉教授で真言宗僧侶のヨープスト・雄峰先生にこちらの教区に講演にお越しいただいた話や仏教雑誌『大法輪』での執筆の話など砕けた話をしたことが思い出されます。

それから本堂へご案内して先代の位牌を拝んでいただこうとすると、こちらにも毛氈赤座布団は用意していたものの経机の前にお座りになられ、理趣経一巻をお唱え下さいました。誠に有り難く思われ、あとから録音しておけばよかったと思われたのでありましたが。それから上段の間から外にお出になられ、本堂をバックに写真を撮らせていただきました。そして、仁王門前に駐車された車にお乗りになりお帰りになられたのですが、ちょうど一時間のご滞在でした。

何のお礼にもならないものの、早速赤白熨斗(のし)の「菓上」と保命酒を送らせていただいたところ、後日、沢山のご著書と直筆のお手紙を頂戴しました。そしてその翌年の四月丁度高野山開創千二百年の記念法要に高野山に団参で訪れた際に母とご自坊にお礼のあいさつに伺いました。

その後送ってくださったご著書を読んで学ばせていただいたことなど手紙を出さねばと思っていて書きそびれて三年ほども経過した頃、令和元年六月、突然パソコンに向かっていたところ先生からのメールを着信したと表示されたのでした。その後寺報を送らせていただいていたのでアドレスを知られてのことではありますが、驚いてメールを拝見すると、「本を送るように手配してあるので読んで欲しい。戦後の弘法大師の著作についての現代語訳が粗雑であり、誤解される恐れがあるので、残りの余生をその現代語訳に捧げるつもりである。この度は『訳注即身成仏義』(春秋社)であるが読んで少しでも取るところがあるなら勝手なお願いで済まないが感想を仏教関係誌に書くように。日常的に平易な文章を書きなれたあなたにお願いしたい」との内容でした。

早速にご自坊補陀落院(ほだらくいん)にお電話し、直立不動の姿勢で、身に余るお話で期待に沿えないと申し上げると、そんなことではなくただ読んで思ったことを書いてくれればいいからとおっしゃられ、浅学を顧みずお引き受けすることとなりました。もとより不勉強の身のため、ただ読んで思ったことの羅列に過ぎないものを書いたように思われるのですが、六大新報誌に「新刊紹介」として二頁ほどの原稿が掲載されました。ただただ先生のご著書を汚すことにならないかと心配されたのでした。

その翌年六月には『訳注声字実相義(しようじじつそうぎ)』が送られてきて、令和三年には『訳注吽字義釈(うんじぎしやく)』が。

そして昨年一月に『訳注弁顕密二経(べんけんみつにきよう)論』、六月には岩波新書『空海』を出版され、大師とのお約束を成就されたのでした。その都度こちらにもご送付下さり、六大新報社からも連絡が入り、つごう五冊分「新刊紹介」を書かせていただきました。身に余る光栄でありました。

この間二度ほど高野山に用事で出かけた際に補陀落院(ほだらくいん)にお伺いさせていただきご挨拶もうしあげたり、葉書やメールを頂戴することもありました。

昨年三月十八日にいただいたメールでは、「六月には『空海』の題名で岩波新書を出版する予定で、おそらく最後の著作となると思うが、真言宗の方々の常識をいくつか覆し、びっくりされる内容と思うが、瑜伽にいのちを掲げられた大師のお考えの核心と思う点を一般の知識人に訴えてみたい」とありました。

そして六月二十三日には、「早速、的確な『空海』の御紹介に御礼を申し上げる。短時間の間にこれほど深いところまで読み込んでくれて感謝している。これを書き上げてほっとすると同時に疲れを感じる」とありました。

そして、十二月四日、このメールが先生からの最後のメールとなるのですが、「十月に腹痛で入院し、以後医師の指導の下に食生活をし、お酒も甘いものも控えるように命じられている。今年もまた著作の紹介をかたじけなくし感謝している。最後に、くる年もいい年でありますよう祈り上げます」と書いてくださいました。私のようなものにまで体調のすぐれない中メールを送ってくださり誠に申し訳なく思ったことでした。

そして今年四月十六日、朝八時過ぎに一本のショートメールで先生のご遷化を知ることになりました。通夜葬儀は十八日十九日高野山南院(なんいん)にてと知って、丁度その両日、東京のお寺の法会に出仕する予定であったため、当初出席するのは難しいと諦めていました。ですが、これまで賜ったご芳情を思い、急遽十九日早朝五時に宿を出て、六時品川発の新幹線に乗り高野山に向かいました。

降りしきる雨の中、十一時過ぎに南院に到着。門を入ると目の前にずらっと並ぶ供花に、まずは圧倒させられました。広間の建物の外から廊下、門正面の植え込みの周りにも。荷物を置き、上がらせていただき、棺の前に進み線香を立て投地礼。小声ながらこれまでの恩義に感謝の言葉を述べさせていただきました。

それから一度退出して、再度十二時過ぎに南院に参り、奥の間で黒衣如法衣に着替え、山内寺院方のすぐ後ろの随喜参列寺院席に着席。管長猊下はじめ山内寺院院家(いんげ)様、上綱(じようごう)様、前官(ぜんがん)様方が着席され、理趣経一巻唱和。管長猊下と山内住職会会長の弔辞、弔電、挨拶が続きました。この頃から雨脚が強くなり屋根にあたる音がわかるようになります。

そして出棺となり、棺が広間中央に運ばれ、山内寺院方から順に花を棺に入れていきます。私も蘭の花を受け取り棺に添えさせていただきましたが、先生のお顔はお会いした時と変わらず端正な綺麗なお顔でした。そして棺が霊柩車に運ばれるころには土砂降りとなり、棺を乗せた車が動いた、まさに出棺のその時、ひときわ大きく雷鳴がとどろきました。

その時、「人の願いに天従う」という弘法大師の言葉が頭によぎりました。出棺を天が世の者に知らしめ先生を弔わんとされた雷鳴か、はたまた先生が皆のものへの挨拶としてとどろかしめたものかはわかりません。ですがいずれにせよ、霊柩車のクラクションと同時に鳴ったその音は、何か先生のご意思によるものと思われたのでした。

一つの時代が終わってしまったと思われて仕方がありません。先生は戦中戦後どんな思いで補陀落院を継承なされたのか。学問の道を極められた心の源泉は奈辺にあったのか。また、今の時代に私どもに向けて、もっと多くのことを言い残して欲しかったと思うのですが、いやいや、沢山のことを書き残しているではないかとお声が聞こえるようにも思えるのです。

そうなのです。先生は密教の学問的な研究の傍ら、宗教や信仰の枠を超えて、常に時代であるとか世の中の諸問題について、いかにとらえ対処すべきかを問い指針を示してこられました。

それは例えば脳死と臓器移植についての捉え方が西洋の人々とは違った日本人の精神構造の観点からの理解が必要であるとされたり、遺伝子操作については不治の病に対する治療がなされるほかに人間のクローン化などへの不審が払拭されていないこと、終末期医療については長生きよりも命の質の問題への転換が必要とされるなど、医学や生命科学における諸問題の解決のため宗教者からの提言を積極的になされてこられました。

平成十七年には、現在では百四十を超える社寺が参加する西国神仏霊場会が発足していますが、先生は十七人の発起人の一人として神仏の宥和を推進されています。

平成二十一年には、天台宗の半田孝淳座主を高野山で行われる宗祖降誕会に招待され、平成二十三年には比叡山を訪問されて、東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示すべく、半田座主と千二百年の時を隔ててトップ対談を実現されました。これもすべてのものを包摂する密教的発想からの宥和の実践をお示しくださったものといえます。

さらに平成二十二年、全日仏会長として世界経済フォーラムによるダボス会議にアジアの宗教者として初めて招請されました。その際になされた講演の内容は、まさに現状の国際社会のあり方に対して日本の仏教者の立場から警鐘を鳴らすものでした。

自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から全体的、相互関連的に世界を見る立場への転換を提案し、先進文明を唯一絶対の価値あるものとして世界を統合するのではなく、地球上のあらゆる地域に存在する文化の独自の価値を尊重し共存すべきこと、私たちが現代社会に生きているとは環境破壊に関与して生かさせていただいていることに気づき、社会のため環境のために寄与奉仕する生き方が求められていると提唱されています。

ところで、先生の著作のいくつかにヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』の話が登場します。インド人の人生の三大目的であるカーマ(愛欲)とアルタ(富貴)を経験し尽くし、その後無一文となってモークシャ(解脱)を求めて生きる主人公を本当の意味での自由な生き方の手本と書かれています。最後は、わが子とも決別して悩み苦しみつつも、すべてあるがまま現実を受け入れ生きんとする主人公に憧憬を寄せておられるようにも感じられました。

三年ほど前のことにはなりますが、生涯坐禅に取り組まれた仏教学者玉城康四郎先生の著作に学んでいることをメールでお伝えしました。すると、先生からは、「生前よく存じ上げており、東大教授でしたが仏教を学問的に研究するだけではなく、ご自身の生き方の中に常に求め、それを生かそうと努めておられた方で尊敬している。今日このような求道的な態度で仏教に接しておられる研究者はほとんど見かけなくなり残念です。老齢ながら、余生の中にこの態度を取り込み生かしたいと考えている」とご返信いただいて大変恐縮したことがあります。

最後の著作となった『空海』において、先生は大師の思想と生涯の行動が瑜伽(観法・瞑想)に始まり瑜伽に終わると記されていますが、先生ご自身も日々瑜伽観法を丁寧に修法なされ、世俗を超越し無限なる世界と繋がる時間を何よりも重んじてこられたのであろうと思われます。

だからこそ、いつも飾ることなく、誰にも変わりなく優しいまなざしで、気安くお声がけくだされた。そんな先生に数えきれないほどの多くの人が心癒されたことと思います。私もその中の一人にすぎないのですが、晩年にご高誼を賜りましたことの感謝の気持ちを込めて一文認めさせていただきました。

最後に、最期まで命には役割がある大切にせよと教えてくださったように感じます。先代の時代から本当にお世話になりました、感謝申し上げます。どうか兜率(とそつ)浄土より安らかにお見守りください。 合掌      
                                                      (全)



令和五年六月五日 福山北倫理法人会での法話   
『インドに何を学ぶか』
   

今日は「インドに何を学ぶか」というテーマでお話します。三十年も前になりますが、インド僧として三年半、インドに滞在したのは併せて二年半ほどですが、その後もインドと仏教を通してかかわり続けてまいりました。

まずなぜインドに行ったのかということですが、そもそも一冊の本との出会いが、私を仏教に引き寄せたのです。それは、角川書店の「仏教の思想」というシリーズの第一巻『知恵と慈悲・ブッダ』という本です。

増谷文雄さんという都留文科(つるぶんか)大学の学長をされた先生が誠に丁寧にお釈迦様の実像とお考えを描かれていて、当時のインドの様子を彷彿とさせながら読ませてもらいました。

その後高野山で僧侶になりますが、その本の内容と日本の仏教との違いを確認するためにインドに触れなければならないと考えたわけです。

次に、何をしたかということですが、一度目はヨガの聖地リシケシに長期滞在しましたが、二度目にインドに行った時に、コルカタのインドの仏教教団ベンガル仏教会とご縁ができました。ボウバザールという旧市街にあるその教団本部の古い建物はビルラ財閥の寄進によるものでした。

その教団には日本人で後藤恵照さんという、元曹洞宗のお坊さんで四十五才で日本の寺を譲りインドで再出家した方がおられました。サールナートという、はじめてお釈迦様が説法されたと言われる聖地でサールナート支部法輪精舎の住職をされていました。

後藤さんは、因みに「こんなところに日本人が」という番組などに紹介されたことのある方ですが、茨城なまりの日本語で迎えてくださいました。そして、インドにはまだお釈迦様の時代からの伝統ある仏教徒がいると教えられました。

それはお釈迦様の時代にマガダ国という中インドの大国がありましたが、その国のビンビサーラ王がお釈迦様の熱心な信者だったのです。

その末裔たちが、十世紀頃イスラムの侵入を嫌い東に移住を開始し、今のバングラディシュのチッタゴン、今その地はロヒンギャの人たちが難民として滞在していますが、それからミャンマーのアラカン地方に移りバルワ仏教徒と言われて今日まで細々と生き続けていました。そして今から百三十年ばかり前にコルカタに組織されたのがベンガル仏教会であるとのことでした。

私は、日本ではインドに仏教はないと聞いていたのに、ちゃんとインド人の仏教が生きていたことにとても感動し、後藤さんはこれからお寺の中に無料中学校を作る計画だと言われるので、その事業に協力し、自分もインド僧になることを決意しました。

一度日本に帰り拓殖大学で一年間ヒンディー語を学び、再度サールナートを訪ねました。ひと月ほどで見習い僧である「沙弥(しやみ)」になる儀式をサールナートのお寺で受け、黄色い袈裟姿で生活し始めました。

それから半年後、たまたまコルカタで正式な僧侶である「比丘(びく)」になる人があるので貴方も一緒に具足戒を受けなさいということになりました。もう一人の彼、ボーディパル師はベンガル仏教会の創始者クリパシャラン大長老の家系の名家の若者で、二人で、コルカタのフーグリー河上の船の中で十数人のベンガル人比丘に見守られ儀式を受けました。

すべて儀式のための経費や参加した比丘方への食事のもてなしの経費はその彼の家から出してくださったのだと思います。ですから、すべて彼のための得度式であり、私はほんの付け足しだったわけですが、それだけにかえってその奇跡的な機会によくぞ巡り合えたものだと今では思います。

彼はその後世界中の仏教の大祭や会議に出席しては英語でスピーチをするインドを代表するエリートになり、日本で行われた世界仏教者会議にも来てスピーチしていました。が、残念ながら二年前にコロナ疲れで亡くなってしまいました。五十三歳でした。

サールナートのお寺では、日曜学校をして子供たちに英語を教えビスケットを施したり、後藤さんは若者たちに毎朝日本語の教室を開いていましたが、私は一緒に坐らせてもらいヒンディ語を学びました。後藤さんは夕方からはベナレス・サンスクリット大学へ日本語を教えに行かれていましたが、私はその大学に留学させてもらってパーリ語という仏教語を受講していました。

サールナートでの後藤さんとの生活では、四月五月の乾季の暑い時期には蚊帳を吊ったベッドを外に出して寝ていました。最高に暑い日は五月半ばで、五十四度という日がありました。

六月半ばには雨期になり過ごしやすくなりますが、毎日雨が降るわけではなくかえって蒸し暑くなるので体には良くない時期と言われていました。外で寝ていると急に雨が降ってきて二人でベッドを庇の中に運ぶということもありました。それが九月ころまで続きます。

冬は逆に日較差から夜はものすごく寒く感じ寝袋に布団をかけて寝るという具合で、夜水浴びなどできませんから、朝バケツに汲んだ水を屋上に置いて温め昼食後に水浴びしていました。

私の仕事は、後藤さんとともに昼間空いた時間に、サールナートに歩いていき、日本人観光客に寄付をもとめたり、中学校の校舎がお寺の敷地内につくられていきますが、その資金のため、何度か日本とインドを行き来して日本からの寄付を運びました。

また、当時お釈迦様の生誕地であるネパールのルンビニに、国連が主導した開発計画があり、日本の建築家丹下健三さんが一九七八年に設計したマスタープランによって開発がゆっくりではありますが進んでいました。

その僧院地区に、ベンガル仏教会が、土地を借りて寺院を建設する予定があり、コルカタ本部の命で、ネパールはヒンディ語が通用するので、私が一人でその土地の借地料をカトマンドゥのルンビニ開発公社へ払いに行ったこともあります。

カトマンドゥの街を歩いていると、熱心な仏教徒から声を掛けられ、お昼には私の家で食事をして下さい、施食を受けてくださいと言われてごちそうになったこともありました。

結局インドの仏教と日本の仏教との大きな違いは、インドなど南方の仏教では僧侶も礼拝の対象となり、お坊さんは仏像と同じく信者に向かって仏様の側からお経を唱えていました。

似ている点は、やはり人の死にあたっては葬儀をきちんとお寺でしていたことでしょうか。私も三度ほど他の比丘らと一緒に葬儀のお経を、無常偈など二つの偈文を三唱するだけですが、唱えさせてもらいました。

こうして、つごう五回インドに行き、コルカタで二度マラリヤになったこともあり、インドでの生活を諦め、捨戒(しやかい)して帰ることになりました。

なお、後藤さんの学校はその後、別の土地を買い足して中・高・大学と開校し、州公認の優秀な学校として表彰されるまでになりましたが、後藤さんは平成二十八年に八十四歳で亡くなられました。

次に、インド滞在中に仏教以外のことで見聞した特に印象的だったことを三点だけお話し申し上げます。

一つは、サールナートに長期滞在するときに、留学ビザを取りインドに入ったのですが、留学生は現地ベナレスの外国人登録事務所に名前を登録しておく必要があります。ですが、その前にデリーの中央政府の本部事務所にビザを提示して留学の承認を受けねばなりませんでした。

事前にインドでは何事も賄賂(わいろ)が必要と聞いていましたので、この時も係官に百ルピーのお金を差し出しタバコ銭にと言って渡しました。するとその方は、「この金は何か、私たちはきちんとサラリーをもらって仕事をしている、私たちは貧乏ではない」と憮然(ぶぜん)として言われたのです。

私はとても恥ずかしい真似をしたと後悔したようなことですが、立場のある役人や政治家がおのれの信念を貫くことが日本でも難しい時代ですが、インドの役人には、それをはっきりと言葉にできる立派な人がいるのだと知ることができました。

二つ目は、インドで寝台列車に乗り見聞したことですが、あるときラクノウからコルカタに向かう途中、夜の九時ころパトナに停車するとたくさんの人が大きな荷物をもって乗り込み、私の寝台の下にも座り込んで、急に大きな声で話だしました。

何事かと耳を澄ましておりましたら、そこで出会った三、四人の人たちが、ビハール州の首相が公金を使い込んで逮捕されたのに居直っているとか、天候異常から作物の値が上がるのは分かるが便乗してあれもこれも値上げしてけしからん、みんな大企業なのに庶民の暮らしを何と心得ているのかなどと、怒りをあらわに様々な情報や意見をやりとりしていたのでした。

難しい言葉は分かりませんでしたが、インドの人たちは初対面でも自分の主張をきちんと言い合える人たちなんだと思ったようなことですが、日本ではまずそんな光景には出会えないと思いました。

それから三つ目は、マラリヤになった時のことですが、二度目のときには大きな四階建ての病院に連れて行かれました。たくさんの人たちが行列していましたが、私はなぜかすぐに呼ばれ診察を受け、薬も沢山の人だかりのなか、またすぐに私の名前が呼ばれて薬をもらい帰りました。

宗教者、とくに厳しい戒を守る仏教の坊さんには他の人たちも何も言わずに道を開けてくれるようなところがありました。宗教者を大切にする風土が今もあるということかと思います。

以上、私がインドで特に印象深く記憶に残っていることをお話しましたが、それを踏まえて、インドから何を学ぶかと考えてみたいと思います。

インドという国は近年特に国際政治であるとか経済面、特にITの分野、医薬製造や自動車関連製品での躍進はすさまじいものがあります。また数学計算でのインド式であるとか。語学の才能もぴか一です。

十四億人という人口も世界一になりました。インドという国はご存じの通り、大きな国土に人が多いだけではなく、言語が多様であり、それだけ民族も多く、宗教も複雑さを極めています。

面積的にはパキスタンやバングラディシュを含めると同程度とされるヨーロッパは、二十一世紀になりやっとEUとして統合されましたが、いまだに国家としては別々です。ヨーロッパの宗教がほとんどがキリスト教であることを考えると、インドという国は、古代からずっと、イギリスの植民地時代を経て今日まで、誠に複雑な民族・文化の違い、宗教間の軋轢にさらされて来たわけです。

それだけに各々の文化や宗教に根ざす信念や忍耐を強く養いつつ、それを議論し続けてきた人々なのであろうと思います。この二十一世紀の現代において、未だに宗教をとても重んじる国であることは間違いないでしょう。この度の広島サミットにお越しになった方々を見ても、モディ首相だけが民族衣装を着て颯爽と登場されましたが、自国の文化伝統に対する誇りが強く感じられました。

例えばパール判事というインド人国際法学者がおられました。戦後の極東軍事裁判で唯一戦犯すべてを無罪とする判決を下されたのは有名ですが、戦勝国におもねることもなく、法学的な信念と宗教心に裏付けされた、勇気ある発言をなされたというのは、いかにもインド人らしいと私は思います。

また、インドは核保有国として知られるわけですが、なぜ国連の常任理事国五大国だけが核保有を認められるのか、と正当な異議を申し立てて保有に至っています。私は決して核保有を支持するものではありませんが、インドが核保有した当時、インドにいたので、いろいろな人にそのことを問うてみたことがあります。

多くの人たちが、地政学的に必要であるとか、現在の核管理についての不平等性などについて語り、これはインドの安全保障の問題であり、どの国も口を挿し挟むべきではないと皆さん自国の利益を語り、きちんと自分の意見をお持ちでした。

関連して、最近の問題についても見てみますと。今回のコロナ騒動についてですが、インドは独自の判断により、イベルメクチンを採用したりして早期に終息しています。イベルメクチンの接種に反対するWHOを、逆にインドの弁護士会が訴えたり。

またウクライナ戦争に対しても、インドは独自の対応をしています。ベルリンの壁崩壊後の歴史的観点、近年のウクライナ政権誕生のいきさつから見ると、決して欧米の主張が正当とは言いがたいという立場であろうと思います。決してロシアから武器を購入しているからではないと思います。

インドの人々はいずれにせよ、西側といいますか、他国の圧力にも屈せずに独自の立場を貫く強さ、そして発言力があります。

宗教上の理想を実現するために、いかにあるべきかと、生きる目的をはっきり自覚している彼らだからこそ、個々の問題についても、こうあるべきであるという確信をもって、それを言葉にすることができるのだと思います。

インドは食料自給率も百パーセントを超えています。外国との交易が封鎖されても自国で生活に必要なものはすべて賄えるとも言われています。

ところで、インドでは、昼間みんな寝ていてインド人は働かないなどと言う人があります。ですが、あれは四十度五十度にもなる暑さになる昼間は体を休めているだけで、その分朝早く仕事をしたり夜涼しくなってから働いたりというのがインド人の日常です。

過酷な気候の中で生きるインドの人たちは、人も含めて息するものすべてが必死に生きねば生きられないと言われます。すさまじい住環境の中、沢山の異なる人たちと、もみくちゃになりながら、インドという国のたくましさが培われたのであろうと思います。

とにかくインドという国は面白い国です。私たち日本人は、一千五百年前から仏教を通してインドに学んでまいりましたが、現代においても、様々なことを、彼らのものの見方考え方、発想に学んでみてはいかがかであろうかと思っております。・・・
                                                      (全)


【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます

○今年の正月号にて広報しました檀信徒文集『みんなのひとりがたり』が完成いたしております。三十九名の方々から原稿が寄せられました。当初、それぞれ皆様の日頃思っていること、言い残しておきたいこと、思い出など私的な内容について原稿を寄せていただけたらと思っておりましたが、皆様気をつかわれたのか、國分寺とのご縁について綴ってくださる方が多く、恐縮した次第であります。ですが、そうしたお寺とのご縁の中に日ごろの思いや願い、家族との関係に触れながら改めて信仰について思いをいたす機会になられたことと思います。日々の行いの意味や絆を感じられ、より一層のご精進につながるものであることを願っております。慣れない原稿を一生懸命に書いてくださいました皆様に心より御礼申し上げます。

○来年は御涅槃です。そして、ご本尊薬師如来の御開帳を予定しています。平成六年本堂再建三百年祭で御開帳してはや三十年。世代も変わり多くの檀信徒から御開帳はいつですかと問われてきました。この機会にぜひお姿を御覧になりお詣りください。恒例の稚児行列も予定しておりますので、たくさんの御稚児さんにご参加いただけますよう早めにお声がけ下さいますようお願い申し上げます。

  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
●ブログ「住職のひとりごと」https://blog.goo.ne.jp/zen9you

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備後國分寺だより 第64号(令和5年4月2日発行)

2023年05月01日 14時43分51秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第64号(令和5年4月2日発行)


令和五年一月二一日
薬師護摩供後の法話

御生誕一二五〇年の弘法大師

今日は初大師、御生誕一二五〇年の記念すべき年の初大師となります。全国各地の弘法大師を祀る寺院では盛大にお祭りがなされていることでしょう。こちらにも、早朝八時からにもかかわらず、土曜日ということもあり、遠方からも大勢のお護摩のお参りをいただきありがとうございます。

弘法大師は、今年が西暦二〇二三年となりますから、七七四年、宝亀五年にお生まれになられています。六月十五日のお生まれと言われており、六月には各本山でも記念の法会が執り行われることと存じますが、ところで、お大師様はどのようなお方であったのか。皆様ご存じのことと思いますが、概略申し上げてみますと。

生まれた場所は、讃岐の屏風ヶ浦と言われますが、今の香川県善通寺のある場所とされています。律令制下において、律令国内の各郡を治める地方官である群司をされていた父佐伯善通(さえきよしみち)氏の子として誕生し真魚(まお)と名付けられ、十四才で奈良の都に上京します。

中央佐伯氏の氏寺佐伯院に滞在し、十五才で桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)伊予親王(いよしんのう)の家庭教師であった母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学んだとされています。そして、十八才のとき京の大学寮に入り、専攻は儒教を研究する明経道(みようぎようどう)で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだということです。

ですが、十九才を過ぎた頃から山林での仏道修行に入ります。熊野や四国の山々を跋渉(ばつしよう)し修行を重ね、四国室戸岬の洞窟で虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)を修法をしているとき、口に明けの明星が飛び込んできて特殊な体験をなさるわけです。

このとき洞窟の中で目にしていたのは空と海だけであったため、その後空海と名乗ったということです。こうした山岳修行によって、宗教的な才能が開花して、延暦二三年(八〇四年)五月、第十六次遣唐使の一員として留学僧の立場で、後に天台宗を開く最澄(さいちよう)師とともに唐に赴くのです。

その時には既に中国の言葉に不自由なく、詩文や書に際立った才能を発揮されたといわれます。インドから伝わっていた当時の仏教の最も進んだ教えである真言密教の正統な継承者であった長安の青龍寺恵果和尚(けいかかしよう)に奇跡的に邂逅されて、真言密教の奥義を授かります。そして、胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を受けられ、真言密教の第八祖となり、二年ほどの滞在で帰国されたのでした。

その後嵯峨天皇の即位により、その存在を見出され、我国における真言宗の開教を許され、一大宗派に築き上げられるのです。高野山の地に伽藍を築いて修禅の道場とされ、東寺を下賜されて国家の祈願所とされます。さらに、東大寺の別当にも任ぜられて奈良の仏教も真言化し、宮中にて正月の後七日御修法を定例の法会として宮中の祭祀も密教を取り入れたものに換えることに成功されたのでした。

今も伝教大師(でんぎようだいし)最澄師とともに、日本仏教の二大巨人といわれます。ですが、天台宗はその後浄土宗、禅宗などにと様々な宗派に枝分かれしていくのに、真言宗は派は分かれ本山は沢山ありますが、一つの教えとして存続しています。

それはひとえにお大師様が真言教学を、とても難解ではありますが、完璧に著作として後世に残されたからではないかと思います。その著作は二十世紀後半に西洋の近代思想の研究者からも注目されるほどの現代性のある普遍的な内容でもあります。

ではなぜ、そこまで偉大な完成された生涯を送れたのかということになりますが、昔から不空三蔵(ふくうさんぞう)の生まれ変わり説というものがあります。ご誕生の年や日にちまでが、不空の亡くなられた日と同じであるとされてきました。

不空とは、正式には不空金剛(アモーガヴァジユラ)であり、インド北部のバラモンを父とする西域の人とされています。若くして唐の長安にきて、金剛智(こんごうち)に師事し密教を学び、三十六才の時七四一年金剛智の入寂後に、師の遺言に従って『金剛頂経」『大日経』等の梵語原典の密経経典を請来するためにセイロン・インド南部に渡りました。そして、龍智阿闍梨(りゆうちあじやり)のもとで胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂を伝授されています。

そして七四六年長安に帰り、七五五年の安史の乱をきっかけに 唐朝の内患外憂に処する護国思想として、またその呪術的機能により宮廷内に強固な基盤を作り帰依をうけることになります。玄宗、粛宗、代宗の三代の国師となり、密教を国家仏教の地位にまで引き上げることに成功します。また百十部百四十三巻もの密教の経論を漢訳し、鳩摩羅什(くまらじゆう)・真諦(しんだい)・玄奘(げんじよう)とともに、四大訳経家の一人とされています。そこで不空三蔵ともいわれるのです。

お大師様も唐に渡り受法され、多くの経典を持ち帰り、弘仁元年(八一〇)薬子の変(くすこのへん)に国家鎮護を祈り、平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇、淳和(じゆんな)天皇の帰依を受け、多くの著作を残されました。その生涯はこの不空三蔵の事蹟をそのまま成し遂げられているようにも映ることからも生まれ変わりではと、そう言われているのです。まさに不空三蔵の偉大な宗教的才能を受け継がれたかのようなご生涯でした。

現代でも、時々このように思える人は世に出ていることは以前(本誌第五十四号二頁)にも紹介したことがあります。幼少期に子供のおもちゃのピアノを教えられてもいないのに引き出して英才教育を施され、世界的なピアニストになられている辻井伸行さん。また、書家のお母さんの手ほどきでみるみる才能を開花させた書家の金澤翔子さんなど。他にも多くのこうしたまるで前世からの卓越した才能を受け継がれてきたのではないかと思いたくなるような方はたくさんおられることでしょう。

ですが、実は私たちも本当はそうした才能がありながら、あれこれとしすぎて、それを開花させずにただの凡人と思って暮らしてしまっているのかもしれません。世界最高水準の才能はともかくとして、これまでしてこなかったものの中に、もしくは本当は関心を強く持ちながら諦めてきてしまったことの中に、前世でかなりの時間を費やし磨いてきたものをそのままにしてしまっているということもあるかもしれません。好きなこと、関心をそそられるもの、簡単にあきらめてきてしまっていることの中にそんなものが隠れていることでしょう。

坐禅や瞑想なども、まったくしたことの無かった方が、人に連れられてやってきて試しに坐ってみたら、突然かなりのレベルまで到達してしまったということがよくあると聞きます。同様に、これまで全くしてこなかったことの中に新たな自分の目標が見つかるかもしれません。今年は是非、御生誕一二五〇年のお大師様にあやかり、私たち自身の隠れた才能を探し出し、開花させられないまでもそれを楽しみ、より輝いた人生へのスタートにしてみてはいかがかと思っています。

今年も一年変わらぬご参詣をいただけますよう宜しくお願い申し上げます。             (全)


世の中と仏教   

「この世の中の様々な問題と仏法とはどのように関係し、どのような恩恵があるのか」と、先日ある方からご質問メールを頂戴しました。

数日考えた末、次のように返答させていただきました。
「私も実は、この世の中の成り立ちと仏教がどのように関係し、どのように説明されるものなのかにとても興味があります。現実の私たちの生活の様々な悩みの中に立ち向かい、それらをこともなく救い出す力が仏教にはあるはずです。

大きな歴史の流れの中で、今の現実はとても複雑な要素を併せ持ち、それぞれの人がそれぞれの立場と環境の中で歴史と対峙しています。歴史などという大それたものを出してこなくとも、誰もが日々の生活に仏教が生かされなくてはいけないと思っています。まさに○○様が抱かれている様々な問題点についても同様かと思います。

そこで、やはり私はお釈迦様が何故に縁起を説かれたかということに立ち返ってみたいと思うのです。何事も因縁によって結果したものであるという、すべてのものに原因ありとする立場です。何事もあるべくしてある。今の心を抱くのにも原因がある。すべてのことは原因があって結果しているということです。

今の日本が不況不況と言いながら、おおかたの人たちが厳しい生活を強いられながらも他の国々のように飢えずに生活していけているのも先人の努力のお陰でしょう。自殺が多いのは日本人の悪いところの一つである事なかれ主義と人々が物に振り回され周りの人の心を軽視してきた結果でしょう。

政治家や官僚たちによって税金を無駄づかい、ないし海外には躊躇なく金をばらまくように見えるのも、目の前の生活に追われ、経済の発展ばかりを優先し、政治や特に選挙を甘く見てきた国民の無関心さの結果ではないでしょうか。

子供たちに目の輝きがないのも、何もかも用意されて自由がなく、学校に行けば何事も管理されて、親たちも余裕なく家庭教育を疎かにしてきたからではないでしょうか。

ゲームに携帯、パソコン、便利な道具があふれ、それら機械に人間が使われるようになり、人々の生きている実感を大人からも子供からも失わせてしまいました。しかしこの流れはそう簡単には修正が効かないような気がします。私たち自身がこうして通信し合っている現実もあります。

ただ、地球環境、特に温暖化や様々な感染症の問題は世情言われている情報が故意に別の目的からなされ、そのことをマスコミを通じて世論を作るためになされている、ある種の啓蒙活動ではないかと思っています。少し先にはなりましょうが、将来歴史の検証が必要となることでしょう。

ところで、世の中は誠実で真面目な大多数の人たちとそれを操作し扇動して大衆をある方向に向けさせ管理していこうとする立場の、ごくわずかの人たちがいるようです。ですがそのごくわずかの人間たちの力は計り知れなく大きく、私たちはその流れの中に置かれています。

ですが、大きくはそうした隠れた問題も含めて、すべてをこの縁起の教えという枠の中でその成り立ちを静かに受け入れるしかないのではないでしょうか。今の時代に生まれあわしたのを嘆いても仕方ありません。今の時代に生まれ出てきたのも私たち自身の業だとも言えます。

もちろん、だからといって現状をあるべき姿だと思っているわけではありません。今の世の中に蔓延する拝金主義、雇用制度のあこぎな労働者搾取、報道の自由度が世界で七十一位という忖度ばかりの報道体制などを容認できるものではありません。

そうした世の中の成り立ちをしっかりと克明に知悉しながらなお、そのあり様を冷静に見つめていなければならないと思うのです。多くの人々がそのことに気づくならば世の中は変わるはずです。

人生とは苦しみであると言われたのもお釈迦様です。苦しい、イヤな世の中だ、不安だと思いを重ねていくのにも原因が必ずあるはずです。まずは生きていること自体がすでに苦そのものであるという現実に気づくこと、そして思い諦めることが肝要ではないでしょうか。

その上で、無我であるとお釈迦様は説かれたわけです。無我は空と言い換えてもよいわけですが、すべてのことはその環境や状態が変化すれば変わっていくものである、すべては常住なるものなどではないと知るならば、時間はかかるでしょうけれども、その変わりゆくさまをじっくりと見てみようではないかと構えてみてはいかがでしょうか。

世の中のことをとかく申しましてもどうなるものでもありません。すべてのことがあるべくしてあります。すべての過去が今に結実しています。ということは、これからの瞬間瞬間に何を私たちが考え、何をなすかに将来は左右されていくということでもあります。どんな時代でありましょうとも、因果応報、悪因苦果、善因楽果。何事も因縁所生であることに変わりありません。

そうわきまえて善行に心励ましつつ、なお、自らは慈悲の心に住して、すべての生きとし生けるものたちに幸せを願い、人々と接して、機会を見つけてはその人たちとそれぞれに応じて語り合うということしか残る道はないように思えます。

○○様の思っていたお答えとは似て非なるものかもしれませんが、今の私にはこの程度のことしか申し上げることが出来ません。どうか、インドでの体験によってすばらしい知識や知恵をお持ちであることを大切になさり、多くの周りの人たちをお導き下さいますことを念願いたします。合掌」                  (全)



平等ということ


世の中は、いつの時代も、とかく生きずらいものです。子供の頃には気づきませんが、大きくなるにつれてあの子はいい家の子だからとか、親の着るものや車に目が行き、ついうちとは大違いだななどと、いろいろ考えさせられるようになります。

インドでは、お釈迦様の時代ばかりか、いまだに階級というものが、カーストと私たちは言うわけですが、彼らにとってはヴァルナという色を意味する階級が厳然と存在しています。ないしはジャーティというような職業による二千以上ともいわれる階級まであります。現代は企業が大規模化してそのような職業による差別がなくなりつつあるとはいえ、やはり就職や結婚ということになるとよく良く調べられることもあるようで昔と変わらないのです。

それでも仏教は、お釈迦様の時代から、すべての人は平等であるとして階級差別などいたしません。あらゆる階級の人々が出家を許され比丘になると、出家した日にちや時間の後先のみが席次を決める基準となりました。

なぜそうもはっきりとした態度がとれるのかというと、誰もがこの因果応報の世の中に生きているからであろうかと思います。

お釈迦様と同年代だったというコーサラ国の大王パセーナディとの会話の中で、お釈迦様は世間には四種類の人があると語られています。(『パーリ相応部経典(拘薩羅(コーサラ)相応二一)』)

その四種の人とは、闇より闇に赴くもの、闇より光に赴くもの、光より闇に赴くもの、光より光に赴くものであるといいます。

良き生まれであっても、それに胡坐をかくことなくまじめに努力して身と口と心の行いよく生きて実り多き人生を送る人と、同じように良き家に生まれても学び少なく満足に働かないがために没落していく人があると。

また貧しい家に生まれても、真面目に努力して周りに助けられ豊かになり、よき人生を送る人がある。逆に貧しいがために悪事に手を染め、さらに悪業を積んでしまう人もあると。

そして、次のような偈文を御詠みになられています。

「王よ、人あり、貧しくして
信心もなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔(けいけん)の思いなく
沙門(しやもん)・婆羅門(ばらもん)・求道者を
口ぎたなくも罵(ののし)って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人(ぼうじやくぶじん)の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
見破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを闇より闇に赴くという

王よ、人あり、貧しけれど
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささか乱るることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界(とうりてんかい)に生まれるであろう
これを闇より光に赴くという

王よ、人あり、豊かなれど
信心はなく、心やぶさかに
恨みがましく、よこしまの思いあり
邪見をいだき、敬虔の思いなく
沙門・婆羅門・求道者を
口ぎたなくも罵って
托鉢をなやまし、布施をさまたげ
傍若無人の振る舞いをなす
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
悪道・地獄にゆくほかはない
これを光より闇に赴くという

王よ、人あり、豊かにして
信ありて、心やぶさかならず
よく布施をなし、人を敬し
心いささかも乱れるることなく
沙門・婆羅門・求道者を
わが坐を立ちて礼拝し
心をしずめ、身をおさめ
行乞・布施をさまたげぬ
王よ、かくのごとき人は
身破れ、命終わりてのちは
忉利天界に生まれるであろう
これを光から光に赴くという」
 (増谷文雄訳『阿含経典』四より)

このようにお釈迦様が、四種類の人があると言われるのは、人はつまり生まれではなく行いによって、志によって、いかようにも変われるということであり、そうした可能性を秘めた存在として、何人も一つの命として平等であるということであり、だからこそ、生まれによって分け隔てするなどの差別を否定し、いかなる人も平等であると説くことができたのであろうかと思います。

インドの人々は今も輪廻を当たり前のこととして生きています。今こうあるけれども、もっともっと努力して徳を積んで、来世はより良いところに生まれ変われるはずであると考えます。だから来世も含め長い未来世を考えた時に、今どうあろうとも、その人を差別したりできないということにもなるのです。

ですから、誰もうらやんだり、あがめたり、またさげすんだり、あなどったりなどできないということです。次は我が身かもしれないと考えます。だから今ある場所で、とにかく頑張って、よりよくあれるように努力する、周りの人たちを大切にして、よりよく生きる、それが幸せになる道と考えるのでしょう。

いま私たちはとても不安な時代に生きています。コロナ騒ぎも相変わらず日本やアジアの一部だけはなぜか続いていますし、物価が高くなり生活が苦しくなる一方です。地球の裏側の戦争が近くへ波及しかねないからと増税してまで軍事費を増額するなどと言われて不安をあおられてもいます。漠然と世の中の不穏な空気を眺めながらも、つかの間にサッカーに野球にと、スポーツやシネマ・・・にと庶民が、相変わらずそんなことにかまけている間に世の中が、世界が変えられていくように感じます。

ですが、それでも私たちにできることは、この場でよりよく生きることしかありません。うまい話に乗れば足をすくわれ取り返しのつかないことにもなります。そもそも悪業を積んで来世が不安で死ぬ事も出来ないということにもなります。

ですから、因果応報なるが故に、誰もが平等なのだとこの世のあり様である、その真理を信じて、日々みんながよくあるよう、精進努力して地道に頑張るしかないのでしょう。そう思えるのです。そうしてこの世の変わりゆくさまを、一喜一憂することなく冷静に見ていようではありませんか。              (全)



退職教職員組合の皆様への法話
弥陀の浄土と薬師如来

先日、地元の退職教職員組合の皆様がご参詣になられました。國分寺の歴史と堂内の仏様方について一時間余り話をさせてもらいました。
「はじめに、なぜ聖武天皇は東大寺の大仏と諸国國分寺をお造りになられたのかということをお話したいと思います。それは、御存じの通り当時中央の都の政治に長く続く闘争と混乱があり、さらに天災や疫病の蔓延が重なり、そうした暗雲たれ込める状況を一新させるためであったと思います。

毘盧遮那如来という仏様方の中心に存在する仏がこの世にあらわれるということは、その周りに数多の釈迦如来を中心とする世界が同時に存在するという華蔵(けぞう)世界(華厳経に説く世界観)を全国土に現出させて、明るい清らかな国に生まれ変わらせたいという聖武天皇の切実なる願いから、この破格の国家プロジェクトは成し遂げられたのだと思います。自らも帰依し出家までして仏教にのめり込まれた天皇だからこそできたともいえます。・・・。

次に、堂内諸尊について話を進める前に、今日の朝日新聞朝刊に、宇治の平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の開創時の扉絵から弥陀の「九品来迎図(くほんらいごうず)」が見つかったとの記事がありましたのでお手元のコピー(次頁参照)をご覧ください。

描かれていたのは九品来迎図と言われ、生前の行いによって、下品下生(げぼんげしよう)から上品上生(じようぼんじようしよう)まで九つの段階に分かれた弥陀浄土へと菩薩たちが迎えに来た様子を表したものです。因みに、九品の阿弥陀様の印相は親指と人差指中指薬指と変えながら来迎の印・説法の印・禅定の印をそれぞれ結んでいくものです。

そして、実は國分寺本堂の内陣には、その弥陀浄土から亡くなった信者を迎えに来られた「来迎二十五菩薩像」が祀られています。どうして、本尊は薬師如来なのに弥陀世界の来迎の菩薩が祀られているのでしょうか。

山城(やましろ)(京都府南部)の浄瑠璃寺(じようるりじ)を参詣した折にヒントを得たのですが、そのお寺の伽藍配置は、東に薬師如来を祀る三重塔があり、その前には大きな境内いっぱいの池があります。そして西には横長の阿弥陀堂に九体の阿弥陀如来像が祀られています。

その伽藍は、私たちは満中陰で四十九日忌の仏様であるお薬師様に拝んでこの世に来て、大きな池のような世間を泳ぎきり、なんとか最終的に九品の阿弥陀様のどなたかに救い取っていただくという伽藍構造になっているのだと考えられます。

それと同様に、当山本堂もお薬師様によって現世に生まれ、信仰を確かにしておれば阿弥陀様のお使いがお迎えになっているという、そういう構造になっているのではないかと思います。

では、ご本尊の薬師如来とは何かということですが、実は薬師とはお釈迦様の別名です。薬師如来像も釈迦如来像もお姿はほぼ同様ですね。違いは薬壺を左手に乗せているか否かであり、本堂前の扁額「醫王閣(いおうかく)」にある医王とは元々お釈迦様のことでした。

そして、お釈迦様の教えのすべてが包摂されると言われる四聖諦(ししようたい)という教えがあるのですが、その説き方が、正に当時の医者の診断処方そのものでした。さらに、誰がお訪ねしてもお釈迦様に出会うだけで、実際に心の苦しみ悩みわだかまりがスッとなくなってしまったというその霊験(れいげん)からではないかと思います。

では、その四聖諦とはどのような教えかというと。それは四つの聖なる真理という意味で、内容は『般若心経』にも出てくる「苦・集・滅・道」の四つです。

①苦の聖なる真理とは、苦があるということ、この世の苦しみ多い現実に気づくということです。幸福に感じられてもすぐに色あせ、完璧なことの出来ない私たちは常に不安や不満を感じつつあります。

②集の聖なる真理とは、苦には因があるという真理であり、その原因は自分がある、自分がよくありたい、よく思われたいという欲の心にあるということです。

③滅の聖なる真理とは、苦が滅した境地があるという真理で、苦しみのない理想の状態(さとりのこと)をこそ求めるべきものだというのです。

④道の聖なる真理とは、苦の滅に至る方法があるという真理で、理想的な安らいだ心に至るにはどうすればよいのか、八つの具体的実践の仕方を教えています。

これは、現在の症状を知り、その原因を突き止め、回復した状態を見極め、その治療法を行うという当時の医師の診断処方と同様ではないかと考えられたわけです。

ところでいま、苦の原因とは、自分がある、自分がよくありたいと自分に執着することにより起こると言いましたが、では自分がない状態とはどんなことでしょうか。それは例えば、自分のことを顧みずに他に尽くす滅私であるとか、自分のことを忘れて利他に精進する忘己、薬や特殊な精神作用によって引き起こされる忘我の状態とは本質的に違います。

昔サラリーマンとして働いていた会社の社長から聞いた話をしてみたいと思うのですが、その社長は先の戦争中学徒出陣で戦地に趣く船中で爆撃に遭い、船は木っ端みじんとなり、百数十人もの兵とともに海に投げ出された経験をもつ方でした。そこは南洋のフカの出没する海域だったため、ふんどしを長く垂らし、流木に捕まり、喉が渇いても余計に乾きをかき立てる海水を飲むことも叶わず、食べる物もなく漂ったというのです。中には、元気を駆り立てるため軍歌を歌ったり、仲間の名前を呼ぶ人たちもあったというのですが、かえって体力を奪うので、社長は只静かに体力を温存することだけを考えたといいます。剛毅を装い歌を歌っていたような人から、チャポン、チャポンと海に沈んでいったということです。そうした状況で、他の人を助けよう、自分の命をなげうって他の者を救おうとすること自体が、命取りになります。

そうした生きるか死ぬかの極限の中では、ただ一人一人が己自身によって生き延びることだけが唯一残された道であったに違いないのです。その時、自分が、自分こそ、生き残りたい、助かりたい、称賛され たいなどという心が残っていたなら、体力を消耗し海底に沈むしかなかったのではないでしょうか。そんな思いも、計らう心も何もなくなって、最後にはそれこそ神様仏様にすべて運命をお預けするというような心境にいたったのではないかと思います。結局三日目の昼過ぎにやってきた味方の船に救助されたのはたったの三人だけだったといいます。

そういう極限の精神状態について思い巡らすとき、普通に日常生活を送る私たちが、自分という思い、つまり自我なく生きるというのはそう簡単なことではないと思われるのです。

人類として長い進化の過程で学んできたがゆえに、誰もが何かしなくては、忘れていることはないか、すべきことをしていないのではないか、したことも十分なものだったであろうかと、いつも追いかけられるようにして、不安の中に私たちは生きています。

そうした苦を感じつつ生きているのだということをまずは自覚する必要があるということです。その原因はといえば、自分という思いがあり、少なくとも周り同様にやっている、よくやっていると思われたい、生きていたいと思う心があります。

でも本当はそんな追い立てられるような苦を感じることもなく、他と比較することもせずにいつも楽に生きたい、満たされた心で過ごしたい、何があっても困ることなく、すぐにすべきことが解り、迷うこともないというように。そうした泰然自若(たいぜんじじやく)とした心を得たいものだと思います。

それをどのように実現するのかを説くのが仏教だということになります。そのためには教えを学び、かつ先ほどの話のような極限状態といわずとも、自らの心を研ぎ澄ます修養もやはり必要だということになります。

そして、そういう話をきちんと縁ある人々に理路整然と説かれたのがお釈迦様であり、そのもとには人々の心を癒したいという慈悲の心があり、それこそがお薬師様であるといえます。

どうか仏教の教えに関心を持って学んでいただけたら有難く存じます。またお参り下さいますのをお待ちいたしております。ありがとうございました。」                           (全)



後生がいい生き方
 Kさんの思い出


Kさんが亡くなられました。Kさんは、私たちがこの地にきてからずっと気遣って下さる方の一人でした。

こちらに来た年の三月に行われた涅槃会の稚児行列の際に、仁王門前で子供を抱いてくれて、その様子をたまたま撮った写真があり、古いアルバムから見つけて通夜の晩に棺の前に添えさせていただきました。

みんなの前でニコニコ笑われているのですが、ご本人にとってもその時のことがいつまでも心に刻まれていたようで、事あるごとにご家族にもよく話されていたと通夜の晩に伺いました。

年が明けてまもなくに、遠方に住むご子息様が下を向いて道を歩いてくるところに車で出くわしました。たいそう気持ちが沈んでいるご様子に、どうしたことかと思ったことを後から思い出したのですが、その頃にはお母さんの様子がよくなかったのであろうと思われます。

前の年の十月ころ一度病院で検査した後、かたくなに入院を拒否して自宅で療養を続けてこられたのだといいます。強い抗がん剤も高齢ということもあり拒絶され、ほかの治療も放棄されて、ただ痛み止めだけを飲んで、家にいたいとのご本人の意思をご家族も尊重されての自宅療養だったようです。

前年の十一月にお寺の懇話会の皆さん向けの研修旅行を予定していて、お盆にお会いした際にも元気そのものだったので、十年前にも同様の研修に参加されていたのでご案内したところ行きますとのことでした。

近くに住む娘様の車に乗って外出するのが楽しみで、元気にお過ごしのこととばかり思っていたのでしたが、いつまでたっても申し込みにやってこられないので、電話したところ検査入院してたんですとのことで、すぐに回復するものとばかり思っていましたが、結局その時の会話が最後になってしまいました。

