住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

礼拝するこころ 昨日の法事から

2017年06月18日 18時14分38秒 | 仏教に関する様々なお話
昨年の六月○日にお亡くなりになり、早いもので一年が経ちました。通夜、葬儀、満中陰とお勤めをされて、いろいろな相続関係の手続きなどをしておりましたら瞬く間の一年であったかと思います。遠くからもご親族が集まられ、こうして盛大に一年の法事を営まれまして、誠にご苦労様に存じます。

亡くなられた○○居士は、生前、地域のお世話役として、またその前には早く亡くなられた御父様に代わって一家の柱として家族を支え、またお寺の総代としても沢山のご功徳を積んで、来世に旅立ち、何の心配も無くお過ごしのことと存じております。

ところで、昨年の満中陰忌ではどんなお話をしたか憶えておいででしょうか。私も記憶がありませんで、メモしたものを見ましたら、故人は今生では長患いする因縁が解消されて、来世では健康で長生きをしてくれるはずだというような話をしました。総代三年目かに倒れられ、その後入退院を繰り返され、車椅子で長く不自由な生活を余儀なくされました。そうした長く患う因縁が今生できれいになり、その分来世では健康に寿命を全うしていただけるのではないかと思っております。

みんな生まれてくるときは真新しい赤ちゃんとして生まれて来るわけではありますが、それぞれみんな違う過去世の因縁、業をもって生まれてきます。ですから、みんな兄弟でも、双子であっても、物の考え方、好き好きが違います。生き方が違います。そうした過去世から抱え込んできたたくさんの業を、今生で善いことをたくさんして、少しでも、善い業、清らかな業を増やしていく、別の言い方をするなら徳を積む、そのために仏教の教えもあるわけなのです。

只今、法事の前と終いに、礼拝を致しました。「礼拝」と言われ、頭を下げられたかもしれませんが、礼拝とは敬う心を表すことです。こちらに生身の生きた仏様がおられる、お釈迦様がおられると思って礼拝をするということが大切であろうかと思います。ここには掛け軸の仏様が祀られていますが、それは、一つのシンボルであって、紙の仏様に礼拝するのではなく、その先に本当に大切にすべき生きた仏様がおられると思って自ずから頭が垂れるという気持ちにならねばならないのだろうと思います。

例えば、二千五百年前にお釈迦様に会いに行った人は、お釈迦様の前に行き、隣のおじさんに挨拶するようなわけにはいかなかったわけです。私も以前とても修行の進まれた立派なスリランカのお寺様にお会いしたときには自然と跪きかしこまって、頭を下げておりました。皆さんも例えば、天皇陛下の前にお出になったとしたら、普通の日本人は、身を低くして頭を下げて、とても気安く言葉など掛けられないのではないでしょうか。

当時お釈迦様に拝謁した人たちは、お釈迦様の周りを三返ほど右回りに合掌して回り、正面に来て三度投地礼をして、それから丁重に挨拶したものだといいます。そういう心持ちになって手を合わせ礼拝するということが大切なのでしょう。たとえそれが掛け軸の仏様であろうと、仏壇の仏様であっても、そのような気持ちでなされるようにならねばならない。仏壇は、先祖代々その家の一番上等なところに大切に祀り、毎朝御供えまでして代々継承されてきたものです。

なぜなのでしょうか。仏様とは、最高の完璧な人格を具えた方であり、私たちの理想です。この世の中の成り立ち、すべてのことに精通され、ひとかけらの煩悩もない、何がなくても幸せで、誰にもいかなる生き物にもやさしく接しられるお方です。世の中がどうあろうとも、人に何を言われても、心煩うこともない。

そんな立派な人格に自分も近づきたい、一歩でもその方向に前進する人生を過ごしたいと思う、たくさんある人生の目標の先の先には仏様がいらっしゃる、それこそが自分の最高の目標として生きる、だからこそ、仏壇の上段に祀り、中段には先祖代々、また各精霊の位牌を祀り、先に亡くなった方々にも何度生まれ変わってもいずれは仏様になっていただくようにと成仏を願うのではないでしょうか。単に地位や権力、お金に振り回されるような、煩悩だらけの人生ではなく、そんなものに頓着しない、正しい、あるべき生き方を子孫代々に大事にする、仏様を最終の目標とするような人生を歩ませたいと思われて、御先祖様方は仏壇を大事に継承してこられたのではないでしょうか。

