住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

寺報を45年間続けられた偉業 新井慧誉和尚 追悼

2007年01月23日 17時37分16秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
東京都北区滝野川の真言宗豊山派寿徳寺住職にして、二松学舎大学教授、若かりし日にインド西ベンガル州シャンチニケタンのタゴール大学で教鞭を執られた新井慧誉師が1月9日午前6時、急逝された。

私は13年ほど前、カルカッタのベンガル仏教会本部の宗務総長ダルマパル・バンテーの居室で、まだベンガル仏教会で具足戒を受けたばかりの頃、はじめて新井先生にお会いした。

とても気さくな語り口で、「東京に帰ることがあったら、お寺に遊びに来て下さい」と言われた。私をもと真言宗の僧侶だと知って、親しくそう声を掛けて下さったようだった。

新井先生がお寺で写経会をして奉納された沢山の般若心経が、ベンガル仏教会の本堂の本尊であるお釈迦様の前に置かれていたことを思い出す。また、先生が代表して仏教徒海外奨学基金を作られ、カルカッタのお寺に併設されたクリパシャラン小学校の生徒のために奨学金を送られ、それを受け取っている生徒のファイル用に写真を私が撮らせてもらったこともあった。

その後、東京に戻った際に、黄色い袈裟のまま何度かお寺にお伺いした。大きな来訪者名簿に署名させられたことを思い出す。また仏教徒海外奨学基金の役員会にも招かれていき、インドのお寺の様子をお話させてもらったこともあった。

「観世音」という寺報を若いときからお出しになっていると聞いた。「一人ではじめ書いたが、なかなか大変で、みんなに協力してもらっている。是非書いて欲しい」と言われ、2度ほど「インドでの安居会のこと」と「ベンガル仏教徒の葬儀について」を書かせていただいたことがあった。

挿絵を大学の教え子に描いてもらっていて、編集会議は楽しいものだと話されていた。この先生の「寺報観世音」に触発されて、その頃私も「ダンマサーラ」という名の布教紙を毎月発行し、先生にも送らせてもらっていた。

その中で、「報恩」という名の父母の恩についての述べた経典について書いたとき、その文章を読まれた先生は、御自分もその経典について研究したことがあり、大きな封筒で論文を送ってきて下さった。

御礼を述べるために電話をすると「是非読んで下さい。ところで、その経典はどこから見つけたのか」などとお聞きになられ、励まされたことを記憶している。その時には、専門に仏教学を学んだこともない私のような者の文章を読んで下さって、その上、御自分の研究論文まで送って下さったことに随分と感激したものであった。

その頃だったか、インド僧を辞して下町の小庵に住まいしているとき一度インドに行き、帰ってから、カルカッタのバンテーのメッセージを持って新井先生をお訪ねしたことがあった。カルカッタのお寺で仕事するヒンドゥー教徒とイスラム教徒を比較して様々お話ししていると、「なかなか話がおもしろいね」とおっしゃってくださったことを憶えている。

インド・サールナートの法輪精舎にいる頃、住職後藤惠照師のところに新井先生が送られた「心のまんだら」という分厚い文集があった。「寺報観世音」を何年か毎に一冊にまとめたものだった。日本語に飢えていた私は、それを読んで勉強し、心楽しく過ごさせてもらった。

ここ國分寺に住してから、先生の寺報を参考にして「國分寺だより」を発刊するようになっても、やはり先生には必ず一部送らせてもらってきた。また、晋山したときに発行した短編集「仏教の話」、また昨年は「仏前勤行次第の話」を発行し、それらも先生にお送りさせていただいた。晋山したときには、

「帰依三宝 お久しぶりです。晋山されたとのことおめでとうございます。歴史ある國分寺を受け継がれる御身どうぞ大切にされご活躍されること念じ上げます。また「仏教の話」は興味ある内容です。有り難うございました。平成14年 春彼岸 寿徳寺新井慧誉 國分寺 横山全雄様」と筆で書かれた書状をお送り下さった。

平成16年発行の「心のまんだら」第四集には、親しくお声を掛けて下さって、錚々たる執筆陣の中に加えさせていただいた。何度も丁寧な原稿と校正のやり取りがあって、「インドのベンガル仏教徒の葬儀について」をご掲載下さった。

平成16年末に「写経を奉納しますからよろしく」とお電話いただいたことがあった。その時にも、この地の様子をいろいろと心配されてお聞きになられた。沢山の写経を送ってこられ、一人一人に御朱印を紙に書きお送りしたら、丁寧な礼状が送られてきた。

その後、先生は、インドのタゴール大学から名誉博士号を送られ、また東京大学からもたしか学位を授与されておられた。暫く音信不通で、寺報が送られてくるだけだったが、その寺報によって知るだけでも、何年か毎に定期的に檀信徒をつれてインドやスリランカ、ブータンに行かれていた。

また、毎月定期的に仏教入門塾、写経会や護摩供をされていた。新撰組近藤勇の菩提寺でもあったことから、そちらの方の活動も続けておられた。さらには、寺内整備、大仏の建立と休む間もなく事業を展開しておられた。

昨年末、晩にお電話をいただいた。「久しぶり。寿徳寺の新井です。」といつもと変わらないご様子で、インドのブッダガヤ寺の住職の話やベンガル仏教会の現在の様子、写経を2月に送るからまた奉納しますということなど、3、40分ばかり話をした。既にその時は心臓弁膜症の手術をなさり、お寺に戻られていたのだった。

少々ご容態が良かったのか、笑いながら話をされていた。何も知らない私は、東京から随分ながい電話をされるので、来年にでも春頃東京に出たときお伺いします、などとのんきなことを言ってしまった。何か言いたいことでもあったのか。ただ、気になったことを話したかっただけなのか。不詳の私を最後に励ましたい思いだったのか、今では知る由もない。

今日手にした「寺報観世音」の表紙に先生の訃報の知らせがあり、ご逝去を知った。ただただ残念に思う。先生の走り抜けた67年。「寺報観世音」は第46巻第1号通巻271号で絶筆となった。分かりやすい布教にかけた一生に学ばせていただき、お力添えいただいたことに感謝します。合掌。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking





コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神大震災13年目を迎えて 東灘区田中町本山南中学の思いで 

2007年01月17日 07時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
朝日新聞社会面に、「まち人12年震災田中地区から」という連載があった。阪神大震災で最も大きな家屋倒壊の被害があった東灘区田中町の罹災当時と今にいたる復興の様子と人間模様を描き出している。JR神戸線の摂津本山駅から住吉にかけての南側、国道2号線も真ん中を通っている。

ここ國分寺も昨年福山市に合併しているが、福山市の中心部にも国道2号線が通る。この道をどこまでも東に行けば、12年前、まだ黄色い衣を纏って歩き回ったあの震災現場にたどり着くのだなぁ、と何度も思った。

あれから、まる12年がたった。今日は13年目の第一日、つまりは亡くなった人にとっては13回忌に当たる。当時私は、インドの黄色い袈裟を纏い東京のお寺に居候していた。震災二週間が過ぎようというとき、芦屋の知り合いから心のケアーに来ないかと言われ、速断した。

その2日後に新幹線で大阪に出て、それから、阪神電車で青木駅に向かった。当時西に向かう電車の最終駅だった。リュックを担ぎ両手に荷物を持ったおおぜいの人でごった返していた。知り合いと待ち合わせ、一緒に避難所になっていた本山南中学に向かった。電線が垂れ下がり、倒壊した家の瓦礫で道がふさがっていたり、ぐるりと遠回りをして駅から2時間あまりもかけて避難所に到着した日のことを思い出す。

避難者の代表とボランティアが協同で自治を起こしたところだった本山南中学の避難所の事務所で自己紹介をした。そして、とにかく出来ることを何でも手伝った。行くところ行くところ何人の被災者から話を聞いただろうか。みんな話したくて話したくて仕方なかったという感じで、堰を切ったように話しまくる。みんなその話には真実があり、胸を打たれ感動する話も数多くあった。

とにかくこうして生きていることが奇跡であった。ありがたい、生きているだけで幸せだという。それにしても何で神戸で地震があったのだろうか。何かやはり私たちは大きな過ちをしてきたのではないか。もっと人様のためになることをしよう。恩返しをしたい。そんな気持ちでいる人ばかりであった。

ボランティアに来る人もみんな温かい心をもって駆けつけてきた。みんな素晴らしい優しい人たちばかりだった。人と人との連帯。個人的な繋がりによって仕事が広がる。今でも連絡を取り合っている人たちがいる。一度みんなで会いたいと思う。同志社大学から来た代議士候補、慶応大学の博士たち、千葉県代表の主婦、愛知県の若き好々爺、将来の看護婦長さん。個性溢れる面々。

