住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

昨日の法話を補足完結する

2012年07月30日 09時45分12秒 | 仏教に関する様々なお話
本日は、○○氏の満中陰の法要のために、遠方より沢山の皆様がこうしてお参りをいただき、誠にありがたく思う次第であります。○月○日に亡くなられ、急遽枕経に参り、そして通夜葬儀をして、七日のお参りを続けて今日を迎えました。こうして盛大に四十九の満中陰を営むのは皆さんご存知の通り、今日をもって亡くなられた○○氏の心が来世に旅立つからであります。

人はこうして生きているとき、心と体が一つになって生きています。般若心経にも五蘊という言葉で、私たち人間は五つの集まりですよと言うわけですが。色受想行識ですが。それは大きくは心と体だということなのです。身体の寿命が終えても心も同様になくなるわけではなく、しばらくすると心は身体から離れていき、この空間の中で四十九日の間漂っている、それを中陰と言います。

なかなか現代の人には理解しにくいことかも知れませんが、たとえば、臨死体験というのがあります。身体が事故や病気で仮死状態になると、心がスッと出て、病室の上の方から見ていたとか、オートバイで事故したりすると、その瞬間に身体から心が出て上から身体が飛んで行くのが見えたとか、いろいろな報告があります。

さらには、池川明さんという人が東京の産婦人科医ですが、「子供は親を選んで生まれてくる」という本を書いて、生まれてくるときの記憶、また、お母さんのお腹にあるときの記憶、さらにはお腹に入るときの記憶を話し出す子供が日本にもいるのだといいます。前世から引き継いだ今生での課題のために、それを果たすのに相応しいお母さんを選んで私たちは生まれてくるのだとこの先生は言われています。前世の記憶を語り出す子もいると言います。インド、スリランカではそのような話は五万とあるわけですが。

そうして、仏教では、生前のなしてきたこと、それに伴う心があり、亡くなられるときの心の次元に従って次の来世が決まってくるのだといいます。ですから、亡くなられるときには明るい心で、肯定的な心で亡くならねばならないのですが。とにかく、そうして自らなして作り出してきた、それを業というわけですけれど、それに従って来世があるのです。

六道に輪廻するというように、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つのどこかに行くとされています。仏教に帰依し、こうして法要にご参加の皆様は普通に生きておられたら、人間界以上の世界に行くこととは思いますが、人間界にも様々ですから、少しでも多くの徳を積んで良い世界にいけるように生きる、そのために仏教の教えがあるわけです。

数年前のことにはなりますが、「千の風になって」という歌が流行りました。あのとき、亡くなった人がお墓にいませんというと、仏教的にどうかなどと言われたことがありました。お墓になくなった人が居ると思ってお墓参りしてきた人たちにとってはショックなことだったのかも知れませんが、お墓になくなった人が居るというのは、亡くなった人がこの世に執着を残してこの世にとどまっているということです。

やはりスッキリと来世にいってもらわねばいけないのです。ですから、亡くなったことに対して残された遺族親族知人たちがいろいろと思いを伝えて、亡くなったということを確認していただく意味でも、お葬式も大切ですし、ご遺族がきちんとご供養をしてあげるということも大切なのです。成仏して下さい、つまり、より良いところにいって下さいという思いを込めて焼香をしていただいたこととは思いますが、そうして、人間界に生まれるなら、自らの業に従って、池川先生の言い方なら自らそのお母さんを選んで、来世のお母さんのお腹の中の命に心が入って再生をしていくのです。

みんなそうして生まれ変わり生まれ変わりしてずっと無始無終に六道を生きている命・衆生ということになります。こうした世界観・生命観の元に今日の法事というのもあるわけです。今日こうして皆様は現世の家族親族のために善行を施し供養されました。同様に、皆様の前世の家族親族が皆様のために供養を重ねその功徳を回向してくれているお蔭で私たちは元気にこうして恙なく生きているのかも知れません。ですから、私たちも今この現世で、縁ある方々の供養をしてあげるというのは、やはり自分のためでもあるということではないかと思えるのです。・・・。

長々お話をしましたが、故人に負けないように私たちもいい人生を心かげて、来年も元気にお集まりいただきご供養を重ねていただきたいと思います。本日は誠にご苦労さまでした。

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世界で語られる仏教-Damien Keown氏の「Buddhism」に学ぶ②

2012年07月11日 07時31分48秒 | 仏教書探訪
多くの国々のプロの学者たちが西洋に仏教を伝えるのに重要な役割を演じた。1845年、フランス人のヨーゲン・ビュルヌフが「インド仏教史序論」を出版して、この7年後に法華経の翻訳をなした。ドイツでの仏教への興味は、1881年にヘルマン・オルデンベルグが「ブッダその生涯、彼の教説、彼の共同体」と題する本の出版によって活気づけられた。その世紀末にはアメリカ人のヘンリー・クラーク・ウォーレンが今日では一般的になったパーリ聖典から重要な名句集(1896)を翻訳し出版した。そしてこの頃、1893年シカゴで、最初の万国宗教大会が開かれた。

