三信条という真言宗徒にとっての大切な教えがある。仏前勤行次第の前の第1ページにあるのだから、誰もが知っているはずなのだが、意外と知られていない。物知りのあるお坊様でさえ知らなかったというと少し驚かれるかも知れないが、ほんとの話である。御詠歌の講習の際には必ずお唱えになるので、皆さん憶えていらっしゃる。しかしどんな意味ですかとお尋ねするとみんなそんなこと考えたこともないということになって、御詠歌のはずが法話が一時間ということもありうる話なのである。
三信条とは、
一つ、大師の誓願によって二世の信心を決定すべし。
一つ、四恩十善の教えを奉じ人の人たる道を守るべし。
一つ、因果必然の道理を信じ自他のいのちを生かすべし。この三つの教えである。
この教えは真言宗徒にとってというよりも仏教徒にとっての教えと言っても過言ではない。通仏教にとっての大切な教えと言えよう。この三信条に続いて実は、五綱目というものがある。こちらには仏性やら三密やら即事而真などという難しい言葉が出てきていかにも密教の教えと言えるのだが、三信条はごく普通の基本的な教えと言える。
そして、この三信条も五綱目もおそらく、仏前勤行次第が作られるのと同じように、明治の廃仏毀釈の後、一般の信徒に対する教化を見直していく一貫として、当時の高僧方が吟味してこさえたものであろう。おそらく、後に通仏教によって仏法を世間に弘めんとして東京に単身出て世に広く江戸時代の慈雲尊者の教えられた十善の教えを人の人たる道と説かんとして奮闘された釈雲照律師の強い意向が働いたものであろう。
前置きはそのくらいにして、早速一つ一つ解説してみよう。一つめの、大師の誓願によりとは、もちろん弘法大師のことを言うわけだが、これを仏、ないし、お釈迦様と言い換えてもよいだろう。二世とは今世と来世。今世で仏教への信心を獲得し、来世にあってもその信心を間違いなく得られるように生きてまいりますということだ。大師の誓願とは、弘法大師にあっては、晩年の万灯万華会の願文の中に誓願された、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなぱ我が(衆生済度の)願も尽きなん」というものだ。
これをお釈迦様に当てはめれば、おさとりを開かれてそのさとりの境涯にとどまられているとき、ふとこの真理はとても他の者たちに理解させることはかなわないと思われたのに、その後梵天によって、中にはその教えを理解し努力することで達する者もあるかも知れないと再三の懇請によって法を説かんとなされ、さればとて、縁ある者に教えを惜しげもなく何も隠し仕舞うことなく開陳なされたことであろうか。お釈迦様は私たちに、よりよく生きること、より価値の高い生き方をして早く自分と同じさとりを得んことを願われているのである。
二世、今世と来世があるということは、死んで終わりということではない、死んだら仏ということではないということだ。死んでも逝かねばならない次の衆生としての生命が続くのだということであろう。だからこそ、この世での生き方が大事になるのであって、後生が悪い、死んだ誰それの生まれ変わり、・・・などという言い方が昔からされてきた。死ぬことを往生と言うのも、往きて生まれることを言う。弥陀の浄土も生まれ変わるということに違いない。来世があると思って生きた方が、ないからなんでもしたい放題の人生よりも、万が一来世があったときに困らない人生を過ごせる。
二つ目の、まず、四恩とは、私たち人間が生きている限りこの四つのものにそもそものご恩があるのだということ。四恩とは、父母、衆生、国王、三宝の四つ。父母がなくては私たちはこの世に生まれ出てくることはなかったであろう。まずは衆生として、人間という何でも自ら考え思いによってなすことの出来る境涯に生まれ出て、この世に生存していることに感謝すべきなのである。その人間としての命を生きるためには沢山の周りの生き物たち、人々の支えがなくては生きてはいけない。口にするもの、着るもの、住まい、何から何まで沢山の生き物たちのお蔭で生きている。
それから、国王とはなんだろう。私たちは今とても平和に暮らしているから普段は感じることのないかもしれないが、安全に生きることのありがたさを知らねばならない。命財産の安全、それは、国というもの、その国を維持する国を司る存在があって始めて私たちは安心して暮らすことが出来ているということであろう。未だ難民として各国に散り散りに暮らすチベットの人たちのことを考えたらそのありがたさが分かろうと思う。
そして、三宝に恩とは何か。私たちは、ただ動物のように食べるもののために生きているのではないということであろう。人として、いかに生きるべきか、大切にすべきものは何か、そもそも生きるとは何かと考える道筋を三宝に委ね、間違いの無い生き方をしたい、そう思って仏教という教えに帰依するのである。自らの人生の最高の理想であり、最も価値ある生き方を実現されたお釈迦様をたよりに生きるのが仏教徒だと言えよう。
十善とは、生き物を殺さず、与えられていないものを盗らず、邪な行為をせず、嘘をつかず、戯言を言わず、汚い言葉を言わず、仲違いさせることを言わず、貪らず、怒らず、道理を弁えるということだが、これら十悪をしなければよいというのではなく、その正反対の心を養うことをいう。それは、命を育み、物を分け与え、清らかな人間関係を保ち、真実を語り、相手を尊重し、優しさや丁寧を心がけ、和合し、小欲知足を心がけ、慈悲の心を養い、因果道理を弁え理性をもって生きるということであろう。そうした生き方こそが人としてのあるべき生き方であるというのである。
三つ目は、因果必然の道理とある。これこそ正にお釈迦様の教えそのものであろう。この世はすべて原因と結果によって成り立っている。私たちがこうして生きていること、この世の中のことも。私たちの今の思いも、過去のすべての様々なことごとの集積としてあるだろう。そして、この体も。生まれてくる家も、育てられる環境も、この体格も、才能や好みもみな違うのにはすべて理由があってしかるべきだと考えるのである。
過去世に蓄積された行い(業)の蓄積によって生まれ、それに影響されて様々な因果の結果として私たちの今がある。その前があるから今がある、行いの結果が必ず廻ってくるというのが因果必然ということ。つまり、因果必然の道理に従って生まれ出て、因果必然の道理を生き、因果必然の道理によって死んでいく。そして大事なことは、自ら行ったことの結果は自分が受け取るということ。善き行いには善き結果が、悪い行いの結果には悪い結果がもたらされる。さらにすべてのものたちは周りの他のものたちとともに、相互に影響し合い、関係している。相互に依存して存在してもいる。つまり無関係なものなどないと考えるのである。自分がよくありたいなら、他とともによくあらねばならないということになって、だからこそ、この因果必然の道理を信じ自他の命を生かすべしとなるのである。
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三信条とは、
一つ、大師の誓願によって二世の信心を決定すべし。
一つ、四恩十善の教えを奉じ人の人たる道を守るべし。
一つ、因果必然の道理を信じ自他のいのちを生かすべし。この三つの教えである。
この教えは真言宗徒にとってというよりも仏教徒にとっての教えと言っても過言ではない。通仏教にとっての大切な教えと言えよう。この三信条に続いて実は、五綱目というものがある。こちらには仏性やら三密やら即事而真などという難しい言葉が出てきていかにも密教の教えと言えるのだが、三信条はごく普通の基本的な教えと言える。
そして、この三信条も五綱目もおそらく、仏前勤行次第が作られるのと同じように、明治の廃仏毀釈の後、一般の信徒に対する教化を見直していく一貫として、当時の高僧方が吟味してこさえたものであろう。おそらく、後に通仏教によって仏法を世間に弘めんとして東京に単身出て世に広く江戸時代の慈雲尊者の教えられた十善の教えを人の人たる道と説かんとして奮闘された釈雲照律師の強い意向が働いたものであろう。
前置きはそのくらいにして、早速一つ一つ解説してみよう。一つめの、大師の誓願によりとは、もちろん弘法大師のことを言うわけだが、これを仏、ないし、お釈迦様と言い換えてもよいだろう。二世とは今世と来世。今世で仏教への信心を獲得し、来世にあってもその信心を間違いなく得られるように生きてまいりますということだ。大師の誓願とは、弘法大師にあっては、晩年の万灯万華会の願文の中に誓願された、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなぱ我が(衆生済度の)願も尽きなん」というものだ。
これをお釈迦様に当てはめれば、おさとりを開かれてそのさとりの境涯にとどまられているとき、ふとこの真理はとても他の者たちに理解させることはかなわないと思われたのに、その後梵天によって、中にはその教えを理解し努力することで達する者もあるかも知れないと再三の懇請によって法を説かんとなされ、さればとて、縁ある者に教えを惜しげもなく何も隠し仕舞うことなく開陳なされたことであろうか。お釈迦様は私たちに、よりよく生きること、より価値の高い生き方をして早く自分と同じさとりを得んことを願われているのである。
二世、今世と来世があるということは、死んで終わりということではない、死んだら仏ということではないということだ。死んでも逝かねばならない次の衆生としての生命が続くのだということであろう。だからこそ、この世での生き方が大事になるのであって、後生が悪い、死んだ誰それの生まれ変わり、・・・などという言い方が昔からされてきた。死ぬことを往生と言うのも、往きて生まれることを言う。弥陀の浄土も生まれ変わるということに違いない。来世があると思って生きた方が、ないからなんでもしたい放題の人生よりも、万が一来世があったときに困らない人生を過ごせる。
二つ目の、まず、四恩とは、私たち人間が生きている限りこの四つのものにそもそものご恩があるのだということ。四恩とは、父母、衆生、国王、三宝の四つ。父母がなくては私たちはこの世に生まれ出てくることはなかったであろう。まずは衆生として、人間という何でも自ら考え思いによってなすことの出来る境涯に生まれ出て、この世に生存していることに感謝すべきなのである。その人間としての命を生きるためには沢山の周りの生き物たち、人々の支えがなくては生きてはいけない。口にするもの、着るもの、住まい、何から何まで沢山の生き物たちのお蔭で生きている。
それから、国王とはなんだろう。私たちは今とても平和に暮らしているから普段は感じることのないかもしれないが、安全に生きることのありがたさを知らねばならない。命財産の安全、それは、国というもの、その国を維持する国を司る存在があって始めて私たちは安心して暮らすことが出来ているということであろう。未だ難民として各国に散り散りに暮らすチベットの人たちのことを考えたらそのありがたさが分かろうと思う。
そして、三宝に恩とは何か。私たちは、ただ動物のように食べるもののために生きているのではないということであろう。人として、いかに生きるべきか、大切にすべきものは何か、そもそも生きるとは何かと考える道筋を三宝に委ね、間違いの無い生き方をしたい、そう思って仏教という教えに帰依するのである。自らの人生の最高の理想であり、最も価値ある生き方を実現されたお釈迦様をたよりに生きるのが仏教徒だと言えよう。
十善とは、生き物を殺さず、与えられていないものを盗らず、邪な行為をせず、嘘をつかず、戯言を言わず、汚い言葉を言わず、仲違いさせることを言わず、貪らず、怒らず、道理を弁えるということだが、これら十悪をしなければよいというのではなく、その正反対の心を養うことをいう。それは、命を育み、物を分け与え、清らかな人間関係を保ち、真実を語り、相手を尊重し、優しさや丁寧を心がけ、和合し、小欲知足を心がけ、慈悲の心を養い、因果道理を弁え理性をもって生きるということであろう。そうした生き方こそが人としてのあるべき生き方であるというのである。
三つ目は、因果必然の道理とある。これこそ正にお釈迦様の教えそのものであろう。この世はすべて原因と結果によって成り立っている。私たちがこうして生きていること、この世の中のことも。私たちの今の思いも、過去のすべての様々なことごとの集積としてあるだろう。そして、この体も。生まれてくる家も、育てられる環境も、この体格も、才能や好みもみな違うのにはすべて理由があってしかるべきだと考えるのである。
過去世に蓄積された行い(業)の蓄積によって生まれ、それに影響されて様々な因果の結果として私たちの今がある。その前があるから今がある、行いの結果が必ず廻ってくるというのが因果必然ということ。つまり、因果必然の道理に従って生まれ出て、因果必然の道理を生き、因果必然の道理によって死んでいく。そして大事なことは、自ら行ったことの結果は自分が受け取るということ。善き行いには善き結果が、悪い行いの結果には悪い結果がもたらされる。さらにすべてのものたちは周りの他のものたちとともに、相互に影響し合い、関係している。相互に依存して存在してもいる。つまり無関係なものなどないと考えるのである。自分がよくありたいなら、他とともによくあらねばならないということになって、だからこそ、この因果必然の道理を信じ自他の命を生かすべしとなるのである。
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