住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

慈悲の心と実践

2005年07月30日 20時26分18秒 | 仏教に関する様々なお話
私たちは誰もが幸せでありたいと願う。競争社会にあっては誰よりも早く立派な成績を残して出世し果実にありつきたいと思う。他を押しのけてさえ自分を売り込むことが優先される。その結果常に落ち着かないゆとりのない、心を病んだ状態に多くの人が置かれている。今の私たちの社会そのものである。

たとえ幸せへの鍵だと思った場所に至ってみても、そこで味わう幸せは一瞬のものにすぎず、すぐにより過酷な競争の渦に巻き込まれている自分に出会う。私たちの心の平安は終ぞ訪れないということなのであろうか。

私たちは皆同じものを追いかけねばならないのであろうか。私たちは一人一人みな能力も思いも感受性も異なる。みんな生まれから生きる環境まで同じではない、平等ではないことを知り認めることも必要なことであろう。そうしてこそ一人一人が存在する価値が見いだされるのではないか。私たちそれぞれが生きる尊さがそこにこそ見いだされるのではなかろうか。

しのぎを削るようなギスギスした関係の中に生きるのではなく、私たちは他の存在を認め共に安らぎを感じられる生き方に転換すべきではないか。お釈迦様は他の命に対してどのような心を持つべきかということについて慈悲の心を教えて下さった。慈悲の心は、四無量心、つまり慈・悲・喜・捨という四つの心のもちようとして教えられている。

慈は、他のものたちと敵対するのではなく友情の気持ちをもち、怒りではなく友愛の情を育てることです。自分と他の生命、つまり愛する者も無関係にある者もまた敵対している者も、同じ命であるとのやさしい慈しみの心でそれらの幸せを願い、その心を生きとし生けるものに無限に広げていくことです。

悲は、他者の苦しみに際し傍観したりもの惜しみすることなく、同情し苦しみを除いてあげたいという気持ちを育てることです。すでに友情の気持ちを抱いた他の生命たちの苦しみが無くなりますようにと願い、その心を生きとし生けるものに無限に広げていくことです。

喜は、他者の幸せに嫉妬することなく、共に喜ぶ心を育てることです。友情の気持ちを抱いた他の生命たちの喜びに共感し、その心を生きとし生けるものに無限に広げていくことです。

捨は、他者に対して恨みや愛著の念をいだくことなく平静なる無関心の態度でいる心を育てることです。生きとし生けるものを好き嫌いなく、みな平等であると見て、その心を生きとし生けるものにも無限に広げていくことです。

そして、この四無量心をより具体的に実践する教えとして四摂法があります。四摂法とは、布施・愛語・利行・同事の四つで、布施は、財施、法施、無畏施など施しを行う実践的行為のこと。愛語は、相手のためになる親切な慈愛のこもった言葉をかけること。利行は、相手の立場に立って相手の利益になる行為をなすこと。同事は、自他の区別を立てず一つのものとして捉え、全体の利益のために行うこと。

四無量心と四摂法を日々実践することによって、複雑化した社会に暮らし様々なトラブル、病気の不安、自らの過失などによって引き起こされる悔恨、憂慮、煩悶、自責の念からも解放され、淡々と一日一日を生きることが出来るようになるであろう。
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善と悪

2005年07月28日 17時28分50秒 | 仏教に関する様々なお話
お釈迦様は仏教を説かれた訳ではない。仏教徒に向けて話された訳でもない。ただ、教えを乞う人に必要な教えをお説きになった。一部の人々にだけ有効なものではないし、何かを信じなければダメというものでもない。勿論時代を経ても古くなるものではない。それは謂わば人類普遍の教えと言えるものであり、教えを聞いた誰もが心に平安をもたらすことのできる教えである。

ところで、私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのであろうか。私たちは何のために生きているのであろうか。お釈迦様は何事にも因縁有りと教えられている。私たちの生き死にも原因がある。様々な境遇の中必死に生きる私たちのそれぞれにみんな各々必然性があるということだ。自らの行いが原因となり、その果報として今がある。

すべてが自業自得。何でこんな辛い厳しい時代に生きているのかと思ってみても、みんなそんな時代を生きているのだし、先人だってもっと想像できないほど悲惨な時代を生きてきたはずなのである。

しかしどの時代にあっても楽になりたい安定した生活を送りたいと思うのは誰もが持つ素直な気持ちであろう。少しは安らぎが、安定、快楽が欲しい。癒しを求め、リラクゼーションに大金を費やす時代でもある。より善くありたい。より善く生きたいと思う人も多いことであろう。

法句経という古いお経に、「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ。われ善きことをなせりとて喜び、天界に達してさらに喜ぶ」「悪しきことをなして果報の生ぜざるうちは、愚者は蜜のごとき思いをなせども、悪の果報生ずるときは、苦悩をうく」とある。

なされた行いの結果が喜ばしいものであることが今生でも来世にも及ぶ行為を善きことと仏教では言う。過去の行いが結果して目先の利益、損得に振り回され悪事を行い、当座少しばかりのいい思いをしても、今生で友を失い世間の非難を浴びるような行為はもとより悪行であるとされる。今生に例えいい結果が現れなくても、来世に善い結果が期待されるような功徳ある行為を仏教では善行と言う。

この三世にわたる行いについてお釈迦様が具体的に示された教えが十善業道と十悪業道の教えである。十悪業道とは、身で行う殺生・偸盗・邪淫と、口で行う妄語・綺語・悪口・両舌と、心で行う慳貪・瞋恚・邪見を言う。

殺生とは、生き物を殺すなど残忍で手を血に染め、生き物に対する思いやりがないこと、
偸盗とは、与えられていない物を盗み心をもって取ること、
邪淫とは、他人の妻を娶るなどもろもろの欲に対する邪な行いをすること、

妄語とは、自分のため他人のためにわずかな利益のために故意の偽りを語ること、
綺語とは、相応しくないときに不確かなこと根拠のないこと意味のないことを語ること、
悪口とは、他を苦しめ不機嫌にさせる怒りを伴った粗暴な言葉を語ること、
両舌とは、お互いを離反させる楽しみ喜びのために分裂をもたらす言葉を語ること、

慳貪とは、他人の財産や必需品が自分のものであれ、と貪りの心を持つこと、
瞋恚とは、他の者が害されよ、殺されよ、滅亡せよ、と邪悪な思いを持つこと、
邪見とは、善悪の行為に果報がない、来世はない、両親への孝行には果報がない、一切知者である覚者は存在しない、など誤った見解を持つこと。

そして、このような「悪しきことをなす者は、この世にても憂え、死後にも憂え、何れにても憂う。おのれの行為の汚れたるを見て憂え悩む」ということになる。

この正反対に位置する行いが、十善業道である。身で行う不殺生・不偸盗・不邪淫と、口で行う不妄語・不綺語・不悪口・不両舌と、心で行う不慳貪・不瞋恚・不邪見を言う。

これらは、決して何か悪事をしなければ良いという意味合いのものではない。つまり、悪を止め、善い生き方とはこういう事ですと教え、奨励する教えである。江戸時代の高僧慈雲尊者は、十善は人の人たる道であり、自己本来のあるべきようへの自覚の道であると教えられた。

たとえば不殺生、生き物を殺すべからずということではあるが、これは殺さなければいいということではなくて、殺生の正反対にあたる慈愛の心をもって、生き物を慈しみ育むことを教えるもの。
不偸盗は、盗みをしなければ良いというのではなくて、自分のものを他に分かち与える施すことの喜びを教えている。
不邪淫は、邪なる姦淫をしなければ良いというのではなくて、貞潔な身の清らかな生活による静謐な幸せを教える。

不妄語は嘘を言わなければいいということではなしに、正直な心を養い真実を語るべきことを教える。
不綺語以下も同様に、相手の気持ちを尊重し相応しいときに必要なこと確かなこと誤りのないことを語ること。
不悪口とは、愛情に満ちて多くの人に愛され喜ばれるような言葉を語ること。
不両舌とは、和合友好を楽しみ喜び、離反している者たちを調停し融和している者たちを助長すること。

不慳貪は、他人の繁栄を喜び、今あるものを大切に、足ることを知り、簡便な生活による安らぎを知る。
不瞋恚は、おのれに害を与える者に対しても憎しみを抱かず、誰に対しても慈しみの心を持って接し、冷静であること。
不邪見は、因果道理をわきまえ、ものごとをありのままに見ること。

これら十善業道を修めることによって、私たちは何も憂いることのない平安、来世にまで及ぶ安楽を手にすることが出来る。いわば、十善業道は、お釈迦様が私たち人類に与えてくれた幸せの御守りとも言うことができるのであろう。
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四国遍路行記7

2005年07月25日 13時59分02秒 | 四国歩き遍路行記
焼山寺からの山道を降りきると、国道を東に向かう。途中工事現場の横を何度か通る。近年大型バスで四国を廻る人たちが増え、札所へ向かう道はどこも拡幅工事が急ピッチで行われている。昔は土の踏みならした道だったろうにと思いながらも、焼山寺の帰りなのでアスファルトの道も苦にならず歩く。

大日寺へあと15キロばかりという辺りで暗くなる。この日はまだ3日目というのに初めての遍路のせいか少し疲れを感じ、宿へ入ることにした。遍路道沿いの小さな宿。3日ぶりに風呂に入りさっぱりする。

大日寺までの道は途中山に入ると番外の札所や奥の院があったりするようだった。余裕があれば覗いてみたいと思いながら、先の長い道のりを思い躊躇した。国道は大型トラックが頻繁に往来する。網代傘が吹き飛ばされそうになりながら歩く。

13番大日寺は、国道向かいにある一の宮の神宮寺である。明治まで寺と神社一体で経営されてきたのであろう。おそらく今お寺のあるところが僧坊で、社殿に出向き読経によるお勤めが長く行われてきたのである。地域のお祭りといえば、住職が社殿に入り仏式の作法によって神様に御輿にお移りいただいたはずである。

明治初年の神仏分離令によって社殿から仏像のようなご神体を廃し、土地の境界を定めた。その境界がここでは国道によって明確に分離された。痛々しいばかりである。国道から境内に上がると、合掌した掌の中に仏様がおられた。新たな試みの中に辛い歴史を背負っているが故の優しさが垣間見れるようであった。

14番常楽寺へは、国道を少し住宅街に入り、大きな池の先にあった。境内が流水岩と言われる水が流れた後のようなゴツゴツした岩盤で覆われた珍しいお寺だ。本尊は弥勒菩薩。釈迦滅後56億7千万年後に現れるとされる弥勒仏が仏に成らんが為に修行されているお姿を弥勒菩薩という。四国の八十八カ所の中では唯一の弥勒さん。

15番國分寺へは、住宅街を抜けて歩く。本堂の重層屋根の背の高さが目を引く。入ると下は土間であった。本堂右手に諸尊を配した小さなお堂が続いている。大師堂前の光明真言一切三宝供養の為の大きな石塔婆が立派であった。珍しく曹洞宗のお寺。

16番観音寺は住宅街から商店街へ抜けたところに位置していた。お堂の偉容に比べ境内が極端に小さい。17番井戸寺へは商店街をひたすら歩く。本堂は鉄筋コンクリート造り。本尊は七仏薬師。東方浄瑠璃世界の教主である七仏のことで、薬師瑠璃光如来を主体とする吉祥王如来、宝月智厳光音自在如来などの七仏を言う。息災と安産を特に祈る仏たちのようだ。ここには霊水の井戸があり、持ち帰れるようになっている。

ここから先は徳島の市街に入る。国道に出て徳島駅の前を通る道に差し掛かった頃暗くなってしまった。住宅街の大きな一軒に声を掛けて軒先に寝かしてもらおうと思ったが、断られてしまった。そこで、近くのスーパーで海苔巻きとお茶を買い込み、この日は学校の駐輪場でひっそりと一夜を明かした。
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例によって霊の話

2005年07月22日 19時40分13秒 | 仏教に関する様々なお話
最近はどうか知らないが、私たちの子供の頃は夏になると決まって恐怖映画が放映された。フランケンシュタインやドラキュラ、狼男。和物でも四谷怪談など。今思い出しても昔は随分とこの分野に力が入っていたものだと思う。「エクソシスト」あたりからどうもこの分野の趣向が変わってきてしまったようにも感じる。それはともかく、この頃はそのかわりに陰陽師の影響からか除霊をテーマにしたテレビ番組がまことしやかに放映されている。

そんなこともあってか、最近お祖父さんを亡くした家で、家の二階に何か感じる。何かおかしい、猫も二階に上がろうとしないという話を相談に来られた方がある。身体の寿命を終えても49日の間私たちと同じこの3次元の空間にまだ心はおられるのですから、怖がることはない。多分お祖父さんがまだ見守っているのでしょう。そう言うと安心してお帰りになった。

霊の話イコール怖い話ということになって、昔こんな事があった、と背筋の凍るようなと表現される話は霊が取り憑いたりする話と相場が決まっている。しかし悪さをする、人にたたる霊というのはどうも私たちの恐怖心が作り上げた妄想に過ぎないのではないかと私は思っている。

このあたりのことを、つまりこの霊の問題を本来仏教ではどう考えているのだろうか。南方の仏教で良く唱えられるラタナスッタ(宝経)は、お釈迦様が霊たちに説法するお経として有名だ。

このパーリ経典の中ではブータという言葉が使われている。ブータとは生類という意味もあるが、鬼神、鬼類とパーリ語辞書にある。パ英辞書ではghostとある。つまり、幽霊、亡霊、幻影のこと。また、現代ヒンディでブータは、死霊、悪魔、死体という意味で使われる。

以前インドのサールナートにいる頃、晩に子供たちが何か暗闇に白いものが見えたと言って騒いでいたことを思い出す。その時子供たちが使っていたのがこのブータという言葉だった。つまり私たちもよく分からずに実体が分からないままによく口にする霊という言葉と同じように使われるようだ。

そのブータ、霊たちに対してお釈迦様があなたたちは幸せであれ、あなたたちは人間を護り給えと教え諭す。なぜなら人々こそあなたたちに供物を捧げているではないかと。そして慈しみを人々にたれよ、とこのお経は説いている。

そして人間界天上界におけるどんな宝よりもすぐれたものは如来に他ならない。その如来が得た煩悩の滅尽、離貪、不死の法に等しいものはない。善人によって称讃される聖者たち、弟子たちは供養を受けるに値し、彼らに施したものは大きな果報をもたらす。僧におけるこの宝こそ勝れた宝であるとあり、悟りの階梯に従ってそれがいかなるものかを示し、なにが勝れているのかを説き、あなたたちも努力しなさいと諭している。

最後にここに集まった地上や空中の霊である自分たちは、神々や人間に尊敬され、このように成就した仏、法、僧を礼拝し、幸せであれ、とお経が締めくくられている。霊たちが仏法僧に対して幸せでありますように、と唱える文句で終わっている。

霊とはそうしたものたちであるべきだ、ということでもあろう。仏教という尊い教えを守り、日々心を清めようと努力する者たちには霊たちも幸せであって欲しいと思い、より良くあるべく協力してくださる、ということではないか。

逆に、自分一人だけ良くあればいい、他の人たちがどうあっても知らぬ存ぜぬ、自分の利益、利権だけを主張するようなけちんぼな者たちには霊たちは何をするか分からないということなのかもしれない。

恨み辛み、他の者たちの不幸をものともせず利を貪る、嫉妬の根性で生きている者たちは気をつけよ。そう警告するお経なのかもしれない。霊、霊たちとここまで書いてきた。その霊たちのことを神々と訳す翻訳がある。

それは、この経典の説くこの場合の霊たちとは神なのだということでもある。天界に生まれるような良い生き方をされた人の死後生まれ変わった存在を指しているのであろう。そうした良い霊たち、尊敬に値する霊たちに私たちは周りにあって欲しいものだと思う。その為には、私たち自身の心がその霊たちの心に叶うものでなければならないのであろう。

良いそうした霊たちにそっぽを向かれるような心ばかりで生きているのであれば、良い霊は離れていってしまう。類は友を呼ぶと言うが、類は霊を呼ぶ。そう言うことなのだと言われる。嫉妬、怨み、貪りの心で生きている人にはそうした心にかなった薄汚い霊が取り憑くのであろう。

私たちを幸せに導き、さらに幸せに向かわせてくれる、そうした霊たちに周りにいて、しっかりお守り下さるようなきれいな心、慈しみの心を常に心がけたいものだと思う。そうすれば暗闇に白いものを目撃しても何も恐れることはない強い心でいられるはずなのだ。そして仏教の教えに生きていたら本当は、霊のことに気遣うこともなく、何も恐れるものはない、霊に頼ることもない、ということになるのだと思う。だから仏教とは本来、そうした霊たちの存在を超越した教えなのだと言うこともできるのであろう。
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牧野財士先生来山

2005年07月16日 19時03分39秒 | 様々な出来事について
昨日インドから牧野財士先生が来訪された。インドからと言うよりも滞在先の東広島からと言った方が正確かもしれない。福山駅にお迎えに上がった。山陽本線の階段から降りてこられるご夫妻のお姿は、とても日本人には見えなかった。インド滞在47年の風格。お召しになっているクルターパジャマ姿も、ガンディーさんを写したセピア色の写真に登場するインド紳士といった風貌だった。

ほぼ10年ぶりにお目にかかることになったが、81才という高齢にもかかわらずしっかりとした足取り。少し痩せられたようではあったがその眼光は鋭く、依然と硬い意思をお持ちになっておられるご様子であった。

牧野先生のことはインド方面に留学したり学問として関心のある人なら知らない人は居ない。日印関係史の生き証人のような方だ。昭和33年、34才の時ガンディーアシュラムの中にあるインド教育連盟の要請で獣医畜産指導のため船でインドに出航され、10年は故国の土をふまじと堅く誓われたという。今ではその10年が47年目を迎えておられる。

インドでガンディー塾はじめ様々なところで学ばれ、獣医としてまた通訳の仕事などもなさり、50歳の時シャンティニケタンのタゴール国際大学日本語教授になられ15年間もの間インド人学生に日本語を指導なされた。この間禅の世界的啓蒙者鈴木大拙師や自然農法の福岡正信氏を始め日本からインドへ行かれた様々な方の案内をなさっておられる。薬師寺の管長高田好胤師を大戦時の激戦地インパールに案内し慰霊祭にも立ち会われている。

勿論インド国内の著名人との交友も枚挙に遑ない。私が過去に一度だけシャンティニケタンのお宅にお訪ねしたとき、お隣にお住まいになっておられたのが、かつて「ベンガルの虎」と恐れられ英帝国主義に反対し英国政府打倒のために戦い長く獄中生活を経験しその間に共産主義、そして社会主義者となり、最後にガンディー主義への道を辿られたパンナーラール・ダスグプタ氏であった。そのときかなりの高齢であったが、偶々外にお出になったときに私もお会いした。タゴール協会会長としてタゴールの思想からの感化によるものか険しい表情は消え、穏やかな微笑みを湛えられていたのを記憶している。

牧野先生は現在マニプール大学の日本語客員講師、ヴィシュワ・バーラティ(タゴール国際大学)日本学院顧問、農村開発タゴール協会の顧問であらせられる。また10年ほど前に勲4等瑞宝章をいただかれていた。知らなかった。やはり余人の真似の出来ない人生を歩まれてきたことを評価されたのであろう。私などが窺い知ることのでない幅広い日印文化交流活動の証なのであろうと思う。

私が10年ほど前にお伺いしたとき、お宅の離れに一週間ほど宿泊させていただき、これまでの歩みをお話し下さったり、タゴール協会の活動について説明をして下さった。また一日タゴール大学の中を案内して下さり、校舎の間に立つ仏陀像であるとか野外の瞑想ホールや特別にタゴールの住まわれていたスペースにも案内して下された。

当時日本から招かれた大工が作ったという格子戸であるとか、居間には仏陀像があり、その前に置かれたソファに座る人を見下ろすような作りになっていた。偶像を否定され神像を祀らせなかったタゴールではあったが、仏像は特別扱いであったと先生から伺った。またトイレにいたっては、特注の水洗便所を作らせていたりと細かい細工などタゴールの繊細な性格、ライフスタイルの洗練さを感じさせていた。

さらに、大学内の和紙を作る工房であるとか、テラコッタに覆われた小さなお堂のあるところであるとか、開放的な農村の姿などお忙しい暇をぬって私を案内して下さった。本当にそのお心遣いに申し訳ないくらいにありがたく思った。損得を度外視したその先生の溢れるお心遣いが先生と接しられた人みんなの心に記憶されていることであろう。

この度「インド四十年-展望と回顧-」「チットラレッカー-聖と俗の物語-」二冊の本を頂戴した。新潟県東蒲原郡の「よろず医療会ラダック基金」から出版されている本だ。「インド四十年」は、正に牧野先生の人生そのものを回想された貴重な本だ。仏教学者中村元氏が「この回顧録は日印文化交流のあとを示す貴重な宝である」と序言に記されている。
一方の「チットラレッカー」は、バガワティ・チャラン・バルマ氏がヒンディ語で書いた小説を牧野先生が翻訳されたもので、インドの行者と美貌の未亡人が織りなす恋心と痴情の交錯する物語のようだ。

かつて私がインド僧を辞して日本に戻り住まいした深川の小庵から、先生宛にお便りを差し上げたことがあった。「日本に戻り結婚しました」と記したその手紙に対する先生からの返信には、「人間は性虫である、ガンディー翁の自伝にも同じような記述がある、しっかり仏道に精進して下さい」と書かれていたと記憶している。心してチットラレッカーを読みたいと思う。

そして、この8月21日、ここ國分寺で恒例の万灯施餓鬼会が行われる。そのお勤めの前に、先生の娘さん、外川セツ氏が本場のインド古典舞踊マニプリ・ダンスを御奉納下さることになった。午後7時から本堂にて。おそらく日本国内でこの外川セツ氏のダンス以上のインド舞踊はお目にかかれないと私は思っている。是非近隣の方は万障お繰り合わせの上お越し願いたい。(写真は牧野邸を訪問したときの貴重な写真)
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いかにあるべきか

2005年07月13日 19時45分23秒 | 時事問題
国民の関心事、郵政民営化法案が衆議院を通過した。しかし、自民党の議員の51人が党議拘束を違反してまでこの法案に反旗を翻した。立派なことではないかと思う。これまでとは違う雰囲気が政界に醸成されてきたということか。と言うよりもそこまで、政党の存立意義がぐらついているということなのかもしれない。

今の自民党執行部に乗っていて良いのか、反対した方が将来有利に風向きが変わるのではないかと読んだ向きもあるかもしれない。しかしここは、本来あるべき姿に回帰したものと思いたい。本来こうあるべきなのではないか。これまで所謂今批判の的である談合そのままに、国会こそ馴れ合い体質のままやってきたということではないのか。何のための政党助成金か。こんな身勝手な政党を国民の税金で養っているのは日本だけではないのか。

議員とはいかなるものかと考えたとき、すべての法案に対して個々に自主判断して票を入れるべきではないかと思う。だからこそ各地から議員を選挙で選んでいるのではないか。たくさんの税金を使って選び、歳費を払い、優遇された議員年金まで払って議員を養い、議会を開き、法案を審議している。

それなのに個々の議員の意思を尊重することなく日本の国会は党議拘束で縛った上での票決が常識化している。党の言うとおりに票を入れるだけなら、これだけの議員は必要あるまい。ただ政党の支持率だけで法案の可否を決めたらいい。

党の言うままにこれまで言いなりになっていた議員たちは、本来の自分の仕事を放棄していたことにもなる。ただ上の人間の言うままにその通りのことをするだけに存在しているならば、全くその存在意義を疑いたくなる。

しかし問題は彼らだけのことでは済まないのかもしれない。国の行政を担う人々をはじめ、その組織を取り巻くすべてが、そして、そもそも私たちの仕事の多くが、そうしたものなのではないか。それまでの慣習、おおかたの意向、目上の存在を意識して、意に沿うようにやってきただけなのかもしれない。

本当に自分で自力でいかにあるべきかと考え抜き、こうあるべきだと本気で実行しているものなどどれだけあるだろうか。目先の利益に翻弄されることなく、長い目で見たとき、それが本当に自分のためでもあり、周りの人たちのためでもあり、生きとし生けるものたちのためになることをどれだけしているだろうか。

国家を司る立場の人々には、特に、それが本当に国のためになるのか。国民一人一人のためなのか。世界の沢山の人々のためになるものなのかを本気で考え、推進して欲しい。

そして、お寺に暮らす者の一人として、いかにあるべきか。何を語るべきか。それが仏教のためなのか。仏教を今日まで伝えて下さった先師たちに報いるものなのか、が私には問われているのであろう。この度の自民党議員の勇気を称賛したい。
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数珠の話

2005年07月09日 14時36分57秒 | 仏教に関する様々なお話
仏事に数珠は欠かせないものだと思われている。生協の「急なお葬式のためのお参りグッズセット」の中にも入っている。最近では少し大きなホームセンターのようなスーパーでも売られてもいるようだ。

はたしてそれをお買いになる人は数珠とは何だと思っているのかなと、ふと思うことがある。仏事に参加する者としての身だしなみ、携帯すべきもの。祈念するときに擦るもの。何か仏教徒としての標識的な意味あるもの。

まあ、何でも良いが、本来の意味合いというものがまったく抜けきっている今の仏教を象徴するものと言えるものなのかもしれない。はっきり言おう。数珠は本来仏教とは何の関わりもないものだった。だったなどと言うと歯切れが悪いが。だから今でもタイやスリランカなど南方の仏教徒は数珠など使わない。お坊さんたちも勿論持っていない。と言うことは元々仏教に数珠はいらないものだったということなのだ。

だから私も、何年かインドの坊さんとして過ごしていた期間数珠は手にしていなかった。誰かに差し上げたり、預けたりしていた。私が数珠で思い出すのは、インドのリシケシに行ったとき、ガンジス河を前に数珠を手にマントラを唱え修行する行者さんの凛々しい姿である。

白い布をまとい額に灰で模様を描いたサドゥーと言われるヒンドゥー教の行者さんだった。目を閉じて一心に唱えるその姿は正に神々しいものだった。神様の言葉、日本では真言と訳されるマントラを唱え神と一体になった法悦の中、その行者はジャパヨーガと言われるその修行を何時間も続けていた。

インドで数珠のことをマラと言う。粗末な木の実の玉が108つ黄色や赤の糸で繋がれている。日本のもののように半分ずつにした両端に二つも元玉はない。一括りにして元玉は一つだけある。

私はその行者を目撃したときに、「ここは密教のふるさとなのだ」そう思った。日本の高野山で学んだ真言宗の源流にやってきた、そう思った。と言うことは真言宗はヒンドゥー教なのかと早合点してもらっても困る。ヒンドゥー教が密教化する段階で既に仏教の中に密教が生まれていたと考えた方がよい。共にその時代密教化が進んだのだと。

それはさておき、この数珠というのは、その時の行者さんが爪繰っていたように真言を唱えるときに唱えた回数をカウントするものなのであった。真言一回唱えて玉を一つ爪繰り、108つの数珠を一回りして、100回とカウントする。

日本の数珠であれば、その時、端についた小さな玉を一つ上に押し上げる。それを10回繰り返すと、千回になり、その時、反対側の端にある小玉を一つ上に上げておく。それを10回繰り返すと1万回となる勘定になる。つまり真言を1万回数えられるように日本の数珠は作られている。

数珠とは計算機なのであった。何も仏教徒にとっての必需品ということではない。だから数を数える必要のない時代には数珠はなかった。従って未だに南方の上座部仏教徒は数珠を必要としない。大乗仏教になって、真言の数を数える必要が出来て始めて仏教徒は数珠を手にした。釈迦入滅から500年以上も経ってからのことだったろうと思う。その数珠がキリスト教に伝えられてロザリオとなった。

因みに数珠を擦るようになったのは、我が国で随分後になって、お経を唱えるときにお経の終わりや真言の終わりをつげる金がなかったので、真言の終わりを周りに教えるために擦って音を出したのが始まりだと伝えられている。

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お薬師さんの話

2005年07月06日 13時46分37秒 | 仏教に関する様々なお話
いま中国四十九薬師の団体参拝があった。ここ國分寺もその12番札所になっている。平成になって出来た中国地方5県にまたがる薬師如来巡拝の霊場である。少しお話をと言うので、國分寺とお薬師さんの話をした。

國分寺についてはありきたりの國分寺の話に加え、「現在奈良国立博物館に所蔵されている国宝・紫紙金泥・金光明最勝王経十巻は、元々ここ備後國分寺に収められたもので、おそらく中世に神辺であった合戦に巻き込まれた頃沼隈の長者に引き取られ、尾道の西国寺に寄贈された後、奈良国立博物館に収蔵されたのではないかと言われている。現在そのものを奈良国立博物館のホームページから見ることが出来る」などと話した。

また、お薬師さんについては、「本堂の前に医王閣と書かれた扁額があるが、これは、医王如来の大きな建物との意で、医王とは薬師如来のことでもあるが、元々医王というのはお釈迦様のことであった。お釈迦様は当時の医者が病気を診断処方するその方法論で教えを説いていかれた。

そして、実際に心の悩み苦しみを持った人たちをたちどころに直し癒してしまった。そんなところからお釈迦様の別名を医王如来と言った。仏教辞書などで薬師如来を引くと釈迦如来の別名とある。確かにそのお姿も似通っている。と言うよりも薬師如来の左の掌に乗る薬壺を取ってしまったら全く同じである。

右手は開いて前を向けている。施無畏の印と言って、訪れた人誰にたいしてもその人の恐れや不安、誰もが抱え持っている心の影の部分を癒して下さることを意味している。私たちは誰でも言うに言えない悩みを抱えている。みんな満ち足りた顔をしているように見えるが、みんな悩みをそれぞれに抱え持っているものだ。

そうした苦しんでいる心をすーっと吸い取って癒して下さるのがお薬師さんだ。こうしてお参りされたら、みんなそうした重い心をお薬師さんに吸い取ってもらうようにお参りすればいい。それから大切なのは、心晴れやかになったら自分自身もそうしたお薬師さんのような優しい心を持って欲しいということ。誰に対しても優しい心でにこやかに対応してあげること。

微笑みを相手に与えることも慈悲の実践の一つ。何も物やお金をあげたりするばかりが慈悲ではない。今世間は不機嫌な人ばかりではないかと思う。街を歩いて肩がぶつかっても何も言わないような時代になった。「すいません」一つ言う余裕、心のゆとりもないのかと思えてしまう。そんなことにかかずらっていたら儲けが逃げていってしまうとでもいう心の貧困な時代とも言える。

人の揚げ足は取るくせに、人を褒めたり人の成功を讃えることをしない時代ではないか。他の幸せを自分の喜びと感じることも大事な慈悲の心の一つ。どうかこの霊場を参拝されて、誰でもが自分の友と思えるような広い心持ちになっていただいて、お薬師さんのように優しい心で身近な人たちと接するようになれたならば、それが最もありがたく尊い御利益なのではないかと思う」などと20分程度の話をさせてもらった。
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托鉢の思い出

2005年07月02日 17時36分52秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
昔托鉢をしながら生活していた時期がある。高野山から戻りお世話になった東京のお寺の役僧を辞して後、四国を歩いていた時分のことだ。だから、今からかれこれ14、5年も前のことになる。

自分には帰るお寺なんか無かった。だから、役僧を辞めてしまったら、もともと自分名義だった団地の一室に戻るしかなかった。初めにしたことは、掛け軸の阿字を本尊様にしてその周りに持っていた仏様方を配置し、その前に素焼きの器を仏具にした修法用の壇を設けることだった。そこで毎朝お勤めをし、何とか自分が僧侶であることを確認した。

本来お寺で生活するから僧侶なのではない。職に就かないから僧侶だと思っていたから、何の仕事をすることもなく、職探しもしなかった。と言うことは生活が出来ない。それでも、家賃もいるし食費もかかる。そこで、インドで知り合った禅僧信玄師の手ほどきよろしく、また当時親しくして頂いていたK師から聞いていた、巣鴨のとげ抜き地蔵で一つ托鉢をしてみようと思いたった。

K師というのは、真言宗の修行のあと臨済宗の専門道場で修行されているときに、たまたま私がその道場に坐禅に行き知り合った真面目な修行僧だった。私より少しだけ年長なだけなのに世間を渡り歩いて苦労をされたのだろう、私には随分親身に世話を焼いてくださった。その後さらに天台宗で修行されて、今天台宗のお寺の住職になられた。

話を戻すと、その翌年には四国を遍路する予定で網代傘や脚絆を手に入れていたし、信玄師から教えられたビニール紐で編んだ草鞋もある。それに雲水衣を羽織って頭陀袋を前に掛け電車に乗った。JRの巣鴨駅でおり、とげ抜き地蔵まで歩く。4のつく日が縁日と聞いていたので、縁日に行ったからだろうか、まだ9時過ぎだというのに大変な人だ。

山門には既に4人の坊さんが立っていた。私が門を入ると、じろりと皆視線を投げてきた。新参者の登場だという感じ。頭陀袋から、サラダ皿として売られていたタイ製の木の器を両手で胸の前にもって立つ。初めての托鉢でどうして良いのか分からない。その少し前に信玄師の地元で托鉢したときはそれぞれの家の前で延命十句観音経を唱えながら回ったのだが、こうした立ちんぼの托鉢は初めてだった。

他の人を見ると口の中でぶつぶつやっている人もある。そこで私も理趣経を唱え始めるが、途中でお金を入れて下さる方があったりすると途絶えてしまう。なかなか思うようにお唱えが出来ない。般若心経にしたり十句観音経にしたり。

時間が経つにつれて参詣者が増えて境内の洗い観音には長蛇の列ができていた。山門手前で線香を買うとその列に並ぶ。その際に財布から小銭を取り出し、山門の両側に並ぶ托鉢僧の鉢に入れてくださる方もある。線香を渡すときに擦る火打ち石の音が耳に心地よい。線香の煙が辺り一帯に漂う。

鉢から開けた頭陀袋の中の小銭が重くなり首から下ろして下に置いた。午後になり参詣者が減りだして一人二人と托鉢僧も帰って行った。その中の誰かと話をしたかったが結局誰とも話さずじまいでその場を後にした。その日なぜかそのまま帰ることが出来ず、都電に乗り早稲田に向かった。早稲田の知り合いのN氏に「托鉢してきたんですよ」と告げていた。

それから週に何度か、こうして托鉢に出る生活が始まった。寅さんで有名な葛飾柴又の帝釈天にも行った。私のお寺の原点とも言える浅草寺にも行った。銀座まで地下鉄を利用して数寄屋橋でも托鉢した。

浅草寺は何度か行くと雷門で托鉢していると警備員から追い払われた。そこで駅からの道と仲店が交わる手前当たりで托鉢するようにした。場外馬券場があることもあって、土日には随分と気前のいい男の人たちから沢山の施しをいただいた。

銀座では、銀座の地下街に暮らすホームレスの男性からお金をいただいたり、ある時には料理屋からもらったばかりという感じのまだ冷たい脂ののった鯖の切り身をいただいたりした。その頃小さな紙に少し自分の思いを書いたものを差し上げていたのだが、そのホームレスさんはその書き物をベンチにゴロリと寝転がって読んで下さっていた。その姿を今も忘れずに憶えている。

数寄屋橋には宝くじの売り場が近くにあって、夏や年末の時期には沢山の人が並んでいたが、宝くじを買う前に私の鉢の中に小さく畳んだお札を投げ入れていく人も結構いた。その頃はただひたすら心を無にして立ち禅だと思って立っていた。人の姿を見ると入れて欲しいという思いがどうしても出てくる。さもしい思いが己とあきらめ、ただ何も思わず過ぎゆく人の姿を見れるようになると自然に人が目の前に来て下さっている。そんな思いで立つことに専念した。

ある時、銀座の街を歩いている姿を親戚に目撃され母親に連絡されるということがあった。不憫に思った親戚はそうまでして坊さんで居る必要は無かろうに、ということを言ったのであろう。その様な趣旨のことを母親からも言われた。しかしその頃既に確信的なものを得ていた私は別に気にすることなくそれまでの生活を続けた。

結局数寄屋橋交番近くの地下鉄の出口横と浅草寺の仲店脇での二カ所を自分の托鉢場と決めて、週に二度ほどその日の気分でそのどちらかへ向かった。時間は10時頃から2時間程度だけ。その他の日は図書館に通ったり書き物を用意したりして過ごしたように記憶している。

時バブル全盛期であった。おそらくそんな良い時期に托鉢をさせていただけたお蔭で、この2年ほどの期間、私は一年のひと月ほど四国を歩き遍路し、後はお寺の法要の手伝いを年に数度する他は托鉢だけというゆとりある生活を送ることができた。

托鉢をしているところで偶然にも高野山で一度お会いしただけの方と再会し、その後親しくお付き合いをさせていただいている先輩僧もある。施しをいただいて差し上げた書き物を見て連絡して下さり、それ以来連絡を取り合っている方も何人かある。私にとって懐かしくもあり、またとてもとうとい一時期の経験であった。
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