住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

功徳ということ

2013年08月28日 18時46分33秒 | 仏教に関する様々なお話
法事でお経を済ませた後、少し仏教の話をするようにしています。話の内容はそのときどきで様々ですが、このところよく、「功徳を積むということが私たちの第一になすべきことであって、この功徳しか死んだ後に持って行けないんですよ・・」などと話をするのですが、あるときそんな話をした後のお斎の席で、「功徳ということがどういうことなのか分かりませんが・・」との言葉を耳にいたしました。

功徳ある行為が大切だ、善行功徳を積んで下さい、などとよく話すものの、それではいったいその功徳とはどのようなことを意味するのか、ということになるとその説明はそんなに簡単ではないのかもしれません。インドなどでは、功徳を積むということは仏教徒もヒンドゥー教徒も子供のころから教えられて、ごく当たり前のことになっています。大人になって給料をもらうようになれば、そこからいくらかは当然の事として福祉施設やお寺に寄附をしたり、または路上で生活する貧困者や遊行者へ施しをすると聞いています。

そのインドで貧困者などへの施しを盛んに行うというのには理由があって、今の必ずしも恵まれているとは言えない人生、また過酷な気象環境の中で大変な生活を余儀なくされているけれども、誰もが死後再び生まれると信じている来世ではもっと恵まれた良いところに生まれ変わりたい、そのためには今生でせめてもの徳を積んでおくことが何よりも大切なのだということを実感しているからなのだと思います。このことはインドばかりのことではなく、スリランカやネパールなどインド文化圏の国々、それに南方経由で仏教が伝わっていったタイやミャンマー、ラオス、カンボジアなどの国々の共通の認識なのです。

パゴダという仏塔を崇拝供養することを熱心に行うミャンマーの仏教徒の中には、来世のために昼も夜も肉体労働をしてお金を貯めようとする貧しい家族が少なくないと言います。彼らは、貯め込んだお金で楽な生活をしようというのではなく、そのお金で大きな仏塔を造り、高僧を招き盛大な開眼供養をして、来世での安楽を願うのです。この二十一世紀の現代に、そうした来世の幸福のために真剣に生きている人々が、アジアの仏教国には大勢いるのです。

こうした来世観を当然のこととして持っている国々と違い、私たち日本人はそこまでの意識を持たずに成人し、歳を重ねていきます。「それではあなたは死後どうなるとお考えですか」と問われたとしても、自分自身の死後のことなどなるべく考えないで済ませたい、縁起でもないというのが本音ではないでしょうか。特に現代に暮らすほとんどの人が、この人生のことだけにしか関心がないというのが実情のようです。ですが、もっと先のこと次の世のことも含めて責任ある生き方をしようと考えた方がよいのではないかと思うのです。

私たちの仏教は、シルクロードを通り、中国経由で入ってまいりました。それが為にいわゆる仏教徒として当然身につけているべき常識に欠けていると、私の目には映ります。その代表的なものがこの来世観を含む輪廻という生命観だと思います。中国では「積善の家に必ず余慶あり、積不善の家に必ず余殃あり」といい、家単位の善行の報いとして楽果を説きます。が、仏教では、前世、現世、来世の三世にわたる個人単位の因果を説くのです。

いま私たちが不況とは言いながらもまずまずの恵まれた生活が送れるのは、前世を含めて過去の善い行いの結果であり、現在の瞬間瞬間の行いの結果として未来が、また来世があると考えます。そして、今何を見、何を聞き、何を思い、何を願い、何を行うかによって次の自分が造られていく、すべては自分の責任、自業自得だということ。そしてつまりは、私たちは死んでもそれで何もかも終わりとはならないということなのです。身体が物質的に寿命を迎えても、最後の心が次に引き継がれていくのです。