先ほども焼香をしていただきましたが、通夜でも葬儀でも、焼香するときにはしぜんと、どうぞ早く成仏して下さいと心の中で思い、なさったのではないでしょうか。成仏する先が善いところ、最高の理想の場所だと私たちはそのDNAにでもきざまれたものがあるように思います。ですから、本当は皆さんわかっておられるのです。ただ、それが自分の人生とどう繋がるのかということを意識して考えたことがないということだけなのではないでしょうか。

私たちもいずれ、何年か何十年か先には同じ立場になります。あちら側に逝き、皆さんから合掌され、焼香される、その時には成仏して下さいと願われる存在なのです。そこで、仏様とは自分にとってどういう意味のある存在なのか、などということについて今のうちにすこし頭にめぐらしていただきまして、仏様に自ずと頭が垂れるというお気持ちになっていただけましたらありがたいと思います。そうしてこそ、また、こうした法事の意味、といいますか、意義も深まろうかと思います。

本日は、丁寧なご法事をいとなまれ、誠にありがとうございました。

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読経のすすめ

2017年06月11日 16時08分13秒 | 仏教に関する様々なお話
毎朝四時四十分に起きます。洗面を済ませ、本堂に御供えする三十五ヶ所分の仏飯、お茶湯の準備をして、午前五時の鐘を撞きます。はじめに一つ撞き始めの鐘を撞き、余韻の終わる間隔を空けながら五回撞いて庫裏に戻ります。仏飯を乗せたお盆を本堂に運び、次に衣を着て御茶湯を接ぐ薬缶を持って本堂に参ります。各所に御供えをして、燈明に火を入れ、点香してから、四十分ほどのお勤めをいたします。常用経典である理趣経の前後に讃を唱えたり、偈文を唱えたり。その日該当する月命日の檀徒戒名を読み上げ馨を鳴らして追善といたします。それが、土日祝日にかかわりなく、國分寺の毎日の習慣となっています。

僧にあってはごく当たり前のことではありますが、こうして毎日続けるということは誠によきことであって、それを毎日しなくてはいけないという受け取り方ではなく、お寺に住まうことで良き習慣に自らの生活が守られていることは誠にありがたいことであると思うのであります。

そして、特に毎日のお勤めの中で経文を読誦するということは格別に功徳多きことであって、ほんとうは誰もが家の仏壇に向かって、読経し、仏様御先祖様方に供養のまことを捧げることは大事な勤めでもあります。読経は、仏前勤行次第をお唱えいただきましても、また時間の限られたときには般若心経だけでもよいのです。とにかく毎日声を出してお唱えするということが大切であり、明るく健康な生活を送る上でも欠かせないことであろうかと思います。

読経は、姿勢を正し、お腹をふくらませて息を吸い込み、声を出しながら長く息を吐くことになります。これは一つの呼吸法であって、またありがたい経文をお唱えするわけですから、余計なことを考えることなく、心清々しく、落ち着いた心をもたらすものです。
ところで、座禅の要諦に調身、調息、調心があります。調身とは、背筋を伸ばし安定した姿勢を保つことです。調息とは、お腹をふくらませて息を吸いお腹をへこませて息を吐く、それをリズミカルに行うことです。調心とは、一つのことに心を集中させることです。実は読経は、この三つの座禅の肝心なことをすべてクリアしてしまうものだという研究結果があります。

脳内ハピネス神経と呼ばれるセロトニン研究の第一人者有田秀穂先生によれば、座禅も読経も脳内の変化は同じことが起こるのだそうで、声を出す呼吸法が読経であり、声を出さないのが座禅であるということです。読経中、字を一生懸命追いかけるということは、想念がそこから湧いてくることはなく、読むことに集中していなくてはなりません。難しい漢字をリズムよく読むことを繰り返すことは、ひたすらに読むこととなり、それはつまり自然と集中した精神状態を作り出すことになるというのです。

読経は、なんの想念も湧かないリズミカルな集中であり、集中してやる呼吸法の一番楽な方法であるともいいます。そのことによって、すっきり爽快な意識をつくり、平常心を維持し、交感神経を適度に興奮させ、痛みを軽減させて、よい姿勢を維持する。よいことずくしの幸福感をもたらすセロトニン神経を働きを高める効果があり、だからこそ読経するとさわやかな清々しい心持ちとなるのです。

同じ声を出すならカラオケがいいとお考えになる方もあるかも知れません。が、歌詞があると言語脳が働いて、セロトニン神経の活性には繋がらないのだとか。毎朝仏壇に御供えし、金を叩くだけでなく、十分程でも良いので、読経を毎日の習慣にしていただきましてはいかがでしょうか。読経して、是非幸福感一杯の毎日をお過ごしいただきたいと思います。

(参考文献 瞑想脳を拓く 有田秀穂・井上ウィマラ 佼成出版社)


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『仏説父母恩重経』を読む 2

2017年06月10日 16時35分53秒 | 仏教に関する様々なお話
 前回に続き『仏説父母恩重経』を読んでまいりましょう。
                 
『もし子あり、父母をして、かくのごとき言(ことば)を発せしむれば、子はすなわち、その言とともに墜ちて、地獄・餓鬼・畜生の中にあり。一切の如来・金剛天・五通仙も、これを救い護ることあたわず。』

 かくのごとき言(ことば)とは、年老いていく親を思いやることなく邪険にする子に対して、親が子を産みはしたもののその望みは外れたという言葉を言わせたりしたらということです。そんな言葉を吐かせるような子は、地獄餓鬼畜生の住人と同じであり、死後その世界に堕ちたとしても、一切の仏も、天界の神も、いかなる神通力を持つ仙人といえども助けることはできないとあります。この意味するところを、誰もが一人の子として心して読まねばならないところであります。

『父母の恩重きこと、天の極まりなきがごとし。善男子・善女人よ、わけてこれを説けば、父母に十種の恩徳あり、何をか十種となす。 一には、懐胎守護(かいたいしゆご)の恩。二には、臨産受苦(りんさんじゆく)の恩。三には、生子忘憂(しようしぼうゆう)の恩。四には、乳哺養育(にゆうほよういく)の恩。五には、廻乾就湿(かいかんじゆしつ)の恩。六には、洗灌不浄(せんかんふじよう)の恩。七には、嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩。八には、為造悪業(いぞうあくごう)の恩。九には、遠行憶念(えんぎようおくねん)の恩。十には、究竟憐愍(くきようれんみん)の恩。父母の恩、重きこと天の窮まりなきがごとし。善男子・善女人よ、かくのごときの恩徳、いかにしてか報ずべき。仏、讃して宣わく。
(懐胎守護の恩) 悲母(ひぼ)、子を胎(はら)めば、十月の間に、血を分け、肉を頒(わか)ちて、身、重病を感ず。子の身体(しんたい)、これによりて成就す。
(臨産受苦の恩) 月満ち、とき到れば、業風催促して、徧身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として、身を亡ぼす。
(生子忘憂の恩) もしそれ平安なれば、なお蘇生し、来たるがごとく、子の声を発するを聞けば、己(おの)も生まれ出でたるが如し。
(乳哺養育の恩) その初めて生みしときには、母の顔(かんばせ)、花のごとくなりしに、子を養うこと数年なれば、容貌(かたち)すなわち憔悴(しようすい)す。
(廻乾就湿の恩) 水のごとき霜の夜(よ)にも、氷のごとき雪の暁(あした)にも、乾ける処(ところ)に子を廻(まわ)し、湿(しめ)れる処に己(おの)れ臥(ふ)す。
(洗灌不浄の恩) 子、己が、懐に不浄を漏らし、あるいは、その着物に尿(いばり)するも、手づから自(みずか)ら洗い灌(そそ)ぎて、臭穢(しゆうえ)を厭(いと)うことなし。
(嚥苦吐甘の恩) 食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自ら飲み、甘き物は吐きて与う。
(為造悪業の恩) もしそれ子のために、止むをえざることあれば、躬(み)づから悪業を造りて、悪道に墜つることを甘んず。
(遠行憶念の恩) もし子、遠く行けば、帰りてその面(おもて)を見るまで、出でても入りてもこれを憶(おも)い、寝ても覚めても、これを憂う。
(究竟憐愍の恩) おのれ生きている間は、子の身に代わらんことを思い、己れ死にさりて後は、子の身を護(まも)らんことを願う。』