その後、自宅におられ、時折近くの町医者で検診を受けるだけで、本当に苦しまれたのは一晩だけだったとのことでした。その晩も、ご家族が病院に行こうかと言ってもうんと言わず、本人の願い通りにその翌日ご自宅でお亡くなりになられたのでした。

平成十三年から毎月仏教懇話会と称して一時間ほど話をする会を開いているわけですが、開設当初から欠かさずに毎月近隣の懇意な人たちを誘い合わせてお越しになってくれていました。

別段面白くもない話を十年ばかり毎月一時間我慢して聞き続けてくださいました。

会館の二階で始めた懇話会も、その後客殿に場所を変えて行っていましたが、その時々の話題について私が話をし、皆さんに疑問やら感想をお尋ねするのですが、決まってみんなを笑わせるようなことをぼそっと言われては場を和ませてくださいました。


歴史小説がお好きでよく読まれていたということも枕経のあとに初めてお伺いしました。福山城博物館主催の歴史講座にも定期的に通われて、そちらのほうは先生が面白く楽しい話を聞かせてくれたようで、福山まで通うのを楽しみにされていたようです。

平成十八年の秋頃から「日本の古寺めぐりシリーズ」というバスツアーが組まれ、私が講師としてバスの中でお話をする旅行にも何度も参加くださったのでしたが、たまたまその歴史講座に参加されている顔見知りも同乗されたことがあり、親しく楽しそうに話されていたことを思い出します。

また、年末や法会前には檀家の皆様に呼び掛けて大掃除をしていますが、そんなときには必ずどこかで黙々と草を抜いてくださっていました。みんなと楽しそうに話をしながらということもありましたが、しゃがんで隠れるように一人でされていることもありました。そんなときにはお茶の時間に仲良しの中でにこやかに話をされていたように記憶しています。

飾ったところがなく、本当に自分の気持ちをそのまま表現される方でした。嘘偽りなく、素直に自分を生きられた方だったのだと思います。何の濁りもない心で周りの人たちと接し、周りの人たちを思いやり和ませ笑わせ寛がせる才能というか、技をお持ちでした。みんなから愛されてきたことと思います。いま思えば本当に後生のいい生き方をされてきたのではないかと思えます。

もちろん私などはKさんのごく一部のことしか知らない人間に過ぎないのかもしれませんが、知っていることだけでもまさにそう思え、見倣いたいものだと思っています。

つれづれに思い出を感謝とともにここに書き残しておきます。本当にお世話になりました、ありがとうございました。                                      (全)



四苦八苦を
やわらげるために③


死苦の迎え方 

一般に仏教徒の戒である五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、さらには十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を心掛けるだけで良好な人間関係は築けると思います。

アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくもない人の所に駆けつけて、いろいろと終末のケアをする人たちがいます。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリー氏は、死の直前、人が最後に思うことには三つあるといわれています。

一つは、許しを請うこと。人にはみんな後悔することなどの一つ二つはあるものです。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるというのです。

二つ目には、憶えていて欲しいという気持ち。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるものですが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思いです。

三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのだというのです。

何十年も生きてきたら後悔することがいくつかあるのが普通なのかもしれません。しかし後悔するのも煩悩の一つと数えるのが仏教です。過去を回想し、過ちや失敗を思い出しては悔いるというのは良いことではない、それは今も過ちを繰り返していることになると考えるのです。今の自分はその時の自分ではないのですから、今すべきことについて、自らの心にまた周りの人たちに恥じない行いをすればよいと教えられています。そうして過去は今生きている自分を向上させるため、心を成長させるためにあると考えたらよいということです。

そして、良好な円満な人間関係を心掛けつつ、安心してその時を迎えたいものです。さらには、最期の時にあたって、自分の人生について回想し、それがとても意味あるものであったと満足して感謝の気持ちでその時を迎えたいものです。そのためにも、日頃からそんなことを一人静かに考えることも死苦に対処するために必要なことかもしれません。

残りの四つの苦しみに対処する

ここまで、四苦について思い当たることを述べてみました。次に、残りの四つの苦しみについても思いつくことを述べてみたいと思います。

まず、求不得苦(ぐふとつく)は、不死を求めてももちろん得られないわけですが、そのほかにも、情報過多の世の中で、情報にふりまわされて、必要ないにもかかわらず、周りと比較したりして自分にないもの、持たざるものを求めて余計に苦しみを作り出してしまいがちです。逆に、自分にあるもの、持てるものに目を向けてみれば、新たな価値を見出すことができ、求めるということ自体から開放されるのではないかと思います。

次に、怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)については、すべての出会いに因縁があり、それも無常であることをまずは知るべきではないかと思います。永遠なるものはないことを思い、嫌いな相手もいずれは去るものであり、愛する者もいずれは離れゆくものと心得てみてはいかがでしょうか。

かつてあれほど苦手で嫌いだった人が、いつの間にか自分を守ってくれる身近な存在として感じられる人であったと気づかされることもあるものです。好きな相手も自分を束縛し、依存し負担になってしまっている自分に気づくこともあります。その関係も時間の経過とともに愛憎が変化するのを冷静に観察しつつあれば、いざという時の苦しみも軽減されるのではないかと思われます。

最後に、五取蘊苦(ごしゆうんく)については、執着をもって生きることがそのまま苦であるとする仏教の教えを学び実践することこそがこの苦に対処することにはなるのだと思います。

眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)の五官と心に入るものに欲を掻き立てられ翻弄されないよう、余計なものを見ない聞かない嗅がない味あわない触らない考えないに尽きるのですが、入るものを遮断することも必要でしょうし、入っても自分のこととせず、そのまま流してしまう習慣を身につけることも必要でしょう。そして、その実践の中でも少欲知足が最も苦をやわらげる基本的な生活態度であると自覚することが大切ではないかと思います。

以上、四苦八苦について、いかに対処すべきか、少しでもその苦をやわらげるにはどのように生きたらよいのかと思いめぐらしてみました。必ず訪れる四苦八苦ではありますが、ここに挙げたことなどを参考に、御自分なりの対処法をご考案いただければありがたく存じます。                        (全)


【國分寺通信】 祝・大師堂再建

○令和六年度御涅槃営繕事業としてこの度大師堂が再建されました。昨年十一月初旬より旧大師堂休み堂の解体が始まり、基礎工事に入る十二日に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行いました。そして十二月十九日上棟式を執行し翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事電気工事などが施され、三月末見事落成を迎えることができました。涅槃会寄付をこの五年にわたり繋いで下さいました檀信徒の皆様に心より御礼を申し上げます。なお、大本山大覚寺から、この度の新堂建設にかかる設計をはじめ施工のすべてにわたり監督指導にあたられた武村住建代表取締役武村俊治氏に、当山伽藍維持における長年の功績に対し褒賞状が授与されておりますことをご報告し、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。

○来年は御涅槃です。そして、ご本尊薬師如来の御開帳を予定しています。平成六年本堂再建三百年祭で御開帳してはや三十年。世代も変わり多くの檀信徒から御開帳はいつですかと問われてきました。前回から丁度三十年の節目となりますので、この機会にぜひお姿を拝見して信仰を新たにしていただけますようご案内申し上げます。恒例の稚児行列も予定しておりますので、たくさんの御稚児さんにご参加いただけますようお声がけをお願い申し上げます。

○一ページに掲載した弘法大師像の写真は、一昨年十一月の福山市文化振興課の皆様による美術工芸品実態調査時に徳島文理大学濱田宣教授に撮影いただいたものです。
 
  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
 ●ブログ「住職のひとりごと」https://blog.goo.ne.jp/zen9you


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備後國分寺だより 第63号(令和5年1月1日発行)

2023年01月06日 07時21分48秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第63号


今津薬師寺様・令和四年九月二十二日
秋季彼岸法要後の法話

心を浄めるとは これからの時代をいかに生きるか


秋の彼岸法会、沢山のお参りご苦労様でございます。今年も災害が続き、先頃も強い台風により全国多くの地域で被災したばかりであるのに、この備後地域は守られているのか、このように法会ができ、たくさんの参詣者をお迎えできるというのは誠に有り難いことだと思います。

私がこちらに上がらせていただくのも三回目となりました。今日は、「心を浄めるとは」と題して、これからの時代をいかに生きるかをテーマにお話させていただきます。

御開帳について

ところで、まず初めに、今年は皆さまにとって何より大切な檀那寺の再興四百八十年という記念すべき年であります。そして春には盛大な御開帳法会も行われたと伺っております。改めてお祝いを申し上げますとともに、そのために昨年から仏像の修理や堂宇の修繕をお寺様はじめ檀信徒役員の皆様ともどもに進めてこられ大行事に備えられた、そのご努力に敬意を表したいと存じます。

皆さん、三十三年ぶりに御開帳されたご本尊様に対面されて感激も一入(ひとしお)であったことと思いますが、皆様の思いと同様に、私ども國分寺でも、檀信徒から「なぜ扉を閉めているのですか」「お姿を拝見できるのはいつですか」などと問われることも度々ございます。

秘仏について

普段お厨子の扉を閉めている仏様のことを秘仏というわけですが、秘仏にしているのはどうしてなのでしょうか。扉を開かないのにはいくつかの理由が考えられますが、皆さんはなぜだと思いますか。保存のため、保管のため、御開帳した時のありがたさのためであるとかいろいろと言われるわけです。

が、私は、仏様というのは本来法を説くものであり、仏様は姿かたちではないよ、ということを教えるためではないかと思っています。ですから、それぞれの仏様ごとに、その仏様としての説法、声なきメッセージを発しておられるものと受け取ることが大切ではないかと思うのです。

お薬師様には、お薬師様のメッセージがあると思うのですが、どのようなメッセージでしょうか。皆さん、ご真言は「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」ととお唱えになられていますね。それでは、このご真言はどのような意味でしょうか。実はこれは私にとって長年解明できなかった難問でありまして、学者先生方もどなたも明瞭に訳せない、難解なご真言でもあります。

薬師真言について

ある本には「仏様よ、早く人々の願いを成就し給え」などと訳されたりしますが、なぜこのような訳し方になるのかがわからなかったのです。そこでまず、この真言を分解して、その意味を調べてみますと。

オンとは、インドの聖なる音であり、神仏への敬虔なる挨拶としての言葉でありまして、コロコロとは、欣快なるかな、非常に喜ばしいことよ、また速疾にとも訳すようです。このあとのセンダリマトウギの部分が問題ですが、センダリの部分がチャンダーラ、マトウギの部分がマータンガという、インド社会の最下層の被差別民チャンダーラの一種のマータンガの女性、もっとも虐げられ蔑まれた部族の女性を指す言葉であります。ソワカは、幸あれ、祝福あれという意味となります。

この中にお薬師様の名がなく、なぜインド社会で差別を受けている人たちの名前のみをお唱えするのかが疑問となります。お薬師様のご真言として、これをどのように解釈すべきかということにずっと解答が得られないまま何年もかかりました。ですが、二年前の一月のことですが、ある日の朝本堂でお薬師様を拝んでいた時、ふと、お薬師様の誓願とはと心を向けました時、このご真言の解釈が頭に降ってまいりました。

どのような解釈だったかと言いますと、この真言は、お薬師様の心の底から起こってくる願いであり、この世で最も気の毒な、かわいそうな虐げられた最下層の人たち、彼らこそすみやかに救われ、よくあるように、祝福されるように、彼らが救われるならば、必ずやすべてのものたちもよくあるはずである、すべてのものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたち誰もが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短く表現したものに違いないと思われたのでした。

もちろん、これが正解ということではありません、ただ私がこのような解釈のもとでお唱えするのが一番お唱えしやすいというにすぎません。ですが、仏教は、何よりも自分が納得し信仰する実践するということが大切です。

そして、その後さらに調べを進めておりましたら、ある仏典に、この御真言にまつわるような話が残されていましたので、紹介してみたいと思います。

アーナンダに恋した娘の話

お釈迦様に長年随行されていたお弟子にアーナンダという、釈迦族の王族の生まれでハンサムな、やさし気なお坊さんがいました。祇園精舎(ぎおんしようじや)に滞在している時、托鉢に歩いて喉が渇き、水を汲む村の娘から一杯の水を恵んでもらいます。

その娘は旃陀羅種(せんだらしゆ)のマータンギの娘だったため、娘は身分の低い自分が高貴なお坊さんに水を差し上げてよいものかどうかと躊躇(ちゆうちよ)するのですが、「自分は出家であるから貴賤上下の品わけをしない」と、アーナンダはそう言って水をもらい飲みました。

その清らかな美しい姿を見て、娘はアーナンダに恋心をいだき、アーナンダが街を托鉢すれば後を追うように歩くようになって、祇園精舎の中にまで入ってきてしまいました。恥ずかしく思ったアーナンダはお釈迦様に相談すると、お釈迦様は、その娘に「アーナンダの妻となるには出家しなくてはいけない」と言われて、両親の了解を得させ髪を剃り出家させました。

そして、「色欲は身を焼き人を焼く、灯りに寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智慧ある者はこれと違い、常に色欲を遠ざけて静かな清らかな楽しみを味わう、なんじも今より道に入るがよい」などと教え導くと、純粋な娘の心は白い布に染まるように心の垢が去り、ついに覚りを開いたという、こういう話が残されています。

ですが、この話が世間に知れ渡ると、お釈迦様が卑しい旃陀羅の娘を出家させたと、階級制度の厳しいインドのことなので非常な非難の声が起こったのですが、お釈迦様は少しも動じることなく四姓平等の教えを説かれ、生きとし生けるものがよくあることを願われたのでした。

当時のインド社会の階級差別、性差別は、現代の私たち日本人が想像できないほどにすさまじいものがあったことでしょう。宗教者でもその差別意識は同様であったと言われています。

そうした社会にあってなお、お釈迦様は何の貴賤の差別なく、旃陀羅種のマータンギの娘を出家させ、法を説き、そして覚らせたというこのエピソードにあらわれる慈悲の心は、正にお薬師様のご真言そのもののように思えるのです。

余談ですが、当初お釈迦様の出家の弟子たちはみな男性ばかりでした。ですが、ある時実母の妹にあたる継母が訪ねてきて、出家をしたいと願うのです。が、お釈迦様は拒み続けたと言われています。ですが、その時アーナンダが来て、「戒律をきちんと守り、教えを学び修行したとして、女性だからと覚れないということがあるのですか」と尋ねると、お釈迦様はそんなことはないと女性でも覚れると言われて、では出家を認めるべきではないかということになり、比丘尼という女性の出家者集団ができるわけです。

のちにこの人はマハーパジャパティゴーターミと呼ばれ、阿羅漢になるわけですが、四姓の階級にしても、六道のすべての命に対しても差別なく対されるのは、みなこのような因果応報の理法の中にあるものとして平等だからなのです。

浄らかな心・慈悲について

それで、今日は、こうしたお釈迦様やお薬師様のような浄らかな心とはどういうものなのか、そして、その心に何とか私たちも近づいていけるようにするには、つまり心を浄めるにはどうしたらよいのかということをテーマにお話ししていきたいと思っています。

まずこの浄らかな心とされる、慈悲の心ですが、普通、慈悲と言いますと、日本では、慈と悲に分けて、慈は好意を持って利益を与えること、悲は同情して苦しみを除いてあげることと解釈されることが多いのですが、本来、お釈迦様のように、誰をも差別せず、生きとし生けるものすべてのものたちが幸せであることを願う心であり、それは慈悲喜捨といわれる四つの心を内容とするものです。

慈(友情)は、友情という意味で、親友に対する友情の心でもってすべての生き物たち誰もが良くあって欲しいと願うこと。
悲(抜苦)は、親友が困っていたり苦しんでいたら助けてあげたいという気持ちを誰にも広げていくこと。
喜(共感)は、親友が成功したり良いことがあり喜んでいたら自分もうれしくなる気持ちを誰にも持つこと。
捨(平静)は、親しい人も親しくない人にも分け隔て無い平等な静かな心で居ること。

このような心を養うことが必要とされ、その為に、まずは自分の幸せを願い、悩み苦しみがなくなりますように、願い事が叶いますように、それから親しい人たちが幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように。そして、生きとし生けるものたちが幸せでありますように、と念じていき、誰をも分け隔て無く良くあるように幸せであるようにと、お薬師様の真言を解釈した内容のように念じていくのです。

なぜ慈悲の心をこのように念じなくてはいけないかというと、日常生活の中で、私たちはどうしても自分を中心にものを考えるという習慣があるからです。自分自分という思いで生きているところを、自分という思いを少しでも、そうして脇に置いて、広く周りの人たち、また生きとし生けるもののことを想像しながら生きてみるという練習です。

自分という実体があるとして、私たちは喧嘩してみたり、嫉妬してみたり、うじうじと殻にこもり他を怨んでみたりといろいろと問題を起こすわけですが、そうした自分という錯覚を壊していくためのものだということです。

心を浄める

法句経という古い経典に、「諸悪莫(しよあくまく)作(さ)・衆善奉行(しゆうぜんぶぎよう)・自浄是意(じじようごい)・是諸仏(ぜしよぶつ)教(きよう)」と言う偈文(げもん)があります。悪いことをせず、善いことをして、自らその心を浄める、これが諸の仏の教えであるということです。なんだそんな当たり前のことを言ってと思われることと思うのですが、昔中国の唐の時代にこんな話がありました。

白楽天(はくらくてん)という高名な詩人で地方長官を務める役人でもある人がおられました。杭州(こうしゆう)に赴任した時、地元の有名な高僧、道林禅師を訪ねたそうです。そして、仏教を一言でいうとどんな教えかと尋ねます。その時禅師が言われたのがこの偈文でした。ですが、「なんだ、そんな三才の子供でも知っているようなものではなくもっと奥深い教えの真髄を尋ねたのに」と言われたそうです。すると道林禅師は、「三歳の童子これを知ると言えども白髪の老人これを行い難し」と返答され、白楽天は何も言い返すことができずに帰られたという話です。

知っていても行動が伴わないならば何にもならない。その通りに行うということが大変難しいことです。仏教は実践の教えであるということです。

それで言いたいことは、ここにある「自らその心を浄める」というところです。こうあるということは、仏教では、もともと人の心は浄まっていないとされていることがわかります。人は考える葦であるなどと言われて、考えることは人の特権のように思われていますが、仏教では、考えるのは、自分という中心があって、煩悩を付随して考えているとされて、そのことを妄想(もうぞう)といって、よくないものだとするのです。

過去を悔やみ、未来を思い不安になり、自分勝手な価値判断をしてみたり、考えても仕方ないことをあれこれ考えたり、ということが私たちの常なることなのではないかということなのです。そこで、妄想しない、考えない、その瞬間には、自分という中心がなくなっている状態、それは無我とでも言えるような、その状態こそ浄らかな心と言えるのではないかと思うのです。

勿論完璧に無我を体験すれば覚っていることになりますから、そんなレベルの高い話ではなく、日常生活の中で体験される程度のことですが。そうした体験について、少しお話したいと思います。

高野山での読経の話

ところで皆さん、般若心経を唱えるとき、何も考えないで唱え終えることが出来ますか。難しいことですね。何かどうしても途中で考えてしまいます。それが人間です。

もう三十年以上前のことですが、高野山専修学院という僧侶の修行道場で修行に入りました。四月から翌年三月まで七十人ばかりの修行僧が僧院生活を行い、勉学と修行をするのですが、黒衣に白袈裟で、朝と夕と一同にお勤めします。朝は本堂、夕方は持仏堂(じぶつどう)でいたします。持仏堂では半々に向かい合ってお経を上げるのですが、二か月くらいたったある日の夕勤行で、不思議な音を聞きました。

純真な気持ちで、多くの僧侶が一心に唱えて音の波動がぴったり合ったとき、それが倍音を発生させ、甲高い音がしたかと思うと、まるで、天界の音楽というような、笛や太鼓の音色を聞くことが出来ました。

その時おそらくその何人もの人たちが、自分というような思いもなく、一心にただ唱え、音を聞いていたということではないかと思えます。大変に心地よく、身も心もリフレッシュできたような高揚感がありました。読経していて体験した不思議の一つです。

四国遍路の話

また、その三年後に四国八十八ヶ所を歩いて遍路したときの話ですが、作務衣に衣をはおり、脚絆(きやはん)を巻いて網(あ)代笠(じろがさ)と錫杖(しやくじよう)を持ち、荷物は頭陀袋一つと寝袋だけで、山手線に乗り、すぐに、お接待をもらい驚きました。その後、フェリーで四国に入り、電車で、一番札所に向かい歩き出しました。

歩き始めは、どう見られているか、道は間違っていないか、昼ご飯はどうするか、晩はどこにどうやって寝るのか、またそうしたことが片づくと、今度は、帰ってからのことや、将来のことやら考えて考えて歩く。そうして考え考え歩くと、なかなか札所がやってこないのです。初めての歩き遍路だったこともあり、まさに自分のことばかり考えていたわけです。

ですが、考えることが出来なくなり、考えるのをやめて、ただ足の先だけを見て歩くことが出来るようになると、五キロ十キロ先の札所でも、気がつくと、札所の門前に居たということが何度もありました。そうやって足だけを見て歩けるようになったとき、四国遍路は歩く瞑想そのものなのだと思えました。

皆さんも、是非、いまコロナで空いているらしいですから、歩いてみられることをお勧めします。

インドでの話

それから、そのまた三年後には、今度はインドに行って、インドの僧侶としてお寺に一年少々おりましたときの話ですが、その前年にインドのサールナートという初転法輪(しよてんぽうりん)の地にインド僧として日本人のお坊さんが居るからと言われお訪ねしたのです。

この方は後藤さんといい、そのだいぶ後のことですが、テレビの「こんなところに日本人」という番組などに二度三度登場した方です。

この後藤さんに、いろいろ話を伺っている間に、現代インドにも伝統派の仏教教団があるのだと知りまして、自分もそこでインド僧として学びたいと思ったのでした。それで、一度日本に帰り、ヒンディー語やパーリ語という仏教語を勉強し、学生ビザを取り、予防接種までして一年間準備して、その翌年に長期滞在することを前提に再度お訪ねしました。

ですが、住み込んで初めの二ヶ月ほど、まったくヒンディー語も口から付いて出ず、生活習慣にもついて行けず、物珍しいのか次々に近隣のインド人が見物にやってくるのです。さらに、体中湿疹が出て、薬を塗ってもだめで、歩くことさえ、おっくうになり部屋に居ると、後藤さんからは、あんたみたいな消極的な人間は何年居ても話も出来ないなどと言われ、気分が落ち込んで、何でこんな所に来たのかと毎日悔やんでいた時期がありました。まあ、妄想の真っただ中で自分のことで頭はいっぱいだったということでしょう。

そこに四月頃だったと思うのですが、暑い時期に、インドのお寺ですからゲストハウスがあり、日本人の学生のグループが泊まりに来ました。食事を用意して、洗い物をしてというのが私の仕事でした。昼の食事が済み、一人でカゴいっぱいの食器をもって、敷地の隅の洗い場に行き、金属の食器の洗い物をしていたときのことです、粉の洗剤に砂を付けこすり洗いをしていると、一生懸命擦(こす)らないと油がとれないので、それだけに没頭していたのでしょう。それ迄、常に考えて考えて頭が腫れ上がるほどだったのに、そこに何も考えていない自分が居ることに気づきました。静かに砂を付け皿をこすっている姿だけがありました。

そのとき、考えても考えなくても何も変わらない、考えていたことがばからしい、つまらないことに思え、考えなくてもいいんだと解りました。取り越し苦労というか、一人モヤモヤ考えていることが不要なこと、その時間が勿体ないと思えたのでした。

おそらく皿を何も考えずに洗っているとき、そこに自分という思いもなかったのだと思えます。とてもその後気持ちよく、頭も身体もすっきりしていることにも気づきました。

そして、その後は、すべてのことがスムーズに、すべきこともして一年三か月ほどを過ごすことができました。

チューラパンタカの話

この話をすると思いだすことですが、お釈迦様の弟子に、チューラパンタカという大阿羅漢がいました。当時のインドでは経文を暗記することが何よりも大切で、聞いた端からインド人は暗記してしまう人たちで、それで経典も書き残さず全部師匠から聞いて覚えていたのでした。つまり、暗唱力は、その人の能力を左右するものでした。

それなのに、この人は偈文一つ暗記できなかったので、僧院を追放される羽目となり、出て行こうとすると、神通力でそのことを知られたお釈迦様は、チューラパンタカを呼んで、一枚の綺麗な布を渡されて、「塵(ちり)を除く垢(あか)を除く」と言いながら僧院を掃除するように言われたのでした。そして、その言われる通りにしたところ、たちどころに覚られてしまったというのです。それで周りのお坊さんたちはみんな、あの頭の悪いチューラパンタカが覚ったというので、びっくりするわけです。

この話は日本では、呪文を唱えて覚ったとか、落とすべき塵や垢とは、自分の心の貪瞋痴(とんじんち)の煩悩だと理解すると覚られたと解説されるようです。ですが、そうではなく、拭き掃除する行為のみに集中して、一切の雑念なく塵や垢を観察していると、塵や垢は、床や壁から布に、布からバケツの水にと移り変わるだけだと、世の中のすべてのことがそうして存在すると真理を発見して覚られたということのようです。

不思議な体験とは

ここまで、高野山、四国遍路のことやインドでのことなど、いろいろ、不思議なと言いますか、面白い体験などお話しましたが、その程度のことなら自分も体験されているという方もあるのではないかと思います。それらは、そのとき自分という思いがなくなった状態、または薄くなった時に生じていたことであると思えます。自分という核のような思いがない状態になると、神通力ではありませんが、当然このようなことが起きても不思議ではないということでしょう。

我の無い状態は、通常ではないような力が働くものなのかと思えます。もちろんこんなことを求めてしても何も起こらないわけですが、そういう思いのない時、つまり心が清らかな状態になると、そういうことが起こりうるということだと思えます。

皆さんも、時に自分という思いが働いていないで、黙々と何かしている、または無心に没頭して何かしていた、気が付くと一時間も経っていたというような、特異な体験をされたこともあるのではないかと思います。そうした時、心身ともに軽くなるような感覚にも気づくと思います。何度もそういう感覚を体験し、思い出して、少しずつでもお釈迦様やお薬師様のような清らかな心に近づいて行って欲しいと思います。またこういう体験を重ねることにより、より信仰が深まり、自然と慈悲の心にあることに気づかれることと思います。

自分という中心、核のようなものがない状態は、余計な自分自分という思いがない分、とてもきれいな、浄らかな、クリアな心であるので、余計な考えをいだくことなく、心が研(と)ぎ澄(す)まされ鋭くなり、直観として物事の本質、移り変わり、因果、つまり原因結果をありのままに見ることができるようにもなるのではないかと思います。

そうして、この世の中のことも、その動きにも、動揺することなく、恐怖心もなく、淡々と安らいで生きられるようにもなるのだと思います。コロナも、ウクライナの問題でも、ともにその原因を的確に理解してしまうと、まったく恐怖心もなくなるということだと思います。

これからの時代いかに生きるか

ですが、この後も、温暖化の問題や、世界的な食料問題も深刻化すると言われています。不安定な時代はこのまま続くのかもしれません。こうした時代にどう生きていけばよいのかということですが、日々心の平安を保つために、やはり慈悲の瞑想を実践するのが一番の早道であろうかと思います。

私も一度大病になったのではと思って毎晩寝れなかった時期がありました。その時、この慈悲の瞑想を思い出し、寝る前に布団の中で必死にやりましたところ、知らず知らずのうちに寝ていたということがあります。是非、平時から毎朝でも、毎晩でもなさることをお勧めします。

それから、日常生活の指針としては、先ほど諸悪莫作衆善奉行・・という偈文の話をしましたが、そこにある善きこととは十善戒と考えていただければよいかと思います。

これからの不安定な時代、どんな時代となりましても、慈悲の瞑想と十善を生きるお守りとして大切にしていただけたらありがたいと思います。心を浄め、自分という思いの無い状態に気づきつつ、日々、今を大切に、明るく生きてまいりましょう。

(当日は、時間の都合上、四国遍路の話、チューラパンタカの話は割愛しました)



保坂俊司先生著
『インド宗教興亡史』に学ぶ


中央大学国際情報学部教授で、比較宗教学、比較文明論、インド思想を専門分野とされる保坂俊司先生の新刊、ちくま新書『インド宗教興亡史』を拝読しました。

保坂先生の著作については、これまでにも何度か紹介させていただきました。前回は令和二年四月、本誌第五十五号にて『梵天勧請(ぼんてんかんじよう)思想と神仏習合に学ぶ』と題して掲載しています。

梵天勧請として語り継がれるエピソードについて、それは、ブッダの覚りが仏教となるためには他者からの働きかけが不可欠であったことを示すのと同時に、他宗教と対立するのではなく融和融合共生を計ろうとする仏教の根本的な姿勢を表しているということでした。

そして、この異なる他者を受け入れ自己犠牲を厭わずに平和裏に共生関係を持とうとする仏教の特質は、現代の様々な宗教間の確執によって抗争する国際間の諸問題を解決し、世界を平和に導く原動力になるのではないかと提唱されたのでした。

今回は、今まさに既存の世界構造が崩れようとしている国際情勢にあって、つまり近代以降日本が模倣するモデルとしてきた欧米の優位が大きく揺らぐ現実に、日本人は何をなすべきか。そのヒントとして、インドがあるといわれるのです。近い将来その存在が一層重要となるはずであるインドの、その文明について理解を深めることは、混迷する世界情勢を乗り切るために重要であるということなのです。

ところで、インドについて考えるとき、まず一貫して最重要な要素として宗教の存在があり、様々な民族の交錯する坩堝(るつぼ)の中で、それらが相互に影響し合い、総括的にインド文明と呼べる共通性を形成したのだといいます。

インド宗教を概観すると、まずインダス文明を形成した先住民ダーサの宗教があり、そこに中央アジアから来てインドを支配した異民族アーリア人のヴェーダの宗教が入り、それらが融合してバラモン教となる。そして、その時代にダーサの宗教的伝統に強く影響された仏教やジャイナ教が新たに起こり、それらとバラモン教が並立する時代にイスラム勢力の侵攻がありました。その後、インド仏教がバラモン教に呑み込まれてイスラム教と対抗すべく今日のヒンドゥー教になったと説明されています。

第一章「ヒンドゥー・ナショナリズム」では、現在のインド亜大陸における各宗教の人口比からヒンドゥー教徒とイスラム教徒がともに、広大な国土を奪われたという思いをいだいていると分析されています。そして現代にもその両者の抗争は継続しているとするということです。

第二章「ヴェーダの宗教、バラモン教、ヒンドゥー教」では、ヴェーダの宗教からヒンドゥー教に至るインド土着の宗教の変遷が語られます。

その底流にある、被征服民が長い間培ってきたダーサの宗教を起源とする「出家と修行」という宗教形態こそが、インド亜大陸に普遍的な宗教の伝統ではないかと指摘されています。仏教やジャイナ教ばかりか、シク教、外来宗教であるキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教にもその伝統の影響がみられるということです。

第三章「バラモン教とインド仏教」では、インドにおける仏教は、ヴェーダの権威を認めず、ブッダ自らの体験に基づく宗教的確信を自らの言葉で説き続けた、理性重視の開放型の宗教であったと分析されています。

その後仏教を支える民衆がバラモン文化の構成者なるが故にアートマンに準ずる存在原理を認める部派が生まれます。それに対抗してブッダの精神への原点回帰運動として大乗仏教が興るわけですが、それはインドに定着した異民族の受け皿として機能し、諸文明の要素を融合したハイブリッド仏教であったと定義されています。

その後、グプタ朝の復古主義に抗えずバラモン教との共生へ転じた仏教は、さらにイスラム勢力のインド侵攻にも強く影響され密教化するにいたります。そして、バラモン教と融和共存関係を構築した仏教教団はバラモン教に併呑され、反バラモン教的集団はイスラム教に改宗し溶解していったことから、いずれにせよ敗北の歴史であったとみなされています。

こうして仏教教団はヒンドゥー教の中に融解してしまったわけですが、その後もブッダの教えは確実に伝わり、二十世紀の中葉、インド共和国憲法の草案作成者で、被差別階級出身の偉人アンベードカル博士(1891-1956)が、その独自性に共感し仏教に改宗、新たな仏教の再興運動を起こし、再び仏教はインド社会に開花しています。それのみならず、ブッダの平等と平和の教えは、インド民衆の共感を得て大きなうねりとなっているということです。

第四章「シク教の理想と挫折」では、大乗仏教が栄えた西北インドに、十五世紀末、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を目指して生まれた小さな世界宗教であるシク教について解説されています。

開祖ナーナク(1469-1539)は、この世にヒンドゥー教もイスラム教も区別なく、「唯一の神の教えのみであり、それは真理を御名とし、真理こそ神である、真理以外に神はない」と語り、神の意志の実現として、日常生活において、利己的自我を制御して他者への奉仕を推奨したということです。

そして、神はすべてに遍在するとして、常に神を意識して教団内にて倫理的な日常生活を実践することこそ救いであるとしました。さらに神の意志によって生まれた人間の平等を説き、宗教や出生における差別、性別やカーストなど一切の差別を否定するなど、大乗仏教にも通底する教えを説いたのでした。しかしその後、ムガル帝国の皇位継承争いに巻き込まれ、軍事教団化して多くの悲劇を生むことになるのではありますが。

第五章「ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教」では、独自の宗教の形態を維持して伝統を遵守してきた三つの小さな宗教について解説されています。筆者には、それらの小さな宗教なるが故の生き残り方に、これからの日本の国際社会での生き方が目に浮かぶ思いがして誠に興味深く読ませてもらいました。

禁欲と死をも厭わない苦行を基本とする出家者とそれを支える在家信徒の伝統を守り通したジャイナ教。

ゾロアスター教(インドではパールシーと呼ばれる)も独自性を維持しましたが、出家修行は重視せず、世俗の社会的役割を誠実に果たすことに救いを求める宗教理念により近代化を率先して受け入れ、インドの西洋文明化に貢献したということです。

一方キリスト教は、南インド・ケララ州に多く居住し、コショウ貿易で莫大な利益をもたらすことでイスラム王朝時代にあっても弾圧されずに済んだのでした。

第六章「イスラム時代のインド」では、世界一律の普遍宗教を建前とするイスラム教の、インドならではの多様性を明らかにしています。

イスラム教は政教一元であり、多くのイスラム化した地域は短期間にイスラム絶対優位の環境を形成できたのですが、インド亜大陸にあっては、いまだに少数派であり、その状況に合わせたイスラム思想が発展したのだといいます。

八世紀初頭から始まるムスリムのインド侵攻には当初から二つの流れがあり、一つはインドの巨万の富を略奪することを目的に攻撃して領域拡大に成功した侵略者としてのムスリムであり、それと別にイスラム神秘主義を実践するスーフィーによる地道な布教者としてのイスラムの、この両者によりイスラム拡大がなされたのでした。

スーフィーはイスラムの基本を維持しつつ、多神教徒と共生する可能性を見出したのでした。インドのスーフィーの多くが、かつて仏教が盛んだった中央アジア出身者とその子息であったことも誠に興味深いことといえます。

また、アショーカ王と並び称されるムガル帝国第三代アクバル帝(在位1556-1605)は、自らもスーフィーの行者としての宗教体験をもち、宥和政策を積極的に実行。それから百年もの間、スーフィー的寛容精神によるイスラム・ヒンドゥー融合文化が大いに隆盛したということです。

第七章「仏教盛衰の比較文明学的考察」では、比較宗教学、比較文明学の視点からインド仏教の衰亡について語られています。

一切衆生の平等を説く仏教は、教えの上では、一般民衆さえも覚りを求めれば得られるとし、社会的には、バラモン教の階級差別により疎外された下層の人々や女性、外地から侵入し定着した異民族などを受け入れ成長したわけですが、それによりバラモン教と社会的競合関係が生じて仏教盛衰の要因にもなったとされます。

そして、インド・イスラムの最古の史料『チャチュ・ナーマ』(インド亜大陸へのイスラム教初伝の地でインダス川下流部のシンドの七~八世紀の事績を記述する歴史書・原典ペルシア語)からの内容を要約し、様々な事例が紹介されています。

六世紀にグプタ朝を衰退させ激しく仏教徒からの略奪を繰り返したフン族の支族エフタルが七世紀にはパキスタン中部一帯を支配する間に仏教に帰依して穏やかな民族に変わっていったこと。また七世紀頃西インドでは密教的な呪術によって藩王の護持僧となった仏教僧がいたこと。現在のパキスタン・ハイデラバード近郊の仏教寺院でイスラムに集団改宗したことなどが詳述されています。

また、蛇足と断られたうえで、近代以降の日本での仏教理解において、国家護持という観点から仏教と国家の関係を論じることをはばかる風潮があるわけですが、それは、明治政府の神道重視と廃仏毀釈の偏った宗教観、敗戦後の政教分離の弊害であると指摘されています。宗教が、国家社会の中心に位置付けられていれば政治にかかわらないはずはなく、それはジャイナ教などの現実生活から距離を置くことを目指した宗教においてもそうなのであるからということです。

以上、読み進めるほどに知的興奮を掻き立てられました。比較宗教学、比較文明学からの視点によって論述される内容に、多くの新たな知識を得ることができました。

冒頭に述べたように、他宗教と対立するのではなく融和共生を計ろうとする仏教の思想は、大乗仏教が世界宗教として成長を遂げた西北インドや中央アジアに縁をもつシク教、イスラム教神秘主義者たちの中に、今も生きているように思えました。

さて、本書の序章冒頭に説かれるように、眼を現今の国際情勢に転じてみますと、この分断された国際社会を、私たち日本人はどう乗り切っていけばよいのか。インドはヨーロッパほどの国土の中に、はるかに多くの民族と宗教とを抱える、いわば国際社会の先駆者ともいえます。

三千年にも及ぶインド宗教の興亡の歴史は、これからの人類がいかにあるべきかを教えてくれています。そこから将来の日本の生き残り方も見えてまいります。なぜ衰亡していくのか、繁栄するにはいかにあるべきか、是非本書に学んでいただければと思います。(全)

(なお、本稿縮小版が六大新報・令和四年八月十五日号に掲載されました)


 
四苦八苦を
やわらげるために②


病苦をさける生き方 

「まずはじめに、世間で健康のためと思いしがちな所謂(いわゆる)食の常識を斬(き)り捨てることが大切だとあります。

たとえば、緑茶やコーヒーを含むお茶を常飲している人の胃は胃の粘膜が薄くなり萎縮性胃炎となり、胃ガンになりやすいということです。

肉食は成長を早めますが、それはつまり老化を早めることです。

牛乳は脂肪分を均等化するために攪拌(かくはん)する過程で乳脂肪分が過酸化脂質、つまり錆びた油になり、さらに殺菌のために百度以上の高温にするためタンパク質を変質させ、エンザイム(体内酵素のことで、動物でも植物でも生命があるところに必ず存在して物質の合成や分解、輸送排出解毒など生命を維持するために必要な活動をしてくれるタンパク質の触媒のこと)も死滅した最悪の飲物だといいます。

そして、植物油だからと多用されるマーガリンやショートニングも。市販されている食用油の多くは溶剤抽出法という原材料に化学溶剤を入れて抽出されます。この油は悪玉コレステロールを増やしガン、高血圧、心臓疾患の原因になります。

またガン患者の食歴から、肉、魚、卵、牛乳など動物食を沢山摂っていた人はガンになりやすいということです。

どんな薬も基本的に薬は毒であり、症状を抑えることは出来ても、薬で病気を根本的に治すことは出来ません。食事の量や質、時間やストレスなどその病気の原因そのものが除かれない限り根本的に健康を回復することは出来ないと断言されています。

では私たちは何を食べるべきなのでしょうか。先生は動物の食性を表す歯に注目され、人間の場合、肉を食べる歯が一なのに比べ植物を食べる歯が七あるということです。そこから、植物食を八五パーセント、動物食を十五パーセントにすべきであるといいます。

つまり、穀物を五〇パーセント、野菜や果物が三五から四〇パーセント、動物食は一〇から一五パーセントとし、穀物は玄米など精製していないもの、他のものもなるべくエンザイムを沢山含む新鮮な物がよいとか。動物食は人間より体温の低い魚で摂るのがよく、牛乳、乳製品、マーガリンは避け、揚げ物もなるべく摂らないこととあります。

そして、一口に五〇回程度よく噛み、消化されやすくする必要があるといいます。なぜならば腸壁で吸収されなかった場合、過剰に食べた場合同様に腸内で腐敗、異常発酵が起きるため、その解毒にエンザイムが浪費されるからだとか。よく噛むことで腹八分目でも満腹感が得られるといいます。

そして、糖分、カフェイン、アルコール、添加物は、細胞や血液から水分を奪い血をドロドロにしてしまうと警告しています。ジュース、ビール、コーヒーやお茶を水代わりに飲むことなく、血液の流れを良くし新陳代謝をスムーズにするためには、よい水を毎日一五〇〇から二〇〇〇㏄飲むのが良いのだそうです。

そして、食事以外のことで必要なのが、三、四キロを歩くなどの軽い運動と、十分な睡眠、また昼食後の昼寝なども大切なこと。それから、副交感神経を刺激して精神の安定を促し免疫機能を高める深呼吸を暇さえあればすること。

そして、ストレスのない愛情に充ちた幸福感を感じる生活をするならば天寿を全うできるであろうと結論されています。」

いかがでしょうか。これはあくまでも一人の先生の著作からの教えではありますが、病苦をやさしいものにすべく、ここにあるように自然に逆らわない食習慣を心掛けて健康を保ち長生きをしたいものです。そして、たとえ病気になっても軽いものとなり、できれば無病息災に天寿を全うしたいと思います。

死苦の迎え方

そして、さらに四苦の最後には死苦が来るわけですが、もちろんこれら生老病死は私たちの思い通りになるものではありません。老いて、病になるとき、改めてこうして生きるそのことの重荷としてあることに思いいたるということだと思います。

誰もがお釈迦様のように、若い時にそのことを深く自覚して四苦を乗り越えようと思うこともなく、たとえそう思ったとしても同じようにできるものではありません。

それらに直面したり、ようやく近くに迫ってきて嘆息するところを、それでも少しでもそれらを楽にソフトに受け入れられるようにはできないものかというに過ぎないのかもしれませんが。

そこで四苦の最後としてある、死苦について少し考えてみたいのですが、私たちはどのようにそのときを迎えられるようにしたらよいのかということです。その時に至って後悔ばかりがつのるというのは避けたいはずです。できれば、周りの人たちに感謝を述べ、言い残したいことが言えて、温かい良好な人間関係により最期を迎えるにはいかにしたらよいのでしょうか。…次号に続く  (全)


【國分寺通信】 謹んで新春のお慶びを申し上げます。

萬寳(まんぽう)の 主(あるじ)をたそと 人問わば たる事を
しる 身にこそ有りけれ 
(慈雲尊者和歌集より)

法句経という古い経典にも、「健康は最上の利益、満足は最上の宝、信頼は最上の知己、涅槃は最上の楽しみである」とあります。私たちにとって宝とは何でしょうか。たとえそれが得られたとしてもすぐに他のものを欲するのであれば、その宝はすぐに価値を失うものに過ぎないということでしょう。足ることを知り満足することこそ無尽蔵の宝を得たことになるのだと教えています。

○大師堂休み堂の建て替え工事が昨年十一月に始まりました。これ迄月例護摩供では、参詣者が堂内に入りきれず、外のベンチに座ってお経を唱えていました。大師堂と休み堂を連結し、堂内から護摩供をお詣りできるようになります。

○文集の原稿を募集します。昨年九月元総代さんが夢に登場され、「○○文集」と書かれた冊子を手に、ニコニコ笑って「こんなものができました」とお越しになりました。

そこで、実際に『みんなのひとりがたり(仮名)』という名で文集を作ってみたいと思い立ちました。何か言い残したいこと、ちょっといい話、ひそやかな思い出、家訓や教訓、こうしておけばよかったと思うこと、若い世代に、家族に、世の中に、またお寺に、どんなことでも結構ですから、一言でも、何千字でも、匿名または仮名で原稿を募集いたします。

夢の中では表紙は黄緑色の文集でした。本誌に原稿用紙を添付しますので、ぜひ書いてみてください。どうかご協力のほどよろしくお願いいたします。締め切りは三月末日まで。

 除夜の鐘 十二月三一日
  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しにな  れる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
 ●ブログ「住職のひとりごと」https://blog.goo.ne.jp/zen9you
 
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備後國分寺だより 第62号(令和4年8月1日発行)

2022年08月13日 18時43分05秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第62号



世界の平和を願うなら
             

今年三月末、敬愛する先生から小冊子が送られてきました。表紙には、『鎌倉大仏殿高徳院「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」に託された平和への願い 日本を救ったブッダの言葉』とあります。二〇二〇年九月一日初版の第二刷で、発行者は東方学院研究会員後藤一敏氏です。

令和元年の東方学院会報「東方だより」に、前理事長・前田專學先生が『中村元(はじめ)先生の世界平和の願い』と題して一文認められているのですが、後藤氏は、そこに紹介されていたJ・R・ジャヤワルダナ元スリランカ大統領顕彰碑について強い関心をもたれて、早速現地高徳院を訪ねられたのでした。しかし、そこに碑がひっそりと立っているだけで、参拝者の多くがその存在にすら気づきもしなかったのだといいます。

そこで、当時の世界が自国中心主義を前面に出して覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になっている状況なればこそ、温かな心、慈しみの心が、人々の幸せになる道であることを知って欲しいとの思いから、この冊子を発行されたと、「編集の経過」として巻末に述べておられます。

第二刷は今年の二月のことではありますが、二年前に発行された時には想像だにもしなかった現在の国際社会の様相に、改めてこの顕彰碑の意義を広く知らしめようとお考えになられて、こちらにもご送付くださったのであろうと思われました。そこで、冊子を送ってくださった先生に葉書で御礼申し上げた際に書き添えたように、今年の土砂加持法会に参加された檀信徒の皆様にはこの冊子と内容について触れ、現在の世界情勢についての私見を述べさせていただきました。

はたして、いま世界中から敵視され戦争犯罪者とまで言われているロシアではありますが、この冊子にも記されているように、八〇年前には私たち日本がまさに同じように世界中から非難されていたことを忘れてはならないのではないかと思います。

敗戦後も軍国主義、無法なる侵略者と罵(ののし)られ、GHQによる占領後も軍国日本の台頭を恐れ、日本軍の侵略による被害と恐怖が忘れられない人々が少なからず世界には存在していました。四か国による分割統治案が提示されるなど、日本の自由な独立に異を唱える国々もありました。

戦後五年ほどが経過し、日本の独立を認める講和条約案がまとめられつつありましたが、一部の国の反対がある状況の中で、一九五一年九月六日、サンフランシスコにおいて平和条約締結調印会議が開かれました。そのとき、セイロン政府を代表して演台に上られたのが大蔵大臣ジャヤワルダナ(J.R.Jayewardene)氏であり、氏が述べられた演説によって日本は救われたのでした。

J・R・ジャヤワルダナ氏の演説は、平和条約草案の承認のために参集した五十一か国の代表を前に、セイロン政府を代表するばかりかアジアの人たちの日本の将来についての一般的な感じ方を声を大にして述べ得るものであると前置きして、領土の制限、賠償のこと、その後の日本の防衛についてまで配慮されたうえで、すべてが合意されたものではないが、日本が自由な独立した国家であらねば、南アジアや東南アジアの人々の経済や社会的な立場の向上はなされず、他国との友好条約も結ぶことができないと主張されました。

そして「…なぜアジアの人々は、日本が自由であるのを熱望するのか? それは我々が日本と長い年月に亘る関係があるためであり、それは、被支配諸国であったアジア諸国の中で日本が唯一強く自由であった時、そのアジア諸国民が、日本を保護者として、また友人として仰いでいた時に抱いた日本への尊敬の念からです。

思い起こせば、さる大戦中に、日本の唱えたアジア共存共栄のスローガンが人々の共感を得、自国が解放されるとの望みでビルマ、インド及びインドネシアの指導者の中には日本に呼応した人たちもいたのです。」

「…我が国の重要産業品である生ゴムの大量採取による損害に対して我国は、当然賠償を求める権利を有するのです。しかし、我々はその権利を行使するつもりはありません。なぜならアジアで何百万人もの人達の命を価値あるものにさせた大教導師の『憎(にく)しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む』との言葉を信じるからです。

この言葉はブッダ大教導師ー仏教創設者ーの言葉で、人道主義の波を北アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、泰国、インドネシア、及びセイロンに拡げ、また同時に北方へ、ヒマラヤを越えてチベットから支那を経て最後に日本に及んだものです。

その波は我々を何百年もの間にわたって共通の教養と伝統とでもって結び合わせているのです。この共通の教養は、現在も脈々と存在していることを私は先週この会議に出席する途中、日本に立ち寄った時に見出したのです。

日本の指導者、国務大臣、一般の人達、そして寺院の僧侶など、日本の庶民は現在も大教導師の平和の教えに影響されており、その教えに従いたいという希望に満ちている印象を感じたのです。我々はその機会を日本人に与えなければならない。…」

そして最後に「この条約は敗北したものに対するものとしては寛容な内容でありますが、日本に対して友情の手を差し伸べましょう。…日本人と我々が共に手を携えて人類の生命の威厳を存分に満たし、平和と繁栄のうちに前進することを祈念する次第であります。」と述べられ演説を終えると、賞賛の拍手が鳴りやまなかったのだということです。そして、議場は一転、講和条約締結へと動き出し、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアを除く連合国四十八か国と日本とにより調印がなされたのでした。

「当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。」と、このジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑を一九九一年四月に建立した顕彰碑建立委員会を代表して中村元東方学院長が碑背面の顕彰碑誌に記しておられます。

ところで、現在、「世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になってい」ると、この冊子のあとがきに記された状況を加速するかのように見える世界情勢にあって、私たちは今どのような観点からこの世界を見たらよいのでしょうか。

四月三日、『東洋経済オンライン』のネット記事に配信された国際ジャーナリスト高橋浩祐氏による「ウクライナ戦争アメリカが原因をつくった説の真相」と題する投稿を紹介したいと思います。

そこで高橋氏は、シカゴ大学の国際政治学者ジョン・ミアシャイマー教授による、今回のウクライナ戦争の原因をつくったのは西側諸国とくにアメリカであると主張する説を解説しています。

それによれば、今回のアメリカ、イギリスなど西側諸国で、日本も同様ですが、広く受け入れられている通念は、この危機で責任があるのはプーチン氏であり、ロシアだと断定しています。そして、例えば悪い輩と良い輩がいて、私たち西側は良い輩、ロシア人が悪い輩ときめてかかる見方はまったく間違っているといわれています。

なぜならば、そもそも片方が一方的に悪いなどということはあるはずもなく、良い輩と思われている西側諸国は三つの柱からなる戦略でロシアをウクライナ軍事侵攻にまで追い込んだとミアシャイマー教授は強く非難しているのです。

一つは、NATOの東方拡大です。もともと東側の軍事同盟のメンバーだったポーランド、チェコ、ハンガリー、さらにはバルト三国、ルーマニアなどが一九九一年のソ連崩壊後、一九九九年、二〇〇四年と二度にわたり、クリントン政権時代にNATOに加盟しています。が、これはドイツ統一後に両陣営が交わした同盟不拡大の東西合意を一方的に反故(ほご)にしたものだということです。

さらに、二〇〇八年のNATO首脳会談にてウクライナとジョージアまで将来的なNATO加盟に合意しています。そうしたNATOの拡大に警鐘を鳴らし続けていたロシアは、その後その年にジョージアに軍事侵攻し、二〇一四年にクリミア半島に侵攻、併合して現在に至っているのです。

二つ目は、EUの拡大です。EUは経済的政治的連合体ではありますが、西欧型のリベラル民主主義の基盤となるものであり、そこへかつてのロシアの友邦国が統合されるかのように加盟し、ウクライナは今年の二月二八日、ジョージア、モルドバが三月三日に加盟申請をしています。結果としてロシアを刺激したことは想像に難くないとしています。

そして三つ目は、カラー革命だそうですが、これは二〇〇〇年以降ユーゴスラビア、セルビア、グルジア、キルギスなど旧ソ連下の共産主義国家で、独裁体制の打倒を目指して起きた民主化運動のことだということです。

特にウクライナでは、二〇一四年アメリカの支援を受けたクーデターによって、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が騒乱の中解任され、親米派のリーダーが後釜に据えられました。しかしロシアはこれを容認せず、違法な政権転覆と非難し、これがクリミア侵攻につながったとみられています。

これら三つの点からアメリカ側が実に三十年にもわたって徐々にロシアを追い詰め戦争に導いたのであると結論しています。

最後に、この度の戦争の背景には、民主主義対独裁体制、ないし西欧リベラル民主主義と強権的な権威主義の対立があるとも指摘されています。

世界には、このような見方もあるということを知っておかねばなりません。自らの領域を超えて影響を及ぼし他国を恣に操作し勢力を拡大せんとする覇権意識は、残念ながら八十年前と同様に東西ともに存在するということでしょう。

そして、こうした構造によって利益を得る人々が存在しています。新聞テレビの報道だけを見ていては知りえない背景、忘れられた歴史、報道されない真実があるということもわきまえておく必要があります。

特に、私たちが新聞テレビによって目にする報道は西側の主張したいことを見せられていると思わなければならないのでしょう。それが本当に真実であると確かめることはできません。その報道によって私たちに何を信じ込ませたいのか、どういう印象を残したいのかと見ることが必要であろうと思います。

私たち自身がそうした報道広報によって敵視され印象づけられた時代がかつてあったことを忘れてはなりません。ブッダの言葉に救われた私たち日本人は、あくまでも中立の立場で見ることが求められているのではないでしょうか。世界の平和を願うなら、先入観にとらわれ、敵・味方と偏見をもって見ることなく、人々の平安を願い、ただその因果関係を見て、冷静に現実を把握している必要があるのだと思います。

ジャヤワルダナ氏が引用されたお釈迦様の言葉は、『法句経』第五偈であります。正確には、「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」(岩波文庫・ブッダの真理の言葉・中村元訳)でありますが、では、どうしたら怨みは息むのか。

そのひとつ前の第四偈には、「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。」とあります。

誰もが、かれもわれもない、ともにこの小さな地球の住人として共存し、相互に依存した関係であることを知らねばならないということでしょう。



【六大新報・令和四年七月五日号掲載】
松長有慶先生著『空海』を読んで

 

松長有慶先生の最新刊・岩波新書『空海』を拝読させていただいた。岩波新書として、三十一年前に発刊された『密教』、八年前の『高野山』に続く三部作の三作目である。

読み始めてしばらくすると、さてこの本は何の本を読んでいるのかと不思議な感覚をおぼえた。それは、「あとがき」にもあるように、本書は弘法大師空海の生涯について歴史的に叙述されたものではなく、その生涯にわたる特徴的な思想を十の主題に分け、大師の全体像を著書、詩文、書簡類も合わせて総合的に把握せんと試みられた著作だからであろうか。

あるいは一般読者にも理解できるように、それぞれのテーマの説き始めが古代インド、ないしインド文化についてであったり、サンスクリット語の語彙や釈尊からはじまるからであろうか。それぞれに先生の幅広い見識が示され、仏教や密教の基本的な考え方から、大師の著作の本質的な意味に至るまで多岐にわたりわかりやすく解説しつつ論を展開されている。

十章に及ぶ主題は、まさに十方から大師に光を当て新たなる大師像を多面的に現代に浮き上がらせているようだ。そしてそれは、「あとがき」に記されるように、間違いなく近代科学文明の危機を突破する糸口としての思想的役割があるはずであると思われた。

第一章は「果てしない宇宙と有限世界」と題して、大師の思想と生涯の活動の基底に瑜伽(ゆが)(=禅定・瞑想)が存在すると説かれる。若き日の大師が室戸の崎で真言を念誦して瞑想に励んでいたとき、明けの明星の鋭い光を全身に浴びた異次元体験から説き始められ、日常の現実世界から宇宙的規模で広がる無限の世界に入る唯一の手段は瞑想を措いてないとされる。私たちの人生にもその根底に瑜伽が必要だということであろうか。

第二章は「自然観」と題して、大師が自然をどのように受け取られていたかを説かれる。インド密教の伝統である瑜伽を山林において実践せんとする大師は、平安初期の律令体制下に新来の密教を定着させるため都において活動される一方、山林に入り瑜伽観法に耽ることを常に模索されていた。『性霊集(しようりようしゆう)』の詩文や『声字義(しようじぎ)』の偈頌(げじゆ)を丹念に読み解かれ、大師は大自然の中に仏の教えが潜んでおり、私たちの気づきを待っていると考えておられたという。

第三章は「対立と融合」と題して、その自然と人間、カオスとコスモス、聖と俗というような対立する概念も、本来融合し一体であるとする大師の思想について説かれる。『即身義(そくしんぎ)』に掲げる二頌八句により、大師は、仏の世界も人間の世界も互いに融け合って一つであり、物と心も本来大宇宙の一つの真理の両面に過ぎないと主張しているという。そして、現代の環境問題について考えるとき、一切のものは仏の三摩耶身(さんまやしん)と捉え、一切衆生の成仏を願われる大師に学び、植物や小動物、山や土の苦痛を感じとれる感性をもてと諭されている。

第四章は「自と他」と題して、自と他の密教的関係性について説かれる。日常生活を成立させるために欠かせない自他の関係について、同化や排除ではなく、他者の個性を保持しつつ自己が他者を包摂して一体化する密教的なあり方について説かれている。相手の宗教的信条、価値観、社会観が異なっていても、異質な面を見て排除するのではなく、こちらからは欠点と見えるものの中に逆にかけがえのない長所を見つける目を育てることが大切であると教えられている。

第五章は「読み替え」と題して、大師の著作について、いたるところに施された文字と文章と思想の読み替えについて述べられる。それらについて古くから、文書の写し間違え、語学能力への疑念などがあったというが、一見不合理な記述の中に、独特の見解や密教眼からなされた真実の読み取り、解釈が含まれているという。筆者には、これも瑜伽観法の体験から来る自らの見解への確信によるものであろうかと思えた。

第六章は「仏陀の説法」と題して、釈尊による初転法輪から説きはじめられ、大師の仏身論について説かれる。顕教の三身説から、その中の法身を四種に開いた密教の四身説などについて丁寧に解説される。大師は、法身のうち自性身と自受用身は時空を超えて説法し続けているとされ、私たちはいつでもどこでもそれを受け取ることができると主張されたという。こうした無限の宇宙からの声なき声を受け取る装置を全身に備えていたと想像される大師は、隠されている永遠の真実なるものを日本に移植し定着させようとしたのだと説かれている。

第七章は「教育理念」と題して、綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)の開創から筆を起こされ、大師の思想の核心ついて述べられる。二〇一〇年、先生が全日仏会長時代に「世界経済フォーラム」年次総会に招請され、その時に準備された講演要旨の大部分が大師の教育論になっているとして、日本語版が全文掲載されている。是非、世界の識者に向け書かれた格調高い内容を御一読願いたいが、筆者には、グローバル化によって価値観が単一化されつつある今の世界にあって、誠に時宜に適った不可欠な提言(注)であると思われた。

第八章は「国家と民衆」と題して、身に受けたる恩恵についての大師のお考えを説かれる。ともすると大師は歴代天皇に親近し国家に奉仕した封建的な人であったと評価されるが、『性霊集』の上表文などを引用され、あくまで天皇とは私的文化交流に過ぎず政治関係の話はなかったと推定される。また四恩説についても解説されるが、大師は、父母・国王・衆生・三宝にとどまらない、より大きな宇宙的な規模での目に見えぬ恩恵を享受して生かされていると考えられていたであろうとされ、それに対する密教的恩返しは無限に継続する利他行によってつぐなうことではないかと説かれている。

第九章は「生死観(しようじかん)」と題して、人の生死について、また弟子や自身の死について大師の受けとめ方を説かれる。病や死をもたらすのは、その人の過去の業によって引き起こす鬼神の仕業とされながらも、それを排除するのではなく、古来仏教の説く無常を覚ることによって死を越えることを求めたとされる。弟子の死に対しては真言密教の教義を深く説いて成仏を祈られ、また、一般大衆には経典書写や僧による講讃、法要の執行などの功徳を積むことにより得脱することを勧められたという。なお、怨霊や鳥獣魚虫けらも含め生類一切に仏性ありとして精霊ことごとくを成仏させることを大師は願われたというが、それはインド密教にも日本仏教にもそれまでに例を見ないものであったと指摘されている。

第十章は「入定信仰(にゆうじようしんこう)」と題して、入定とは何かその意味について、それから入定留身(にゆうじようるしん)説の宗教的伝承の意味について説かれる。そして、今なお高野山の奥の院に生きて御身を留め人々の救済に尽力されているとされるのはなぜか。それは、その根底にある非合理な表現によってしか真実の意味を伝えることの出来ない宗教的表現なのだと論じ、その主な理由に二つあるとされる。その内容に、これこそ大師の大師たる所以と筆者は納得した次第であるが、それは実際に読んでお確かめ願いたい。

以上、一章一章、まことに濃く深い内容が凝縮している。正に六十数年に亘る先生の丹精を込めた研究の結晶とも言えようか。来年には、弘法大師御生誕千二百五十年の記念すべき年を迎える。この機にあたり、改めて大師の思想と足跡について現代的な意義を学び直す格好のテキストとなるに違いない。是非手にとってじっくりと味わいつつお読み下さることをお勧めしたい。 (全)

(注)・「混迷の時代の日本仏教の役割」と題する提言は以下の通り。①生きとし生けるものの相互の命のつながりを自覚する。②あらゆる存在の中にかけがえのない価値を認める多元的な価値観を共有する。③生かさせていただいているとの意識をもって他者への奉仕活動を行う。


 
四苦八苦をやわらげるために①


四苦八苦の人生

私たちは意識するしないにかかわらず四苦八苦の人生を生きています。仏教では、煩悩のままに生きていること自体が苦であるとするのですが、それは四苦の中に生も老も含まれていることからも知ることができます。

生苦は生れる苦しみ、老苦はそれからの一生についてまわる老いる苦しみです。私たちは泣いて生まれても、笑って生きていたいものではありますが、その間に病いになることもあり、いずれは死を迎えることになります。さらに、この生老病死の四つの苦しみのほかに、この後述べる八苦に悩まされ続けていることも経験上思い当たるのです。

八苦とは、この四苦のほかに別に四つの苦しみ(求不得苦(ぐふとつく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・愛(あい)別離苦(べつりく)・五取蘊苦(ごしゆうんく))をあわせて八苦というわけですが、これも定めのように私たちについてまわるものです。

普段私たちは考えもしないのですが常に老死が隣り合わせにあります。深刻な病気が発覚するかもしれないし、事故に遭うかもしれません。生まれてきた以上、いずれは死がやってきてしまいます。どんなに科学が進歩しても不老長寿などあり得ないのですから、この求めても得られない苦しみ・求不得苦は一生の間私たちの喉元に突き付けられた苦しみとしてあります。

そんな人生なら、仲の良い人、心楽しい人たちと生きていたいと思っても、必ずそりの合わない人、考えの対立する人、心を逆(さか)なでするような人と出会います。それは私たち人間社会の常であり、できれば避けたい人、嫌いな人、怨み憎しみあう人と出会わねばならない苦しみ・怨憎会苦も誰もがものごころついた頃から老いる迄ついてくる苦しみとしてあります。

その逆に、肉親や兄弟姉妹も含め、大切な人、この人とはいつまでも仲良く一緒に交際していたいと思った人でも、時間の経過とともに距離が離れてしまったり、疎遠になったり、もしくは死に別れたりということがあります。愛すべき人と別れ離れざるを得ない苦しみ・愛別離苦も誰もが何度も経験しなければならないことです。

さらに、こうして心と身体を持つ身であるが故に様々な欲求欲望が自ずから湧いて自ら苦しみを作り出しています。五蘊(ごうん)といわれる、自らの身体も含めて物質的なものや精神的なものに対する自分勝手な思いにより執着をつのらせて苦しむ・五取蘊苦が、前の七つの苦を総括するものとして八つ目の苦にあげられています。

四苦八苦はただ受け入れるしかないのか

これら四苦八苦は、迷いの世界に生きる私たちには必ずおとずれる苦しみであるとされるわけですが、それを定めと考え、何かあれば四苦八苦の人生なのだからとあきらめ我慢することも必要なのかもしれません。ですが、いずれにせよ受け入れねばならない四苦八苦であったとしても、すこしでもその苦しみを軽いものにするにはどう生きたらよいのかを考えてみたいと思います。

生老病死は、この世は無常だからと、ただあきらめねばならないのでしょうか。はじめの生苦は、実は母胎から出産することではなく、輪廻する衆生として生を受けることを言うので、こうして既に人間として生を受けている限りいかんともしがたいものです。が、残りの老病死はいかがでしょうか。特に、老と病については、何とかその苦しみを軽いものにできないものか。それにはどうしたらよいか。かつてこの寺報にも掲載した文章を抄録し参考にしてみたいと思います。

老苦を生きるには

平成二十四年四月発行の『備後國分寺だより第三十一号』に、「若々しくあるために」と題して掲載したものです。年々身体の衰えを感じつつも、心は若々しくいられたら、すこしは老苦を和らげることにはならないかと思うのですがいかがでしょうか。

「まず第一に、今に生きることです。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託します。そして今がおろそかになります。『一夜賢者経』という経典に、お釈迦様が教えられているように、「過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。」これです。

あれこれ過去のことを後悔したり、また、先のことを心配するということもあるかもしれませんが、それも今の私ではないのですから。

今の私が充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないでしょうか。

第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な出来事や世の中の変化に気づくことです。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはありません。人の言うこと、周りの情勢に流されず鵜呑みにせず、自分で考えてみることが大切でしょう。

日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるでしょう。

第三に、歳を忘れることです。歳を意識することで閉鎖的な発想に陥るのではないでしょうか。もう歳だから、というのが口癖になったりします。身体とは相談しなくてはいけないかも知れませんが、身体に無理ないことなら、歳を意識せず、何にでもチャレンジする元気が必要でしょう。

また、歳を忘れるというのは、誰をも平等な目で見ることでもあります。歳による上下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要です。

まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きるということに尽きるのかもしれません。それはまさに仏教の実践そのものでもあります。今ここにある瞬間瞬間の自分を体験する仏教の瞑想をそのまま日常にいかすことが、もっとも、若々しい心で生きることができるようです。」

いかがでしょうか。今という瞬間に専念して生きる。好奇心を持って生き、歳のこと自分のことなど忘れて他のために一生懸命に生きる、そうすればたとえ身体は老いていっても、おのずと心は老いずに生きられないかと思うのです。

病苦をさける生き方

次に、病苦について、平成十八年八月発行の『備後國分寺だより第十四号』に、「天寿を全うするために『病気にならない生き方』を読んで」と題して、新谷弘実先生(胃腸内視鏡外科医・アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授)の著作から学ばせていただいたことを掲載しています。できるだけ病気にならないで過ごすにはどういう生き方をしたらよいのでしょうか。…次号に続く                                   


信仰によって救われるとは

   
お釈迦様は、縁あった多くの人たちに自らと同じ悟り、解脱(げだつ)を成し遂げることを願われて教えを説かれました。

しかし、仏滅後、百年、二百年と年月が経つに従い、お釈迦様と同じ悟りを成し遂げるという大目標に対して、今日の私たちのように、とてもそれは叶い得るものではないととらえ、お釈迦様に対する信仰、それも単に何事かを願い加護をうるものととらえるようになっていったようです。

そのような時期に、西域から沢山の異民族がインド世界に流入するにしたがい、彼らはインド土着のバラモン教によってカースト外の扱いにされるのをきらい、異民族をも平等に受け入れる仏教に帰依し、なおかつ地域を統治する教えとして信奉したのでした。

丁度その頃興った、自らを大きな乗り物と称した大乗の教えは、すべての人々を対象として、その救済を願い、空という言葉を標榜して、善も悪も、自己も仏も、迷いもさとりも、空であるが故に実体がなく不二(ふに)であると主張しました。つまり、私たち自身と仏とを隔絶したものとしてではなく、不二としてとらえて誰もが仏に成り得るものとしたのでした。そして、インドの神々に匹敵するほどの多くの仏菩薩を誕生させ、それらへの信仰を推奨しました。

ですが彼らの説いた信仰は、ただ手を合わせ名を唱えることではありませんでした。その仏菩薩のすぐれた徳や善根に随喜(ずいき)すること、その仏がどういう仏で、どのような徳を積まれ、どのような悟りを得られたのかを正しく知り、それをまるで自分のことのように喜び賞賛して、その功徳を自分のものとすることを意味していました。

そして、その受け取った優れた功徳を自らの悟り、菩提のために廻向する、振り向けることによって、自分の行いによって積み重ねた業(ごう)によって生まれ変わるとする業報輪廻(ごつぽうりんね)からさえも解放されると教えられたのでした。

ですが、それを可能とするためには、心を般若波羅蜜(はんにやはらみつ)にとどめる、すべてのものを空と見て、不二ととらえられねばならないとされていました。般若波羅蜜とは、この後に述べる六波羅蜜の一つでもあり、智慧の完成と訳されるものです。

それは、なにものにもとらわれず、心にとどめないことと表現されるのですが、そのような境地を得るために、少し後の時代には、さかんに空性(くうしよう)の瞑想が実習されたということです。それは、自分の体、心を分解し、自分と言えるものがあるのかと瞑想し探求するものです。これが自分と言えるような不変の実体ある自分などどこにも無いと悟ることを目的としていたわけですが、そこまでの境地を得るのはそう簡単なことではありませんでした。

そこで、こうした専門的な修行に対し、一般の在家の修行者にも行える実践として六波羅蜜が説かれました。六波羅蜜とは、布施、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧の六つの行で、これらの完成と名付けられています。

それらのうち、般若(智慧)波羅蜜を除く、世間における五つの俗行は、他者に施しをしたり、在家の戒である五戒を守り、思い通りにならないことを耐え忍び、善行に励む、さらに坐禅瞑想にいそしむことです。そして、それらの行いを完成の域にまで高めるためには、その功徳を他に振り向ける廻向が必要であるとしました。

五つの行いを為したなら、それらの功徳を生きとし生けるものの菩提(さとり)のため、無上菩提(むじようぼだい)のために廻向すれば、崇高なる出世間(しゆつせけん)の無上菩提の完成となり、六行が六波羅蜜に転換されると教えられたのです。

ですから、漢訳の大乗仏教圏にある私たちも、お勤めの最後に、必ず「この功徳を以て普く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」と『法華経化城喩品(けじようゆほん)』にある廻向文を唱えています。廻向文を唱えるとは日頃の六波羅蜜の行を完成させるために、無上菩提を念じる大切な内容なのだと意識してお唱えするとよいでしょう。

さらには、空の世界に入るためには、言葉の概念世界からの解放が必要であるとされるのですが、そのために私たちは日頃『般若心経』をお唱えしていると考えることもできます。

『般若心経』では、最後の一行にあたる真言が重要視されるわけですが、心経をお唱えするとき、この真言を唱えることによって言葉の世界を超えていくのだと、何も考えない時間をつくるのだと意識してお唱えするとよいでしょう。

そして心経はその前段階で五蘊をはじめとするお釈迦様の教説をことごとく否定するわけですが、それも、とらわれない心にとどまり、あらゆるものに心とどめないこと、ものを認識して執着しないこと、般若波羅蜜に徹底するために説かれたものでした。

こうして、お釈迦様を崇拝し何事かを願うしかなかった人々に向けて、信仰すれば救われますよ、もっと仏陀のことを知りましょう、たくさんの仏菩薩に随喜して、それら仏のような心もちになり働いてください、さらに瞑想してみましょう、衆生の悟りのために廻向してください、そうすれば輪廻も超えられますよと、と巧みに説きながら、先導し、信仰からより本格的な修行へと段階を踏んで私たちを導く教えとして大乗仏教があったと考えられるのです。

今日、大乗仏教の説き方は、特に我が国においては、その本来の意味内容を忘れたかのように簡易なものとなり、容易な単一的な修行により目的が達成されるとする教えが説かれます。ですが、この様相は、大乗仏教運動を創始し展開した当時の仏教者たちにはまるで不本意なものと映っているのではないかと思えます。

大乗仏教は、これだけすればよいというような教えではありません。総合的重層的なその構造があってこそ、一切衆生も仏になりうると主張できたのです。仏教は学ぶべき教えであることがわかります。 参考文献・梶山雄一著『般若経』(中公新書)      


六種の供養と六波羅蜜

 
寺院の本堂にも、各家の仏壇にもふつう六種の御供えがなされます。まず花があり灯明、線香(焼香)があり、そのほかに、仏飯(飯食(おんじき))と水、水はお茶湯の場合もありますが、それに塗るお香である塗香をいれて六種となります。これらを六種の供養というのですが、これらは仏様に単なる習慣としてなされる御供というわけではありません。それぞれ六波羅蜜といわれる仏教の実践につながるものであるから尊い供養になると考えられているのです。

水は布施波羅蜜(ふせはらみつ)、塗香は持戒波羅蜜(じかいはらみつ)、花は忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、線香は精進波羅蜜(しようじんはらみつ)、飯食は禅定波羅蜜(ぜんじようはらみつ)、燈明は般若波羅蜜(はんにやはらみつ)に相当します。因みに波羅蜜とは、インドの言葉ではパーラミターで到彼岸(とうひがん)と訳し、迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸に至る意味で、そのために菩薩が修する行のことをいいます。ですが、大乗仏教では誰もが菩薩ですから私たちが行うべきものと考えたらよいのです。

 布施波羅蜜
一つ一つその意味するところを見ていきますと。水を供えることは布施波羅蜜を行じることであるとされます。砂漠に何日もさまよい食べ物も飲み水もなくなったりしたら、その時に飲む一口の水は命を長らえるよすがとなります。生命にとり水は不可欠のものであって、死に水をとるという表現にもあるように、亡くなってご遺体に差し上げる水は何よりの、最高の布施行為に当たるのです。その人にとって最も必要なものを施す、純真な心で行う施しを布施波羅蜜といいます。それは水が地球を循環して回り巡って返ってくるように、なされた布施行為は不思議なことに回りまわって他から返ってくるものでもあり、自他を、世の中を豊かなものにする功徳ある行為であると言えます。

 持戒波羅蜜
塗香を供えることは持戒波羅蜜を行じることであるとされます。良い香りの塗香を手に取り掌にも甲にも塗る行為は身と心を清める行いであり、仏教徒にとっての戒、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)や十善戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を守る、つまり身と口と心の行為において悪業をさけて生きることは身と心を清める行為であり、それが持戒波羅蜜となります。それは、自他ともに社会全体を健全なものにする功徳ある行為であります。

 忍辱波羅蜜
花を供えることは忍辱波羅蜜を行じることであるとされます。野に咲く花、道端に咲く花は、どんな場所でも何度踏まれようともじっとその時を待ち条件が整えば花開きます。そうした名も知られぬ花のように、何があっても、いじめや差別があっても敵と味方とを区別せず、どんな環境でも耐え忍び、投げ出さず、毎日が同じことの繰り返しでも倦むことなく、真摯に生きることが忍辱波羅蜜です。それは花が周囲に彩りと良い香りを放つように、世の中に憩いと平和をもたらす功徳ある行為であると言えます。

