「門徒もの忌まず」と言うらしい。門徒は何も忌み嫌うことがないのだと、ある知人から教えられた。真宗門徒のこの知人は、法事の後の法話でそういう話を聞いて感心したと話していた。門徒もの知らずというのは聞いたことがあったが、それは間違いで、実はこちらの方が正しいらしい。
「もの忌み」とは不吉なこととして物事を忌むことであり、祟(たた)りを畏(おそ)れ嫌い避けることをいう。たとえば、結婚式は大安吉日がよいとか、葬式は友引の日を避けるべきだとか、遠方へ出るときの方位はどうかとか、いわゆる日柄方位を選ぶ吉凶も含めてのことらしい。
墓相や家相、手相などもこの類になるのであろうか。特に死を穢れたものと考えた時代の風習から、今もお葬式の香典返しにはお清めの塩が付くが、真宗の葬式には塩は付かない。これは鎌倉時代から仏式の葬儀が行われ出したとき、特に浄土教の僧たちが率先して死への穢れを恐れずに人の死に際して葬送に従事する習慣が出来ていったことを裏づけているのかもしれない。
私が子供の頃、親がお葬式に行って帰ってくると、少々神経を尖らせて玄関先で水と塩を用意させ、手に水をそそぎ塩を振りかけていたのを憶えている。今思えば微笑ましい光景ではあるが、その時にはそうしなければ何か良くないことが起こるのではないかと思わされたものだった。
人の死は穢れているのだろうか。それとも死神でも取り憑くというのであろうか。東京にいる頃、お葬式に呼ばれてお経を上げ、火葬場に向かうのにタクシーやハイヤーが用意されることが多かったが、火葬場の帰りには行くときとは道を変えて帰ってくるのが暗黙の了解で、どのタクシーもハイヤーもそんなことをしていた。
内心変なことをするなぁと思いながらも、別段取り立ててそのことを運転手さんに問い質すこともなかったが、誰もなぜそんなことをするのかをよく考えもせずに、それが常識だと思ってしているという風であった。それこそ死んだ人が同じ道を通ると付いてきてしまうとでもいうような理由を誰かから聞いた記憶がある。
死とは何か、死後人はどうなるのかといったことがまったく仏教的に解説されることがなく、通俗的に誰かが言ったことがまことしやかに言われ、そうなっているというに過ぎないであろう。
東京のあるお寺の住職が、そのことを、馬鹿げたことがまだなされていると怒っていたことを記憶しているが、そんなつまらないことでも、仏教的には意味のないことだよと教える人がいないということなのであろう。お坊さんたちもそんなものかと考える、イヤ仏教的にはどういうものかと考える習慣があまりないということなのではないか。
私たちは般若心経で五蘊という言葉を唱えている。しかしその意味まで知ろうとする人はそう多くない。五蘊とは、私とは心と体だよ、ということだろう。これを名色といい、名は心、色はもの、つまり身体。心はさらに分解されて、受・想・行・識となる。これも般若心経の中で唱えているからみんな知っているはずのものだ。
受は、外のものを感じ取る心であり、想は、それが何かと捉える心、行は、それを知って何かしようと動く心、識は、知り認識する心。これらによってある働きをしているのが人という存在で、身体と心に分けて考えるのだから、身体の寿命が終わったとしても、心は消滅するわけではないと考える。
だから日本などの大乗仏教ではこの状態で四十九日間は私たちと同じ空間にあるとして、葬式をして七日参りをして、それらの功徳を故人に手向け回向する。そして六道に輪廻するとは言え、その中でも、より良いところに生まれ変わり、出来ればまたしっかり仏教徒として生きなさいよ、とそれらの遺族による善行功徳を回向して来世にお送りするのが四十九日の法事であり、今日まで大切な法事として継承されている。
きちんと仏式のお葬式をして、なぜ火葬場から追いかけてくるなどと考えるのであろうか。身体を失った故人の心は自由に浮遊する。それこそ千の風になって。だから、どの道を通っても関係ないであろうし、だからといって恨みを買うような関係にもなく、その方のお葬式に手を合わせ成仏を願われた方に悪さをするわけもない。
ところで、昔國分寺の僧も含め国に認められた僧侶は官僧と言って、国家の安泰、鎮護国家を祈願するために死穢を禁忌事項としていた。だから当然のこととして人の死に接することを避けていたであろう。もちろんその時代には仏式の葬儀は一般化していなかったこともあろうが。しかし、元々インドではお釈迦様の弟子たちは、死体置き場で瞑想をして、不浄観を修し、貪りの心を克服して、無常を悟られた。
そこで、冒頭のもの忌まずということを言うのであれば、「仏教徒もの忌まず」というのが本来ではないか。なぜ忌まずかと言えば、死は自然のことだからではないか。すべてのものが無常というのが仏教の真理であるならば、すべてが因縁所生であるから、それに従って死がある。日柄方位吉凶も意味をなさない。
そもそも死が穢れならば誕生も穢れではないか。だから出産は、昔は実家に帰らされた時代があった。今では実家の方が気兼ねがないからと思って実家に帰り出産する人もあるようだが。死は忌むものでもないし穢れでもない。自然の営みである。
つまり、人の死を死穢と考え忌み嫌うことこそが仏教的ではないのだと言えよう。すべてのことがらを単にこの世の真実の姿ととらえ、おのれの修行の糧として受け入れ、それを冷静に観察しようとする姿勢が必要なのであって、それを穢れだとか汚いとか恐れとか、縁起がいいとか悪いとか、吉とか凶とか、評価判断し忌み嫌う自分の心こそ忌み嫌われるべきなのであろう。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
「もの忌み」とは不吉なこととして物事を忌むことであり、祟(たた)りを畏(おそ)れ嫌い避けることをいう。たとえば、結婚式は大安吉日がよいとか、葬式は友引の日を避けるべきだとか、遠方へ出るときの方位はどうかとか、いわゆる日柄方位を選ぶ吉凶も含めてのことらしい。
墓相や家相、手相などもこの類になるのであろうか。特に死を穢れたものと考えた時代の風習から、今もお葬式の香典返しにはお清めの塩が付くが、真宗の葬式には塩は付かない。これは鎌倉時代から仏式の葬儀が行われ出したとき、特に浄土教の僧たちが率先して死への穢れを恐れずに人の死に際して葬送に従事する習慣が出来ていったことを裏づけているのかもしれない。
私が子供の頃、親がお葬式に行って帰ってくると、少々神経を尖らせて玄関先で水と塩を用意させ、手に水をそそぎ塩を振りかけていたのを憶えている。今思えば微笑ましい光景ではあるが、その時にはそうしなければ何か良くないことが起こるのではないかと思わされたものだった。
人の死は穢れているのだろうか。それとも死神でも取り憑くというのであろうか。東京にいる頃、お葬式に呼ばれてお経を上げ、火葬場に向かうのにタクシーやハイヤーが用意されることが多かったが、火葬場の帰りには行くときとは道を変えて帰ってくるのが暗黙の了解で、どのタクシーもハイヤーもそんなことをしていた。
内心変なことをするなぁと思いながらも、別段取り立ててそのことを運転手さんに問い質すこともなかったが、誰もなぜそんなことをするのかをよく考えもせずに、それが常識だと思ってしているという風であった。それこそ死んだ人が同じ道を通ると付いてきてしまうとでもいうような理由を誰かから聞いた記憶がある。
死とは何か、死後人はどうなるのかといったことがまったく仏教的に解説されることがなく、通俗的に誰かが言ったことがまことしやかに言われ、そうなっているというに過ぎないであろう。
東京のあるお寺の住職が、そのことを、馬鹿げたことがまだなされていると怒っていたことを記憶しているが、そんなつまらないことでも、仏教的には意味のないことだよと教える人がいないということなのであろう。お坊さんたちもそんなものかと考える、イヤ仏教的にはどういうものかと考える習慣があまりないということなのではないか。
私たちは般若心経で五蘊という言葉を唱えている。しかしその意味まで知ろうとする人はそう多くない。五蘊とは、私とは心と体だよ、ということだろう。これを名色といい、名は心、色はもの、つまり身体。心はさらに分解されて、受・想・行・識となる。これも般若心経の中で唱えているからみんな知っているはずのものだ。
受は、外のものを感じ取る心であり、想は、それが何かと捉える心、行は、それを知って何かしようと動く心、識は、知り認識する心。これらによってある働きをしているのが人という存在で、身体と心に分けて考えるのだから、身体の寿命が終わったとしても、心は消滅するわけではないと考える。
だから日本などの大乗仏教ではこの状態で四十九日間は私たちと同じ空間にあるとして、葬式をして七日参りをして、それらの功徳を故人に手向け回向する。そして六道に輪廻するとは言え、その中でも、より良いところに生まれ変わり、出来ればまたしっかり仏教徒として生きなさいよ、とそれらの遺族による善行功徳を回向して来世にお送りするのが四十九日の法事であり、今日まで大切な法事として継承されている。
きちんと仏式のお葬式をして、なぜ火葬場から追いかけてくるなどと考えるのであろうか。身体を失った故人の心は自由に浮遊する。それこそ千の風になって。だから、どの道を通っても関係ないであろうし、だからといって恨みを買うような関係にもなく、その方のお葬式に手を合わせ成仏を願われた方に悪さをするわけもない。
ところで、昔國分寺の僧も含め国に認められた僧侶は官僧と言って、国家の安泰、鎮護国家を祈願するために死穢を禁忌事項としていた。だから当然のこととして人の死に接することを避けていたであろう。もちろんその時代には仏式の葬儀は一般化していなかったこともあろうが。しかし、元々インドではお釈迦様の弟子たちは、死体置き場で瞑想をして、不浄観を修し、貪りの心を克服して、無常を悟られた。
そこで、冒頭のもの忌まずということを言うのであれば、「仏教徒もの忌まず」というのが本来ではないか。なぜ忌まずかと言えば、死は自然のことだからではないか。すべてのものが無常というのが仏教の真理であるならば、すべてが因縁所生であるから、それに従って死がある。日柄方位吉凶も意味をなさない。
そもそも死が穢れならば誕生も穢れではないか。だから出産は、昔は実家に帰らされた時代があった。今では実家の方が気兼ねがないからと思って実家に帰り出産する人もあるようだが。死は忌むものでもないし穢れでもない。自然の営みである。
つまり、人の死を死穢と考え忌み嫌うことこそが仏教的ではないのだと言えよう。すべてのことがらを単にこの世の真実の姿ととらえ、おのれの修行の糧として受け入れ、それを冷静に観察しようとする姿勢が必要なのであって、それを穢れだとか汚いとか恐れとか、縁起がいいとか悪いとか、吉とか凶とか、評価判断し忌み嫌う自分の心こそ忌み嫌われるべきなのであろう。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)