備後國分寺だより 第65号(令和5年8月1日発行)
大師堂落慶を祝して
四月二日、めでたく大師堂が落成しました。前日まで左官屋さん、大工さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださいました。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わりました。
明治三十四年五月発行の『廣島県名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑があります。
それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺之真景」とあります。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂(こもりどう)らしき建物が描かれています。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物でしょう。
唐尾山は國分寺の山号であり、寺の背面に位置する山を唐尾山と通称しています。四国八十八箇所の札所本尊を彫った石仏が山一円に順に設置されていて、山の西麓に屋根を設けた一番札所があり、そこから北西の斜面を上がり下御領下組の共同墓地を経て、山上の石鎚社に登ります。その西側の三十八番札所から接待堂を経て、途中古墳をいくつか横に見ながら石段が設けられた山を下るのです。國分寺の庭園を見下ろしながら降りてくると本堂西の裏にあたる八十七番札所があり、八十八番結願所は境内に設けられていました。一巡すると小一時間はかかるでしょうか。
江戸時代初期に四国霊場の巡礼は盛んとなり、その後全国各地にミニ霊場が作られていきます。その一つとして、天保の大飢饉をきっかけに開創されたとされています。霊場開創百四十年記念誌に記載された開創当時の施主帳には、天保十二庚丑(かのえうし)年秋八月吉祥日開眼、法印光蓮代とあります。天保四年(一八三三)に大雨による洪水や冷害による大凶作により始まり、天保十年ころまで続いたとされる天保の大飢饉を乗り越え、風雨順時五穀豊穣を心底願われて開創されたのでした。
そして、明治二十一年に近在の信者約五百人から浄財をいただき籠堂を建立したとあります。それも九十年余りが経過して損壊甚だしきことから再建の話もあったとありますが、おそらくお籠りする人もない時代となったため、境内に置かれた八十八番の本尊と大師像を祀る大師堂として昭和五十六年に建立が発願され、千五百人近い人々から浄財を頂戴し、八月二十日に落慶されました。
それから四十年余り、唐尾山八十八箇所は二十年前頃まで毎朝何人かが巡っていましたが、巡る人が徐々に減少。接待堂でのボヤ騒ぎや不審者の滞在など風評が広がりさらに減って、近年はイノシシが駆ける道となってしまったことも災いしました。
大師堂は毎月の薬師護摩供の道場として特に十年ほど前から多くの参拝者を迎えるようになり、数名の人たちが外にベンチを並べてお詣りするようになっていました。加えて、南に位置する休み堂をどのように再興するか以前から懸案となっていたことから、二つの建物を繋いで内拝できるお堂として再建することが検討されたのです。
旧大師堂建立の経緯から、昭和五十六年に建設した際に世話になった大師講の世話人方にこうした事情を説明し了解をとる必要があり、丁寧にこの度の再建計画に至る事情を説明。お寺の敷地内のことでもあるからとご了解いただき、令和三年四月には建設にとりかかる予定でしたが、コロナ禍の中、物流がストップするなど資材が揃わず延期となり、昨年令和四年十一月やっとのこと解体にこぎつけたのでした。
四日に午後から石仏を搬出し境内に安置、護摩壇は本堂に移されました。七日より解体が始まり、三日ほどで二つの建物の解体が済み、十日に急遽倉敷の宝嶋寺様に伺い土公供(どこうく)の伝授を受け、十一月十二日午前に鎮壇具(ちんだんぐ)を地面下に埋納する土公供を執行しました。
当日朝から、六文銭を取り付けた土公申幣、幣足十二本、五寶・五香・五薬・五穀・五色を納めた宝鋲(ほうびよう)、さらには水、酒、色紙を小さく刻んだ切花、洗米に五色の紙を刻んで入れた散米、五穀粥、塩を用意。お堂予定地の中央と四方に一尺ほどの穴を掘り、その前に幣を立て、穴に納める鎮壇具を前方の机に用意して午前十時から修法開始。四十五分に終わり、中央には宝鋲と法輪橛(ほうりんけつ)、四方には法輪橛を納めました。そして翌週からといわれていた基礎工事がその日午後から急遽開始されたのでした。
十一月二十六日基礎工事完成。十二月十日木工事のための木材搬入、十二月十九日総代方四人と工事関係者七人が参加されて、圓照寺住職に御助法いただき午後四時半、上棟式を執行しました。導師が仏式上棟式作法を修法する中、心経発音(ほつとん)、立義分(りゆうぎぶん)を共に唱え、諸真言、光明真言、御寳号、一字金輪と次第して唱和を終えました。棟梁に、棟木に幣と棟札を飾り、四方に酒・米・塩を供えてもらい、挨拶、乾杯の後祝儀を差し上げ直会(なおらい)を行いました。
翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事、電気工事などが施されました。
三月三十日、まず石仏が搬入され、護摩壇を本堂から運んでいただきました。それから茶室などに仮置きされていた仏像を一体一体運んで、護摩壇に橛を差し込んで壇線を張り、仏具を移して荘厳し、大師堂入り口の蔀戸など建具が取り付けられました。さらに法要前日に、外にベンチが設置され、流しの横には棚が作られました。そして、大師堂前には紫の寺紋入りの幕、外陣部分には五色の幕が張られ、見事落慶法要の準備が整いました。落成に向け懸命な作業に邁進してくださった職人様方に深く感謝申し上げます。
四月二日、快晴の中、地元神辺の真言宗結衆寺院六ケ寺八師と圓照寺御住職により、午後一時から落成慶讃法要が執り行われました。次第は、入堂着座、奠供(てんぐ)一讃、心経、慶讃文、諸真言、挨拶、祝辞、退堂。慶讃文は以下の通り。
『大師堂落成慶讃文』
「敬って、真言教主大日如来、両部界会諸尊聖衆、殊には本尊聖者薬師如来並びに高祖弘法大師、総じては一切三宝の境界に申して言さく。
夫れ惟んみれば、堂塔は秘密荘厳の標幟。伽藍は信心培増の方便にして、本尊之によって威光を輝かし衆生之を仰いで信心を運ぶ。
茲に当山大師堂と者、そもそも天保十二年開創せし唐尾山大師道の籠堂として明治二十一年に建立。九十年余りを経て損壊甚だしきことから、昭和五十六年八十八番札所大師堂として近在の数多の信徒より浄財を募り再建す。以来、月例護摩供を修して檀信徒の護持並びに参詣善男子善女人の除災招福を祈願せり。然るに、此の度新たに建立を企てるは、先住和尚並びに檀信徒の念願にして、護摩供参詣者の便に資し、精進功徳を積みて人心の暗迷を除き正路に就かしめんが為なり。
殊に、本年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、宗祖大師を讃仰し報恩謝徳に資するは幸甚この上なし。依って本日落慶にあたり、神辺結衆諸大徳の親修を仰ぎ法会を厳修す。
期する所は、
世界平和 国家安穏 弘法大師
倍増法楽 護持檀信 家内安全
息災延命 如意吉祥
乃至法界 平等利益
干時令和五年四月二日
唐尾山國分寺 住持全雄敬白」
お寺は福田(ふくでん)とも申します。お参りくださった方々が善行を施し、心を耕し功徳を収穫していただく場であります。是非これからも多くの皆様が大師堂に集い、沢山の功徳を持ち帰ってくださる福田となりますことを心より願っております。 合掌
オカゲサマデ
数年前の朝日新聞一面に、ハワイの日系三世がハワイ州知事になり、その就任式で、日本語で、オカゲサマデ、コドモタチノタメニ、という言葉を入れて話をしたとありました。
オカゲサマデ、日本でも死語になりつつある言葉なのかもしれませんが、それがハワイで語られ、それも日本語で発音されて語られた意味は深いものがあります。
オカゲサマデという言葉の背後には、みんなつながっている、みんな無関係ではない、みんなのお蔭で自分があるという感覚があります。
これはそもそも仏教で言うところの縁起という教えから発しているものだと私は思っていました。みんな縁りて起こる。他のものの影響、作用によって、変化し、成り立っています。
袖触れ合えば他生の縁とも言います。わずかな関係でも、それが縁となり、その先様々な変化影響のもとに発展し、結果をもたらしていくということです。
相互に関係し、相互に依存する関係性。そういう相互に関連したものを肌で感覚としてとらえ、日本人は昔から、皆様のお陰様で生きております、という気持ちとして表現してきました。
ですが、それも風前の灯火。今の学校の先生で「他生の縁」という言葉を正しく解釈できる人が少ないのだとも新聞にありました。これも死語になりつつあるのかもしれません。
そんなことを前日の記事を読みながら考えていたら、次の日の朝日新聞には、オピニョンという紙面に、人類学者の川田順造教授の「人類の未来のために」と題するインタビュー記事が掲載されていました。
フランスの社会人類学者で「悲しき熱帯」の著者レヴィ・ストロースを師と仰ぎ、アフリカの文字を持たない未開の地に入り研究された先生ならではの体験から、誠に意味深い考察の末に絞り出された叡智の言葉が綴られていました。
地球四十六億年の歴史の中で、今の人類が誕生したのは二十万年前のことでしかないのに、誰のものでもなかった土地に強いもの勝ちで縄張りをつくり、追い出したり追い出されたりしながら、ヒト同士の殺戮を重ね、他の動植物の種も絶やしてきた。地球の危機は人類のゆがみがもたらしたと指弾しています。
本来、他と共に危険をおかし、食を獲得し分け合い、生き延びてきたからこそ今の人類の発展があったのだといいます。人類は、過酷な自然環境の中で、他との共存、共同の中で他との折り合いをつけ、自己を抑制して精神的な成長を経て、他と助け合いながら、今日の繁栄を見ることができたのだというのです。
そして、個々の私たちは、これまで死んでいった人たちやこれから生まれようとする人たちを繋ぐ、つながりの一部に過ぎないという謙虚さも必要であると。だからこそ日本でも、どの地域でも共同体とのつながりを大切にし、それが自己肯定感につながるものとしてあったのだといいます。
しかし、日本においては高度経済成長の始まった一九六〇年代からそれが揺らぎ始め、この二〇年ばかりのITの急速な発展と普及により、他者への関心と思いやりにかけ自分に閉じこもる人たちを増やしてしまいました。人のために役立とうという意識、弱いものへのいたわりといった倫理は薄れてしまったといわれます。
物質的には確かに豊かになりましたが、ですが、そうして豊かになりすぎると逆に精神的には幼児化が進むのだとも。各国の為政者たちを見ていても、また、何でも世の中の風潮だからと受け流してしまう今の私たち日本人もそう言えるのかもしれません。
そして、今の時代への提言として、まず地球に傲慢すぎるのではと自問する謙虚さと他の生き物の命で生かされているという自覚により自然とのつながりを取り戻すことが第一歩であり、そして、問題のありかを考える知的好奇心と想像力、他の人々や自然とつながろうとする感覚がこの困難を克服する武器であると諭されています。
オカゲサマデという感覚。それは仏教に学んだのであろうと思っていましたが、それはもっと古い時代から人類が生き残るために必要としてきたものでした。
人類が、他の動物たちも含め大自然に対して、圧倒的に弱い存在だと自認し一人では生きられないがために、群れとしての共同体と折り合いをつけ生きるしかなかった、そうした古代からの伝承によるものであると、この記事から学ぶことができました。
オカゲサマデ、コドモタチノタメニという原初の思いを、これからも大切に生きてまいりたいと思います。
(全)
元高野山真言宗管長・元全日仏会長
元高野山大学学長
追悼 松長(まつなが)有慶(ゆうけい)猊下(げいか)
私は教え子でもなく、お寺の関係者でもありません。ですが猊下の最晩年にご縁をいただき、ご厚誼賜ったものとして、誠にごくわずかのその関係についてのみではありますが、四月十六日、九十五歳をもってご遷化された松長有慶猊下の記憶を追悼の意を込めてここに留めておきたいと思います。
松長先生は、仏教学者密教学者としても、また真言僧侶としても最高の位置に自ずと推挙せられて上られました。そのご生涯は、真言宗ならず日本仏教界における金看板ともいえる存在でした。急逝が惜しまれてなりません。
仏教を学び始めてから長年学者先生として仰ぎ見てきた先生が、この福山の地に来たところ、國分寺の先代が先生とは高野山大学の同期であり、盆暮の挨拶は勿論のこと、著書の出版記念パーティや宝寿院門主、法印、管長という重職につかれるたびに祝儀を送り旧交を温めてきた関係であったと伺いました。
それが故に、平成二十六年十月二十二日高野山真言宗の福山近在の御寺院の檀信徒へ管長猊下としてなされる御親教のために福山にお越しになられると、翌日午前中の開き時間に國分寺にお立ち寄りいただいたのでした。
その一週間後には前年に亡くなった先代和尚の一周忌が予定されており、訃報の連絡があって、それを気にされていたと後になって伺ったのですが、何の事前通知もなく前日夕方に明日午前九時半にお越しになられると連絡が入りました。急遽、庭の掃除から始まり御通しする部屋の設い、お茶菓子、拝まれる座の用意など準備して、予定の九時前には仁王門前で待機しました。黒塗りの車が参道を入ってきて、合掌してお迎えしました。
開口一番、誠に自然に「突然にすみませんなあ」と言われたように記憶しています。ほとんど初対面に近いこともあり、緊張してかしこまっていた当方もこのお言葉で気持ちがほぐれたことを思い出します。中門から客殿前の門を入り直接上段の間にご案内し、床前の毛氈の上に敷いた赤座布団にお座りいただき、菓子とお茶をお出ししました。
前年亡くなった先代の話から、その年の春にドイツ人の早稲田大学名誉教授で真言宗僧侶のヨープスト・雄峰先生にこちらの教区に講演にお越しいただいた話や仏教雑誌『大法輪』での執筆の話など砕けた話をしたことが思い出されます。
それから本堂へご案内して先代の位牌を拝んでいただこうとすると、こちらにも毛氈赤座布団は用意していたものの経机の前にお座りになられ、理趣経一巻をお唱え下さいました。誠に有り難く思われ、あとから録音しておけばよかったと思われたのでありましたが。それから上段の間から外にお出になられ、本堂をバックに写真を撮らせていただきました。そして、仁王門前に駐車された車にお乗りになりお帰りになられたのですが、ちょうど一時間のご滞在でした。
何のお礼にもならないものの、早速赤白熨斗(のし)の「菓上」と保命酒を送らせていただいたところ、後日、沢山のご著書と直筆のお手紙を頂戴しました。そしてその翌年の四月丁度高野山開創千二百年の記念法要に高野山に団参で訪れた際に母とご自坊にお礼のあいさつに伺いました。
その後送ってくださったご著書を読んで学ばせていただいたことなど手紙を出さねばと思っていて書きそびれて三年ほども経過した頃、令和元年六月、突然パソコンに向かっていたところ先生からのメールを着信したと表示されたのでした。その後寺報を送らせていただいていたのでアドレスを知られてのことではありますが、驚いてメールを拝見すると、「本を送るように手配してあるので読んで欲しい。戦後の弘法大師の著作についての現代語訳が粗雑であり、誤解される恐れがあるので、残りの余生をその現代語訳に捧げるつもりである。この度は『訳注即身成仏義』(春秋社)であるが読んで少しでも取るところがあるなら勝手なお願いで済まないが感想を仏教関係誌に書くように。日常的に平易な文章を書きなれたあなたにお願いしたい」との内容でした。
早速にご自坊補陀落院(ほだらくいん)にお電話し、直立不動の姿勢で、身に余るお話で期待に沿えないと申し上げると、そんなことではなくただ読んで思ったことを書いてくれればいいからとおっしゃられ、浅学を顧みずお引き受けすることとなりました。もとより不勉強の身のため、ただ読んで思ったことの羅列に過ぎないものを書いたように思われるのですが、六大新報誌に「新刊紹介」として二頁ほどの原稿が掲載されました。ただただ先生のご著書を汚すことにならないかと心配されたのでした。
その翌年六月には『訳注声字実相義(しようじじつそうぎ)』が送られてきて、令和三年には『訳注吽字義釈(うんじぎしやく)』が。
そして昨年一月に『訳注弁顕密二経(べんけんみつにきよう)論』、六月には岩波新書『空海』を出版され、大師とのお約束を成就されたのでした。その都度こちらにもご送付下さり、六大新報社からも連絡が入り、つごう五冊分「新刊紹介」を書かせていただきました。身に余る光栄でありました。
この間二度ほど高野山に用事で出かけた際に補陀落院(ほだらくいん)にお伺いさせていただきご挨拶もうしあげたり、葉書やメールを頂戴することもありました。
昨年三月十八日にいただいたメールでは、「六月には『空海』の題名で岩波新書を出版する予定で、おそらく最後の著作となると思うが、真言宗の方々の常識をいくつか覆し、びっくりされる内容と思うが、瑜伽にいのちを掲げられた大師のお考えの核心と思う点を一般の知識人に訴えてみたい」とありました。
そして六月二十三日には、「早速、的確な『空海』の御紹介に御礼を申し上げる。短時間の間にこれほど深いところまで読み込んでくれて感謝している。これを書き上げてほっとすると同時に疲れを感じる」とありました。
そして、十二月四日、このメールが先生からの最後のメールとなるのですが、「十月に腹痛で入院し、以後医師の指導の下に食生活をし、お酒も甘いものも控えるように命じられている。今年もまた著作の紹介をかたじけなくし感謝している。最後に、くる年もいい年でありますよう祈り上げます」と書いてくださいました。私のようなものにまで体調のすぐれない中メールを送ってくださり誠に申し訳なく思ったことでした。
そして今年四月十六日、朝八時過ぎに一本のショートメールで先生のご遷化を知ることになりました。通夜葬儀は十八日十九日高野山南院(なんいん)にてと知って、丁度その両日、東京のお寺の法会に出仕する予定であったため、当初出席するのは難しいと諦めていました。ですが、これまで賜ったご芳情を思い、急遽十九日早朝五時に宿を出て、六時品川発の新幹線に乗り高野山に向かいました。
降りしきる雨の中、十一時過ぎに南院に到着。門を入ると目の前にずらっと並ぶ供花に、まずは圧倒させられました。広間の建物の外から廊下、門正面の植え込みの周りにも。荷物を置き、上がらせていただき、棺の前に進み線香を立て投地礼。小声ながらこれまでの恩義に感謝の言葉を述べさせていただきました。
それから一度退出して、再度十二時過ぎに南院に参り、奥の間で黒衣如法衣に着替え、山内寺院方のすぐ後ろの随喜参列寺院席に着席。管長猊下はじめ山内寺院院家(いんげ)様、上綱(じようごう)様、前官(ぜんがん)様方が着席され、理趣経一巻唱和。管長猊下と山内住職会会長の弔辞、弔電、挨拶が続きました。この頃から雨脚が強くなり屋根にあたる音がわかるようになります。
そして出棺となり、棺が広間中央に運ばれ、山内寺院方から順に花を棺に入れていきます。私も蘭の花を受け取り棺に添えさせていただきましたが、先生のお顔はお会いした時と変わらず端正な綺麗なお顔でした。そして棺が霊柩車に運ばれるころには土砂降りとなり、棺を乗せた車が動いた、まさに出棺のその時、ひときわ大きく雷鳴がとどろきました。
その時、「人の願いに天従う」という弘法大師の言葉が頭によぎりました。出棺を天が世の者に知らしめ先生を弔わんとされた雷鳴か、はたまた先生が皆のものへの挨拶としてとどろかしめたものかはわかりません。ですがいずれにせよ、霊柩車のクラクションと同時に鳴ったその音は、何か先生のご意思によるものと思われたのでした。
一つの時代が終わってしまったと思われて仕方がありません。先生は戦中戦後どんな思いで補陀落院を継承なされたのか。学問の道を極められた心の源泉は奈辺にあったのか。また、今の時代に私どもに向けて、もっと多くのことを言い残して欲しかったと思うのですが、いやいや、沢山のことを書き残しているではないかとお声が聞こえるようにも思えるのです。
そうなのです。先生は密教の学問的な研究の傍ら、宗教や信仰の枠を超えて、常に時代であるとか世の中の諸問題について、いかにとらえ対処すべきかを問い指針を示してこられました。
それは例えば脳死と臓器移植についての捉え方が西洋の人々とは違った日本人の精神構造の観点からの理解が必要であるとされたり、遺伝子操作については不治の病に対する治療がなされるほかに人間のクローン化などへの不審が払拭されていないこと、終末期医療については長生きよりも命の質の問題への転換が必要とされるなど、医学や生命科学における諸問題の解決のため宗教者からの提言を積極的になされてこられました。
平成十七年には、現在では百四十を超える社寺が参加する西国神仏霊場会が発足していますが、先生は十七人の発起人の一人として神仏の宥和を推進されています。
平成二十一年には、天台宗の半田孝淳座主を高野山で行われる宗祖降誕会に招待され、平成二十三年には比叡山を訪問されて、東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示すべく、半田座主と千二百年の時を隔ててトップ対談を実現されました。これもすべてのものを包摂する密教的発想からの宥和の実践をお示しくださったものといえます。
さらに平成二十二年、全日仏会長として世界経済フォーラムによるダボス会議にアジアの宗教者として初めて招請されました。その際になされた講演の内容は、まさに現状の国際社会のあり方に対して日本の仏教者の立場から警鐘を鳴らすものでした。
自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から全体的、相互関連的に世界を見る立場への転換を提案し、先進文明を唯一絶対の価値あるものとして世界を統合するのではなく、地球上のあらゆる地域に存在する文化の独自の価値を尊重し共存すべきこと、私たちが現代社会に生きているとは環境破壊に関与して生かさせていただいていることに気づき、社会のため環境のために寄与奉仕する生き方が求められていると提唱されています。
ところで、先生の著作のいくつかにヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』の話が登場します。インド人の人生の三大目的であるカーマ(愛欲)とアルタ(富貴)を経験し尽くし、その後無一文となってモークシャ(解脱)を求めて生きる主人公を本当の意味での自由な生き方の手本と書かれています。最後は、わが子とも決別して悩み苦しみつつも、すべてあるがまま現実を受け入れ生きんとする主人公に憧憬を寄せておられるようにも感じられました。
三年ほど前のことにはなりますが、生涯坐禅に取り組まれた仏教学者玉城康四郎先生の著作に学んでいることをメールでお伝えしました。すると、先生からは、「生前よく存じ上げており、東大教授でしたが仏教を学問的に研究するだけではなく、ご自身の生き方の中に常に求め、それを生かそうと努めておられた方で尊敬している。今日このような求道的な態度で仏教に接しておられる研究者はほとんど見かけなくなり残念です。老齢ながら、余生の中にこの態度を取り込み生かしたいと考えている」とご返信いただいて大変恐縮したことがあります。
最後の著作となった『空海』において、先生は大師の思想と生涯の行動が瑜伽(観法・瞑想)に始まり瑜伽に終わると記されていますが、先生ご自身も日々瑜伽観法を丁寧に修法なされ、世俗を超越し無限なる世界と繋がる時間を何よりも重んじてこられたのであろうと思われます。
だからこそ、いつも飾ることなく、誰にも変わりなく優しいまなざしで、気安くお声がけくだされた。そんな先生に数えきれないほどの多くの人が心癒されたことと思います。私もその中の一人にすぎないのですが、晩年にご高誼を賜りましたことの感謝の気持ちを込めて一文認めさせていただきました。
最後に、最期まで命には役割がある大切にせよと教えてくださったように感じます。先代の時代から本当にお世話になりました、感謝申し上げます。どうか兜率(とそつ)浄土より安らかにお見守りください。 合掌
(全)
令和五年六月五日 福山北倫理法人会での法話
『インドに何を学ぶか』
今日は「インドに何を学ぶか」というテーマでお話します。三十年も前になりますが、インド僧として三年半、インドに滞在したのは併せて二年半ほどですが、その後もインドと仏教を通してかかわり続けてまいりました。
まずなぜインドに行ったのかということですが、そもそも一冊の本との出会いが、私を仏教に引き寄せたのです。それは、角川書店の「仏教の思想」というシリーズの第一巻『知恵と慈悲・ブッダ』という本です。
増谷文雄さんという都留文科(つるぶんか)大学の学長をされた先生が誠に丁寧にお釈迦様の実像とお考えを描かれていて、当時のインドの様子を彷彿とさせながら読ませてもらいました。
その後高野山で僧侶になりますが、その本の内容と日本の仏教との違いを確認するためにインドに触れなければならないと考えたわけです。
次に、何をしたかということですが、一度目はヨガの聖地リシケシに長期滞在しましたが、二度目にインドに行った時に、コルカタのインドの仏教教団ベンガル仏教会とご縁ができました。ボウバザールという旧市街にあるその教団本部の古い建物はビルラ財閥の寄進によるものでした。
その教団には日本人で後藤恵照さんという、元曹洞宗のお坊さんで四十五才で日本の寺を譲りインドで再出家した方がおられました。サールナートという、はじめてお釈迦様が説法されたと言われる聖地でサールナート支部法輪精舎の住職をされていました。
後藤さんは、因みに「こんなところに日本人が」という番組などに紹介されたことのある方ですが、茨城なまりの日本語で迎えてくださいました。そして、インドにはまだお釈迦様の時代からの伝統ある仏教徒がいると教えられました。
それはお釈迦様の時代にマガダ国という中インドの大国がありましたが、その国のビンビサーラ王がお釈迦様の熱心な信者だったのです。
その末裔たちが、十世紀頃イスラムの侵入を嫌い東に移住を開始し、今のバングラディシュのチッタゴン、今その地はロヒンギャの人たちが難民として滞在していますが、それからミャンマーのアラカン地方に移りバルワ仏教徒と言われて今日まで細々と生き続けていました。そして今から百三十年ばかり前にコルカタに組織されたのがベンガル仏教会であるとのことでした。
私は、日本ではインドに仏教はないと聞いていたのに、ちゃんとインド人の仏教が生きていたことにとても感動し、後藤さんはこれからお寺の中に無料中学校を作る計画だと言われるので、その事業に協力し、自分もインド僧になることを決意しました。
一度日本に帰り拓殖大学で一年間ヒンディー語を学び、再度サールナートを訪ねました。ひと月ほどで見習い僧である「沙弥(しやみ)」になる儀式をサールナートのお寺で受け、黄色い袈裟姿で生活し始めました。
それから半年後、たまたまコルカタで正式な僧侶である「比丘(びく)」になる人があるので貴方も一緒に具足戒を受けなさいということになりました。もう一人の彼、ボーディパル師はベンガル仏教会の創始者クリパシャラン大長老の家系の名家の若者で、二人で、コルカタのフーグリー河上の船の中で十数人のベンガル人比丘に見守られ儀式を受けました。
すべて儀式のための経費や参加した比丘方への食事のもてなしの経費はその彼の家から出してくださったのだと思います。ですから、すべて彼のための得度式であり、私はほんの付け足しだったわけですが、それだけにかえってその奇跡的な機会によくぞ巡り合えたものだと今では思います。
彼はその後世界中の仏教の大祭や会議に出席しては英語でスピーチをするインドを代表するエリートになり、日本で行われた世界仏教者会議にも来てスピーチしていました。が、残念ながら二年前にコロナ疲れで亡くなってしまいました。五十三歳でした。
サールナートのお寺では、日曜学校をして子供たちに英語を教えビスケットを施したり、後藤さんは若者たちに毎朝日本語の教室を開いていましたが、私は一緒に坐らせてもらいヒンディ語を学びました。後藤さんは夕方からはベナレス・サンスクリット大学へ日本語を教えに行かれていましたが、私はその大学に留学させてもらってパーリ語という仏教語を受講していました。
サールナートでの後藤さんとの生活では、四月五月の乾季の暑い時期には蚊帳を吊ったベッドを外に出して寝ていました。最高に暑い日は五月半ばで、五十四度という日がありました。
六月半ばには雨期になり過ごしやすくなりますが、毎日雨が降るわけではなくかえって蒸し暑くなるので体には良くない時期と言われていました。外で寝ていると急に雨が降ってきて二人でベッドを庇の中に運ぶということもありました。それが九月ころまで続きます。
冬は逆に日較差から夜はものすごく寒く感じ寝袋に布団をかけて寝るという具合で、夜水浴びなどできませんから、朝バケツに汲んだ水を屋上に置いて温め昼食後に水浴びしていました。
私の仕事は、後藤さんとともに昼間空いた時間に、サールナートに歩いていき、日本人観光客に寄付をもとめたり、中学校の校舎がお寺の敷地内につくられていきますが、その資金のため、何度か日本とインドを行き来して日本からの寄付を運びました。
また、当時お釈迦様の生誕地であるネパールのルンビニに、国連が主導した開発計画があり、日本の建築家丹下健三さんが一九七八年に設計したマスタープランによって開発がゆっくりではありますが進んでいました。
その僧院地区に、ベンガル仏教会が、土地を借りて寺院を建設する予定があり、コルカタ本部の命で、ネパールはヒンディ語が通用するので、私が一人でその土地の借地料をカトマンドゥのルンビニ開発公社へ払いに行ったこともあります。
カトマンドゥの街を歩いていると、熱心な仏教徒から声を掛けられ、お昼には私の家で食事をして下さい、施食を受けてくださいと言われてごちそうになったこともありました。
結局インドの仏教と日本の仏教との大きな違いは、インドなど南方の仏教では僧侶も礼拝の対象となり、お坊さんは仏像と同じく信者に向かって仏様の側からお経を唱えていました。
似ている点は、やはり人の死にあたっては葬儀をきちんとお寺でしていたことでしょうか。私も三度ほど他の比丘らと一緒に葬儀のお経を、無常偈など二つの偈文を三唱するだけですが、唱えさせてもらいました。
こうして、つごう五回インドに行き、コルカタで二度マラリヤになったこともあり、インドでの生活を諦め、捨戒(しやかい)して帰ることになりました。
なお、後藤さんの学校はその後、別の土地を買い足して中・高・大学と開校し、州公認の優秀な学校として表彰されるまでになりましたが、後藤さんは平成二十八年に八十四歳で亡くなられました。
次に、インド滞在中に仏教以外のことで見聞した特に印象的だったことを三点だけお話し申し上げます。
一つは、サールナートに長期滞在するときに、留学ビザを取りインドに入ったのですが、留学生は現地ベナレスの外国人登録事務所に名前を登録しておく必要があります。ですが、その前にデリーの中央政府の本部事務所にビザを提示して留学の承認を受けねばなりませんでした。
事前にインドでは何事も賄賂(わいろ)が必要と聞いていましたので、この時も係官に百ルピーのお金を差し出しタバコ銭にと言って渡しました。するとその方は、「この金は何か、私たちはきちんとサラリーをもらって仕事をしている、私たちは貧乏ではない」と憮然(ぶぜん)として言われたのです。
私はとても恥ずかしい真似をしたと後悔したようなことですが、立場のある役人や政治家がおのれの信念を貫くことが日本でも難しい時代ですが、インドの役人には、それをはっきりと言葉にできる立派な人がいるのだと知ることができました。
二つ目は、インドで寝台列車に乗り見聞したことですが、あるときラクノウからコルカタに向かう途中、夜の九時ころパトナに停車するとたくさんの人が大きな荷物をもって乗り込み、私の寝台の下にも座り込んで、急に大きな声で話だしました。
何事かと耳を澄ましておりましたら、そこで出会った三、四人の人たちが、ビハール州の首相が公金を使い込んで逮捕されたのに居直っているとか、天候異常から作物の値が上がるのは分かるが便乗してあれもこれも値上げしてけしからん、みんな大企業なのに庶民の暮らしを何と心得ているのかなどと、怒りをあらわに様々な情報や意見をやりとりしていたのでした。
難しい言葉は分かりませんでしたが、インドの人たちは初対面でも自分の主張をきちんと言い合える人たちなんだと思ったようなことですが、日本ではまずそんな光景には出会えないと思いました。
それから三つ目は、マラリヤになった時のことですが、二度目のときには大きな四階建ての病院に連れて行かれました。たくさんの人たちが行列していましたが、私はなぜかすぐに呼ばれ診察を受け、薬も沢山の人だかりのなか、またすぐに私の名前が呼ばれて薬をもらい帰りました。
宗教者、とくに厳しい戒を守る仏教の坊さんには他の人たちも何も言わずに道を開けてくれるようなところがありました。宗教者を大切にする風土が今もあるということかと思います。
以上、私がインドで特に印象深く記憶に残っていることをお話しましたが、それを踏まえて、インドから何を学ぶかと考えてみたいと思います。
インドという国は近年特に国際政治であるとか経済面、特にITの分野、医薬製造や自動車関連製品での躍進はすさまじいものがあります。また数学計算でのインド式であるとか。語学の才能もぴか一です。
十四億人という人口も世界一になりました。インドという国はご存じの通り、大きな国土に人が多いだけではなく、言語が多様であり、それだけ民族も多く、宗教も複雑さを極めています。
面積的にはパキスタンやバングラディシュを含めると同程度とされるヨーロッパは、二十一世紀になりやっとEUとして統合されましたが、いまだに国家としては別々です。ヨーロッパの宗教がほとんどがキリスト教であることを考えると、インドという国は、古代からずっと、イギリスの植民地時代を経て今日まで、誠に複雑な民族・文化の違い、宗教間の軋轢にさらされて来たわけです。
それだけに各々の文化や宗教に根ざす信念や忍耐を強く養いつつ、それを議論し続けてきた人々なのであろうと思います。この二十一世紀の現代において、未だに宗教をとても重んじる国であることは間違いないでしょう。この度の広島サミットにお越しになった方々を見ても、モディ首相だけが民族衣装を着て颯爽と登場されましたが、自国の文化伝統に対する誇りが強く感じられました。
例えばパール判事というインド人国際法学者がおられました。戦後の極東軍事裁判で唯一戦犯すべてを無罪とする判決を下されたのは有名ですが、戦勝国におもねることもなく、法学的な信念と宗教心に裏付けされた、勇気ある発言をなされたというのは、いかにもインド人らしいと私は思います。
また、インドは核保有国として知られるわけですが、なぜ国連の常任理事国五大国だけが核保有を認められるのか、と正当な異議を申し立てて保有に至っています。私は決して核保有を支持するものではありませんが、インドが核保有した当時、インドにいたので、いろいろな人にそのことを問うてみたことがあります。
多くの人たちが、地政学的に必要であるとか、現在の核管理についての不平等性などについて語り、これはインドの安全保障の問題であり、どの国も口を挿し挟むべきではないと皆さん自国の利益を語り、きちんと自分の意見をお持ちでした。
関連して、最近の問題についても見てみますと。今回のコロナ騒動についてですが、インドは独自の判断により、イベルメクチンを採用したりして早期に終息しています。イベルメクチンの接種に反対するWHOを、逆にインドの弁護士会が訴えたり。
またウクライナ戦争に対しても、インドは独自の対応をしています。ベルリンの壁崩壊後の歴史的観点、近年のウクライナ政権誕生のいきさつから見ると、決して欧米の主張が正当とは言いがたいという立場であろうと思います。決してロシアから武器を購入しているからではないと思います。
インドの人々はいずれにせよ、西側といいますか、他国の圧力にも屈せずに独自の立場を貫く強さ、そして発言力があります。
宗教上の理想を実現するために、いかにあるべきかと、生きる目的をはっきり自覚している彼らだからこそ、個々の問題についても、こうあるべきであるという確信をもって、それを言葉にすることができるのだと思います。
インドは食料自給率も百パーセントを超えています。外国との交易が封鎖されても自国で生活に必要なものはすべて賄えるとも言われています。
ところで、インドでは、昼間みんな寝ていてインド人は働かないなどと言う人があります。ですが、あれは四十度五十度にもなる暑さになる昼間は体を休めているだけで、その分朝早く仕事をしたり夜涼しくなってから働いたりというのがインド人の日常です。
過酷な気候の中で生きるインドの人たちは、人も含めて息するものすべてが必死に生きねば生きられないと言われます。すさまじい住環境の中、沢山の異なる人たちと、もみくちゃになりながら、インドという国のたくましさが培われたのであろうと思います。
とにかくインドという国は面白い国です。私たち日本人は、一千五百年前から仏教を通してインドに学んでまいりましたが、現代においても、様々なことを、彼らのものの見方考え方、発想に学んでみてはいかがかであろうかと思っております。・・・
(全)
【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます
○今年の正月号にて広報しました檀信徒文集『みんなのひとりがたり』が完成いたしております。三十九名の方々から原稿が寄せられました。当初、それぞれ皆様の日頃思っていること、言い残しておきたいこと、思い出など私的な内容について原稿を寄せていただけたらと思っておりましたが、皆様気をつかわれたのか、國分寺とのご縁について綴ってくださる方が多く、恐縮した次第であります。ですが、そうしたお寺とのご縁の中に日ごろの思いや願い、家族との関係に触れながら改めて信仰について思いをいたす機会になられたことと思います。日々の行いの意味や絆を感じられ、より一層のご精進につながるものであることを願っております。慣れない原稿を一生懸命に書いてくださいました皆様に心より御礼申し上げます。
○来年は御涅槃です。そして、ご本尊薬師如来の御開帳を予定しています。平成六年本堂再建三百年祭で御開帳してはや三十年。世代も変わり多くの檀信徒から御開帳はいつですかと問われてきました。この機会にぜひお姿を御覧になりお詣りください。恒例の稚児行列も予定しておりますので、たくさんの御稚児さんにご参加いただけますよう早めにお声がけ下さいますようお願い申し上げます。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
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