住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

タイ上座仏教長老・チンナワンソ・藤川清弘和尚追悼

2010年02月28日 19時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他

藤川和尚を支援する『オモロイ坊主を囲む会』のホームページからの貼り付け。

『~藤川和尚のこと~ (2010年2月24日)2010年2月24日午前0時過ぎ、娘さん家族、息子さんに見守られる中、 藤川和尚が永眠されました。享年68歳。先週金曜日19日の夕方、意識不明となり救急車で病院へ。脳の血管が大きく破裂しておりました。胃がん、糖尿病、帯状疱疹の後遺症の激痛、白内障などで、 後半はかなりつらいご様子でした。ご本人の遺言で、葬儀告別式は行われず、近親者の方々のみで荼毘に付されます。どうぞ、ご理解頂けますようお願い申し上げます。後日、オモロイ坊主をしのぶ会を、賑やかに行う予定です。追ってご案内申し上げます。福本@世話人会』

突然のことで何がどうなっていたのか分からないままに、ただこの事実だけを知り書いています。数年前までここ國分寺にもお越し下さり、「タイの僧侶と語る会」を四度企画させていただいた。その後は御無沙汰をして特に日本にお帰りになられてからは連絡も満足に取っていなかったことが悔やまれる。いつも元気に明るく賑やかなお方だっただけにお体がそんなに病んでいるとはつゆ知らず、数々の恩義に何のお礼も出来ずに亡くなられてしまったことが、ただただ残念でならない。

そもそも藤川和尚とのご縁は、いまから16年前に遡る。平成5年、私はインド・ベナレスのサンスクリット大学に留学し、ベンガル仏教会の比丘としてサールナート法輪精舎で1年間を過ごしていたが、翌年無料中学の寄付集めのために日本に一時帰国した際に、確か銀座線の赤坂駅ホームで南方上座仏教の黄衣姿同士で、藤川和尚と出会ったのだった。

親しく話しかけられ、名刺を一枚頂戴した。50を過ぎてタイで出家されたと伺った。バブルで儲けてタイにショッピングセンターを作っていたが、ひょんなきっかけから一時出家したら、やみつきになったと語られた。同じ位のお年の方二人と一緒だった。それは、ほんの数分の邂逅で、強く印象に残ることはなかった。その後お互いに連絡することもなく会うこともなかった。私はその年の暮れにはインドに戻る予定でいたが、丁度ペストがインドで流行し躊躇していた。そうしたら翌年1月17日に阪神大震災に見舞われ、私は現地でボランティア活動に邁進した。

ようやくその年の6月頃、雨安居のためにインドへ向けて飛ぶために成田に向かった。日本では東京早稲田の放生寺様に居候をさせて頂き細々と暮らしていたので、最低価格のチケットでカルカッタに向かうことになった。ビーマン・バングラディシュだったと記憶している。一目で宗教者と分かる出で立ちだったからであろうか、翼の前辺りの窓際の席だった。荷物を置き座って横を見ると、なんと藤川和尚が同じ座席番号の逆サイドの位置に座られていた。

二人で顔を見合わせ苦笑いをした。安いチケットだから、直接バンコクには向かわない。マニラ経由でそれも3時間ほどもトランジットがあった。二人とも機内から出てマニラ空港内をゆきつ戻りつ、ずっと二人で日本の仏教について、またそれぞれの国の仏教について語り合った。傍目にはおそらく日本人とは思われなかったであろう。裸足にサンダル、黄色い薄汚れた袈裟、頭は坊主、顔色も浅黒いときては日本人とわかる要素は皆無だった。

ただ話している言葉が日本語で、一人は日本人離れした大きな体格なのに訛りの強い京都弁だということくらいだろう。その時にも藤川和尚の日本の若者たちを仏教者が何とかしなくてはという気概を強く感じ、私には自分の古傷を探られているかのような居心地の悪さを感じた。それはその前に経験していた日本の僧侶としての数年間に何もそのような活動をしていなかったことに対する不明に恥じる気持ちがあったからだろう。

その後2年ほどして私は、日本の僧侶に復帰して東京深川の冬木弁天堂に堂守として3年ほど過ごした間に大法輪に掲載した記事をご覧下さり便りを頂いたように思う。一度くらいお訪ねを頂いたようにも記憶している。そして平成12年に私がこの國分寺に入寺した翌年だっただろうか、藤川和尚がタイから帰られて、四国八拾八カ所を歩いて遍路された。その帰りに疲れを癒されるために一週間ほどここ國分寺に逗留された。

かなりきつい旅になったようで、それぞれの札所でのイヤな思いを語られた。ある札所の通夜堂で寝ていたら警官がやってきて、「どこの人間や、不審なもんが居ると通報があった、パスポートを見せろ」と言われたと言っていた。何で日本人が母国でパスポートを出せと言われなあかんのか分からんと憤慨されていた。行く札所行く札所で、ぞんざいな扱いを受けられたようだった。気の毒なことだったと思った。黒い地下足袋を履いて、重い荷物を持ってそれはご苦労な歩き遍路旅であったのだろうと思う。

その年からだっただろうか、毎年のように5月頃日本に帰られるとこちらにお寄り下さった。若いタイ比丘を伴ってこられた年に、檀家さん方を中心に開いている仏教懇話会の特別企画として「タイの僧侶と語る会」と銘打って講演会を催させていただいた。タイのお寺での日常、それと対照的な日本のお寺のあり方などにも痛烈な批判を述べられたことを記憶している。

それからはミャンマーで藤川和尚が支援しているメッティーラ日本語学校のマンゲさんや学校長のススマーさんを伴ってこられ、ご講演と彼女らからミャンマー仏教徒の心得やミャンマー語の手解きなどを皆さんで伺ったこともあった。その間に藤川和尚は、藤川和尚を激賞され引き立てられた弁護士の遠藤誠氏が亡くなったときに急遽招聘されて葬儀に立ち会われたときのご縁からだっただろうか『オモロイ坊主になってもうた』という著作を出版された。

過去の人間藤川和尚の半生を綴った稀有なというか正に赤裸々な内容の著作に戸惑う人もあったかも知れないが、和尚にはこれを書かずしては逆に袈裟を着ていることが恥ずかしく思われたのかも知れない。それだけ潔白な方であったのであろう。ごまかし無くお釈迦様への思いを語るためには必要な過程だったのだと思う。

その後もアジアの仏教国を旅しての紀行記を著したり、BSのテレビで企画されたやはりアジアの仏教国を旅した様子を収録し放映されたこともあった。さらには北朝鮮にジャーナリストを伴って行かれ、仏教寺院を訪ねて僧侶にインタビューした様子がニュースで放映されたこともあった。彼らにはブッダよりも将軍様が大切なんだと情けなさそうに笑って話しておられたのを今も思い出す。

おそらく南方上座部の袈裟を纏っているからこそ出来た稀有なそれらの記録は、本当は誠に貴重なもので、他の人が決して真似の出来るものではなかったであろう。藤川和尚の行動力と何ものにも物怖じしない強さ、比丘としての気概、俺がやらずして誰がやるという強い思いがなさしめたものであったろうと思う。

タイにおられて気候のこと、食べ物のこと、言葉の不自由さもあり、やはり体調の優れないこともあったであろう。タイの人々に食べさせて貰ってお世話になっている、また一人日本人だからと良くしてもらうことに引け目もあったであろう、僧院の汚れたままに放置されていたトイレを一生懸命一人掃除したという。はじめはみんな比丘がそんなことをとバカにしていたが、そのうちみんながやり出して、今ではいつもトイレが綺麗なのだと誇らしげに語られていた。

3年ほど前に日本にお帰りになり大久保の一室で活動をなさっておられた。その数年前から藤川和尚の活動を助けておられた『オモロイ坊主を囲む会』の皆さんが支援して、活発な活動を展開されていた。講演会に瞑想会。BOSEバーでの若い人たちとの語らい。おそらく何の堅苦しさもなく、訛りのある言葉で話す藤川和尚に癒され救われた人たちはどれほどあっただろうか。

若い日に無茶をして警察に世話になり、大きくなっても決して堅気な生活をしていなかった和尚がお釈迦様に惚れて惚れて惚れ抜いて、真面目にお釈迦様の言葉を語る。それは誰よりも悩みを抱える人たちの心にストレートに染みいる癒しとなったであろう。そんな人はもう出てこないだろう。何もかも捨ててきたからこそあれだけの行動力、説得力、思いやりがあった。まだまだ活動をされて行かれるものと思っていた。

3年前日本にお帰りになったとメールを頂戴したとき、私も藤川和尚に負けないよう自分の道を歩みたいと返事をしてしまっていた。だからなかなかメールで気軽に様子することも出来なくなったと弁解させて下さい。あなたにもっとお越しいただけば良かったと今になって後悔します。誠に残念でなりません。来世では、きっともっとブッダのおそば近くに感じられるところにお生まれになられることと固く信じ、すばらしい価値のある一生を全うされたことを祝福させて頂きます。本当にご苦労さまでした。そして、ご厚誼を賜り本当に有り難う御座いました。合掌


因みに、参考までに。「タイの僧侶と語る会3」の様子は下記にてご覧下さい。

http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/14947b79aa03016ba3e1722d21663d98

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日本の古寺めぐりシリーズ第8回若狭神宮寺と明通寺をゆく 2

2010年02月23日 07時49分17秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に、明通寺は、真言宗御室派棡山(ゆずりさん)明通寺という。若狭街道から離れた丘陵の谷間、松永川沿いの奈良室生寺を思わせる佇まい。開山は坂上田村麻呂だと伝承されている。彼は、蝦夷を平定した最初の征夷大将軍で、それは三度にわたる激戦の末のことだった。田村麻呂は敵の首長アテルイの助命を朝廷に嘆願するものの採りいれられずに死刑とされ、その四年後に過去に殺戮した蝦夷の鎮魂のために、また桓武帝の女御であった娘に皇子誕生を願い寺院建立を発願した。

「お寺を建てるに相応しい地を示せ、その地に薬師如来を造立す」と願うと、鏑矢が神通力で放たれ、その矢を坂上田村麻呂が追ってこの地にやってくると矢はユズリギに当たっていた。大同元年(806)のことだった。そこで一人の山中に住む老居士と出会い、その老人から最近火のような光明を見たので近づいてみると生身の薬師如来だったが喜びの余り抱きつくとユズリギに変わってしまったと聞いた。

そこでその大樹で等身の薬師如来、降三世明王、深沙大将を彫って寺院を建立した。それで棡山(ゆずりさん)と山号するが、棡の古葉は新葉に譲って散るといわれ、新たな命への継承が含意されているという。そして、その後も光明は山河を通し照らしたので、光明通寺と称するのだと言い伝えられている。

その後20あまりの坊舎が建ち栄える巨大寺院となり門前町まであったというが、その後火災に遭い衰退。鎌倉時代に、頼禅法印が現在の伽藍を中興した。武家と密接な関係を保ち寺領を拡大し、鎮守堂、大鳥居、湯屋など24坊など伽藍整備を行っていった。古くから明通寺は勅願寺として国の祈願を担っていたが、この時代には、坂上田村麻呂の寺ということで、武士たちから特に崇敬を受けたという。

異国降伏の祈願もしたと言うが、 元弘三年(1333)には後醍醐天皇側に組して兵糧米を献上し、朝敵退散の祈祷をするなど戦勝祈祷を繰り返し、若狭・能登野の内乱においては住僧も巻き込まれ討ち死にしている。鎌倉・室町時代を通じて幕府、守護、地頭の崇敬を受け、歴代守護の祈願寺として隆盛を極めた。近在の土豪百姓らによる先祖供養のための如法経料足寄進札などで信仰を集めた。

大永八年(1528)の寺領目録によるば8町1反の寺領があったというが、江戸期以降は除々に衰退。しかし、その後火災にあうこともなく、鎌倉時代の国宝が存続できたことは幸いであった。古代から中世においては、天台宗・真言密教・修験道などの法灯を伝え、比叡山や高野山、吉野・熊野の両峯との交流もあったというが、今日では真言宗御室派に属す。

松永川にかかるゆずり橋を渡り山門へ。市指定文化財の山門は、明和九年(1772)江戸時代中期再建の瓦葺き重層。金剛力士像も市指定文化財で、文永元年(1264)鎌倉時代中期の作。山門手前の坂両側には、老杉の巨木か聳える。左手には小振りの鐘楼堂。ユズリハ、ノウゼンカズラ、ギボシ、アジサイの木を眺めつつ、三つ四つ石段を上がる。本堂は国宝。檜皮葺入母屋造り。正嘉二年(1258)頼禅法印の再建。桁行き14.7メートル、梁間14.9メートル。鎌倉時代の荘重な力感溢れる名建築と評されている。

本尊は、薬師如来、像高144,5㎝平安時代後期の作、重文。ヒノキの寄木造り穏やかな相好でゆったりとした量感、にこやかな表情を浮かべているかのよう。十二神将は室町時代の作。薬師如来の脇侍は普通日光月光菩薩だが、ここは、右に降三世明王、左に深沙大将の立像が祀られている。四つの顔と八本の腕を持ち、252,4㎝の巨像。インドの三世を支配するシヴァ神・大自在天を降伏させた力強い明王。シヴァ神と妃ウマを踏みつけている。明王像としては静かな品格を備えた名作。

深沙大将とは、玄奘三蔵(600-664)がインドに向かう際に、砂漠で救われたという護法神で、多聞天の化身とも言われる。西遊記の沙悟浄のモデルでもある。頭にドクロをのせ、右手に戟、左手に蛇をつかみ、腹部に人面を付ける異形の姿ではあるが、忿怒の相も穏やかで、太い足で悠然と立つ姿は、おおらかな落ち着きがある。像高256.5㎝。この像は他には、岐阜県揖斐郡横蔵寺、京都府舞鶴市金剛院などにしかない貴重な尊像。

この三尊の取り合わせは、おそらくその時代には所謂薬師三尊というような今日に見る日光月光の菩薩の配置が定着する前の古い時代のありようをそのままに継承してきたが為のものではないかと思う。それがおそらく寺創建の由来となり記述され伝承されたが為にそのままの形が残されたのであろう。薬師如来が本願功徳経によって役割が定まる前からある古い如来であることを考えればこのような配置はかなり沢山大陸や朝鮮半島ではその時代結構あり得たのではないかと思われる。

本堂左手奥には弁天堂がある。本堂前からは左手上、石段正面に美しく三重塔か聳えて見える。高さ22.1メートル。文永七年(1270)の再建。国宝。かつては瓦葺きだったが、昭和32年の解体修理の際に本堂と同じは檜皮葺きに。内部には釈迦三尊坐像、極彩色の十二天像壁画がある。塔を囲むように杉の巨木が立つ。塔正面には権現山の美景が望める。室生寺の五重塔は16メートルの小塔だが、同じ山寺の木々に囲まれた風情は共通する。見比べてみるのも面白い。

ところで、明通寺のご住職中嶌哲演師は、「原発銀座」と呼ばれる若狭で、長年にわたり原発反対運動の中心として活動され、「現場」から全国に向けて深いメッセージを発信してこられた。明通寺は、蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂がアテルイたちの鎮魂のために創建した寺院といわれるが、そのお寺の住職として、若狭の核廃棄物を青森に押し付けることに心を痛めているとも言われる。

地球温暖化問題が叫ばれ、石油の高騰に不安を煽られ、原子力の必要性に世論が傾くよう仕向けられ、欧米でも原発を終息させていく方向が改められようとしている現在、被曝労働をはじめ、いのちを蝕まれる人々や自然と常に向き合っている明通寺ご住職に対面し、出来ればそうした市民活動家としての一面からの話も是非伺いたいと思う。

