密教思想の特徴
密教とは、これまでのすべての仏教を集約したものと言うことが出来ます。
つまり、初期の仏教からは基礎的教理や戒律、大乗仏教からは諸仏諸菩薩への信仰や空の思想、如来蔵思想、唯識説など、これらすべてを吸収し、そしてまた、インド古来の儀礼呪術などを方便として取り入れ、それら仏教の諸教理を様々な修法や儀礼の中に映し込んだものが密教なのだと言えます。
密教の特徴は、その象徴性、神秘性、儀礼性にあると言われます。それらが儀式や儀礼、供養法として一つに溶け合っていると言うことができます。
曼荼羅は諸仏諸菩薩をはじめ、多くの明王や諸天といったヒンドゥーの神々をも配して、さとりの世界を象徴的に表現したものであります。しかし、それは単に眺めるものとして描かれたのではなく、瞑想しその曼荼羅を細部にわたり観想して心の浄化をはかり、曼荼羅の諸尊と行ずる人自らが、神秘的な合一を果たすものとして作られたものです。そして、その曼荼羅世界の中にあって、様々な供養や祈願をなす儀礼として、現実の世界に提示されるのです。
また、純粋な密教経典は、大日如来が経典の教主として登場しています。それまでのお釈迦様が説法する大乗経典などのスタイルとは大きな違いがあります。
お釈迦様は私たちと同じ人間の目線で、ものや心の観察を経てさとりへいたる法を説かれました。しかし、密教では、宇宙の大きな命である大日如来が、さとりの心で捉えた世界観を示し、宇宙の真理にいたる実践法を説いています。
そこでは、この世に存在するあらゆるものは大日如来の身体的な活動のあらわれであり、あらゆる音や声は如来の言語的働き、すべての心の動きはことごとく如来の心的な活動であるとしています。
私たち人間の身体、口、心によるあらゆる活動も、本来的にみれば仏の活動に他ならないと考えます。そして、誰もが成仏する可能性があるとする如来蔵思想を超えて、自身がそのまま仏であることを自覚することが求められるのです。そのことを即身成仏と言い、大乗仏教では無限の時間を要するとした成仏が、密教では速疾に可能であるとするのです。
その秘訣として、仏のこころや誓願を象徴的に表す印相を手に結ぶ身密、真言を唱える口密、仏の世界を観想する意密、これら身口意の三密が説かれます。そして、それらを同時に行じて三昧に入ることによって、人間の身口意の活動が、本来、仏のそれであることに気づくことが出来るとしています。
また、すべてのものが大日如来のあらわれであることから、何ものも否定されることなく、現実の世界に存在するものすべてに価値があるとするのです。そのため、たとえさとりのためには滅することが主張されてきた煩悩さえも、より大きな欲、一切衆生救済の欲へと昇華されるべきであると説かれるのです。
後期の密教
ヴァルダナ朝のハルシャ王の後、群雄割拠の時代を経て、中インドには八世紀のはじめにパーラ王朝が興り、王たちはいずれも熱心な仏教徒であり、仏教、特に密教を支援しました。そのため、中インド、東インドでは密教が盛んとなり、他の地域では次第に仏教が消滅する中で、最後まで仏教が存続することになりました。
八世紀の後半には、「秘密集会タントラ」が成立して、下層階級を対象とした宗教運動が起こりました。タントラとは、経が思想面を主に説くのに対し、実践面を説く聖典のことです。
この「秘密集会タントラ」は貪欲からさとりを求める道を示したものであり、前世における死と、死と誕生の中間としての中有、それに父母の交接と中有の識とによる誕生の過程を、仏の出生として観想する修法が説かれました。
さらに九世紀中葉以後、ヒンドゥー教の影響から、行者の呼吸や生理作用を利用して真理の世界に融合していくヨーガの行法を説く「ヘーヴァジュラタントラ」など左道密教が盛んになりました。
後期密教の最後に登場する「カーラチャクラタントラ」は、後期密教を総合する立場に立ち、梵天やシヴァ、ヴィシュヌなどヒンドゥー教の神が仏陀の協力者として説かれ、ヒンドゥー教との融和協調的教理が示されました。これは、十一世紀に入り頻発するイスラム教徒の侵略に対抗し、ヒンドゥー教諸派に呼びかけて大同団結して勝利することを主眼に説かれたものでありました。
密教の伝播
七世紀中葉以降、主流となっていった密教は、インド周辺の多くの地域に伝播していきました。
シルクロードを通り多くの他の経典と共に中国へ伝えられ、大日経、金剛頂経までの密教が行われ、後に我が国にも、もたらされることとなりました。
七世紀に仏教が入ったチベットでは、八世紀後半にパドマサンバヴァによって密教が伝えられました。十一世紀には、パーラ王朝によって創建されたヴィクラマシラー大寺の学頭アティーシャがチベットに入り、大乗の諸教理や戒律を重視して、それらを学び終えた上で密教を学ぶ体系を確立したと言われています。特に後期密教が行われ、今日に至っています。
また、既に仏教が伝わり上座仏教が定着していたスリランカでも、八~十世紀の間密教が有力であったといいます。さらには、インドネシアのボロブドゥールの遺跡に立体曼荼羅を残すように、東南アジア各地にも密教が海路で伝播されていきました。
インド仏教の終焉
グプタ朝、パーラ朝などの庇護を受け、ベンガル地方などには堅牢な障壁を持つ巨大な仏教寺院が建設されました。
これに対し、ヒンドゥー教は民衆の生活にとけ込み、村々に小さなお堂がある程度で教団組織らしきものも整ってはいませんでした。
それが故に、イスラム教徒から城郭と見なされた仏教寺院が集中的に攻撃を受けることになりました。また、黄衣を着て鉢と杖をもって整然と乞食するお坊さんたちの隊列は、軍隊のごとく思われて、多くのお坊さんが殺され、財産も強奪されました。
そして、一二〇三年、当時の仏教の中心的拠点で、一〇七もの塔頭を持つヴィクラマシラー大寺がイスラム軍により徹底的に破壊され、またナーランダーなど他の仏教寺院も同じ運命を辿りました。これをもって、多くの研究者はインド仏教の法灯がついえたとしています。
その後インド中央部では、若干のお坊さんが残るのみで、仏教徒たちは、チベットやネパール、東ベンガル地方ミャンマー国境へと避難し、仏教徒として細々と仏教を継承していくことになりました。(つづく)
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密教とは、これまでのすべての仏教を集約したものと言うことが出来ます。
つまり、初期の仏教からは基礎的教理や戒律、大乗仏教からは諸仏諸菩薩への信仰や空の思想、如来蔵思想、唯識説など、これらすべてを吸収し、そしてまた、インド古来の儀礼呪術などを方便として取り入れ、それら仏教の諸教理を様々な修法や儀礼の中に映し込んだものが密教なのだと言えます。
密教の特徴は、その象徴性、神秘性、儀礼性にあると言われます。それらが儀式や儀礼、供養法として一つに溶け合っていると言うことができます。
曼荼羅は諸仏諸菩薩をはじめ、多くの明王や諸天といったヒンドゥーの神々をも配して、さとりの世界を象徴的に表現したものであります。しかし、それは単に眺めるものとして描かれたのではなく、瞑想しその曼荼羅を細部にわたり観想して心の浄化をはかり、曼荼羅の諸尊と行ずる人自らが、神秘的な合一を果たすものとして作られたものです。そして、その曼荼羅世界の中にあって、様々な供養や祈願をなす儀礼として、現実の世界に提示されるのです。
また、純粋な密教経典は、大日如来が経典の教主として登場しています。それまでのお釈迦様が説法する大乗経典などのスタイルとは大きな違いがあります。
お釈迦様は私たちと同じ人間の目線で、ものや心の観察を経てさとりへいたる法を説かれました。しかし、密教では、宇宙の大きな命である大日如来が、さとりの心で捉えた世界観を示し、宇宙の真理にいたる実践法を説いています。
そこでは、この世に存在するあらゆるものは大日如来の身体的な活動のあらわれであり、あらゆる音や声は如来の言語的働き、すべての心の動きはことごとく如来の心的な活動であるとしています。
私たち人間の身体、口、心によるあらゆる活動も、本来的にみれば仏の活動に他ならないと考えます。そして、誰もが成仏する可能性があるとする如来蔵思想を超えて、自身がそのまま仏であることを自覚することが求められるのです。そのことを即身成仏と言い、大乗仏教では無限の時間を要するとした成仏が、密教では速疾に可能であるとするのです。
その秘訣として、仏のこころや誓願を象徴的に表す印相を手に結ぶ身密、真言を唱える口密、仏の世界を観想する意密、これら身口意の三密が説かれます。そして、それらを同時に行じて三昧に入ることによって、人間の身口意の活動が、本来、仏のそれであることに気づくことが出来るとしています。
また、すべてのものが大日如来のあらわれであることから、何ものも否定されることなく、現実の世界に存在するものすべてに価値があるとするのです。そのため、たとえさとりのためには滅することが主張されてきた煩悩さえも、より大きな欲、一切衆生救済の欲へと昇華されるべきであると説かれるのです。
後期の密教
ヴァルダナ朝のハルシャ王の後、群雄割拠の時代を経て、中インドには八世紀のはじめにパーラ王朝が興り、王たちはいずれも熱心な仏教徒であり、仏教、特に密教を支援しました。そのため、中インド、東インドでは密教が盛んとなり、他の地域では次第に仏教が消滅する中で、最後まで仏教が存続することになりました。
八世紀の後半には、「秘密集会タントラ」が成立して、下層階級を対象とした宗教運動が起こりました。タントラとは、経が思想面を主に説くのに対し、実践面を説く聖典のことです。
この「秘密集会タントラ」は貪欲からさとりを求める道を示したものであり、前世における死と、死と誕生の中間としての中有、それに父母の交接と中有の識とによる誕生の過程を、仏の出生として観想する修法が説かれました。
さらに九世紀中葉以後、ヒンドゥー教の影響から、行者の呼吸や生理作用を利用して真理の世界に融合していくヨーガの行法を説く「ヘーヴァジュラタントラ」など左道密教が盛んになりました。
後期密教の最後に登場する「カーラチャクラタントラ」は、後期密教を総合する立場に立ち、梵天やシヴァ、ヴィシュヌなどヒンドゥー教の神が仏陀の協力者として説かれ、ヒンドゥー教との融和協調的教理が示されました。これは、十一世紀に入り頻発するイスラム教徒の侵略に対抗し、ヒンドゥー教諸派に呼びかけて大同団結して勝利することを主眼に説かれたものでありました。
密教の伝播
七世紀中葉以降、主流となっていった密教は、インド周辺の多くの地域に伝播していきました。
シルクロードを通り多くの他の経典と共に中国へ伝えられ、大日経、金剛頂経までの密教が行われ、後に我が国にも、もたらされることとなりました。
七世紀に仏教が入ったチベットでは、八世紀後半にパドマサンバヴァによって密教が伝えられました。十一世紀には、パーラ王朝によって創建されたヴィクラマシラー大寺の学頭アティーシャがチベットに入り、大乗の諸教理や戒律を重視して、それらを学び終えた上で密教を学ぶ体系を確立したと言われています。特に後期密教が行われ、今日に至っています。
また、既に仏教が伝わり上座仏教が定着していたスリランカでも、八~十世紀の間密教が有力であったといいます。さらには、インドネシアのボロブドゥールの遺跡に立体曼荼羅を残すように、東南アジア各地にも密教が海路で伝播されていきました。
インド仏教の終焉
グプタ朝、パーラ朝などの庇護を受け、ベンガル地方などには堅牢な障壁を持つ巨大な仏教寺院が建設されました。
これに対し、ヒンドゥー教は民衆の生活にとけ込み、村々に小さなお堂がある程度で教団組織らしきものも整ってはいませんでした。
それが故に、イスラム教徒から城郭と見なされた仏教寺院が集中的に攻撃を受けることになりました。また、黄衣を着て鉢と杖をもって整然と乞食するお坊さんたちの隊列は、軍隊のごとく思われて、多くのお坊さんが殺され、財産も強奪されました。
そして、一二〇三年、当時の仏教の中心的拠点で、一〇七もの塔頭を持つヴィクラマシラー大寺がイスラム軍により徹底的に破壊され、またナーランダーなど他の仏教寺院も同じ運命を辿りました。これをもって、多くの研究者はインド仏教の法灯がついえたとしています。
その後インド中央部では、若干のお坊さんが残るのみで、仏教徒たちは、チベットやネパール、東ベンガル地方ミャンマー国境へと避難し、仏教徒として細々と仏教を継承していくことになりました。(つづく)
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