2006年9月初版の祥伝社新書『戒名と日本人』を読んだ。麗澤大学教授の保坂俊司先生の意欲的な著作である。これまで戒名に関する本はいくつかあった。ただし、そのどれもが仏教の教義上いかなるものか、そして歴史的な背景が少し書かれている程度で、中には戒名について最近の風潮に迎合して批判的な内容を含むものも多かった。
しかし本書は古来の日本人の死に関する捉え方から説きだし、懇切丁寧に今日に至る戒名文化とでもいうべき戒名のあり方を解説している。そこには日本人特有の考えが作用しており仏教伝来から千年にわたる試行錯誤の上に形成された文化とも言えるものであって、単に批判して済ませていいものではないと戒名に対して肯定的な捉え方をされている。誠に勉強になった。
まず、冒頭には今日人の死後付けられ葬儀がなされる戒名とはいかなるものかが分かりやすく説かれる。その上で、日本仏教史を紐解き、仏教と葬儀がどのように関わっていたのかが分かるように解説される。その上で、様々な文献を引き合いに出され、縄文時代からの日本人の葬送について解説し、戒名を救いとして求めた日本人の心情について触れられている。
古来日本人は死を恐れ、腐乱していく死体に恐怖して死者の怨念に震えおののくばかりであった。死者は荒御霊となって、祟るものと考えられた。そこで死者の前で乱痴気騒ぎをして穢れが生きる者に触らないように死の封じ込めがなされた。
8世紀初頭持統天皇が初めて火葬され仏式で葬られたとされるが、庶民にとっては遺体を埋葬する習慣もなく、死後野捨てと言われるように路傍に放置された。しかし平安中期頃から徐々に三昧聖と言われる行者たちが遺棄された死体を火葬し光明真言などで加持して死者の罪障を除き、民衆が死者に哀悼の念で接せられるようにしていった。
そこには、お釈迦様がどのように埋葬されたかが大きく関わるとする。インドでもそれまでは死体に対する不浄感があったというが、お釈迦様が亡くなられたときには弟子たちが生きているが如くに敬い礼拝し丁重に扱ったといわれる。そのことから、仏教では、遺体や埋葬地は不吉なものでも不浄なものでもなく、死者と遺族を結ぶ象徴として尊重されるべきものと認識されるようになったと指摘する。
そして、日本では、平安後期には源信が往生要集を書き、死後の救済に念仏の行を定義づけ、鎌倉新仏教の誕生により浄土教が庶民にまで浸透する中で、死穢が払拭され、いかに往生するかということに関心が向かい、葬送は悟りへの門出と位置づけられるようになったという。
こうして仏教の死生観が浸透する中で、さらに死後の確約が欲しいという願望のもとに中世末期から歿後作僧(もつごさそう)という形式が定式化するという。九世紀中頃亡くなる仁明天皇は崩御二週間前に出家をしており、こうした駆け込み出家が高貴な人々にとっての慣習となった。さらには死後戒名を付けて僧として葬儀を執り行うという歿後作僧が鎌倉後期頃に登場し、修行中に亡くなった禅僧の葬儀様式が採り入れられ、広く武士階級に普及したという。
しかしこの間には、保坂氏は記していないが、九世紀末に天皇を譲位して上皇として出家して初めて法皇として仁和寺を開く宇多法皇に示されるように退位後正式な僧として修行され僧名をもって亡くなられていく皇室の伝統が、そこには大きく影響しているであろうと思われる。
いずれにせよ、天皇、皇族、大名など、死の直前に僧になり臨終を迎えた人々が沢山おり、こうした風習が、次第に葬儀の直前に戒名を授かり形だけの出家作法を受けて僧として葬儀をする今日のスタイルに定着していったのだと言われる。それが庶民レベルにまで行われるようになるのは江戸時代になってからであろう。江戸時代には、檀家制度による全国民皆仏教徒化を受け強制的な仏式葬への制度化があり、戒名をつけ葬儀を行う歿後作僧の葬儀が一般化する。
その後明治時代の神道国教化による廃仏毀釈、神葬式定着の困難から葬儀のみを仏教に認めていく仏教の形骸化が図られた時代があった。同時に仏教など宗教は女、子供のすることという考えを流布する学者があり、そうした見方が浸透していったことも影響し、信仰が抜け単なる儀礼のみが残り、後には葬式仏教との謗りを受け、戒名ばかりが悪者にしたてられ批難されるのであろうと指摘されてもいる。
通過儀礼としての葬儀は、故人が担ってきた社会的な役割のすべてを実質的に失うことを社会に認知させる儀礼であり、残された人々が故人のいない新しい社会に脱皮するために重要なものである。故人の終焉を告げるものであり、故人を欠いた新しい世界の再生のための儀礼でもあると言われる。
そこで主役をなす標識が戒名であり、死者の名前である戒名をもらえば仏の世界で安楽に暮らせるということになり、残された遺族も死者の霊に脅かされることなく住み分けができ、死者の霊が満足すれば、その魂も鎮めることができる。このような概念を長い時間をかけて日本人は形成してきたのであり、それは日本の文化であり、民族の智恵であると言われる。
仏教は、日本人が古来恐れた死穢を火葬によって解決し、死後遊離して生きた者に禍いをもたらす荒御霊を高度な思想と複雑な儀礼によって浄化する力のある宗教であった。死の穢れを取り払えば人間は清浄となるという日本的な霊魂観を完成させる呪力ある宗教として仏教は民衆に受け入れられた。まさに仏教の悟りは日本人にとって死穢のなくなった状態であり、仏教の成仏と日本古来の清浄なる死者の世界も同質と考えた、これが日本的な成仏思想であるという。
また戒名の、特に院号については、天皇譲位後の別称である○○院様という言われかたから発祥し、今日のような戒名に入れられる背景には修験道の峰入りの行を終えた行者に対する、やはり○○院という呼称を使う風習が影響していると指摘されている。この他墓標や位牌、塔婆などについても詳しくその由来を述べられている。今の仏式の葬儀や法事に疑問を感じる方には是非読んでもらいたい好著である。今日の姿になるには相応の先人の知恵や試行錯誤があったであろう。そのことに意味を見出し、私たち現代人にも分かりやすくその意味を解説されている。僧分は勿論多くの方に読んで欲しい。
最後にはなるが、本書のあとがきに、日本仏教はすべての人に戒名を与え仏教的な救いを保障した。この日本的な戒名の意義を無視して、戒名無用論を主張し、人の死を軽視するならば、それはついには生を軽んじることにつながるのではないかと述べられている。命の尊さが叫ばれる中、実は現代人は知らす知らずに生を軽視している現実を鋭く指摘されている。まさに至言と言えよう。
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しかし本書は古来の日本人の死に関する捉え方から説きだし、懇切丁寧に今日に至る戒名文化とでもいうべき戒名のあり方を解説している。そこには日本人特有の考えが作用しており仏教伝来から千年にわたる試行錯誤の上に形成された文化とも言えるものであって、単に批判して済ませていいものではないと戒名に対して肯定的な捉え方をされている。誠に勉強になった。
まず、冒頭には今日人の死後付けられ葬儀がなされる戒名とはいかなるものかが分かりやすく説かれる。その上で、日本仏教史を紐解き、仏教と葬儀がどのように関わっていたのかが分かるように解説される。その上で、様々な文献を引き合いに出され、縄文時代からの日本人の葬送について解説し、戒名を救いとして求めた日本人の心情について触れられている。
古来日本人は死を恐れ、腐乱していく死体に恐怖して死者の怨念に震えおののくばかりであった。死者は荒御霊となって、祟るものと考えられた。そこで死者の前で乱痴気騒ぎをして穢れが生きる者に触らないように死の封じ込めがなされた。
8世紀初頭持統天皇が初めて火葬され仏式で葬られたとされるが、庶民にとっては遺体を埋葬する習慣もなく、死後野捨てと言われるように路傍に放置された。しかし平安中期頃から徐々に三昧聖と言われる行者たちが遺棄された死体を火葬し光明真言などで加持して死者の罪障を除き、民衆が死者に哀悼の念で接せられるようにしていった。
そこには、お釈迦様がどのように埋葬されたかが大きく関わるとする。インドでもそれまでは死体に対する不浄感があったというが、お釈迦様が亡くなられたときには弟子たちが生きているが如くに敬い礼拝し丁重に扱ったといわれる。そのことから、仏教では、遺体や埋葬地は不吉なものでも不浄なものでもなく、死者と遺族を結ぶ象徴として尊重されるべきものと認識されるようになったと指摘する。
そして、日本では、平安後期には源信が往生要集を書き、死後の救済に念仏の行を定義づけ、鎌倉新仏教の誕生により浄土教が庶民にまで浸透する中で、死穢が払拭され、いかに往生するかということに関心が向かい、葬送は悟りへの門出と位置づけられるようになったという。
こうして仏教の死生観が浸透する中で、さらに死後の確約が欲しいという願望のもとに中世末期から歿後作僧(もつごさそう)という形式が定式化するという。九世紀中頃亡くなる仁明天皇は崩御二週間前に出家をしており、こうした駆け込み出家が高貴な人々にとっての慣習となった。さらには死後戒名を付けて僧として葬儀を執り行うという歿後作僧が鎌倉後期頃に登場し、修行中に亡くなった禅僧の葬儀様式が採り入れられ、広く武士階級に普及したという。
しかしこの間には、保坂氏は記していないが、九世紀末に天皇を譲位して上皇として出家して初めて法皇として仁和寺を開く宇多法皇に示されるように退位後正式な僧として修行され僧名をもって亡くなられていく皇室の伝統が、そこには大きく影響しているであろうと思われる。
いずれにせよ、天皇、皇族、大名など、死の直前に僧になり臨終を迎えた人々が沢山おり、こうした風習が、次第に葬儀の直前に戒名を授かり形だけの出家作法を受けて僧として葬儀をする今日のスタイルに定着していったのだと言われる。それが庶民レベルにまで行われるようになるのは江戸時代になってからであろう。江戸時代には、檀家制度による全国民皆仏教徒化を受け強制的な仏式葬への制度化があり、戒名をつけ葬儀を行う歿後作僧の葬儀が一般化する。
その後明治時代の神道国教化による廃仏毀釈、神葬式定着の困難から葬儀のみを仏教に認めていく仏教の形骸化が図られた時代があった。同時に仏教など宗教は女、子供のすることという考えを流布する学者があり、そうした見方が浸透していったことも影響し、信仰が抜け単なる儀礼のみが残り、後には葬式仏教との謗りを受け、戒名ばかりが悪者にしたてられ批難されるのであろうと指摘されてもいる。
通過儀礼としての葬儀は、故人が担ってきた社会的な役割のすべてを実質的に失うことを社会に認知させる儀礼であり、残された人々が故人のいない新しい社会に脱皮するために重要なものである。故人の終焉を告げるものであり、故人を欠いた新しい世界の再生のための儀礼でもあると言われる。
そこで主役をなす標識が戒名であり、死者の名前である戒名をもらえば仏の世界で安楽に暮らせるということになり、残された遺族も死者の霊に脅かされることなく住み分けができ、死者の霊が満足すれば、その魂も鎮めることができる。このような概念を長い時間をかけて日本人は形成してきたのであり、それは日本の文化であり、民族の智恵であると言われる。
仏教は、日本人が古来恐れた死穢を火葬によって解決し、死後遊離して生きた者に禍いをもたらす荒御霊を高度な思想と複雑な儀礼によって浄化する力のある宗教であった。死の穢れを取り払えば人間は清浄となるという日本的な霊魂観を完成させる呪力ある宗教として仏教は民衆に受け入れられた。まさに仏教の悟りは日本人にとって死穢のなくなった状態であり、仏教の成仏と日本古来の清浄なる死者の世界も同質と考えた、これが日本的な成仏思想であるという。
また戒名の、特に院号については、天皇譲位後の別称である○○院様という言われかたから発祥し、今日のような戒名に入れられる背景には修験道の峰入りの行を終えた行者に対する、やはり○○院という呼称を使う風習が影響していると指摘されている。この他墓標や位牌、塔婆などについても詳しくその由来を述べられている。今の仏式の葬儀や法事に疑問を感じる方には是非読んでもらいたい好著である。今日の姿になるには相応の先人の知恵や試行錯誤があったであろう。そのことに意味を見出し、私たち現代人にも分かりやすくその意味を解説されている。僧分は勿論多くの方に読んで欲しい。
最後にはなるが、本書のあとがきに、日本仏教はすべての人に戒名を与え仏教的な救いを保障した。この日本的な戒名の意義を無視して、戒名無用論を主張し、人の死を軽視するならば、それはついには生を軽んじることにつながるのではないかと述べられている。命の尊さが叫ばれる中、実は現代人は知らす知らずに生を軽視している現実を鋭く指摘されている。まさに至言と言えよう。
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