みんなそれぞれに駆けつけてきた背景は違う。中には、自分の生活圏で様々な問題を抱え生きにくく感じていたときに、この被災地に生きる場を、生きていると実感できる場を得て、水を得た魚の如くに活躍する人たちも大勢いた。みんな良い仲間たちだった。

自分を必要としている人がいる。自分のやったことがその場で人々の喜びに変わる。とてもストレートに反応が返ってくる。そんな生きがいをボランティアみんなに与えてくれた。阪神大震災は、最近の若い者は、と言うお年寄りたちにも、若い人たちを頼もしく、見直す機会にもなった。心の励みになった。

本山南中学の避難所は一時本当に被災者もボランティアも心一つにうまく自治が成立し、慈悲喜捨の温かい心の波動に満ちていた。みんなの笑顔が本当に素晴らしかった。震災は勿論たくさんの尊い人命を失い、家を無くし、その後も復興住宅での孤独死など多くの問題も継続する。とてつもない負の遺産を残した。

しかし、そうならなければ見出すことの出来なかった尊く優しい助け合う心、みんなのことを思いやる心を多くの人々に授けてくれたことも忘れてはならない。それによって亡くなられた多くの人々も救われたことであろう。亡くなられた方々に心よりの追悼をささげます。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倍音読経 天界の音楽を聴こう

2007年01月13日 15時47分26秒 | 仏教に関する様々なお話
今日午前中にお寺の本堂で法事があり、法事の後の法話で、読経についてお話した。お経は、一人で唱えるときも多人数で唱えるときも一つのお経を唱えているという気持ちで、周りの声に耳を澄まし、声を合わせて唱えるようになどと話をした。

読経の話をするときには必ず高野山の専修学院での体験を話している。もう20年ばかりの前のことではあるが、高野山の僧侶養成所である専修学院に一年間在籍していた。全寮制で80人からの様々な年齢の得度しただけの僧侶が入学し、白衣の上に黒衣を着て白袈裟を掛けた姿で、朝は本堂、夕方には持仏堂の広間で勤行を行う。

4月に入寮して二三ヶ月の頃、夕勤を広間で40人40人が向かい合わせて坐り、習いたての経を読んでいると、何やら女の人の声のようにとても高い声が聞こえてきた。何事かと思って目を上げても何も変わったことはない。すると暫くして銅鑼や笛や太鼓の音が聞こえてきた。何ともそれが心地よい。まるで天界の音楽を奏でているような昂揚した心地がした。

小一時間のお勤めが終わると季候が良いことはあったが、顔が火照っているような感じがする上に身体の疲れがスッキリ取れたように身が軽い。そんな不思議な感覚を味わった。周りの何人かもそんな法悦を味わったかのようにいい顔でいる。聞いてみると同じように不思議な音を聞いたと言っていた。

これは決して誰かが素っ頓狂に馬鹿高い声を出したわけではない。ご承知のように音は波動であり、低い男の人だけの読経であっても、その声の音がきれいに合うとその波が共振して突如として倍音というそれまでの波形を突き抜けた波となることがある。それは誠に高い音として聞こえては来るけれども決して聞きにくい音ではなくて、きれいな清音である。

昔東京にいる頃、五反田でデバインヨガクラブという教室を開いていた成瀬雅春氏にヨガを習っていたことがある。成瀬氏は空中浮遊で有名だが、気功やイスラムの修行者であるスーフィーなどの研究もされ、ここで言う倍音についてもかなりの研鑽を重ねられ、倍音声明と銘打って、講習会や体験会をされていた。

あるとき神奈川県の田谷の洞窟での体験会に参加したことがある。その洞窟は、田谷山瑜伽(ゆが)洞といい、横浜市栄区田谷町に位置する真言宗定泉寺境内にある。東京近郊の人工洞窟としては比べるもの無い規模と内容を誇り洞窟内の公開されている順路は500メートル弱もある。

そこで何人くらいの参加者がいたであろうか、思い思いに坐り、低く母音を唱えていく。ウー、オー、アー、エー、イー、と順に唱えていく。ウーと唱えると、肛門の少し前の会陰部が振動する。オーと唱えると、臍の少し下丹田が振動する。アーと唱えると心臓が、エーと唱えると甲状腺が、そしてイーと唱えると頭頂が振動する。

