住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

東京砂漠

2006年12月28日 19時13分22秒 | 様々な出来事について
12月21日から23日にかけて東京に出張し、新宿区西早稲田放生寺で行われた冬至祭に伺った。このお寺は、私にとって仏教との出会いをセッティングしてくれた忘れがたい場所に位置している。

そして、実際に高野山に出家するご案内と手ほどきをして下さり、またその後インドに度々行っていたときには日本滞在期間に居候をさせていただいていた。更にその後深川の冬木弁天堂に入る際にもお世話になった。今日私があるのはこのお寺の先代と今のご住職のお蔭であると言っても過言ではない。

ところで、放生寺の沿革や冬至祭については既に、この10月の「東京巡礼」で述べた。今回はこの度感じた東京の印象について述べてみよう。ずっと東京にいては気づかないかもしれないが、時々行くから気づくこともあるだろう。

地下鉄に乗ると外の景色を見るわけにもいかず、つい広告に目がいくので、地下鉄の中吊り広告などの料金は上を走る電車に比べ高いのだという。しかし広告主には申し訳ないが、私は広告よりは人に関心があり、電車内では、よく人物観察をする。

この度感じたのは、みんな身につけているものが、黒ばっかりだということ。この前に来たときにはこれほどではなかったと思うのだが。鞄も、スーツも、コートも。カジュアルな格好の人でも、黒のジャケットに黒のスラックス。女性でも、黒のセーターに黒のスカート。

もちろん黒ばかりの組み合わせということもないが、みんな黒が基調になっている。最近のファッションの流行なのかもしれないが、そこまでして黒を入れなくても良いようなものを。と感じてしまう。

見る人、見る人、みんな黒、くろ、クロ。気持ちが悪くなるほどだった。何でだろうと考えると、やはり、最近の人たちの悲惨な就業状況に思いが向かう。会社内での過酷な競争。こき使われるだけで報われることのない派遣。請負。

問題を起こしたくない、起こせない弱い立場。正社員であっても、一度何か問題を起こしたらそれで辞めさせられるかもしれない。そんなゆとりのなさを象徴しているかのような重苦しさを感じた。

個性を殺し、ただ会社の要求に応えるのみの歯車に徹しきったかのようなクロずくめの人々。もちろんそんな人ばかりではないはずではあるけれども、そんな風に思えてしまうほど、みんな強烈にクロにシフトされた人々の群れ。それに、表情も冴えない。

帰る日、用事があって銀座に出た。昔サラリーマン時代には、毎日のように闊歩した街だ。どの店もクリスマスの飾り付けに余念が無く、それなりに華やかさを感じさせてはいた。しかし、これがボーナス月の人手だろうかと思わせるほど、人通りは少なかった。ここがあの銀座かと、その色あせた感じは否めない。

まったく日本の国はどうなってしまったのか。中産階級が消費をリードし、誰もが中流と思えた時代のあの人々の笑顔は失われてしまったのであろうか。急速に衰退に向かっているかの印象に、寂しい思いを抱きつつ、新橋から羽田に向かった。

京急電車の中、私の前では、キャップをかぶった中年男性が、タイ人の女の子と楽しそうに話にうち興じていた。見ていると二人の顔立ちがよく似ていることに気づいた。顔の輪郭、目の感じ、唇が親子か兄妹のように思えた。おそらくそんな似たもの同士だからこそ、前世の因縁か、縁があって、年も生まれた国も違ってはいても、親しい関係になるのだろうかと思えた。

そして、こうして異国の人々との親密な交流が日本の国をいい方向へと変えていくのではないかとも思った。人口は減る。だからといって先日の新聞にあったように年金受取額が給与の半額を割るとして、今の水準が更に引き下げられてもそれに甘んじよと言わんばかりの数値の発表には意図的なものを感じるのだが。

しかしいずれにせよ、今の雇用形態、就業環境では、ますます結婚する人も、子供を作る人も、家を買える人も減少していくだろう。だから少子化は止められない。近い将来、他国からやってくる多くのこの国を支えてくれる人々との交流によって日本は変革されることになるのであろうか。しかしそれは、他の国と同じような階級社会をもたらすという弊害も抱き合わせて受け入れることになるのであろう。

様々な未来を私たちはいかようになろうとも受け入れて、それでも幸せに感じられるような生き方を模索するしかない。そんなことを考えつつ、帰りの機内で一人もの思いに耽っていたら、隣に坐った3歳の女の子が心配そうに私の顔をのぞき見ていた。

そうなのだ、こんな小さな子供たちが大きくなるころにも戦争だけはしない平和な世の中だけは維持してあげなければいけないのだと、気流に翻弄され激しく揺れる機体に身を預けつつ思った。

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この世の流れ2 ジェームス・ブラントの思い

2006年12月25日 09時06分18秒 | 様々な出来事について
前編は昨年の12月15日に書いた。福山市庁の前庭に大きなクリスマスツリーが飾られたとの新聞記事に触発されて書いたものだ。私たちはクリスマスを何のためにするのだろう。クリスマスとは何かを知っているのであろうか。

私たちはその意味、意義さえも知らずにただ真似事をしているに過ぎない。誠におめでたい、軽薄さの中に生きている。外の人たちにはどう見られているであろうか。しかしこの国の多くの人たちはそんなことに気づかない。無頓着の中に生きている。だから、毎年この時期になると同じ事を思い、憂鬱な気分になる。私たちはこんな事で良いのだろうか。

ジェームス・ブラントという英国の歌手をご存知だろうか。彼は、コソボの平和維持軍の将校として3000人の部隊を率いた軍人だった。彼がデビューして何年経つのだろう。昨年欧米で大変な支持を受けて一躍有名歌手となり、今年になって日本ではドラマの挿入歌として流れブレイクした。

彼の歌う曲は、甘い恋人に語りかける恋歌の中に、この世のどうしようもない無力感、時代の耐え難い矛盾を聞く人に訴えかけているようだ。コソボで軍靴を履きながら眠る部下たちを眺めつつ曲を書き歌った。

私たちは何をやっているのか。何のために殺し合うのか。誰もが平和を望んでいながら死と隣り合わせに生きなければならない境遇をどうしたらいいというのか。だからこそ彼の曲は多くの人々の心を打つのだろう。

死の淵にある人たち、平和に暮らしていてもこの世の中の成り立ちに気づきつつある人々は、彼の書く歌詞に共鳴せざるを得ないのであろう。「Back to Bedlam」彼のデビューアルバムのタイトルである。「精神病院にもどれ」とでも訳すのであろうか。

このタイトルを見て多くの人々は何を思うであろう。タイトルへの思いについてインタビューで聞かれた彼がその真意を語ることは出来ない。そこで、私の思い入れと彼が見ていた世界の情景を思い浮かべながら、このアルバムタイトルに込めた彼の思いを私流に勝手に解釈してみよう。

 「私たちはみんな誰もが心を病んでいる。

  為政者たちよ、この世界をどうしようというのか。
 あなたたちのしていることを私は知っている。
 しなかったことも。これからしようとしていることも。
 私たちはしっかりとこの瞼に焼き付かせ語り継ごう。

 戦争のまっただ中で命と引き替えに生きる人々はみんな知っている。
 誰がいかれているのかを。
 あなたたちこそ精神病院に入るべきだ。

 そして誰もが分からなくなって精神が犯されている
 この世の中に生きる人々よ、一度自分を疑ってみよう。
 私もおかしいのではないかと。

 この地上に生きる人々よ。
 何の不安も感じないでいられる今の幸せを大切に。
 それでも、私は歌う。
 すべての人たちの覚醒と未来のために。」

欧米の多くの彼を支持し彼の曲を聴く人たちの思いは様々であろう。しかし、そもそも音楽とはこのようなものではなかったか。心の奥底からわき上がる思いの丈を、このどうしようもない思いを歌にして多くの人たちに訴えかける。世の中よ、人々よ、これでいいのかと。そしてだからこそ多くの人々が共鳴している。私たちの言いたいことを曲にのせて歌う彼を支持する人の声なき叫びを聞く思いがする。  

彼の曲に共感する日本人たちが真に彼の訴えたいものに気づき、それを我が身に置き換えてみる、私のやっていることはどのようなことかと。その一つ一つに気づくとき、何の考えもなくクリスマスをする気にはおそらくならないのではないか。クリスマスとは、人々を戦争に誘導するために利用される宗教の別の一側面に過ぎないのであるから。

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人生にリセットは出来ない

2006年12月19日 16時46分08秒 | 様々な出来事について
ああ、こんな人生、一からやり直したい。そんな思いに駆られたことがある人は多いのではないか。あの時、ああしておけば良かった、なんでしなかったのだろう、言わなかったのかと、そんなことをあれこれ後悔したりする人もいるだろう。

私自身もう少し学生時代に勉強しておけば良かったと思うことしきりである。しかしだからといって、もう一度そのころに戻ってやり直せるわけでもなく、今できることをする、それしか私たちに残された道はない。本当にそれが正統な考え方なのであろう。

しかし世の中には本当に追いつめられて、様々な理由から自分自身の生きる場が無くなり、自殺に追い込まれてしまう人もたくさんいる。誠に非情なことではあるけれども、ご存知の通り日本には毎年3万人もの人が自らの命を絶っている。

生きているより死んでしまった方が楽になる。死ぬことしか考えられない。周りの人にとっても自分が死を選ぶ方が良いのだと思ってしまう。そして、死んでしまえばその人生の問題が解決すると思ってしまうのではないか。

しかし本当に死ねば問題が解決するのであろうか。仏教ではすべてに因縁ありと言う。すべてのことは原因と様々な条件によって成り立っている。自殺をしてもその因縁は次の来世に持ち越されてしまう。死んで楽になると思うのは早計なのではないか。人生にリセットは出来ない。この世で何とか今の苦しみをどのようにしてでも解決していくことしか方法はないのではないかと思う。

私たちは、みんな違う環境に生まれ、様々な出会いによって、認識の仕方、物事の捉え方、好き嫌い、見方考え方が異なる。同じものを見ても、聞いても、嗅いでも、口に含んでも、触れても、その人の過去の経験いかんによってみんな違う受け取り方をする。

私たちはみんな、これまでのそうしたすべての経験、つまり因縁の集積によって成り立っていると言える。それは、今生のことだけではない。過去世も含め、輪廻転生を繰り返してきたすべての因縁について無関係であることはない。だからお釈迦様の様々な過去世の因縁話がジャータカとして伝承されてきている。

袖振れ合うも多生の縁と言う。そんな取るに足りないような縁であったとしても、それが他の縁を呼び、その人の人生にとってとても大事な縁を生じることもあるということであろう。隣あわせた人たちのちょっとした会話からヒントを得て、大もうけをする人もあるかもしれない。或いは自分よりもっと不幸な人の話を聞いて、気持ちが楽になるということもあろう。

みんな誰しも苦しみの中に生きている。何もないという人はいない。みんな多かれ少なかれコンプレックスをかかえている。しかしある人はそれを自分のウィークポイントとして認識し悩み、他の人との付き合いを限定したものにしてしまう。しかし、ある人はそれを自分のキャラクターだと気楽に思ってたくさんの人に自分をアピールしてしまう。

また、同じことを言われても、別に意に介すことなく受け流し冗談を言い返せる人と、そのことに反発して喧嘩をする人もあろうし、その時はニコニコしていながら胸に思いをため込む人もあるだろう。そういう違いがどうしても生じてくる。そうした捉え方の違いは私たちの過去のすべての行いや経験、つまり因縁によって生じている。

人生は何のためにあるのだろうか。昔読んだインドの本に、神様に灯明線香をお供えする人として生まれ、死ぬときもそのようであったなら、何のために人生を過ごしたのか分からないであろう、とあった。

それは、人はたとえ信仰心を持って生まれたとしても、そこから神にどれだけ近づけるかが大切なのだ、生まれたときと同じ場所にとどまっているのなら何のために生まれてきたのかという意味であろうと思った。それぞれの人生でどれだけ心を成長させられるかが問われているのだと。

私たちの人生には実に様々なことが起こる。その様々なことがあって、そこから何事かを学び、人として成長するために私たちには時に過酷なまでの様々な試練がやってくるのではないだろうか。いいことばかりはない、それが人生なのであろう。だから成長することが出来る。

それぞれの因縁によってみんな生きる意味、目的が違い、だからこそ誰もがそれぞれに自分を生きる価値がある。自分を変えるチャンスは今何をするかということ。正に今の自分次第なのだということになるのではないかと思う。

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四国遍路のススメ

2006年12月16日 13時16分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)

十六年ほど前に、四国八十八カ所を歩いて遍路したことがあります。実は、その前年、インドで出会った臨済宗の雲水さんから「真言宗の人なのに歩いていないのですか」と言われ、「これから歩く予定です」と答えてしまったのでした。

臨済宗では、眼病を癒すために四国を歩き、行き倒れた雪渓寺で出家され、昭和の白隠さんとも言われた山本玄峰老師が何度も四国を歩かれたことから、今でも徒歩遍路に出る雲水さんが多いとのことでした。

「四国を歩くと歩いただけ坐禅ができるようになりますよ」とも言われ、その気になって歩いたのです。教えられたようにビニール紐で草鞋を編み、前に頭陀袋、後ろに寝袋をくくりつけ、衣姿に脚絆を巻いて網代傘をかぶり、錫杖を突きつつ歩きました。

どこに寝たらよいのやら、昼に食堂に入れるか、道に間違いはないか、そんなことばかりにとらわれて、ただ札所まで歩けばいいだけなのに様々な雑念ばかりが心に浮かんでくるのでした。

そうした時には、なかなか札所が見えてこないもので、暫くして何も考えずに、ただ足の先だけを見て歩けるようになると、気がつくと札所の前に来ていることがしばしばありました。その時四国の遍路は、正に歩く瞑想の道場なのだと実感いたしました。

また、道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり、おにぎりを買いに入ったお店で、御飯ものがないからと、家の夕飯をパックに詰めて下さったり、食堂でお会いした方に車で次の札所に連れて行かれ、そのまま善根宿をお接待いただいたこともありました。

本当にありがたい出会いを用意して下さるのが、歩き遍路の妙と言えるのではないかと思います。

一度目の歩き遍路では三十九日目の夕刻、大窪寺に結願しました。さあ、高野山までどうやって行ったものかと思案していると、たまたま拝み終わって座ったベンチにいたご婦人から話しかけられ、徳島駅までと言われていたのに小松島港まで車をお接待下さいました。

そして、フェリーに乗り込み和歌山港へ。そこから歩いて和歌山駅前に着いたのは、夜の九時頃だったでしょうか。駅前で知人の車を待っていた若い方に宿泊所をお尋ねしたところ、案内しましょうと言われました。

それで、乗用車に乗り込みましたら、高野山までお連れしますということになり、話に興じている間に到着。結願した日の晩には高野山の師匠の寺に帰ることができるという、誠に絶妙な出会いの連続に不思議な遍路の功徳に感じ入ったものでした。

出家は本来、人様からいただく施食と粗末な衣で遊行しつつ樹下で暮らす者であるとするならば、四国の道は、現代において正にその出家本来の姿を体験させて下さる、得難い道場であるとも言えましょう。

ところで、四国遍路の歴史は、奈良時代の役行者や行基までさかのぼることができるそうです。当時すでに、都から遠く海を隔てた四国の辺路は日本一の難所として知られており、大和葛城山などで修行していた役行者も四国まで足を伸ばしたと言われています。紀伊、淡路を通って、阿波、讃岐、伊予、土佐へと歩を進め、途中石鎚山にも籠もったとか。

また、八十八カ所の札所には行基開基のお寺が多く、行基も四国を旅して修行し、様々な社会事業もなされたのでしょうか。

そして、真言宗の宗祖・弘法大師空海も、おそらく生まれ育った讃岐から足を伸ばし、辺路の道場をくまなく渉猟されたのでしょう。舎心ヶ嶽や御蔵洞で虚空藏求聞持法を修したり、真言を唱えつつ山野を駆けめぐられたといいます。そうして悉地を得られた霊蹟への道を、後の大師を慕う人々が踏み固めていったのが四国の遍路道です。

鎌倉時代、若き日に四国の辺路を修行し、源平の争乱で焼失した東大寺大仏殿を再建した大勧進・念仏聖重源の活躍は、旅をして念仏する多くの仏教者を生み出し、さらに、そこへ一遍上人の時宗聖が加わり、たくさんの念仏聖たちが四国を修行に歩くようになります。

戦国時代には、高野山や根来を追われた念仏聖たちが逃げ込んだ先が信長や秀吉の勢力の及ばない四国でした。彼らは後に全国を廻国して四国遍路の功徳を説いたと伝えられています。

江戸時代には、四国遍路の中興と言われる真念と高野山の寂本によって、「四国遍路道指南」や「四国遍霊場記」が著され、四国遍路の大衆化が図られ今日に至っています。

遍路道を歩いていますと、いにしえのお遍路さんたちが建立した様々な道しるべ、供養塔、地蔵尊を遍路道沿いに見ることができます。同行二人、杖を頼りに、是非歩いて遍路されることをお勧めします。

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なぜお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのか3

2006年12月14日 06時55分20秒 | 仏教に関する様々なお話
お釈迦様だから出来たことなのかもしれませんが、お釈迦様には、初めからそのすべてのことがおそらく分かっておられたのでしょう。つまり、アングリマーラは悟れるということが。そして、そうして悪行をはたらかねばお釈迦様に出会い、教えを受け、悟りを得ることもなかったのだということが。

勿論犠牲になった人たち生き物たちが亡くなって当然であるというわけではありません。しかしそれも因縁として仏教では説明しなければならないことです。今生での因縁ばかりか前世での、いやもっと何回も前からの過去世の因縁のなせる果報なのであると。

そう考えなければ説明のしようがないのです。その時のあなたが悪いわけではない。何回も前の過去世の悪業がこの時に報いて結果した、しかしそれによって生まれ変わったところは、おそらく悪業が消えた、より良いところに生まれ変われるのではないかと、このように考えるのでありましょう。

すべては因縁で成り立っています。すべてのことに因縁ありとも言います。ローマは1日にしてならずとも言いますね。すべて原因と様々な条件によって結果があり、その結果がまた原因となる。

お釈迦様は神通力で、その人の過去そして未来が見えてしまわれると言われています。アングリマーラに会う前から既にそのことが、だから分かっていた。それで、わざわざアングリマーラの居るところへ歩いていき、改心させて、僧院に連れて帰り、修行させたのでしょう。

その人の因縁を過去も未来も見えてしまわれたら、おそらくその人に対しての怒りやら怖れやら欲やらといったものはすべて無くなってしまい、優しい慈しみの心で接しられるようになるのではないかと思います。だからいつもお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのでしょう。もちろんそれは、私たち凡人には、そう簡単なことではありません。

ですが、何か怒りの心で接してこられたり、言いがかりをつけられたりしても、どんな悪口を言われても、つっけんどんに何か言われても、馬鹿にされても、のけ者にされても、意地悪されても、そう言ったりしたりするその人の因縁を見るように心がけるだけで、そうそう腹を立てることも出来なくなって、そうですかね、と冷静に笑っていられるようになるものです。そして優しくなれる。

たとえば、夫婦げんかというのも夫婦だから、腹が立つこともありますが、同じことを他人から言われたら大変なことになるのに、別にたいしたことなく受け流したりも致します。それは、ああまたかと、その相手のことをよく分かっているから、そうですかと、そういう気持ちになるわけです。

だから、他人であったとしても、その人の過去のすべての色々なことがそう言わせているのだと思えば、何かそう言うのが理解できるといいますか、しかたないか、かわいそうにという気持ちにもなってくるわけです。

それから、何事もこの因縁ということから物事を見ていきますと、とてもしっかり生きられます。何か意味のあることだと思えます。いい加減な気持ちで何事も出来なくなる。一つのちょっとした仕事でも大切なものであると思える。

なぜなら、過去の様々な一切のことの積み重ねで今があるからです。今していることも、思うことも、考えることも、これまでの過去のすべての集積したもののほとばしりとしてあるという気持ちにもなってきます。

こうして今話を聞いていただいているのも大変な因縁の積み重ねがなしているとも言うことが出来ます。様々な皆さんの事情もあったでしょうが、こうして皆さんが一堂に出会っているというのは本当は大変なことです。みんなそれぞれにたくさんの過去の因縁の積み重ねのもとに生きていて、それがここに一つに出会っているということになるからです。

だから、ありがたい、一期一会とも言います。「私たち人間とは何か」と問われれば、因縁なんですね。「これが私」と言えるようなものは何もない、因縁が私であるとそのように考えます。だから簡単に変われない。

そして、冒頭に話をした国というものも因縁で説明できます。過去の様々なものごととの関係によって、そして今ある様々な条件の下で成り立っています。ですから、簡単ではない。私たち国民が方向を変えることも出来ない。

因縁とは、縁起の法とも言いますが、仏教は縁起の法であるとも言います。仏教とは因縁を説くこととも言えます。ですから、大切なのです。この因縁ということを常に意識して、誰に対しても優しく、過去がみんな結実した今を大切に、また様々なことをこの因縁ということから考えて、やさしい心で生きて欲しいと思います。

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なぜお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのか2

2006年12月13日 06時37分13秒 | 仏教に関する様々なお話
お釈迦さまは誰も近づかないそのアングリマーラの居るところへと歩を進めます。街を歩くときは誰もが10人20人と連れだって歩くのに、たった一人でお釈迦さまは静かに歩いていきます。

そのことを知ったアングリマーラは、誰か知らんが一人の沙門が命知らずにもこちらに来るではないか、後ろから追いついて命を奪ってやろうと考えて追いかけます。ですが、行けども行けども沙門に近づくことができません。

そして思わず、立ち止まって「そこの沙門、止まりたまえ」と声を掛ける、するとお釈迦さまは歩いているのに、「私は止まっている。そなたこそ止まりたまえ」と言われる。その問答にすっかり混乱したアングリマーラは、沙門の言うことには何か意味があるであろうと考えて問い質す。

すると、「私は、いかなる生き物をも害する心が止んでいる。しかるにそなたは生き物を害する心が自制なくとどまっていないのだ」と答える。その言葉にはたと自分の行いを悔い改める心が起こり、お釈迦さまの教えに生きることを誓い、すべての武器を捨てる。

お釈迦さまは彼をアナータピンディカ園に連れて帰り、比丘として遇する。そこへ通報を受けて駆けつけたパセーナディ王が500頭の騎馬隊を率いてやってくる。王は、アングリマーラを捕らえに来ましたと言う。

すると、お釈迦様は、「もしもアングリマーラが髪を剃り、黄衣を着けて出家し、殺生を離れ、戒を守り教えを実践するのを見たならばどうなされるであろうか」と問う。すると王は、「彼を礼拝し座をもって招き衣や食事を与えるでしょう。しかし彼は凶悪なる殺戮者であり、そんなことはあり得ようはずはない」と言う。

そこでお釈迦様は近くに座っていたアングリマーラを指さして、「彼こそがあのアングリマーラである」と言う。パセーナディ王は、驚き、「誰も棒によっても剣によっても取り押さえることのできなかった者を、このように何も用いずに心を鎮め、改心させてしまわれるとはなんと不思議なことであるか」と言い、城に帰る。

そして、ある日アングリマーラが托鉢していると、ある女性が難産で苦しみもがいていた。なんとかしようとお釈迦様にお尋ねする。お釈迦様は、「ご婦人よ、私は生まれて以来故意に生き物の命を奪ったことはない。その事実によってあなたは安らかになりますように」と言いなさいという。

それでは嘘を言うことになるとアングリマーラが言うと、それでは「私は聖なる生まれによって生まれて以来、故意に生き物の命を奪ったことはないその事実によってあなたは安らかになりますように」と言うように諭され、その通り、アングリマーラがその婦人の前で言うと、女性も胎児も安らかになったという。

また、托鉢に出ていると、石を投げられたり、棒で叩かれたりしたこともあった。そんなとき、お釈迦様は、頭が割れ血を流すアングリマーラに、「そなたは耐えなさい。そなたが地獄で数年、数百年、いや数千年にわたって受けねばならない業の果報を現世において受けているのであるから」と。

そして、アングリマーラは一生懸命修行し、悟り、阿羅漢となって解脱したと言われています。

本来なら捕らえられ、罪を認め処刑されねばならなかったところを助けられたのですから、それは本気になって修行に励んだのでしょう。それによって悟りを得られた。石を投げられたり棒で叩かれるといったアングリマーラが受けた報いは当然のことでありました。

このように、どんなに獰猛で凶悪でたくさんの人や生き物を殺した者であっても、お釈迦様は怖れの心も怒りの心も持つことなく、優しい心で接しられ、教え諭されました。こうして更正させ、悟りにまで導いてあげた。

普通の宗教だったら、洞窟にでも幽閉して閉じこめてネズミにでも変えてしまう神通力を現したと言いたいところですが、そうは言わないところこそが仏教なのです。教誡の奇跡こそが最高の奇跡であると仏教では言います。

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なぜお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのか1

2006年12月12日 08時50分42秒 | 仏教に関する様々なお話
(地元の福祉施設の講話のために書き下ろした文章をそのまま掲載します)

私はこちらに来て、7年、住職して5年が経ちました。早いものです。昔は10年一昔と言いましたが、今ではどうでしょう5年一昔と言っても良いほどに世の中の動きがめまぐるしいほど速く感じます。

特にこの12月というのはとても忙しい。皆さんもこうして忙しい合間にここへお越し下さって坊さんの話でも聞いてやろうという気持ちを起こされた。誠に奇特な志をもってお越し下さった。ありがたいことです。

私がこちらに来ましたときには、大変なところへ来てしまったと思いました。と申しますのも、この備後という場所は、仏教界、特に真言宗にとっては特別の場所です。近世以後今日まで特にたくさんの優秀な高僧方が管長さんや門跡さんとして本山の要職を担ってこられている。そういう土地柄です。

私の方はお寺の生まれでもなく、色々と勉強して坊さんになり、今があるのですが、昔、チベットの瞑想会に出たとき、仏教は問いから始まるということを教えてもらいまして、その通りなんですね。言うことを聞いているだけではだめなので。後ほど皆さんにも何かお聞きしますから、問いを発していただきたいと思います。

ところで、今という時代は、どうも優しさというものを喪失した時代とも言えるのではないでしょうか。学校にしろ会社にしろ、いじめというものが、ますます横行しています。差別し、他をのけ者にして、優越感にひたる人があります。大人の世界でも、派遣、請負、非正社員という言葉が新聞紙上を賑わせているのが現状です。

下流社会、勝ち組負け組。それでいて、痛みを分かち合いなさいと言う。貧乏人からもドシドシ税金を搾り取る、さらに社会弱者の生活保護も削減しようというのですから、国家自体が優しさをかなぐり捨てたと言っても過言ではないでしょう。

それなのに景気はいいのだと言われています。好景気が戦後最長になったとも言います。本当でしょうか。本当なんでしょう。大企業の数字だけは良いようです。みんな非正社員をこきつかって企業の数字だけは良い。

こんなことで良いのでしょうか。何か階層のようなものができつつある。単一民族の日本でこんな状況は容認できることではないでしょう。勿論他の国なら良いというわけでもありませんが。

そもそも今の国の方針を左右するのは諮問委員会という機関です。これらの委員は学術経験者や実務経験者たち、または、マスコミに登場する識者たちです。この人たちを選出するのは政治家であり、官僚です。決して私たち国民ではありません。つまり彼らの都合のいい人たちだと言えましょう。

選挙で私たちが選んだわけでもない人たちが、官僚や自分たちの都合で決めた方針を支持し、さも国民を代表する意見であるかの如く答申して、それが政策となり法案となる。その内容には、申すまでもなく、米国の意向は反映されているのに、私たち国民の意向は一切反映されない。

だからまったく国家自体が国民に対して優しさを失った時代だというのも仕方ないのかもしれません。ですが、こうして、ともに生きる私たちはその影響を受けずにやはり穏やかに暮らしたい、誰もがそう思うはずです。縁あってともに暮らす人とは安らぎの中で同じ時を過ごしたい。なかなかそれも難しいことですが、ではどうすればいいのでしょうか。

お釈迦様のお話をしましょう。今から2600年前のインドの話です。コーサラ国のパセーナディ王が統治する領土にサーヴァッティという大きな街があり、その近くジェータ林のアナータピンティカ園にお釈迦さまがおられたときのことです。そのころ、アングリマーラという残忍で無慈悲に人や生き物を殺しその指を輪にして首にかけた凶賊がありました。つづく

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真言宗の歴史 後編 近世以後の歩み

2006年12月10日 08時42分24秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)

戦国時代、高野山や根来山では、学道研修を旨とする学侶に対して、諸堂宇や荘園寺領の管理に従事する行人があり、彼らが時勢に迫られて僧兵となります。四隣を攻略、他領を略奪して、根来は七十万石、高野山は百万石を領するようになります。

織田信長は十三万の軍勢で高野山を包囲攻撃しますが陥落せず、豊臣秀吉は天正十三(一五八五)年十万の軍勢を配して根来寺を攻め焼き払います。そして秀吉は高野山にも迫りますが、高野山客僧木食応其が陣中にいたり無事を乞い願うと、秀吉は逆に青厳寺(今の金剛峯寺)を寄進。天下統一後、東寺にも寺領を寄せて五重塔を建立します。

一方、焼かれた根来寺では、学頭であった専誉(一五三〇ー一六〇四)と玄宥(一五二九ー一六〇五)が学徒を率いて高野山に逃れ、その後専誉は豊臣秀長の請により天正一五年豊山長谷寺に住して奈良時代からの霊場寺院を学山として栄えさせ、玄宥は慶長五年(一六〇〇)徳川家康より寄進された京都智積院を本拠として学徒の養成に努めました。

江戸時代に入ると、寺院法度が発布されて寺院統制が厳しくなる一方で、幕府は寛永年間に仁和寺など門跡寺院に寄進して堂塔伽藍を改修させ、大覚寺、醍醐寺など大寺は概ね旧観に復することができました。

そして、高野山の頼慶が家康の信任を得て諸山に勧学の朱印を下すなど勧学運動に励み、学徳兼備の者にあらざれば大寺に入住させずとの規程を設けて、教学の振興を計りました。

また高野山ではこの時代、高野浄土を説いて諸国遍歴した高野聖により祖先の霊骨を高野山に納骨して菩提所とする観念が浸透し、多数の大名の五輪塔が奥の院参道に建立されました。

新義真言宗では、五代綱吉の時、帰依を受けて亮賢が江戸に護国寺を、また隆光は神田橋外に護持院を建立。特に隆光(一六四九ー一七二四)は、綱吉の生母桂昌院からも帰依され、元禄三年(一六九〇)隆光は覚鑁上人に大師号を奏請、興教大師号を賜ります。元禄八年隆光は大僧正に昇り、新義真言の僧録司に任ぜられ、その勢威並ぶ者なく、それによって、関東他派の多くの寺院を新義真言宗に転じました。

また、智積院の学頭に運敞(一六一四ー一六九三)が出て最盛期を迎えると、後に倶舎唯識の性相学が盛んとなり、豊山にも影響して斬新な学風を打ち立て多くの学者を輩出し、あたかも南都仏教が両山に移転した観を呈したと言うことです。

寺壇制度ができて生活が安定し安逸に耽る僧界に対する非難の声が挙がると、戒律の復興運動が起こります。真言宗では正法律の興起をもたらし、明忍の志を継いだ浄厳(一六三九ー一七〇二)は、戒を仏道修行の基本と位置づけて如法真言律を唱導。元禄四年江戸に霊雲寺を開創して、数多の帰依を受けます。

また、正法律を公称する慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、釈尊在世時の戒律復興を目指して無数の道俗を教化。「十善法語」「人となる道」など、かな言葉で書いた著作をなし、十善戒を人の人たる道と説いて、釈尊の根本仏教への復帰を提唱します。この慈雲による十善の教えは、後生の仏教者にも多大な影響を与えました。

明治維新にあたり明治初年に発令された神仏分離令は、神仏習合を推進してきた真言宗寺院に大きな打撃を与えました。明治四年には諸山の勅会が廃止となり、承和二年(八三五)より宮中真言院で行われてきた真言宗による後七日御修法も中絶。しかしこれを憂いた雲照律師らの嘆願により、明治十六年東寺灌頂院にて御衣加持を主として再興され、現在も一宗を挙げて謹修されています。

そして、明治五年、維新政府によって一宗一管長制が定められると、金剛峯寺と東寺が古義真言宗の総本山、長谷寺と智積院が新義真言宗の総本山として各寺より輪番で管長を出すことになります。

明治八年には合同真言宗が成立しますが、その後も離合集散を繰り返します。明治十八年、初めて新義派の派号が公称され、さらに明治三十三年各山各立別置管長制度を確立して新義派が二分し、長谷寺を本山とする豊山派と智積院を本山とする智山派が独立します。

そして昭和十四年には、戦時下で強制的に一宗にまとめられ大真言宗を名乗りますが、戦後新しい宗教法人のもとに戦前にもまして各派が分派乱立し現在に至っています。しかし、昭和三十三年には、真言宗各派総大本山会が発足。各本山を結集して正月の後七日御修法を修すなど、協同事業が計画されています。

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真言宗の歴史 中編 新義派の分立

2006年12月09日 13時19分23秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)

高野山の復興が成し遂げられた頃、熱烈なる信仰心と学徳をもって登場するのが覚鑁上人(一〇九五ー一一四三)でした。覚鑁は、南都に遊学して倶舎唯識を修め、仁和寺寛助に随って伝法灌頂に入壇。その後、高野山に登り、修学練行に勤め、鳥羽上皇の院宣により今の金剛峯寺の地に伝法院を開創します。

そして、高野山の衰退とともに中絶していた、学徒を教養するための会式、伝法大会を長承元年(一一三二)鳥羽上皇の行幸を仰ぎ開白。春と秋に五十日もの期間経軌を清談させ、これによって真言学徒の教養を高め、大いに高野山の教勢を張ることとなりました。覚鑁は高野中心主義を標榜、金剛峯寺座主職が東寺長者兼務であるが故に高野山が廃退したとして、このしきたりを違え、長承三年金剛峯寺座主に任ぜられ高野一山の興隆を計らんとします。

しかしながら、天歴年間の伽藍焼失以来の高野山復興事業と関わりの無かった覚鑁は、明算の法資良禅の弟子ら常住僧徒の反感を買い争議が起こります。住坊密厳院に籠もり無言の行に入って著述に専念。沈思瞑想して、「五輪九字明秘密釈」「密厳院発露懺悔文」などを撰します。

この少し前十一世紀頃から末法思想が浸透する中で、高野山の別所では念仏行者高野聖が住み、浄土教の中心的拠点の一つになっていました。

覚鑁はこうした高野聖とも交流し、大日如来と阿弥陀如来は本来一体平等であり、極楽浄土と密厳浄土は同処であると説き、盛んとなる浄土教との調和を計りました。

永治元年(一一四一)、ついに覚鑁は伝法院の衆徒七百人と紀伊根来に退き、圓明寺などを造営するも、わずか三年後に永寂。

その後、伝法院座主神覚らは高野山に帰還し、二十年ほどは事無きを得ましたが、仁安三年(一一六八)には、伝法院方の僧侶が修正会に美服を着し華美で規律に背くとして争いに発展し、また金剛峯寺衆徒が伝法院を焼却するなど騒動が絶えず、正応元年(一二八八)、伝法院学頭頼瑜と座主道耀は伝法、密厳の両院を根来に移し独立の教団を形成することになります。

根来山に大伝法会を開演すると学徒は雲集し、一大伽藍を現出。頼瑜(一二二六ー一三〇四)は教団の根本主張として、本地身説を基調とする高野山に対して、加持身説を提唱します。

弘法大師が、釈尊所説の他の仏教と異なり、法身説法なるが故に密教であるとした説を更に厳密なものとして、頼瑜は無限常恒の本地法身を絶対無相の境地を説く自性身と化他の説法をなす加持身とに分けて、化他の一面においてのみ初めて説法ありとして加持身説法を主張しました。

この覚鑁上人を祖と仰ぐ根来寺の系統を新義と言い、その他高野山や東寺などを古義と言います。

鎌倉時代には、浄土宗などいわゆる鎌倉新仏教が台頭する中、源家の氏神を祀る鶴岡八幡宮の別当に真言僧が任ぜられ、頼朝の一族や北条氏は高野山を崇敬。また醍醐寺は醍醐天皇より三帝の庇護により発展し、源氏との関係も緊密となり興隆します。

また、西大寺を中興する叡尊(一二〇一ー一二九〇)は自誓受戒して戒律の復興を目論み、乞食囚人遊女にいたる多くの人々に戒を授けます。当時既に鎌倉を中心に関東に多くの真言宗学僧が進出しており、叡尊の弟子忍性は鎌倉に極楽寺を開創して悲田院、療病院を造り慈善救済事業を行いました。真言宗義によって戒律を修学するこの西大寺流律宗は後に真言律宗として独立します。

室町幕府は、臨済宗南禅寺の夢想疎石など禅僧に帰依する一方、将軍家に護持僧として親近した醍醐寺座主満済を政治顧問として重用。醍醐寺は莫大な寺領所領を得て財力権勢は朝野を圧倒します。

高野山では、長覚(一三四六ー一四一六)、宥快(一三四五ー一四一六)が出て教学が大成されます。

長覚は、一切の功徳は自心に本来具足しており凡身に即して仏となり得るとして、無量寿院を中心とする不二門学派を形成。また宥快は、本来仏である我々は妄想に纏われ凡夫の相を現じているから、三密行によって開悟して本来ある功徳を開顕しなければいけないと主唱して、寶性院を中心とする而二門学派を形成し、山内の学徒を二分して論義問講が盛んとなり教学を大成するに至りました。

しかし応仁文明の戦乱が起こると、大覚寺、仁和寺は伽藍の大半を焼失、醍醐寺、東寺も堂宇を悉く灰燼に帰すことになりました。

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真言宗の歴史 前編 法流の分派

2006年12月08日 19時50分26秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)


真言宗の教えは、開祖弘法大師によってほぼ大成されました。そのため、大師後二百七十年ほどは、教学上の発展を見るに至らなかったと言われています。その間は、もっぱら時代の求めに応じて「転禍為福」の加持祈祷のために、修法「次第」の編纂や様々な儀礼法要の編成に費やされたのでした。 しかしながら、大師後、十大弟子のうち実恵と真雅の法流が栄え、皇室の保護尊信は大師の時代と変わることなく、京都東寺を中心として発展していきます。

実恵真雅の両法系を統合した源仁の弟子に益信(八二七ー九〇六)が出て、宇多天皇の尊信を得ます。天皇は益信に従って落飾され、延喜元年(九〇一)東寺灌頂院にて伝法灌頂に入壇。大内山に仁和寺を造営し観法に余念なく、御室と称して平安仏教の一大中心となります。歴代天皇の御受戒御出家が相次ぎ、密教研究が盛んになり、造寺造仏を競ったため、密教隆盛の最頂に達したと言われています。

宇多法皇の正嫡であった寛空は嵯峨大覚寺に住し、その法嗣寛朝は歴朝の国師として広沢に遍照寺を開創して、益信を流祖とする事相法流を大成。広沢流と呼ばれ、その後六流に分派していきました。諸儀礼の声明にも精通し、声明中興の祖と称されています。

また益信と同時代に、真雅の法流を源仁から受けた聖宝(八三二ー九〇九)が出て、役の行者小角の遺跡や霊山山岳を跋渉。苦修練行して法験を現し数多の尊信を集めます。修験道の基を開き、宇治に醍醐山を創建します。

ところで日本の神々を仏教の教えによって祭祀する神仏習合は奈良時代から起こりますが、「本地垂迹説」という理論的基礎を与えたのはこの頃のことでした。真言宗では、伊勢神宮の内外宮を胎藏金剛の両部に見立てた両部神道が形成されていきました。

この聖宝の法資に観賢(八五三ー九二五)が出て、東寺長者となり、はじめて東寺灌頂院にて御影供を営み、延喜二一年(九二一)醍醐天皇の勅により宗祖に弘法大師の諡号を賜ります。観賢は勅使とともに御廟にいたり、そのとき大師の聖容を肉眼に拝したとして大師入定留身説を唱え、大師信仰と高野浄土信仰を起こします。また観賢は醍醐寺仁和寺も主宰して、さらに荒廃していた高野山の座主を兼ね、当時仁和寺、醍醐寺、高野山と分散していた真言宗を東寺を中心にして一大統制をはかりました。

この観賢の法系から霊験を発揮して雨僧正と称された仁海が出て、正暦二年(九九一)小野に曼荼羅寺を開創。弟子多く著述二百部と言われ、聖宝からの法流を大成し小野流を開きます。

広沢流が仁和寺を中心に貴族的相承をなして経軌を尊重するのに対し、小野流は醍醐寺を中心に庶民的伝播をなして師資口伝を重視しました。両法流ともに後にたくさんの分派が行われていきました。

一方、大師によって秘密修禅の道場として開創された高野山では、その後の経営を大師から委嘱された真然が未完成であった堂塔を完成させ、後に東寺長者に補せられると、参内して高野山の霊威を天下に宣布します。

そして、真然は東寺宝庫に宗宝として保管されていた、大師在唐の際自ら筆写した経軌「三十帖の策子」を借覧の上、高野山に持ち帰って保管します。その後真然の法孫無空が高野山座主のとき、東寺長者であった観賢がこの「三十帖の策子」返還を院宣をもって督促するに至り、延喜十五年(九一五)無空は門徒を率いて離山。後に「三十帖の策子」は回収され東寺大経藏に納められましたが、このことは高野山一山の荒廃をもたらしました。

天歴六年には雷火により奥の院焼失。正歴五年(九九五)また雷火によって大塔はじめ壇上伽藍の堂塔を悉く焼失しました。住僧のない時代が十数年続き、興福寺勧進僧祈親上人定誉がそれを嘆いて自ら入山し、一山の復興に尽力。仁海らも高野山浄土の思想を鼓吹して、藤原道長、頼道ら貴顕の外護を得て、ようやく復興の緒につきます。

高野山中興の祖と言われる金剛峯寺検校明算は延久四年(一〇七二)山に戻り、高野山における事相上の一流として中院流を開き宣揚して法会儀礼の復興にこぎつけたのでした。

このように修法儀礼を中心とした法流の分派が盛んになり、院政期まで、東寺、高野山、醍醐寺、大覚寺、仁和寺、勧修寺などを中心に発展していきました。特に東寺は教団の根本道場であり、そのため真言密教は東寺系の密教、略して東密と呼ばれました。

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