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日本の古寺めぐりシリーズ第8回若狭神宮寺・明通寺をゆく 1

2010年02月22日 14時43分46秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
この古寺めぐりシリーズも、早いもので始めて5年目を迎える。番外編を入れると11回目。今回は3月11日、福井県小浜市に若狭神宮寺と明通寺に参る。案内にあるように神宮寺は東大寺のお水取りのお水を送る寺として有名であり、明通寺は石段の上に国宝の三重塔と本堂が聳える山寺。近代化されていない古風な佇まいにひとときの安らぎを感じる。そんな旅になるであろう。

小浜は「海のある奈良」と言われるほどに、お寺が多い。三万四千の人口に137ものお寺がある。近世までは外交の表玄関として大陸からの先進文化の到着地だった。ロシアから中国沿岸部をリマン海流が南下して、朝鮮半島東部にぶつかり若狭湾へ流れ込んでいる。古代からその流れによって、半島東岸の新羅、高句麗の人々が若狭へやってきていたらしい。

それと別に九州には、朝鮮半島西南部に向けて対馬海流が流れていて、そちら側にあった百済との交流が進んだ。だから北陸は古来大陸からの外来文化が到達しそれを奈良京都や大阪に伝える大切な役割を担っていた。平安時代頃には、筑紫太宰府から難波津への正式外交ルートと別に、渤海から北陸へという交易ルートが頻繁に行われていて、若狭は、敦賀、能登、新潟とともにファッション文化の中心地だったという。

だから、若狭とは、朝鮮語の行き来を意味するワカソ、若狭の中心地だった遠敷は、遠くにやるという意味のウフオンニューの音写だと言われる。その遠敷の産業は昔から漁業、薪炭・鋳物、それに農業・商工業だったといい、中でも海の幸は名産で、若狭小鯛(こだい)、若狭鰈(がれい)は有名で、それらが京都へ送られるので、若狭と京を結ぶ街道十八里は「鯖街道」と呼ばれ、水揚げされた鯖に一塩かけて京へ運ばれたのだという。

神宮寺は、JR小浜駅から東へ6キロ、遠敷川沿いにある。天台宗霊應山根本神宮寺というのが正式な名称だ。和銅七年(714)、元正天皇の勅願により開創。開山は、和朝臣赤麻呂(わのあそんあかまろ)と言われ、時に、赤麻呂の前に若狭彦神が現れ、「我鬼道に落ちその身を逃れん為に悪病を流行らせる止めたくば仏像を安置して寺を造り我が鬼を救え」とのたまわったという。はじめは神願寺と称した。地主神と渡来神が一社に合わせ祀られ「若狭日古神二座一社」または「遠敷明神」として祭祀されてきた神仏両道の寺。

平安時代には桓武天皇、また白河天皇(在位1072-1085)の勅命により伽藍整備が行われ。鎌倉時代には、第四代将軍頼経(よりつね)が七堂伽藍二十五坊を再建。若狭彦神社を造営して別当寺として、根本神宮寺と改称した。その後細川清氏(きようじ、応仁の乱の頃には丹波摂津を領していた。若狭は武田氏)が再興、越前・朝倉氏が本堂再建。しかし秀吉が荘園召し上げ、その後明治の廃仏毀釈によって規模が縮小した。

境内には沢山のかつてあった坊跡が散在している。仁王坊跡というのもあり、北門に鎌倉時代末期に出来た重文仁王門。注連縄が張られ、柿葺き切り妻屋根の高さ5.5メートルの大きな仁王門。南北朝時代の金剛力士像が祀られている。像高2.1メートル。砂利の敷かれた緩やかな坂道を歩く。途中にもいくつもの坊跡。そして、本堂にも注連縄が掛けられている。注連縄は浄と不浄を分ける結界を意味しており、これより神域との表示。本堂の背面には神体山、山内の巨木も神々しい。

本堂は檜皮葺入母屋造り。桁行き15メートル、梁間16.6メートル。天文22年(1553)越前守護朝倉義景の再興。本堂は正に神仏共存の道場。中央は、本尊薬師如来の空間。本尊は若狭彦神の本地仏。日光月光、十二神将が所狭しと祀られている。左手は、千手観音に不動明王、毘沙門天。そして右手に、若狭彦若狭姫の両明神と、手向山八幡(東大寺の鎮守)、白石鵜之瀬明神、那加王日古(本堂後背の長尾山の神)、志羅山日古(真向いの山の神)と大きく書かれた掛け軸が三幅掛けられ、それぞれの後ろに神々が住まわれているという。

境内には、外で焚く護摩の石組みがあり、開山堂、奥の院がある。そして何よりもこのお寺を有名ならしめているお水取りの香水を酌む閼伽井戸が南奥にある。その由来には、実忠というインドからの渡来僧が関わる。実忠は、東大寺初代別当の良弁の弟子で、もとは若狭神宮寺に住し、後に奈良に出て良弁を助けた。そして、摂津灘にて補陀洛山に向けて観音菩薩の来迎を祈念して、ついに十一面観音が閼伽の器に乗って飛び来たり、朝廷に願い二月堂に安置、まさに仏教伝来200年かつ大仏開眼の年、天平勝宝四年2月1日(現在は3月1日より)から二週間の行法を始めた。

これが修二月会と呼ばれ今日に至るまで一度も休むことなく不退之行法として1260年も続いてきた。実忠がその行法中、全国の神の名を読み上げ守護を念じたが、遠敷明神だけが漁に出て遅刻してきた。その詫びとして、十一面観音にお供えする閼伽水を若狭から二月堂へ送ることを約束した。

すると白黒二羽の鵜が飛び出したその穴から泉が湧き、お水取りの霊水になったので、東大寺二月堂下の閼伽井屋を若狭井と言う。神宮寺の閼伽井の湧き水を上流二キロの鵜之瀬に流し、奈良東大寺の若狭井に10日かけて到着すると言われ、3月2日に若狭でお水送りをして3月12日の東大寺の二月堂修二会お水取りに使われるのだと信じられている。

因みに、修二会は、11人の練行衆により一日六座行われ、「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う、十一面観世音を本尊として人々に代わって罪障を懺悔して、天下泰平・五穀豊穣・万民快楽などを願って祈りを捧げる行法。もとは卒天にて行われていた行法で、天の一昼夜は人間界の400日に当たるので、勤行を速め走って行ずる必要があった。

12日深夜勤行を中断して若狭井に松明をかかげ香水を酌みに行く。十一面観音様へお供えされる香水は、根本香水という毎年汲み足される甕と、次第香水というその年の水を入れた甕と二つあり、次第香水はお水取りの行が終わると参詣者らに頒布されるという。

奈良も朝鮮語の都を意味するナラの音写だという。奈良と若狭おそらくその繋がりをさらに延長して渡来僧実忠が遠くインドから日本に至る神仏の伝承すべてに懺悔祈願する行として位置づける象徴として、若狭から奈良に至る霊水の道があったのではないか。ないしは、神宮寺の霊水を卒天からの香水と見立てたのであろうか。とにかく興味尽きない想像を膨らませてみたくなる伝承である。

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『葬式は、要らない』を読んで(2/21追記)

2010年02月19日 14時56分18秒 | 仏教書探訪
今年1月30日第一刷発行の新刊である。著者は、元日本女子大教授で、現在は東大の先端科学技術研究センター客員研究員の島田裕巳氏である。新聞の広告欄に大きく宣伝されていて、関係諸氏からコメントを求められたときに必要であろうかと思い読んだ。

読後感は、はっきり言って、著者島田氏は何を言いたかったのだろうかということだ。このタイトルにあるように葬式は要らないと、時代の流れだと言いながら、条件付きでの、不要論であることを結論としている。

人が「最期まで生ききり、本人にも遺族にも悔いを残さない、私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のものでも関係な」く、自ずと葬式を不要にすると述べている。最期まで生ききる、悔いを残さないということをどのようなことをいうのかは記されていない。

延々と日本の村社会での祖霊崇拝や仏教のあり方、また諸外国の葬送にまで言及していながら、大事なところを語らずに外面的経済的な事情から葬式が要らないとだけ結論している。はたして、おおかたの人が今病院で亡くなる中で最期の最期まで自分の生を生ききれる人がどれだけあるだろうか、完璧に悔いを残さない人生を送れる人がどれだけいるであろうか。

そう考えるとき、この先生の言いたいことは葬式が要らないということではなくて、都会で流行る直葬に、安易にか、致し方なくか、そうせざるを得ない人たちに、やはり大切なことがあるのだということを教えたかったのだろうかとも思える。

それにしてはその大切な部分、葬式は要らないとして、葬式をせずに、亡くなっていく本人をどう弔うのか、また、遺族はどうしたらいいのか、その心のありよう、いかにしたら身近な人の死を受け止め、癒していけるのかということには全くといって言及されていないのは残念なことである。

確かに派手になりすぎるのも考え物であろう。金額的に各国ごとの比較もされているが、それがどのようなことに使われた金額なのか、その数字の取り方は内容的に整合するものなのかも詳しくは書かれていない。ただ日本人の葬式が贅沢になったのは仏教が葬式を担うようになったからだとし、葬式仏教と日本仏教を貶め、戒名という不透明な存在を批判する。

歴史的背景にも言及されてはいるが、それによって人々はどのように人の死を受け止め、何代にもわたり先祖を祀ることをどのように受け入れてきているのかという内面については解明されていない。身近な人が亡くなったときの残された人たちの心の問題にもあまり触れられていない。

島田氏が指摘するように都会と地方での家に対するとらえ方、地域の受け入れ体制の違いから葬式のありようが変わっていくことは致し方ないことであろう。経済的に誠に厳しい現状から葬式を出すこともできないことも考えられる。しかしだからといって、葬式が不要であると結論することはできまい。他の仏教国ではもちろん仏教徒が死後戒名をつけることはないが、葬式やその後の法要もきちんとなされている。

インドでの経験しかないが、インドの伝統仏教教団・ベンガル仏教会で、何度となく、仏教徒の葬式やサンガダーンという法事にも参加させてもらってきた。裕福な家は盛大に、貧しい家はそれなりに葬式も行い法事も行われている。他の国々も同様であろう。

違うのは、日本では死後四十九日の後に来世に転生すると考えるが、インドでは、七日後に転生すると考えられている。だから日本でいう四十九の盛大な法事に当たる法事を六日目ないし七日目にしていた。

だから、葬式は仏教でしても良いのではないか。それよりも問題なのは、檀那寺がある人は、そのことの意味をきちんと受け入れ、お寺の側は、人の死とはどのようなことか、葬式とはどのような意味があり、戒名とは何なのかをきちんと説明することではないか。そのことが不十分なので、この書でも、本人や家族知人が戒名をつけたらいいと書いてあり、それが単なる死後の名前、生前の人となりを表す称号だとのとらえ方をされてもいる。

生きるとは何か、死とは何か、どう生きるべきかをことあるごとに布教することこそがお寺の役割ではないかと思う。そして、それは僧侶自らがどうあるべきかということにいたり、各本山ともどもこれからの宗団僧侶がいかにあるべきかを侃々諤々議論すべきなのだと思う。島田氏もそのことを指摘している。そうすれば葬式仏教、戒名のあり方に対する批判も違ったものになると。

島田氏は、冒頭に引用したこの書の結論を述べる前に、故人を弔うために集まった人が故人がもう十分に生きた、立派に生き抜いたことを素直に喜ぶ、そんな葬式なら無用とは言えないとも述べている。また、「一人の人間が生きたということは様々な人間と関係を結んだということであ」り、「葬式にはその関係を再確認する機能がある。その機能が十分発揮される葬式が何よりも好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら誰もが上げてみたいと思うに違いない」とも書かれている。つまり葬式を擁護し、葬式のあるべき姿を提言してもいる。

それはどこであっても、おそらく地方にあっては地域社会との関わりの中で当然そのような位置づけのもとに現在でも葬式が執り行われているであろう。願わくは、都会にあっても、日頃から宗教者との関係を結び、出来れば様々な機会に人の生き死にについて話し関係を深めつつそのときを迎えるようにあって欲しいものである。つまり本書は、『葬式は、要らない』のではなく、『意味のある葬式推進論』であると言えよう。


(追記) 何度となく新聞に広告が載る。そこには過激なキャッチが所狭しと書かれている。「葬式に金をかけられない時代の葬式無用論。」「日本の葬式費用世界一。」「戒名を家族で自分でつける方法」ともある。確かにそんなことも書かれているであろう。しかし、島田氏の終章での結論は記事の中に書いたとおりである。広告のキャッチと実際に本を読んでの印象はまるで違う。

広告だけを見て影響を受ける人もあるだろう。本を読んだとしても既にすり込まれた関心を持った部分だけを読んでこと足れりとする人もあるだろう。都会では地域社会との分離、全くの形だけの葬儀が進行しているのかもしれない。しかしそうした地域ばかりではないはずだ。

葬式仏教と揶揄されるが、今日においても葬式法事によって、貴重な仏教を説く機会になっているばかりか、普段会えない親族との交流を図り、小さな子供たちにも親族地域社会との繋がりを確認する場として機能している。人間関係を築けず、家庭の中でも孤立していく人間関係をこれから私たちの社会がどのように健全なものにしていくべきなのか。そうした点に対しても何も触れられず、提案もなく、一方的に葬式無用をこのように宣伝するかの無責任な表現は厳に慎むべきであろう。 


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やさしい理趣経の話5常用経典の仏教私釈

2010年02月09日 12時51分49秒 | やさしい理趣経の話
第三段の概説
「しーちょうふくなんじょうせーきゃぼーちじょらい・・・」と第三段が始まる。ここに「調伏難調釈迦牟尼如来」とあるように、この段は教主大日如来が、様々な煩悩の火を吹き消して覚https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/り、その教えによって多くの迷える人々さらには教化しがたい者たちをも覚らしめたお釈迦様となって登場する。

第二段では、真に完全なる覚りとは、①永遠なる堅固広大なるもの、②無限なる価値あるもの、③尊く清らかなもの、④すべての行いがその計らいを超えて互いに救済しあっているものであり、すべてのものが一体平等なるものと見てきた。第三段では、その①永遠なる堅固広大なるものとしての覚りの意味を展開していく。

私たち人間は常に苦しみの中にあると、お釈迦様はご覧になった。四苦八苦の苦しみと言うように、生まれた瞬間から生老病死の四苦の苦しみが生じ、これに愛別離苦(愛する者と別れねばならない苦しみ)、怨憎会苦(憎しみ合う者と会う苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(身と心から盛んに生じる苦しみ)を併せて八苦の苦しみが襲い来る。

これら四苦八苦を生じる根本の原因となるのが、人の心に巣くっている、貪瞋痴の三毒と言われる三つの根本的な煩悩である。それによって、誰しもが迷い怒り愚かしい心を持つにいたる。お釈迦様は、これら苦しみの原因となる三毒を真実なる智慧を開かれることによって克服なされた。

カピラ城を出て遊行し、六年間の苦行を経て、菩提樹下で瞑想する修行者シッダールタの前には、沢山の魔が夜ごと襲いかかったと言われる。代表的な魔は、様々な煩悩である煩悩魔、苦しみを起こさせる色受想行識の五蘊の陰魔、死をもたらす死魔、天に住み人の善事を邪魔する天魔の四魔であったと言われる。

これらが襲い来たとき、お釈迦様は、右手を膝の下に降ろし地に触れて、大地の神にこの世の真理を獲得し解脱せんとの堅い決意が不動なる真実であることを証明して見せたことによって魔は退散していったという。正にこのお姿が前回述べた四仏・四智の一つ「大円鏡智」を象徴する阿閦如来(あしゅくにょらい)のお姿でもある。