それは、世界の様々な信仰を持つ代表者が共に分かれて共通の課題について探求することを目的としていた。仏教側の代表には、スピーチや一般のミーティングで偉大な共感を与えたスリランカのアナガリカ・ダルマパーラ(1864-1933)がいた。彼は、その後10年の間に二度渡米して、マハー・ボーディ・ソサエティのアメリカ支部を創設した。それは最初の国際的な仏教徒の協会でありカルカッタを本部にしていた。そしてそのアメリカ支部は西洋での最初の仏教徒組織となった。

世紀が変わり間もなくすると、それまでメインだった南アジアの仏教から、チベット、中国を通った大乗仏教を含む研究が注目されるようになっていく。ベルギーの大学者、ルイス・デ・ラ・ヴァリー・プーシン、エティエンネ・ラモットらは、この分野で巨大な貢献をなした。さらには、彼の講義や影響力溢れる書籍によって禅仏教を西洋に知らしめた日本の仏教者、鈴木大拙(1870-1966)にも言及されねばならないだろう。

哲学、文化、そして芸術

仏教が西洋文化に浸透する第二は、哲学と文化、そして芸術によってである。ドイツの哲学者、アーサー・ショーペンハウエル(1788-1860)は、仏教に関心をもった最初のメジャーな西洋人哲学者だった。当時まだ信頼できる資料がなかったことで、ショーペンハウエルは不十分な仏教知識ではあったが、自らのいささか悲観的な哲学を確認していく作業の中で仏教を捉えていった。世界の宗教の中で仏教は、彼によって最も合理的倫理的に発展したものとみなされ、彼の文章の中に頻繁に言及されることで、仏教は19世紀の後半には西洋の知識人たちの注目を集めることになった。

英国では、エドウィン・アーノルド卿(1832-1904)が、1879年に有名なポエム「アジアの光」を出版した。その詩は、ブッダの生涯と教えをメロドラマ風に記述したもので、大西洋の両岸でビクトリア時代に、つまり19世紀の中産階級にとても人気を博した。アーノルドはイエスとブッダを分け隔て無く共通するものとしてとらえたキリスト教徒だった。彼は1885年にブッダが悟りを開いたブッダガヤの地を訪れて、荒れ果てた状態を復興するための基金を募るキャンペーンを行った。

そしてこの頃、つまりビクトリア時代の人々の間に超自然な神秘に興味が高まった。そこで1875年には、ヘンリー・オルコット大佐(1832-1907)とマダム・ブラヴァッキーが、すべての宗教の中心にあると信じられた密教的な真理の庫を開けることに捧げられた神智学協会を創設した。注目されるべきは、主に東洋の宗教にその焦点が当てられていたことであり、特に仏教は研究やサロンや客間の話題の人気ある題材となっていった。

ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは、彼の書き物において仏教に言及し、とりわけ1922年に書いた「シッダールタ」は、沢山の言語に翻訳された。戦後にジャック・ケルアックの小説「ダルマ・バムス」「オン・ザ・ロード(路上)」はビート世代に人気を博し、その後に来るカウンター・カルチャー(反体制文化)にインスピレーションを与えることになった。折衷主義者で哲学者のアラン・ワッツは、一般読者層を引きつける禅の本を沢山書いたが、それよりもさらにたった一つの仕事によって、それは禅よりも西洋哲学に多く言及しているのだが、「禅とオートバイのメンテナンスの芸術」を書いたM・ペルシッグが、少なくともその題名によって、仏教の中で禅が西洋で広く知られことを確かなものにした。

そして、映画も、西洋文化の中に仏教徒の考えを吹き込むのに役立った。ヘッセの小説「シッダールタ」が1970年代に大学のキャンパスでとても人気ある映画として上映され、さらに近年では、ベルトルッチの構想による「リトル・ブッダ」が、インドとアメリカでの場面が登場し、仏教が西側の文化の一部となりつつある際限を提示している。その話は、ブッダの生涯の物語をシアトルのアメリカ人の両親のもとに再生したチベットのラマを探す話に織り交ぜたものである。他には最近では、スコセッシの「クンドゥン」(この括弧内は訳者による補足・チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世の、インド亡命に至るまでの前半生を描いた伝記映画。1997)。

ジャン・ジャック・アノーの「セブンイヤーズインチベット」(訳者による補足・Wikipediaより、1939年秋、登山家ハインリッヒ・ハラーは世界最高峰ヒマラヤ山脈への登山に向かった。時悪く、第二次世界大戦のためにインドでイギリス軍の捕虜となってしまった彼は脱獄し、チベットへと行き着く。チベットの首都ラサで生活をしていたハラーは、当時14歳で好奇心旺盛なダライ・ラマ14世と出会い、親しく交流する。ラサでの日々がハラーの荒んだ心に変化をもたらした。しかし、その生活も中国共産党の中国人民解放軍によるチベット国への軍事侵略によって終わりを告げることとなるのだった。1997)が挙げられよう。


つづく


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世界で語られる仏教-Damien Keown氏の「Buddhism」に学ぶ①