私たちのホルモンの分泌する主要な箇所がこうして母音を低く唱えることで活性する。それを大勢ですると音が共振して倍音が深くそれらの箇所、つまりチャクラとインドで言われるエネルギー帯が活発化して誠に心地よく、全身がリフレッシュする。

その田谷の洞窟での体験会では、誠に素晴らしい音の世界、まさに天界の音楽を聴く不思議を体験することができた。仏教音楽である声明も、おそらく、一様に経文の母音を長く抑揚を付けて唱えるところに、この倍音声明と同じ音の不思議を体験させ、唱える者も聞く者も共に仏の世界に誘うことがその深秘としてあるのではないかと思われる。皆さんも是非体験して欲しい。

<定泉寺について>
古墳時代の横穴墓あるいは横穴住居跡だったものを、鎌倉時代、修行僧たちが真言密教の道場としてノミ1本で迷路のように掘り広げたものだという。その後崩落荒廃していたが江戸後期、天保年間に洞窟を整備して数々の彫刻を施し、四国や西国、板東などの観音霊場を彫刻した地底伽藍が完成。

横浜市栄区田谷町1501 tel 045-851-2392 
拝観時間9:00~16:30 拝観料 大人400円。中、高生200円。小学生 100円。所要時間は約30分。JR大船駅西口・観音側からバス(戸塚・バスセンター行き)で「洞窟・ラドン温泉前」下車。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

澤地久枝氏の勇気に応えよう

2007年01月10日 19時24分25秒 | 時事問題
1月4日、朝日新聞の「私の視点」というコラムに、作家の澤地久枝氏が『憲法60年 明るい年にしていくために』と題して小論を掲載されている。今という時代を的確に分析され、私たちはいかにあるべきかと、短い分量の中にまとめられている。誠に当を得た、新年にふさわしい覚醒を促す一文である。

フィリピン戦線で戦った大岡昇平氏、ソ満国境の戦闘で生き残った五味川純平氏の二人の作家の言葉を引用されて、戦争というものについてまず述べられる。それは国、ないし私的な欲望を満たすための経済行為に過ぎないのだとその本質を見抜く。

そして、今私たちが切々と感じ取っている生活の不安について具体的に述べる。保険料が引き上げられ医療費の負担が増え、逆に年金の手取りが減る。それらの施策はひとえに暗黙の上に進められる富国強兵策の一環であると言われる。そして、今のこの状況は昭和の戦争前夜の世相に似てきていると指摘する。

人々は言いたいことをこらえ口をつぐみ、世の成り行きに従順になる。いつか来た道の袋小路に差し掛かっているのではないか、これでは歴史は繰り返されるのだと警鐘を鳴らす。すでに、教育基本法がゆがめられ、自衛隊法が変わり公然たる軍隊として戦争できる体制が選択された。昨日防衛庁が省に格上げされた。そこに国民の意志は見られない。

それはただただ同盟国アメリカの意向であると、そしてそれはただ命を差し出すばかりか私たちの財産までも差し出すほどの無気力さ、無見識、一国を預かる者としての気概のかけらもないことをさらけ出している現状に、国民誰もが本当は気づかねばならない、そう澤地氏は言われる。

そして、そのことの意味を本質を国民に明らかにせよと迫る。つまり日本国はアメリカの従属国であり、まったくその要望に従うばかりである現実。だからこそ、イラク出兵を速断しておきながら、その後イラク戦争の大儀が崩れても、その責任を取るということの道義を感じることもないのであると示唆される。

政治の空疎化がすすみ、政治に希望のかけらさえ感じられなくなった今、国民の民情悪化、疲弊、つまり凶悪事件、いじめ、自殺が耐えず、金の力で何でもできるとする風潮さえ生んでいる。そこに政治は一片の責任すら感じることもない。

そして澤地氏は、この現状に対抗するために、私たちが手にできる唯一の手段は、選挙であると言われる。希望の灯、希望のタネは市民連動によって憲法本来の国にもどろうという市民一人一人の強固な意志、決意が必要であると力説される。市民は市民で自ら考え思慮を深め、おのれ一人の思いからはじめて同じ思いの人と繋がる発信を心がけるべきだとしている。

最後に澤地氏は、『憲法を泣かせるな』を施行60年にあたる今年の合言葉にしようと呼びかけている。今という時代を冷徹に捉え、勇気を持ってその本質を説いてはいても、穏やかな筆致である。しかしその意味する内容は、痛烈に現状を批判し、人々の心に決起を促す檄文である。澤地氏の心の中の絶叫を聞く思いがする。