 精進波羅蜜
線香を供えることは精進波羅蜜を行じることであるとされます。線香は時間をかけてじわじわと燃え香りを放ち続けます。そのように、周囲の人々や社会のためになる善行為に励むことが精進波羅蜜です。それは周りに、社会全体に、線香の良い香りのように、よい影響を与え続ける功徳のある行為であると言えます。そして線香が長く香を放つように善行為も継続して行じ続けなければならないということでしょう。

 禅定波羅蜜
飯食を供えることは禅定波羅蜜を行じることであるとされます。飯食は普段飽食している私たちには感じにくいですが、何日も食べられない飢餓状態にあったりしたら、一口のおかゆでも身も心も落ちつかせ、それがいかに身体を整え心を安定させるものであるかがわかるものです。その飯食のように、禅定は身を調え呼吸を静かに長く心落ちついて坐る時に得られる深い安らぎのことです。それこそが禅定波羅蜜です。それは一人行じていても、周囲に世の中に落ち着いたよい影響をもたらす功徳ある行為であります。

 般若(智慧)波羅蜜
燈明を供えることは般若波羅蜜を行じることであるとされます。明かりがあるからものが見えるのです。暗闇の中では足元を照らす灯火によって先に歩むことができます。お釈迦様の法は、まさに灯火で足元を照らすがごとくと言われるのですが、燈明が私たちの進むべき方向を照らすが如くに、一切の真実のあり方を明らかに如実に了解し至福をもたらす心の働きを般若波羅蜜といいます。お釈迦様の法のごとく、智慧は私たちを心晴れやかに幸せに導くものであります。それは、おのずと周囲に世の中に安心と幸福をもたらす徳そのものであると言えましょう。

これら六波羅蜜の実践として意味あるお供えをしているのだと思って、日々仏壇を荘厳し、過去精霊、先祖代々、そして回向文にあるように一切の衆生が仏道を成じるようにと供養をささげてくださることをお勧めしたいと思います。毎日仏飯と水やお茶湯を供え、ロウソクに火を入れ、線香を付けて供え手を合わせる行為が、それだけでとても大事な仏行をしているのだと理解してなされることで、それが励みとなり、大きな功徳となり、周りにもよい影響を与えることでしょう。

そして仏壇の前で、唱えるお経は禅定波羅蜜にあたるものと考えられますので、読経後はしばらくそのまま心静かに余韻に浸り、仏様のような心持で目を閉じ坐られることをお勧めします。継続していくことで、いずれ智慧がひらめくこともあるでしょう。楽しみにお続けください。     



【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます。

○大本山大覚寺から、疫病退散世界平和祈願のために写経用紙が送られてきています。新型コロナウイルス感染症がいまだ終息せず、くわえて世界情勢の不穏な様相から、何とか早く平安な世になることを願い写経奉納をお願いしたいと思います。盆参りの際に用紙を持参しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

○来年令和五年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、大覚寺では、六月十五日に記念奉祝法会が厳修され、六月十一日から十七日の七日間を奉祝期間として末寺団参を受け入れられるとのことです。この機会に当山も団体参拝を企画したいと思います。是非ご参加下さい。

○月例行事「仏教懇話会」では、前号にて予告したように、今年六月より、高等学校「倫理」の教科書と「倫理資料集」をテキストにインドの思想や仏教、日本仏教について基礎から学び始めました。この機会に是非ご一緒に教科書を読み、楽しく仏教を学習してみませんか。ご興味のある方は毎月第二金曜日午後三時に國分寺会館一階にご参集ください。(会費は無料、賽銭のみ)

○令和六年度御涅槃事業として予定しております大師堂休み堂の建て替え工事は諸般の事情から遅延しております。準備整い次第工事にかかる予定ですが、どうぞご了承ください。なお、工事中の月例薬師護摩供は本堂内にて執行いたします。

月例行事 どなたさまもどうぞお気軽にご参加ください。

◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

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備後國分寺だより 第61号(令和4年4月3日発行)

2022年05月02日 16時47分38秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第61号


四無量心と十善に生きる

國分寺の仁王門横の掲示板には、時折ヒンディー語の格言とその日本語訳を小ポスターにして掲示しています。

これは、『saccī bāten(サッチー・バーテーン・意味は「真実の言葉」)』という名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディー語で古今のインドの格言などを投稿されているものがあり、その中から、私たちにも学びとなるようなものを選んで翻訳しているものです。

一昨年から、時々彼らの投稿に注目して日本語に訳したりして楽しんでいたのですが、そうして翻訳してみたものを何度かフェイスブックの投稿のコメント欄に書き込んでみたこともあります。その中から、是非皆さんにもご披露したい内容のものを印刷しては掲示しているのです。

今年の初めに掲示したものは、昨年の十月一日に投稿されたもので、仏陀の写真にヒンディー語で格言が入り、その横にそれを翻訳して、

「 身体のための一番よい治療は、
 頭静まり平穏な心である。
 そして、その平穏な心のために最もよい
 治療は、誰の言葉であっても、
 胸に重く受けとらないことです。」


と印刷して掲示しました。

この、身体のための最良の治療は、「頭静まり平穏な心」と訳してみましたが、これは原文では、シャーント・ディマーグとあり、直訳すると「平和な頭」となるものです。

あなたは頭がいい、ということを「アープカ・ディマーグ・アッチャー・ヘイ」などいう具合に使うので、「ディマーグ」という単語は会話でもよく登場する言葉なのですが、辞書には「脳、頭脳、思考力のほかに高慢、傲慢、慢心」とあります。そこで、シャーント・ディマーグで、頭静まり、高慢や慢心のない、穏やかで平安な、平穏なる心となるのであろうかと思います。

そして、その平穏なる心のための最良の治療は、「誰の言葉も胸に受け取らない」というのが直訳で、この「胸」の原語は、「フリーダヤ」とあります。これは般若心経という経題の中の「心」にも該当する言葉で、因みに心経はサンスクリット語では「プラジュナー・パーラミター・フリーダヤ」となるのですが、これは心というよりは心臓のことです。そこで胸と訳してみました。

誰かの言葉に、ドキドキしたり、恐れおののくとき、また怒り心頭になってブルブルと体が震えるようなとき心臓が高鳴ります。そういう状態の正反対に、誰の言葉であっても心静かに聞けて、さっと受け流し、自らの心に引っかからないよう、頭を静かに平安に生きる技が必要だということになるのでしょう。

もちろんこれは誰の言葉もいい加減に聞き流したらよいということではありません。きちんと要件を聞き取った上で、それが負担になったり重荷になることがないよう、その言葉にとらわれ後々まで心悩ませるものとならないようにするということです。

では、良いことであっても悪いことであっても、だれの言葉でも軽く受けとめるにはどうしたらよいのでしょうか。人の言葉に反発したり怒ったり、落ち込んだり、悲しんだり、後々まで暗い気持ちを引きずるのはどうしてなのでしょうか。

それは、自分という存在や自分の意志、考えがあり、それを尊重しなかったり、それに反するような言動に対して反応し、自分や自分の方針なり考えを蔑ろにされて憤慨する心により起こるのではないかと思います。

とすると、自分という思い、いわゆる自我さえなければ、そもそも腹を立てることもなくなるのかもしれませんが、それはとても難しいことのように思われます。

ところで、様々な場面で、そうした穏やかならぬ心の状態になるのは、過去の業(ごう)が作用していると仏教では考えます。

たとえば、同じ緊張を強いられるような場面でも、普通にいられる人もあれば、そういう状態に弱い人もあります。同じ災難にあっても、かすり傷一つで済む人、足腰を骨折する人、命を落としてしまう人もあります。

同じことを言われても、平然と受け流せる人もあれば、すぐに落ち着かなくなったり、怒りから手が出る人、言葉で口汚く言い返す人、表面的にはそ知らぬふりをしながら心は憤り、いつまでも怨念を持ち続けるような人もあります。

人さまざまであり、それらも過去に意志をもって行った身と口と心の行いが業となって私たちに貯め込まれていることが影響するというのです。遺伝や生まれ育ち、生活環境や経験も影響するのでしょうが、それらも含め過去世から今に至る業によるのだと考えるのです。

業には善業と悪業があります。厳密には善でも悪でもない業もあるのですが、善因楽果・悪因苦果と言いますように、善い行いをした果報である善業は楽ををもたらし、心の幸せなることが期待されるのです。ですが、悪業は逆に苦をもたらし不幸をもたらすとされるので、できれば消し去ってしまいたいというのが人情でしょう。

そうした悪業が様々な場面で自分にとって悪しき結果をもたらし、不本意な反応を引き起こし醜態をさらすということにもなりかねないとしたら、やはり何としても悪業は消滅させたいものです。

ところで、昨年読んだ『パーリ仏教を中心とした業論の研究』(浪花宣明著・春秋社刊P276~P291)という本に、そのあたりの話がとても興味深く書かれていますのですこし紹介してみたいと思います。

それによれば、自分とは何かと言えば業に外ならず、業には私がいるという自我の意識がなくてはならないもので、自我さえなくなれば、つまりそれは煩悩がなくなり、最高の悟りに到達することを意味するものではあるのですが、そうすれば業は消滅するのだとあります。

相応部経典(そうおうぶきようてん)S.iv.320『改悔』には、「悪業を捨断し、悪業を超越する、彼はこのように貪欲を離れ、悪心を離れ、迷妄なく、正念正智(しようねんしようち)をもって、慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しや)の四無量心(しむりようしん)によって心解脱(しんげだつ)し、欲界(よつかい)の業がそこに残存せず」と説いてあるのだといいます。

そこで長部経典(ちようぶきようてん)を調べてみると、確かに第十三『三明経(さんみようきよう)』に、「…聖なる戒をそなえ、感官を防護し、正念正知をそなえ、衣食に満足し、五つの障害が捨てられ、喜びと楽のある彼が、慈・悲・喜・捨の心をもって、すべてのところに、一切を自己のこととして、無量の恨みのない害意のない心をもって満たし住む。そうして、慈・悲・喜・捨が修され、心が解脱すれば有量(欲界)の業がそこに残ることなく、とどまることがない」と説かれていました。

これら経典には、業のすべてが消滅するとしているわけではありませんが、欲界の、つまり通常の衆生世界での悪業は、5ページに述べる慈・悲・喜・捨の四無量心の修習によって消滅すると考えてよいということなのです。つまりは自我という、自分がいるという錯覚からも解放されるということになります。

ですが、こうした欲界の業が消滅するという四無量心の修習(じゆじゆう)は、その実践が必然ではあるのですが、その完成とされる心解脱(心修習の力による解脱。心が定により貪欲から解脱すること『ポー・オー・パユットー仏教辞典』)を成就(じようじゆ)するというのはそんなに簡単なことではないようです。

そこで、次に本書に説かれる善悪業が異熟(いじゆく)(善悪の因により機が熟して結果すること)しない、つまり業の報果が変化して結果しない場合があるという教えは私たちにとっての救いとなるのかもしれません。

これはいくつかの経典にも説かれ、また、パーリ論蔵『分別論(ふんべつろん)』(Vibhanga ヴィバンガ)にある教えとのことなのですが、悪業者には苦果があるという道理があり、善因楽果・悪因苦果を不動の真実としながらも、ある条件の下で業がそれらに遮られ結果しない場合があるというのです。

それは業異熟智力の説明の中で、①幸福な趣(六道の中の天界人間界の生まれ)、②幸福な生存の素因(身体の端正なこと)、③幸福な時代(善王善人の時代)、④幸福な行為(正しい行為)により、善業が異熟し、悪業はそれらに遮られて異熟しないということです。逆に不幸な趣・生存・時代・行為の場合には、悪業が異熟し、善業はそれらに遮られ異熟しないというのです。

既に人間として生まれ、自由な時代に生きている私たちができうる可能なことは、④幸福な行為、つまり正しい行為ということになるのでしょうか。

それにより、悪業が結果するのを遮りつつ、善業が異熟するのを待つことができるということなのです。

私たちにとっては、『仏前勤行次第』にある「十善戒」として読み学んでいる十善、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・
不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見」により生きることが、過去の様々な悪業の業果から逃れさせてくれるということになるのでしょう。これも、徹底するのはとても難しいことですが、改めて勤行次第において「十善戒」が唱えられることの真意を知った思いがいたします。

まずは、四無量心について、次ページに記した南方の仏教徒たちが唱えている「慈しみの修習」を参考に、静かに毎朝あるいは毎晩、ふさわしい時に、まずは私自身が、そして周りの人たち、生きとし生けるものに、慈(友情の心から幸せでありますようにと願う)・悲(苦しみがなくなりますようにと願う)・喜(願い事がかない喜びがありますようにと願う)・捨(誰をも分け隔てなく平等にみて静かな心に住する)の心を遍く念じてみてください。

そうして自我を収めつつ、十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見)を離れ、十善に励むことによって、悪業による報果を逃れつつ生きることが私たちには大切だということなのです。

掲示板を解説するつもりで始めた話が、いつの間にか脱線して、日常の生き方にまで話が及んでしまいました。が、是非四無量心と十善の生き方を基本に精進を続け、誰の言葉も重く受け取ることなく、心身ともに健康にお過ごしをいただきたいと思います。    

四無量心の修習

慈悲喜捨の心を、まずは自分に向けて、私は幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますようにと念じます。

それから周りの身近な人たちが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、と身近な人たち一人ひとりの顔や姿を思い浮かべながら念じます。

そして、生きとし生けるものが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、とこの町の、この市の、この県の、この国の、世界中の人々、さらには動物も昆虫も、地中のものも空中のものも、餓鬼も天界の神々も幸せでありますようにと念じます。そして、自分を嫌っている人も私が嫌いな人も幸せでありますようにと念じます。

次の南方の仏教徒たちが唱えている慈しみの修習も参考にしてください。

慈しみの修習(メッタ・バァーワナー)

私は恨みのないものであります。
怒りなきものであります。
惑うことなきものであります。
幸あるものは、自分を守護す。
この私のごとく、私の師、和尚、母、父、味方も、見知らぬものも、
恨みあるものも、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。  

この精舎における、この近くの村における、この町における、
この国における、この閻浮堤における、この鉄囲山の境界内に住する
自在天、神々、人々、すべての衆生は、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
 
東、南、西、北、北東、南東、南西、北西、地下、上空のすべての方角の、すべての衆生、息をするもの、生き物、食により生きるもの、体を持つもの、女性、男性、聖なるもの、汚れたもの、神、ひと、人でないもの、地獄にあるものも、すべてのものたちが、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。  

東の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
南の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
西の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
北の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
東方に持国天、南方に増長天、
西方に広目天、北方に多聞天。
彼ら名声ある世界の守護者四天王よ
我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。



仏教懇話会の話題から
煩悩について②


②防護により断つ

次に、防護により煩悩を断つとはどういうことでしょうか。

防護というのは、私という存在を説明する教えである五蘊(ごうん)のプロセスをよく理解し、その過程の中に起こる煩悩について防護するという内容になります。

五蘊とは、般若心経の中にもあり、私たちもよくなじみのある言葉です。これは、色・受・想・行・識の五つの集まりという意味で、このプロセスによって私たちは生きている存在だということです。

色とは、この体の、六つの感覚器官(六根)、眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)・意(こころ)のことです。舌とは味覚を感じる舌、身とは触覚を感じる皮膚のことで、意とは思いめぐらす心の認識機能のことです。

そこに、それぞれ形あるもの、音、香り匂い、舌に触れるもの、体に触れるもの、心に現れる思い考えなど(六境)が、眼、耳、鼻、舌、身、意に入ると、それぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が作用して、受として感覚的に受容し、想としてそれらが何かと概念として捉え、行として何かしたいと意思が働くことになるのです。

そして、その過程で、それらが好ましいものなら欲の心、貪りの心が生じ、好ましからざるものなら、嫌悪や怒りの心が生じます。そうして煩悩が生まれていきます。

ですから、想から行にいたる段階で、煩悩が起こらないように、防護するということが必要だということになります。物を見たり、聞いたりの一瞬のうちにこれらの過程は進みます。なんの余計な心を入れることなく、ただ物体を見たり、音声を聞く、・・・心に思い考えが起こった瞬間に断ち切るということが必要となります。

そのように、その過程を細かく観察できるように心を鋭く余計なことにかかわることなく観察する訓練が必要となります。

ただ見る聞く嗅ぐ味わう触れるにとどめ、そこに何の煩悩も起こさないように心を観察し防護することです。そのためには対象となりがちなものをどう捉えるべきかをわきまえておくことも大切となるわけですが、それは次の受用にヒントがあります。

③受用により断つ

では、受用とは何でしょうか。昔の出家者たちの生活必需品である、煩悩を起こすもととなりがちな、着るもの、食べるもの、住まい、薬について、それらをどのように捉え受け取るのかと述べています。

衣は、寒さを防ぎ、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることを防ぐため、陰部を覆うためでしかないとあります。

出家者にとって、本来着るものとはそうあるべきであるということでしょう。形や色、豪華さ、もしくはブランドなどにとらわれがちですが、それによりますます煩悩を掻き立て、苦悩をもたらすと考えられます。

食は、戯れ、心酔、魅力、美容のためでなく、身体の存続、維持のためであり、空腹を克服し、食べ過ぎの苦痛を起こさず、仏行を支えるために食を受用するとあります。

現代は飽食の時代と言われ久しいわけですが、相変わらず美食番組が人気のようです。これを参考に、本来あるべき食を考えることも必要でしょう。

そして、住まいは、寒さ暑さを防ぎ、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、薬は、病気の苦痛を防ぎ、苦痛がなくなるためであるとしています。

衣食住薬について、やや厳しい内容に思えますが、これら生活に欠かすことのできないものを本来どのように受用すべきものかと考えることで煩悩を防御することを教えていると受け取っていただけたらよろしいのかと存じます。

④忍耐により断つ

次に、忍耐によって断つとはどういうことでしょうか。

テキストには、まず、寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐えること、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることに耐えることとあります。

そして、罵倒、誹謗の言葉に耐える。また苦しい、激しい、粗悪な、味気ない、不快な、身体の感受に耐え忍ぶこととあります。

こうした身体の感覚や外からの刺激に対して現代人の私たちは特に我慢ができず、すぐになんとかしようとしがちなものばかりです。が、時にはそうした快適な状態を求めるが故に諸々の煩悩が生じていることも知らねばならないということでしょう。

⑤回避により断つ

回避によって煩悩を断つとは何か。

狂暴な馬、牛、犬、蛇を避け、切り株、棘の地、穴、断崖、沼、溝など危険な場所を避ける。

座るべきでないところに座ったり、行くべきでない悪しきところに行ったり、悪友に親しんだり、そのような煩悩や危険をもたらす場に至ることを回避する。

そうすることで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないと説いています。

⑥除去により断つ

除去によって断たれるべき煩悩とは何でしょうか。

欲の考え、怒りの考え、害意の考え、不軽蔑に関わる考え、利得・尊敬・名声に関わる考え、同情に関わる考え、不死の考え、地方の考え、親族の考えなど不善の考えを認めず、断ち除き、終わりにし、除去することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないとあります。

欲や災い、争いを生じるこのような考えをしないことも煩悩を防止することであるということです。

⑦修習により断つ

最後に、修習によって煩悩を断つとあります。

ここでは七覚支(しちかくし)という高いレベルの修行法が記されており、それは、念・択法(ちやくほう)・精進・喜・軽安(きようあん)・定・捨の七つの悟りを得るための条件とも言われるものです。

一、念覚支とは、四念処(いまある身・感覚・心・真理)について細かく観察すること。
二、択法覚支とは、その観察について真実なるものを選び、他を捨てること。
三、精進覚支とは、前の二つの修行に集中努力すること。
四、喜覚支とは、実践することで精神的喜びが生じること。
五、軽安覚支とは、心身を軽やかに安らかにすること。
六、定覚支とは、一つの対象に心を集中させること。
七、捨覚支とは、対象へのとらわれを捨て、苦楽を離れて中道を歩むこと。

これらについて、正しく観察し、世間を離れ、貪りを離れ、悟りに基づき、煩悩が遮断されつつ修習されるものであるとテキストにあります。

ここにある一、念覚支の内容とする四念処とは、すこし前に世界中でマインドフルネスと喧伝された瞑想法のことです。「今のこの瞬間に体験していることを意識的に、評価せず、とらわれず、ただ観ている」を基本として、体の動き、感覚として感じられること、心の様子、周りの現象について観察しそこから真理を見ていく瞑想法です。詳しくは、『國分寺だより』第四十九号に解説してありますので、ぜひご覧ください。


以上、『一切煩悩経』にあるこれら七種の煩悩を防止する法門について学んでまいりました。

仏教の教えに生きる私たちが、基本的なこの世のあり方をまずはわきまえ、煩悩とはどのように生じるものか、さらに日常出くわす様々なケースを検討し、それによって煩悩が生じ、苦悩にいたることがないように、どのような手立てによって気をつけるべきであるかを教えてくれています。

倶舎論に学ぶ

次に、五世紀中頃に世親(ヴァスバンドゥ)によって著された教理綱要書『倶舎論(くしやろん)』に説く煩悩の対治法を見ていきます。

分別随眠品(ふんべつずいみんぼん)第五に「煩悩の断滅」と題する章があり、そこには、対治に四種ありとして、断、持、遠、厭とあります。

断とは、六根に入る六境を好ましいものと捉えることにより渇愛が生じ苦しむ過程を遍知して煩悩を断じます。
持は、その断じている状態を持続すること。
遠とは、煩悩を生ぜしめる対象を遠ざけること。
厭とは、迷い煩悩に取り巻かれ禍を生じることを予見して厭い離れること。

断は、パーリ中部経典『一切煩悩経』に説く①見ること②防護に該当し、持は、③受用④忍耐、遠は、⑤回避⑥除去、厭は、⑦修習となるのでしょうか。

戒を持して修行を重ね、四双八輩(しそうはつぱい)というような聖者の階梯を進むことで段階的に煩悩は消えていくと教えられており、当然のことではありますが、最高の悟りである阿羅漢果に至ればすべての煩悩は消滅することになります。

専門的な修行をする環境にない私たちにおいても、これらを参考に、ことあるごとに七つの煩悩防止の教えを思い出し、煩悩を避ける生活を心掛けてまいりたいと思います。

そのためには、煩悩に限らず、仏教の教え全般について学び、善友と親しみ、心の修行を実践することを生活の基本に置くことが必要でしょう。心を防護して、坐禅瞑想するなどして世間を離れた心の静寂を知り、善行功徳を積みつつ精進することが肝要であろうと思います。ともに励んでまいりましょう。

なお、「仏教懇話会」では、今読んでいる『さとりの知恵を読む』を終えたら、下記の高等学校の倫理の教科書中の、インド思想、インド仏教、日本仏教について書かれたページを学んでいく予定にしています。是非、お気軽にご参加下さい。


六大新報令和四年二月五日号掲載】
松長有慶先生著
『訳注 弁顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』を読んで


松長有慶先生の新刊、訳注シリーズの最終巻となる『弁顕密二教論(以下『二教論』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。表紙の帯に、『なぜ密教はすぐれているのか。法身説法(ほつしんせつぽう)を高らかに宣言した代表作!』とある。あとがきには、唐より自ら請来(しようらい)したすばらしい教えを一刻も早く日本宗教界に着実に伝えたいという大師の使命感に燃えた切実な思い、異常な熱気が漂う著作であるという。

『密教辞典』(法蔵館)には「真言宗の判教のうち横の判教を説く(竪の判教は十住心論)。専ら顕教(けんぎよう)と密教との区別を明瞭にした立宗宣言の書である。六経三論を典拠に挙げて縦横に論陣を張る。」とある。確かに一読してみると、多くが引用文献の叙述で埋められており、これまで読ませていただいた三部書に比べるとかなり難解に思われた。

しかし、これまでのシリーズ同様に冒頭「『二教論』の全体像」が説かれ、『二教論』とは何かを簡潔に知ることが出来る。『二教論』の主眼は、一つに法身説法の可否、二つ目に果分(かぶん)の説不、つまり覚りの境地を説きうるか否か。そして三つ目にきわめて簡略ながら即身成仏についてとある。本編も、これまで通り【要旨】に解説を添えられ、わかりやすい【現代表現】により難なく読んでいける。そして、【読み下し文】と丁寧な【用語釈】が続く。

本編は上下巻に分かれ、上巻は弘仁のごく初期に、下巻はやや遅れて撰述されたであろうという。

早速本編上巻を読み始めると、序論にて仏身を法身、応身(おうじん)、化身(けしん)の三身に分け、顕教と密教の違いについて説かれる。つまり、応身と化身の教えが顕教であり、法身仏の中でも自らの身から流出した眷属(けんぞく)に対し自らお覚りになった境地を説く自受用法身(じじゆゆうほつしん)の教えが密教であるとする。

本論では、まず問答があり、経典を読む人の見識素養によって内容の理解が違い、経の内容も聞き手によって異なるとして、顕教は相手に応じて説く仮の教えに過ぎないのに対し、密教は真実に言及した究極の教えである、と論を進めていく。