「人々は自分のつくった業にしたがって死んでいく(経集)」「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経)」などとお経にもあり、その人の人生で行ってきたこと、つまり業によってもたらされる死の瞬間の心に相応しい世界に転生していくと教えられているのです。そうして私たちは、生まれては死に生まれては死んで何回も輪廻転生を繰り返す存在であり、その何度も繰り返す輪廻は苦しみに他ならず、その苦しみの連続から解放されるためにお釈迦様がお説きになられた教えこそが仏教なのであります。

では、よりよい来世を迎えるために、私たちはどうしたらよいとお釈迦様は教えられているのでしょうか。

「花束をもって多くの華鬘を作るがごとく、人として生まれなば多くの善きことをなすべし(法句経)」

「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ、おのれの行為の浄らかなるを見て喜び楽しむ(法句経)」

「直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならない、他人を欺いてはいけない、どこにあっても他人を軽んじてはならない、怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えてはならない、あたかも母がおのが独り子を命をかけて守るように一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心を起こすべし(経集)」

と、このように、人としてよい来世をもたらすようなよい死に方をしたければ、善いことをしなさい。そうして善いことをしたという満足感、喜びの中で死を迎えるように努力しなさいと教えられているのです。自分がしあわせでありたいと思うのと同じ様に、人の気持ちを尊重し、優しい言葉を語り、自分の出来ることを奉仕して周りの人たち、生きとし生けるものの幸せを願うなど善い行いを心がけねばならないのであり、そのような行為こそが功徳ある行いということになるのです。

随分と回り道をしてきましたが、つまり『功徳とは、自分自身の未来、そして来世によい結果をもたらす善い行いの果報』ということになりましょうか。そして、仏教の教えから紐解きますと、その功徳をもたらす行為は仏教の実践そのものということになります。仏教の実践には、「布施」「戒」「修習」という三つの内容があります。

「布施」は財施ばかりではなく、身体を用いてなされる奉仕行である身施、優しいまなざしや言葉、笑顔を施す心施、精神的な教えを施す法施などがあります。布施は他を直接利益する善行と言えます。

また「戒」は、在家者にあっては、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒を内容とする五戒ないしは十善戒を実践することです。なぜ戒をたもつことが功徳ある行為となるのでしょうか。それは、悪業を為さないためであり、また正しい生活を送ることで自他によい影響を与え、そうして初めて他を助けるなど善行を施すことが出来るからです。

「修習」は、専門的には止と観を内容とする瞑想行を指し、心を集中統一する止行と、いまの自分の身の動き、感覚、思い、思考、周りのものごとのあり様をありのままに観察する観行があります。ただし、坐って瞑想することばかりを意味するのではなく、日常においても心落ち着き、心静かに穏やかに生活することも含まれます。過去未来に思いをはせ欲や怒りをつのらせるなど、心ここにあらずということなく、自分が今何をし、何を思い、何を考えているのかを知り、常に冷静に自分を観察していることが求められています。

自らの振る舞い、心を知らず取り乱している人は、他の気持ちを忖度し利益することが出来ないからであり、また逆に心落ち着いた人は、それだけで周りを穏やかに治め、安らぎをもたらしてくれるからです。最後に、お寺は福田であると言われます。また袈裟は別名福田衣と申します。この場合の福とは功徳、つまりお寺は功徳を耕す場であり、僧侶は本来功徳を積ませる立場にあるということです。沢山の有縁の人たちがお寺にお越しになり、善行を施し沢山の功徳を持ってお帰りになることを願っています。


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帰依礼拝について

2013年08月27日 17時16分31秒 | 仏教に関する様々なお話
法事でお経を唱えます前と後に、どこのお宅に参りましても、必ず十三仏の掛け軸を前に、座布団に額をつけ投地礼をいたします。その日の回忌に当たるご本尊さまに法事をさせていただくご挨拶であり、仏さまを敬い、法要の功徳を賜りますようにとお願いをいたします。

それから着座して真言宗の常用経典である理趣経を読誦し、法事の後半ではご一緒に「仏前勤行次第」をお唱えいたします。勤行次第のはじめには、合掌礼拝、懺悔、三帰、三境と続きますが、みなさんはどのような思いを込めてお唱えされているでしょうか。合掌礼拝を「うやうやしくみほとけを礼拝したてまつる」と唱えるとき、自然に頭が下がり、また「深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるとき、心から三宝を敬う気持ちが生じているでしょうか。
 
三宝はブッダ(仏)という名の宝・ダンマ(法)という名の宝・サンガ(僧)という名の宝のことです。ですが、あまり身近に感じられていないかもしれません。しかし、檀那寺を大切に思い供養をささげるみなさんは、本当は意識するしないにかかわらず三宝に帰依し敬っていることになるのです。なぜならば、お寺は仏さまを祀り、その教えである経を唱え、僧侶がその教えにしたがって住まうところですから、本来三宝そのものなのだと言っても過言ではないからです。

それではそのブッダ・ダンマ・サンガとは、私たちにとってどのような意味のあることなのでしょうか。

まずブッダとは、簡単に言ってしまえば、私たちの生きる目標のことです。ご存知の通り二千五百年前にこの地上にあって最も崇高な生き方を示されたお釈迦様のことなのですが、お釈迦様は私たち誰もが求める最高の幸せを自ら勝ち取った人とも言うことができます。「帰依仏」とは、そのお釈迦様・ブッダを自分の生きる最高の目標として敬い、より所とすることです。

お釈迦様はすべての悩み苦しみを打ち負かし、六道に輪廻する苦の連続から解き放たれた人です。世の中のあらゆることに精通され、多くのものたちを教え諭し、私たちに最上の幸せとは何かを指し示してくれました。私たちと同じ人として生まれ、私たちに可能性を示されたとも言うことができます。

次に、ダンマとは、その幸せに向かって生きていくための教えのことです。つまり私たちを最高の幸せに導くマニュアルのようなもの。「帰依法」とは、その教えを自分の人生の大事な手引きといたしますということです。その教えは、時代を経ても古くなるものでなく、盲信するのではなく自ら学びその正しさを確かめられるもの。二千五百年も経過して込み入った感も否めませんが、本来はとってもスッキリした教えです。

そして、サンガとは、最高の幸せに向かって生きる人たちの集まりのことです。お釈迦様のさとりの教えに励み伝える仲間たち。「帰依僧」とは、そうした聖なる生き方を選択した人たちを大切にすることです。自分の心を支えてくれる仲間であり、ともに励み、支えあう関係でもあります。 

ところで、その昔お釈迦様に教えを乞う人また弟子たちは右回りに三周し正面に向かい投地礼を三度して、それから話し始めたと言われています。インドのサールナートという仏教発祥の聖地にダメークストゥーパという高さ33メートル、外周が55メートルもある大きな塔がありますが、今日でもその塔をお釈迦様のように慕い、右回りにぐるぐる回りお経や真言を唱える多くの巡礼者の姿を見ることが出来ます。

また、以前チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサーラというところへ行って、チベットのお寺の法要に参加したことがあります。本堂内ではお坊さんたちの読経が続く中、外の後ろの方では数人の信者たちがその間中何度も何度も五体投地を繰り返していました。法要中の本堂に、正に仏さまが示現している様が見えているかのように一心不乱に礼拝を繰り返す迫力に感動させられたものです。

このように帰依する心を形に表すものが礼拝であり、仏教の儀礼に礼拝は欠かせないものです。ですが、儀礼だけ形だけのものとしてしまわないためには、その最高の幸せのこと、お釈迦様とはどんな人でどれだけ大変な意味のあることを成し遂げたのかということを少しは知ってほしいのです。そうでなければ、心から帰依します、という気持ちにはなれないのではないでしょうか。

そして、それを自分の人生に意味あるものとするためには、本当は自分にとって何が一番大切なのかをたずねることこそが求められているのかもしれません。とはいえ、法事の席では、礼拝する姿の後ろで、ただ眺めているだけではなく、やはり合掌しともに仏さまを礼する姿勢は欲しいと思います。

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万灯施餓鬼会・法話

2013年08月23日 16時32分22秒 | 仏教に関する様々なお話
今年の夏は酷く暑い夏になりました。7月から、何十年も暑い夏も寒い冬も乗り越えてこられた100歳を超えるようなお年寄りが何人も亡くなられました。それだけ今年の夏は特別なのだと感じます。ですが、私の関わった、そうした100歳前後で亡くなられる方たちの亡くなり方がとても見事と言いますか、親族みんなに最後のお別れをされて亡くなるというような、昔からの日本人の死の迎え方をごく自然にされたようです。みんなに言うべきことを言い残して、なすべき事をすべてして、納得して、感謝の中で亡くなられていく。そんな死の迎え方を私たちもしたいものです。

ところで、今日は万灯施餓鬼会、万灯会の話は前回しましたので、今回は施餓鬼の話をしましょう。ではまず、皆さんご存知の餓鬼とはどんなものでしょうか。皆さん、洗米と茄子キュウリなどを細かく刻んだものを混ぜた水の子を蓮の葉にとって、水を掛けるという作法をして供養なされました。何故施餓鬼はそのようなワザと腐らせたような物を供えるような供養の仕方をするのでしょうか。餓鬼は普通私たちの口にする食べ物を食べることが出来ないからですね。何故なのでしょうか。

餓鬼とは、物欲しくて欲しくて意地汚い心で亡くなった者たちです。物惜しみをして周りの者には分けることもなく自分だけが欲しい。もっともっとと満ち足りない心でいる者たちです。だから暗い心、恨めしい思いでいます。満足なものが食べたくても食べられないという思いでいるために、普通の私たちの口にするようなものが食べられないのでしょう。だから、明るいところ、音などを恐れて、暗がりで他の者たちが居なくなるのを口に指をくわえて待っているのです。

皆さんは餓鬼を身近には感じないかも知れませんが、実は私たち生きとし生けるもの、つまり衆生は、6つの世界に生まれ変わり生まれ変わりしながら生きています。地獄・餓鬼・蓄生・修羅・人・天の六つです。私たちは前世で善いことをして功徳があって、こうして人間界に生まれ、縁あって仏教の話を聞いて下さっていますが、暗い心で、もの欲しい気持ち、恨みや嫉妬の心で亡くなったら、私たちも餓鬼になってしまうかも知れないのです。身近に亡くなられた方も万が一そんなことも無きにしも非ずですから、餓鬼の供養というのはとても大切なものだと教えられているのです。

2500年前のインドの話です。お釈迦様は沢山の弟子があり、出家の弟子も在家の弟子もあったわけですが、当時16あまりあった王国や共和国の為政者たちもお釈迦様に帰依して教えを受けていました。中でも大きなコーサラ国のパセーナディ王は、足繁くお釈迦様を訪ねて教えを受けた内容が多くの経典に記録されています。そのパセーナディ王のお気に入りの妃にマッリカという聡明な王妃がいて、沢山の比丘に供養を捧げ、毎日のように法を聞いたと言われています。

もともとそんなに信仰心厚いわけでもなかった王を仏教に目覚めさせ、なおかつ疑問があるとお釈迦様を訪ねていくような本物の在家仏教徒にしてしまったのはこのマッリカーによる感化によるところ大であったのです。そのマッリカーは、王よりも先にこの世を去ることになります。信仰心深く、あれだけの沢山の功徳を積んだマッリカー王妃はさぞかし善きところに転生したことだろうと誰もが思っていましたが、実は、亡くなる寸前に、生涯で一度だけついた嘘を思い出し、暗い心になったため、餓鬼の世界に逝ってしまったのです。

ですが、少しして、何で自分はこんな所にいるのですかと、沢山功徳を積んだことを思い出すと、その瞬間に、兜率天に生まれ変わったといいます。兜率天とはお釈迦様が前世で居られたところで、弘法大師も亡くなるときには兜率天に逝くと言われたところです。マッリカーが餓鬼界にいた時間は2、3分だったとのことですが、人間界よりも長い時間を過ごす餓鬼界での2、3分ですから、人間界では七日間だったとされ、その間にパセーナディ王は、若くして亡くなったマッリカーの逝き先が気になり、お釈迦様を訪ねます。お釈迦様は、餓鬼に生まれ変わったと言いたくもなく、嘘もつけないので、悲しみを癒すような優しいお話をされて、質問させずに帰します。

その次の日も次の日も同じように精舎を訪ねる王様を王宮に帰し、7日目には、逆に何度もお越しになるが何か質問でもあるのですかと逆に問うたところ、マッリカーはどこに生まれ変わっているのかとお釈迦様に伺います。お釈迦様は笑みを浮かべて、マッリカーは兜率天に天女として生まれ変わり幸せに暮らしていると答えたとのことです。どれだけ徳を積んでも、死ぬ一瞬の心によってどこに生まれ変わってしまうのか分からないという恐ろしさを教えてくれているお話です。

そして大事なことはマッリカーのようにあれだけ私は徳を積んできましたと言えるようにあるためには、確かに善いことをしたのだと私たちも思えるようであらねばなりません。善いことをしたら意識してその行為の功徳をきちんと憶えておくことが必要だということです。毎朝仏壇にお供えをしてチンといわせてお経を上げる、お墓に参って掃除をして仏教のシンボルである仏塔を荘厳して線香燈明を上げて拝む。お寺に参ってこうして法要に参列し、お供えをしてお経を聞いたり、またお寺の諸役を担って仏教のために尽くす、沢山の人の幸せのため地域のためになるお寺の建物の修繕などに寄附を寄せる。こうした行為がとてつもなく、立派な功徳ある行為だと改めて認識する必要があると思うのです。

預金通帳にいくら沢山の金額があっても、どれだけ立派な家があっても、次の世に持ってはいけません。持って行けるのは生前に行った功徳とそれによって培われた清らかな心だけです。みんなやっていることだからと言うことなく、一つ一つの行為が心からありがたいと思うためには、それがどういうことをしているのかと知ることも必要でしょう。ところで、三宝に帰依するということが仏教徒の条件と言われますが、帰依するとは何でしょうか。仏様に帰依するとはどういうことなのか。皆さんの人生にとってどう関わり、どういう意味があるのでしょうか。

昔インドで目にしたことですが、学校の先生などに対して、インドの子どもたちは、右手を先生の足に触れて、その手を額にいただき、そして合掌して挨拶をしていました。正に、み足を頂戴して、自らを無にしてその方を敬い尊敬して学ばせて頂きますという気持ちでなされる行為なのです。それと同じように帰依するとは、仏様、お釈迦様を尊敬して自らの理想として学びつつ、少しずつでもそこへ、つまり悟りに近づいていこうとすることです。

私たちには沢山の願い、夢、希望があります。それらの先の先にいつでもお釈迦様の悟りがあると意識して生きるのが仏教徒の生き方です。だからこそ私たちは、亡くなった方の成仏を願い、法事では何回忌の菩提というように、功徳を廻向して、何度生まれ変わっても一歩でも悟りに近づいて下さい、一生でも早く悟って解脱して下さいと願うのです。悟りとは亡くなった方に願うものではなく、自らも亡くなった後には親族から手を合わされ成仏を願われる存在であることを思い、今のうちから意識して生きていくことによって、日常の仏事、仏壇にお供えをしたりという行為が善行為として意味ある行いとして感じられることでしょう。マッリカーのように、いざというときに私は何でこんな所にいるのですかと言えるために沢山の善きことを意識して行いきちんと記憶していて欲しいと思います。

参考文献・ブッダの実践心理学第五巻業と輪廻の分析(サンガ)



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