 そして、父母の重恩について十の具体的な内容が説かれていきます。簡潔に申し上げれば、子を身籠もり、懐妊中身を削るがごとくに子を守り、陣痛の苦しみに耐え、子の誕生したれば我が喜びとし、心を砕いて養育し、たとえ自らはよごれた所に臥しても子はきれいな所に寝かせ、汚れをいとわず子の排泄を清め、自分はにがいものを食しても子には美味しいものを与え、子の過ちに自ら地獄に墜ちることもいとわず子を救わんとし、遠くにゆきし子の無事を願い、子の危うきときには身代わりにならんと欲し自ら死しても子の身を守らんとする。そういう父母の心根(こころね)を知り、その恩の重きことにあたらめて思いをいたしたいところであります。

『かくの如きの恩徳如何にして報ずべき。しかるに長じて人となれば、声を荒らげ、気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いかり)を含む。すでにして妻を娶(めと)れば、父母に背(そむ)き違うこと、恩なき人のごとく、兄弟を憎み嫌うこと、怨(うら)みある者のごとし。妻の親族来たりぬれば、奥の間に迎え入れて、饗応(きようおう)し、己れが室に入れて歓談す。嗚呼(ああ)噫嵯(ああ)、衆生顛倒(てんどう)して、親しき者は、かえりて疎(うと)み、疎(うと)き者は、かえりて親しむ。父母の恩重きこと、天の極まり無きがごとし。』

 このような恩徳に報いるべき子でありながら、大きくなれば、かえって父母に背いて言葉も少なくなり、嫁を娶れば妻の親族には気を遣い実の父母には愛想をしないという、今の時代にもよく見聞きすることではありますが、本来のあるべき姿からは転倒した様子をここで鋭く指摘されています。

『このとき、阿難、座より起(た)ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだぬ)ぎ、長跪(ちようき)合掌して、すすみて仏にもうして曰(もう)さく。世尊よ、かくのごとき父母の重恩を、われら出家の子は、いかにしてか報ずべき、つぶさに、そのことを説き示し給えと。
 仏、宣(のたま)わく。汝ら大衆、よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。出でしとき、新しき甘果(かんか)を得れば、持ち去りて、父母に供養せよ。父母これを得て歓喜し、自ら食らうに忍びず。先ずこれを三宝(仏・法・僧)に廻(めぐ)らし施さば、すなわち菩提心を啓発せん。父母病あらば、牀(とこ)の傍(そば)を離れず、親しく自ら看護せよ。一切のこと、これを他人に委ぬることなかれ。ときを計り、便宜を伺い、懇(ねんご)ろに粥飯(しゆくはん)を勧めよ。
 親は子の勧むるをみて、強いて粥飯を喫(きつ)し、子は親の喫するをみて、まげて己が意(こころ)を強くす。親しばらく睡眠すれば、気を静めて息を聞(か)ぎ、眠り覚むれば医者に問いて、薬を勧めよ。日夜に三宝を恭敬(くぎよう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、つねに報恩の心を懐(いだ)きて、片時も亡失することなかれ。』

 ここで、常にお釈迦様の近くにあってお世話をする役目のアーナンダ尊者が登場し、出家者は孝についてどう捉えたらよいのかと質問していきます。アーナンダ尊者は、衣を改めて両膝立ちになり合掌して、では出家の身にあればいかがなすべきでしょうか、と問われます。
 すると、お釈迦様は親孝行に出家も在家もないとされ、四季折々の新しい美味しい食べ物を得たれば、持ち帰り父母に供養しなさいといわれます。
 供養とは亡き人にだけするものではなく、尊敬の念をもって施すことをいいます。生きているときに敬いの心なく、死してはじめてその気持ちを起こすなどということのないよう、生きておられるときにこそ供養すべきなのだということでしょう。
 そうして子から得た食べ物を、父母は自ら食べる前に三宝にめぐらし施すとあります。めぐらし施すとは、その子から施された食べ物を、三宝に、そして御先祖様方に廻向することによって、より大きな功徳として、子の幸せなることを願い、また供養することの大切さも教えて下さっているのです。
 そして、だからこそ、父母の病となれるときには、片時も離れず看護し他人にゆだねず、お粥、薬を勧めて、日夜三宝に祈念しなさいとあります。

