昨年の六月○日にお亡くなりになり、早いもので一年が経ちました。通夜、葬儀、満中陰とお勤めをされて、いろいろな相続関係の手続きなどをしておりましたら瞬く間の一年であったかと思います。遠くからもご親族が集まられ、こうして盛大に一年の法事を営まれまして、誠にご苦労様に存じます。
亡くなられた○○居士は、生前、地域のお世話役として、またその前には早く亡くなられた御父様に代わって一家の柱として家族を支え、またお寺の総代としても沢山のご功徳を積んで、来世に旅立ち、何の心配も無くお過ごしのことと存じております。
ところで、昨年の満中陰忌ではどんなお話をしたか憶えておいででしょうか。私も記憶がありませんで、メモしたものを見ましたら、故人は今生では長患いする因縁が解消されて、来世では健康で長生きをしてくれるはずだというような話をしました。総代三年目かに倒れられ、その後入退院を繰り返され、車椅子で長く不自由な生活を余儀なくされました。そうした長く患う因縁が今生できれいになり、その分来世では健康に寿命を全うしていただけるのではないかと思っております。
みんな生まれてくるときは真新しい赤ちゃんとして生まれて来るわけではありますが、それぞれみんな違う過去世の因縁、業をもって生まれてきます。ですから、みんな兄弟でも、双子であっても、物の考え方、好き好きが違います。生き方が違います。そうした過去世から抱え込んできたたくさんの業を、今生で善いことをたくさんして、少しでも、善い業、清らかな業を増やしていく、別の言い方をするなら徳を積む、そのために仏教の教えもあるわけなのです。
只今、法事の前と終いに、礼拝を致しました。「礼拝」と言われ、頭を下げられたかもしれませんが、礼拝とは敬う心を表すことです。こちらに生身の生きた仏様がおられる、お釈迦様がおられると思って礼拝をするということが大切であろうかと思います。ここには掛け軸の仏様が祀られていますが、それは、一つのシンボルであって、紙の仏様に礼拝するのではなく、その先に本当に大切にすべき生きた仏様がおられると思って自ずから頭が垂れるという気持ちにならねばならないのだろうと思います。
例えば、二千五百年前にお釈迦様に会いに行った人は、お釈迦様の前に行き、隣のおじさんに挨拶するようなわけにはいかなかったわけです。私も以前とても修行の進まれた立派なスリランカのお寺様にお会いしたときには自然と跪きかしこまって、頭を下げておりました。皆さんも例えば、天皇陛下の前にお出になったとしたら、普通の日本人は、身を低くして頭を下げて、とても気安く言葉など掛けられないのではないでしょうか。
当時お釈迦様に拝謁した人たちは、お釈迦様の周りを三返ほど右回りに合掌して回り、正面に来て三度投地礼をして、それから丁重に挨拶したものだといいます。そういう心持ちになって手を合わせ礼拝するということが大切なのでしょう。たとえそれが掛け軸の仏様であろうと、仏壇の仏様であっても、そのような気持ちでなされるようにならねばならない。仏壇は、先祖代々その家の一番上等なところに大切に祀り、毎朝御供えまでして代々継承されてきたものです。
なぜなのでしょうか。仏様とは、最高の完璧な人格を具えた方であり、私たちの理想です。この世の中の成り立ち、すべてのことに精通され、ひとかけらの煩悩もない、何がなくても幸せで、誰にもいかなる生き物にもやさしく接しられるお方です。世の中がどうあろうとも、人に何を言われても、心煩うこともない。
そんな立派な人格に自分も近づきたい、一歩でもその方向に前進する人生を過ごしたいと思う、たくさんある人生の目標の先の先には仏様がいらっしゃる、それこそが自分の最高の目標として生きる、だからこそ、仏壇の上段に祀り、中段には先祖代々、また各精霊の位牌を祀り、先に亡くなった方々にも何度生まれ変わってもいずれは仏様になっていただくようにと成仏を願うのではないでしょうか。単に地位や権力、お金に振り回されるような、煩悩だらけの人生ではなく、そんなものに頓着しない、正しい、あるべき生き方を子孫代々に大事にする、仏様を最終の目標とするような人生を歩ませたいと思われて、御先祖様方は仏壇を大事に継承してこられたのではないでしょうか。
先ほども焼香をしていただきましたが、通夜でも葬儀でも、焼香するときにはしぜんと、どうぞ早く成仏して下さいと心の中で思い、なさったのではないでしょうか。成仏する先が善いところ、最高の理想の場所だと私たちはそのDNAにでもきざまれたものがあるように思います。ですから、本当は皆さんわかっておられるのです。ただ、それが自分の人生とどう繋がるのかということを意識して考えたことがないということだけなのではないでしょうか。
私たちもいずれ、何年か何十年か先には同じ立場になります。あちら側に逝き、皆さんから合掌され、焼香される、その時には成仏して下さいと願われる存在なのです。そこで、仏様とは自分にとってどういう意味のある存在なのか、などということについて今のうちにすこし頭にめぐらしていただきまして、仏様に自ずと頭が垂れるというお気持ちになっていただけましたらありがたいと思います。そうしてこそ、また、こうした法事の意味、といいますか、意義も深まろうかと思います。
本日は、丁寧なご法事をいとなまれ、誠にありがとうございました。
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亡くなられた○○居士は、生前、地域のお世話役として、またその前には早く亡くなられた御父様に代わって一家の柱として家族を支え、またお寺の総代としても沢山のご功徳を積んで、来世に旅立ち、何の心配も無くお過ごしのことと存じております。
ところで、昨年の満中陰忌ではどんなお話をしたか憶えておいででしょうか。私も記憶がありませんで、メモしたものを見ましたら、故人は今生では長患いする因縁が解消されて、来世では健康で長生きをしてくれるはずだというような話をしました。総代三年目かに倒れられ、その後入退院を繰り返され、車椅子で長く不自由な生活を余儀なくされました。そうした長く患う因縁が今生できれいになり、その分来世では健康に寿命を全うしていただけるのではないかと思っております。
みんな生まれてくるときは真新しい赤ちゃんとして生まれて来るわけではありますが、それぞれみんな違う過去世の因縁、業をもって生まれてきます。ですから、みんな兄弟でも、双子であっても、物の考え方、好き好きが違います。生き方が違います。そうした過去世から抱え込んできたたくさんの業を、今生で善いことをたくさんして、少しでも、善い業、清らかな業を増やしていく、別の言い方をするなら徳を積む、そのために仏教の教えもあるわけなのです。
只今、法事の前と終いに、礼拝を致しました。「礼拝」と言われ、頭を下げられたかもしれませんが、礼拝とは敬う心を表すことです。こちらに生身の生きた仏様がおられる、お釈迦様がおられると思って礼拝をするということが大切であろうかと思います。ここには掛け軸の仏様が祀られていますが、それは、一つのシンボルであって、紙の仏様に礼拝するのではなく、その先に本当に大切にすべき生きた仏様がおられると思って自ずから頭が垂れるという気持ちにならねばならないのだろうと思います。
例えば、二千五百年前にお釈迦様に会いに行った人は、お釈迦様の前に行き、隣のおじさんに挨拶するようなわけにはいかなかったわけです。私も以前とても修行の進まれた立派なスリランカのお寺様にお会いしたときには自然と跪きかしこまって、頭を下げておりました。皆さんも例えば、天皇陛下の前にお出になったとしたら、普通の日本人は、身を低くして頭を下げて、とても気安く言葉など掛けられないのではないでしょうか。
当時お釈迦様に拝謁した人たちは、お釈迦様の周りを三返ほど右回りに合掌して回り、正面に来て三度投地礼をして、それから丁重に挨拶したものだといいます。そういう心持ちになって手を合わせ礼拝するということが大切なのでしょう。たとえそれが掛け軸の仏様であろうと、仏壇の仏様であっても、そのような気持ちでなされるようにならねばならない。仏壇は、先祖代々その家の一番上等なところに大切に祀り、毎朝御供えまでして代々継承されてきたものです。
なぜなのでしょうか。仏様とは、最高の完璧な人格を具えた方であり、私たちの理想です。この世の中の成り立ち、すべてのことに精通され、ひとかけらの煩悩もない、何がなくても幸せで、誰にもいかなる生き物にもやさしく接しられるお方です。世の中がどうあろうとも、人に何を言われても、心煩うこともない。
そんな立派な人格に自分も近づきたい、一歩でもその方向に前進する人生を過ごしたいと思う、たくさんある人生の目標の先の先には仏様がいらっしゃる、それこそが自分の最高の目標として生きる、だからこそ、仏壇の上段に祀り、中段には先祖代々、また各精霊の位牌を祀り、先に亡くなった方々にも何度生まれ変わってもいずれは仏様になっていただくようにと成仏を願うのではないでしょうか。単に地位や権力、お金に振り回されるような、煩悩だらけの人生ではなく、そんなものに頓着しない、正しい、あるべき生き方を子孫代々に大事にする、仏様を最終の目標とするような人生を歩ませたいと思われて、御先祖様方は仏壇を大事に継承してこられたのではないでしょうか。
先ほども焼香をしていただきましたが、通夜でも葬儀でも、焼香するときにはしぜんと、どうぞ早く成仏して下さいと心の中で思い、なさったのではないでしょうか。成仏する先が善いところ、最高の理想の場所だと私たちはそのDNAにでもきざまれたものがあるように思います。ですから、本当は皆さんわかっておられるのです。ただ、それが自分の人生とどう繋がるのかということを意識して考えたことがないということだけなのではないでしょうか。
私たちもいずれ、何年か何十年か先には同じ立場になります。あちら側に逝き、皆さんから合掌され、焼香される、その時には成仏して下さいと願われる存在なのです。そこで、仏様とは自分にとってどういう意味のある存在なのか、などということについて今のうちにすこし頭にめぐらしていただきまして、仏様に自ずと頭が垂れるというお気持ちになっていただけましたらありがたいと思います。そうしてこそ、また、こうした法事の意味、といいますか、意義も深まろうかと思います。
本日は、丁寧なご法事をいとなまれ、誠にありがとうございました。
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