住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

広田言証師の足跡を訪ねて 長崎の古寺巡り

2014年06月24日 13時41分34秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話

6月18、19日、長崎県の古寺巡りにお参りした。八年前から続けている日本の古寺巡りシリーズの企画である。今回は14名の同行の皆様と18日の早朝6時に神辺を出て各地で参加の皆様にバスに乗り込んでいただき一路長崎に向かった。車内では恒例のことながら一人マイクを握り、この度はこの一年のあらましから、四苦八苦について、また供養について六道と六種の供養、そして六波羅蜜を関連させての法話をなした。さらには、近年日本国内で南方上座仏教の布教めざましい日本テーラワーダ仏教協会制作のスマナサーラ長老による「ヴィパッサナー瞑想&慈悲の瞑想」というDVDをご覧いただいた。

昼食は車内で食し、一分でも早くその日目指していた島原の理性院大師堂への道を急いだ。理性院大師堂は、岡山県真庭郡久世町出身の広田言証師(1852-1928)が明治の中頃開創したお寺である。言証師は、地元で米や材木を商う商人だった。しかし40才の頃商売に失敗し、また難病を患って四国遍路に出る。四たび遍路していたとき、五十二番太山寺で出家する機縁に恵まれ、言証(ごんしょう)という名を授かる。それからも遍路を続けていると次第に病は癒やされ壮健となった。これは御大師様、仏様のお蔭と感じ入り、これからは人様のためにこの命を捧げようと志した。

しかしなにぶんにも何をして人助けしたらよいかも解らない、そこでさらに日本の霊山を旅してお告げを得ようと考えた。ときに、雲仙普賢岳で過酷な行を終えて島原の町に下りてきたとき、ある老婆から家に来て欲しいと言われ家に上がり、施しを受けていたとき、病人を連れてこられ治して欲しいとせがまれる。しかしそんな力も無い、拝み方も知らないと素直に告白する。

しかし、しばらくして、言証師が旅の修行に携えていた杖があって、それにその病人が触れることがあった。すると次第に病は癒やされていったのだという。なんとも不思議な話だが杖に霊力が宿っていたのであろうか。それ以来そのことは島原中の話題となり、次第に人は集まり、言証師の所には日ごと様々な施しが寄せられた。住まいが提供され、それが太山寺教会所となり、今日のような大師堂、次の代には理性院として寺格をもつ寺となった。

言証師は、それまでも、そして有名になり、十善講という講組織ができて多くの信者に支えられるようになっても、あいかわらず裸足のままでボロボロの衣をまとい杖を突き修行に歩いていた。日露戦争の前年にはシベリアを7ヶ月ほど旅行して島原出身者を訪ね歩き現地で亡くなった精霊の供養を行い、寄付を募った。日露戦争中は朝から晩まで念仏を唱え、寄付された金品を出征した疲弊家族の救護や軍資の補助として献金されたという。金銭のみで1,102円。この頃から今弘法と呼び敬われるようになっていく。

そして、その三年後、明治39年にはインドへ破天荒な旅を企てている。そのときにも裸足で船と鉄道を駆使して、交通機関のないところでは徒歩で旅をした。香港、ハノイ、ホーチミン、バンコク、シンガポール、ペナン、ラングーン。それぞれの地で日本人墓地で日本人を集め施餓鬼供養を行い、特に島原出身の人々に歓迎されたという。その中には年端もいかず売り飛ばされ、現地で辱めを受けつつ暮らすからゆきさんたちがいた。彼女らから熱烈な信仰を得て、二十歳前後で亡くなっていったからゆきさんたちの供養をなし、施餓鬼供養を行った。言証師は、ラングーンのお寺で三枚の袈裟と鉢を供養され、インドに向かう。ジャングルだったといわれるアラカン山脈を徒歩で越えて、インド世界に入っていく。

カルカッタから、ブッダガヤ、ベナレスへと歩を進めた。そこには当時、鎖国していたチベットへ潜入して膨大な経典類を持ち帰った河口慧海師が滞在していた。突然慧海師を訪ねた言証師に、慧海師は何を思ったであろうか。同郷のよしみ、言葉もできず蓄えも持たずフラリとやってきた風狂な坊さんに何事かを感じ取ったのであろう、親しくベナレスの名所を案内したとされる。お釈迦様が最初に説法されたサールナートをはじめ、ハヌマーン寺などのヒンドゥー寺院やガンジス河のガートなど。

さて次にはお釈迦様生誕のルンビニーへと送りだそうと駅に向かうものの突然言証師はボンベイに向かうと言いだし、去ってしまう。その後の足取りははっきりしていないがセイロンにも、ルンビニーにも苦労してたどり着き、またラングーンを経由して日本に向かったとされる。そのときビルマの高僧から大理石の釈迦如来像をもらいうけている。からゆきさんの滞在する各地をたどり供養を捧げつつ、重いお釈迦様を抱えて二年半に及んだインド巡礼を終えて日本に戻った。

明治42年、からゆきさんらから預かった寄付を元手に、大理石の釈迦如来像を安置する天如塔を創建する。総高20メートルほどの八角形の灯台風の塔であり、内部は二重らせん階段となっており、その最上部に如来像は安置された。寄付総額は4,870円、現在の貨幣価値でいえば5千万から7千万円に相当する。その天如塔を取り囲む玉垣の一本一本に寄進者の名前が刻まれており、東南アジアの地名と共にからゆきさんの名前も多く見られ、それらの金額は5円(現在の5万円から7万円)であり、身売りをされ知らぬ間に連れ出されて異国で命を削りつつ稼いだお金として、金銭価値の何倍もの意味ある金額であったであろう。その意を酌んで、言証師はこの天如塔という特異な塔に思いを捧げたのであった。

今年四月、フェイスブックというSNSにて天如塔の修復のことを知った。実はかれこれ20年ほど前のことではあるが、私自身がインド僧の一人として言証師の写真にあるような袈裟をまとい生活していた時期がある。インドのベンガル仏教会の一インド僧として過ごしたその三年の間にたまたま日本の図書館で、この言証師を紹介した本と出会っていた。倉橋正直著 『島原のからゆきさん - 奇僧・広田言証と大師堂』(共栄書房)である。この本を読み明治の時代にもこんな知られざる傑僧がいたのだとその生き様に感銘を受けた。そして、いつの日かそのお寺にも参ってみたいものだと思ったのであった。

フェイスブックは、理性院大師堂天如塔修復委員会の名前で立ち上げられたもので、その天如塔が百年も経って老朽化し倒壊の危機にあるところを地元の皆様が力を合わせ修復事業を企て、見事修復がなされたとの広報であった。時あたかも恒例の日本の古寺巡りシリーズ番外編一泊二日行程の候補地選定に当たり、他に特に候補が無ければということで長崎と申したところ、長崎に古寺巡りという誰も思いつかない企画との評価を受け決定し、この日の参拝が実現した。

そのことを、フェイスブックを通じて連絡を入れた。しかし、誠に残念なことにこの修復にかかろうというときご住職が他界しておられた。そこで、島原文化連盟委員長の宮崎金助氏に手紙でこの度の参拝の趣旨を申し述べたところご快諾いただき、ありがたいことにご案内までして下さることとなった。当日は雨の中、参道入り口までお出迎え下さり、一同天如塔の上まで参拝の後、机の上に資料が一人一人に用意された本堂に集合した。

宮崎様からは、からゆきさんについて、やっと十歳になったばかりくらいの年端もいかぬ娘たちが女衒らによって炭鉱船の船底に押し込められ二週間も垂れ流しの不衛生な旅の末に異国で身売りされた。上玉中玉下玉と品定めされて、それが彼女らの借金となり、身を粉にして働かされて二十歳前後で多くのからゆきさんがボロ雑巾のごとくにうち捨てられていったというお話があった。現在天如塔はからゆきさんに関する唯一の遺跡として島原市指定の有形文化財に、また長崎県の景観資産建造物にも指定されているという。

また、一級建築士でこの度の修復作業に尽力された岡本氏から天如塔のらせん階段は福島の飯盛山にある、さざえ堂と近似したところがあり、おそらくベナレスで言証師が出会った慧海師との話の中で構想したものではなかろうかという。慧海師は黄檗宗の出身であり、いち早く1780年にさざえ堂を作ったのは江戸本所にあった黄檗宗の羅漢寺であったというのである。階段は入り口から一度下に下がってから上に登るスタイルになっており、それは三途の川を渡ること、上がるところには不動明王が安置されている、また一番上部の窓から外に出て天上世界を味わってもらうようにもできていたことなど天如塔の構造について興味深いお話を伺った。

また内嶋氏からは言証師のことを本に紹介された倉橋先生が訪ねてこられたときの話や言証師の生涯を朗読劇にして上演したことなどについてお話し下さった。市の観光課の方からは、寛政地変によって島原の地が農地としても漁場としても損なわれそのことが結果として小さな子供を身売りする多くのからゆきさんを生んでいく素地となった話を伺った。また、島原新聞社から取材に来られていて、既に20日の島原新聞に「広島(福山)から天如塔を視察 開祖の思いに感銘受ける」として、國分寺住職ら15名の団体が視察し、修復後団体としては初めて天如塔に参拝したとの記事を掲載して下さっている。

歓談の後、本堂にて一同心経一巻をお唱えして、堂内の写真や古いインドの地図などに見入り、また言証師の御利益の詰まった杖にも触れさせてもらい、境内を散策して、大師堂をあとにした。宮崎様、岡本様、市職員の方が最後までお見送り下さり、からゆきさんと言証師に結んでいただいたご縁のありがたさに不思議な親近感に抱かれて後ろ髪引かれる思いで一同次なる雲仙に向かった。雲仙温泉では、地獄巡りの前に、宮崎氏に教えられた満明寺に参詣。丈六の金箔張りの釈迦如来像を前に心経一巻お唱えした。雲仙温泉はどこもよく整備され、とても気持ちよい温泉であった。

翌日は、八時に出て長崎に向かい、寺町の興福寺、皓臺寺、玉園町の聖福寺に参詣。興福寺は黄檗宗最初の寺で、隠元禅師が日本に来られて最初に入られたお寺として有名である。皓臺寺は曹洞宗、長崎大仏で有名なお寺で、キリシタンが増え続ける長崎で仏教興隆を願って作られた。現在では専門僧堂として若き雲水さんたちの修行の場となっている。聖福寺は黄檗宗長崎四福寺の一つで、他の唐寺とはひと味違う和風建築で静寂の森の中に佇む。

三ヶ寺の参拝を終え一路福山に向かう。バスの中では、まず、最後に参拝した聖福寺を舞台に繰り広げられる映画「解夏」を鑑賞し、それからまた一人マイクを握って、一人一人書いてくれた質問カードに回答し、それからお配りした「國分寺だより」の記事を題材にして様々な話をさせていただいた。話をしつつ、皆さん何度もこの古寺巡りに参加されている常連さんのため、逆にご意見を伺ったり、質問があったりと和気あいあいとした歓談をしつつ、長いはずの七時間があっという間に過ぎていった。

この度も誠に学ぶことの多い古寺巡りであった。長崎にお寺巡りということ自体特異な企画でもあり、それが為に二の足を踏んでお越しにならなかった方々もあったのではないか。しかし、そのような場所であるが故に知られざる歴史があり、今回も現地に行ったからこそ見聞できたことばかりであった。特にからゆきさんのことを知れば知るほどに私たち日本の今日の繁栄もそうした隠れた歴史の中で名も知れず消えていった人々の悲しみのうえにあることも知らねばならないであろう。そうした歴史を知ることによって、私たちは、身に抱えた差別意識、偏見を修正していくことにもつながるのではないかと思えた。

この度も企画添乗で大変お世話になった倉敷観光金森氏、また各地の石段もいとわずによく参拝された同行13名の皆様、各地にてわがままな要望を聞き入れて下さり、ご案内下さった皆様にも感謝申し上げます。ありがとうございました。


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吉野と飛鳥の古刹巡り2-日本の古寺めぐりシリーズ番外編

2012年06月06日 17時32分45秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
これより少し前の時代に遡って当時の国際情勢から話を始める。日本が百済と連合して唐新羅連合軍に負けた白村江の戦いが西暦663年である。当時唐は強大化して次々に国土を拡げていた。敗れた天智天皇は、唐を敵に回しその侵攻におびえて山城を造るなど防備体勢を整えていった。高句麗はその後連合軍に滅ぼされてしまう。すると、半島は新羅だけとなり、新羅は唐と対立関係となり抵抗運動を始めた。

そうなると、日本としたら新羅と友好し、唐の日本侵攻を防ぐ必要があった。しかし、その機にあたって唐は日本との同盟を望んだ。そして、滅亡した百済から渡来した有力者たちを登用した天智天皇は新羅を敵視し、唐との同盟を考えた。しかし、その異父兄で実力者だった大海人皇子は、それでは新羅なきあと唐に日本は侵攻され尽くしてしまうと考えて、新羅との同盟を選んだ。そしてそのことが壬申の乱(672)にいたる伏線となり天智天皇が不慮の死を遂げ大友皇子は自害して天武天皇が誕生していく。このくだりについては『逆説の日本史2』井沢元彦著に詳しく語られている。

そして、この壬申の乱に至る時期に大海人皇子はこの地吉野に来たって、土地のおびと井氏(井角乗)と会い、また、井氏の師であった役行者とも遭っている。日本書紀には天武天皇は、「雄々しくたけく天文遁甲を能くしたまえり」とあるという。遁甲とは忍法であり、身を隠す術と註があるという。その力をいかにして体得するに至ったのか、それこそがこの大峯山系・吉野での山林修行であったと言えようか。

天智十年(671)金峯山寺蔵王堂の南に位置する日雄寺(今の大日寺)の庭で、大海人皇子が琴を奏でていると、羽衣(唐玉緒)を纏った天女が現れ、袖を振りながら五色の雲に乗って山高く舞い上がったと言われ、この時皇子が詠んだ歌が「おとめごが おとめさびしも 唐玉緒 たもとにまきて おとめさびしも」(日雄寺継統記)だという。そして見事その時の戦勝祈願が通じて壬申の乱に勝ち残り、飛鳥の浄御原で673年即位。

(Wikipediaより転載)
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。(転載終わり)

そして、親政が落ち着きを見せた頃、全国社寺修築令を発せられ、この地にあっては、壺中天琵琶山、今の天川村坪内に堂宇を建てて弥山山頂に祀る金精明神が化生したとされる天女を麓に移し大神殿を造営して吉野の総社としたという。天武九年(680)のことであった。と同じ頃、大峯山系の入り口になる金峯山に蔵王権現を称える蔵王堂が建立される。こうして水銀朱丹文化の風土の地であり、その他にも貴重な資源金銀鉄などの原鉱石を奥吉野一帯に求めつつ、神仏を両だてにした信仰を育む土地として一国家として誠に重要な位置を占めていたと言えよう。

そして、南北朝時代には南朝宮が置かれたところでもある。今の吉水神社はもと僧坊であったが、後醍醐天皇が朝廷を開かれ南朝皇居となった。その時沢山の密教僧が随順しており、護持僧だった弘真はじめ、弟君大覚寺門跡性円、醍醐寺顕円、実助などが吉野に参じて住している。吉水神社には今も当時の玉座が残され、後醍醐天皇を祀る。後醍醐天皇の陵は如意輪寺にあり、また吉野神社も後醍醐天皇を祭神とする。

また天河は南朝最後の後亀山天皇が最後まで留まった地であり、天河社には御所が置かれ南朝最後の砦であった。後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶ちょうけい天皇、後亀山天皇を養護しこの天河郷は南朝奥吉野の拠点であった。南北朝の講話へ行幸されるにあたっては天川村から京都大覚寺へと向かわれたという。その時お供は、延臣十七名、侍十六名、郷士十名というわびしい限りだったと言われる。



天河弁財天
(天河大弁財天社ホームページから転載)http://www.tenkawa-jinja.or.jp/top/index.html

 多門院日記に、「天川開山ハ役行者-マエ立チノ天女ハ高野大清層都コレヲ作ラシメ給フ」というのがあります。これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。

その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。

更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。

天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。

このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。

又琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。

五十鈴(いすず)は、天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器で、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられています。

特に芸能の世界にいあっては天宇受売命にあやかって、殊の外御精進あそばされる方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)は、同床共殿のあり方と精神にてこれを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされますことを切に祈るものであります。この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、●「いくむすび」●「たるむすび」●「たまめむすび」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。

この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてきます。特に芸術・芸能の世界で精進される方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)が、天宇受売命の故事にあやかり、これを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされております。

天河社と能。天河社に能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、過日アメリカメトロポリタン美術館で催された「日本桃山美術展」へも、数点が出品され国際的にも人々の人気を集めました。能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。

そのうちの一、二を紹介しましと能楽の創始者世阿弥も使上したと思われる、「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った猩々面、長谷寺所蔵のものと一対になっているといわれる「三番隻」・「黒色尉」又能装束には文禄三年三月豊太閤が奉納したといわれる絢爛豪華な唐織などがあります。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。

(転載終わり)




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吉野と飛鳥の古刹巡り-日本の古寺めぐりシリーズ番外編

2012年06月05日 20時10分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月28、29と吉野と飛鳥にお参りする。番外編も6年目を迎えると行くところの選別に窮する。なかなか名案が浮かばす、とうとう神社、神社と言っても天河弁財天に参ろうということになった。弁財天は元々インドの神、サラスワティである。河の神であり、智慧弁才の学問の神。それが日本に来るとなぜか銭の神となって、弁財天。そして、天河と言えば大峯、そして吉野。日本の信仰の原点に参る旅となって飛鳥にも行く。楽しみである。

そもそものこの地の起こりから話を始めよう。太古、日本の草創にたち戻って、紀元前660年、神武天皇は日向の地から北上して宇佐に出て、それから安芸、吉備を経て、大和に入ろうとすると抵抗に遭い、それから熊野に迂回して、まさに大峯奥掛け道を八咫烏(やたがらす)に先導されて北上されたのではないか。そして吉野から飛鳥、奈良に出て長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築いて即位する。それが天皇の始まりであって、日本の建国(2月11日)ということになっている。

つまり日本の国の始まりがこの地を北上することによってなされたということであろうか。応神天皇、雄略天皇はこの吉野の地に狩猟に来られていたと日本書紀にあり、また欽明天皇14年(553)には早くも吉野寺(比蘇寺)本尊の阿弥陀像が光を放つという伝承が書かれており、かなり早くに神社やお寺があり、また吉野宮と言われる離宮があったとされている。すこし後のことではあるが奈良時代の初めに僧尼令ができて、僧侶が山岳修行を願い出て許可されて向かった先がこの比蘇寺であったという。そこでは虚空蔵求聞持法が修されたという。

離宮・吉野宮への行幸は、応神天皇、雄略天皇の時代にもあったと古事記にはあるというが、造営されたのは斉明天皇2年(656)という。その地は吉野川の北に位置し、吉野町宮滝にある宮滝遺跡であるとされ、この地は中央構造線上にあり、水銀鉱脈が豊富なところでもあった。

古代においては、水銀や辰砂(鮮血色をしている)はその特性や外見から不死の薬として珍重されたという。特に中国の皇帝に愛用され、不老不死の薬、「仙丹」の原料と信じられていた。それが日本に伝わり飛鳥時代の持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされる。この地吉野郡には水銀を精錬する風炉のある土地であったことを示すフロのつく地名が沢山ある。フロヤシキ、フロマエ、フロウエ、フロナワテ、など。水銀精錬に関わる土地であったとされ、丹生川流域は古来水銀文化発祥と言われる。

東大寺大仏鋳造にあたって使用された水銀の量は金の五倍といわれ、金メッキは金アマルガム(水銀と他の金属との合金の総称)を大仏に塗った後、加熱して水銀を蒸発させることにより行われた。一説には、この際起こった水銀汚染が平城京から長岡京への遷都の契機となったという。だから当時水銀はかなりの需要があったらしい。丹砂(たんしゃ、水銀を取る原料、辰砂しんさ、朱砂しゅさともいう)、赤埴を原料として水銀を吹き分け、水銀、朱などの赤色顔料、黒鉛、ベンガラと呼ばれる鉛朱などが精錬された。

(原田 実の幻想研究室―私の研究室にようこそ―より転載)
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kaguyahime4.htm

丹砂とは、硫化水銀のことです。粉末の硫化水銀は鮮やかな朱色で染料にも用いられますが、簡単な操作で銀白色に輝く金属水銀にも、赤い酸化水銀にも、黒色の硫化水銀にも白い結晶の硫化第二水銀にもなるということで、変幻自在の仙人になる薬にふさわしいと思われたようです。また、純度の高い金を作るには、いったん水銀で溶かすアマルガム法が有効だということもあり、丹砂と金はセットで仙薬の原料によく用いられました。(中略)

中国神仙道の錬丹術は錬金術でもありました。神仙を志す道士は仙薬に必要な金を作り出す技術を誇っていましたし、それが不老不死ばかりではなく、富としての黄金を求めるスポンサーを釣るための宣伝にもなっていたのです。西洋中世の錬金術でも、金以外の金属を金に変成させるという「賢者の石」は人間をも不死にする力があると信じられていました。二〇〇一年度の大ヒット映画『ハリー・ポッターと賢者の石』もこの「賢者の石」による肉体変容を隠れたテーマとするものです。

ただし、錬金術としての神仙道では、この「賢者の石」にあたるものとして、丹砂を用い、さらにその作用で生まれた黄金までを薬として服するわけです。日本列島には水銀鉱脈が多く、古くは魏志倭人伝の時代から平安時代末まで中国に丹砂を輸出していました。ところが時代が下るにつれて生産が減り、江戸時代には水銀加工技術そのものが途絶えてしまいました。これは鉱脈が尽きたわけではなく、水銀の加工技術が宗教的・呪術的な秘伝だったために武家政権の宗教統制で技術伝授が困難になったためと思われます。

丹砂の鉱脈を探し、それを加工して金属水銀や丹薬に変える技術は日本では修験者の間に伝えられていました。いわば修験道は日本化した神仙道でもあったのです(内藤正敏『ミイラ信仰の研究』大和書房、一九七四、松田寿男『古代の朱』学生社、一九七五、若尾五雄『鬼伝承の研究』大和書房、一九八一)。水銀鉱脈を探す人々は、見つけた鉱脈に水銀の女神であるニウヅヒメを祭り(ニホツヒメ、ミホツヒメ、ミヅハノメの名で祭られることもある)、あるいは「丹」にちなんだ地名を残しました。

丹波の国名もまた無関係ではなく、京都府竹野郡丹後町岩木にはミヅハノメを祭る丹生神社が鎮座ましましています。また、亀岡市にある丹波一ノ宮「元出雲」出雲大神宮の主祭神はミホツヒメです。薬方をつかさどる丹波家がこの地方に居を構えたのも薬の原料としての丹砂の有用性と無関係ではないでしょう。(中略)

水銀の無機化合物をごく微量、正しく使えば殺菌や新陳代謝促進といった薬効が期待できます。年配の方には懐かしい消毒剤の赤チンキはその代表でした。しかし、水銀化合物は毒性が強い危険な物質でもあります。だからこそ、現在では赤チンキの製造・使用は禁じられているのです。
丹砂から作った薬を大量に服用していれば、やがては幻覚が見えるようになります。

神仙道の伝承には丹薬を用いて、神仙の飛来を迎えられるようになった道士がしばしば出てきますが、それは水銀中毒による幻覚だった可能性大です。また、食事から五穀を絶って、丹薬を飲み続けていれば、水銀化合物の防腐・殺菌作用で死後、その遺体が腐りにくくなります。神仙道では、死後も遺体が腐らなかった人は屍解仙、すなわち仙人になったとして尊ばれました。また、日本の修験道における即身仏でも、丹薬を服して、あらかじめミイラになりやすい体質にしていたと思しき例があります(内藤正敏・松岡正剛『古代金属国家論』工作舎、一九八〇、内藤『ミイラ信仰の研究』前掲)。

しかし、体質が変わるほど、丹薬を飲み続けるということは、水銀中毒による緩慢な自殺であり、その症状は苦しいものだったことが推定されます。しかも、中国では歴史上多くの権力者が不死を望んで丹薬を服していました。中国史にしばしば現れる暴君・昏君の蛮行・愚行には、水銀中毒の結果によるものも含まれていたことでしょう。ところが日本では、天武天皇のように丹砂の呪力を祭祀に用いようとした天皇・皇族はおられたものの仙薬として服することはありませんでした。天武天皇は晩年、延命のための薬を求めたと『日本書紀』にありますが、それは植物性のオケラ(キク科の多年草)で丹薬ではなかったのです。

(転載終わり)

高野山開創にあたっては、弘法大師も丹生都比売を祀り、丹生都比売神社が今も残る。

そしてこの宮滝の離宮からは、大峯山系の円錐形をした青根ヶ峰が望むことができ、それこそは水分(みくまり)山という四方に川が流れ出す水源信仰の地であり、その中腹には元の吉野水分(みくまり)神社が鎮座し、斉明天皇から聖武天皇に至る歴代天皇が全国土の風雨順時五穀豊穣を祈願したところなのであった。

そして特別この地が信仰の地となるのには、勿論この地が古くから神仙境として思われていたからであり、吉野行幸に同行した官人の漢詩『懐風藻』に多くの作品が残されている。神仙の住処として崇められた地へ分け入り修行する人たちのことを験力を修めた者として修験者、また山に伏して修行することから山伏と言われた。

熊野から吉野にかけての大峯山、羽黒山から湯殿山にかけての出羽三山、英彦山、葛城山、日光山、富士山など多くの霊場が今に至る。それら修験道の開祖と仰がれるのが役行者、役小角である。今の奈良県御所市茅原村に七世紀に生誕し、30年にわたり山に入って藤皮の衣を着て松葉を食し花の汁を吸って孔雀明王の呪を誦して山野を跋渉して大験自在となって鬼神を使役したという。今も「南無神変大菩薩」と唱えられるように、摩訶不思議な超能力を身につけておられたのであろう。

諸国の神を使い、葛城山と金峯山に橋を架けようとして、葛城山の一言主神が夜しか働かないことを諫めると役行者が天皇を退けようとしていると讒言され、役行者は伊豆に流される。その間夜は富士山に行って修行していたところ、いざ処刑というときに、富士明神による『行者は賢聖である』との表文が処刑人の剣に現れて赦され、その後唐に渡り、法相宗の道昭が唐に渡り法華経を山寺で講じていると現れて、「三年に一度は日本に行って金峯山葛城山富士山に登拝している」と語ったと言われる。

役行者が吉野で感得した神が蔵王権現であり、金峯山に祀られていることは有名であるが、それよりも前に霊峰大峯山を開山し、真っ先に祈り出されたのが天女・大峯の地主神である金精明神(天河弁財天)であるという。役行者は、我が国の能化として山王蔵王権現を、そして、地鎮として地主神金精明神を祀り、大峯信仰を貫く二本柱として一山の信仰を確立したのであった。

そうしてその頃この地を訪れるのが後の天武天皇・大海人皇子であった。


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日本の古寺めぐりシリーズ第11弾 比叡山延暦寺三塔巡り

2011年11月25日 14時23分18秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
来月1日と6日に比叡山にお参りする。このシリーズ始まってからの念願の寺院でもある。各宗派沢山のお寺にお参りしてきたが、やはり日本仏教の母山と言われる比叡山に参らずには話が始まらない。これからも参詣を続ける上でも意味ある今回の古寺めぐりとなるはずである。比叡山の概略をここで振り返ってみたい。

比叡山延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。山号の比叡山は、叡山(えいざん)と呼ばれ、平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称される。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。

百人一首や愚管抄の著者で有名な慈円は、九条兼実の弟で天台座主になり、親鸞聖人の得度の師でもあるが、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と詠んだ。それは比叡山延暦寺が、世界の平和や人々の平安を祈り、かつ国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからである。

また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた琵琶湖を擁し、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地であり、このような美しい自然の中で、1200年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されている。

歴史

比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であり「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていた。東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄和尚(766~822)である。

最澄
最澄は、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた。15歳の宝亀11年(781)、近江国分寺の僧・行表のもとで出家得度、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(786)、奈良の東大寺で具足戒を受け、官僧となった。

青年最澄は奈良の大寺院での地位を求めず、自らの出生祈願を父親がなした比叡山にこもって修行と経典研究に没頭した。最澄は数ある経典の中で法華経の教えが最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を研究した。

延暦7年(789)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後弘仁14年(824)のことであった。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に盛んになった。この頃最澄は皇室の仏事に執行する「内供奉十禅師」の一人となる。

延暦21年(803)、最澄は還学生として、延暦23年(805)、遣唐使船で唐に渡る。最澄は、天台山に向かい、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。

また、帰朝間際に、越州(紹興)の龍興寺で順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えたのが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合仏教学問所としての性格を持っていた。後に延暦寺から各宗の宗祖を輩出した因がここにある。

大乗戒壇の設立
延暦25年(806)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけた念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧の養成を可能とすることになる。

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏することができるとしたので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じ、比叡山で後進の指導に当たらせ、また日本各地で仏教界の指導者として活動させたいと主張した。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。慈覚大師円仁(794 - 864)と智証大師円珍(814 - 891)は唐に留学し多くの仏典を将来、天台密教の発展に尽くした。

しかし、のちに比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになる。正暦4年(993)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)は対立抗争し、抗争に参加し武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。

円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)が延暦寺中興の祖として知られる。火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。

また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

比叡山で修行した著名な宗祖としては、法然、日本の浄土宗の開祖。栄西、日本の臨済宗の開祖。慈円、歴史書「愚管抄」の作者、天台座主。道元、日本の曹洞宗の開祖。親鸞、浄土真宗の開祖。日蓮、日蓮宗の開祖がある。

武装化
その後、延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿をかついで強訴するという手段により、時の権力者に対し自らの言い分を通した。また、祇園社(今の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下にあった。1070年には祇園社は鴨川の東側の広大な領地を所有し、朝廷権力から承認された無縁所となっている。

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力とは治外法権となり、一種の独立した状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び、南都北嶺と言われた。

武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教(よしのり)である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗して将軍となって後は比叡山と対立。永享7年(143)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。

これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺したと言われる。同年8月、将軍義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置したという。

なお、義教は延暦寺の制圧に一時的には成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化していった。戦国時代に入っても延暦寺は独立した状態を維持していたが、明応8年(1499)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持って立ちはだかることが天下統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き払った。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が焼け死んだ。この叡山炎上は、京の街からも比叡山が燃え上がる光景がよく見えたとと言われる。また、記録によれば、この時多くの居ないはずの女、子供が逃げだしたとされているが、これは山麓の坂本の諸堂も炎上したため町屋に住む人々が皆逃げた光景からいわれたものとも言われる。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。しかし、家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、皇室から座主を迎え法親王として江戸寛永寺に滞在するなど天台宗の宗務の実権は江戸に移った。

現代
昭和62年(1987)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦猊下の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。

平成10年には、私のインドの師ベンガル仏教会総長ダルマパル師が招待され、開会に先立ち三帰五戒をパーリ語でお唱えになった。このあとダルマパル師は、東京浅草の浅草寺にお参りになり、そこで私も合流し、普段は入れない伝法院で貫首様と現天台座主半田猊下ともご一緒に親しくお茶席に侍ることが出来た。

半田猊下はいつもにこやかに和やかな雰囲気を醸し出されていたことを記憶している。平成21年には高野山に天台座主としてはじめて参詣され松長高野山管長とも親交を温められているばかりか、今年9月15日には石清水八幡宮の放生会に140年ぶりで導師をお勤めになられ僧侶が出仕した法要をなされている。誠に懐の大きな天台座主らしい座主様である。そんなところからも今回の比叡山参詣は私にとっても誠に感慨深い参詣となるはずである。

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東大寺二月堂・お水取り参拝

2011年02月23日 08時02分45秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
3月2日と8日に朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職と行く特別企画・東大寺二月堂修二会と奈良公園フリータイム」で、東大寺二月堂の修二会の法会に参拝する。毎年恒例のこの行事が終わると奈良にも春がやってくると言われる。いろいろな意味で今日注目を集めるこの行事は、一度も途絶えることなく1260年もの長きにわたり行われているが故にその無形の存在感、有り難さを私たちに誇示しているかのようにも感じる。

東大寺二月堂修二会(しゅにえ)とは
この行法は、もともとは旧暦の2月1日から2月14日まで行われていた行事で、2月に行われるので修二会という。正月に行われる法会は修正会と言われる。現在は太陽暦を採用して、3月1日から3月14日まで二月堂で行なわれている。東大寺二月堂の修二会は、本尊十一面観音に、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い懺悔(悔過)し、一般の人々に代わって苦行を引き受ける者として苦行を修し、国家安泰と人々の幸福を祈る法会である。俗にお水取りとよばれ、今年で1260回目となり、開行以来一度も途絶えたことがない「不退の行法」。

由来
天平勝宝3年(751)10月、東大寺開山の良弁僧正の高弟・実忠和尚が奈良の東、笠置寺で修行中、山中竜穴を見つけ北に一里ほど行くと、兜率天の世界があり、様々な内院を参詣していると常念観音院で、多くの聖衆が仏前に懺悔する悔過の行法をしていた。すると中央に生身(しょうじん)の観世音菩薩が出現されたので、実忠は感激し、聖衆に是非ともこの行法を下界に持ち帰りたいと希望した。

しかし、兜率天の一日は人間世界の四〇〇年に相当し、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かり、それに生身の観音も必要だから諦めよ、と言われたが、実忠は千べんの行法と言えども走ってやれば数を満たし、また、誠をつくしてやるなら観音も出現されようと食い下がり、大仏開眼の二ケ月前、天平勝宝4年(752)2月1日二月堂で修二の悔過を修したのが、東大寺二月堂「修二会」の始まりとなった。

二月堂のこと
寄棟造、本瓦葺の大きな東大寺二月堂は、年治承4年(1180)12月平重衡による奈良責めの兵火では炎上を免れたが、寛文7年(1667)2月14日未明「噠陀」の残り火で全焼し、現在の建物は、寛文9年(1669)奈良市出身の隆光大僧正の勧めにより犬公方・綱吉の母・桂昌院の寄進によって、東大寺の大仏殿を再建する公慶上人が再建。

二月堂の本尊は、2躰の十一面観世音菩薩で、二体共に絶対秘仏。厨子内の小観音は、約7寸で、この仏様は笠置山で兜率天へ行き、生身の十一面観音をご覧になった実忠和尚が、どうしてももう一度、観音様に会いたいと思い、摂津の難波津へ赴き、香華をそえて折敷(おしき、仏に供えをする盆)を海に浮かべ、南方の彼方にあるという補陀洛山に向かって手を合わせ、一心に観音を勧請したところ、折敷は南へ向かって漂っていた。そうして百日ばかり実忠が毎日熱心に拝んでいると、ある時、海の彼方から7寸ばかりの十一面観世音菩薩像が折敷に乗り来たった。実忠和尚が早速手に取って拾い上げるたら観音に人肌の温もりがあったので、これぞ生身の観音であると喜んだという。

準備
修二会には11人の僧侶が出任する。この11人を「練行衆」という。12月16日良弁僧正を祀る開山堂で東大寺別当より練行衆11名が発表される。 行衆の内訳は、一同に修二会中守るべき戒を授ける和上。修二会の趣旨や祈願文を唱え、行法全般の主役となる大導師。印を結び陀羅尼の咒(しゅ)を唱え道場を結界する咒師(しゅし)。堂内の荘厳係兼行法の進行係であり、修二会内外の雑務を総括する堂司(どうつかさ)の上位四人を四職(ししき)と呼び。残りの人が平衆(ひらしゅう)。この他、様々な補佐として練行衆一人一人に付く童子など法会に関わる人は総勢三〇数名となる。練行衆と三役は、2月26日の総別火~3月15日の満行まで外出が禁じられる。

別火
修二会は大きく分けて、2月20日~28日までの「別火」と呼ぶ「前行」と、3月1日~14日までの「本行」に別れ、「別火」とは、日常使っている一切の火と別れるためこの名がついた。まず、手向山八幡宮の宮司が練行衆の別火坊入りや参籠宿所入りに先立って台所・仏餉屋(ぶっしょうノや)、浴室・湯屋のかまどの清祓を行い、火のまわりを清め、若狭井(わかさい)や良弁杉(ろうべんすぎ)に掛ける注連縄に挿す幣を作る。

2月20日夕刻から練行衆が普段の生活で用いる火を断ち切り、堂童子が法会の始まりに当たり新しく燧石(ひうちいし)を打って起こした火で灯した浄火だけを用いて、精進潔斎し、心身を清める為、東大寺の戒壇院に臨時に設けられた「別火坊」へ集まり、入浴の後、運び入れた持ち物一切、並びに常に心に持っている貧欲、嗔恚、愚痴による三毒を吹き払う為、祝詞様の祓文を称え「別火入り」となる。

「別火」前半、20日~25日までを「試別火」と云い、別火坊で作った注連縄を束ねて輪にした「輪注連」を練行衆の自坊を始め、参籠する人々の門口、石灯籠など、二月堂を中心に決まった場所に注連縄を掛け、二月堂に結界を張り、清浄な場が作られる。そして、別火坊では、修二会だけで着る紙の白衣・紙衣(かみこ)の和紙を絞ったり、二月堂の須弥壇(仏様を安置する壇、仏教の世界観により頂上に帝釈天、山腹に四天王が住み、世界の中心に聳え高さ1億2千480万kmの須弥山を模した壇)を荘厳する。

華やかに飾ることで邪気を払う造花の椿(この時期本物が無いので、京都伏見の紅花で染めた和紙で作った椿)を須弥壇に飾る。これは二月堂の下の「開山堂」の境内に咲く奈良三銘椿(さんめいちん)の一つ良弁椿を模した物。練行衆によって2月23日「花ごしらえ」で400個ほど作る。

「別火」後半、26日~28日までを「総別火(そうべっか)」と云い、この頃になると、練行衆全員大広間に集まって起居寝食を共にし、茶湯を制限され、私語を許されず、厳冬でも火の気は廊下の火鉢の炭火だけ。2月27日「椿の花付け」で、造花を大小20本椿の枝に付ける。また、二月堂でのみ履く差懸(さしかけ、音が出る様に松で作る歯の無い下駄)を整え、27日「粟飯(あわノい)」で粟粒を滑らない様に差懸の2箇所に焼き付ける。

また、別火中の大事は、声明の稽古で、練行衆は毎晩読誦し、最後の日に暗記し、声が腹の底から出るよう励むという。また法螺貝の吹き合わせ。そして、別火最終日2月末日、「別火」から「本行」へ移行する為、香薫(こうくん)の行事により練行衆は持物を全て香で清め、午後3時過ぎ、戒壇院から二月堂下の参籠宿所へ移動する。夕刻暗くなってから食堂前で、練行衆が咒師により大中臣祓(おおなかとみノはらい)という祓詞(はらえことば)が、神様に遠慮をして袈裟を少し外し唱えられ、練行衆を祓い清める。そして、咒師がその直後結界を作って、堂童子が童子を伴って登廊の入口に注連縄を張り渡し、行法を妨げる鬼の進入を防ぐ。

本行
3月1日午前0時、二月堂の静寂な暗闇の中、堂童子が石を擦って火花を飛ばして、「本行」が開始する。極わずかな仮眠をとった練行衆が深夜に起床し、参籠宿所横の食堂(じきどう)で和上から「授戒」を受け、直ちに童子の持つ松明で足元を照らされ練行衆が二月堂へ登り、堂内を荘厳して、2週間に及ぶ「本行」の最初の行「日中」が勤められ、これを「開白」と云う。

本行は、二七日(にしちにち)六時の行法と云われ、一日六回の法要を二週間続けるが、前半3月1日~7日までの「上七日(じょうしちにち)」と、後半8日~14日までの「下七日(げしちにち)」に分けられ、一日に13時頃の日中(にっちゅう)、13時半頃の日没(にちもつ)、19時頃の初夜(しょや)、22時頃の半夜(はんや)、23時頃の後夜(ごや)、24時頃の晨朝(じんじょう)と六度の行が行われる。「六時の行法」という。それぞれ、散華行道や称名悔過(しょうみょうけか)、五体投地等の激しい所作を伴う極めて動的な行法である。

「六時の行法」での経文は、1.三礼文(さんらいもん)2.供養文(くようもん)3.如来唄(にょらいばい)4.散華(さんげ)5.呪願(しゅがん)6.称名悔過(しょうみょうけか)7.宝号(ほうごう)8.観音要文(かんのんようもん)9.五仏御名(ごぶつごみょう)10.大懺悔(おおさんげ)11.小懺悔(しょうさんげ)12.破偈(はげ)13.後行道(ごぎょうどう)14.廻向文(えこうもん)等からなる。三礼文は、日中と日没にのみ唱えられ、10の大懺悔と11の小懺悔は、初夜と後夜にのみ唱え、「法華経」から抜粋された「読経」も加えられる。

神名帳(じんみょうちょう)
修二会では経を唱える十一面悔過の他に、毎夜19時の「初夜」に神名帳の奉読がある。神名帳には日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれおり、それを読み上げて修二会を参詣せよと神々を勧請し、19時頃の「初夜」と23時頃の「後夜」に大導師の祈願と咒師の四王勧請が行われる。大導師の祈願は、国家の安全、世界の平和、人類の幸福を祈る作法で、咒師の四王勧請は、大導師の祈願を完全なものとする為、金襴の帽子を被り、金剛鈴を振って、内陣の須弥壇の回りを差懸で床を踏みしめて廻り、大音声に四天王とその眷属を勧請する。

お松明
「初夜」に先立ち、3月1日~11日と13日の19時、12日は19時半、14日は18時半頃、練行衆が屋根の在る登り廊(北石段)を上がる時、足元を照らす大松明が焚かれる。これを「松明上堂」と云い、練行衆11人の内1人は松明を焚かず、一足先に本堂へ上がって掃除をされるので、松明は下座の練行衆から順に10名分10本、間をおいて上堂する。

3月1日~13日は、上堂時に松明が回廊に1本ずつ上がり、向かって欄干の左角から突き出して振られ、その後、童子が振り回しながら右へ移動して、また、欄干の右角から突き出されて振られた後、お松明は回廊を右へ廻って消され、そして、次ぎのお松明が上がるので、全てのお松明が上堂するのに30分以上掛かる。ただ、3月14日は、18時半頃から練行衆10名が10本のお松明と共にいっぺんに上堂するので、上堂すると本堂の舞台の欄干上に10本全てのお松明が並んで振り回され、5分ほどで終わる。

12日の夜には、特大の大松明が焚かれる。孟宗竹の先に杉枝を薄い杉板で駕籠の様にして包み、藤蔓(ふじづる)で縛った「籠(かご)松明」。普段の2倍80キロもあり、この日は一度上堂した処世界役が本堂から下りて、再度の上堂に籠松明が焚かれるから、11名分11本の籠松明が焚かれる。童子により作られた大松明が修二会で焚かれ、二月堂の欄干から振り廻されると一斉に怒濤の歓声が上がり、火の粉を被ると一年間無病息災と言われる。

このように修二会には沢山の準備すべき物があり、それらは二月堂本尊十一面観音菩薩を信仰する沢山の人々によって支えられている。大阪、滋賀、三重、奈良、京都の四〇余りの講組織の人々がいて初めて大がかりなこの行事があるという。松明の材料は京田辺の「山城松明講」による青竹で、また、藤蔓は「江州一心講」により信楽の川縁(かわべり)で採り、芯の「松明木」は三重県名張市赤目一ノ井の「伊賀一ノ井松明講」から東大寺へ送られる。また神衣の材料となる仙花紙は「大阪御正躰観音講」による。

過去帳
修二会では、毎夜の行法の他に幾つかの付加儀礼がある。5日と12日の「初夜」、22時頃に奉読される「過去帳」もその1つ。声明風の節を付けて唱えられる我が国最古の過去帳は、東大寺に功績のあった「大伽藍本願聖武皇帝」を筆頭に、「聖母皇太后宮(聖武帝の母、藤原宮子)」、「光明皇后」、「行基菩薩」、女帝「本願孝謙天皇」、藤原「不比等右大臣」、橘「諸兄左大臣」、インド僧「大仏開眼導師」、「真言宗を興せる根本弘法大師」などの名もあるという。

その後「二月堂縁起」「能」で有名な「青衣(しゃうえ)の女人」の名が唱えられる。元は呼ばれていなかったが、1210年頃(承元年間)の修二会で集慶と云う練行衆が過去帳を読んでいると、目の前に青い衣の女人が忽然と現れ、「なぜ我が名を読み落としたるや」と恨めしげに云ったので、とっさに着衣の色を見て「青衣の女人」と読上げると、にっこり笑って掻き消えたという。それ以後必ず呼ばれているが、その女人が何処の誰なのか、不明という。 なお、「青衣の女人」の後、別当延杲(えんごう)大僧正の次に読み上げられる、「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」とは、平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧、俊乗房重源上人のことである。

走りの行法
3月5日、6日、7日と12日、13日、14日それぞれ「半夜」の後、23時頃に、二月堂内を練行衆が息せき切って全力疾走でバタバタと走り廻る1日千遍の「走りの行法」が行われる。これは、兜率天の1日(人間世界の四〇〇年)に少しでも近づき追いつく為で、練行衆は袈裟や衣をたくし上げ、差懸(さしかけ)を脱いで、内陣の中央に置かれた須弥壇の回りを走り廻る。最後に、内陣の手前にある礼堂で、座布団の上へ膝からバタンと膝を打ち付け五体投地をして自席に帰る。最後に末座の練行衆が終わった後、堂司から一滴の香水が施される。

お水取り
付加儀礼で最も有名なのが12日「半夜」の「走りの行法」後、「後夜」で行われる「お水取り」。正確には13日午前1時半頃行われ、二月堂の本尊で秘仏「十一面観世音菩薩」に供える閼伽(仏に供える香水)を「二月堂」下に建っている国重文「閼伽井屋 (あかいや)」の若狭井(わかさい)からを汲み取る行事。これが現在では「修二会」全体を現わす俗称のお水取りになっていて、二月堂との間を3往復して運ばれる香水は、内陣須弥檀の下に埋め込まれている瓶の中に納められる。

普段は水が全く枯れているのに、不思議な事に、3月12日深夜、「お水取りの儀式」の時だけ、若狭国(福井県小浜市)の遠敷(おにゅう)川の水が沸き出すと言われる。毎年3月2日若狭神宮寺の鵜ノ瀬で「お水送りの儀式」が行われる。若狭井の由来は、最初の修二会で、実忠和尚が神名帳を奉読し、全国津々浦々の八百万ノ神、1万5千を二月堂へ勧請したとき、神々が来堂し、行法を祝福したが、若狭ノ国の遠敷明神だけが日本海の沖で魚釣りをしていて、3月1日に東大寺へ来られず、修二会も後2日で終わろうとする12日にやっと到着した。そして、遅刻した詫びのしるしに若狭の水を献上しようということになり、二月堂下の大岩の前で一心不乱に折ると、岩が割れ突如白と黒の二羽の鵜が飛び立ち、泉が沸き出した。そこに井戸が掘られ、石で囲ったその閼伽井が「若狭井」と名付けられた。

噠陀
噠陀は、3月12日、13日、14日の23時頃から行われる「後夜」に行われる火の行法。噠陀とは、サンスクリット語「ダグダ」の地方語、パーリ語「ダッタ」で「焼き尽くされる」「滅し尽くされる」と云う意味。噠陀の行法は、練行衆が「火天役」と「水天役」の1対になり、踊る様に勤める。その間堂内に乱入しようとする鬼を追い祓う為、鈴、錫杖、法螺貝と太鼓の大音が発せられ、同時に堂童子が鐘を激しく撞くと、「火天」は内陣で人々の煩悩を焼き尽くさんばかりに大松明を振り回し踊る。相対する「水天役」は洒水と散杖を持って水を撒く幻想的な行法。

満願
修二会の満願は14日。正確には15日早朝、お釈迦様の命日で、涅槃経が唱えられ、午前4時「牛王宝印(ごおうほういん)」が赤衣をまとった堂童子により練行衆の額に押され、「満行下堂」となる。修二会には、平安時代に東大寺別当であった弘法大師も練行衆としで参加している。江戸時代に松尾芭蕉、小林一茶も拝観し、「法華堂(三月堂)」の「北門」をくぐり、左折した所にある「龍王之瀧」の前に芭蕉の句碑「水取りや こもりの僧の 沓の音」がある。この「お水取り」が終わると、水がぬるみ、大和奈良にやっと春が訪れると言われる。

なお、現在、奈良国立博物館では、特別陳列特別展としてお水取りの期間に合わせて、その歴史と信仰をたどる絵画や文書、実際に用いられた品物を展示している。二月堂縁起、二月堂曼荼羅、香水壺、香水杓など。是非ご覧頂きたい。

(なおこの記事作成にあたり、下記「奈良観光ホームページ」を参照させていただいた。是非ご覧下さい)
http://urano.org/kankou/index.shtml
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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 3

2010年10月28日 15時59分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
講堂
次に、金堂の北に位置する講堂は、大戒を得た初学者に共同生活をしながら仏道のあり方を習得させるための道場であった。平城京の中心政庁である東の朝集殿が移された建物で、当時の平城京の遺構として唯一のもの。正面九間側面四間で、本瓦葺き。平屋の入母屋造で、連子窓や扉が設けられるなど、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれ、その後も江戸時代、明治時代にも修理が行われた。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な建物。内部には、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。

6月6日にに開山忌が執り行われる。鑑真和上の遺徳を偲び、講師と読師が東西の登高座に登って舎利会が、また5月19日には中興忌に梵網会が行われる。

講堂本尊は、弥勒菩薩座像・重要文化財、鎌倉時代、木造。講堂の本尊で、高さ2.84m。構造は、寄木造りで、右手は施無畏、左手は膝の上に伏せている。目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、鎌倉時代の典型的な仏像。後背周辺には迦陵頻伽(極楽浄土で聞いて飽きることのない美声で法を説くという想像上の鳥)や飛天が配されている。

本尊右に持国天・重要文化財、奈良時代(8世紀)132㎝、木造。増長天と比較して、体躯の動きは多少ぎこちないが、細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がない。また、本尊左には、増長天・重要文化財、奈良時代(8世紀)128㎝、木造。創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれている。共に本尊を守護する。邪鬼を踏んでいるが、これは近世の補作。

戒壇
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所。最も神聖なる儀礼の場である。三重の石壇になっているのは、一切の悪を断ち、善を修め、これを己のためでなく人々に廻らすとの戒の精神を表している。創建時に築かれたとされているが、中世に廃され、その後石段のみ鎌倉時代に再興され、のちに徳川家綱の母桂昌院の寄進による大きな重層の戒壇堂が存在したが、きらびやかな荘厳具を盗みに入った賊に放火され、失われた。現在は、三段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれている。

鼓楼
金堂・講堂の中間の東側に建つ、二階建ての建築物。国宝、鎌倉時代、仁治元年(1240)。楼造・入母屋造・本瓦葺。名称は「鼓楼」となっているが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれる。外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、縁と高欄が取り付けられ、堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)が安置されている。

国宝舎利容器、鑑真和上請来の「如来舎利三千粒(にょらいしゃりさんぜんりゅう)」を収める「白瑠璃舎利壺(はくるりしゃりこ)」とそれを包む「方円彩糸花網(ほうえんさいしかもう)」、さらにそれを収める「金亀舎利塔(きんきしゃりとう)」で構成された唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物。

国宝・金亀舎利塔は、南北朝時代(14世紀)鑑真和上の渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきたとの故事にちなんで造られたもの。高さ92cm、総体が金銅の打物、台座となる亀形部は木胎に金銅板を被せたもので、白瑠璃舎利壺を収める軸部は蓮華唐草の透かし彫りになっている。

国宝・白瑠璃舎利壺。中国唐代(8世紀)鑑真和上が持って来られた、仏舎利を収めるペルシャ製ガラス壺で高さ9.2cm、胴径11.2cm。肩および底部に大きめの気泡が見られる淡黄色の厚手のガラス壺。口縁には金銅製の口金がはめられ、後小松天皇(在位1382-1412)などの勅封により厳封されている。

国宝・方円彩糸花網。中国唐代(8世紀)白瑠璃舎利壺を包んで保護していたレースと考えられている。紺、茶緑、淡茶、白茶等の絹の色糸で編み上げられ、形はほぼ円形で中央部に方形の文様が編み込まれている。技法などから唐で作られたものと考えられ、この種のものとしては最古。

礼堂
鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物。重要文化財、鎌倉時代、木造、入母屋造・本瓦葺。南側8間が礼堂、北側10間が東室。その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路になっている。講堂を挟んだ西側にも同様の建物があり、僧房として使われていた。礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部に釈迦如来立像(重文)・日供舎利塔を安置している。鎌倉時代貞慶上人が釈迦念仏会を創始してこの礼堂で毎年10月21から23日にかけて行われている。

御影堂
境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。重要文化財、江戸時代。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和38年(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。

鑑真和上像。国宝、奈良時代(8世紀)脱活乾漆(だっかつかんしつ)彩色。高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻。鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作。脱活乾漆は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞。弟子の忍基(にんき)が制作を指導したとされ、今も鮮やかな彩色が残っている。

東山魁夷画伯奉納障壁画。鑑真和上坐像が安置される御影堂内の襖絵。日本を代表する画家、東山魁夷画伯が、12年の歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作である。日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲(さんうん)」「濤声(とうせい)」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」「桂林月宵(けいりんげっしょう)」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光(ずいこう)」も画伯の作。一般公開は毎年忌日前後の6月5日から7日まで。

中興堂
御影堂の西に位置する祖師堂。寄棟造・本瓦葺。中興堂は、鑑真大和上の再来と謳われた大悲菩薩覚盛上人(1193~1249)の750年御諱(没後750回忌)を記念して建てられた。寄棟造で、平成11年に完成。覚盛上人坐像(重文)の他に、昭和の中興とも言われている第81世森本孝順長老坐像(現代・制作:本間紀男氏)も安置している。

覚盛上人座像。重要文化財、室町時代(1395年)木造、彩色。鎌倉時代の南都戒律復興の中核であった覚盛上人は、平安時代末に興福寺の実範が戒律復興を志し、その意志を継いだ貞慶上人が起こした興福寺成喜院で戒律研究をする研究生として教えを受けている。その仲間に後に西大寺を復興する叡尊上人もある。東大寺大仏前で自誓授戒の後覚盛上人は衰退していた唐招提寺に入り復興に乗り出す、しかし56歳で没したため、その後の実際の仕事は弟子の証玄が43年も長老として諸堂の整備、千僧供養を行うなど中興を成し遂げた。この像は壮年期の意志的な表情を見せている。戒律に厳しく、特に不殺生戒を堅持したと伝わるその人柄がよく表れている。像内の墨書から奈良在住の仏師の一人、成慶によって1395年に像立。

このほか、校倉造りの経蔵、宝蔵、また新宝蔵には破損した仏像、また、東征伝絵巻なども展示されている。そして忘れてはならないのが、鑑真和上御廟。御影堂の東にあり、奈良時代の名僧で墓がはっきりしているのは稀なことともいう。池に架けられた橋を渡って、石の柵に囲まれた円丘の上に宝筐印塔が建つ。鑑真和上の凜とした気風を感じつつ境内を散策しながら是非訪れたいものである。

戒律は仏教の寿命であり、戒律は宗派によらず、どの宗旨でもその前に初学として学ぶべきものであった。学ぶべき三蔵の中の律であり、修得すべき三学の中の戒であった。僧侶たるもの誰もがまずもって大切にすべきものを伝えてくれているのが唐招提寺であり、その大本を造られた鑑真和上の寺。栄枯盛衰を経ながらも今もその精神を大切に守るが故のその厳かな佇まいに、静謐さに、清らかな教えの精髄を感じ取りたいと思う。


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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 2

2010年10月27日 19時49分21秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
唐招提寺

唐招提寺は、律宗総本山唐招提寺が正式な名称。律宗は、奈良時代の南都六宗の一つで、六宗とは、三論、成実、法相、倶舎、華厳、律の六つ。 律宗は、唐から本式の戒律を伝えられた鑑真和上が開かれた宗派で、主に四分律という戒律を学び実践することを僧侶に学ばせるための教育機関であった。今では、この律宗と華厳、法相宗を残すのみとなった。唐招提寺は平城京の右京五条二坊という地にあり、同じ西の京にある薬師寺の北に位置する。境内およそ二万坪、当時は中程度の寺であった。七大寺に入らず十五か寺の一つ。末寺は30ほど。

開山の鑑真和上(688-763)は、唐の屈指の学徳兼備の名僧で皇帝から庶民に至る多くの信仰の対象であった。天台教学、南都四分律、さらには金剛智三蔵から金剛頂経系の密教を付法し一行禅師とは同門でもあり真言密教にも通じていた。にもかかわらず、日本から派遣された留学僧で、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)の懇願により自ら渡日を決意された。当時既に55歳。日本には仏教は伝えられても、僧侶たちの授戒を正式に行う機関が無く、税や労役を逃れるために僧侶になりすます人も多く、律令体制の維持のためにも国家機関としての授戒制度を確立する必要に迫られていたのであった。僧に大戒を授けるためには、三師七証という授戒が必要だった。

当初、栄叡、普照は鑑真和上に我が国への伝戒の師として弟子の紹介を懇請したが、航海技術の未熟な時代でもあり、また、不法出国となるなど誰も行く者無く、鑑真和上自らが日本へ渡航することなった。来日する予定のメンバーには僧、仏師、画師なども含まれた大団体であり、命がけの渡日のうえ、2度と故郷の地を踏めない恐れがある遠く離れた異国の地に、不法出国までして鑑真和上に随行したことは鑑真和上にそれだけの威徳があったということなのであろう。

鑑真和上の渡航歴は、以下の通り。①743年弟子僧の密告で失敗。②743年遭難・難破。③744年弟子僧の密告で失敗、栄叡官憲に逮捕されるが釈放。④ 744年弟子僧の密告で阻止され失敗。⑤748年台風に遭遇し海南島に漂着。⑥753年第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸す。渡日を決意してから実に12年目にして念願を果たす。

渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行動には官憲の目が光っているのにも屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じる事が分かっているのに意志を貫かれた鑑真和上の不屈の精神は想像を絶するものがある。度重なる渡航失敗にもかかわらずその都度、仏像、経典、仏具、薬品、食料品など我が国では得られない貴重な品々を用意し船に積み込んでいた。この間に鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に嘆願した栄叡が死亡、更なる6回目の渡航に挑戦され無事我が国に入国。普照は20年振りに無事帰国した。詳しくは、井上靖著「天平の甍」を参照されたい。

754年「聖武上皇」は、「いまより授戒伝律はひとえに和上にまかす」と曰われ、最初に東大寺大仏殿前の戒壇で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め多くの僧ら約400人の授戒が行なれた。東大寺の戒壇から離れた土地での受戒希望者のための戒壇を、東方には「下野(しもつけ)薬師寺(栃木県)」、西方には「筑紫観世音寺(福岡県)」に築かれて天下の三戒壇と呼ばれた。下野薬師寺は僧道鏡が左遷、観世音寺は、僧玄が左遷された地としても知られる。しかし、その後、平安時代には比叡山延暦寺に大乗戒壇が創設されて、三戒壇は有名無実化する。

朝廷は鑑真和上の偉大な功績に応えるべく鑑真和上のために天平宝字3年(759年)、官が没収していた新田部(にいたべ)親王の旧邸宅を下賜。純粋な律宗の研修道場とすべく、鑑真和上は「唐律招提」と名付けられた。唐は大きい広々したという意味で、招提とはインドの言葉で、四方からあつまる修行者に誰彼となく衣食を用意して学ばせるという意味。広く戒律を教える私寺ということから唐律招提と称されたのであろう。

鑑真和上が入寂されるまで金堂は建立されておらず、唐律招提のままであった。戒律を学ぶ道場としては講堂があればよく、平城京の朝集殿が下賜され講堂らしく改造、戒律を学ぶ講堂は朝廷から、食堂は藤原仲麻呂から、寝起きをする僧坊は藤原清河家から施入された。鑑真和上亡き後は弟子の義静、如宝が唐招提寺の伽藍の充実に尽力して、金堂、経楼、鐘楼、金堂の仏像などが整備され宝亀10年(779)に今寺になると言う記録がある。延暦24年(805)には十五大寺に加えられ私寺から官寺扱いとなった。 
 
まず境内には、 「南大門」から入る。これは、昭和35年の復元。「五間三戸」の横に大きな門で、創建当初入ると同等の大きさの中門があり、回廊が巡らされ、薬師寺と同じように複廊だったといわれている。中門は、地震により倒壊したまま再建されず。南大門から砂利を敷き詰めた参道を金堂に向かう。

天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけで、金堂と中に納まった9体の尊像すべてが国宝と言うのも唐招提寺だけという。金堂は天平時代では唯一の遺構という極めて価値のある建築である。10年という長い歳月をかけての解体修理が昨年終わったところでもある。鑑真和上と共に来日した如宝によって建てられたという。

金堂
正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示している。本瓦葺き。高い基壇の上に建ち、屋根の上に鴟尾を置く、向かって左の鴟尾は創建当時のものとして有名だったが、解体修理後、新宝蔵に移されている。

前面の吹き放ちの列柱はエンタシスの太い柱がやはり両端に狭められて立つ。天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる大仏壇という閉鎖された空間だったため、堂内で沢山の人が参拝する構造にはなっていない。簡単な法要や参詣者の礼拝のために吹き放ちの空間があるのであろう。

中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。金堂の本尊は、国宝・盧舎那仏座像。奈良時代(8世紀)、脱活乾漆、漆箔、像高は3.04m、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像。奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺のご本尊にふさわしい。また、背後の光背の化仏の数は、864体あるが、本来は1000体であったという。

後に述べる鑑真和上像で有名な脱活乾漆造りとは、粘土で芯型を作り、その上に布を張り漆で混ぜた香木の粉末泥で細部を仕上げ、乾き上がって後に内部の粘土を砕いて取り出し、形が歪まないように木枠を入れた手法で造ったものを言う。そして、最後に乾漆上に彩色を施して完成となる。大変手間が掛かりなおかつ金と同価と言われた純度の高い漆を多量に使うので費用を莫大に要する。天平時代には霊木信仰から一木造りの木彫仏が求められたため、一木造りでは巨像が出来ず、鎮護国家のための巨像制作には脱活乾漆造りが必要だったとも言えよう。

本尊、盧舎那仏坐像の向かって右側に安置される国宝・薬師如来立像、平安時代(9世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ3.36m。薬壺はない。本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられている。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像。昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代から平安初期の完成であることが明らかになった。

本尊、盧舎那仏坐像の向かって左側に安置される国宝千手観音立像。奈良時代(8世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ5.36m。丈八の大像。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせない。また、本来は1000本あったと考えられていて、この度の改修で千本に改められた。本当に千の手を持つ千手観音はこの像と西国五番の葛井寺の本尊のみ。全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的な御像。

金堂に祀られている盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当たらない三尊仏の配置で、天下の三戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野薬師寺」、中央の盧舎邦仏坐像は「東大寺盧舎那仏像」、西側の千手観音立像は「西方の筑紫観世音寺」を表しているのではないかと言う説もあるという。

国宝・四天王像、奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用、彩色、高さ1.85~1.88m。四天王は仏教世界を四方から護る護法神。本来は金堂の須弥壇の四隅に安置され、梵天・帝釈天立像と同時期、同一工房の作とされる。四像とも丸みを帯びた顔は、やや平板な目鼻立ちながら重厚な表情で、体つきは全体に力強い印象を与える。東南に持国天、東北に毘沙門天、北西に広目天、南西に増長天。

金堂本尊・盧舎那仏坐像の右に梵天、左が帝釈天。国宝・奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用 彩色。梵天はヒンドゥー教の最高神ブラフマーのことで、色界の初禅天の主。帝釈天はヒンドゥー教のインドラ神が仏教に採りいれられ、忉利天の主。ともに仏教の護法神として、一対で造像されることが多い仏像。両像とも鎧の上に裳(も)をまとい、沓(くつ)を履き、梵天は、さらに袈裟をつけている。大らかな作りの表情は、柔和な印象をたたえる。ともに、台座は蓮弁が下を向く、反花座。

金堂の天井画は華麗な装飾文様で文様の種類は多く見事な出来栄え。文様は金堂の内側だけでなく扉の外側にも華文様が描かれている。金堂の三尊像の光背が天井まで迫っており天蓋を設ける隙間が無く、そのため極彩色で装飾された天井全体を天蓋の役目にさせているのかもしれない。

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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 1

2010年10月26日 17時44分11秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
シリーズ第九回を数える日本の古寺めぐりシリーズ。今回は遷都1300年祭で賑わう奈良に向かう。メイン会場である平城宮跡地に、復元された朱雀門と大極殿。それらを中心に約800メートル四方の平城京の規模を想像しながら歩く遺跡公園は古代のロマンを今に感じさせてくれるであろう。是非この機会に奈良を訪れて欲しいものだが、今回の古寺めぐりでは、その様子を遠望しながら、この期間に特別開帳の香薬師如来が拝観できる新薬師寺とこの遷都1300年祭に間に合わせ昨年金堂の改修を終えた唐招提寺に参詣する。

新薬師寺

新薬師寺は、東大寺春日大社の1キロほど南に位置する華厳宗東大寺別院新薬師寺というのが正式な名称、山号は、奈良仏教のお寺にはない。お寺のある高畑町は、志賀直哉の旧宅が今でも保存されていて、その当時ではとてもハイカラな和風サンルームがあり、天井が化粧裏天井、床は禅宗様の瓦の四半敷で、このサンルームは文化人が集まる「高畑サロン」とも言われて武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、梅原竜三郎などの著名人が集ったという。今も閑静な住宅地である「高畑町」界隈は奈良らしい面影を留めているところでもある。

まず寺名の新薬師寺の「新」とは、西の京にある薬師寺に対するものではなく、新薬師寺は華厳宗、薬師寺は法相宗のお寺でもあり、この「新」とは新しいという意味ではなく、霊験あらたかなの新で、あらたかな薬師寺ということをまずおさえておきたい。

天平十九年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建され、天平時代には「十大寺」の一つに数えられた大寺であった。正面九間の金堂、東塔・西塔など七堂伽藍を備えた壮大な伽藍だったという。境内は四町四方、約20万平方メートルという広大な寺域を有していたが、平安初期、宝亀11年(780)の落雷や台風の被害で金堂が倒壊、次第に衰微した。しかし鎌倉時代には、春日大社奥に遁世した興福寺の僧・解脱上人貞慶、また高山寺の明恵上人により再興され、このとき、東門、地蔵堂、鐘楼なども建立され現在では重文に指定されている。徳川時代には寺領を百万石与えられるなど祈祷所として賑わいを見せたという。

つい二年前に新薬師寺の西150メートルの、現在奈良教育大学の構内の発掘調査で、奈良時代の巨大伽藍の後が確認されている。当時金堂は東西11間約54メートル、南北6間約27メートル、東大寺大仏殿に次ぐ規模であったことが判明している。随分横長の建物だが、金堂に安置された尊像は経典通りの七体の薬師仏にそれぞれ日光月光の左右の菩薩、それに十二神将の33体の仏像が祀られていたからという。  
 
現在の新薬師寺の伽藍は、南門を入ると正面に本堂、右に鐘楼、左に地蔵堂が目に入る。現在の本堂は、何堂だったかはっきりしないとのことだが、創建時の食堂ではなかったかと言われ、東西22.7メートル、南北14.9メートル。天平末の建立。裳階のない、単層でしかも窓がなく白壁の大きさが目立つ珍しい本堂である。扉は内開きで古代の様式。

また屋根は、天平時代の金堂は寄棟造だったが現在の本堂は入母屋造で、古代の仏堂では寄棟造が最高で格式のある仏堂の形式だったのが時代が下ると入母屋造が好まれた。勾配が緩い屋根と落ち着いた外観は典型的な天平建築である。またこの本堂の鬼瓦は、現存最古の鬼瓦と言われ、仏敵を威嚇するような面相ではなく愛嬌のある獣面。牙は見えるが角が生えておらず仏敵を威嚇するような恐ろしい面相でないことから、呼称は鬼瓦ではなく「棟瓦」とか呼ばれた時代の作品で、製作時期は天平とも鎌倉時代ともいわれている。

本堂の東側の壁にはステンドグラスが嵌められ、「東方の瑠璃光の光を浴びて下さい」と掲示されている。床の敷き瓦は、四半敷(しはんじき)で、壁の線に対して瓦の目地が45度の角度になるように敷き詰められている。敷瓦の並べ方は他に布敷(ぬのじき)というのがあって、こちらは壁の線に沿って交互に並べていく。平安時代には板敷き床が主流となる。

天井は珍しい化粧屋根裏で、天井を張らず構造を露出させている。化粧屋根裏天井の化粧とは木材をきれいに削り仕上げたということで彩色仕上げではない。化粧屋根裏天井の仏堂では我が国最大。

本堂の正面右の柱の上部に、徳川家の家紋「葵紋(あおいもん)」と桂昌院の実家本庄家の家紋「九目結紋(ここのつめゆいもん)」が描かれている。徳川綱吉の母「桂昌院(けいしょういん)」の寄進により、「薬師如来像」「十二神将像」などが修繕されたことを記念したもの。

本堂中央の円形の須弥壇は直径が9メートル、高さが90㎝、土製で漆喰仕上げが施されいる。円形の須弥壇は珍しく我が国では最大の大きさを誇る。

本尊、薬師如来坐像は像高191.5センチ。平安初期の作。国宝。丈六(240センチ)に満たないが、創建当初、金堂には薬師如来像が七体も安置されていたので丈六仏ではなかったことも考えられる。現在は光背の薬師如来六仏と合わせて七仏薬師を表している。榧(かや)の一木造。肌を漆箔で金色にしたり、本体に彩色仕上げの文様を施さない素木の像。素木の薬師如来像の制作は弘仁・貞観時代の主流であった。

右手は施無畏印、左手は与願印。施無畏印は衆生の恐れ、苦しみを取り除き、与願印は庶民のどんな望みでも叶えてもらえる印相であり、釈迦如来、阿弥陀如来像ともに使われた。そこで、見分けがつきやすいように平安時代から薬師如来像は薬壷を持つようになる。分厚い唇、太い頸、がっちりとした豊かな胸、太い腕、量感あふれる堂々たる体躯、白毫が無く、飛鳥時代と弘仁・貞観時代の一部に見られる。また目が大きく見開き、右手の掌が右に傾いているのもいている。他にはない珍しい薬師如来像である。

須弥壇の中央に本尊を祀り、それを囲繞するように我が国最大にして最古の十二神将像が安置されている。天平時代の作。十二神将は薬師如来を守護する眷属で、外側に向かって立ち、薬師如来を仏敵から守っている。像高は1.54から1.70センチで、等身大の十二神将像は新薬師寺像が最後でこれ以後は小振りの十二神将像となる。塑像造り。粘土で作られ、脆いうえ重量がある。写実主義の天平時代では多く作られたが、平安時代は木彫像が主となる。

十二神将とは伐折羅(ばさら)・阿儞羅(あにら)・波夷羅(はいら)・毘羯羅(びぎゃら)・摩虎羅(まこら)・宮毘羅(くびら)・招杜羅(しょうとら)・真達羅(しんたら)・珊底羅(さんてら)・迷企羅(めいきら)・安底羅(あんてら)・因達羅(いんだら)神将(大将)です。波夷羅像は補作であるので、波夷羅像以外の十一体の神将像が国宝。十二神将は干支の守り神でもある。同一のポーズがなく、衣装も変化があり、すべて各々の特徴を備え、かつ彩色文様を残している。特に、伐折羅大将は人気度が高く、奈良の観光ポスターや郵便切手にも採用された。

なお、境内にある鐘楼堂は、鎌倉時代、弘安二年の建立で、珍しい袴腰が設えられ、梵鐘は天平時代の貴重な重要文化財。日本霊異記に出てくる鬼退治で有名な釣鐘。地蔵堂は、方一間の仏堂で、鎌倉時代を代表する小さな仏堂建築物。十一面観音像が安置されている。また香薬師堂は今回特別開帳されており、飛鳥時代作旧国宝香薬師如来のレプリカを拝観できる。白鳳時代の代表作として名高い実物は三度の盗難に遭い現在も行方知らず。

また、地蔵堂の南側には五重塔があり、東大寺二月堂のお水取りを創始された実忠和上塔として知られる。もとは十三重だったが、倒壊したりして現状のようになった。下二段が創建時のもの。また、寺宝として、天平時代の法華経八巻が、本尊薬師如来像の胎内から発見され、国宝となっている。オコト点という送りがなのある珍しい経典。
  
今は萩の寺としても知られ、こじんまりと佇む静寂さ漂う寺院となっている。ゆっくりと拝観したい。

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〈日本の古寺めぐりシリーズ番外編その3〉名古屋の名刹を巡る・真福寺、興正寺、日泰寺、甚目寺-2

2010年06月05日 13時22分51秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
日泰寺

日泰寺は名古屋市千種区法王町にある明治時代にタイ国王から寄贈されたお釈迦様の真骨を祀る超宗派のお寺である。正式には覚王山日泰寺という。明治37年建立の新しいお寺である。

タイ国大使館のホームページにある日泰寺の歴史には、次のように記されている。「1898年、英国人考古学者が、ネパールに程近いインド北部の古墳での発掘作業中に、人骨が納められた西暦紀元前3世紀頃の古代文字が刻み込まれた壷を発見しました。その壷を採取、文字を解読したところ、中に納められた人骨は仏舎利であることが判明、つまりは釈尊なる人物はこの地上に実在しなかったとする見方を覆し、その実在が立証されたわけであり、この発見はアジアにおける一大発見となりました。

当時インドを治めていた英国政府は、こうした真の仏舎利は仏教徒にとって最も価値あるものと考えました。タイ王国(当時のシャム)が唯一の独立国家としての仏教国であったため、タイ国王が当時世界で唯一仏教を守る人物であると理解したインド政府は、この仏舎利をチュラーロンコーン国王陛下に寄贈、国王陛下はバンコクのワットサケート寺のプーカオ・トーン(黄金の丘)の仏塔に安置されました。

その後日本を始め仏教を信仰する各国の僧侶、外交団等からこの仏舎利を分与して欲しい旨依頼があり、国王陛下は仏舎利をこれらの国々に分与、日本に関しては宗派を特定しない日本のすべての仏教徒に対する贈り物としてお分けになられたのです。日本仏教各宗管長は御真骨を自国に持ち帰るためにバンコクに使節団を派遣、1900年6月15日にチュラーロンコーン国王陛下より御真骨を拝受、御真骨奉安のための寺院を超宗派で建立することをお約束申し上げたところ、御本尊にと釈尊金銅仏及び建立費の一部を下賜されました。この釈尊金銅仏は大変美しくまた伝統あるもので、当時のタイ国にとって重要な芸術品のひとつでした。

使節団がタイ国から帰国後、仏教各宗派の代表と協議した結果、名古屋市民の要望が強かったことから名古屋に新寺院及び奉安塔を建立することになりました。そして、タイと日本の友好を象徴する日泰寺が1904年11月15日に名古屋(現在の愛知県名古屋市千種区法王町1-1)に誕生しました。釈尊御真骨を安置する奉安塔は、東京大学伊東忠太教授の設計により1918年に完成しました。この奉安塔は伊東教授の代表作となり、後々日本国内で壮麗な仏教建築と賛辞を受けることになります。

タイ国から拝受した釈尊金銅仏を安置する新しい本堂は1984年に完成しました。プミポン・アドゥンヤデート国王陛下にこの新本堂の完成を御報告申し上げたところ、金銅釈迦如来像と直筆の勅額一面を下賜されました。勅額にはタイ文字で「釈迦牟尼仏」と記され、両脇にはそれぞれプミポン国王陛下とチュラーロンコーン大王の御紋章が刻まれており、現在は本堂外陣正面に掲げられています。

その名が「日本とタイの寺院」という意味を持つ日泰寺は、二国間の良好な関係を表す寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当たっては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職を務めるという、日本でも特異な仏教寺院です。日泰寺は、チュラーロンコーン大王が日本人仏教徒のためにと釈尊の御真骨と釈尊金銅仏を下賜されたことから建立された寺院で、タイ国にとても近い存在です。

特にタイ国王室との関係は特別なものがあり、王族の方々が幾度となく訪れていらっしゃいます。1931年、訪日中でいらっしゃったプラチャティポック国王陛下(ラマ7世)とラムパイパンニー王妃陛下が日泰寺を御参詣され、1963年にはプミポン・アドゥンヤデート国王陛下、シリキット王妃陛下も御参詣されました。また、日・タイ修好百周年に当たる1987年、日泰寺は本堂前にチュラーロンコーン大王像を建立、同年9月27日の祝賀法要にはワチラロンコーン皇太子殿下に御臨席を賜り、銅像の除幕式を執り行いました。

毎年10月23日のチュラーロンコーン大王記念日には、タイ政府関係者及び在日タイ人が、大王の慈悲深い御心を今一度思い起こすために献花に伺っております。日泰寺は、2000年6月15日にチュラーロンコーン大王からの釈尊御真骨及び釈尊金銅仏拝受百周年を祝い、また2004年11月15日には建立百年記念法要を行いました。」とある。

山門には、左側にお釈迦様の第一の弟子であった迦葉尊者像が、右側には20年あまりお釈迦様の侍者であった阿難尊者像が祀られる。鐘楼にはタイ文字が刻まれている。五重塔は、高さ30メートルある。本堂前にはお釈迦様の真骨を寄贈して下さったタイ国王チュラロンコン皇帝像があり、その隣には左右に象の像がある。

本堂内には、現タイブミポン国王より贈られた勅額でタイ文字で「釈迦牟尼仏」とあり、明治33年釈迦の真骨と共にチュラロンコン陛下から贈られた一千年を経ていると言われるタイ国宝の金銅仏が本尊として祀られている。なお、釈迦の真骨は、奉安塔の中に安置されている。境内から少し離れた東側の広大な墓地内にあり、大正7年に建てられた。伊東忠太教授によりガンダーラ様式を模して設計された。残念ながら創建時の伽藍は昭和20年空襲で全焼し、本堂は昭和59年、五重塔は平成9年、山門は昭和61年建立。


甚目寺(じもくじ)

甚目寺は、愛知県あま市にある、真言宗智山派の寺院である。正式名称は鳳凰山甚目寺。伝承によれば、推古天皇5年(597)伊勢の漁師である甚目龍麻呂が漁をしていた折、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜にお堂をたてお祀りしたのが最初という。この観音像は、敏達天皇14年(585)に、物部守屋によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)に祀られている御像だといい伝えられている。

龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけたお堂をたて「波陀米泥良」と表記したが、中世頃「甚目寺」と書くようになったという。天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷して快癒したことから勅願寺となり、天武天皇7年(679)伽藍が整備され、鳳凰山の山号を賜った。その後何度も地震等、衰退と復興を繰り返している。天正18年(1590)、また地震に罹災し、その際に復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねたという。

このとき、本堂再建、仁王門の大規模な修繕がなされた。織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。寛永4年(1627)、三重塔の再建。正保年間(1644年)に、また仁王門の修理が行われている。明治6年(1873)7月19日、火災により本堂が全焼、仮本堂を建築。さらに、明治24年(1891)濃尾地震で造営物が倒壊した。平成4年(1992)に現本堂再建。

本尊は聖観音。通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれるという。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、50年に1回開帳する。前立である十一面観音の胎内仏である。東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。尾張四観音の一つである。名古屋城から見て丁(亥と子の間)の方角にあり、丁壬の方角が恵方にあたる年(丁ひのと・壬みずのえの年、最近では2007、2012)の節分は、大変賑わう。

南大門、三重塔、東門が重要文化財(国指定)に指定されている。南大門 は、建久7年(1196)再建。仁王門ともいい、仁王(金剛力士)像を安置する。三重塔は寛永4年(1627)再建。高さ25m。吉田半十郎の寄進による。東門は寛永11年(1634)再建。このほか重文として、絹本著色不動尊像。絹本著色仏涅槃図を所蔵する。

その他の文化財(県指定)として、木造愛染明王坐像(鎌倉時代作)木造金剛力士(仁王)像(鎌倉時代、寺伝に運慶作というが実際の作者は不明)梵鐘(鎌倉時代作、建武四年(1204年)三月廿日の銘がある) また鎮守社として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ)があるが、神仏分離令の後、境内を分けて今日に至っている。

以上で参拝する四か寺の解説を終えるが、奇しくも二年前には九州太宰府にも参詣し、昨年は善光寺に参った。こうして甚目寺観音を拝することで、日本に仏教が伝来したときに伝わったと言われる三体の仏像すべてを参拝することになる。日本の古寺巡りシリーズは、正に仏教伝来の古に遡ってその行程をたどっているような旅であるとつくづく感じる。今回は更にお釈迦様の真骨を祀る日泰寺にも参れる。今回も誠に意義深い古寺巡りになることであろう。

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〈日本の古寺めぐりシリーズ番外編その3〉名古屋の名刹を巡る・真福寺、興正寺、日泰寺、甚目寺

2010年06月03日 19時53分03秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月14日15日と日本の古寺めぐりシリーズ番外編第3弾として、名古屋の古刹に参詣する。昨年はこの時期長野善光寺の御開帳にお参りしたことを思い出す。今回はそのルートを少し手前で東海方面に歩を進める。大阪と東京の中間ということもあり、素通りしがちなため改めて参詣に訪れるということもなかった土地ではないだろうか。しかしこの度調べを進めることで、奈良や筑紫に匹敵する古いお寺があることに改めて気づかされた。

真福寺のある岡崎市は、肥沃な平野部に古くから人が生活していた土地柄で、戦国時代には松平氏が力を蓄え、江戸時代には徳川家康の生誕地とされて別格に扱われ、岡崎藩として、岡崎宿、藤川宿と二つの宿場町としても栄えた。朝の連続テレビ小説「純情きらり」の舞台としても知られる。また興正寺と日泰寺のある名古屋市は、1620年に家康が築城を命じて徳川義忠が入城したのが起源だという。名古屋城の目的は大阪方の防止で、名古屋台地と言われる台地にあり、城下町は京都や奈良のように碁盤割りで、熱田神宮大須観音などが名古屋の中心本町筋にある。また甚目寺のある、あま市は名古屋市の西に位置し、今年3月に甚目寺町と美和町、七宝町が合併して出来た新しい市で、もとの甚目寺町は甚目寺の門前町として栄えた土地であろう。

真福寺

真福寺は、岡崎市真福寺町字薬師山というところにあり、正式名を霊鷲山降劒院真福寺という。天台宗のお寺。公式ホームページの由緒には、「推古天皇二年(594)物部の守屋の次男真福(まさち)が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。」とある。

物部の真福の本願により、聖徳太子が建立した、三河国最古の寺院である。仁王門には、大きな寺名の入った扁額がかかっている。「霊鷲山真福寺」とある。霊鷲山(りょうじゅせん)とは、インドのラージギールにある山の名前で、沢山の大乗経典を説法された場所として知られる。仁王門は、応永十七年(1410)に焼失後、明応三年(1494)に再興されたものである。仁王像は永正十二年(1515)に建立され、 3mを超える巨像である。山門横には小さな地蔵堂と千手観音堂がある。

山門を登ると開山堂が見えてくる。開山、真福長者は毘沙門天の化身といわれ、堂内に本尊として毘沙門天がお祀りしてあるため、毘沙門堂と表記されている。本尊は室町初期のものである(文化財指定)。本堂へ上がる石段前に小さな木造の多宝塔がある。塔中に釈迦、多宝如来の二仏が同座する。多宝如来は東方宝浄世界の教主、総ケヤキ造りで屋根は檜皮葺。室町初期建立。そこから石段を上がると本堂、本堂の中心に八角の御堂があり、 その中の井戸の水が水の体の薬師、水体薬師といい、本尊なのだという。 この水が目と身体に大変良いということから 1400年以来、水の信仰がつづいている。

本堂の上に大師堂があり、慈恵大師・元三大師とも、平安中期の天台宗の中興の祖とも言われる良源を祀っている。荒廃した比叡山を厳格な規律を作り復興、門下三千人とも称せられ、後に源信・覚雲によって恵檀二流に発展して天台教学の最隆盛期をもたらした。慈恵大師像は、文永十一年(1274)鎌倉中期の春快作であり、 建物もこの年に建立されたものである。

本堂から回廊で行ける鐘楼堂や庫裏、八坂神社、信徒会館などがある。また、山の西側には金蔵院という塔頭があり、もとは六ヶ寺の下寺があり真福寺を中心として一山をなしていたが、廃仏毀釈の時に 真福寺、金蔵院を残し、後は潰されたのだという。 現在では真福寺営繕事務所となっている。また寺宝は菩提樹館という宝物観に展示されており、重要文化財の白鳳時代の仏頭などがある。仁平元年(1151)に火事にみまわれ、 その時にかろうじて持ち出したものといわれ、県内最古のもの。

興正寺

興正寺は、尾張藩城下から信州飯田へ延びる飯田街道沿いの八事村に約三百年前に開かれたお寺で、八事山(やごとさん)遍照院興正律寺が正式名称。開山の天瑞円照和上は、承応年間(1652~1654)に大阪難波に生まれ、武蔵の国で出家後、山城の黄檗山万福寺で修行の後、真言宗の江戸時代における戒律復興の系譜にある快圓律師を摂津地蔵寺に訪ね、和泉の大鳥山に真政和尚から律を学び戒を受け、生駒山で密教を学び、高野山にいたり、法雲和尚から弘法大師の五鈷杵を授かった。そして、当時親族の居た当地にいたり、尾張徳川二代光友公によって、鎌倉時代の興正菩薩叡尊の法流にあるとのことから興正寺として寺号を賜り元禄元年に律寺建立が許可された。

光友公の帰依によって今日ある伽藍がほぼこの時代に出来上がっていく。大日堂に安置される丈六金銅大日如来は、光友公の発願によって造られ、元禄十年4月17日に開眼され三日三晩供養されたという。こうして興正寺は戒律を重視した学問修行の寺として隆盛し、五代諦忍和尚の時、西山阿弥陀堂を建立して阿弥陀如来を祀り庶民のための信仰の地として浄土信仰を開いた。諦忍は、華厳、律、法華、浄土念仏などを広く研究し、多くの独創的な書を著し、天下に知られ多くの僧が来山したという。その愛弟子真隆の代に一文講を発願して浄財を集め今の五重塔を建立した。

境内は西山普門院と東山遍照院に分かれ、普門院は一般参詣者のための境内で、東山は本来僧侶の修行場である。総門は、元禄十年、七世真隆和上の時代に再建された。参道は、右側が勝軍地蔵など六地蔵と弘法大師、左側は七観音を祀る。その先には中門、かつて西山と東山の間にあって、女人禁制の時代の結界として女人門と言われた。五重塔は、県下唯一の木造塔、国の重文、文化五年に建立、高さ30メートル。観音堂には、開山時の二代尾張藩主光友公が参勤交代の際に念持仏として持参された慈覚大師円仁作の観音像が祀られているる。

正面には普門園として一区画があり、本堂ほか大書院や茶室、座禅堂、位牌堂、信徒会館などがある。本堂は、五代諦忍和尚が真言念仏の教えによる大衆教化のために寛延三年(1750)に建立、本尊阿弥陀如来、大随求明王、不動明王、愛染明王、文殊菩薩、弘法大師、などが祀られている。

東山門は、名古屋城から宝永年間に移築された物、奥の院には、興教大師作不動明王を祀る護摩堂があり、その隣に阿弥陀堂として元禄三年に建立された東山本堂、その先に石清水八幡宮を勧請した鎮守社があり、その西側に、開山堂、弘法大師、開山の天瑞円照和上、興正菩薩を祀る。その隣に大日堂、山内で一番高いところにあり、元禄十年に光友公の母の供養のために鋳造された高さ3.6メートル重さ2トンの大日如来像が安置されている。

葵の御紋を寺門とする興正寺は、今も研修僧を受け入れるなど単なる信仰の寺としてではない本山に匹敵する学問修行の寺としてあり、だからこそ、縁日には毎月5万人もの人が詰めかけるのであろう。現在は高野山真言宗の別格本山である。因みに別格本山には、かつて参詣した那谷寺、周防國分寺があり、ほかに神護寺や大安寺などがある。つまり大寺の証明である。

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