住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

つれづれなるままに

2008年04月23日 16時40分58秒 | 様々な出来事について
毎朝、5時に6回鐘を撞いている。5時を知らせる鐘ではあるけれども、最初の一回は捨て鐘で、次から5回で5時ということになる。こちらに来た当初は、同じ時間に13回も鐘を撞いていた。寒い時期にはそれこそ身体が冷え切ってしまったことを思い出すが、当時は鐘を撞きながらいろいろと考えながら鐘を撞いたものだった。

何でこんなに沢山鐘を撞くのだろうか、何で5時なのかとか。そもそも昔のように時計のない時代でもないのに鐘を撞く意味があるのかなどと思いを重ねていたものだった。それが今では何も考えずに鐘の音を聞き数を数え、撞き終わると戻って仏飯と茶湯を本堂に運び、勤行する。

先日『阿弥陀堂だより』という映画を見た。山間の小さな阿弥陀堂をお守りする96歳の老婆が「目の前のことばかりにとらわれてはいけない、周りのことにも配慮しなければと言われるけれども、自分は目の前のことだけに精一杯生きてきて、気がついたら96歳になっていた」と語る。この老婆とは逆に、周りのことばかりにとらわれ、なかなか目の前のことに集中できないのが私たちの常である。

特に今という時代は、目の前のことに集中することはとても難しい。なぜならテレビ新聞雑誌、インターネットに携帯電話。それはそれで便利ではあるけれども、沢山の情報が次から次に押し寄せる環境の中で、その情報に飲み込まれ、その中で感情が沸き立つこともなく、感動することもなく、強い意志を持つこともなく、興味を覚えることもなく、ただ眺めるということに甘んじるように慣らされてしまってはいまいか。

だから、世界中で何があっても、まったくの無関心。何も感じない。勿論今世界の話題の中心にあるチベット問題もその例外ではないだろう。様々な機関や団体が中国政府の自重を呼びかけてはいるが、どこまで彼らの今を感じ取った行動となっているであろうか。何かしなくては済まないから声明を発表するということもあるかもしれない。

この度のチベット問題ばかりが今現在の問題なのではない。もっとその陰で沢山の重大な事態が進行しているということもあろうし、そもそもチベットで衝突を起こす裏には様々な要素が蠢いているであろうとするのが世界の常識ではないか。だからそう簡単に中国政府を非難すればそれで済むということでもないだろう。深く今に至る因縁をおもいはかるばかりである。

それはともかくとして、私たちの日常は、そんな世界の危機と関係なく、だらだらとどうでもよいテレビやパソコンの画面を眺め時間が過ぎていく。またはあれもこれもいろいろなものに関心を払い、それぞれにエネルギーを分散している。そのどれもが中途半端な状態のまま満足なことがなかなか出来ずにただ空しく時が過ぎていく。

これが自分だと思えるもの、これだけすればよいというものを見つけることも難しい。たとえ、これだと思えるものが見つかったとしても、それがすぐに幅広く展開して、結局はその中心を外して、あのこともこのこともと手をのばすことになる。これだけでいいと思って、本当にそのことに時間を費やせる人は恵まれている。

おおかたの人があれもこれもと欲が出たり、家庭の事情、そこには突然に親の介護を引き受けざるを得ない事情を被ることもあるだろうし、また時代の移り変わりで多くの人との繋がりからそのことに集中できない事態に陥いることもあるだろう。

ふと気がつくと、自分は本当は何をすべきだったのかと思い至る人もあるかもしれない。気がつく人はまだいい、何も気づかないままに終焉を迎えるという人がほとんどなのではないか。まさに、自分とは何か、何者なのか、自分は何のために生きているのかが分からなくなりただ漫然と時間をやり過ごしている時代なのだと言えまいか。

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土砂加持法会について

2008年04月05日 19時59分36秒 | 仏教に関する様々なお話
明日は國分寺において土砂加持(どしゃかじ)法要があります。その法会について解説したものを以下に掲載します。

法会の際に、導師を中心に入堂する僧侶衆のことを職衆(しきしゅう)と言い、手前に長老の僧侶が座り、本堂奥に年少の僧侶が着座いたします。

導師は、大壇の前に置かれた礼盤(らいはん)に座り、「光明真言土砂加持秘法」という、正面に掛けられた曼荼羅(まんだら)の主尊である大日如来を大壇にお招きして供養する、一座の修法を行います。

 「土砂加持について」

不空羂索経(ふくうけんじゃくきょう)に、「光明真言を百八遍唱えて土砂を加持し、その土砂を屍骸、墓、塔その他あらゆるものの上に散ずれば、その亡者が地獄・餓鬼・畜生・修羅にあって苦しんでいても、大灌頂(だいかんじょう)光明真言加持土砂の功力によって光明を得て、諸々の罪報を除き、苦身を捨てて西方極楽国土に往き、蓮華の上に化生し、菩提を成ずる」

と説かれていることから、中国では唐朝において既にこの法会が行われ、我が国では、明恵上人高辨(みょうえしょうにんこうべん)や興生菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)上人などが宣揚して鎌倉時代より広まり、今日では近畿四国中国地方一帯で広く行われるようになった大法会であります。

土砂は地を表し、五輪塔の基壇となる地大であり、すなわち阿字・万徳の総体を表しています。その土砂を病障、宿業、罪障を除くとされる光明真言で加持するところにこの法会の深秘があるとされています。

 「修法(しゅほう)について」

導師はまず、自らの身と道場を清め、仏さまにこの度の修法についての意義、並びに心願を申し述べ、続いてこの修法の成就を神々に祈ります。その後、道場を荘厳して大壇に仏様をお招きし、鈴を鳴らして、塗香(づこう)や華蔓(けまん)、焼香や飯食(おんじき)、灯明などを供養します。

そして、導師とお招きした仏さまが一体となる観想をなし、続いて、大壇の多宝塔の前に置かれた土砂器の土砂を光明真言によってお加持します。それから、導師は、檀徒各家からお申込をいただいた先祖代々並びに各精霊の塔婆供養を行い、加持した土砂の功徳を各塔婆に遍くいきわたらせます。

そして再度塗香や華蔓などを仏さまに供養し、この一座の修法の功徳を三宝や一切の精霊、神々、天人などに回向し、お招きした仏さまを曼荼羅の本位にお送りして、修法を終えます。

この間、職衆は、声明(しょうみょう)と言うふしのある経文を唱え、導師が仏さまをお招きする道場を荘厳し、また仏さまのお徳を讃歎して、仏さまの教えであるお経、ここでは般若理趣経をお唱えします。

 「法会次第」

はじめに、総礼伽陀(そうらいかだ)が唱えられ、法会の開式を申し上げます。

次に散華(さんげ)、向かえ合わせた六人が花籠(はなかご)を持ち、道場を荘厳すべく花を散じます。

次に対揚(たいよう)、頭を出す僧侶が起居し、この法会の祈願を申し述べます。

次に唱礼(しょうれい)、導師が頭をとり職衆が唱和します。あまねく諸仏三宝に帰命し自己の罪業を懺悔して、諸仏の徳に随順することを誓い、仏さまを勧請して供養し、その功徳を自他の一切に回向することを願います。

次に前讃、仏さまの徳を讃歎します。

次に理趣経、自も他もない清らかな心にいたることによって実り多き生命の調和をもたらす智慧について述べられています。

次に後讃、光明真言を声明にてお唱えします。

次に至心回向、仏さまを勧請し供養した功徳を自他の一切に回向します。

次に光明真言、光明真言を職衆が唱え、土砂を加持します。

次に舎利礼(しゃりらい)、釈尊の舎利と佛塔を敬い礼拝し、あまねく一切衆生を利益し皆佛果に至らしめ給えと願います。

次に回向伽陀(えこうかだ)、回向文を声明にてお唱えします。

次に称名礼(しょうみょうらい)、三礼して法会を終えます。

  職衆退堂
                        以上

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