つまり、真実を示すこと、それが魔との戦いに勝利することになった。それと同じように真実の姿、この世のあり様を真実なる智慧によって見るとき、人間の根本的な煩悩である三毒も消えて無くなってしまう。小さな自己の欲求に取り巻かれている人々が、正しく貪瞋痴を制御するためにこの世の中の真実の智慧を授けるのが、この段の教えであると趣旨を説明する。

無戯論ということ
私たちは無意識のうちに、眼と耳と鼻と舌と皮膚から入る刺激に反応して、それが自分にとって好ましい物なら欲の心を、好ましくない物なら怒りの心を生じさせている。心の中で思い巡らす刺激に対して欲や怒りの心から妄想していくのも同じこと。しかしその好ましい物でも、ずっとその刺激が続くと逆に苦しみ、そして怒りに転じていく。

甘い物が好きで、ケーキを食べたいと欲の心で食べたとしても、三つも四つも食べたらムカムカして、もう食べたくない見たくもないという怒りの心が生じる。それなのにもっと食べたいと思い、吐きだしてまでご馳走を食べるなどという愚かしいと思えることも、中世のヨーロッパの貴族の間では実際に行われていたと聞く。好きな音楽も何時間も聞き続ければ、もう耳にしたくないという怒りの心にも転じる。香りの良いお香でも、沢山焚いてしまえば悪臭に転じていく。

しかしたとえば同じ欲でも、何か人に喜んで欲しい、助けてあげたいという気持ちから、欲っしていた物を見つけてあげたり、困っている人を助けてあげたようなときに、心から感謝されてこちらもうれしく思うような喜びの心はとても長く心楽しい気持ちでいさせてくれる。さらには、自然の中で少し落ち着いた気持ちで心静かに過ごしたり、坐禅でもして心の中に何もない安らぎ心地よさを経験することは、さらに大きな喜びを永く味わうことが出来る。

欲や怒りの心は良くないと思っても、特に欲は次々に生じてくるものなので捨てられるものではない。捨てることを考えるのではなく、外からの刺激をどう受け取るか、受け取る側の反応の仕方が問題なのである。物事にとらわれず、蓮の上の水玉の如く周りに囚われず自由に安らかにあるべきだと教えられている。

無戯論・戯れの論がないとは、小さな自分だけの好き嫌いの感情から欲をつのらせたり怒ったり愚かな思い行為に至ることから離れ、自他の対立を離れ、自他が一体なるものとの認識の元に、自分も周りも、もっと沢山の人たちや生きものたち全体が良くあるように幸せであって欲しいと、大きな欲に心を導いていくことをいう。

貪瞋痴の三毒をこのように小さな自分の中のとらわれた分別から開放して、より広く大きな、長い時間に亘って喜びを感じられる清らかな心に転じていくことによって、一切法、つまりすべてのこの世の現実世界も、本来このような小さな個による好き嫌いを超えた清らかな存在である。すべてのこの世の現実世界が清らかな広大な永遠なる存在であると目覚めれば、真実なる般若の智慧も開かれていくと説くのである。

第三段の功徳
そして「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。すなわち、この段の聞き手である金剛手菩薩に対し、この欲望を正しく導く教えをよく受けとめ、実践していくならば、たとえ欲望にまとわれた人々を殺害するようなことがあったとしても、地獄の暗闇の世界に墜ちることはないと諭している。ここでの殺害とは、悪業を生む心の中の煩悩を殺害することを意味しており、それによって、自他共々に真実なる智慧を速やかに獲得するからであると説かれる。

降三世の印を結ぶ
そこで、金剛手菩薩は、この教えを重ねて明らかにせんとして、心に巣くう頑なな自己に固執した欲や怒りの心を粉砕すべく、三世を支配するというインドの神・シヴァ神を倒した降三世明王の忿怒の形相で、蓮華を持ちその姿が広大な慈悲心から現されたものであることを明かすために微笑みさえ浮かべて、すべての者たちの豊かな人格の形成を念じる。

降三世の印とは、両手の甲を胸の前に交差させ小指を掛け合わせた形であり、仏の心と迷える衆生の心、さらには、小さな自己と真に広大なる宇宙大の自己との一体不二なることを表している。そして、その心の心髄を表すべく、降三世明王がシヴァ神を打ち倒したときの勇猛なる心・金剛吽迦羅心の一字真言「フーン」を唱えた。

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四国遍路行記-21

2010年02月01日 18時37分07秒 | 四国歩き遍路行記
四十番観自在寺から次の龍光寺までは、六十一キロもある。豊後水道沿いの国道を歩く。ひっきりなしのクルマの騒音に気持ちが落ち着かない。四国の道の矢印があったので、右の小道に入る。途中小さな番外の札所があったり、お地蔵さんが並ぶ道を歩いた。山道だったこともあり、かなり遠回りだったのかもしれない。国道に戻ってみると、まだ景色は先ほどとさほど変わっていなかった。

青い海に浮かぶ小島。水飛沫が白く美しい。それを見ているだけで元気が出てくるようだった。海が見え隠れする道を歩く。相変わらず車の多さにうんざりするが、5時過ぎ頃、バス停で休憩していると、たまたまそこに車が迎えに来るという方と話し始めた頃に、乗用車が到着。津島までクルマのお接待を受けた。山道を歩いた分車で今日の道程を進ませていただいたような格好になった。

