下の加江から次の39番延光寺までは40キロほどもあろうか。宿を出て、向かいの山裾の道を西に歩く。山肌からは綺麗な水がしみ出ている。所々に柄杓と盥が置かれてあった。たぶん飲める水なのだろうと思ったが、万が一腹をこわしてもいけないと思い遠慮した。右側には田圃が山と国道の間に挟まれ細長く続いていた。
時折車が横を走っていくが、誰一人通行人がいない。寂しいくらいの道を一人ひたすら歩く。何も考えないただ歩くだけの歩き遍路には誠に相応しい遍路道だった。酒蔵のある集落を越えていくと、うっそうとした木々に囲まれた、また一人の道になった。崩れかけた古いお堂があったり、お地蔵様が並んだ寂しい道が続いた。しばらく行くと国道に出た。今度は国道のクルマの横をひたすら歩く。
国道から右に矢印があった。へんろみち保存協力会の小さな白い看板だ。へんろみち保存協力会は、愛媛県松山の警察を退職された方が中心となり結成されたボランティア組織。1600キロもある全遍路道の迷いそうな辻辻に矢印を設置してくれており、誠にありがたい遍路道の道しるべとなっている。四国の道の道しるべや古い石の道標と違って、その数も多く常時建物や道の変化に対応して付け替えられていくので、誠に安心して歩くことが出来る。歩き遍路さん用の地図や解説書まで作り頒布されている。
国道から入った湾曲した道の先には遍路宿やおみやげ屋が両側に見えてきてお寺の近いことを知らせてくれた。駐車場の先に石段があり、上がると梵鐘を背中に乗せた石の亀が出迎えていた。ここの梵鐘は延喜11年と刻銘があり、国の重文と名高いが、その年に赤亀が梵鐘を乗せて寺の近くに泳ぎ着いたのだと伝承されている。だから山号を赤亀山という延光寺の、そもそもの創建は聖武天皇勅願というから古い。行基菩薩の開基。後に弘法大師が参詣して薬師如来を刻み本尊とされた。本堂と大師堂前で読経して境内を歩く。木々の中に佇む観音様やお地蔵様のお顔が何とも言えぬやさしさをたたえていた。
まだ日が高かったので、国道に戻り歩く。宿毛の町を抜けるあたりで、夕飯の弁当を買い込んで、腹ごしらえ。暗くなってはきたが、それでも歩く。なかなか今日の寝床が決まらない。国道沿いに両側を山に囲まれた道を歩く。県境あたりで、ログハウスの土産物屋などがあり、その先に篠川食堂・民宿と書かれた看板が目に入った。
近くに行くとさびれているが、中に誰かいるようで話し声が聞こえる。扉を開け、泊まらせていただけますかと問うと、もう宿はやっていないという。仕方なくまた歩き出す。どれだけ歩いただろうか。後ろから声がして振り返ると、食堂にいたおじさんだった。泊まるだけならいいそうだと言う。引き返してみると、まあ風呂もあるしゆっくりしんさいということになった。
そこに居合わせたのは、この食堂の奥さんと知り合いの大型長距離トラックの運転手さん二人だった。野球中継を見ながらお酒の席に同席し、しばし楽しく歓談。魚介類を東京の築地などに運んでいるのだとか。私のような遍路坊さんと話すのは珍しいようで、何で歩いているのか、何で坊さんになんてなったのか、そんなことをあれこれ聞かれたように記憶している。
ほろ酔い気分の途中で、朝から歩いてきた疲れもあり、先に風呂に入らせてもらった。お風呂は大きな石を組み合わせた上にスノコが置かれてあって、使ったお湯は石の間から水が流れ落ちていく。何とも珍しいお風呂だった。綺麗な沸き立ての一番風呂に入らせていただいた。
風呂から上がると六畳ほどの何も置かれていない部屋に案内された。部屋の真ん中には、糊のきいた真っ白のカバーに包まれた布団が敷かれていた。一度断ったことが気になったのであろうかと、あまりの行き届いた待遇に申し訳ない思いがした。翌朝も泊まるだけということだったのにご飯が用意されてあり、またお昼の握り飯まで持たせて下さった。とても印象に残るお宿となったのであったが、遍路終わってお便りに感謝の気持ちを認めただけなのが今も心残りになっている。
昨日は曇り空だったが、快晴の中、宿毛警察のあたりから山道にはいる。途中草に覆われた道で衣が濡れる。松尾峠には番外の札所もありお参りして先を急ぐ。高知県から愛媛県にはいるとなだらかな下り道が続く。道の両側が急に賑やかになり、御荘の海が見えると、もう40番観自在寺だ。丁度昼前に到着し、正面に位置する本堂に入り読経。狭い通路に沢山のお守り類が並んでいるので、沢山の参詣者で押される中、理趣経を唱えた。大師堂に参ってから、池の前のベンチで握り飯を頂戴した。
観自在寺は、桓武天皇の死後皇太子だった次の平城天皇の勅願所として弘法大師によって創建された。平城天皇が御幸して大般若経などを納経された際に「平城山」という勅額を賜ったといわれる。弘法大師が霊木に薬師如来を刻み本尊とされたというが、寺号が観自在寺というのはなぜなのであろう。いろいろ調べてみたが分からない。元々創建前にあった廃寺の名前を踏襲されたのであろうか。同じ木で阿弥陀如来と十一面観音を刻み脇士としている。
次なる札所龍光寺目指して、南宇和の真っ青な海に浮かぶ小島を眺めつつ歩く。
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時折車が横を走っていくが、誰一人通行人がいない。寂しいくらいの道を一人ひたすら歩く。何も考えないただ歩くだけの歩き遍路には誠に相応しい遍路道だった。酒蔵のある集落を越えていくと、うっそうとした木々に囲まれた、また一人の道になった。崩れかけた古いお堂があったり、お地蔵様が並んだ寂しい道が続いた。しばらく行くと国道に出た。今度は国道のクルマの横をひたすら歩く。
国道から右に矢印があった。へんろみち保存協力会の小さな白い看板だ。へんろみち保存協力会は、愛媛県松山の警察を退職された方が中心となり結成されたボランティア組織。1600キロもある全遍路道の迷いそうな辻辻に矢印を設置してくれており、誠にありがたい遍路道の道しるべとなっている。四国の道の道しるべや古い石の道標と違って、その数も多く常時建物や道の変化に対応して付け替えられていくので、誠に安心して歩くことが出来る。歩き遍路さん用の地図や解説書まで作り頒布されている。
国道から入った湾曲した道の先には遍路宿やおみやげ屋が両側に見えてきてお寺の近いことを知らせてくれた。駐車場の先に石段があり、上がると梵鐘を背中に乗せた石の亀が出迎えていた。ここの梵鐘は延喜11年と刻銘があり、国の重文と名高いが、その年に赤亀が梵鐘を乗せて寺の近くに泳ぎ着いたのだと伝承されている。だから山号を赤亀山という延光寺の、そもそもの創建は聖武天皇勅願というから古い。行基菩薩の開基。後に弘法大師が参詣して薬師如来を刻み本尊とされた。本堂と大師堂前で読経して境内を歩く。木々の中に佇む観音様やお地蔵様のお顔が何とも言えぬやさしさをたたえていた。
まだ日が高かったので、国道に戻り歩く。宿毛の町を抜けるあたりで、夕飯の弁当を買い込んで、腹ごしらえ。暗くなってはきたが、それでも歩く。なかなか今日の寝床が決まらない。国道沿いに両側を山に囲まれた道を歩く。県境あたりで、ログハウスの土産物屋などがあり、その先に篠川食堂・民宿と書かれた看板が目に入った。
近くに行くとさびれているが、中に誰かいるようで話し声が聞こえる。扉を開け、泊まらせていただけますかと問うと、もう宿はやっていないという。仕方なくまた歩き出す。どれだけ歩いただろうか。後ろから声がして振り返ると、食堂にいたおじさんだった。泊まるだけならいいそうだと言う。引き返してみると、まあ風呂もあるしゆっくりしんさいということになった。
そこに居合わせたのは、この食堂の奥さんと知り合いの大型長距離トラックの運転手さん二人だった。野球中継を見ながらお酒の席に同席し、しばし楽しく歓談。魚介類を東京の築地などに運んでいるのだとか。私のような遍路坊さんと話すのは珍しいようで、何で歩いているのか、何で坊さんになんてなったのか、そんなことをあれこれ聞かれたように記憶している。
ほろ酔い気分の途中で、朝から歩いてきた疲れもあり、先に風呂に入らせてもらった。お風呂は大きな石を組み合わせた上にスノコが置かれてあって、使ったお湯は石の間から水が流れ落ちていく。何とも珍しいお風呂だった。綺麗な沸き立ての一番風呂に入らせていただいた。
風呂から上がると六畳ほどの何も置かれていない部屋に案内された。部屋の真ん中には、糊のきいた真っ白のカバーに包まれた布団が敷かれていた。一度断ったことが気になったのであろうかと、あまりの行き届いた待遇に申し訳ない思いがした。翌朝も泊まるだけということだったのにご飯が用意されてあり、またお昼の握り飯まで持たせて下さった。とても印象に残るお宿となったのであったが、遍路終わってお便りに感謝の気持ちを認めただけなのが今も心残りになっている。
昨日は曇り空だったが、快晴の中、宿毛警察のあたりから山道にはいる。途中草に覆われた道で衣が濡れる。松尾峠には番外の札所もありお参りして先を急ぐ。高知県から愛媛県にはいるとなだらかな下り道が続く。道の両側が急に賑やかになり、御荘の海が見えると、もう40番観自在寺だ。丁度昼前に到着し、正面に位置する本堂に入り読経。狭い通路に沢山のお守り類が並んでいるので、沢山の参詣者で押される中、理趣経を唱えた。大師堂に参ってから、池の前のベンチで握り飯を頂戴した。
観自在寺は、桓武天皇の死後皇太子だった次の平城天皇の勅願所として弘法大師によって創建された。平城天皇が御幸して大般若経などを納経された際に「平城山」という勅額を賜ったといわれる。弘法大師が霊木に薬師如来を刻み本尊とされたというが、寺号が観自在寺というのはなぜなのであろう。いろいろ調べてみたが分からない。元々創建前にあった廃寺の名前を踏襲されたのであろうか。同じ木で阿弥陀如来と十一面観音を刻み脇士としている。
次なる札所龍光寺目指して、南宇和の真っ青な海に浮かぶ小島を眺めつつ歩く。
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