私たち庶民の唯一の武器は選挙における一票しかない。その一票をしがらみに取り巻かれ、いつまでも義理に流されていてはこの国の将来は危うい。様々な団体、企業による締め付けに屈することがあってはならない。

平和な世の中にしよう、自分の子供や孫たちが戦争に利用されることのない国にしよう、世の中の不平等を無くそう、おかしなお金の流れを断ち切ろう、一生懸命働く人はそれなりに報われる制度にしよう、私たちの生命に危険なものを取り締まり安全な食、環境をもたらす制度にしよう。

誰もが思う本来あるべき姿に向けて私たち自身が無関心を装うことなく本気になって考えることが必要なのであろう。澤地氏も言われるように、先の戦争で犠牲になった多くの戦没者たちの死を生かす道は私たち一人一人の思慮と決意にかかっている。年頭にこの一文を寄稿された澤地氏を私は讃歎したい。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破鞋(はあい) 激動の明治に生きた型やぶりの禅僧に学ぶ

2007年01月06日 09時39分07秒 | 仏教書探訪
水上勉著『破鞋 雪門玄松の生涯』1986年10月17日初版。1300円。私がこの本を最初に読んだのは確か高野山を降りてインドに行き、そこで出会った臨済宗の雲水さんの案内で坐禅をはじめた頃だったと思う。ビニール紐で草鞋の編み方を習い、托鉢をしたり四国を歩いていた頃だった。

破鞋とは、破れたボロボロの草鞋を履いた僧侶のことだ。水上勉が破鞋と題した雪門玄松師の一生は、まさに栄枯盛衰波瀾万丈の生涯であった。和歌山市の豪商の跡取りだったが、時代の流れと当主の遊興が過ぎて家業が傾き、後を次男に任せ出家してしまう。出家した先のお寺も台風で壊れ、後に京都の相国寺荻野独園禅師に随侍して辛苦に耐えよく励み印可を手にする。

独園師は、明治の混迷する仏教界にあって臨済宗を代表する存在であった。大教院長であり、一時期一宗に統一した禅宗の初代管長にも任ぜられた。その後雪門師は実家の支援で中国に3年遊学して、帰国後は富山県高岡の国泰寺派大本山国泰寺管長として荒廃した伽藍の修復に奔走。山岡鉄舟の軸を担いで勧募に歩く。鉄舟歿時には本葬儀の導師として儀式を主宰している。

また国泰寺管長時代には後に禅を世界に宣布する鈴木大拙や近代日本哲学の金字塔を打ち立てる西田幾多郎が参禅して師と仰いだ。しかし雪門師は国泰寺住職をたった10年で返上し、草庵に引き籠もり在家禅を唱導。その後実家の財産であった鉱山経営のために還俗し当時日露戦争前の軍備増強勤倹貯蓄を強制する時代に翻弄される。

慣れない事業経営に失敗して、再度禅僧にもどり、若狭の田舎寺を寓居として、曹洞宗の寺で村おこしを手伝うなど往時の光彩を放つものの貧乏ななりで、まさに破鞋の僧として浮かばれないままに腹膜炎を患い66歳で歿してしまう。

水上勉自身が小さい頃に臨済宗の寺に預けられ、僧堂生活を経験しているだけにさすがに読み応えがあり、また明治時代の僧界の雰囲気、それに近代に仏教が抱え込んだ様々な問題点の数々が浮かび上がってくる。

ここ備後國分寺にも近い岡山の備前国主池田家の菩提寺である曹源寺が当時の臨済禅を代表する厳しい専門僧堂であり、ここからその後錚々たる多くの禅匠を生んでいることも知ることができた。

以前ここでも紹介した真言宗からスリランカに一人旅だって上座仏教の比丘となる釈興然師と同じスリランカの僧園に暮らした釋宗演師もここ曹源寺から巣立った一人であった。曹源寺は今たくさんの海外からの参禅者で賑わうと昨年だったか「大法輪」誌の巻頭グラビアで紹介されていた。

今回、昨年末にもう一度読み返したのは、雪門師が唱導した在家禅の教えに摩訶般若波羅蜜多と唱え念ずる新仏教の創立を目論んでいたとあったことを思い出したからである。般若心経とは何か、考え込んでいたときにこの本のことが頭に浮かんだ。

