毎朝、5時に6回鐘を撞いている。5時を知らせる鐘ではあるけれども、最初の一回は捨て鐘で、次から5回で5時ということになる。こちらに来た当初は、同じ時間に13回も鐘を撞いていた。寒い時期にはそれこそ身体が冷え切ってしまったことを思い出すが、当時は鐘を撞きながらいろいろと考えながら鐘を撞いたものだった。
何でこんなに沢山鐘を撞くのだろうか、何で5時なのかとか。そもそも昔のように時計のない時代でもないのに鐘を撞く意味があるのかなどと思いを重ねていたものだった。それが今では何も考えずに鐘の音を聞き数を数え、撞き終わると戻って仏飯と茶湯を本堂に運び、勤行する。
先日『阿弥陀堂だより』という映画を見た。山間の小さな阿弥陀堂をお守りする96歳の老婆が「目の前のことばかりにとらわれてはいけない、周りのことにも配慮しなければと言われるけれども、自分は目の前のことだけに精一杯生きてきて、気がついたら96歳になっていた」と語る。この老婆とは逆に、周りのことばかりにとらわれ、なかなか目の前のことに集中できないのが私たちの常である。
特に今という時代は、目の前のことに集中することはとても難しい。なぜならテレビ新聞雑誌、インターネットに携帯電話。それはそれで便利ではあるけれども、沢山の情報が次から次に押し寄せる環境の中で、その情報に飲み込まれ、その中で感情が沸き立つこともなく、感動することもなく、強い意志を持つこともなく、興味を覚えることもなく、ただ眺めるということに甘んじるように慣らされてしまってはいまいか。
だから、世界中で何があっても、まったくの無関心。何も感じない。勿論今世界の話題の中心にあるチベット問題もその例外ではないだろう。様々な機関や団体が中国政府の自重を呼びかけてはいるが、どこまで彼らの今を感じ取った行動となっているであろうか。何かしなくては済まないから声明を発表するということもあるかもしれない。
この度のチベット問題ばかりが今現在の問題なのではない。もっとその陰で沢山の重大な事態が進行しているということもあろうし、そもそもチベットで衝突を起こす裏には様々な要素が蠢いているであろうとするのが世界の常識ではないか。だからそう簡単に中国政府を非難すればそれで済むということでもないだろう。深く今に至る因縁をおもいはかるばかりである。
それはともかくとして、私たちの日常は、そんな世界の危機と関係なく、だらだらとどうでもよいテレビやパソコンの画面を眺め時間が過ぎていく。またはあれもこれもいろいろなものに関心を払い、それぞれにエネルギーを分散している。そのどれもが中途半端な状態のまま満足なことがなかなか出来ずにただ空しく時が過ぎていく。
これが自分だと思えるもの、これだけすればよいというものを見つけることも難しい。たとえ、これだと思えるものが見つかったとしても、それがすぐに幅広く展開して、結局はその中心を外して、あのこともこのこともと手をのばすことになる。これだけでいいと思って、本当にそのことに時間を費やせる人は恵まれている。
おおかたの人があれもこれもと欲が出たり、家庭の事情、そこには突然に親の介護を引き受けざるを得ない事情を被ることもあるだろうし、また時代の移り変わりで多くの人との繋がりからそのことに集中できない事態に陥いることもあるだろう。
ふと気がつくと、自分は本当は何をすべきだったのかと思い至る人もあるかもしれない。気がつく人はまだいい、何も気づかないままに終焉を迎えるという人がほとんどなのではないか。まさに、自分とは何か、何者なのか、自分は何のために生きているのかが分からなくなりただ漫然と時間をやり過ごしている時代なのだと言えまいか。
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何でこんなに沢山鐘を撞くのだろうか、何で5時なのかとか。そもそも昔のように時計のない時代でもないのに鐘を撞く意味があるのかなどと思いを重ねていたものだった。それが今では何も考えずに鐘の音を聞き数を数え、撞き終わると戻って仏飯と茶湯を本堂に運び、勤行する。
先日『阿弥陀堂だより』という映画を見た。山間の小さな阿弥陀堂をお守りする96歳の老婆が「目の前のことばかりにとらわれてはいけない、周りのことにも配慮しなければと言われるけれども、自分は目の前のことだけに精一杯生きてきて、気がついたら96歳になっていた」と語る。この老婆とは逆に、周りのことばかりにとらわれ、なかなか目の前のことに集中できないのが私たちの常である。
特に今という時代は、目の前のことに集中することはとても難しい。なぜならテレビ新聞雑誌、インターネットに携帯電話。それはそれで便利ではあるけれども、沢山の情報が次から次に押し寄せる環境の中で、その情報に飲み込まれ、その中で感情が沸き立つこともなく、感動することもなく、強い意志を持つこともなく、興味を覚えることもなく、ただ眺めるということに甘んじるように慣らされてしまってはいまいか。
だから、世界中で何があっても、まったくの無関心。何も感じない。勿論今世界の話題の中心にあるチベット問題もその例外ではないだろう。様々な機関や団体が中国政府の自重を呼びかけてはいるが、どこまで彼らの今を感じ取った行動となっているであろうか。何かしなくては済まないから声明を発表するということもあるかもしれない。
この度のチベット問題ばかりが今現在の問題なのではない。もっとその陰で沢山の重大な事態が進行しているということもあろうし、そもそもチベットで衝突を起こす裏には様々な要素が蠢いているであろうとするのが世界の常識ではないか。だからそう簡単に中国政府を非難すればそれで済むということでもないだろう。深く今に至る因縁をおもいはかるばかりである。
それはともかくとして、私たちの日常は、そんな世界の危機と関係なく、だらだらとどうでもよいテレビやパソコンの画面を眺め時間が過ぎていく。またはあれもこれもいろいろなものに関心を払い、それぞれにエネルギーを分散している。そのどれもが中途半端な状態のまま満足なことがなかなか出来ずにただ空しく時が過ぎていく。
これが自分だと思えるもの、これだけすればよいというものを見つけることも難しい。たとえ、これだと思えるものが見つかったとしても、それがすぐに幅広く展開して、結局はその中心を外して、あのこともこのこともと手をのばすことになる。これだけでいいと思って、本当にそのことに時間を費やせる人は恵まれている。
おおかたの人があれもこれもと欲が出たり、家庭の事情、そこには突然に親の介護を引き受けざるを得ない事情を被ることもあるだろうし、また時代の移り変わりで多くの人との繋がりからそのことに集中できない事態に陥いることもあるだろう。
ふと気がつくと、自分は本当は何をすべきだったのかと思い至る人もあるかもしれない。気がつく人はまだいい、何も気づかないままに終焉を迎えるという人がほとんどなのではないか。まさに、自分とは何か、何者なのか、自分は何のために生きているのかが分からなくなりただ漫然と時間をやり過ごしている時代なのだと言えまいか。
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