2012年07月09日 19時53分09秒 | 仏教書探訪
英国のオックスフォード大学出版に『A Very Short Introduction』という新しい分野を学ぶ人のためのガイダンスとなるシリーズがある。新書版程度の大きさで130ページ程度にコンパクトにまとめられた本ではあるが、その中に、Damien Keown氏の「ブッディズム」があることを知り、早速取り寄せてみた。

1 Buddhism and Elephants

2 The Buddha

3 Karma and Rebirth 業と再生

4 The Four Noble Truths 四聖諦

5 The Mahayana 大乗

6 Buddhism in Asia

7 Meditation 瞑想

8 Ethics 倫理道徳

9 Buddhism in the West 西洋における仏教

と9章まであり、誠にバランスよく仏教の何たるかが説かれている。Keown氏は、ゴールドスミス大学、ロンドン大学で仏教の教授をされている仏教学の先生。

Wikipediaより転載

Damien Keown is a prominent bioethicist and authority on Buddhist bioethics.[1] He currently teaches in the Department of History at the University of London. Keown earned a BA in religious studies from the University of Lancaster in 1977 and a DPhil from the Faculty of Oriental Studies at Oxford University in 1986.

Keown's most important books include The Nature of Buddhist Ethics (1992) and Buddhism & Bioethics (1995). His most widely read book is Buddhism, A Very Short Introduction (Oxford University Press).

転載終わり

ここでは、最終章の「西洋における仏教」を少し紹介してみたい。

『Buddhism -A Very Short Introduction  Damien Keown』
Chapter 9 Buddhism in the West より

交流のはじめ

アジアに浸透していった仏教ではあるが、現代まで仏教は、実質的には西洋では知られていなかった。西側の国々にアショカ王が使節を派遣したことも結果を残すまでのことがなく、古代インドへの訪問者たちも歴史にわずかな足跡を残したに過ぎない。

紀元前4世紀にアレクサンダー大王が現代ではパキスタンにあたるインダス河まで軍隊を率いてきたが、程なく引き返し間もなくバビロンで彼は亡くなった。そのアレクサンダー帝国の東部地域の後継者であるセレウコス・ニカトゥールはインドでマウリア王朝と武力対立して、その後平和条約に合意し、マガステーネスという名のギリシャ人大使がマウリア朝の首都パータリプトラでアショカの祖父チャンドラ・グプタの宮廷を訪ねている。

その最初のコンタクトによって、ジムノソフィスト(裸行者の苦行を実践するヒンズー教の宗派の一員)としてギリシャで知られるインドの聖人の話などが古代ギリシャ世界に伝わり始めた。だが、インドの宗教についての詳しい情報などは希薄で、自分の腕に頭を抱えて歩く人といった奇譚話がほとんどであった。そのため仏教が実質的に古代世界に知られることはなかったのである。

13世紀には、マルコ・ポーロが中央アジアを通って中国に旅した、そして、その旅は彼に仏教の中でも大乗の教えとの接触をもたらした。仏教について彼は「確かに彼はキリスト教徒に洗礼を施した。彼は我々の聖なるイエス・キリストと並び称される偉大なる聖者であろう」と書いた。その時代、Barlaam and Josaphatという仏陀のクリスチャンバージョンの話が中世で最も人気のある物語になった。しかし、中世の読者たちは、それが千年も前のインドで造られた仏陀の生涯をベースにしたものとは知らなかったようだ。Josaphatは菩薩という言葉を置き換えたものである。

1498年にポルトガルがインドへの海上ルートを発見するまで、東西の接触が継続してなされることはなかった。しかしアジアの繁栄した国からの訪問者や遠く離れて知られていないところからやってきた人にはヨーロッパの人たちは余り興味を示さなかった。アジアへのヨーロッパからの訪問者の興味は異教徒の宗教について学ぶよりも金を発見したり、キリスト教徒への改宗の方に注がれた。しかし、16世紀に中国や日本で偶然仏教と出会うことになるイエスズ会士たちはそれに興味をそそられたのだが、仏教への真剣な関心が注がれ、その教えの詳しい知識が入手可能になるには19世紀中葉まで待たねばならなかった。

仏教の知識は、主に3つのチャンネルからもたらされた。①西洋の学者の努力、②哲学者、知識人、作家、芸術家の仕事、③アメリカ、ヨーロッパへ様々な仏教をもたらすアジアの移住者たち。
  
学問的な研究

仏教の学問的な興味は、植民地時代に始まった。多くが熟練した素人の学者たちであったヨーロッパの官吏がアジアの各地に配置された。最初に研究された仏教文献は、英国人居住者だったB.Hホッグソンによって蒐集された大乗のサンスクリット語の写本だった。テーラワーダ仏教の研究に傑出した貢献をなす英国人公務員がT.Wリズ・デヴィッズ(1843-1922)である。彼はスリランカに滞在しているとき仏教に魅入られ、1881年にパーリ聖典協会を創設する。その協会は今日に至るまで、最も重要な聖典の出版とパーリ仏教文献の翻訳のための窓口となっている。

つづく



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