そして、先生が大師の教学に重要な地位を占めるとされる、大乗起信論(だいじようきしんろん)の注釈書『釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)』による五重の問答が示される。これは本覚を具えた者がそれぞれ到達する覚りを五段階に説き、その五段階目を密教に配当し、それらの深浅を語るものではあるが、大師はこの五重の問答には甚だ深い意味があり、よくよく吟味し尽くし最終的な真理に到達すべきであると諭されている。何度も精読すべき箇所と言えよう。

次に、四家大乗と言われる華厳・天台・三論・法相(ほつそう)の各宗の教えにおいて、覚りの世界を表現することはできないとする経典論書の箇所を取り上げて、各宗ごとの果分不可説(かぶんふかせつ)を説明していかれる。それにより大師が各宗の覚りの本質をどう捉えていたか知ることができる。

たとえば華厳宗については、法蔵の『華厳五教章』を引用し、華厳の法界縁起の世界は因と縁が互いに関わり合い、あらゆる事象が永遠に自在に休みなく活動しているとするが、その世界は真理の世界(果分)と現実世界に分かれ、真理の世界について究竟果分(くきようかぶん)の国土海とか十仏の自体融義(じたいゆうぎ)などというが通常の言語文字では表現できない、つまり果分不可説であるとする。

天台宗についても、天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を引用し、天台の教えの肝要は空・仮・中の三種の真理であり、一念の中にその三諦を悉く観じ取ることを極めつきの妙境とみなしているが、仏と仏との間だけが分かり合える境地で、どのような言葉でもってしても表現を超えているとしており、果分不可説であり、真言の立場からは入門の初期段階に過ぎないという。

それに対し、密教の果分可説について、先生は有力な典拠として下巻にある『分別聖位経(ふんべつしよういきよう)』をあげておられる。その部分を要約すると、「法身大日如来の自受用法身仏は、その心髄から無量の菩薩衆を流出し、これらの諸仏諸菩薩は他者に説くのではなく、自受法楽のためだけに、自ら覚った境地を説く」とあることから、自受用法身として覚りの境地を説く果分可説であるとせられる。

そして、上巻の最後に、即身成仏について述べられる。『菩提心論』の中に、顕教と密教の深浅、成仏の遅速、勝劣がすべて説かれているとして、真言の教えの中だけに秘密真言独自の瑜伽の体験内容が明らかにされていると述べる。

下巻は、まず、密教の勝れていることを『六波羅蜜経』と『楞伽経(りようがきよう)』を引用し論述していく。『六波羅蜜経』からは、三蔵に般若蔵、陀羅尼蔵を加えた五蔵について説く第一巻を引用され、五蔵を乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五種の味に譬え、陀羅尼門(密教)こそが微妙第一とされる醍醐の味に該当し、諸病を除き人々を心身安楽ならしむものとして経典類の中で最高であるとする。

そして、『分別聖位経』、『瑜祗経(ゆぎきよう)』、『五秘密経』、『大日経』、『大智度論』などを典拠とされ法身説法とは何かを論じていく。その中には様々な示唆に富む文言が綴られ多くの傍線を引くことになった。

それらの引用文中に、不読段が三ヶ所ある。それは中世の事相家によって自己の流派の伝承を尊重し秘伝を重んじる影響と説明されるが、先生は本来日本に初めて請来した密教を朝野に広く認識されるために撰述された本書の中に、読まれては困る箇所がいくつもあるのは矛盾するとされて、すべてを他と同様に解説されている。

筆者には、その不読段部分に、日々の実践において参考になる内容が多く含まれるように思われた。そうした内容を、わかりやすい【現代表現】によって読めるのも誠に得がたいことである。例えば『五秘密儀軌(ごひみつぎき)』に「阿闍梨は普賢の覚りの境地に住して弟子の心中に金剛薩埵を引き入れると、弟子は阿闍梨の不思議な力によって密教の核心を身につけ、弟子の自我に執着する生まれつき持つ種子(しゆじ)を根本的に変えてしまう(要約)」と記されている。灌頂の儀礼にあたってとはあるが、日頃から心掛けていたい内容に思えた。

また、『瑜祗経』の説く法身説法において、その引用文中に「(法身とは)五智の光明は常に過現未の三世に及び、暫くの間も休むことなく衆生教化に努める平等の智身である。・・・智とは心の働きで、身とは心の本体。平等とはそれらが宇宙全体に遍満することである」、また『大智度論』には「仏に二種の身がある。一つは法性の身、二つには現実の父母より生まれた身である。初めの法性、すなわち真理そのものを身とする仏は、常に光明を放ち常に説法されている。衆生の心が清らかな時には仏が見え、心が清らかでない時には仏が見えない(抄録)」という記述がある。お釈迦様は覚りえた真理である縁起の法は自らの出世にかかわらず永遠に存するといわれたが、つまりは三世に及ぶ真理そのものである法身の説法からすべての教えは転じられているということであろうか。そして、今この瞬間にも時空に遍満する法身の、その光と声を感じとるためにも心清らかにありたいものである。

大師の教学が私たちの日常の信仰や教化、また自らの人生に意味あるものとしてどう捉えられているか。寺院を支え、檀信徒を導く上で、それはどういう働きとなっているか。そこに意味を見出せぬなら何の価値もないものとなる。どう大師教学をいかに今の時代に活かせるかが私たちの仕事であろう。

この『二教論』が、現実に私たちの力となるには何をどのように読み取るべきか。急激に変化する時代への対応、社会的問題への取り組み、地方の再生・活性化、災害や環境問題などについて考えるにあたり、どの宗派寺院も宗派色より協調、融和、共同を重視する傾向にあると言えようか。そうした時代だからこそ、密教としての真言宗はその独特なる発想が求められているのではないか。思想の原点にある違いを改めて学び直すことはそういう観点からも意味あることに思われた。

今年九十四歳になられる松長先生が、高野山大学の密教文化研究所において大学の先生方と祖典研究会を開いて、七年間も講読を続けてこられたという。その五冊目の成果が本書である。是非御一読をお勧めしたい。


仏と共に生きる

毎朝、御本尊薬師如来を拝みます。かつて先代もそうされていたと聞いています。行法(ぎようぼう)、供養法とも、修法(しゆほう)とも言い、薬師如来を本尊とする仏様方へ心からの供養をささげる真言密教の一座作法を修しています。

本堂の本尊様を祀る須弥壇(しゆみだん)前に設えた大壇の中心に仏様方をお迎えし供養をささげ、一心に行者と仏様との融合一体なる瞑想に入るものです。そして、国家の安泰平和と過去精霊の菩提、伽藍の安穏と仏法の興隆、災害なく五穀が豊穣で人々が安穏幸福であることを願うのです。

この行法の中に、いくつもの瞑想法が挿入されています。大壇前の礼盤(らいはん)に座る前にすでに、行者は足の下に蓮華を観じ柄香炉(えごうろ)を持ち三礼します。そのあと、礼盤に半跏趺坐(はんかふざ)して身支度を整え、わが身と場を清め、神仏へ挨拶し諸祈願を述べます。そして、菩提心を改めて確認して、四無量心観(よんむりようしんかん)という慈悲喜捨(じひきしや)の瞑想に入り、心を浄めます。これは、すべての生きとし生けるものに、友情の心から慈しみ、よくあって欲しいと願い、悩み苦しみが無きように抜苦(ばつく)を願い、共感の心からよくあることを喜び、分け隔てなく平静なる安らかなる心を養うのです。

それから、「道場観」として、心中に本尊様をはじめとする仏様方の曼荼羅世界を観想します。八葉蓮華座(はちようれんげざ)に座す薬師如来に日光月光菩薩十二神将(じゆうにじんしよう)が前後左右に囲んでいる様子を観想していきます。

そして、外界との交渉を遮断し、心の中に雑念を起こさないようにして、閼伽水(あかすい)、塗香(ずこう)、華鬘(けまん)、焼香、飯食(おんじき)、燈明の六種の供養を捧げてから、この行法の中心をなす三種の瞑想法を行うのです。

はじめに「入我我入観(にゆうががにゆうかん)」。これは仏様が我に入り、我が仏様に入ると観じて、仏様と我との一体合一を観想します。次に「正念誦(しようねんじゆ)」ですが、これは本尊様の真言を百八回唱え、その唱える声、音が虚空に遍満すると観想します。そして、「字輪観(じりんがん)」、これは自身が宇宙そのものと観じ、宇宙全体との融合一体を観想するものです。

この後、本尊様他諸尊の真言を念誦して、それぞれの法悦に入り感謝をささげます。それから、再度六種の供物を供養して、この一座の行法の功徳をすべての仏菩薩をはじめとする諸尊と一切の生きとし生けるものの菩提に廻らします。そして、お迎えした仏様方を本所にお帰りいただき、行法を終えます。

おおよその行程を見てみましたが、もちろんここに書いた通りのことを完璧にできるものではありません。何か思い出して感慨にふけったり、考え事をしたり、集中できないうちに終わってしまったりということもあります。ですが、とにかく毎日続けることに意義があると思っています。五時の鐘を撞いて、本堂の諸尊に仏飯とお茶湯(ちやとう)を給仕して、一座の行法をすることが役割と思い続けています。

昔のことになりますが、高野山の塔頭(たつちゆう)寺院高室院(たかむろいん)に弟子入りし、高野山専修学院入学前に山内(さんない)の生活に慣れるため、三か月ほど滞在していたことがあります。毎朝、勤行に本堂に向かうと、すでに前官(ぜんがん)(高野山で法印職を終えた高僧をいう)さんは寺内に付属する発光院(ほつこういん)で行法を済ませられ、それから本堂にきてお経を上げておられたものでした。

その後専修学院を卒業し、東京西早稲田の放生寺(ほうしようじ)に役僧として勤めていた時には、朝勤行は先代御住職が観音法を修法され、私は読経しておりました。その頃、先々代の老僧さんは車椅子の生活をなされていましたが、時折呼び止められ、よく昔話をしてくださいました。

あるとき、ご自分の書かれたたくさんの行法次第を広げられコピーをとるように言われました。コピーして持っていくと、私にそのすべてを授けて下さったのですが、そこには項目のみの次第がいくつもありました。

それは毎日修するが故に次第内容をすべて暗記され、その項目だけを順に確認するだけで行法をなされていた証(あかし)でした。観音様をご本尊とするお寺ですが、毎朝理趣経法(りしゆきようぼう)をなされていたと伺いました。

そんなことから、毎日行法をするのが老僧の勤めと、その頃から心にとどめており、その時期に差し掛かってきたことを自覚して、還暦前頃から私も続けているというわけなのです。

つい余談が長くなりましたが、ここで少し、「入我我入観」について考えてみたいと思います。仏様が我に入り我が仏様に入ると観想すると述べましたが、次第の解説書などには、仏様を光と観じて、我が心中に仏光が流れ入ると教えています。

ですが実際に、我に入るのは自分の鼻に入る吸気であり、仏様に入るのは我が呼気です。出入りするという光を光り輝く空気として捉えた方が、感覚として手掛かりがつかみやすく、気道から肺に入り、そこから全身にいきわたる感覚として入我を体験し、鼻の先から出ていく呼気がそのまま仏様に至ると観じ、それを我入とするのです。

それを繰り返していると、自分の外側にある空気そのものを仏様と感じられるようになり、そこにすでにおられると間近に観想した仏様そのものの息として外気そのものを仏様ととらえ、仏様が我に入ると感じとります。その場に仏様が満ち満ちておられると観じられ、吸気そのものが仏様であり、我が呼気はそのまま仏様の中に入ると観じられるようになります。

そうして行じておりましたところ、最近になって、この観想は、とても身近な存在として仏様を感得することを教えているのではないかと思えるようになってきました。そして、あるとき、これは自分という存在そのもののあり方として他なるものとの関係性を教えているとも思われたのです。

この我と仏様の関係を、自と他の関係としてとらえ、吸気を他、呼気を自と捉え、瞑想中にある呼吸は、自と他の交感、融合合一であるという感覚がわいてまいります。

そう捉えてみますと、私たちは、他なるものを自己に取り入れることによって生き、自己を外に出すことによって他が存在していると感じられます。生きるとは、他を取り込み、変化することであり、それを外に出す、つまり他に与えることによって、他が変化し存在すると考えられます。

自と他は、そもそも相互に関係し、依存する関係としてあり、生命体が存在するとはそういうことであると言えるのではないかと思えました。意識するしないにかかわらず私たちは他との共生のもとに生きているということになります。

仏教でいう縁起の教えも、無常・苦・無我も、こうした生命の生きる営みを角度を変えて同じことを言っているように思われたのでした。

なんという脱線した考えをしていると思われるかもしれません。が、以前高野山大学名誉教授越智淳仁先生より、研修会で「お釈迦様の生涯四十五年の説法が真理として虚空に遍満している、その真理を法と言い換えると、その虚空に遍満せる法こそが法身(ほつしん)であり、そうして法身大日如来が誕生した」と学びました。

行法中に感じられた他を法身と捉えれば、そのまま自他の交感そのままに入我我入が成立しているということになるのでしょう。

私たちは、自と他の共生のもとに生きています。それは仏様と共に生きているということでもあるのだと思います。


【國分寺通信】 蔓延防止対策等により経済活動を制限されてお困りの皆様に心よりお見舞い申し上げます。

○本年正月八日より十四日まで、真言宗最高厳儀(ごんぎ)である御七日御修法(ごしちにちみしほ)が、大覚寺門跡尾池泰道猊下大阿闍梨のもと京都東寺灌頂院(かんじよういん)にて執り行われました。八日に天皇陛下の御衣(ぎよい)が奉安され、十四日まで二十一座、真言宗各本山主はじめ最高位者が出仕して鎮護国家、玉体安穏、万民豊楽、五穀豊穣が祈念されました。お知らせ申し上げます。

○少し先のことになりますが、令和八年に、大覚寺では、寺号勅許(ちよつきよ)千百五十年記念大法会が予定されています。嵯峨天皇の離宮嵯峨院が淳和太皇太后の御願により恒寂(ごうじやく)入道親王を開山(かいさん)として大覚寺とされたのが、清和天皇の御代貞観十八年(八七六)のことでした。前年にあたる令和七年には東京国立博物館にて大覚寺展(仮称)も予定されています。檀信徒の皆様には大覚寺へ奉納する写経勧進を願いすることになろうかと存じます。是非この勝縁にご家族皆様のお写経をご奉納くださいますようにお願い申し上げます。

○真言宗の高祖弘法大師は宝亀五年(七七四)六月十五日に讃岐の屏風ガ浦(香川県善通寺市)にてご誕生になられ、来年令和五年は、千二百五十年の記念すべき年を迎えます。四国や高野山では様々な記念事業が営まれることとは存じますが、ぜひご参詣くださいますようご案内いたします。特に四国霊場は、昨今のコロナの影響から七割も巡礼者が減少しているそうです。この機会に向けて是非お参りされることをお勧めします。

月例行事 どなたさまもどうぞお気軽にご参加ください。

◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

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備後國分寺だより 第60号(令和4年1月1日発行)

2021年12月28日 08時20分50秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第60号


休み堂の『俳額』について

昨年八月二十日、東広島市からわざわざ國分寺の俳額(はいがく)をご覧に研究者の方々がお越しになりました。

俳額といわれてもピンと来ないかもしれません。休み堂正面上部に、細長い木に何か書いてあり、周りを雲の形に刻んだ枠が取り付けられた額が掲げられています。何か掛けられていることは存じていましたが、それがどんなものかも知らず、伝え聞くこともなかったため、大して気にかけて見たこともなかったのでした。

しかし、お話を聞くと、芸備地区の俳諧の研究に生涯没頭された広島文教大学下垣内和人(しもごうちかずと)先生の本に、備後國分寺のこの額のことが記されており、それも江戸時代中期の宝暦四年(一七五四)に奉納された貴重な文化財であるとのことでした。

ところで、今日俳句は盛んに愛好され嗜む方も多いのですが、この俳句といわれる文芸のもとは俳諧(はいかい)といわれるものだったそうです。その起こりは、とても古く、平安時代の古今和歌集に俳諧歌として収録されているのが原点であるとされ、平安末期の歌人藤原清輔は『奥義抄』に、「俳諧の本質とは、その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあり、正しい系統としての連歌(れんが)に対し、自然や人間の本質に迫る文芸である」と記しています。

俳諧は、そもそも俳諧連歌(はいかいれんが)と呼ばれ、和歌から派生して中世に流行した連歌が内容的には和歌に近く雅な文芸であったのに対し、俳諧連歌は滑稽(こつけい)を主として、五七五と七七を交互に複数の人が連ねていく共同制作の文芸であり、主要な形式は百句を連ねる百韻(ひやくいん)といわれるものでした。その初めの句を発句(ほつく)といい、時処に応じた客人のあいさつに相当し、一句で完結し独立性が強かったために、それ以後の七七の脇句や第三句を予想ぜず単独で作られるようになり、近代になって俳句を生み出すことになるのだそうです。

俳諧は、江戸時代初期に和歌連歌の大家であった松永貞徳(まつながていとく)(一五七一-一六五三)という人が、和歌連歌に入門する準備として、手軽に普段人々が使っている言葉を用いた詩歌である俳諧を勧め、古歌などの古い文を専門的に学んでいない人々でも気楽に参加できる庶民文芸として流行しました。

これを貞門派(ていもんは)の俳諧といいますが、その後俗語のみならず流行語や奇抜な着想を取り入れ放埓な言葉遊びを得意とする談林派(だんりんは)と呼ばれる俳諧も生まれ広まっていきました。

さらに両派に学んだ松尾芭蕉(まつおばしよう)(一六四四-一六九四)が登場し、雅語と俗語の異質な言葉の組み合わせによる、それまでの通念を超えた新感覚の着想を楽しむ俳諧が生まれ、その門流を蕉門派(しようもんぱ)といいました。

備後地方には水野家二代勝俊侯の時代に、貞徳の門人野々口立圃(ののぐちりゆうほ)が慶安四年(一六五一)より勝俊侯に仕え、草戸明王院縁起『草戸記』などを著したのをはじめ、十年余りの間水野家との交渉があったということです。そしてこの間に、福山を中心に備後一帯に貞門派の俳諧が広まりました。明暦から延宝にかけて貞門系の俳書に多くの芸備の俳人、主に備後の人たちの名を見ることができるとのことです。

一方、談林俳諧の創始者である西山(にしやま)宗因(そういん)(一六〇五-一六八二)は慶安元年に広島に来遊したということですが、その後その門人たちによって、談林派の俳諧が広島や備後三原のほか福山鞆に広まりました。

また元禄七年、丁度國分寺本堂が再建された年に芭蕉が没し、その後その門人たちが安芸広島を訪れ、蕉風の俳諧が伝えられました。

蕉門十哲のひとり志田野坡(しだやば)が享保元年(一七一六)に福山にきて、門弟深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂(ふうらどう)を創設。芭蕉を一世とし、野坡は二世と称しました。その後広島の風律ら有力な門人を持ったため蕉門野坡流と呼ばれて、芸備に門人百数十名、近世芸備俳壇の主流となったということです。

享保の末、野坡は福山から広島に移り、医師であった渡部素浅(わたなべそせん)が四十五歳ころから野坡の教えを受け風羅堂三世となります。この素浅の序文を載せた俳書に、『櫻苗(さくらなえ)』(東西軒野橘・時々斎宜応・梅水堂沙鴎編・元文五年(一七四〇)刊)があり、この編者の一人、時々斎宜応(じじさいぎおう)こそ、備後國分寺に残る俳額『奉納俳諧五十唫(ほうのうはいかいごじゆうぎん)』の撰者であります。ただし、この俳額は残念ながらと言うべきか、蕉門野坡流の俳額ではなく、雑俳(ざつぱい)の分類になるのだとは言うのですが。

雑俳とは、江戸時代に行われたより通俗化した俳諧で、長編の本格的俳諧に対し、二句だけのつけあいであり、前句付(まえくづけ)の俳諧などが行われ、さらにそこから派生した一種の懸賞文芸を雑俳というのだそうです。点者(てんじや)が出題して、会所(かいしよ)と呼ばれる仲介者が広く句を募り、各地の取次者に集められた投句から、点者が優秀作を選び、入選句を刷り物にして賞品とともに投句者に配るという興行ものであったということです。万句寄(まんくよせ)、万句合(まんくあわせ)などとも言われ好評を博し、のちに川柳や狂句にいたるものだともいいます。

お越しになられた研究者の方からも、俳額に記された五十句の作品を奉納するためには、一万、一万五千の句から選ばれてここに書かれているのだから、一人十句としても、千人、千五百人の人たちが句を詠んでいるというお話でした。

江戸時代からこのような俳額が神社仏閣に奉納されるようになり、広島県下には昭和まで一二四箇所、江戸時代だけでも九四箇所に奉納された記録があるのだそうです。ここ備後國分寺に奉納された俳額(270×36cm、外枠含め285×50cm)は、その四番目に古いものだということです。

研究者の方に言われてから薄くなった文字を改めて見てみますと、右端には、「奉納俳諧五十唫 撰者福山時々斎」、左端には、「寶暦四年甲戌六月」と読めました。さらに、投句した人の俳号の上には小さく「胡町、長者町、笠岡町、吉津村、深津村・・」などの地名も読み取れます。またよく見ると、中ほどに、もう一人の撰者、「福山四角庵」という名も見えました。下垣内先生の著書には、南淵・梅保・柳枝・松露・雪子・菊水・不智らなどとも記されています。

この休み堂は近く取り壊される予定になっているのですが、研究者の方からその後電話があり、当日撮られた写真では今一つ文字を読み取ることができなかったので、改めて調査解読したいので、取り壊して額を下ろしたらぜひ連絡してほしいとのことでした。

誠に有り難いことです。二六七年の時を超えて、当時の俳人たちの投句が読み解かれる日も近いようです。そこに何が書かれているのか、何を題材にしたのか、楽しみです。遠路はるばるお越しくださり、新たな國分寺の文化財を発掘してくださった研究者のお二人に深く感謝申し上げます。

参考文献 「芸備俳諧史の研究 下垣内和人著」「俳句のユーモア 坪内稔典」
    「小学館 日本大百科全書」


「すみません」を口癖にしない 

『地球の最期のときにIn Deep』という情報分析サイトがあります。二〇一五年頃からサイトを立ち上げられ、科学的な新説を紹介したり、社会の変化についての秀逸な分析記事を投稿されています。一昨年の夏頃から、現在も世界中に展開するコロナ騒動についての深い見解、最新の情報分析と未来予測を常々参考にさせていただいてきました。

とりわけ、二〇二〇年の米国大統領選の少し前に、バチカンの大司教で、ローマ教皇フランシスコと敵対していることで知られるカルロ・マリア・ヴィガーノ神父がトランプ大統領に公開書簡を送ったという情報とその内容は、私にとり特に貴重なものでありました。

ここに紹介するのは、その『In Deep』で二〇一六年九月二六日に投稿され、二〇二〇年八月二〇日に更新された記事《「すみません」という日本語を口から発することをやめることについて》です。実は今日二一日は毎月朝八時から大師堂にて護摩の御祈祷を行っており、一時間ほどの護摩のあと、いつも参拝された皆様に短い法話をしているのですが、今日はこの記事を参考に話をさせていただきました。

この記事では、バランス力学整体院院長の山本浩一郎さんという方の『腰痛は心の叫びである』という本を紹介されて、その中で、慢性的に体の痛みを持っている人は「すみません」という言葉を口癖にしている人が多いというのです。

そして、この「すみません」という日本語には、自己否定の意味合いがあり、こんな自分にこんなにしてもらい申し訳ないという気持ちを表しているのだとか。さらには、自分が存在していること自体に謝罪している印象があるというのです。

私たち日本人は、なにげに、「すみません」と口にすることが多いわけですが、そのことについて、それがどういう影響を自分に与えるかということにもまったく無頓着に使ってしまっているのではないかと思います。「すみません、すみません」と、連呼すればその場が収まるとでもいうように、つい口に出てしまったり、何を頼むにも、「すみません」と言い、食堂で人を呼んだり、注文して料理が運ばれてきた時にも、「すみません」と言ってしまっていたりということがありがちです。

たしかに、人に何かしてもらって感謝の気持ちを表す時にでも、つい「すみません」と言ってしまったりということがありますが、それは相手にお世話を掛けたという気持ちの他に申し訳ないという気持ちも含めて言っていたりいたします。が、そこにはやはり、こんな私にという自らを卑下した気持ちも含まれているとされるように、知らず知らずのうちに私たちは自分を貶めているのかもしれません。

ところで、高野山の元管長で高野山大学学長も歴任された松長有慶先生の著作『訳注 声字実相義(しようじじつそうぎ)』を一昨年読ませていただきましたが、そこでは、私たちの五官にはいってくるものや心の中で思ったり考えたこと、仏教の言葉では、六根(ろつこん)(眼耳鼻舌身意)に入る六境(ろつきよう)(色声香味触法)という世俗的なものが、現実世界に存在するままで、絶対の真実なのだと教わりました。そこには諸仏が充満しているのだということです。

つまりは、すべての声(音)も言葉も法身大日如来の説法なのであるとするのですから、私たちの耳に入る自分の声さえもが、真実のものとして仏の声として、私たちの身にも心にも反応し染み入っていくということでしょう。だとするならば、自己を否定するかの言葉を吐き続け自分の耳にも入れているということは、当然のことながら自己の身体も心も自ら痛めつけていることになるのであろうと思います。

