日本における梵文学及びインド哲学研究の開拓者であり、『大正新修大蔵経』の編纂者であり、仏教の思想と精神の普及に生涯を捧げられた高楠順次郎博士が、昭和十五年二月に第一書房から戦時体制版として刊行した『佛教の眞髄』から、業と輪廻について学んでみようと思う。(なお、引用文は読みやすいように現代がなに筆者が書き換えた)
全体主義という章中に、【輪廻界】と題する短い一文がある。一切の衆生界を一族と見て、これを一流転の世界、つまり輪廻と名付けるとして、当時の日本人「仏教者の中にも、また西洋人の中にも、輪廻ということを信じない者がある。これは、久しく人間は万物の霊長であるという誇りに囚われている為に、自己の自尊心を傷つけるように考えるのである」と、高楠博士は記されている。
そして、「同じ人間と言っても、内容は畜生で人間の外皮をかぶっている者が多い。さすれば人間の外皮を捨てた時は、その内容の畜生が表面化して畜生の皮を着けるに至るであろう。また「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思もふ母かとぞ思ふ」というような親しみを鳥類に対して感ずることも出来るのである。何も人間の威厳を落とすように考えるには及ばない。
輪廻は流転である、流転(サンサーラ)というのは、河の水が流れて海に入る、海の水が騰つて霧となり、凝って雲となり、雲は雨となり、雪となって再び地上に落ち、山野に降っては根元を養い、渓谷に沈んでは泉源を作るように、常に流転している。これが輪廻界と名付けらるるのである。輪廻には始めも無い、終わりも無い、第一原因もない、創造主もない、永遠にかくの如く輪廻しつつあるのである。」とある。
仏教は他の宗教と根本的に異なる点がこの創造主を説かないことであろう。天地創造説を説くとそれをそのまま信じるしかない。ただ言われたことを信じるという発想が本来仏教にはないのである。だから誠に身近なところからご覧になって、「これあるに縁(よ)りてかれあり、これ生ずるときかれ生ず。これなきに縁(よ)りてかれなく、これ滅するときかれ滅す」とお釈迦様はお説きになられた。この世の現象や存在のあり方はすべて因と縁によって結果していくと看破されたのである。
これを因縁生起というが、何事にも原因あり、それを遡っていっても結局は一番最初の原因にはたどり着けないので、第一原因はなく、無始というのであり、それと同様に永遠に因果の連鎖は続いていくので無終というのである。輪廻も因果の流転に過ぎず、だからこそ永遠にかくの如く輪廻しつつあるとここでも言われている。
「輪廻界において、流転しつつあるものは何人も同様である。自己が自己を造りつつある。また共同に共有物を作り、共同に共有の世界を造るのである。人間は自己創造である。万人が万人同じように自己を創造しつつあるのであるから、自己の利を以て他己の利を奪うてはならぬ。相互に相助けて創造の世界に生きなくてはならぬ。結局、相互扶助でなくては自他創造の工作は不可能である。」とこの一文を結んでいる。
誰もが流転しつつこの輪廻の中に生きている。自分は他の周りの者に影響されつつ自己を形成し、周りの者に自分も影響を与えつつあることを考えれば、互いに良くあるようにあらねばならない。自分だけ良ければ他はどうでも良いという考えでは、自分も自ずから埋没していくことになるのは必然である。今の世界の金融界の実状を鳥瞰すれば、それは誰の目にも明らかなことであろう。冒頭にあったように、人間の外皮を纏っていてもその心は畜生や餓鬼と変わらないということにもなるのであろう。
また、人間性の自覚という章中にある【佛教と生死観念】という一文では、死も生も同位であり、私たちのいう死とは、次の世の初生の生であり、すべての生類は生きては没する如くに見えるけれども、常に生々しているのみで死ぬるときはない。生類は死してあるべき時期は寸時もないのであり、何れの所にか何らかの形を以て存在しているとして、「死は生類が現生の古衣を脱ぎ捨てて次の初生時代の受胎初発の細胞状態に還るのである。唯人が人に生まれ、馬が馬に生まるるのは遺伝法であるが、因果法は人格の高下で左右せらるるのであるから、人も人とならず、馬も馬と生まれざる自業自得の法則を具有している。これがすなわち輪廻の生である。」と説かれている。
日本や中国、チベットなど大乗仏教では死有から次の生有までの間に転生していない中有の期間を認め、それが四十九日あることを説く。部派仏教の説一切有部や正量部なども中有を認めるのであるが、ここで高楠博士は中有を認めないパーリ上座部などの説を信奉せられていたということが分かる。いずれにせよ、こうして永久に再生を繰り返すのが物質不滅の真理に対する業力不滅の真理であるとして、この業力によって無明長夜が黒い幕を下ろし続けるのであるという。
業とは私たちがその意志で行う創造的な行為で、身、語、意の三業とも言い、その業の現世、来世に及ぼす結果を業報、業果と名付け、これが人類の運命に影響するのを業力と称するという。遺伝も生まれも、不滅の業力によって支配されるのであって、自業自得であり、そのもって生まれた境遇に対して、何人も文句を言うわけにもいかず、怨むことも出来ない。だから業力の根底を美しくして、三業の完全に培養し得た仏の如くに三業荘厳して人格の完成をはかることが人生究極の目的なのであり、それが死に追われない生の獲得なのである、と高楠博士は説いている。
仏教の法は縁起の法である。すべての教えが縁起に収斂される。自ずから業が説かれ、業によって輪廻も導かれる。輪廻を否定することはすなわち仏教そのもの、お釈迦様の悟りそのものをも否定することに繋がるのだと言えよう。
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全体主義という章中に、【輪廻界】と題する短い一文がある。一切の衆生界を一族と見て、これを一流転の世界、つまり輪廻と名付けるとして、当時の日本人「仏教者の中にも、また西洋人の中にも、輪廻ということを信じない者がある。これは、久しく人間は万物の霊長であるという誇りに囚われている為に、自己の自尊心を傷つけるように考えるのである」と、高楠博士は記されている。
そして、「同じ人間と言っても、内容は畜生で人間の外皮をかぶっている者が多い。さすれば人間の外皮を捨てた時は、その内容の畜生が表面化して畜生の皮を着けるに至るであろう。また「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思もふ母かとぞ思ふ」というような親しみを鳥類に対して感ずることも出来るのである。何も人間の威厳を落とすように考えるには及ばない。
輪廻は流転である、流転(サンサーラ)というのは、河の水が流れて海に入る、海の水が騰つて霧となり、凝って雲となり、雲は雨となり、雪となって再び地上に落ち、山野に降っては根元を養い、渓谷に沈んでは泉源を作るように、常に流転している。これが輪廻界と名付けらるるのである。輪廻には始めも無い、終わりも無い、第一原因もない、創造主もない、永遠にかくの如く輪廻しつつあるのである。」とある。
仏教は他の宗教と根本的に異なる点がこの創造主を説かないことであろう。天地創造説を説くとそれをそのまま信じるしかない。ただ言われたことを信じるという発想が本来仏教にはないのである。だから誠に身近なところからご覧になって、「これあるに縁(よ)りてかれあり、これ生ずるときかれ生ず。これなきに縁(よ)りてかれなく、これ滅するときかれ滅す」とお釈迦様はお説きになられた。この世の現象や存在のあり方はすべて因と縁によって結果していくと看破されたのである。
これを因縁生起というが、何事にも原因あり、それを遡っていっても結局は一番最初の原因にはたどり着けないので、第一原因はなく、無始というのであり、それと同様に永遠に因果の連鎖は続いていくので無終というのである。輪廻も因果の流転に過ぎず、だからこそ永遠にかくの如く輪廻しつつあるとここでも言われている。
「輪廻界において、流転しつつあるものは何人も同様である。自己が自己を造りつつある。また共同に共有物を作り、共同に共有の世界を造るのである。人間は自己創造である。万人が万人同じように自己を創造しつつあるのであるから、自己の利を以て他己の利を奪うてはならぬ。相互に相助けて創造の世界に生きなくてはならぬ。結局、相互扶助でなくては自他創造の工作は不可能である。」とこの一文を結んでいる。
誰もが流転しつつこの輪廻の中に生きている。自分は他の周りの者に影響されつつ自己を形成し、周りの者に自分も影響を与えつつあることを考えれば、互いに良くあるようにあらねばならない。自分だけ良ければ他はどうでも良いという考えでは、自分も自ずから埋没していくことになるのは必然である。今の世界の金融界の実状を鳥瞰すれば、それは誰の目にも明らかなことであろう。冒頭にあったように、人間の外皮を纏っていてもその心は畜生や餓鬼と変わらないということにもなるのであろう。
また、人間性の自覚という章中にある【佛教と生死観念】という一文では、死も生も同位であり、私たちのいう死とは、次の世の初生の生であり、すべての生類は生きては没する如くに見えるけれども、常に生々しているのみで死ぬるときはない。生類は死してあるべき時期は寸時もないのであり、何れの所にか何らかの形を以て存在しているとして、「死は生類が現生の古衣を脱ぎ捨てて次の初生時代の受胎初発の細胞状態に還るのである。唯人が人に生まれ、馬が馬に生まるるのは遺伝法であるが、因果法は人格の高下で左右せらるるのであるから、人も人とならず、馬も馬と生まれざる自業自得の法則を具有している。これがすなわち輪廻の生である。」と説かれている。
日本や中国、チベットなど大乗仏教では死有から次の生有までの間に転生していない中有の期間を認め、それが四十九日あることを説く。部派仏教の説一切有部や正量部なども中有を認めるのであるが、ここで高楠博士は中有を認めないパーリ上座部などの説を信奉せられていたということが分かる。いずれにせよ、こうして永久に再生を繰り返すのが物質不滅の真理に対する業力不滅の真理であるとして、この業力によって無明長夜が黒い幕を下ろし続けるのであるという。
業とは私たちがその意志で行う創造的な行為で、身、語、意の三業とも言い、その業の現世、来世に及ぼす結果を業報、業果と名付け、これが人類の運命に影響するのを業力と称するという。遺伝も生まれも、不滅の業力によって支配されるのであって、自業自得であり、そのもって生まれた境遇に対して、何人も文句を言うわけにもいかず、怨むことも出来ない。だから業力の根底を美しくして、三業の完全に培養し得た仏の如くに三業荘厳して人格の完成をはかることが人生究極の目的なのであり、それが死に追われない生の獲得なのである、と高楠博士は説いている。
仏教の法は縁起の法である。すべての教えが縁起に収斂される。自ずから業が説かれ、業によって輪廻も導かれる。輪廻を否定することはすなわち仏教そのもの、お釈迦様の悟りそのものをも否定することに繋がるのだと言えよう。
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