住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏教を学ぶことがなぜ必要なのか

2006年01月29日 20時00分24秒 | 仏教に関する様々なお話
○回忌の法事を終えました。私たちは亡くなった方に対すると手を合わせたり、早く成仏して下さいなどという気持ちになるものですが、本当は一番大切な自分の将来ということになりますと棚に上げると言いますか、縁起でもない、そんなこと考えたくもないということでお茶を濁すということになります。

しかし、お釈迦様は諸行無常と言われているように、すべてのものは無常、すべてのものは変化しています。始まりがあれば必ず終わりが来る。ですから、明日は我が身、みんな生まれてきた以上結末を迎えない人なんかいないんですね。

今日の法事もお経が始まった途端に終わりということがある。それよりも施主さんから電話をもらった段階で既にこの法事が始まり、そして終わり、食事をして皆さんが家に帰り着くということまで既に決まっていたことです。

昔高野山の専修学院というところで修行をしたわけですが、初めの頃は朝のお勤めをするのがとても辛かったことを思い出します。寒いし、足は痛いし、お経は慣れないしということで。

ですが、暫くすると、もう本堂に坐りお経を上げるということは終わるんだということに気がついたんですね。長いお経をゆっくりとなえるんですが、それでも途絶えずに流れていくということはいずれ終わるのだということに気がつきましたら、長いお経でも唱えることがとても楽になりました。

それで高野山を降りて、東京のお寺に入りましたら、そのお寺の住職から、「君あっという間に六十だよ」と言われました。その時は何を言うんだと思いましたけれども、今思うと本当にその通りだと思います。私たちは誰もが今日生きることにあくせくして一生懸命になるわけですが、気がついたときにはみんないい年になってしまっている。

そこで、みんな生まれてきたということはもう終わりがあるんだということを心の片隅にでも考えて、自分自身の死ということを少しは考えて欲しいのです。しっかりと今生きているということは死に向かっているんだと思えれば、かえって落ち着いてしっかり生きられるようにもなります。どの宗教でも、宗教というのは死というものをどうとらえるかということから出発しています。

仏教では、皆さんご存知の通り、六道輪廻ということを言います。身口意の行いが業となり、業に従って死後生まれ変わるところが違うということを言うわけです。死んでそれで終わりではないんですね。

このことは別に仏教だからというのではなく、世界のどの宗教でも死んでそれですべて何もなくなるという宗教はありません。キリスト教なら死ぬと、天国か地獄に行くんだというわけです。神を信じる者は天国に召されるというのですが、みんな同じ所へ行くというのもいかがなものかと思います。

とにかく仏教では生き方によって、死後が決まってしまうよと言うのですが、日本ではみんな死ぬと戒を改めて授かり、それで戒名をもらって、来世でも仏教徒としてしっかり仏教を学び、また心の修行をして最高の幸せである悟りを求めて生きて下さいよということで引導を渡すのです。

死んだら、住職が何とかしてくれるだろうというのは、半分は当たっていますけれども、やはり、その人の生き様、死ぬときの心の持ちようというのがとても大事になります。生前お寺に奉仕したり、施しをなさって檀那寺を護持してこられた功徳は勿論大きなものです。ですが、いざ引導を渡すという段階で、何も知りません、わかりませんというのではちょっと困るんですね。

ですから、今は元気で、そんなこと考える必要もないと思っていても、やはりいつどうなるかわからない、その時になってもう少し分かっていた方が良かったなということのないように、しっかり今のうちから仏教を知っていて欲しい。

そして、それはおそらくいざという場合ばかりか、よく死ぬためには良く生きねばならないということになるのであり、今を落ち着いてしっかりと生きる為にも役立つものだと思います。そういう意味で仏教を一から学ぶのに、今読んだ仏前勤行次第は、実はとても学びやすい内容構成になっています。まずはその勤行次第から、ただ読むだけでなく、よくその内容を吟味して教えを受け取っていただきたいと思います。その内容についてはまた機会がありましたらお話します。(これは今日の法事後の法話に加筆したものです)

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日本仏教の歩み13

2006年01月27日 07時56分36秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
戒律復興と安楽律

自由な布教活動も制限され、なおかつ寺壇制度ができて生活が安定して安逸に陥った僧界に対する非難が起きると、各宗に僧風の粛正運動や戒律の復古運動が起こります。

最澄の意によって大乗戒壇を建立した比叡山に妙立(一六三七ー一六九〇)が出て、堕落を弁護する口実ともされた梵網戒に加え四分律を護持することによって乱れた僧風の粛正を主張。さらに本来一切衆生はさとりの性を備えているとする天台本覚思想を批判して、中国の正統天台教学への復帰をも目指し、それが祖師の理想に近づく道であるとして比叡山の改革に乗り出します。

弟子の霊空は研究、講演、著述に励み、一六九三年第五代輪王寺宮公辨法親王の帰依を受け、叡山飯室谷の安楽院を律院として与えられ、安楽律と称して宗内の改革に専心して、東叡山、日光山にも律院を設けて安楽律を広めます。

元禄以後は特にこの妙立・霊空の門流が栄え、天台一宗を圧する勢いであったと言うことです。

浄厳と慈雲尊者

一方真言宗では、鎌倉時代に一時盛んであった戒律復興運動が衰退しおよそ三百五十年を経て、明忍が出て、廃れた戒律復興を誓い、栂尾山で自誓受戒。槇尾山を再興して戒律復興の道場とし学徒を集めます。

また浄厳(一六三九ー一七〇二)は高野山で密教を修め梵語を研鑽して、明忍の旧跡槙尾山に登り和泉高山寺で自誓受戒。和泉に延命寺を創建して如法真言律を唱道。

浄厳は、一六八四年江戸に出て講座を開くと常に聴者は千人を超え、多くの帰依を受けます。五代綱吉は湯島の地を与え霊雲寺を建てると、浄厳は関八州如法真言律宗総統職に叙せられ、結縁灌頂を授けた者三十万四千人、菩薩戒の弟子一万五千、剃髪得度の弟子四三六人。

真言密教の巨匠として四十あまりの諸法流を統一して新安祥寺流を大成。戒律、梵学の復興における功績は大きく、多くの著作を残しました。

さらに慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、お釈迦様在世当時の戒律復興を目指して正法律を提唱します。慈雲は、大阪に生まれ、河内法楽寺で得度、奈良に出て南都仏教や真言宗をも修め、河内野中寺で具足戒を受け律を研究。臨済宗に参禅後、大阪長栄寺に入り、正法律を唱えます。のちに河内高貴寺を正法律の本山として無数の道俗、様々な人々を教化しました。

「十善戒」を人の人たる道と説き、お釈迦様の根本の教えへの復帰を主張。後生の仏教者に大きな影響を与えました。梵学や神道、西欧の事情にも明るく、多くの著作がありますが、中でも日本に伝わる梵学及び梵語学習上の参考資料を蒐集網羅した「梵学津梁一千巻」は今日でも世界の驚異とされています。

巡礼の流行と庶民信仰

江戸時代は移動の自由が制限されていましたが、宗教上の理由があれば比較的容易に旅行が許可されたことも影響し、自由な信仰心をかなえ、かつ物見遊山半分で遠く旅をして聖地に詣る参拝旅行が流行します。

特に元禄時代前後からお伊勢詣りや讃岐・金毘羅詣りをはじめ、富士山、鎌倉・江ノ島、相州大山不動などへの参拝が盛んになります。さらには西国、板東秩父の百観音巡礼や四国八十八カ所遍路が一般民衆にも流行します。

信長の比叡山焼き討ちや秀吉による根来高野山攻めに際して、僧兵や聖が逃げ込んだ地は四国であったとも言われ、彼らが四国の札所を拠点に全国に四国遍路の功徳を唱導したとも伝えられています。

江戸の町では大名屋敷に祀られた神仏が、流行神と呼ばれ驚異的な参拝者を集めました。讃岐生駒家の金毘羅宮や九州柳川の立花家の太郎稲荷など、大名家の国元から勧請された私的な神仏でした。

また、地方寺社の秘仏や霊宝が江戸に出張して公開される「出開帳」が盛んに行われました。両国の回向院には信州善光寺の阿弥陀如来や奈良法隆寺の出開帳が、また深川の永代寺には成田山不動明王の出開帳が行われ、江戸庶民の好奇心も手伝って、それら出開帳には正に群参する民衆で賑わったと言うことです。

排仏論と出定後語

平安時代以降神道や儒教は仏僧の手によって研究され仏教と融合したものでした。しかしこの時代には仏教とは分離して、幕府の学問奨励により儒学が盛んになり、国学が発達し仏教排斥論を醸成します。

江戸初期には藤原惺窩、林羅山ら僧侶として寺院に生活した儒者が仏教の非世俗性、僧侶の堕落を攻撃しました。

中期頃には鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)が「出定後語」を著して仏典成立加上説を唱えます。真に釈迦が説いたのは阿含経典の数章に過ぎず後は後人の付加であるとして大乗非仏説論を主張。これは仏教経典成立に関する事情を正確に推論したものとして高く評価されるべきものと言えますが、当時は正当に評価する者はありませんでした。

江戸後期には、わが国の古典文化の研究から国学が起こり排仏論を唱えます。国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して排仏論を展開し、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動の思想原理になりました。


この時代に出来上がる寺壇制度は檀家との関係を世俗権力が保証するものであり、経済的な安定を獲得した反面、本来仏教のもつ神聖な立場を放棄するものとなりました。この制度は古来からの先祖を敬う信仰心に支えられ、時代が変わっても今日まで存続し、わが国の仏教を拘束するものとなりました。

一方誰もが一檀徒として仏教にまみえ、民衆生活の隅々まで仏教行事が定着。こうして信仰心の有無にかかわらず、全日本人が形の上で仏教徒となることによって、仏教は形骸化していくのでした。
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日本仏教の歩み12

2006年01月26日 07時28分43秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
不受不施派の弾圧

法華(日蓮)宗に不信者から布施を受けず法を施さないとする一派があり、京都妙覺寺の日奥はこの義を頑なに守り秀吉の催した千僧供養を拒否。池上本門寺など関東の諸寺院に不受不施派の勢力が強まります。そして国主の供養は別であるとする受不施派の身延山と対立します。

法華の信者でない者を謗法者として、国主からの布施を受けないということは国主を誹謗者扱いすることになり、国家に対する反抗であるとして、幕府は一六三〇年、不受不施義の唱導を禁止。しかし、その後も勢力が衰えなかったため寺領も布施であるとして、一六六九年不受不施派の寺請が禁止され、寺院からも追い出されて地下に潜伏しました。

隠元の来朝と黄檗宗

新しい宗派の設立が制限された江戸時代に唯一黄檗宗の開基が認められています。
貿易のため長崎には中国人が渡来して興福寺、崇福寺などが建てられていました。渡来僧の招請により、一六五四年、中国黄檗山万福寺住持隠元隆(一五九二ー一六七三)が来日。明末の禅風と浄土教を兼修する禅浄双修禅を伝えます。

隠元は京都宇治に黄檗山万福寺を建立、日本黄檗宗の開祖となりました。

隠元の日本人の弟子に鉄眼道光があり、漢訳経典を総集した大蔵経の開版を決意。諸国を巡遊して広く道俗に募財し、一六八一年大蔵経六七七一巻を出版。鉄眼版一切経とも言われ、印刷部数が多く仏典研究の進歩に貢献しました。

綱吉と護持院隆光

五代将軍綱吉は、世に悪法とされる生類憐みの令(一六八五)を発布し、犬にかぎらず動物の殺生を禁じます。綱吉は仏教に帰依して、護国寺、寛永寺などを修築し、また筑波山知足院を移転して護持院と改称し神田橋外に大伽藍を造営。特に護持院の隆光には、生母桂昌院ともに帰依して毎年二回護持院に参詣するのが定例でした。

隆光(一六四九ー一七二四)は、真言宗新義派の祖・覚鑁に諡号奏請のために尽力し、興教大師号を賜っています。護持院は幕府の祈願所となり寛永寺、増上寺と鼎立し、隆光は真言宗新義派の僧録司に任ぜられ、将軍の外護のもとに熱田神宮、須崎弁天、室生寺などを復興。日々登城して権威を振るい、多くの真言寺院が新義派へ転じ、関東の真言宗新義派の教線拡張に貢献しました。

各宗における教学の振興

各宗派の自由な活動を制限する一方幕府は学問の振興を奨励します。各宗法度に一山の住職たる者には一定期間の修行や学問を義務づけ、さらに諸大寺に対して寺領や金子を供して学問を奨励しています。

檀林、学寮、談義所など各宗の学問所が整備され、宗祖研究、経典解釈など教学が促進されました。

浄土宗では、源誉慈昌(一五四六ー一六二〇)が家康の信任を受け、増上寺を現地に移して伽藍を整備。徳川氏との師檀関係を結びます。

源誉は関東に十八檀林を興して弟子らの修学に寄与。のちに湛慧信培、普寂徳門の師弟が出て、各宗を兼学。湛慧は、倶舎論や唯識を講じ、自誓受戒して洛西長時院を復興して律院となして持戒念仏につとめ、普寂は、天台華厳、唯識にすぐれ江戸に律院を起こし、増上寺などで多くの講席を開きました。

浄土真宗では、信長に屈した石山本願寺の門主顕如に対して、秀吉は京都六条堀川に土地を与え本願寺を再興させます。関ヶ原の合戦(一六〇〇)の後、顕如に義絶された長子教如は家康に協力し、一六〇二年家康は京都烏丸七条に土地を寄進して、教如が東本願寺を建立し、本願寺は東西に分立していました。

西本願寺では、西本願寺学黌を創設して宗学研究を奨励。しかし、宗義の正邪を争い紛議が続き、学黌は廃止され、後に学林と称して宗内徒弟の修学に寄与しました。東本願寺では、学寮と称して真宗学と南都の仏教や天台の学問を学ぶ兼学制度により盛大となり、すぐれた学者を輩出しています。

また曹洞宗では、早くから江戸に栴檀林が設けられ、祖録、仏典研究、漢学詩文の学問が学ばれ、儒学の研究の昌平黌と並ぶ江戸の二大学問所として名を馳せ多くの碩学を生み出しました。

臨済宗では五山は振るわず、妙心寺に教勢を奪われます。至道無難は禅を平易に表現して生活に即した禅を説き、一絲文守は天才的な禅説法により多くの人の菩提心を喚起、後水尾上皇の帰依を受けました。

この一絲文守の系統に盤珪永琢があり、人はみな生まれながらに不生の仏心を持っているとして、その純粋無垢な心を平明な言葉で説き多くの人を悟らしめたと言われています。

無難の孫弟子に白隠慧鶴(一六八五ー一七六八)があり、妙心寺第一座となるも名利を離れ諸国を遊歴して三島龍澤寺の開山となりますが、終生沼津松蔭寺で弟子らを指導。平易な言葉で喩えを用いて禅を説き、禅の民衆化に努めました。今日臨済宗の僧徒のほとんどがこの白隠の法流に属すと言われるほどの影響力を及ぼし、臨済禅の中興と言われています。つづく
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日本仏教の歩み11

2006年01月25日 09時28分02秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪平成17年12月号よりカルチャー講座にわかりやすい日本仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

江戸時代の仏教

関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立し、幕藩体制が確立。その後二百数十年に及ぶ近世封建制度の中で仏教がどのように継承されていったのかを見てまいりましょう。

江戸幕府と寺院統制

家康は江戸に幕府を開き、徳川氏の永久政権を志向して、儒教によって世道人心を導くことを選択します。しかし、林羅山ら京都五山出身の儒者に加え、南禅寺金地院崇伝や天台宗の学僧天海ら僧侶も側近として寺院統制や外交文書の起草に参画させています。

幕府は宗派ごとに江戸に触頭寺院を置き幕府の命令を周知させ、本山の地位を保証した上で末寺を組織統制させます。さらに崇伝(一五六九ー一六三三)起草による寺院法度によって各宗寺院の守るべき規則を、一六〇一年に高野山に下した法度を皮切りに各宗寺院に下し、一六六五年には各宗共通の法度が発布されます。

各宗内の職制、座次、住職資格、本寺末寺関係が規定されて、すべての寺院が本山から本寺、中本寺、直末寺、孫末寺へいたる、本山を本とする中央集権的な組織に組み入れられることになりました。

また法談の制限、勧進募財の取締まり、新寺建立や新興宗教の禁止などが規定されて、自由な布教活動や新しい教義の提唱が禁止され、学問の振興のみが奨励されることになります。

キリスト教禁制と寺壇制度

キリスト教布教がスペイン、ポルトガルの植民地獲得の手段であることを知った家康は、一六一三年、崇伝に対し江戸城にて「バテレン追放の文」作成を命じます。

これにより宣教師が追放され、信徒の改宗が命じられると、改宗した者にはその身元を引き受ける檀那寺から寺請けの証文を取らせました。

重税と飢饉に苦しむ農民らが起こした一揆にキリシタンが多く含まれていた島原の乱(一六三七)が起こると、幕府は寺請制度を強化。四代家綱の時代に全国に普及することになります。

一六六四年幕令によって、全国民について必ずどこかの寺院の檀徒になることが義務づけられます。そして、宗旨を人別に記載する「宗旨人別帳」が全国画一的に法制化され、家ごとに各人の年齢宗旨を記載し捺印させて檀那寺の住職がこれを証明。戸籍の原簿として、また租税台帳としても利用され、転住逃散を防止する役割も担っていました。

婚姻、旅行、移住、死亡、奉公の際にも檀徒であることを証明する寺請証文の携行が必要でした。後には一家一宗旨、さらには檀那寺を変更することも禁止されました。
 
東照宮造営

熱心な念仏信者でもあった家康は死に際に幕府の守護神となることを遺言します。一六一六年、駿府で家康が息を引き取ると、家康の政治顧問であった天海(一五三六ー一六四三)が、神道と仏教を融和した山王一実神道方式により、薬師如来を本地とする「東照大権現」の称号を勅許に基づいて授与。天海は、後に日光山輪王寺に東照宮を造営して家康を神として改葬します。

さらに天海は江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺を創建して東の比叡山、すなわち東叡山と山号して関東一円の鎮護とし、法親王の入寺を請い、法親王はその後天台座主として東叡山に住し、天台宗の実権は江戸に移りました。
天海は、家康から家光まで三代の将軍の側近として厚遇されました。

紫衣事件

尊貴を象徴し、元来高徳の僧尼に対し朝廷より賜っていた紫衣は、古来朝廷の収入源の一つでもありました。

しかし一六一三年、幕府はこの紫衣勅許に先立ち幕府への申し入れを要するとした「勅許紫衣等に関する法度」を定めます。また、「任僧正」についても、さしたる学問者でなければ僧正の官を停止すべきと命じています。

そして一六一五年には、「諸宗本山本寺の諸法度」を定めて、僧侶・寺院の地位や名誉に関する朝廷の特権を剥奪し、僧侶の昇進一つも天皇の一存では通らない事になります。

後水尾天皇(在位一六一一ー二九)は幕府に相談なく十数人の僧に紫衣着用の勅許を与えたことが明らかになると幕府はその無効を宣言し、これに抗議した大徳寺の沢庵ら三人の僧を流罪に処し、後水尾天皇は譲位しました。

沢庵は後に許されると三代家光に帰依され、品川に広大な敷地を有する東海寺を建て迎えられています。つづく
                                  
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神仏分離令について

2006年01月02日 07時12分40秒 | 様々な出来事について
(大晦日にアメリカのある大学で助教授をされている日本女性から、ホームページ「ナマステブッダ」【仏教のルーツを知る・明治時代の仏教】をご覧下さってお問い合わせがありました。

お尋ねの内容は、明治時代に神仏習合という日本古来の信仰スタイルを改め、天皇現人神を崇めさせ明治新政府を国民に権威付けるために神道国教化を推進する目的から神仏分離令を発した件につき、その日付は何時かとのお問い合わせでした。以下にその返信を掲載します。)

初めまして、拙ホームページをご覧下さり、誠に恐縮いたします。

お尋ねの件ですが、岩波新書「神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈」安丸良夫著には、神仏分離諸布告という表現が使われております。

慶応4年3月13日の布告では、王政復古、祭政一致、神祇官再興の理念と全国の神社神職の神祇官への附属が述べられ、その後の宗教政策の基本原理を宣言し、

3月17日には、諸国神社に別当社僧と称して神勤している僧職身分の者の復飾が命じられています。これらの布告が神勤主体についての神仏分離を規定しているのに対して、

3月28日の布告は、礼拝対象についての神仏分離を定めたものであると述べられています。そして、この3月28日の布告の直後から廃仏毀釈の嵐が全国各神社で吹き荒れることになります。

別の岩波新書・村上重良著「国家神道」という本には、3月「28日には太政官から神仏分離が達せられた。」と表現されています。

また、雄山閣「論集日本仏教史8明治時代」明治維新廃仏毀釈の地方的展開とその特質について(村田安穂著)には、神仏分離令とは、「3月17日3月28日の両布告の二法令を言い、特に後者のみを言う場合もある。」と述べられています。また同年3月から10月までにつごう12の関連する布告が出されており、それらを神仏分離令と総称するという見方をする学者もあると補足してあります。

ですから、神仏分離令と言うことになると、この日とはっきり申すのは難しいことになるようです。神仏分離令を宗教に対する明治政府の立場と見れば、3月13日ということになりましょう。

また、お寺と神社の関係をはっきりさせるものと見れば、3月28日の布告が該当するということになるのではないかと思います。先生のお立場でよろしくご判断下さい。また何かありましたらお気軽にお問い合わせ下さい。以上
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