『このとき、阿難また問いていわく。世尊よ、出家の子、よくかくの如くせば、もって父母の恩に報ずとなすや。
 仏宣わく、否(いな)、未だもって父母の恩に報ずるとはなさざるなり。親頑闇(かたくな)にして、三宝を奉ぜず。不仁にして物をそこない、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、子はまさに極諌(ごくかん)して、これを啓悟(けいご)せしむべし。もしなお闇(くら)くして、いまだ悟ること能わざれば、すなわち、ために譬(たとえ)をとり、類(たぐい)をひき、因果の道理を述べ説きて、未来の苦患(くげん)を救うべし。
 もしなお頑(かたく)なにして、未だ改むること能わざれば、啼(てい)泣(きゆう)歔欷(きよき)して、己が飲食(おんじき)を絶(た)つべし。親頑闇(かたくな)なりと雖(いえど)も、子の死なんことを懼(おそ)るるが故に、恩愛の情に牽かれて、強いて忍びて道に向かわん。』

 それだけのことをしたならばはたして父母の恩に報いたと言えるのかとのアーナンダ尊者の問いに、お釈迦様はすげなく否と言われます。
 そしてこの後のお釈迦様の説法こそ、前回紹介した初期経典の『父母報恩経』にある内容であります。
 もしも父母に信仰心なく、五戒すら守らないならば、その非を戒め、前世から現世、そして来世へと続く因果の道理を諭すべきであるというのです。
 それでも改めないならば、悲痛な声でむせび泣きつつ、食を断つならば、どんな親であっても、子の死にそうな姿に翻意するであろうとあります。

『もし親、志を遷(うつ)して、仏の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬(いん)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、すなわち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦し、婢僕(ひぼく)忠順に、六畜虫魚(ろくちくちゆうぎよ)まで、あまねく恩沢(おんたく)を被(こうむ)りて、十方の諸仏、天竜鬼神、有道(ゆうどう)の君(きみ)、忠良の臣より、庶民万姓にいたるまで、敬愛せざるはなく、暴悪の主(あるじ)も、佞嬖(ねいへい)の輩(やから)も、兇児(きようじ)妖婦(ようふ)も千邪(せんじや)万怪(ばんかい)も、これをいかんともすることなけん。ここにおいて父母、現世には安穏に住し、後世(ごせ)には善処(ぜんしよ)に生じ、仏を見、法を聞きて、長く苦輪(くりん)を脱せん。かくのごとくして、始めて父母の恩に報ずる者となすなり。』

 ここでは仏教の五戒を儒教の説く徳目である五常とからめて教えを展開しています。万民を愛し利己的な欲を押さえる仁によって殺生をなさず、利欲にとらわれない義によって偸盗をなさず、道徳的規範を重んじる礼によって邪淫をなさず、他を欺かず忠実である信をもって妄語せず、物事の道理を知り正しく判断する智によって飲酒せずと説いていきます。
 このように心を改めて父母が五戒を謹んで勤めるならば、親は慈しみ、子は孝行となり、夫は行い正しく、妻は貞淑となりて、親族は仲良く、家に仕える者たちも誠実に仕え、家の家畜虫までもがよくその恩恵にあずかるということです。
 そればかりか、神仏のご加護があり、あらゆる人々から愛され、暴悪の者も含めどんなに悪い悪魔といえどもどうすることもできない。父母は現世にては安穏に暮らし、来世にも善い所に生まれ変わり仏にまみえ法を聞くことが出来るであろう。そうしてこそはじめて父母の恩に報いることが出来るのだと説かれています。

『仏さらに説(せつ)を重ねて宣わく。汝ら大衆、よく聴けよ。父母のために、心力を尽くして、あらゆる加味(かみ)・美音(びおん)・妙(みよう)衣(え)・車駕(しやか)・宮室(きゆうしつ)等を供養し、父母をして、一生遊楽に飽かしむるとも、もし未だ三宝を信ぜざらしめば、なおもって不幸となす。いかんとなれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を正し、柔和にして辱(はずかし)めを忍び、勉強して徳に進み、意(こころ)を寂静(じやくじよう)に潜(ひそ)め、志(こころざし)を学問に励ます者と雖(いえど)も、一度(ひとたび)酒色(しゆしよく)に溺(おぼ)るれば、悪魔たちまち隙(すき)を伺い、妖(よう)魅(み)すなわち便りを得て、財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)し、怠(おこたり)を増し、心を乱し、智を晦(くら)まして、行いを禽獣に等しくするにいたればなり。
 大衆よ。古(いにしえ)より今におよんで、これによりて身を亡ぼし、家を亡ぼし、君を危うくし、親を辱(はずか)しめざるはなし。この故に、沙門は独身にして、偶(つれあい)なく、その志を清潔にし、ただ道をこれ務む。子たる者は、深く思い、遠く慮(おもんぱか)りて、もって孝養の軽重緩急(けいじゆうかんきゆう)をしらざるべからざるなり。およそこれらを父母の恩に報ずるのこととなす。』

 父母のために、世間の享楽をいくら施して一生安楽に暮らさせたとしても、そこに三宝への信、仏教へ心からの帰依がなければ不幸と言わざるを得ないとあります。
 なぜかと言えば、たとえ仁によりて布施を行い、礼によりて身を直くし、柔和によりて辱(はずかしめ)を忍び、学んで徳を蓄え、心静めて、学問を志す者といえども、確たる三宝への信なく、ひとたび酒色におぼれてしまえば、様々に心乱されて、行い禽獣に変わらぬ状態となるからである。それによって、家を亡ぼし親を辱めるにいたるというのです。
 いつの時代にもこうして身を持ち崩す例は枚挙にいとまなく、それがゆえに、道を求める修行者である沙門は独身を貫くのではあります。が、子は一般に深くこのことに思いをいたして、三宝への信を確立し、孝道をつくして、父母を供養するべきであると教えられています。

『このとき、阿難、涙を払いつつ、座より起(た)ち、長跪(ちようき)合掌して、すすみて仏に申してもうさく。世尊よ。この経は、まさになにと名付くべき、またいかにして奉持(ぶじ)すべきや。
 仏、阿難につげ給わく。阿難よ、この経は、父母恩重経と名付くべし。もし一切衆生ありて、一度(ひとたび)この経を読誦せば、すなわちもって乳哺(にゆうほ)の恩に報ずるに足らん。もし一心に、この経を持念(じねん)し、また人をして持念せしむれば、まさにしるべし、この人はよく父母の恩に報ずることを。一生にあらゆる十悪・五逆・無間(むけん)の重罪も、みな消滅して、無上道を得ん。
 このとき、梵天・帝釈・諸天の人民・一切の集会(しゆうえ)、この説法を聞きて、ことごとく菩提心をおこし、五体地に投じて、涕涙(ているい)雨のごとく、進みて仏の み足を頂礼し、退(しりぞ)きて、おのおの歓喜奉行(かんきぶぎよう)したりき。』     仏説父母恩重経

 この経は父母恩重経と名づけ、一度でもこの経を唱えるならば、赤ん坊の頃お乳を飲ませていただいた恩にも報いるものだというのです。さらにこの経を心に深く銘記してその感動を他の人にも浴させしめるならば、その人をも父母への恩に報いさせることとなり、一生のあらゆる十悪、五逆、無間の重罪までもがみな消滅するほどの功徳があるというのです。十悪は、十善戒の不の字をとったもので、殺生、偸盗、邪淫、妄語、悪口、両舌、綺語、貪欲、瞋恚、邪見。五逆罪、無間の重罪は前回述べた通りのおそろしい罪です。
 そして、この説法を聞いたあらゆる人々が悟りを得たいと心を起こし、心底から喜び、感激して、この教えを実践することを決意したとあり、この経は終わります。
 是非、一度、声を出して初めから通して、この経典を読み上げて、その功徳を味わっていただけますようお願い申し上げたいと存じます。



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