住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

(改訂増補) 神仏習合のこと2

2007年04月30日 19時54分08秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
このケースと同様な例として、10年ほど前まで私が暮らしていた東京都江東区深川に富岡八幡宮がある。この神社は、江戸三大祭りの一つ、裸祭りで有名な神社である。ここも実は、江戸寛永年間に永代島を開拓した真言宗の僧が八幡神を勧請して神社を造営し、後に寺格を調え、珍しく聖天を本尊とする永代寺を富岡八幡別当寺として建立した。

そして永代寺の広大な境内で江戸時代には成田不動尊の出開帳が行われた。それが江戸庶民の大変な人気を博し、明治になって永代寺が残念ながら廃寺となった際にその境内地を深川不動として譲り受けた経緯がある。その後深川不動参道途中に永代寺の寺名を継承する寺院が建てられた。門前仲町という町名駅名を残す土地ではあるが、その門前のことをもとは永代寺門前町と言った歴史は実は意外と知られていないのである。

それではここで特に何度も登場する八幡神について述べてみよう。現在、八幡神社は全国に4万社あるという。全国の神社総数12万社の実に3分の一が八幡社ということになる。八幡宮の祭神は応神天皇のご神霊であり、応神天皇の神霊は仏教伝来時の欽明天皇の御代に大分県宇佐の地に顕れたと言われている。

そしてその時には既に、八幡神は、仏教ないし道教と融合して、仏教の八正道の教えが垂迹して八幡になったのであり、八正道の標幟であるとの説もあるほどで、仏法守護の神として仏教と一体となり古来信仰されてきたのであった。

天平勝宝元年(749)に奈良の都に大仏が出来ると孝謙天皇は宇佐八幡別当弥勒寺に綿6万トン稲6万束を寄進して、奈良の都に八幡神を迎え、東大寺鎮守として手向山八幡宮を造営。総国分寺である東大寺を通じて八幡神は全国の国分寺を常住守護する神と位置づけられて、国分寺が創立されると自ずからその近くに八幡社が勧請されるようになる。

確かに、現在ある殆どの国分寺の近くに八幡社が鎮座している。国分寺と八幡社の所在地は、ここ備後国分寺のように隣接している場合ばかりでなく、三四町離れている場合もある。しかし、地域の守護神としての神祇がこうして地域性を越えて鎮護国家、庶民救済、仏法守護の神として祀られることで、八幡神は仏教を通じて国家の守護神としての地位が確立したのであった。

そして、平安時代になると八幡神は「八幡大菩薩」と呼称され、地蔵菩薩形の八幡大菩薩像が造像され、多くの寺院の守護神として勧請されていくのである。
その後貞観元年(859)に京都石清水に八幡神の分霊が勧請された。宇佐八幡では社殿と神宮寺が別個に存立し、祭祀は斎会と呼ばれ殆ど神仏混淆したものであったが、神職が社僧の上位にあった。

しかし、石清水八幡宮では一山の管理はすべて僧侶が占め、神主は僧侶の末席に位置し、祭祀様式は完全に神仏融合が計られたという。そして本地垂迹説の普及によって、八幡神の本地は当初、釈迦三尊とされ、11世紀には末世の到来と浄土思想の流布に応じて弥陀如来とされていく。

鎌倉時代には源氏の氏神を鎌倉鶴岡八幡宮に祀り、それによって八幡神は武家の守護神、武運の神という性格を併せ持つようになる。鶴岡八幡宮も岩清水と同様に官寺として別当・神官を置いて放生会を正祭とした。

室町時代になっても、足利氏は八幡神を崇敬し、特に義満は石清水八幡を足繁く参詣した。その後石清水八幡別当家では清僧を捨てて妻帯し世襲した。江ノ島弁財天でも、同様に世襲したと言われるから、早くから大きな神社を管理する別当寺家では妻帯し世襲することで法灯を継承していったようだ。

また朝廷や皇室の八幡神に対する崇敬も言うに及ばず、国家の大事には必ず奉幣して崇敬の誠を表し、特に白河天皇は石清水八幡を国家の崇廟として八幡大菩薩を鎮護国家の霊神として年毎に行幸し一切経を供養し大般若経を修したと言われる。

その後江戸時代にはすべての国民が寺院檀徒とされ事実上仏教が国教の地位を与えられていたのであるから、その後も、こうした神仏融和の歴史が長く続いたのである。しかし、明治に年号が改元される年に公布された神仏分離令、それに端を発する廃仏毀釈の嵐によって、寺院と神社のこうした一千年を超える歩みは瞬く間に粉砕され、今日にいたる。

全国各地で寺院が壊され経巻仏像が燃やされて僧侶が還俗させられた。神社にあった鰐口や半鐘、様々な仏具、仏像のような神像、経巻等々は撤去され、境内を分割して、それまで僧坊から神社に出向く社僧が神社を管理運営していたが、新たに神職から宮司が任命されていった。

ここ備後国分寺に隣接する下御領八幡神社も、創立当時国分寺鎮守として祭祀された神社であり、貞享三年(1686)の再建棟札には、「領主水野勝慶の君命により修復。遷宮導師國分寺法印快範之を勤む」と記されているという。

これにより、当時は國分寺住持が鎮守八幡の別当職として、僧侶が神社の祭祀を取り仕切っていたことが分かる。長い一千年にわたる日本の神仏交渉史を証明するものとして、冒頭に述べた國分寺本堂の黒い厨子の中に祀られた本地仏阿弥陀如来像と八幡大菩薩像を今後も大切にお守りしていきたいと思う。

ところで、いま奈良国立博物館では、「神仏習合展」が開かれている。以下のような次第で展示されている。是非拝観していただきたい。

会 期 平成19年4月7日(土)~5月27日(日)
会 場 奈良国立博物館 東・西新館
休館日毎週月曜日
※ただし、4月30日(振替休日)は開館。
※5月1日(火)は振替休日の翌日ですが、開館。

開館時間午前9時30分~午後5時
〔毎週金曜日は午後7時まで〕

(展示趣旨) 日本人は古代より、山や河あるいは雷など、さまざまな自然現象の中に神の存在を見いだしてきました。このような日本人の宗教観念の基層を形づくってきた神々に対する信仰と、外来宗教である仏教が深く融合した信仰のあり方を、今日一般に「神仏習合〔しんぶつしゅうごう〕」と呼んでいます。

大寺の大仏造立に際して八幡神〔はちまんしん〕が助力したことに象徴されるとおり、「神仏習合」は奈良時代の国家仏教形成とともに著しく進展し、この頃から仏像の影響を受けながら、神の姿を造形化した神像も盛んに製作されるようになります。

また中世に入ると、神は仏が人々の前に仮に顕れた姿であるとする本地垂迹〔ほんじずいじゃく〕説の広まりとともに、八幡神は阿弥陀、春日神は釈迦や文殊といった本地仏〔ほんじぶつ〕を具体的に表す絵画などが盛んに作られました。

近年、日本の神に対する関心の高まりとともに、こうした「神仏習合」の姿を具体的に伝える造形遺品や文献史料の紹介が相次いでいます。本展は、これらの成果をふまえつつ、初公開となる神像や、古の社の景観美を伝える宮曼荼羅〔みやまんだら〕、金工技術の粋を誇る鏡像〔きょうぞう〕・懸仏〔かけぼとけ〕などの名品を一堂に会し、〈かみ〉と〈ほとけ〉が紡ぎ出す美の世界を幅広く紹介するものです。 以上


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神仏習合のこと1

2007年04月28日 13時19分08秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
國分寺の本堂には、明治初年まで隣の下御領八幡神社に祀られていたご神体をお預かりしている。黒い厨子に入っているので、普段どなたも余り気に掛けることなく素通りしてしまう。ときおり団体で國分寺に参詣され、少しお話しでもと言われて様々國分寺の歴史などをお話しするときには、時々明治以降の歴史にも触れるため、その厨子についても解説する。

「本堂左隅の黒いお厨子には江戸時代まで八幡神社で祀っていたご神体、真ん中に八幡神のご本地仏・阿弥陀如来と、八幡大菩薩がお座りになっています」と。明治になって神道国教化となり国家神道が民意掌握の手段として制度化するまでは、神仏はともに混淆して祀られ、信者は分け隔てすることなく参詣し信仰してきた。神仏習合とも言われ、現在のようにお寺と神社は明確に分けられてはいなかったのである。

お寺の鎮守として神を祀り社が造られ、神社が出来ることもあれば、神社の管理運営のために別当寺または神宮寺としてお寺が後から出来ることもあった。仏教伝来と共に日本の神の威光を増進するものとして仏教が捉えられ、各地の大社には付属する寺院が建設された。

平安時代になると神前読経が行われて、神に菩薩号が付けられ、平安中期には、日本の神は仏の化現したものとする思想が芽生え、仏を本地として権(かり)に垂迹の身を現したものであるという本地垂迹説が成立していく。そこから神を権現様と言い習わすようになる。

神宮寺住職が別当として神主を兼務し、社僧と言われる僧侶が僧坊から社殿に入り、仏典を読誦して仏式で神を拝んだ。祭礼に際しても、社僧が神殿奥に入り、仏式の作法により神を神輿に遷し、その神輿を担いで氏子は町内を巡った。

宇佐八幡宮、太宰府天満宮、厳島神社、石清水八幡宮、祇園神社、北野天満宮、東照宮、秋葉山、金比羅宮、春日大社等々、あげればきりがないくらいに、これら大社を含め多くの神社は神宮寺を付属し社僧らによって明治初年までは管理運営が図られていたのであった。

江戸時代には、僧侶は幕府の官吏としての特権から、多くの神社を造営し、そこに僧坊を建て、その後寺格を調え、新寺建立を計ることもよく行われたようだ。東京新宿区早稲田の穴八幡神社は今では全国からお札を求める人々が冬至から節分まで殺到する大社である。

しかしここももとは下に位置する放生寺を開創した良昌上人が、寛永年間にこの地に八幡神を祀る神社建立を委嘱されて招かれ造営した神社であった。もとの名を高田八幡宮と言い、僧坊を造るために土地を崩したとき穴が見つかり、そこから阿弥陀仏の金像が出てきたことから、俗に穴八幡と称されるようになる。阿弥陀如来は八幡神の本地仏であったから、特別この地は八幡神に相応しい土地とされて参詣者を集めた。

その後、8月15日を祭日として定め、生類供養のための放生会を大祭として厳修していたところ、良昌上人を鷹狩りの際に訪ねた三代将軍家光公がそのことを聞かれ、高田八幡宮別当寺として寺号に「光松山放生会寺」を、それから、「葵の御紋」を寺紋として使用することを許され、徳川宗家祈願寺とされた。

江戸時代後期に火事で焼けた社殿再建に際して上棟式に祀られた棟札が残っている。そこには、「光松山放生寺八幡宮社殿建立」とあり、建築主には当時の放生寺住職の名が記されている。また、近隣の町名を放生寺門前町と言った。

その後明治になって時代が変わると、当時の住職の弟子が復職して僧侶を捨てて神官となり穴八幡宮の宮司となり、境内を分けて神社の経営に当たった。因みに江戸時代から絶大な信仰を誇る「一陽来福」というお札は御府内三十三カ所の札所本尊観音菩薩の修法を修し頒布されていた。

それで、突然神社だけで経営を任され難儀した宮司が神社でも同様な名でお札を作りたいとの申し出によって、「一陽来復」という名で穴八幡神社のお札が新たに作られたのだが、それが今も神社で授けられているお札なのである。

いまでは、もとから神社のお札と信じて疑わない多くの参詣者で有名となったイチヨウライフクではあるが、その真偽が賑わう参詣者の間で毎年話題にのぼる。しかし、こうして歴史を辿れば何が真実かは自明の理と言えようか。

これらのことは江戸時代の地理書「江戸すずめ」、また「江戸名所図会」に記されている。実は、この放生寺は私が出家する際にお世話になり、また高野山を下りてから役僧を勤めていた頃に、国立国会図書館まで出かけ、様々な当時の資料を調べさせていただいたのであった。

その後もインドと日本を往復していた時期に居候をさせていただいたり、今も毎年法要に出仕させていただいている、聖観世音菩薩を本尊とする高野山真言宗準別格本山である。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりやすい仏教史③ー大乗仏教の成立と発展2

2007年04月19日 10時29分17秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
大乗仏教の特徴

では次に、この大乗の教えについて、それまでの教えとどのような違いがあるのかを見てみようと思います。

Ⅰ、[三帰五戒から信仰の宗教へ]お釈迦様の時代から、仏教信者が大切にすべきものとして〈仏・法・僧の三宝〉があることは以前にも述べました。この場合の〈仏〉とはお釈迦様一人のことを指しています。

そしてこの三宝に帰依し、五つの戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)を守って徳を積み清らかな生活を送ることで、来世には天界にも生まれることが出来ると信じられていました。あくまでも自らの善行功徳によって、その結果を期待するものでありました。

しかし、大乗の教えでは、お釈迦様以外にも様々な仏陀や菩薩を誕生させ、それらに帰依信仰する事によって苦しみが克服され、死後には極楽往生も可能であるとしています。それは、大乗仏教では、すべての存在が「空」であり、迷いの世界もさとりの世界も、

また業報輪廻もそこからの解放も、空の立場から見れば何ら区別されるものではないと考えるからです。そこで、諸仏諸菩薩を信仰し、その善行に随喜して自分のもののように歓喜することにより、仏菩薩のご修行の功徳が巡らされると説かれるのです。

Ⅱ、[分析より直観を]それまでの仏教では、戒律にそった生活をしつつ、八正道に代表される修道徳目に基づいて瞑想することが求められていました。そして、ものや心のありようを観察分析して、この世の無常や無我の現実に気づきつつ、心を清め解脱することを目的としていました。

しかし、大乗仏教においては、智慧の完成の為に六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、これら六種の完成への道)を修めつつ、神秘的直観によってはからいの心をなくし、迷いもそのままさとりに他ならないと自覚することが主張されます。

