この曲に出会ったのは、Youtubeで、『日本で放送できない報道できない震災の裏側』という動画のバック音楽に使われていたからだ。この動画自体が「NewyorkTimes」の写真サイトから取られた画像を何百枚も用いてそのまま使い、なかなか日本では隠されて見ることのないあからさまな映像となっていることに対する拒否反応や著作権などに問題があるとのコメントが多数寄せられている問題のある投稿であるが、それらのことはここでは置いておきたい。
その映像を見ながらこのバックの曲に、つまり『人間失格』という曲に、最初はとても違和感を感じた。震災の悲惨な映像そのままをそのままに見せた方がよいのではないかと思ったのだ。しかし、その曲を聴けば聞くほどに、その歌詞の力、声の力、魂の問いかけに心動かされるものを感じた。ここにじっとして震災の被災者の方々のことを思うだけでいいのだろうか。何かすべきことがあるのではないか。心騒ぐものを甘受するにはあまりにも心に突き刺さる歌詞を無視できなくなっていた。
この曲は3月2日にリリースされた。その一週間あまり後に地震があったことになる。だから、この曲自体は震災について書かれたものでは勿論ない。しかし今こうして地震の映像と共に聞くとき、正にこの震災を予感し、この事態に及んで、私たち日本人の心にそのままでいいのですか、何かすべきことがあるのではないですか、変わらなくてはいけないのではないですかと問われているようにも感じられるのだ。
「涙を忘れていませんか、大事なことから逃げてないですか、自分に嘘ついてませんか、諦めることに慣れすぎてませんか、夢を忘れてていませんか、道を外れていませんか、大切な人涙してませんか、家族を大事にしてますか・・・」という問いかけが延々と続く。
http://www.youtube.com/watch?v=xPfm80lZdFA
この曲を書き歌うMetisは、1984年広島市に生まれた27歳のソウル系の女性シンガーソングライターだ。3歳の時両親は離婚し、お母さんの手一つで育った。親戚の家々を渡り歩きながら育った時期もあり、いつもいい子でいなくてはいけないと思って、自分の心を偽りうわべだけいい子を装ったことも。そんな自分にお母さんはいつも絶大な愛と勇気を与えてくれたという。
そんな生い立ちのせいだろうか、その曲作りには聞く者たちに良くあって欲しい、元気になって欲しい、明るく幸せであって欲しいという思いが感じられるものばかりだ。子供たちに命の大切さを知って欲しいからと小学校に出前授業をしたり、病院に出向き輸血なしに生きられない若者たちを励まして歩く。そしていま震災の被災地に行き炊き出しを手伝う。
そんな彼女ではあるが、時に深く悩み苦しむこともあった。そんなとき、いいことばかりの明るい曲を歌っても虚しさしか感じられない。そして出会ったのが太宰治の「人間失格」だった、それを読んで、彼女は人間が迷いもがき葛藤する姿に美しさを感じたという。さらにある人から言われた「涙を忘れていませんか」との言葉に動かされ書いたのがこの『人間失格』という曲だという。
前回「想定外ということ」に書いたとおり、いいことばかり、総花的な、耳障りのいいことばかり言ったり考えていたりしても、それではダメだということであろう。オブラートに包んだような表現を使いたがる私たち日本人のやりがちなことを、Metisのこの歌は正にぶち壊すような曲だとも言えようか。しかし、今このときにこのような試みこそ求められているのかもしれない。
私たち日本の仏教はいかがであろう。正にMetisが陥った息のつまるようなものになってはいまいか。良いことばかり、耳障りのいいことばかり、みんな仏様ですよ、死んだらみんな仏様の世界に逝くんですよ、この世は素晴らしい仏様の世界ですよ、そんな言い方に誰もが辟易しているのではないか。言われたときにはそのように思えても、まったく心に深く残ることのないこのような表現に誰もが仏教など無意味に感じ無関心になっているのではないか。
仏教とは、そもそもそんなものではない。そんなものであったならば2600年も続いてこなかったであろう。仏教とは、この世の現実、真実を何よりも大切にぐっさりと突きつけてくるものではないか。自らの行い、業そのままの結果を予測しそのために今この瞬間にいかにあるべきかを迫る教えであろう。大事なことから逃げてはいけない。正に、Metisが謳うその歌詞そのままに自らの心を問いつつ、日々葛藤する中で自らの道を糺していく教えなのではないか。
仏教が総花的なことばかりになり、本当のことを説かなくなった。沢山の宗派に別れバラバラとなり、そして自らをも律していく姿勢が失われていることこそが、何よりもこの国のだれた馴れ合いの無責任な社会を作ってきてしまった根本的な原因ではないか。私にはそう思えてならない。勿論私もその加害者であることは言うまでもないが。仏教者は皆その自責の念を今このときに自覚する必要がある。
仏教とは本来それだけの力ある教えなのではないか。仏教の力で、今のこの国の窮地を救おうではないか、そんなことを言っても少しもおかしくない、それだけの力ある教えのはずである。奈良時代の聖武天皇、平安時代の嵯峨天皇の事跡を上げるまでもなく、仏教によって日本はその国難を何度も乗り越えてきた歴史がある。私たちは、その力あるはずの仏教を貶めてきた、それが故に今こうしてあることを思わねばならないのではないかと思う。何よりも、真実を見る、この世の現実を、誰が言ったからではない、本当のことを自ら探求し多くの人たちがより良くあれるようにすべき智慧ある仏教の本来の教えを自覚すべきであろうと思う。
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