番外札所いざり松延命寺の大師堂の横の部屋に案内された。八畳間にこたつ。ポット、湯沸かし、ラジオ、それに布団まである。ありがたいことだ。お寺の前の商店に行き、カップヌードルに食パン、玉子ドーフ、天ぷらを買ってきて一人食べた。前日よく歩いたので熟睡できたようで、翌朝はスッキリと目を覚ました。大師堂、本堂でお勤めを済ませ遍路道へ。
国道十一号をしばらく歩いて松山自動車道の高架を過ぎたあたりから山道に入る。十キロ少々と思うのでなかなか三角寺にたどり着けない。昇り道に入り、野菜の無人売り場やよろず屋などを左手に見ながら歩く。広い踊り場に出たと思ったら、そこから石段を登ると三角寺だった。石段の上には楼門があり、「三角寺」と扁額にある。鐘楼をひと撞きして、一礼して寺内に入る。
65番三角寺は、聖武天皇の勅願寺で、行基菩薩の開基という。後に弘法大師が巡錫し、十一面観音を本尊として安置した。そして、21日間三角形の護摩壇で秘法を修したので三角寺と言われるようになるのだが、その跡が庫裏横の三角の池だと言われている。三角形の護摩壇は降伏護摩を修したことを意味する。何を降伏したのか、三角寺の奥の院は仙龍寺といい、その頃そこに居た龍が里に水をやらず困らせていたのであろう。大師に追いつめられた悪い龍は降参して里人のために「水」を出すと約束したのだという。
今ではその池の中に三角形の島があり弁天様が祀られている。唐破風の庇が鮮やかな本堂前で理趣経一巻。その長いお経に何事かと思ったのか、終えると副住職さんが声を掛けてくださった。高野山でのことなどを互いに話したと記憶している。
そのあと、境内のベンチに座り、ここへたどり着く前に托鉢した時もらったサンドイッチを食べた。伊予三島の町の商店街で初めて本格的に托鉢をした。店の前で延命十句観音経を唱える。短いお経だから、その間に何の反応もなければそのまま次の店に。関心のない人と困った様子の方とすぐに何かを持たせなくてはとあわてる方と様々だ。遍路途中でもあるので約三十分の托鉢だった。
今日まで、門付けの托鉢が出来なかったのは、歩くことに自信が無かったからか、心に余裕がなく、どうしても先に行きたい、足が痛くならないよう歩きたい、今日はどんなところで寝られるだろうかなどと考えていたからかもしれない。考えても考えなくても、ここ数日のように用意されていたかのような場所で寝られるものなのだ。まったく寝場所が見つからず放浪した挙げ句に、思いがけないお宿にたどり着くこともある。出たとこ勝負で行くしかないと諦めたら良いのだと思えた。
三角寺から、山を小川に沿って下る。高知自動車道の工事中だったのであろう、大きな道路工事中の道を通り過ぎ、しばし歩くと三時過ぎには番外札所椿堂に着いた。新しい大きな本堂の前に通りを隔てて小さな大師堂があり、そこから若い副住職さんが出てこられた。歩いてきたのならどうぞ、といわれて、プレハブ2階の通夜堂に案内された。大きなメガネを掛けた人の良さそうな方で、陽が差す温かい部屋で安心して寛がせていただいた。
椿堂は、大同2年(807)邦治居士なる人がこの地に庵を結び、地蔵尊を祀った。弘仁6年(815)10月15日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病が流行し住民が苦しんでいるのを見て、人々をこの庵に集めて杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去ったという。後にこの杖より逆さなる椿が芽を出し、住民はこの椿を大師お杖椿といって、この庵を「椿堂」と呼びこの地方の地名ともなった。安政六年(1859)に火災に遭ったが、現在の椿はその時焼けた株から芽を出したものといわれている。
早い時間だったこともあり、荷物を置いてゆっくりしてから、本堂に参り理趣経一巻唱える。唱え終わると、髭を生やしたご住職が納経所からお出ましになり、しばし団欒。「若い時には、成田山の断食道場で21日間の断食をしたり、滝に当たって修行したものだ、若いうちにどしどしおやんなさい・・・」などと、昔話に聞き入る間に、若い奥さんが夕飯を用意して下さった。通夜堂に戻り、肉じゃがにゴボウの煮物、大豆とひじき、じゃこ、ご飯に味噌汁、久しぶりの手料理。美味しいので、つい早飯になってしまって、食べ終わってから残念に思えたほどだった。
翌朝は5時過ぎに起こされ、年寄りのご住職と朝勤行をともにさせていただいた。朝食までご一緒し、なぜか私のことを大層気に入って下さり、実はこの翌年に遍路したときには、半月後の法事をして下さいと頼まれて、88番札所からこの椿堂へ引き返してくることにもなったほどであった。その時は、7時過ぎにお暇して遍路道に戻り、雲辺寺へひたすら歩いているとき、オートバイで副住職さんが、またなぜか御布施を持って追いかけてきてくれた。
それから、山道に入り2時間は歩いただろうか、11時半頃に66番札所雲辺寺に到着。標高900メートルの雲辺寺はその名の通り雲の中だった。霧が立ちこめて視界は30メートル。上はさすがに冷たかった。
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国道十一号をしばらく歩いて松山自動車道の高架を過ぎたあたりから山道に入る。十キロ少々と思うのでなかなか三角寺にたどり着けない。昇り道に入り、野菜の無人売り場やよろず屋などを左手に見ながら歩く。広い踊り場に出たと思ったら、そこから石段を登ると三角寺だった。石段の上には楼門があり、「三角寺」と扁額にある。鐘楼をひと撞きして、一礼して寺内に入る。
65番三角寺は、聖武天皇の勅願寺で、行基菩薩の開基という。後に弘法大師が巡錫し、十一面観音を本尊として安置した。そして、21日間三角形の護摩壇で秘法を修したので三角寺と言われるようになるのだが、その跡が庫裏横の三角の池だと言われている。三角形の護摩壇は降伏護摩を修したことを意味する。何を降伏したのか、三角寺の奥の院は仙龍寺といい、その頃そこに居た龍が里に水をやらず困らせていたのであろう。大師に追いつめられた悪い龍は降参して里人のために「水」を出すと約束したのだという。
今ではその池の中に三角形の島があり弁天様が祀られている。唐破風の庇が鮮やかな本堂前で理趣経一巻。その長いお経に何事かと思ったのか、終えると副住職さんが声を掛けてくださった。高野山でのことなどを互いに話したと記憶している。
そのあと、境内のベンチに座り、ここへたどり着く前に托鉢した時もらったサンドイッチを食べた。伊予三島の町の商店街で初めて本格的に托鉢をした。店の前で延命十句観音経を唱える。短いお経だから、その間に何の反応もなければそのまま次の店に。関心のない人と困った様子の方とすぐに何かを持たせなくてはとあわてる方と様々だ。遍路途中でもあるので約三十分の托鉢だった。
今日まで、門付けの托鉢が出来なかったのは、歩くことに自信が無かったからか、心に余裕がなく、どうしても先に行きたい、足が痛くならないよう歩きたい、今日はどんなところで寝られるだろうかなどと考えていたからかもしれない。考えても考えなくても、ここ数日のように用意されていたかのような場所で寝られるものなのだ。まったく寝場所が見つからず放浪した挙げ句に、思いがけないお宿にたどり着くこともある。出たとこ勝負で行くしかないと諦めたら良いのだと思えた。
三角寺から、山を小川に沿って下る。高知自動車道の工事中だったのであろう、大きな道路工事中の道を通り過ぎ、しばし歩くと三時過ぎには番外札所椿堂に着いた。新しい大きな本堂の前に通りを隔てて小さな大師堂があり、そこから若い副住職さんが出てこられた。歩いてきたのならどうぞ、といわれて、プレハブ2階の通夜堂に案内された。大きなメガネを掛けた人の良さそうな方で、陽が差す温かい部屋で安心して寛がせていただいた。
椿堂は、大同2年(807)邦治居士なる人がこの地に庵を結び、地蔵尊を祀った。弘仁6年(815)10月15日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病が流行し住民が苦しんでいるのを見て、人々をこの庵に集めて杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去ったという。後にこの杖より逆さなる椿が芽を出し、住民はこの椿を大師お杖椿といって、この庵を「椿堂」と呼びこの地方の地名ともなった。安政六年(1859)に火災に遭ったが、現在の椿はその時焼けた株から芽を出したものといわれている。
早い時間だったこともあり、荷物を置いてゆっくりしてから、本堂に参り理趣経一巻唱える。唱え終わると、髭を生やしたご住職が納経所からお出ましになり、しばし団欒。「若い時には、成田山の断食道場で21日間の断食をしたり、滝に当たって修行したものだ、若いうちにどしどしおやんなさい・・・」などと、昔話に聞き入る間に、若い奥さんが夕飯を用意して下さった。通夜堂に戻り、肉じゃがにゴボウの煮物、大豆とひじき、じゃこ、ご飯に味噌汁、久しぶりの手料理。美味しいので、つい早飯になってしまって、食べ終わってから残念に思えたほどだった。
翌朝は5時過ぎに起こされ、年寄りのご住職と朝勤行をともにさせていただいた。朝食までご一緒し、なぜか私のことを大層気に入って下さり、実はこの翌年に遍路したときには、半月後の法事をして下さいと頼まれて、88番札所からこの椿堂へ引き返してくることにもなったほどであった。その時は、7時過ぎにお暇して遍路道に戻り、雲辺寺へひたすら歩いているとき、オートバイで副住職さんが、またなぜか御布施を持って追いかけてきてくれた。
それから、山道に入り2時間は歩いただろうか、11時半頃に66番札所雲辺寺に到着。標高900メートルの雲辺寺はその名の通り雲の中だった。霧が立ちこめて視界は30メートル。上はさすがに冷たかった。
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