東京都北区滝野川の真言宗豊山派寿徳寺住職にして、二松学舎大学教授、若かりし日にインド西ベンガル州シャンチニケタンのタゴール大学で教鞭を執られた新井慧誉師が1月9日午前6時、急逝された。
私は13年ほど前、カルカッタのベンガル仏教会本部の宗務総長ダルマパル・バンテーの居室で、まだベンガル仏教会で具足戒を受けたばかりの頃、はじめて新井先生にお会いした。
とても気さくな語り口で、「東京に帰ることがあったら、お寺に遊びに来て下さい」と言われた。私をもと真言宗の僧侶だと知って、親しくそう声を掛けて下さったようだった。
新井先生がお寺で写経会をして奉納された沢山の般若心経が、ベンガル仏教会の本堂の本尊であるお釈迦様の前に置かれていたことを思い出す。また、先生が代表して仏教徒海外奨学基金を作られ、カルカッタのお寺に併設されたクリパシャラン小学校の生徒のために奨学金を送られ、それを受け取っている生徒のファイル用に写真を私が撮らせてもらったこともあった。
その後、東京に戻った際に、黄色い袈裟のまま何度かお寺にお伺いした。大きな来訪者名簿に署名させられたことを思い出す。また仏教徒海外奨学基金の役員会にも招かれていき、インドのお寺の様子をお話させてもらったこともあった。
「観世音」という寺報を若いときからお出しになっていると聞いた。「一人ではじめ書いたが、なかなか大変で、みんなに協力してもらっている。是非書いて欲しい」と言われ、2度ほど「インドでの安居会のこと」と「ベンガル仏教徒の葬儀について」を書かせていただいたことがあった。
挿絵を大学の教え子に描いてもらっていて、編集会議は楽しいものだと話されていた。この先生の「寺報観世音」に触発されて、その頃私も「ダンマサーラ」という名の布教紙を毎月発行し、先生にも送らせてもらっていた。
その中で、「報恩」という名の父母の恩についての述べた経典について書いたとき、その文章を読まれた先生は、御自分もその経典について研究したことがあり、大きな封筒で論文を送ってきて下さった。
御礼を述べるために電話をすると「是非読んで下さい。ところで、その経典はどこから見つけたのか」などとお聞きになられ、励まされたことを記憶している。その時には、専門に仏教学を学んだこともない私のような者の文章を読んで下さって、その上、御自分の研究論文まで送って下さったことに随分と感激したものであった。
その頃だったか、インド僧を辞して下町の小庵に住まいしているとき一度インドに行き、帰ってから、カルカッタのバンテーのメッセージを持って新井先生をお訪ねしたことがあった。カルカッタのお寺で仕事するヒンドゥー教徒とイスラム教徒を比較して様々お話ししていると、「なかなか話がおもしろいね」とおっしゃってくださったことを憶えている。
インド・サールナートの法輪精舎にいる頃、住職後藤惠照師のところに新井先生が送られた「心のまんだら」という分厚い文集があった。「寺報観世音」を何年か毎に一冊にまとめたものだった。日本語に飢えていた私は、それを読んで勉強し、心楽しく過ごさせてもらった。
ここ國分寺に住してから、先生の寺報を参考にして「國分寺だより」を発刊するようになっても、やはり先生には必ず一部送らせてもらってきた。また、晋山したときに発行した短編集「仏教の話」、また昨年は「仏前勤行次第の話」を発行し、それらも先生にお送りさせていただいた。晋山したときには、
「帰依三宝 お久しぶりです。晋山されたとのことおめでとうございます。歴史ある國分寺を受け継がれる御身どうぞ大切にされご活躍されること念じ上げます。また「仏教の話」は興味ある内容です。有り難うございました。平成14年 春彼岸 寿徳寺新井慧誉 國分寺 横山全雄様」と筆で書かれた書状をお送り下さった。
平成16年発行の「心のまんだら」第四集には、親しくお声を掛けて下さって、錚々たる執筆陣の中に加えさせていただいた。何度も丁寧な原稿と校正のやり取りがあって、「インドのベンガル仏教徒の葬儀について」をご掲載下さった。
平成16年末に「写経を奉納しますからよろしく」とお電話いただいたことがあった。その時にも、この地の様子をいろいろと心配されてお聞きになられた。沢山の写経を送ってこられ、一人一人に御朱印を紙に書きお送りしたら、丁寧な礼状が送られてきた。
その後、先生は、インドのタゴール大学から名誉博士号を送られ、また東京大学からもたしか学位を授与されておられた。暫く音信不通で、寺報が送られてくるだけだったが、その寺報によって知るだけでも、何年か毎に定期的に檀信徒をつれてインドやスリランカ、ブータンに行かれていた。
また、毎月定期的に仏教入門塾、写経会や護摩供をされていた。新撰組近藤勇の菩提寺でもあったことから、そちらの方の活動も続けておられた。さらには、寺内整備、大仏の建立と休む間もなく事業を展開しておられた。
昨年末、晩にお電話をいただいた。「久しぶり。寿徳寺の新井です。」といつもと変わらないご様子で、インドのブッダガヤ寺の住職の話やベンガル仏教会の現在の様子、写経を2月に送るからまた奉納しますということなど、3、40分ばかり話をした。既にその時は心臓弁膜症の手術をなさり、お寺に戻られていたのだった。
少々ご容態が良かったのか、笑いながら話をされていた。何も知らない私は、東京から随分ながい電話をされるので、来年にでも春頃東京に出たときお伺いします、などとのんきなことを言ってしまった。何か言いたいことでもあったのか。ただ、気になったことを話したかっただけなのか。不詳の私を最後に励ましたい思いだったのか、今では知る由もない。
今日手にした「寺報観世音」の表紙に先生の訃報の知らせがあり、ご逝去を知った。ただただ残念に思う。先生の走り抜けた67年。「寺報観世音」は第46巻第1号通巻271号で絶筆となった。分かりやすい布教にかけた一生に学ばせていただき、お力添えいただいたことに感謝します。合掌。
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私は13年ほど前、カルカッタのベンガル仏教会本部の宗務総長ダルマパル・バンテーの居室で、まだベンガル仏教会で具足戒を受けたばかりの頃、はじめて新井先生にお会いした。
とても気さくな語り口で、「東京に帰ることがあったら、お寺に遊びに来て下さい」と言われた。私をもと真言宗の僧侶だと知って、親しくそう声を掛けて下さったようだった。
新井先生がお寺で写経会をして奉納された沢山の般若心経が、ベンガル仏教会の本堂の本尊であるお釈迦様の前に置かれていたことを思い出す。また、先生が代表して仏教徒海外奨学基金を作られ、カルカッタのお寺に併設されたクリパシャラン小学校の生徒のために奨学金を送られ、それを受け取っている生徒のファイル用に写真を私が撮らせてもらったこともあった。
その後、東京に戻った際に、黄色い袈裟のまま何度かお寺にお伺いした。大きな来訪者名簿に署名させられたことを思い出す。また仏教徒海外奨学基金の役員会にも招かれていき、インドのお寺の様子をお話させてもらったこともあった。
「観世音」という寺報を若いときからお出しになっていると聞いた。「一人ではじめ書いたが、なかなか大変で、みんなに協力してもらっている。是非書いて欲しい」と言われ、2度ほど「インドでの安居会のこと」と「ベンガル仏教徒の葬儀について」を書かせていただいたことがあった。
挿絵を大学の教え子に描いてもらっていて、編集会議は楽しいものだと話されていた。この先生の「寺報観世音」に触発されて、その頃私も「ダンマサーラ」という名の布教紙を毎月発行し、先生にも送らせてもらっていた。
その中で、「報恩」という名の父母の恩についての述べた経典について書いたとき、その文章を読まれた先生は、御自分もその経典について研究したことがあり、大きな封筒で論文を送ってきて下さった。
御礼を述べるために電話をすると「是非読んで下さい。ところで、その経典はどこから見つけたのか」などとお聞きになられ、励まされたことを記憶している。その時には、専門に仏教学を学んだこともない私のような者の文章を読んで下さって、その上、御自分の研究論文まで送って下さったことに随分と感激したものであった。
その頃だったか、インド僧を辞して下町の小庵に住まいしているとき一度インドに行き、帰ってから、カルカッタのバンテーのメッセージを持って新井先生をお訪ねしたことがあった。カルカッタのお寺で仕事するヒンドゥー教徒とイスラム教徒を比較して様々お話ししていると、「なかなか話がおもしろいね」とおっしゃってくださったことを憶えている。
インド・サールナートの法輪精舎にいる頃、住職後藤惠照師のところに新井先生が送られた「心のまんだら」という分厚い文集があった。「寺報観世音」を何年か毎に一冊にまとめたものだった。日本語に飢えていた私は、それを読んで勉強し、心楽しく過ごさせてもらった。
ここ國分寺に住してから、先生の寺報を参考にして「國分寺だより」を発刊するようになっても、やはり先生には必ず一部送らせてもらってきた。また、晋山したときに発行した短編集「仏教の話」、また昨年は「仏前勤行次第の話」を発行し、それらも先生にお送りさせていただいた。晋山したときには、
「帰依三宝 お久しぶりです。晋山されたとのことおめでとうございます。歴史ある國分寺を受け継がれる御身どうぞ大切にされご活躍されること念じ上げます。また「仏教の話」は興味ある内容です。有り難うございました。平成14年 春彼岸 寿徳寺新井慧誉 國分寺 横山全雄様」と筆で書かれた書状をお送り下さった。
平成16年発行の「心のまんだら」第四集には、親しくお声を掛けて下さって、錚々たる執筆陣の中に加えさせていただいた。何度も丁寧な原稿と校正のやり取りがあって、「インドのベンガル仏教徒の葬儀について」をご掲載下さった。
平成16年末に「写経を奉納しますからよろしく」とお電話いただいたことがあった。その時にも、この地の様子をいろいろと心配されてお聞きになられた。沢山の写経を送ってこられ、一人一人に御朱印を紙に書きお送りしたら、丁寧な礼状が送られてきた。
その後、先生は、インドのタゴール大学から名誉博士号を送られ、また東京大学からもたしか学位を授与されておられた。暫く音信不通で、寺報が送られてくるだけだったが、その寺報によって知るだけでも、何年か毎に定期的に檀信徒をつれてインドやスリランカ、ブータンに行かれていた。
また、毎月定期的に仏教入門塾、写経会や護摩供をされていた。新撰組近藤勇の菩提寺でもあったことから、そちらの方の活動も続けておられた。さらには、寺内整備、大仏の建立と休む間もなく事業を展開しておられた。
昨年末、晩にお電話をいただいた。「久しぶり。寿徳寺の新井です。」といつもと変わらないご様子で、インドのブッダガヤ寺の住職の話やベンガル仏教会の現在の様子、写経を2月に送るからまた奉納しますということなど、3、40分ばかり話をした。既にその時は心臓弁膜症の手術をなさり、お寺に戻られていたのだった。
少々ご容態が良かったのか、笑いながら話をされていた。何も知らない私は、東京から随分ながい電話をされるので、来年にでも春頃東京に出たときお伺いします、などとのんきなことを言ってしまった。何か言いたいことでもあったのか。ただ、気になったことを話したかっただけなのか。不詳の私を最後に励ましたい思いだったのか、今では知る由もない。
今日手にした「寺報観世音」の表紙に先生の訃報の知らせがあり、ご逝去を知った。ただただ残念に思う。先生の走り抜けた67年。「寺報観世音」は第46巻第1号通巻271号で絶筆となった。分かりやすい布教にかけた一生に学ばせていただき、お力添えいただいたことに感謝します。合掌。
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