また、様々な修養の道が示され、経典の受持、読誦書写、経巻供養、他への解説、仏を観念する瞑想、また仏の名号を唱えることなどに功徳があると説きます。今日では、お経をあげる、念仏や真言を唱えるといったことはごく当たり前のことですが、こうした仏教徒の習慣はこのころ培われていくのでした。

Ⅲ、[自分より他を]お釈迦様の時代から慈悲が説かれ、慈しみの心を養う教えがありました。そこではまず、自分自身が恨みなく、怒りなく、悩みなきものであることを願い、次に身近な人々について、そして生きとし生けるものの幸せを願うというものでした。すべての生きとし生けるものたちを我が友として捉え、友情の心で接することが慈しみの教えでした。

しかし、大乗仏教では、大乗の教えを信じる人誰もが将来仏になるために修行をしている菩薩であると考えました。そして、自らも大乗の菩薩として、慈悲の精神から一歩踏みだし、自他を区別することなく、利他もまた自らを利するものとして、すべてのものの利益と幸福のために行動することが強調されました。

大乗仏教思想の発展

先に述べた初期大乗経典が出そろってから登場する南インド出身のナーガールジュナ(龍樹、一五〇ー二五〇年ころ)は、大乗経典の思想を理論的に組織したとされています。彼は「中論」において、お釈迦様が説かれた縁起の法を「空」の立場で解明し、大乗仏教の教理を確立。

また、仏陀の本質を考察して生身の仏陀であるお釈迦様と、阿弥陀仏、毘盧舎那仏など永遠の真理としての仏陀を分けて仏陀観を整理しました。そして、修行に耐えざる者でも阿弥陀仏などの救済に頼れる道を示しました。彼は大乗仏教の中心的な思想を形成し、八宗の祖として大乗仏教各宗派の祖師として崇められることになりました。

また、三世紀の終わりに勢力を失ったクシャーン王朝に代わり、マガタ地方を中心とするグプタ王朝が興ると、バラモン教が国教となり思想哲学が発展しました。そのため、大乗仏教においても四世紀頃から哲学的学問的研究が盛んとなりました。

この頃中期の大乗経典として、「如来蔵経」「涅槃経」が成立、人間の心は煩悩に汚染されていても、その本性は本来清浄であり、如来蔵という、凡夫であっても成仏できる可能性(仏性)を蔵しているとしました。そして、煩悩を断じ仏性を顕すため、戒を守り精進することを重視する一方で、善行を行う能力のない者でも成仏しうると説きました。

また、人間の心の現実の姿に関心が向かい、すべてのものが心によって生じるとする唯識説がまとめられました。唯識説を理論的に説く「解深密経」が成立して、意識下の自己、深層心理が探求され、人間の心の根底には過去の業を蔵し、執着を生じさせる種子として阿頼耶識があり、それによって人は輪廻するとしました。

そして、この阿頼耶識を瞑想行によって浄化することによりさとりが実現すると説きました。唯識説は、アサンガ(無着)の「摂大乗論」により発展され、また「成唯識論」などを著した彼の弟ヴァスバンドゥー(世親、四〇〇ー四八〇年ころ)らによって大成されていきました。

これは、今日言われるところの深層心理に関する最も早い試みとなりました。こうした思想哲学、心理学、また論理学などが、この大乗仏教の枠の中から、この時代二世紀から七世紀にかけて展開されていきました。

インド仏教の主流

こうした新たな大乗仏教の思想発展にも関わらず、少なくともインドでは、それまでの上座部系の部派仏教が各王朝の保護を受け、その後も主流であり続けました。

カニシュカ王は先に述べた説一切有部を保護し、それにより二世紀頃当時の部派仏教に関する百科全書的著作「大毘婆沙論」二百巻が編集されました。また、この論書の綱要書「阿毘達磨倶舎論」など様々な論書が作られていました。

部派仏教は、質量ともに大乗仏教を遙かに上回り、正統的主流であったが為か、再三にわたる大乗仏教徒からの批判に対しても、反論すらなかったと言われています。大乗仏教は五世紀頃までは独立した僧団もなく、その後出家者中心の仏教になってからも独自の生活規定を作らず、部派仏教の律蔵を用いて集団生活をなしていたということです。

七世紀頃中国からシルクロードを旅してインドに留学した玄奘三蔵の旅行記「大唐西域記」によれば、玄奘三蔵がインドや西域の一〇〇の地域の諸寺院を訪ねた結果として、大乗仏教は二五カ所。それに対し上座部など部派仏教が六〇カ所、その他部派大乗兼学が一五カ所であったと報告されています。

こうして、異民族が流入し、様々な王朝が国土を分断する混乱した社会背景の中で、お坊さんの世界を中心に展開されてきた仏教が、信仰するすべてのものとして新たな教えを加え、五世紀頃までインドにおける仏教の全盛期を現出いたしました。

そして、既にそのころ大量の経典がシルクロードを通って中国にもたらされ、我が国に仏教を伝える準備を整えつつあったのでありました。(つづく)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりやすい仏教史③ー大乗仏教の成立と発展1

2007年04月16日 07時56分10秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年九月号掲載)

前回は、仏教教団が二つに分裂した後、アショーカ王によってインド国内はもとより、周辺の諸外国にまで仏教が宣布されたこと。そして、その後仏教教団はたくさんの部派に分かれ、僧院を中心に自らの修道と教義研究に励むお坊さんに対し、在家信者は仏塔を盛んに崇拝していたことを述べました。

今回は、紀元前一世紀頃から起こる大乗仏教運動を中心に述べてみようと思います。

新しい仏教の興起

前回触れたように、マウリヤ王朝衰退後、前二世紀頃から再びインドは分裂状態となり、西方の異民族が相ついで武力侵入を繰り返しておりました。インド社会は混乱の極に達し、多くの民衆は、侵略者に田畑を取られ、家畜を殺され、一家離散の運命に喘いでいました。こうした当時の人々の心の依りどころとして仏塔があり、そこに集まった人々は香や花を供え、歌舞音曲など法楽をささげ供養していました。

そして、仏塔を建立荘厳し、また礼拝供養する功徳に預かることによって、来世ではよりよい世界に生まれたいという自然な感情が芽生えていきました。そうした心の救いを求める在家信者たちの宗教的欲求、つまり信仰による救済を仏教思想として肯定してくれる教えが、正にこの時代待望されていたのです。

また、異民族の流入は社会に混乱をもたらす一方で東西交流を育み、西アジアの宗教・ゾロアスター教がインドにもたらされ、大乗仏教の成立に影響を与えたと考えられています。

大乗仏教の成立

お釈迦様が現れる前にも過去に仏がおられた、また、未来にも仏が現れるであろうという考えが、前二世紀頃には次第に普及していたと言われています。そしてその後、仏塔を管理し信者たちの指導に当たっていた在家の仏教者とこれを好意的に支持していた大衆部系の部派教団によって、現在にも十方に仏たちは生きているはずだという信仰が生まれていきました。

未来の仏としては弥勒如来が、現在の仏としては西方の阿弥陀如来、東方の阿閦如来などがおられるといった信仰が、既に大乗仏教成立前に生じておりました。如来とは真理に到達した人のことであり、仏陀(さとった人)と同意で用いられます。

さらには、ジャータカにおいてお釈迦様の無数の前世における異名であった「菩薩(さとりを求める人)」という言葉を用いて、やがては仏となるであろう菩薩が無数にいるに違いないと考えられるようになりました。観音菩薩や文殊菩薩、地蔵菩薩といった、今も私たちの身近にある菩薩たちが早くもこのころ登場してまいります。

そして、仏塔にあって儀礼や修行に励む在家の仏教者たちによって、現世での救済を約束する現在諸仏への信仰、また菩薩の思想を基礎に据えた新しい仏教の諸教理が研究され、在家者による在家者のための大乗仏教運動が成熟していきました。

そして、おそらく前一世紀頃、様々な地域でそれぞれに新たなグループが形成され、僧院に暮らす部派仏教のお坊さんたちを小乗(小さな乗物)と批難し、自らを大乗(迷いの世界からさとりの世界にいたる大いなる乗物)と名のったのでありました。そうして仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を訴えたのであります。

大乗経典の制作

大乗仏教がそれまでの教えと違って、新しい教えであることを表す象徴的なものが、新たな経典の作成でありました。

当時部派仏教教団の中で、最も強大な勢力を誇っていたのは、説一切有部という上座部系の部派でありました。西北インドを本拠としていた説一切有部は、煩瑣な教理哲学を構築し、その名の示すとおり、一切のもの(自我を除く)は実在すると主張しておりました。お釈迦様が教えられた無常や無我といった、ものを実体として見ないという仏教本来の見方を一見覆しかねないと思える哲学を展開していたのです。

そして、正にこの説一切有部の哲学をことごとく批判し、お釈迦様の精神に帰れというスローガンのもとに、般若経など初期大乗経典は生み出されていくのです。

「般若経」は、大乗という言葉をはじめて用いたお経であり、すべてのものは多くの原因と条件によって存在しており、他と関係なく独自に存在するものではない、そのことを「空」といい、すべてのものは空なのであるから、何ものにも執着しない智慧の完成を求めるべきであると説いています。そして、それを求める者は諸仏諸菩薩に護られ、導かれ、称讃されているとしています。原初的なものは既に紀元前一世紀に成立していたと言われています。

また、妙法を泥中から生じて泥に汚れない蓮華に喩え、仏陀の衆生救済の大慈悲を巧みに示した「法華経」、世界を毘盧舎那仏の現れであるとし、一微塵の中に全世界を映し、一瞬の中に永遠を含む世界観を展開する「華厳経」や、無量の寿命と光明の仏・阿弥陀仏が菩薩のとき衆生救済の為に大願を発し、願が成就して極楽国土を建立して衆生を救済するという「大無量寿経」など。いずれも二~三世紀のかなり早い時期に成立していたとされています。

こうした大乗の諸経典は、当時の仏教説話や仏伝から題材を集め、戯曲的な構成として、その中に大乗仏教の教理を含ませ、当時の民衆のために、知られざる作者によって知られざる場所でつくられたものだと言われています。

仏像の誕生

こうした大乗経典が盛んに生み出されていた一世紀中頃、中央アジアの遊牧民クシャーン族は西北インドのガンダーラに侵入し、瞬く間に中インドまでを制圧していました。そして、この大規模な異民族侵入のさなか、一世紀末葉、仏滅後五〇〇年もの間作られることのなかった仏像が、浮彫の石彫仏伝図として誕生することになりました。

仏像は、ガンダーラとインド中部のマツラーの二カ所で、ほぼ同時期に別々に現れたと言われています。ガンダーラ仏はギリシャの彫刻様式に習熟した外来の工匠の手によるものと見られ、またマツラー仏は丸く鋭い顔付きと均斉のとれた力量感のある力強い体躯の造型を特徴としています。ともに初期には、お釈迦様を中心とした造像であり、大衆部など部派仏教教団へ在家信者らによって奉献されたものと考えられています。

クシャーン王朝は、第三代カニシュカ王(在位一四四ー一七三年)の時最盛期を迎え、北インド全土が支配されることになります。カニシュカ王はその権勢を誇るために自らの姿を刻ませた金貨をつくり、その裏にはさまざまな神々を刻ませました。発見された金貨の中には仏像を刻んだものもあり、ギリシャ語でボッドと記されていました。

また、ローマとの交易で経済的にも栄え、学術文化の交流も盛んとなりました。特に、建築美術面での隆盛を極め、様々な仏菩薩像をはじめ、ヒンドゥー教ジャイナ教などでも盛んに尊像制作が進められていきました。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりやすい仏教史②ー部派仏教の時代2

2007年04月12日 16時30分18秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
教団の枝末分裂

仏滅後一〇〇年余りの頃二つに分裂した仏教教団は、その後もお釈迦様の教えや戒律に対する解釈の違いによって、また有力な指導者が現れて分派したり、さらには地理的な隔たりから分裂を繰り返していきました。

そして、その後二〇〇年ほどの間に、十八ないし二十もの部派が誕生していくことになります。しかしながら、彼らは全く別の経典や戒律を伝持していたわけではなく、分裂以前から口誦伝承してきた経典や戒律に多少の違いは生じたものの、その相違は根本的なものではありませんでした。

また、このころの仏教の中心は、お釈迦様の活動されたガンジス河中流域から、西インドのアヴァンティ、マーラヴァ、マツラー、また、南インドのアンドラ地方に移っていました。

当時の僧院生活

これら多くの部派に分かれたこの時代の仏教では、お坊さんたちの生活スタイルに変化が見られるようになります。それまで樹下を自らの住まいとして旅をしつつ修行していたお坊さんたちも、お釈迦様の時代に比べ住まう精舎も整い、僧院での生活が中心となっていきました。

残念ながら初期の僧院が、はたしてどのような形態であったのかは明らかになっていません。が、その少し後の時代の僧院では、僧房はレンガの壁で仕切られた四畳半程度の小部屋が四方形に並び、廊下によって囲まれた中庭には沐浴と洗濯のための井戸が掘られていました。

一つの僧房の部屋数は様々でしたが、そうした僧房が数カ所造られ一つの僧院を構成していました。そして、一人にひと部屋割り当てられたその中で、お坊さんたちは厳重な戒律に守られ、瞑想と思索に没頭していたものと思われます。

こうしたこの時期の僧院を中心としたお坊さんたちの生活は、彼らを保護する国王や資産家、西域との交易によって莫大な利益を得た商工業者たちによる寄進によって維持されておりました。中には広大な土地を寄付するものもあり、それらの土地では耕作して収穫したものの半分を教団の所有として運営に当てられていたのだということです。

論蔵の成立

後の研究者は、こうした僧院仏教を批判し、当時のお坊さんたちは僧院に閉じこもり、自分たちの修行や思索に耽るだけだったという見方もされています。がしかし、彼らはその定住する場を得て、自らの修道に励むかたわら、お釈迦様の教えを普遍的なものとすべく思索を深めていたものと思われます。お釈迦様の説かれた教法を分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味して注釈を加えたり、自然界や心のありようを観察し、細かく分析、体系化していきました。

こうしてお釈迦様の教えに対する研究は、各部派別に論述書、教義解説書などとしてまとめられていきました。それらを論蔵といい、前回述べた経蔵(お釈迦様の教説の集録)・律蔵(僧団内の生活規定や行事を定めたもの)と併せ三蔵と言っています。これによって今日にいたる仏教文献の三形式が、この紀元前二五〇年頃揃うことになるのです。

因みに、西遊記でもお馴染みの三蔵法師とは、これら三蔵すべてに精通しているお坊さんの尊称のことです。

そして、この間に培われた教義の体系や実践法の集大成は、仏教を後世に残すための大切な作業でもありました。また、この時代の哲学的思索研究のお蔭で、このあと登場する大乗仏教の思想的探求が可能になったとも言われています。

お釈迦様の前世物語の作成

僧院にあって禁欲と節制の生活の中で、学問と瞑想に明け暮れる当時のお坊さんたち。彼らは私たちには想像できないほどお釈迦様を身近に感じつつも、だからこそ一層、師の偉大さを痛感していたに違いありません。

そのためか、このころから、同じ修行者としてあられたお釈迦様を、特別のその前世によってさとりを成し遂げた、超越的存在として捉えていくようになりました。

そして「ジャータカ」という、お釈迦様の約五五〇もの前世物語が作られていきます。これは、業報輪廻の思想を前提として、お釈迦様が遙かな過去にわたる前世で国王、バラモン、商人、動物などとして生まれ、善業功徳を積んできたとする説話の集録であります。

世俗的な説話や物語に興じることを禁じられたお坊さんたちによって、当時の様々な物語の主人公をお釈迦様の前世に帰して説法などに用いられた説話がまとめられていきました。ジャータカは、仏教の伝播に伴って世界各地に伝えられ、世界の説話文学に深い影響を与えたと言われています。イソップ、アラビアンナイト、また日本の今昔物語、宇治拾遺物語などにも同様の説話が散見されるということです。

在家信者による仏塔崇拝

今日では仏教のあるところどこにも仏像があり、その姿を拝し信仰する姿を見ることができます。がこの時代には、まだ仏像は作られておらず、人々はお釈迦様を象徴するものとして盛んに仏塔を崇拝しておりました。アショーカ王が多くの仏塔を建立したこともあり、紀元前二世紀以降、お釈迦様をはじめ仏弟子たちや長老の遺骨や遺品を納めた大小多数の仏塔が造られていきました。

仏塔をインドの言葉で「ストゥーパ」といい、土饅頭型にレンガまたは切石を盛り上げ、上に方形の壇がのり、その上に三重に傘状のものが付けられています。これは今日私たちが法事などの際にお墓の後ろに立てる率都婆(板塔婆)の原型でもあります。

そして、それら仏塔の門や欄楯(玉垣)などには、お釈迦様の生涯や先に述べたジャータカを題材に彫刻が施されていました。しかし、それらの彫刻にはお釈迦様の姿はなく、菩提樹や仏足跡、方形の仏座、法輪、仏塔などを描き、象徴的にお釈迦様の存在を表しておりました。

菩提樹によってお釈迦様の成道を、法輪によって説法、また仏塔によって入滅を表すといったように。これは、当時はまだ、輪廻からの解脱をはたされた偉大なお釈迦様のさとりを、眼に見える人間の形として捉え、表すことが出来なかったからであると言われています。

西域からの異民族の流入

アショーカ王が亡くなると、マウリヤ王朝は急速に衰退し、その後インドは再び分裂状態に戻りました。そして、紀元前二世紀からの数世紀は西北インドなどへ次々とギリシャやペルシャなどから武装した侵略者が現れ、民衆は動乱と苦難の生活を強いられることとなりました。

こうした外来の人々の中には定住しインド化するに従い、生まれや地域の違いを超えて誰をも受け入れる仏教に帰依する者も多くあったと言われています。仏塔など当時の建造物に寄進した人々の中には、ギリシャ、アフガニスタン、パルティアなど外来の人々が少なからず含まれていました。

また、紀元前一六〇年頃にアフガニスタンから中部インドまでを支配したギリシャのメナンドロス王は、仏教に多大の関心を示し、ナーガセーナという上座部系の部派のお坊さんを招いて教えを乞い、その対話が「ミリンダ王問経」として伝えられています。

逆に仏教側でも西アジアの宗教、特にきわめて現実的な教えを説いたゾロアスター教の影響を受けることになりました。こうした西域との交流による影響と民衆にとって受難の時代に対応し、そのころ進歩派の仏教信仰者の中から、仏教をより大衆のものとする仏教変革運動が起こってくるのでありました。(つづく)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お坊さんが困る仏教の話」を読んで 2

2007年04月11日 08時17分07秒 | 仏教書探訪
その話はここまでとして、いくつか村井さんの仏教認識には誤解があるように思うので、ここに記しておこうと思う。まず、私たち日本人が、人が亡くなると成仏したという言い方をしてしまうことについて、その言葉をそのまま受けいれてまにうけ、日本では「人が死ねばホトケですから」という書き方をされている。

このことは単に言葉を飾る日本の文化に根ざした表現であるから、ただお亡くなりになりましたという意味であろう。もちろん、本来誰も死ぬとそのままホトケになるわけがない。

しかし、そのように受け取られるようになってしまっているとしたら、そのことに問題がある。仏教を学んでいない人がこのように朧気ながらも思いこんでしまっている現状が仏教そのものの価値を貶め、ないがしろにすることに繋がっているとも言えよう。

それをまた仏教者である僧侶たちもが、いとも簡単に仏が迎えに来て仏の世界に連れて行ってくれるとか、死んでも葬儀で引導作法によってそのまま成仏すると言う人も出てきてしまうことが問題なのである。

お釈迦様ご自身が「如来は法を説く者なり」と言われているように、教えを説く者としての立場を言明されているのに、悟ってもいない末世の僧侶が人様を悟らせることなど出来るはずもない。

すべての人が仏国土に往生することを願って仏となった阿弥陀さまであったとしても、それは同じはずである。願いなのであって、阿弥陀さまの力で悟らせてあげますということではない。みんなが仏国土に往生できるようにしっかりと生きなさい、間違いのない生き方をするのを願っていますということであろう。

あまりに仏教を簡単に分かりやすく語ることは、仏教の教理を不要なものと思わせることに繋がる。そんなに簡単なものであるなら、お釈迦様にしろ、日本の祖師方にしろ悩み苦しみ、命をかけて法を求め教えを求めて、そんなに過酷な修行をせずとも良かったのではないか。

誰もが大変な苦労の末に何事かを体得し教えをお説きになられているということは、それだけ大変なものなのではないだろうか。悟るということは。簡単に作法をしたり、何遍か念仏を唱えたからといって、死ねばお祖師方のようになれると思うことのおかしさを分からねばならないであろう。

また、何カ所かに、「釈迦仏教には死後はない あの世はない」とも書かれている。お釈迦様や阿羅漢という最高の悟りを得られた方々は死後輪廻しないという意味なのに、釈迦仏教を信奉する者はだれもがお釈迦さまのように死後がない、あの世がないという解釈をされているようだ。信じれば済む問題ではない。全くの見当違いであろう。

そこでまた、「神仏に向き合う姿勢は信じることだ」とも言われる。確かに日本仏教はじめ大乗仏教はそれでも良いのかも知れないが、もちろん信ということが大事でないことはないが、その信がただ信ずれば救われる仏になれるというような解釈をされるのであれば、それはいかがなものか。信の上に実践として戒定慧の三学がなければいけないであろう。

一人一人の業カルマが違うことを考えれば、自ずと誰もがみんな死んで同じ世界に行くと考えることも愚かなことではないか。信ずればみんな同じと考えるわけにはいかない。みんな違いがあるからそれぞれに心も違う、思いが違う。修行も違い、到達点も違う。

その違いを持って来世に行く、そこでまた違う場所で違う環境のもとに心を修行していくのが私たちの歩みなのであると言えよう。みんな誰でも信じさえすれば仏さんの世界に行けますよというのは、みんな受験すれば東大に受かる、みんな努力もせずに億万長者になれるというのと同じことになろう。そんなばかげたことはこの世の中には通じない。もっと現実は厳しいもの。それは一番私たち庶民が知っているはずである。

加えて、いくつも調べ不足ではないかと思う箇所もある。たとえば、お釈迦様がご自身の「遺骨をガンジス河に流せ」と言ったとあるが、塔建立を指示したことが「パーリ大般涅槃経」には記されている。また「六道の天道が仏様と同居の別世界」ともあるが、天界と仏界は厳然と違いがある。天界は神の世界であるから。

「釈迦の滅後弟子が酒も少々やってもよかろうと言って教団が分裂した」などともある。これもこのようなことはなかったはずである。仏教の根本五戒とも書かれているが、これは在家の戒であるから、出家がこの五戒について守れずに教団を分裂させたなどということはない。教団の根本分裂は塩を蓄えて良いか、金銭を受け取って良いかという問題だったはずだから、この部分の記載は全くの誤りであろう。

また「釈迦仏教には他人を救うという働きはありませんでした」とも書いている。お釈迦様がどれだけ多くの人に教えを説き、心に平安をもたらしたかをご存じない。弟子たちにも二人で同じ道を行くことなく一人一人別々の土地に赴き人々に教えを伝え平安をもたらすようにと伝道を促した事実もなぜか隠されているのであろうか。

さらには法句経に「釈迦の弟子には解脱あることなし何をもっての故なれば彼らは常に楽行を楽しみ苦行を畏れるが故なり」とあると書いている。これもこのような内容の偈文はない。読み方が違うのであって、楽を楽しみ苦を厭う者に解脱はないと読むのが正しいであろう。

まだまだ疑問に思う箇所が沢山ある。多くの点で、日本仏教、ないし仏教そのものの教えを故意に誤りを伝え批難しているようにも思える。全くつまらない教えである、仏教など何の価値もないと世間に宣布するものとならないよう願いたい。せっかくの題名が勿体ない。お坊さんを困らせるだけではなく、読んだ人に正しく著者の趣意が伝わって欲しいと思う。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お坊さんが困る仏教の話」を読んで 1

2007年04月10日 13時58分23秒 | 仏教書探訪
村井幸三さんという仏教研究者によって書かれた日本の現代仏教を批判する内容の本である。江戸時代中期に富永仲基という人が出て、「出定後語」という本を書いた。この本は正に当時のお坊さんを困らせた大乗非仏説論に発展する議論を呼んだ。村井さんの本もそうした現在の仏教の根本を揺るがせるような硬派な内容であることを願って購入し、精読したが、残念ながらそこまでの内容ではなかったようだ。

しかし、ところどころ、正しい、いいことを言っている。第五章「葬式仏教に徹すべし」の中で、現在日本仏教は僧侶でも戒律を軽視し守られていない。それなのに、信者が亡くなると戒を授け戒名を付ける。戒そのものが存在しないのに戒名の存在だけを認めているのは滑稽である。その為に沢山のお布施を払うのはおかしいではないかという指摘だ。

正にご指摘の通りだと思う。その上で、村井さんは、戒名そのものを授けずともお葬式が出来るようにしたらよろしいと書かれている。それも正しいご指摘であろう。私自身過去に戒名なしの俗名のままのお葬式を頼まれて導師を勤めてきている。戒名を付けなければお葬式が出来ないということもないはずである。なぜならば、日本以外の国では戒名をことさらに付けずとも仏教徒はお葬式をしているのだから。

ではなぜ日本では戒名を付けなければならないか。村井さんも指摘されているが、長い歴史からの慣習であろう。そもそも皇室方が天皇が出家されて○○院様としてお坊さんになられて長い戒名をもって亡くなられていくことに従った。

それが、江戸時代に全国民皆仏教徒となりお寺の檀徒になることが強制され、亡くなるとキリシタンではないということを檀那寺の住職が確認して戒名を付け引導を渡し葬儀を行った。そしてその戒名が過去帳に記された。

それが戦後になって、英霊に長い戒名を付けることが当局からの指導で徹底された。若く亡くなった息子より短い戒名ではいけないということで、どなたにも長い戒名が付けられるようになった。しかしそれは、戦後農地開放で有無を言わせずに寺社の田地を取り上げられたお寺にとっては致し方ない方策であったとも言えよう。

今日では檀徒であることも戒名を付けて葬式をすることも、法で縛られたものでは勿論ないけれども、長い慣習から続けられ、それによってお寺の維持運営がはかられているのが現状である。

まずは戒ということをどのように日本仏教が捉え、僧侶自らがどう対処すべきか、そして、それを支える檀信徒の戒をどう考えるか、その上で戒名を考えるのが筋であろう。しかし本末転倒で、葬儀にあたってまず戒名ありき、では話にならないのは当然である。

しかし、しかしそれでも、では戒名、戒名料が全く無意味なことかと言えばそうではない。来世に向かって、旅立って行かれる檀信徒に、亡くなってもまだ四十九日までおられる故人の心に向かって戒を授け、名前を改めて、遺族が布施と戒名料を差し出して功徳を積むことは、甚大な善行功徳となりその福徳を来世に持って行っていただくことはとても大切なことであろうと思う。

南方上座部の仏教徒も亡くなって来世に旅立つと言われる日に盛大に5人以上の僧侶を招いて法事をする。その功徳を故人に手向けるために。日本の仏教徒がつける戒名もその功徳のためになされる、名を改めて仏教に入門して来世でもまた仏教にまみえることを願って送り出してあげるものだと考えたらよいのではないかと思う。

そのお金は、お寺の維持発展によって、多くの人々が正しい仏教にまみえ、幸せをもたらすために使われることが大事であることは言うまでもない。だからこそ、お寺に住まう者は、本来なら、お寺に住まわせていただくような立場ではない戒律も学ばす守れもしない者であることを自覚すべきなのである。

せめてもの救いは、教えを学び、少しでも実践しつつ、ご縁のある方に教えを説くことこそが役目と言えよう。その機会が葬儀であり法事あるということになる。だから、葬式法事がお寺の仕事なのではなく、本来の役目を果たす場、機会としてそれらがあると捉えるべきなのであろう。つづく

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりやすい仏教史②ー部派仏教の時代1

2007年04月02日 08時03分47秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年八月号掲載)


前回は、紀元前四八〇年頃お釈迦様が中インド北部のクシナーラーで亡くなられた後、ただちに師の遺された教えをその後の依りどころとして確立すべく、五〇〇人の阿羅漢によって仏典の結集(編集)が行われたところまでを述べました。

お釈迦様の誕生されたルンビニー、さとりを開かれたブッダガヤ、初転法輪の地サールナート、そしてクシナーラーは、その後、四大霊場として仏塔が建てられ、お釈迦様を慕い信仰あるものたちの巡礼の地として栄えたということです。

これら四カ所に見られるように、当時の仏教はガンジス河中流域を中心として中インドに広まったに過ぎなかったのですが、次第に西方のマツラーや南方のウッジェーニーなどに伝道がすすめられていきました。

今回は、仏教教団がたくさんの部派に分かれていく部派仏教の時代について述べてみようと思います。

教団の根本分裂

仏典結集によってまとめられた教法と戒律を、お釈迦様在世当時と変わらず大切に護持していた仏教僧団も、仏滅後一〇〇年余りの頃、戒律に関する解釈に対立が生まれていきました。

いかなる食物も蓄えることを許さなかったのに対して塩は蓄えることを認める、正午までと決められた食事の時間を少しのばす、また、お金を布施として受け取ってもよいなどといった、戒律上の十か条の新しい解釈を求める人たちが現れました。今日ごく一部を除いて、どの国のお坊さんもお金を持ち生活している訳ですが、当時はお金に触れることも禁じられていました。

こうした機運に対し、そのころ西方や南方に伝道していた上座に座る長老たちは、これまで通り厳格に教えを守っていくべきだと考え、七〇〇人の長老がヴェーサーリーに会合いたしました。そして、十事と言われる先の解釈を非法として、再度教法と戒律の合誦(再確認)がなされました。これを第二結集と言っています。

これに誘発され、変革を求める主に中インドのお坊さんたちは、なんと一万人ものお坊さんを集め別の結集を行い、それまでの僧団からの離脱を宣言してしまいました。

こうしてお釈迦様没後一〇〇年にして、教団が二つに分裂することになりました。これを根本分裂といい、上座の長老たちを支持する保守派は上座部、変革派は大衆部を名のることになりました。

アショーカ王の偉業

教団の根本分裂があって五〇年ばかりがたった頃、遠くギリシャから兵を興し、インドの地へ侵攻を企てる一大勢力がありました。ペルシャ全土を併合し、パルティアを征服したアレクサンドロス大王は、紀元前三二六年にインダス河を越え、タキシラという商業とバラモンの学問の場として栄えていた都城に入ったとされています。

しかしながら、その後インドの雨期や象軍との戦いに疲弊し、また既にマケドニアを出て一〇年もの歳月が過ぎていたこともあり、それ以上インド国内に攻め入ることはありませんでした。そして、そのアレクサンドロスの勇姿を目撃したインドの人々の中に、のちに西北インドから兵を挙げマガダ地方に進攻し、インドを統一する若き日のチャンドラグプタの姿がありました。

彼はアレクサンドロスの成功をインドで成し遂げるべく、西北インドに侵入していたギリシャ勢を一掃してマウリヤ王朝(前三一七年~前一八〇年頃)を興し、インド南端部を除く全インド最初の統一王となりました。

チャンドラグプタの孫で第三世アショーカ王(在位前二六八年~二三二年)の時、マウリア王朝は最盛期を迎えることになります。そして、彼こそは転輪聖王(世界を統一する理想の法王)と称えられ、武力による政治を改めて仏教を始め宗教を保護し、仏教の教えに基づいた政治を行ったと言われています。

また、仏教が一つの地方宗教から全インドに、さらには世界へ伝播される礎を築く大恩人となりました。日本でいえば仏教伝来間もなくに現れた聖徳太子のような存在でありました。

アショーカ王は元は性格が凶暴で、王位争奪のために多くの兄弟を殺し、凄惨な戦闘を繰り返したと言われています。が、即位してのち仏教に帰依し、インド全土を手中に収める戦場で数十万にのぼる死傷者を出した闘いを恥じて改心すると、熱烈な仏教信奉者となりました。多くの精舎や仏塔を建立し、仏跡や仏弟子の遺跡を巡拝、大規模な仏僧供養を行ったということです。

こうしてインド各地に仏教を知らしめ、さらにはスリランカなどの近隣諸国や、遠くエジプト、シリア、マケドニアなどにも仏教使節を派遣し、キリストも誕生せざるこの時代に、早くも西方世界に仏教の存在を知らしめたということです。また、国内至る所に人と獣のための療院が設けられ、薬草や果樹を植え、井泉を拓くなど、アショーカ王は幾多の福祉事業にも奉仕したと言われています。

アショーカ王のこれら数々の業績は、王がインド各地の石柱や岩に、その地方の言葉で法勅を刻み民衆に公布したものが、近代になって発掘され明らかになったものです。これを「アショーカの刻文」といい、最も多く発見されている石柱碑文は、高さ一〇~一五mの砂岩を直径五〇~七〇㎝の円柱状に建立し、その頭部には獅子頭が飾られていました。

有名なサールナート出土の獅子頭は四つの法輪の上に四頭の獅子が背中合わせに座った美麗なもので、現在インドの国章ともなっています。それら碑文の内容は、仏法の趣旨を伝えたり、王自身の仏教への信仰を語ったもの、お釈迦様の教えに従って殺生を禁ずるなど善業を勧める旨を記されたものなど。またサールナートにある石柱には、仏教教団の分派行動について戒める法勅が刻まれているということです。

上座仏教の伝播

今日スリランカを始めミャンマー、タイなど南アジア、東南アジアの各国で行われている上座仏教は、このアショーカ王が派遣した仏教使節によって伝えられた仏教が、その起源となっています。アショーカ王の王子マヒンダ長老によって仏舎利とともにスリランカにもたらされたと言われる仏教は、根本分裂の際にお釈迦様の教えを厳格に継承した上座部の教えでありました。

マヒンダ長老は当時のスリランカ国王から尊信と保護を得て、首都であったアヌラーダプラにマハービハーラ(大寺)を建て、スリランカ仏教の基礎を築いたと言われています。またマヒンダ長老の妹サンガミッター尼はブッダガヤの成道の地から菩提樹の枝を携え来島し植樹したと伝えられています。

スリランカの仏教は、その後様々な変遷を経つつも、代々の諸王も仏教を厚く保護し、この時伝来された仏教が連綿と伝えられ今日に至っています。そして、十一世紀にはスリランカからビルマへ、また十三世紀にはタイ、カンボジアなどに上座仏教は広まっていきました。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりやすい仏教史①ーお釈迦様の時代 2

