住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

拙著『ブッディストという生き方-仏教力に学ぶ』初稿から

2013年04月21日 12時52分09秒 | 様々な出来事について
タイトルも正式に決まらない頃、一昨年の10月に提出した最初の原稿では、『はじめに』において下記のような文章を書いた。想定したタイトルは『仏教とは何か-世界基準の仏教法話集』というものだった。日本でだけ通用するような教えではいけない。世界の仏教徒が理解し通用するものでなくてはならない。その考えに今も変わりはない。もちろん『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』においても、正にそのような教えを書き込んであるつもりである。



 『この世は無常であり苦である、という真理を改めて実感させられた東日本大震災。これから犠牲になられた多くの故人を偲び、超宗派で合同で法要をする場面が多くなるであろう。そのときお経は何を唱えるのであろうか。各宗派バラバラにそれぞれの常用経典を唱えるか、もしくは般若心経を唱えるかであろう。それを非難しているのではない。その場に居合わせるであろう心ある僧侶方の戸惑いを慮っているのである。

 なぜ日本仏教徒が唱える統一したお経がないのか。なぜ僧侶は宗派ごとにみんなバラバラなのか。なぜ妻帯し家族をもって寺に暮らしているのか。様々な疑問が世界の仏教徒たちから寄せられている。このままでよいのだろうか。明治時代の末期には、こうした大問題が議論されながら、その後長らく放置されたままである。どの業界も地球規模の変革の波にさらわれ世界基準の経営手法を採用した。しかるに、仏教界だけが旧態依然でよいのだろうか。

 日本でだけ通用する仏教ではいけないだろう。私にはそんな思いがある。国際化が叫ばれて久しいけれども、日本仏教の国際化とは、単に外国語で布教をしたり、海外の仏教徒と交流することではない。日本仏教が単にこの村社会の日本だけで通用する考え方ではなく、広く世界の仏教徒と共通の物の見方考え方で、いろいろな教えを説き、行じていくことではないだろうか。

「世界基準の仏教法話集」とはいかにも奇をてらったものに思われるかもしれない。しかし、世界基準の仏教とは「あたりまえの仏教」という意味である。それなのに日本では特別に思えるから不思議なのである。しかしともかくも私は、お寺ででも、どこに行っても世界の仏教徒にとってあたりまえと思える仏教の話をさせていただいている。

 備後國分寺は昔は華厳宗総本山の奈良東大寺との関係が深く、その後真言律宗の奈良西大寺の末寺となり、今日では真言宗大覚寺派の末寺である。また、私自身が高野山で僧侶になり、また修行もさせていただいた後、インドの伝統教団でも短い期間ではあるが僧院生活を経験させていただいた。

 江戸時代の真言宗の高僧慈雲尊者は、宗派を越えてお釈迦様の根本の教えに復帰することを唱導された。明治時代の浄土宗の律僧福田行誡師は、広く他宗の教えを兼学することを勧め、「宗旨をもって仏法を説くなかれ、仏法を以て宗旨を説け」と教えられた。また同じく明治の真言宗の傑僧釋雲照律師は、「仏教の宗骨たる大(乗)小(乗)に一貫」せるお釈迦様の善悪因果応報の真理をこそ大本の教え」として広く宣布なされた。

 私は寺院の生まれでもなく、また仏教を専門学府で学んだ者でもない。しかしだからこそ、宗旨宗派にとらわれることのない、世界に共通する仏教の基本を踏まえた教えが説けるのだと自負している。どの場面でもお釈迦様の教えを説いてきた。団体参拝者に向けての法話でも、檀信徒の通夜、法事でも、寺内のお話し会でも、正に仏教の宗骨たる教え、世界基準の仏教と思える教えを説くことを一貫して実践してきた。

 仏教とは学ぶべき教えであります。単に経を唱え、言葉を唱えれば済むものではない。それらが自分の人生にとっていかなる意味があり、いかに大切なものか、生きるとは何で、どうあらねばならないかを探求せずして教えを実践しているとは言えないだろう。

 成仏とはそれほど簡単なことではない。死ねば誰もが果たせるものでは勿論ない。今生で成仏が果たせないのなら、せめても学んで学んで沢山のことを学び、そして、少しでもそれを行じ、実践して、一歩でもお釈迦様の悟りに近づくことが私たち仏教徒のせめてもの責務であろうと思っている。

 ここに記した文面から、ここはなぜ世界基準かと思われる部分があるかもしれない。是非ご指摘をいただきたい。真摯に学ばせていただきたいと思う。』



目次と解説 大法輪閣ホームページより



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再々掲載 報恩ということ

2013年04月12日 08時22分31秒 | 仏教に関する様々なお話
報恩(2005年08月24日 17時51分27秒)

報恩と題する古い経典がある。そなたたちに善ならざる人の立場と善なる人の立場を示すことにしよう、とお釈迦様が話し始めるこの経典では、恩を知り今あることの恵みに気づいている人が善なる人の立場であり、まことある人が習いとすることであると教えられている。

そして、その恩を知るべきものの筆頭に父母があり、この二人には容易には償いが出来ないと言明される。そして、例え、百歳の寿命の人がその寿命に達し、なおかつその年で母親父親のお世話をし、香を体に塗り、さすり、沐浴させ、もみほぐす。また尿や糞などの排泄物を処理したとしても、それでもなおかつ両親に対して何事かをなした、あるいは償いを果たしたことにはならないのである、とお釈迦様は諭される。

そしてさらに、七つの宝に満ちたこの大地で王者の位に上らせるほどに両親に対して勤めたとしてもその恩に報いるに足りない。なぜならば、母と父はその子に多くの助けを与え、支持し、養育し、この世界を子に示した人であるから、とお釈迦様の言葉は続く。

なれば、どうすれば私たちは父母に償いを果たすことが出来るのであろうか。この経典では、もしもその両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、お釈迦様はこのように教えられている。

ただ従順に従い、付き従うことが私たちの恩に報いる道ではないことをお釈迦様は示された。もしも恩義あるものに誤りがあるのなら正しい道に誘い教え諭すことが必要なのであると教えられている。

仏教では、いのちをこの世で授かり生きていく上で、私たちが恩を知るべきものとして四つのものを挙げている。上に述べたとおり筆頭は、父母であり、それから衆生、国家、三宝であり、四恩と言われる。生きとし生けるものたち衆生があって初めて私たちの生活は成り立っているのであり、そのもとには私たちを守り保護している国家の存在があり、それから精神的に生きる上での支えとなる三宝があると考える。

報恩と題する経典から、今私たちは恩あるものに対する償いの仕方を学んだ。時あたかも私たちの命と財産を守り保護するはずの国家が誠に心許ない存在となりつつある。たった一つの法案を殊更に誇張して、この法案が通らなければ国家の骨格を揺るがせると言わんばかりの意味づけを施し、憲法を逸脱してまで衆議院を解散させた。

先の国会でこの法案に良識をもって反対した者たちを追い出し、刺客を差し向けるなどという穏やかならぬ表現が新聞紙上を賑わせる世の中になってしまった。他国から通告される「年次改革要望書」に則り、そのまま法案を上程し可決を謀るような傀儡とも取れる政権が長期にこの国を支配するようなことでいいものなのか。

エコノミックアニマルと罵られながらも私たちの祖父や父親たちが戦後の復興に血眼になって積み上げてきた国内経済も、いまや国債などの長期負債額は800兆円という途方もない借金で賄う誠に愚かしい状況にある。それに加え、どの業界もスキャンダルに巻き込まれて外国資本に乗っ取られようとしている。銀行や保険ばかりではない、通信事業や流通業界も、これから航空業界も狙われるのではないか。

アメリカ式経営スタイルが浸透し、リストラが奨励され、正社員が減少して、フリーター、パート労働者ばかりの不安定な国になりつつある。それにもかかわらず、配偶者控除が無くなり年金や健康保険料ばかり上がるなど重税国家になろうとしている。消費税も上がることになろう。

地方には市町村合併を強引に推進して、公務員や議員を減らす事を強いているのに、中央官庁の官僚や国会議員の削減、年金問題などについては何も具体的な話が聞こえてこないのはどうしたことか。

さらに首相の靖国参拝問題から発展した中国、韓国という隣国との緊張状態も、故意に別の作為をもって騒擾されたものではないか。その先には憲法改正や米軍の世界的再編計画の一端を担うべく準備されたものではないかとも思われる。イラクに派遣した自衛隊も話題に上らないほどその意義が曖昧なものとなり、ただ世界の体制を維持するための駒と成り果てている。

いずれにしても私たちは、過去の戦争で、新聞などマスコミがその時どのように振る舞うのかを学んできたことを忘れてはなるまい。マスコミの誘導に乗ってはならない。ただ、物事の推移を冷静に観察し残されていく事実だけを見続けることが必要なのではないか。そこから透けて見える真実をわが視点として物事を判断することが必要なのではないかと思う。

両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、とお釈迦様は教えられた。

国家が国民に安寧をもたらす気持ちがないならば、国民の命と財産を守る本義を忘れているなら、自己保身のみに執心し国の富を保全する気持ちを失っているなら、また良識とまことを置き去りにしているようなら、私たち一人一人が非力とは思いながらも一票として、そのことを国家に教え諭すことが必要なのではあるまいか。私たち一人一人の強い意志こそが何にも代えがたい国家への報恩であることを忘れてはなるまい。


追記 今様々なことがこの時代に急展開しているように感じる。一昨年の東日本大震災が大きな転換期に拍車を掛けたようだ。これらのことは、一向に進まない被災地の復興を尻目に進められている。原発再稼働。改憲。近視眼的な経済政策。TPP交渉などなど。大手マスコミによって、これらの真実が何も国民に伝えられないままに次の選挙に進むならば、再び私たちは大きな過ちを繰り返すことになるのではないかと懸念される。





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『自分をえらんで生まれてきたよ』をいただいて

2013年04月09日 14時41分31秒 | 仏教書探訪
いんやくりお君が語られた内容をお母さんが筆記された本が送られてきました。丁寧なお手紙には、以前ここで池川明さんという産婦人科医が書かれた『子どもは親を選んで生まれてくる』という本を紹介していた文章をご覧になって、是非息子さんの本を読んで欲しいと思われたとありました。

仏教の教えは決してこの世の出来事と別の世界のものではなく、私たち人間や生き物たちの生死、自然界の営みそのものの本質、真理を表すものであり、その成り立ちの上にいかにあるかを説くものです。ですから、それを裏付けるような小さな子供たちのつぶやきにその真相が現れているなら、そのことに注目するのはごく自然なことなのだと言えましょう。

まずは、この間に拙寺の大きな行事があり、こちらでのご紹介が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。ところで、このりお君の本については、アマゾンの商品紹介には次のように記されています。

「自分をえらんで生まれてきたよ」

「内容紹介
りおくんは、心臓と肺に疾患をもって生まれ、これまで入院は30回以上、のべ2年にのぼります。そんななかで、りおくんが語った不思議な話――
それは、生まれる前の世界、そしてこの世に誕生するということ。
命とは? 生きることとは? 神さまとは?……。
そんな小さな哲学者が語ったたくさんの言葉を、高橋和枝さんのイラストを交え、きれいな本にまとめました。
ページをめくるごとに、心が透明になっていくのをきっと感じることでしょう。
内容(「BOOK」データベースより)
病気をもって生まれた“りおくん”が語る生まれる前のこと、いのちのふしぎ…。ホッと心が癒される“小さな哲学者”の言葉。」

また、ヤフーショッピングの紹介には目次と著者情報も掲載されていました。

「本の内容
病気をもって生まれた“りおくん”が語る生まれる前のこと、いのちのふしぎ…。ホッと心が癒される“小さな哲学者”の言葉。
目次
生まれる前の世界
生まれてくる奇跡
病気とぼく
ママ、パパ、みんな
神さまからの伝言
人間のふしぎ
心の目で見る
生きるということ
お日さまの光、月の色
地球の鏡
ありがとうが いっぱい
ISBN
978-4-7631-3201-7
著者情報
いんやく りお
印鑰理生。2001年8月18日東京生まれ。不整脈のため、34週で緊急帝王切開により誕生。3歳でペースメーカー埋めこみ、10歳でカテーテルアブレーション術をおこなう。慢性肺疾患、喘息により、9歳まで在宅酸素療法。2011年3月沖縄に移住
※本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです」


一読して、まさにその言葉の一つ一つがみんな自分の体験から見えてきたものであるだけにとても尊く、清らかな印象を与えていると感じました。特に印象深いところを紹介し、少し私の思いや気づいたことを記してみたいと思います。

まず、16ページから、
「ぼくは、雲の上からいろいろ見て、
ここの家がいいって、
すぐに決めて、神さまにいいに行った。中略
指をぐるぐる回したら、
目が回るくらいの渦まきができて、
それがどんどん細長くなって、
米粒みたいになって、ピカッと光って、
それで、ママのおなかに入った。」

この表現を読んで、江戸時代の高僧・慈雲尊者の法語にある「因果無人」の一文を思い出しました。「その時、自心の業因縁に従って、次の生に生ずべき国が目にかかり、その中に一群が、またその中の一村見えてきて、さらにその中のある家ばかりが見えてくる。その家のその父母ばかりが目にかかり親しみの心か起こると中有を離れて胎内に入る・・・。」まさにりお君もそのような世界からこの世に現れてくる様子をそのままに語ってくれているものと解釈できます。

57ページから、
「ぼく、夢で神さまに
みんなが死なないようにしてくださいって、
お願いした。
神さまは、それは、だめだなって、いったよ。
疲れると、死ぬんだって。
でも、だいじょうぶ、また出てくるの。
いのちは、ぐるぐる回っているの。」

この部分は、まさに命の連鎖、生まれ変わる衆生世界、輪廻転生を語るものでしょう。疲れるというのは身体の寿命が来たということ。でも、大丈夫、その通りですね。古い身体を脱ぎ捨てて新しい身体をもらってまた出てくるのです。命はグルグル回っている。そのように考えると、どんなことがあっても、結構気楽に生きられますね。

70ページから、
「人がここに来るのは、
新しいことを学ぶためだ。
ここに来るのは、
たましいの寄り道のようなものだ。
ここで学んだら、死んで、
もとの世界に還っていく。
学ばないと、
次のところに進めないんだ。」

いい言葉です。人は学ぶために生きている。学ばないと次の所に進めない。正にその通りですね。この人生で学ぶべきこと沢山あるでしょう、それらをしっかり学ばないと次の自分に進めない。ちょっとしたことでへたり込んでいたら、何も学ばないうちにこの身体を脱ぎ捨てることになってしまう。そうではなくて、やっぱり知識なんかではなく、学ぶべきこと、心のこと、そんなことを学んで次に進んで欲しいというりお君の勧めです。

71ページから、
「死ぬのは、怖いことじゃない。
病気で死んでしまう子どもたちもいる。
それは悲しいけれど、
体はなくなっても、心は残る。
たましいは、必ずある。
悲しみも、いつか消えていく。
それに、死んだら、
また新しいことを学べる。
だから、死ぬのは、
たいせつなこと。」

死ぬことをむやみに怖く思うのは仕方ないことかもしれません。ですが、心は残るのですから、新しい生への旅立ちと捉えたらいいのです。新しい学びへの門出。そう考えれば、死ぬのは大切なことでもあるのですね。

92ページから、
「人は必ず、喜びをもっている。
たとえば、生きる喜び。悲しめる喜び。
じつは、悲しめるというのは、幸せなことなんだよ。
いろいろな気持ちは、ぜんぶ幸せなんだ。
悲しめる喜びというのは、
悲しんだ後、またハッピーになるでしょ。
そのハッピーは、前のハッピーより、
もっと大きいハッピーになる。
だから、悲しみって、大切なんだよ。」

悲しめる喜び。はじめてこのような表現に出会いました。ですが、本当にその通りだなと思えます。その後のハッピーは、その前よりも大きなものになる。それも言い得ています。闇が深ければ深いほど、ほんの小さな光がとても明るく見え、祈りの灯火は強く輝く。これは、いま世界にその名を轟かす交響曲第一番「HIROSHIMA」に寄せた全聾の作曲家佐村河内守さんの言葉です。悲しみが深ければ深いほど、そこから抜け出したときの心はより大きな幸せに出会うことが出来るでしょう。

94ページから、
「人は、みんなに
いいことをするために、生きている。
それを、自分の仕事、という。
みんなのために
働かないと、仕事とは呼ばない。
自分の仕事がなければ、
生きていけない。」

難しく考えることもなく、私たちには自分にしか出来ないことがあります。周りの人たちに出来ることをしてあげる。よいことをするからこそ生かされている。生きているのはそれが出来るから。出来ることをしたら、それはきっとみんなのためによくあり、仕事となるということでもあるでしょう。

112ページから
「すごい秘密に、気づいたよ。
時間があるから、ものはある。
時間があるから、光はある。
ものは、ぜんぶ、時間で、できている。」

これは真理ですね。りお君は二つの理由をこのあとにあげています。一つは、ものは時間が経つと形や場所が変わったりするから。二つ目の理由は、ものが時間の粒で出来ているからといいます。まさに無常の真理そのものを言い当てた気づきと言えましょう。無常だからこそ存在しているということを、このようにりお君は見たということです。光も粒だとまで言っています。仏教では光も粒、微粒子であって、その粒が眼に入って物を見ると考えます。すごいですね。

そして最後に、121ページから、
「人は、幸せを贈りあうために、生きている。
助けあって、幸せを贈りあうために、生きている。」

慈悲の教え。私たちが生きてこうしてあるのは周りのすべての存在のお蔭です。それらの幸せに自分自身も貢献しています。まさに助けあって、幸せを贈りあうために生きています。

りお君は生まれながらにこうした心のことをこの世の中でそのまま見えたことを語るために、そのことを分かって下さるお母さんのもとを選んで生まれてこられたのでしょう。尊いことだと思います。沢山の障害をもって生まれてきたがために、本来なれば大変なハンデとみなされるところではありますが、このように普通では気づけないことに気づき、さらにだからこそ普通では学べない沢山のことを学ぶ人生を選択されたのだと思われます。

ここでは紹介しきれないほど沢山の豊富な学ぶべきことを語られた本書を是非ご一読されることをお勧めします。そして、福島原発事故の被害影響を懸念されて遠く沖縄に避難されている時期にこのような良書をご出版になられた労苦に敬意を表し、さらにご献本下さいましたお母さんに深く御礼申し上げます。


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