私たちは、言葉を発する時には何事も意識的に、プラスになることを、良いことを、自分自身も周りの人たちにも善くあるように言葉を発する必要があるということです。『In Deep』にも書かれていたのですが、これからは「すみません」ではなく「ありがとう」、人を呼ぶ時には「お願いします」、謝る時には「ごめんなさい」と言うべきなのでしょう。

まだまだ毎日寒い日が続きます。つい口から出る言葉は「寒い寒い」と、さらには不平不満の言葉が口から付いて出がちになるかもしれません。が、冬なのだからあたりまえなのだと諦めて、少し風が吹いたら冷たい風と冬を味わい、日が差したらその温かみを感じ、身体を休めつつ、おかしなコロナ騒ぎにも動ぜず寒い冬を乗り切りたいものだと思います。


煩悩について 仏教懇話会の話題から

煩悩について①

月例行事仏教懇話会では、現在仏教伝道協会発行の『さとりの知恵を読む』を少しずつ読んでいます。

その中の「仏のたとえ話6粗金のたとえ」を読んでいたら、『首楞厳経(しゆりようごんきよう)』の一説に「心の粗金を溶かして煩悩のかすを取り去るとどんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現すことができる」とありました。

そして、その解説には、「迷い悩み苦しむ私たちではありますが、それは煩悩が邪魔をしているからで、その一つ一つの煩悩に気づき、これを取り去っていけば、仏になる性質・仏性を現し、それを発揮させて生きていけるのです」と書いてありました。
すると早速に、「煩悩を取り去るにはどうしたらよいのですか」との質問がありました。

そこで、煩悩について、まず煩悩とはいかなるもので、どのような心かを述べ、それを取り去るにはどのような方法があるのかということを考えてみたいと思います。

煩悩とは何か

貪瞋痴の煩悩と言われたりするわけですが、もちろん貪瞋痴はあくまでたくさんの煩悩を集約するものとしてあります。一口に煩悩といっても様々ですから、そもそも煩悩とはいかなるものかと考えてみたいと思います。

煩悩は、生きとし生けるものの身と心を惑わし、問題を起こし、苦しみをもたらすものと捉えたらよいかと思います。それによって性格を暗くしたり、悪業をつくり、ありのままにものを見られなくすることで、正しい智慧を妨げ、私たちを悟りから遠ざけていくものです。

そうして、生きることに執着させ、何度も輪廻を繰り返していく潜在力ともなります。煩悩は、また表面には現れず、心の奥底によくない性格や性癖として潜在し、外界からの刺激によって表面化するので随眠と言われたり、これに対し表面的な煩悩は纏といったりします。

お釈迦様は、煩悩をどのように考えられていたのでしょうか。般若心経にも、「色受想行識」、「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界」などと登場する根本教説五蘊十八界(ごうんじゆうはつかい)は、私たちが外界から受けとった刺激に反応し執着して、煩悩を生じさせていくものと捉えられていました。

また、「無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽」とある十二因縁(じゆうにいんねん)は煩悩である無明(むみよう)や渇愛(かつあい)、取(しゆ)(執着)は苦を生じさせるものと教えられています。「無苦集滅道」とある四聖諦(ししようたい)は、苦の原因となる煩悩を滅するための実践法をさし示しています。

『一切煩悩経』に学ぶ

次に、お釈迦様の説かれる煩悩の取り去り方について見てまいります。ここでは、パーリ中部経典第二『一切煩悩経』から、あらゆる煩悩を防止する具体的な方法について学んでみましょう。

コーサラ国の首都サーヴァッティ(舎衛城)の祇園精舎(ぎおんしようじや)にてお釈迦様が比丘たちに説いた内容です。邪な思惟をする人々は、煩悩が生じ増大するけれども、正しく思惟する人には煩悩は新たに生じず、生じている煩悩は断たれるとあります。そして煩悩を防止する方法として、見ること、防護、受用、忍耐、回避、除去、修習の七種あるとしています。

①見ることにより断つ

まず、見ることにより煩悩を断つというのですが、これは智慧の眼で見ることですと注釈にあります。煩悩が生じない思惟すべき法を見る、という意味だそうです。

思惟すべきでないことを考え、思惟すべきことを考えないでいると、過去未来現在において、自分の存在や自分が何であるか、どうあるか、どうなるかと疑念を持ち妄想し、そこから永遠不変の自己が存在するとかしないとかと、間違った見解を生じます。

そうなると諸々の苦や憂い悲しみから解放されることがなくなってしまいます。そこで、欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩と三種の煩悩が生じないように、増大させないように思惟すべきであるとあります。

では、欲の煩悩とは何かというと、②に述べる防護にも該当することなのですが、私たちの五官と心、つまり、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)と心である六根に入る刺激に反応して、好ましいものに対して起こす欲や貪りの心のことです。

次に、生存の煩悩とは、ここでは、死後来世の生存では善きところ(善趣、色界・無色界)において快適な環境に生まれ変わりたいという欲を起こす煩悩です。

そして、無明の煩悩とは、全ての煩悩のもとになるものではあり、とくに四顛倒(してんどう)(常・楽・我・浄)という、ものの見方で考えることで生じる煩悩であるとあります。

欲の煩悩については、②に詳しく述べるとして、生存の煩悩については、色界(しきかい)・無色界(むしきかい)に転生(てんしよう)する、よほど修行が進んで、人間界の上にあるとする死後天界に逝くことがわかるほどの瞑想修行に打ち込んだ人の煩悩ですから、私たちには少々縁遠いものです。そこで、ここでは、無明の煩悩についてのみ立ち入ってみてみましょう。

無明の煩悩を起こすもとになる見方とは、四顛倒とありますように、無常の命であるのにそれを常と見たり、苦しみの世の中であるのに楽と見る。無我なるものを我・実体あるものと見て、不浄なる身体を浄と見る。そういう見方考えによって私たちは、自ずから煩悩を掻き立てているのだということなのです。

無常と見る

まず、無常ということを考えるならば、私たちは生れ出てより、一瞬一瞬心がコロコロと移り変わり、そして一刻一刻歳を重ね、老いています。いつの間にか病となり、いずれは誰にでも死がやってくるのは必定のことです。

一瞬たりともその営みはとどまることがないのに、いつまでも私たちは、このままに生き続けられることを前提に生きています。病気にならないようにサプリメントを飲み、早期発見といわれ定期的に健康診断を受けてみたり。健康維持のために、毎朝歩いたりしている人も多いようです。

勿論健康に気づかい生きることは当然のことですが、例えば身近な人が亡くなり泣き叫んだりすることがあるなら、それは自分の命を度外視して、亡くなった人の命はかなきことを嘆き、関係が閉ざされた自分を悲しんでいることになると、あるスリランカの高僧に教えられたことがあります。

一日一日私たちの寿命も過ぎていきつつあることを思えば、亡き人を前に慄然とわが身のはかなきことを思い、何をすべきか、残された時間にどう生きるかと奮い立つ心境にもならねばならないのかもしれません。

みんな移り変わっていくんだと、何かあった時にさっと思えるように、そういう心持で生活するならば、貪りの心も争う気持ちも驕った心も失せてしまうのではないでしょうか。

苦と見る

次に、苦ということを考えるならば、この世は娑婆の世界と言ったりいたしますが、娑婆とはインドの言葉サハーを音写した言葉で、忍耐を強いられるところという意味であることを知らねばなりません。そして、私たち衆生はサッタといい、これは執着せる者という意味です。

もともと生きることそのものが苦であり、思い通りにならない、忍耐を強いられています。そういうものだと思って生きていたら、何があっても、多少大変なことがあっても、そんなものかと思えます。ですが、たった一度の人生だからと夢の実現に向けて努力するのはよいのですが、この世は幸せにならねば意味がないなどと考えると、毎日が地獄になります。

そして、楽を求めるが故に逆にどれだけの忍耐、つまり苦を強いられているかということに思いいたることも必要です。ですが、そのおかげか、たくさんの便利な電気製品や機具が製造改良され快適な生活や作業を享受しているわけですが、そのために高額な代金をあがなうために日夜余計に働かされているのではないでしょうか。

私たちは、楽や簡便を求めて、かえって苦を作り出していることに気づき、多少の不便や苦労にも泰然としていることが必要なのかもしれません。

無我と見る

そして、無我ということを考えるならば、すべてのものが無我であって、変化していく実体無きものなのに、自分や自分のもの、考えや思いに執着して、悩み苦しんでいることを知らねばなりません。

人と比較して、自分をより優れたものと思い驕ってみたり、逆に劣って見えると嫉妬や卑下したり。自分の考えや思ったことが絶対であるかのごとくに思い込んでみたり。

私たちが何かにつけ思い悩むというのは、自分という思い、自我あっての苦しみです。自分という思いがなくなれば、一瞬のうちにそれまでの悩み苦しみは雲散霧消してしまいます。

たとえば自分のことを棚に置き相手のことをあれこれ、うつうつと考えている状態は、まさに自分が正しいと思って、自己中心にものを考えてしまっている状態です。そうした時には、自分という自意識過剰がそうさせてはいないかと立ち止まって考えてみる余裕が必要かもしれません。

不浄と見る

不浄ということを考えるならば、まずは自分をこの身の私と見ていることを修正することが必要でしょう。身体は今生での着物に過ぎないと仏教では考えます。来世に逝くときには着替えなくてはならないものです。
ですから、心の清らかさが問題になるのであって、どうかすると身の清らかさ、というよりも美しさや清潔さばかりを求めがちではないでしょうか。

ですが、私たちの考えるこの身の自分は、汗をかき、臭いがして、鼻や唾など汚物糞尿を垂れ流す五尺のくそ袋に外なりません。それがゆえに毎日体を洗い、着替えが必要になるわけです。わが身は、もともと不浄そのものであると認めることが必要なのかもしれません。

余談になりますが、感染対策により、今ではどこの入り口にも手指の消毒剤が置かれていますが、除菌のためと思って過剰に使用すると薬剤が体内に入り、本来持っていた免疫の役割をしている細菌類をも殺してしまうことで、かえって健康被害が起きてしまうそうです。

そして心も、それこそ「懴悔文」にあるように、様々な貪瞋痴の煩悩にまつわれて身と口と心に、たくさんの罪とがをなしつつある、心の不浄も知らねばなりません。

そうして、「これは苦である、苦の生起である、苦の滅尽である、苦の滅尽に至る道である」と正しく思惟すると、徐々にではありますが、煩悩が断たれると説かれています。… つづく


【六大新報令和三年七月十五日号掲載】
松長有慶先生著『訳注 吽字義釈(うんじぎしやく)』を読んで


松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第五巻『訳注 吽字義釈(以下『吽字義』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

実は昨年からこの時期に本書が発刊されることを承っていたので予習にといくつかの解説書を手にしたのではあったが、どれも難解で理解するに至らなかったのである。しかし本書を拝受し、その概説に続き本論特に【現代表現】を中心に読み進めてみると、私のような初学者にもとても分かりやすく、一日で最後まで読み通すことができた。

表紙の帯には、「文字と真理の密接な関係性を解き明かす、空海思想の代表作!」とある。早速頁をめくると、まず「『吽字義』の全体像」が説かれ、『吽字義』とは何かを簡潔明瞭に知ることが出来る。

『吽字義』は、言うまでもなく『即身成仏義』(以下『即身義(そくしんぎ)』)『声字実相義』(以下『声字義(しようじぎ)』)とともに三部書の一つとされてはいるけれども、大師の多くの著作の中で、題名の最後に「論」ではなく「義」とするのは三部書に限られ、そこには何らかの意図があるはずであるという。

ところが近年の解説書には、『吽字義』に序文がないなどの理由から、『声字義』を補足するものであるとか、また三部書全体を即身成仏の書ととらえ、五大と識大の六大について述べる『即身義』のうちの、五大については『声字義』において、識大については『吽字義』において、それぞれの意義を明らかにしているとする説もあるという。

しかし先生は、三部書はそれぞれが別個の著作目的があるとされ、日常の言葉や文字がそのまま真実なる実在、宇宙の根源的な存在と
直接的に繋がっているとする密教独自の言語観について論じるにあたり、特に「声」の問題について取り上げたのが『声字義』であり、視覚的な特色を持つ「文字」を主題に撰述されたのが『吽字義』なのであると解説される。

その文字とはなにか。そもそも大師は密教経典に綴られた文字や言葉では了解し得ぬものを感じ、唐に渡られ恵果阿闍梨(けいかあじやり)に出遭い灌頂壇に上られて両部曼荼羅を拝した。そして、密藏の要点は曼荼羅の中に象徴的に表現されると考えられた。しかしその後、密教の核心を身体的に会得した結果、文字や言葉の中に込められた真実に気づかれ、文字それも悉曇文字(しつたんもじ)の中に大自然の道理が凝縮されて存在していることに目覚められたのであると推察されている。

では、なぜ多くの悉曇文字の中から吽字(うんじ)が取り上げられたのか。サンスクリット文字は阿字に始まり吽字に終わる、その最後の文字だからではあるが、常用経典である『般若理趣経(はんにやりしゆきよう)』の総主である金剛薩埵(こんごうさつた)の種子(しゆじ)が吽字だからであるとされる。人間の欲望の積極的展開と利他行を主題に金剛薩埵の瑜伽(ゆが)の境地を説く『般若理趣経』の、その利他行と瑜伽を一体化して説く独自の考えを説くものとして、この『吽字義』は大師の著作の中でも特別の意味あるものであるという。

そのことは、本論の最後に、金胎両部(こんたいりようぶ)の大経は三句の法門に集約されるとしてその一体化を説き、大小乗それに顕密の一切の教説も三句を超えることはないと説くことで、それらが最終的に利他行に帰すことを解き明かしていることからも、『吽字義』の実践的主体性を問題とする姿勢を読み取ることができるとするのである。

撰述の年代については、これまで確定的な見解がないとのことではあるが、『吽字義』本文中に十住心に関連する箇所があり、その内容から未だ十住心思想の形成段階にあり、また本文の最終箇所において金胎両部不二の立場を明確にされた記述のあることから、弘仁末頃の撰述と推定されている。

そして本編に入ると、現代語訳にあたる【現代表現】は現代人の私たちが容易に理解できるよう簡潔な解説を補足した文章となっている。所々【読み下し文】や【原漢文】、【用語釈】などを参照しながら読み進めていける。【用語釈】においては参考文献の略記号に該当する頁数が記され、解釈の異なる重要箇所では多いところで十三もの文献を比較検討されているところもある。

『吽字義』は序文がなく、本文が「一つの吽字を相義二つに分かつ。」という一文から始まる。表面的な意味である字相と文字が含み持つ本来の意味である字義に分け、吽(hūṃ)字は賀(訶ha)字、阿(a)字、汙(ū)字、麽(ma)字の四字の意味を含め持っているとして、字相としてこれら四字のそれぞれの表面的な意味を説き、それから『大日経』『大日経疏』等を典拠に、字義として四字の本来の意味が説かれていく。

次に、それら四字一体の字相字義など吽字の総合釈が説かれる。

吽字を四種の仏身(阿字は法身・訶字は報身・汙字は応身・麽字は化身)にあてはめると現実存在のあらゆるものが含まれ、そればかりか吽字を四字に分けると各々の字が、それぞれすべての、真如、教え、行、その成果を包摂しており、吽字には理・教・行・果が悉く含まれると説く。

そして、両部の大経である『大日経』『金剛頂経』の教えは、ともに「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」という三句に集約されると説かれるが、これは金胎両部の一体化を意図するものであるという。さらに諸経論に説かれる真理のすべてもこの三句の法門に収まるとされ、この三句をまとめると吽字一字になり、さらに、その他すべての悉曇文字に含まれた教えも同様であると結論している。最後に吽字解釈の総括として六種の利他行について述べられる。

先に記したように、先生は『吽字義』を利他行と瑜伽を一体化して説くものであるとされるが、私どもにとっての瑜伽とは日々の修法に他ならない。修法において特に該当するのは道場観、字輪観であろうか。 

先生は、ご著書『祈りかたちとこころ』(平成二六年春秋社刊)の「付録・阿字観の基礎知識7文字に含まれるそれぞれの深い意味」の中で、「インド人は仮名や漢字やアルファベットを使う人々とは違って、文字を見ただけで、その文字に含まれている深い意味を直感的に把握することができます。言語に対する感性の違いといっていいでしょう。このような言語に対する特別な感性を持ち合わせない、サンスクリット語圏外の人は、字輪観の中で、一々の文字に言葉による説明を付け加えながら観想する必要が生まれます。」(一六八頁)と記しておられる。

インド人のような文字に対する特別の感性を持ち合わせていない私どもに対し、大師は懇切にその深秘を『吽字義』において教示して下さったということであろう。そして、宇宙の根源的な真理と直接的に繋がるものとして言葉や文字をとらえ、感応道交するために、いかに工夫を凝らし観想していくかということが問われているように思われる。

『吽字義』は、悉曇文字が私たちの想像を遙かに超える奥深い意味あるものであることを教えつつ、それを心中に観ずるとき、そこにはすでに真実実相の世界が開けてあることを直感せよと迫っているようにも思えた。

大師の深淵なる思想を、現代に生きる私たちにもわかるように学ぶ機会を与えて下さいましたことに感謝申し上げます。皆様には御一読下さることをお勧めいたします。


大法輪平成二六年四月号掲載
阿含経典(あごんきようてん)を読む⑥


◎泡沫(ほうまつ)

今回も、阿含経典第二巻・蘊相応(うんそうおう)から、「泡沫」と題する経典を読んでまいります。
 
前回、私たちは生まれたときからの感覚に育てられ、私という意識が生まれ、私の身体、感覚、知識、意志、認識に執着するが故に悩み苦しむのです、と述べました。しかし、お釈迦様は、もともとそれら常ならざるものが、私とか、私のものと言えるものではないと正しい智慧をもって観察すべきである、と教えられていることも述べました。

今回紹介する法話の舞台は、現在のウッタルプラデーシュ州の州都ラクノウから東に一二〇キロほどの、アヨッジャーという、ガンジス河沿いの古い町です。その町の近郊で、ガンジス河を眺めながら、聚沫(しゆうまつ)、水泡などに五取蘊(ごしゆうん)それぞれを喩えながら分かりやすく教えを説く、所謂、譬喩(ひゆ)説法と言われる経典です。

それでは、早速読んでまいります。
「比丘たちよ、たとえば、このガンガーが大きな聚沫を生ずるようなものである。眼ある人々は、それを見、それを観察し、その性質を見抜く。彼は、それを見、それを観察し、その性質を見抜いて、それは、見掛けだけのもので、実体もなく、本質もないことを知るであろう。比丘たちよ、どうして聚沫に本質があろうか。

比丘たちよ、そのように、あらゆる色(しき)(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、比丘は、それを見、それを観察し、その性質を透見する。彼は、それを見、それを観察し、その性質を見透して、それは見掛けだけのものであって、実体はなく、また本質もないことを知るのである。比丘たちよ、どうして色に本質があろうぞ。」

お釈迦様は、このように、なんの前置きもなく、目の前に流れるガンジス河の水が織りなす、現れては消える波のしぶき、水のとばしりを眺めながら、つぶやくように語り始められています。

智慧の眼を持つ人々は、それを眺め、その性質を見抜き、私たちのこの色(しき)(肉体)は、過去、未来、また現在のこの身体も、様々な別を問わず、聚沫を生ずるようなもので本質がないのだと説かれています。

私たちは、どうしてもこの身体が自分であり、自分のもの、実体あるものとの思い込みがあります。ですが、身体内部の細かな現象を捉えてみれば、古来仏教で説く三十二の身体構成要素(三十二身分)にあるように、皮膚、筋肉、骨、内臓ばかりか血液、胃の中の食べ物、汗、脂肪、唾、鼻汁、関節滑液、尿などが流れ、行き来することによって維持機能しています。正に流れるものが行き交う、聚沫の如き存在によって、私たちの身体が支えられていることが分かります。

また、視点を換えて、何万回となく輪廻して来た衆生として、悠久なる生命の営みというスパンでわが身を捉えてみたらいかがでしょうか。八十年余りの生涯も、それはほんの一瞬のことに過ぎず、正に、しぶきの如きいのち、現れては消えゆくこの身と思い至ることもできるでしょう。

次に、受(じゆ)(感覚)については、「たとえば、秋の季節に大いに雨が降り、水の上に泡が立つようなものである。」と喩えられ、色と同様な考察がなされて、実体なきもの、本質なきものと説かれています。

受(感覚)は、前々回学んだ、眼耳鼻舌身意の六根に外部から刺激が入ることによって起こります。それは丁度、雨期に降る大雨で水面全体で水が跳ね、泡が立つさまの如くであると喩えられているのですが、眼に入るもの、耳に聞こえるもの、鼻に感じるものなど、沢山の刺激に次から次にさらされている私たちの感覚とは、そのように沸き立っているということでしょうか。外から飛び込んでくる対象に翻弄されつつ対応する感覚は、正に泡のようなもので、そもそも実体などないと分かります。

次に、想(そう)(表象)については、「夏のおわりの月、真昼の日盛りに陽炎のただようようなものである。」と喩えられ、同様に実体もなく、本質もないことを知らねばならないとあります。

想(表象)は、外から入る刺激、見えるものや音や匂いがどのようなものかと主観によってイメージすることです。それは、水蒸気に包まれて柔らかく霞んで見える月や、強い日差しに地面から炎のように揺らめく陽炎のようなものだと喩えられているのですが、私たちが心に作り出すイメージというのはそもそも曖昧模糊(あいまいもこ)としたものだということでしょう。心の中の映像、印象は、月が風に漂う雲に隠れてみたり、陽炎も日差しが変わればたちまちに断ち消えてしまうようなもの。そこにはもとより実体も本質も見て取ることはできません。

そして、行(ぎよう)(意志)については、「人があって、堅い材木を欲し、それを捜し求めて、利(するど)き斧をもって林に入ったとする。彼は、そこに大きな芭蕉の木が立っているのを見た。・・・樹皮をむいてもむいても、その随をすら見つけることができなかった。ましてや、その樹心においてをやである。」と、樹心のない芭蕉に喩えています。

行(意志)は、例えば人の話を聞いて自分もしたいと思うように、心にとらえたものに反応して何かをしようとする意志のことです。そのように、外からの刺激に反応して欲求する行為は、その場その時の刺激に、次々に重なり合うものに過ぎず、そこに核心となる確固たる意志など見つけることはできません。

最後に、識(しき)(意識)については、「魔術使いか魔術使いの弟子があって、大道の辻において魔術を現ずるようなものである。」とあり、人を幻惑する魔術に喩えられています。

識(意識)は、認識する作用ではあるのですが、六根に入る対象を認識するだけでなく、それを私の感覚として受け入れ、さらに主観でイメージすることで身勝手に、私はこう思うというように、私的認識を作り出します。それが魔術のように自らを幻惑することになるのです。ですが、それはその本人にとっての認識に過ぎず、みんな思いが違うのであり、絶対的なものではありません。幻想することなく、その実体、本質などないのだと智慧の眼で見抜くことを教えられています。

この経典は、私たちに、五取蘊(ごしゆうん)それぞれを、聚沫、水泡、陽炎、芭蕉、魔術のごとしと見抜いて、それらは、私と言えるようなものではないし、私のものと言えるものではない、私があるとも言えないと、なんとか頑張って、そう悟ることを教え諭されているのです。

「(五取蘊を)厭い離れて貪りを離れ、貪りを離れて解脱する。解脱すれば、既に解脱したとの智が生じて、わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄の行は既に成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはやかかる生涯を繰り返すことはないと知るにいたるのである」

お釈迦様は、このように説き終わり、数行の偈文を補足して、この経典は終わっています。

「もしも
 くまなく思索して
 あるがままにぞ
観るならば
 その実もなく質もなく
 この身において
見るごとく
 我もわが所有(もの)も
あらじとか
 大慧(だいえ)の人は説きたもう」


【國分寺通信】 謹賀新年

 朝夕に わがなすわざを思いしれ
やすきをもとの心とはして (慈雲尊者和歌集より)


「善」と題して、とあります。安らかな穏やかな心を本来の心としてみて、朝夕に今の心はいかがであろうかと自問してみることを勧めています。喜ばしい幸せな気持ちであればよいのですが、何か刺々しい心持ちになっていないか、落ち着かない心になってはいないか。もしもそうなら、そうした心になる原因をつくった自分の身と口と心の行いを思い知らねばならないことだよ、と諭してくれています。いつも落ち着いた平穏な心でいられるよう、一日一日努めてまいりたいと思います。

〇昨年十月二十九日と十一月二十二日に、福山市の文化振興課の皆様方が美術工芸品実態調査のためお越しになりました。徳島文理大学教授濱田宣先生ご指導のもと、本堂の本尊様はじめ日光月光菩薩像、十二神将、弘法大師像など全仏像の由緒像様寸法など調書を作成、写真撮影をして現状を記録して下さいました。後世のことも考慮して地域の実態を把握しておきたいとのことでした。写真撮影にあたりましては、職員の方々が丁寧に仏像の埃をふき取ってくださり、仏さま方もお喜びのことと存じます。改めて御礼申し上げます。

月例行事
  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日 午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
どなたさまもお気軽にご参加ください。一月四月の坐禅会は第二土曜日に開催します。


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