ネットオークションで初版本を取り寄せた。かいつまんで要所だけを読もうと思っていたが、一ページ目から精読することになった。それほどまでに著者自身の思索、雪門師を探索する情熱に引き込まれてしまう名著である。

初めて読んだ16年ほど前、この本のお陰で私はその後の遍歴を続けることができたのであろう。そして、今読み終わってやはり安穏と日を過ごすことのおこがましさ、僧たるものの意気込みを再度吹き込まれたように感じる。

僧とは何か、いかにあるべきか。今の僧侶が忘れ去ってしまった情熱がほとばしる。明治期に日本の仏教が大きく荒廃していく時代にあって、その波に抗い、それが故にあえなく時代に飲まれ破鞋のままに生涯を閉じた禅僧の生涯。雪門師の一生に学ぶものは多い。日本の全僧侶に読んでほしい一冊である。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亥年をむかえて

2007年01月02日 13時51分15秒 | 様々な出来事について
今年は丁亥(ひのとい)年。12年前の亥年、1995年の正月には、私はインドの黄色い袈裟を纏って東京の放生寺に居候していた。その前々年93年4月にインドのサールナートで沙弥出家して、6月にはカルカッタのフーグリー河船上にてベンガル仏教会の長老方に見守られウパサンパダー(上座仏教の具足戒式)を受けた。

サールナート法輪精舎に住まいして、お寺のボランティアを手伝いつつベナレス・サンスクリット大学でパーリ語のディプロマコースに学んだ。そして翌94年4月に黄衣のまま一時帰国してから暫く学生向けの下宿に住み、その半年後から放生寺に移っていた。本当はその頃にはインドに戻っていなければいけなかったのに、インドで異常にコレラが流行して渡印を延期していた。

その年94年は、4月に新生党公明党社会党の反自民党連合が政権を取ったのもつかの間僅か2ヶ月で崩壊し、6月末には自民党と社会党が連立を組み、初の革新系党首村山氏が首班指名を受けた。

その時、私は茨城県大洋村の浄心庵というところにいて、スリランカの長老とともにその様子をテレビで見ていた。異様な政治の人間模様。世の中がグラリと、何でもありの異常な世界に入り込んだ一瞬だったのではないか。権力欲のためには思想信条も投げ捨てるという姿勢を時の為政者が示し、まさに退廃の世に国民を投げ入れた。

そして明くる95年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、テレビで見た自衛隊のヘリコプターが炎上する神戸の町を飛んでいる光景が強く印象に残った。自分でも何かしなければと思い救援物資を送った矢先に芦屋の知り合いから心のケアーのために避難所に来ないかとのお誘いがあった。二つ返事で了解し、震災後2週間目に東灘区の本山南中学の避難所に入った。

そのときには2週間ばかり滞在して心のケアーをはじめ様々なボランティアに励み、その後も3が月ほど1週間から10日間毎月本山南中学に通い、被災者のその後の生活復興を拝見した。その間に地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教一斉摘発へと続く。

またこの年は様々な金融機関の不祥事が続き、金融合併の先鞭を付ける年でもあった。4月には円が史上最高値1ドル79円75銭をつけた。この頃まではまだバブルの余韻があったが、次第に長期の不況感が漂い、人々にあきらめの色が濃くなっていく。どこへ行っても不況だからという言葉が聞かれるようになる。

いまもって一般庶民のこの雰囲気はそう変わらない。いいのは大企業と大銀行ばかりだ。また、昨年は、安倍政権となり、初の戦後生まれの首相が誕生した。国民の生活を無視し続けた小泉政治を継承すると言い、早々に教育基本法を変えた。これは国民主権から国のために国民ありとする日本国の根本を転換せんとするものであろう。

前の亥年1995年のように何か大きな事件が起こらねばよいがと祈っている。我が願いに天随うと言われたのは弘法大師だったか。しかし、逆に見ればこれは天も下界を見ているということでもあろう。だから人の願いに天が気づいてくださる。ついては、天に見限られないような私たち人間の行いをしなければいけないということでもある。

人の道に外れたようなことをしていて良いことはない、人の上に立つ人々はなおさらである。それぞれの立場に応じて明恵上人の説かれた「あるべきようは」を自らに問いつつ、日々過ごす必要があるのであろう。今年は、はたして何が起こるのであろうか。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする