住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

10/25増補・お寺は先祖の供養のためなけれども2

2008年10月24日 13時49分26秒 | 仏教に関する様々なお話
縁ある人が今にも亡くなろうとするとき、お釈迦様はどのような対応をなさったのか。そのことを説く経典が増一阿含経の中に残されている。お釈迦様のお生まれになった釈迦族にはコーサラ国という宗主国があった。当時その国を治めていた王は、パセーナディ王と言い、在家信者としてお釈迦様に帰依した王の一人で多くの経典にその名を残している。

お釈迦様がサーヴァッティにおられるとき、パセーナディ王は釈迦族の女をめとりたいと申し入れる。しかし、自分たちこそは誠に誉れ高き生まれとの自負があった釈迦族の人々は、コーサラ国の王は大王とはいえ家系図が正しくない、どうしてそれらと縁を結ばねばならないのかと考えた。そこで、一族の長者マハーナーマが自分の家の召使いの娘に沐浴させ着飾り、自分の娘と偽って、王の元に送り届けてしまう。

容姿端麗であったこともあり、王は悦び第一王妃として迎え、男児を出産。その子も誠に端正な容貌から、ヴィデゥーダッバと名付けられ、寵愛された。そしてこの子が8歳になると王は釈迦族のお城カピラヴァッツにて弓術を学ばせようとした。太子は、釈迦族の500人の子供たちと共に弓を学んだ。

ちょうどその頃、新たに造られた釈迦族の誇りとも言える講堂が完成し、お釈迦様を迎えて落慶供養をするばかりとなっていた。そこに弓の教練の後太子をはじめ500人の子供たちが入り込み、太子は、ごく自然のこととして講堂獅子座に昇って行った。しかし、それを目撃した釈迦族の人々は、卑しき者が生んだ子供が座るべきところではないと怒り、太子の肘をつかんで外に追い出し、地に打ち付けた。このとき太子は、「われ後に王位に就くときまでこの辱めをけっして忘れないであろう」と誓ったという。

後にパセーナディ王は亡くなり、ヴィデゥーダッバが王として即位すると、幼時の怨みを思い、軍勢を従えて釈迦族を征伐に赴く。しかし、その進路に一人瞑想するお釈迦様に遮られ、三度まで逡巡するが、四度目には、お釈迦様もその果熟せりとて、その報いを受けねばならないことを悟られる。

カピラヴァッツでは、その報を受け数里ゆきて王を迎え、弓矢を射るものの誰も敵兵を傷つけることがなかった。釈迦族は兵士であっても戒を保ち、虫さえも殺すことがないと高を括っていた王の兵たちが城門までいたると、釈迦族の一人の勇猛な若者が王の兵を殺害してしまう。すると、釈迦族の長老は、なぜ我が釈迦族のならいを辱めたのだと叱り、一人殺せば万人を敵に回すことになる、人の命をとることは死して地獄にいる、人に生まれても短命になると言って、その者を国外に追放した。

そして、釈迦族が城門を開放して王の兵を請じ入れると、王は暴れ象によって人々を踏み殺させた。責任を感じたマハーナーマは王の下にいたり、自分が水底に没している間釈迦族を逃がしてやって欲しいと願い上げる。祖父の願いと、王がこれを許すと、マハーナーマは水底に潜り頭髪を水中の樹根に結わえていつまでも上がってこなかった。それを知った王は、「そこまで親族を祖父が愛していたことを知っていたなら、釈迦族を征伐しなかったのに」と悔いたという。

城を焼きニグローダ園に戻った王は、先に王が命じ選ばせた500人の釈迦族のみめよき女たちを連行し、女官として迎えようとした。しかしみな「この身を保つためにどうして卑しい身分の者と楽しみ交わることなど出来ましょう」と答え、王の怒りをかい、もろともに、その手足を切りおとされ(ある翻訳本には縛られたとある)深い穴の中に捨てられてしまった。

穴の中に落とされた500人の女たちは、手足を切り取られてもなお、お釈迦様の名を口々に呼び続けた。お釈迦様は諸比丘とともにカピラヴァッツにいたり、これらの女たちに、法を説かれた。「すべてのものは無常にして、盛んなる者も必ず衰える、会えるものに別れあり、身体と心に執着するならば苦しみ悩み、死後には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間の中に生まれ変わる。このことわりをさとらば、また生まれ変わらず、生まれ変わらざれば生老病死なし」と。

さらに、世論戒論生天論を説かれると彼女らの心は開かれ、迷い尽きて法の眼を得て、命終し、みな天界に生まれ変わったといわれる。お釈迦様は、ニグローダ園で、比丘たちに、「ここで昔は諸々の比丘たちと法を説いた、しかるに、それも今となってはうつろになった。人もいなくなってしまった。いまより以後またここに来ることはないであろう」と一族の消滅した悲しみを語られたという。

サーヴァッティの祇園精舎に戻られる道すがら、お釈迦様は「ヴィデゥーダッバ王および兵たちは、今日より七日のうちにことごとく亡ぶであろう」と預言された。王たちはこのお釈迦様の言葉を伝え聞いて戦慄したが、7日目にも何もなく歓び楽しんだとされる。が、その晩に時ならぬ暴風雨によりすべての者が水に流され、命を失い、みな地獄に堕ちた。さらに、王宮も雷に焼失したとされる。

以上「瑠璃王経」と名付けられたこの経典に記された、死にゆく人たちへ教え諭したお釈迦様の教えは、正にこの世の真実をそのままに語るものであった。教えを伝えることによってそのものたちの心を浄化してより良い生まれ、ここでは天界に生じたことを記している。

仏教は死にゆく者に対する教えではないとして、何もされなかったわけではない。やはり縁あり求めに応じて、きちんと臨終の教えをお説きになられている。それがあるべき姿であろう。

仏教は人の死に関わらないものだと言って、何もしないでいいということではない。代わりにそうした儀礼を執り行う宗教者が一般に、いた当時のインド社会であったればこそ、葬送の儀礼には当時のお坊さんたちは関わらなかっただけなのではないか。

しかしこの経典にあるように、縁あり、その場に他になく、求められた場合にはお釈迦様自らがそうして教えをお説きになれている。葬送に仏教が関わってはいけないのではない。関わり方、つまり日頃縁ある人々に教えを説き、戒定慧の実践を重ねる延長として、それぞれの葬送があるという本来のあり方を取り戻す必要こそが求められているのであろう。

そしてさらに大事なのは、お釈迦様がその終焉に際して説法したのにかかわらず、彼女らは天界に生まれ変わったという記述である。お釈迦様ほどのお方であったとしても、彼女らを仏の世界に送るとか、成仏させたと言われていない点である。

如来は道を説く者なりという厳然たる姿勢を崩してはいけない。彼女らの自らの業に従って、死に際してお釈迦様の説法により心が清められ天界に生まれ変わったというこの経典に、末世の仏徒は多くのことを学ぶべきであろう。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする