住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

後藤惠照師特別講演会のご案内

2008年02月28日 19時05分10秒 | 様々な出来事について
インド仏教長老 プラッギャ・ラシュミ・マハーテーラ

『渡印30年 インドの子供とともに』
<インドの現状とインド仏教徒の日常について>

期日 平成20年3月7日(金)午後2時から4時
   場所   國分寺客殿 (参加費無料)

        広島県福山市神辺町下御領1454番地 電話084-966-2384


後藤師は、インドにインド比丘(僧)として移り住んで30年。仏教発祥の地であるサールナートに法輪精舎を建立。多くの貧しい子供たちに勉強を教え食を施し、地元では道を歩けば大勢の子供たちが駆け寄って合掌するほどに慕われています。またアショカ王の子孫であるモウリアの人々との交流と多くの日本人支援者のご喜捨により、師の長年の念願であった無料学校を開校されました。

15年前に中学校、そして高校、現在では文科系大学まで併設する一大学園に規模を拡大。その間に培われたインドの教育やボランティア活動について、また沢山のインドの人々との交流に関するお話を中心に、さらには現代インド仏教徒の日常についてなどもお話しいただける予定です。

師とは16年前に初めてお会いし、一年間法輪精舎で寝起きを共にして様々お教えいただいたいた、私にとりまして恩師でもあります。この度曹洞宗から海外での活動が評価され特別表彰されるにあたり来日され、親しく國分寺にも御巡錫されることとなりました。是非この機会に貴重なインドのお話を聞きにお参り下さい。
   
後藤惠照師プロフィール

昭和8年茨城県土浦市生まれ。18歳の時出家得度して、20歳で曹洞宗大本山総持寺にて修行。駒沢大学仏教学部仏教学科卒業後、時宗遊行寺塔頭小栗堂住職。小栗堂仏教研究会を創立し、若い研究者のためにパーリ語講習会を開く。45歳の時、渡印。

インドの伝統仏教教団ベンガル仏教会(カルカッタ)にて再出家して、上座仏教比丘となり、サールナートに法輪精舎建立。日曜学校を開き、日本人観光客からの喜捨を受け、平成5年(1993)寺内に無料中学開校。ベナレス・サンスクリット大学教授として日本語を教える。平成11年(1999)国際根本仏教大学を創立。平成13年(2001)インドに帰化する。


2007年2月5日掲載『インド思い出話』より、
「サールナートの後藤師と出会う」再掲載

第二回インド巡礼。前回同様カルカッタに降り立った私は、今回は迷うことなくボウ・バザールの裏手に位置するベンガル仏教会に飛び込んだ。このとき初めて、後に私の師匠となるダルマパル師と出会う。この時70歳くらいだったろうか。

とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。

数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。

その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。

初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。

そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。

その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。

しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。

インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。

この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。

お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。

サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。

もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。

それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。

東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。・・・。

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見返りを求める心

2008年02月20日 19時44分20秒 | 様々な出来事について
あるスーパーに買い物に行った。本堂のお供え物や花を買いに行ったのだ。するとチラチラとこちらを覗い見るような方があり、どこぞやでお会いした人かなと思いながらも果物や野菜などを買いレジに並んだ。そのあと花の売り場に行くと、またそのお婆さんが来られて何やらレジの人と話をしている。

「ああ、○○寺さん」などという声が聞こえたかと思うと、そのお婆さん、こちらに来ると丁寧に挨拶を始めた。なんとそのスーパーのオーナーの奥さんだった。何年か前にもこんな形で挨拶されて、その時にはマンゴーやらメロンやら高価な果物をごっそりお供えして下さいと言っていただいたのだった。

こちらは忘れてしまっていたが、身なりが身なりだからあちらには分かってしまったのであろうが、こちらも挨拶すると、「何かお供えさせてもらいます、これらのどれがよろしいか」などと言われ、蘭の鉢植えをふた鉢お供えに頂戴してしまった。おそれいる。

つい、「どうもありがとうございます」などと丁寧に礼を述べてしまったが、奥さんは平然として、「ええ、すいません。お持ちしませんで、・・・」などと慌ただしく挨拶を交わしてお別れした。

ついつい自分がいただいたものでもないのに礼を述べてしまった。きっと本尊様へということなのだから、「それはそれは仏さんがお喜びになります」または「それはよい功徳になりましょう」などと言うべきものなのかもしれないが、私にはそんなことは言えない。

本尊さんに代わって礼を述べるというのもおかしなものだ。つい先日ネットで文章を読んでいたら、ミャンマーでは、何かして「ありがとう」と言われるのを嫌うと書いてあった。せっかく何かひとさまにして功徳を積んだのに、そのことでわざわざ「ありがとう」などと言われるとその功徳が減ってしまうと思えるからだと書いてあった。

タイでも、托鉢のお坊さんに食べ物を施してもお坊さんたちは頭も下げなければ礼も言わない。それは食べ物を施してもらうことで、布施者に功徳を施しているからとずっと思っていたが、やはり、礼を言ったりしたら功徳が薄まるということだったのかもしれない。

それに、やはり上座仏教国として、何かよいことをして、礼を言われたい、見返りを求めるような心を認めていない。そんなことのためにするのではないという厳然たる精神がそこにあるからなのではないかと思われる。インドでも、ありがとうという言葉はあまり使われないと習った。「ダンニャワード」というそれを意味するヒンディ語は、まず聞いたことがない。

そう考えると、日本では、何かもらったりするとすぐお返しやら、礼を述べる電話をしたり、葉書を出したり、まったくうるさいくらいに、と言っていいほどにその辺の礼儀に神経質である。日本語の「ありがとう」、という言葉自体がとても言いやすいということもあろうが。

実は、蘭の鉢をもらったということをお寺に戻って話をすると、すぐに「お返しが大変だ」などと言う人がいた。せっかくその方は功徳を積んだのに、すぐお返ししたら、何のためにお供えされたのか分からなくなってしまう。功徳を積むことができた、本当によいことが出来たと思えれば、何もその相手や周りからお礼を言われたり、賞賛されずとも自分自身がうれしくなり、満足できるものだろう。

最初に何か見返りを期待していると、自分自身がよいことをしたというそのことだけのことに満足できなくなってしまうのであろう。何か自分自身もよいことをしたときに、つい礼やお返し、または誉められたいなどという気持ちがないかどうかということによくよく気をつけていたいものである。

だからこの蘭のお返しは、勿論のこと、しないことにしよう。

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