津島は、国道沿いに川が流れ、橋を渡って街に入る。お寺の建物が目に入った。しかしどう見ても禅宗のお寺のように思えた。普段であれば、庇をと言って玄関を叩くところではあったが、このときは何故か橋を渡ったところにあった新橋旅館に泊まってみたくなって、境内を覗いただけで踵を返した。

新橋旅館は木造二階建ての古い旅館で、こざっぱりした落ち着いた雰囲気の宿だった。真珠の養殖の街だけあって、古風な落ち着きのある街並み。川と国道の先に見える夕暮れ時の海も美しい。景色を眺めながら、ゆっくり日記を認める。

ここまで、沢山の方たちのお接待や善根宿のお陰で、何の苦労もなく至っていることを思った。ただ自己の心を見つめ、歩くときには一歩一歩何も考えないことを心がけてきた。しかし、ここ数日、札所などで出会う、他の歩き遍路さんたちの様子や話しかけられての会話に違和感をおぼえ心乱している自分を不甲斐なく思い、お経に身が入らないこともあったことなどを反省した。

翌朝、家に電話をした。元気そうな声に安心する。気持ちよく宿を後にして、橋を渡る。バスの走る国道をひたすら北に向け歩く。宇和島の街に入るところで、中務茂兵衛(なかつかさもへい)という明治の人が建てた道標があった。少し茶色になった四角の石に、手形と龍光寺と記してあった。茂兵衛は江戸時代の終わりごろに山口県大島に生まれ、十九歳の時に四国遍路を思い立ち、大正十一年に七十八歳で遍路途中に亡くなるまで、二百八十回も四国を巡ったという。

その間に四国全域に沢山の道標を建立し、施主が広い範囲に見られることからも、かなり有名で生き仏と慕われていたとも言われている。大きなものでは六尺、平均四尺の高さで遠くからもよく分かる道標である。茂兵衛の辞世の句が遺されている。

「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」今の世にこうして顕彰されることを先読みしていたかのような句を書き残した。

沢山の賑やかな飲食店などが目にさわる宇和島の街並みを過ぎると、国道とも別れ東に道を取る。四十一番稲荷山龍光寺は、三間のお稲荷さんの下に位置する。古い集落の間の道を進むと山門ならぬ鳥居が目に入った。昔弘法大師がこの地に至ると、白髪の老人が現れ、我れ仏法を守護せん、と告げて姿を消したことから、ここが霊地と知り寺を造った。その老人の尊像を刻み、稲荷明神として祀ったという。

お稲荷さんは、稲を象徴する神、もとは五穀豊穣の神であったが、今では開運や商売の神となっている。ここでも、明治になり廃仏の煽りを受けた。江戸時代までは現在の境内の上に位置する社殿が本堂だったという。現在では狭い土地に本堂が造られ十一面観音を祀っている。気の毒なほどに狭小な境内。それでも、落ち着いた静寂の中にあり、ゆっくりと理趣経を唱える。石段をまたいで反対側に大師堂があった。

龍光寺を後にして、次の仏木寺に急ぐ。三・七キロの距離。近いと思ったのが間違いだった。田んぼの畦道の脇を歩き、小高い山をいくつも横に見ながら、もう着いただろうと思うと、神社だった。アスファルトの整備された道を進むと、右側に大きな楼門が見えてきた。石段を上がると茅葺きの堂々とした鐘撞き堂が目に入る。そこを左手に進むと境内に出た。奥に本堂と大師堂が並んでいた。

寺伝では、弘法大師が唐の国から還った翌年、大同二年(807)頃にこの地にいたり、牛を引く老人に牛に乗るように言われ乗ったところ、楠の木の前に案内された、するとその楠の木には唐の国から有縁の土地に至れと投げた宝珠が掛かっていたという。さっそく大師はここでその楠の木で大日如来を彫り、その宝珠を眉間に納め白毫にしたという。

鎌倉時代には、大覚寺統の後嵯峨天皇の皇子で、最初の宮将軍となる宗尊親王(鎌倉幕府第六代将軍)の護持仏になったと言われる御像である。宗尊親王は十歳の時征夷大将軍になり、その十四年後に謀反の疑いで京都に追放され、三十一歳の時出家、三十三歳で崩御。時代に翻弄された一生であった。また、仏木寺の大師堂の大師像は、鎌倉末期の正和四年開眼との胎内銘がある御像として有名である。現存する大師像の中でも最古の胎内銘だという。

整備された境内の落ち着いた雰囲気の中、お勤めを終えて時計を見る。四時半を指していたが、さらに先を歩いた。北に進む。夕刻が迫ってきたが、木々に覆われた山道が続ていた。突然視界が開けたと思うと、車道の左側から長い崖を下る道が続いていた。はるか下の方には車道に繋がっている様子が見える。一段一段気をつけながら下る。草鞋が段にひっかかる。日が落ちるのが気になりながら歩く。

ようやく崖を下ると車道が、明石寺のある卯之町に向けて延々続いていた。気がつくと、もう八時になろうとしていた。一気に疲れが全身に広がる。卯之町の商店街に入り最初に見つけた宿に草鞋を脱いだ。

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