2007年04月01日 16時57分01秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
お坊さんたちの修道生活

その後、お釈迦様はラージャガハ、サーヴァッティ、バーラーナシー、ヴェーサーリーの四都市を主な活動の舞台として、ガンジス河中流域を歩いて旅をしつつ、法をお説きになりました。

決して自ら信者を集め教えを垂れるという姿勢ではなく、集まり来る弟子たちや悩みを抱える人たちの求めに応じ教えを説いていかれました。また、論争を挑んでくる相手に対しても、お釈迦様が相手に問い尋ね正しい道を気づかせるようにお説きになると、逆に帰依礼拝し弟子や信者になってしまうこともしばしばありました。

そうして多くの弟子をもつ立場となってからも、お釈迦様は、他のお坊さんたちと同じように暮らし、特別に着飾ることも権威を表すようなものを手にすることもありませんでした。

そのころのお坊さんたちの持ち物と言えば、拾い集めた布を縫い合わせた三枚の袈裟衣、托鉢用の鉢、剃髪用の剃刀、飲み水のための濾し布、針と糸。この程度のものしか認められていませんでした。

当然ながら収入を得るような職に就くことはなかった訳ですから、着る衣も口にするものも、すべて在俗の信者からの施しによって生活していました。特に、食事は一日一回、正午以降は固形物を口にすることは出来ず、食物を翌日まで取っておくことも調理することも禁止されていました。

お釈迦様の時代には、多くのお坊さんたちは一ヶ所に定住することなく、当時すでにマガダ国ビンビサーラ王による竹林精舎やサーヴァッティの給孤独長者スダッタによる祇園精舎など、国王や裕福な商人の寄進した精舎と呼ばれる宿泊施設もありましたが、普段は数人で旅をしつつ修行に励んでいました。

国王とお釈迦様の関係は、弟子と師の関係であり、王権からは一切の規制を受けることなく、お坊さんたちは自由に諸国を往来することができました。落ちついて修行に打ち込める場所を見つけるとしばらくとどまり、早朝には村へ托鉢に行き、食事の間や長老から教えを受ける他は樹下で坐り瞑想に励み、時折立ち上っては一定の距離の間を静かに歩きながら瞑想する姿がありました。

畜生の雌とも交わるべきでないと言われるほどの禁欲生活を求められ、与えられないものを盗み心から取ること、小虫や蟻さえも含め命あるものを奪うこと、またさとったと間違えられるような嘘を言うことなどが、厳しく戒められていました。

そして、毎月二回、新月と満月の日には周りのお坊さんたち一同で、戒と律を正しく守れているかどうか、布薩という懺悔会を開き、ともに放逸に虚しく日を過ごすことのないように、精進を確認し合っていました。

また、雨安居といって、雨期の三ヶ月ほどの間、這い出す虫たちを殺すことのないように、定住して特定の信者の供養によって生活し、研鑽を積み修道に励むことになっていました。

お釈迦様の弟子たち

お釈迦様に帰依し親しく教えを受けたと言われるコーサラ国パセーナディ王は、「仏教のお坊さんたちは、他教徒の修行者のように世間の欲楽に耽る者もなく、一致和合して互いに尊敬し合い、みな顔色もよく静かに落ち着いて清浄柔和な態度で、お釈迦様が法を説かれるときには、聴衆が千人を超えるような場合であっても、くしゃみや咳一つなく静寂が保たれ、説法に支障が出ることはなかった」と、当時の様子を述べています。

こうしてまだお釈迦様がおられた時代には、この世の一切の苦しみから解放され、心の平安を成し遂げていく、阿羅漢という最高の聖者に、お釈迦様の多くの弟子たちが到達されました。そして、この最高のさとりを得られてからも、各々各地へ今度はその教えを伝導するため、多くの人々の利益と幸福のために旅を続けられたのでした。

これらお坊さんたちの集団の中には様々な人たちがいて、才知優れた良家の子弟ばかりでもなく、尊貴な人もそうでない人もあって、それぞれの人にあった修行が用意されていたのだといいます。また女性の出家僧団も誕生し、お坊さんが増えて、直接お釈迦様に教えを受けられないようになると、教法や瞑想の仕方などそれぞれの専門分野に優れた長老について教わるようになっていきました。

そうした優れた長老の中には、智恵第一といわれ、涌きいずる智慧と弁舌の人サーリプッタ長老や人の運命、心のうごきが手に取るように分かられたという神通第一のモッガラーナ長老などがおられました。また同様にバラモン出身のマハーカッサパ長老は、衣食住における頓着を払いのける修行・頭陀第一と称され、生涯ぼろ布を継ぎ接ぎした糞掃衣を纏い、托鉢乞食して山林広野に住したと言われています。

さらに釈迦族の中からも優秀な弟子が輩出しました。中でもお釈迦様が亡くなられるまで二五年にもわたって侍者を勤めた多聞第一のアーナンダ長老、また持律第一のウパーリ長老など、この二人は後に述べるように今日残る仏典の基礎をなした、世界の仏教徒にとっての恩人となりました。

最後の旅ー入滅

八十の高齢に達していたお釈迦様は最後の旅をラージャガハから始められ、ナーランダー、パータリプッタ、ヴェーサーリーを通って中インド北部のクシナーラーにいたりました。そこで時ならぬ白い花を咲かせた沙羅の樹林の中、頭を北に向け安らかに入滅されました。

そのとき大地は震動し、雷鳴が轟き、アーナンダ長老など弟子たちはお釈迦様の入滅をいたみ詩偈を誦したとされています。そして、お釈迦様の遺体は地元のバラモンの手によって火葬され、八等分されて各地に舎利塔として祀られることになりました。

今日どこの国のお坊さんも儀礼を司っていることを考えると、お釈迦様の遺体をバラモンに委ねたことは、奇異に感じられるかもしれません。が、当時のお坊さんたちはそうした通過儀礼には一切携わることがなかったためで、彼らにとってはお釈迦様が生前に語られた教えこそ、師の遺産であると考えられたのでありました。

仏典結集

そして、今は亡きお釈迦様の教えを正しく継承していくために、第一の長老マハーカッサパは、教えと戒律の集大成をすることにし、その年の雨期の間、五百人の阿羅漢たちにラージャガハの七葉窟に集結するよう呼びかけました。教法については先に述べたアーナンダ長老が、戒律についてはウパーリ長老が代表して唱え、みんなで確認しつつ仏典の編纂作業が続けられました。

そして、このときのご苦労によってまとめられた膨大な量の経蔵律蔵は、部分部分をそれぞれ担当するお坊さんたちが暗唱し口誦伝承されていきました。そうして記憶され伝えられたそれらの仏典が、紀元前一世紀頃スリランカで、シュロの葉に鉄筆で文字を刻し書き記され、広く流布されることになりました。

これによって仏教は、二千五百年も前の教祖の肉声を感じ取ることの出来る、希有な教えとなったのであります。(つづく)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする