住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

天人五衰ということ

2010年04月22日 19時04分44秒 | 仏教に関する様々なお話
天人五衰という言葉がある。天人とは天界にすむ住人のことで、天界とは、生きとし生けるものが死後逝かねばならない六道の一番上部に位置する世界のことである。私たちはいま恵まれた人間界に生きてはいるけれども、死後はみないかねばならない来世があると考えるのが世界の仏教徒の常識である。生きてきた善悪の業によって死ぬ瞬間の心があり、その心の次元に従って来世が決まると考える。

来世には六つの世界がある。家にある仏壇を見ると、みんな下から上にと段があり少しずつ細くなり、また最上部から下にと一段ごとに細くなっている。これは衆生世界の六道を表している。下から、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、そして一番上の天板が仏界に当たるのであろうか。とにかくそのように出来ている。人間界の部分がいわゆる仏壇の内部であり、三段ほどに分かれ、本尊を祀り、位牌を祀り、御供えをする部分となっている。

それで、沢山良いことをしてその善業の功徳によって趣く世界が天界であり、人間界よりも勝ったとても快適で、苦しみがなく、常に快楽を感じ続けられる世界でもあるという。寿命は誠に長く、短い四王天の天人でも一日は人間界の50年で寿命は500年、都卒天の一日は人間界の400年に相当し寿命は4000年と、途方もない時間を過ごす。

しかしだからといって永遠ではなくて、天界の住人ということはまだ衆生の輪廻の世界を抜け出ていないので、いずれは寿命がいたり死後は下の世界に落ちていくしかないのだという。なぜならば、苦しみがないので解脱を望むこともなく、修行をすることもないから功徳を使い果たすだけなのだから。

ところで、死後は浄土に往生したいと考える方もあるかもしれないが、それも実はこの天界の住人に過ぎない。仏教の世界観の中の浄土教なのであるから、仏国土に往生すると言っても、悟っていない限り仏界にはいけない。浄土という見事な荘厳世界も、実はそこは天界に過ぎない。お釈迦様と同じ悟りの寸前まで修行が完成に近づいた不還果を悟った段階の方のみ、天界から仏界にいけると言うが、そこまで修行するのは、それはそう簡単なことではない。だから天界にいったとしても、みんなそこからやはり一度は下の世界にいたり、また修行をして悟らない限り仏界にはいけない。

そして、天界で長く快楽の世界で悠々としていたとしても、いざそこから転落するというときにはとてつもない苦しみに襲われるのだという。そのときが近づいてきたときに現れる五つの衰亡の相のことを「天人五衰」と言う。出典によって少しずつ違いがあるが、まず、①頭の花飾りがしぼみ、②衣が汚れ、③脇の下に汗をかき、④目が眩み、⑤天界の王宮にいても楽しめない。そうなってくるとその七日目に、いよいよ地獄の十六倍もの苦しみが襲い天界から退くときがやってくるのだと言う。

そんな苦しみを味わうくらいなら、何度でもこの人間界で苦楽を味わい、少しでも功徳を重ね、一生懸命瞑想して一歩でも解脱に近づくように精進した方がよいのではないかと思えてくる。今こうして人間界にあるのは本当はとてつもなく、そのチャンスなのかもしれないと考えなくてはいけない、いやそう考えないことには誠にもったいないと言えるのかもしれない。なぜなら人間界に再生するのもそんなに簡単なことではないと言われるから。

ところで、現代に生きる私たちは今、ものすごく快適な生活をしている。昔の人が見たら、それは天人の所業のようにも見えるのではないか。どこへ行くにも車があり、新幹線に乗れば昔は何日も歩いた距離をたったの一、二時間で行けてしまう。飛脚が届けた情報の何万倍もの情報をテレビやインターネットで一瞬にして手に入れられる。まるで時空を飛び越えているかのようにいつでも誰とでもどこにいても携帯で連絡が出来る。居ながらにして音楽も舞踊も何でも楽しめる。飛行機で世界中を行き来できる。まさに天人のような生活をしているとは言えまいか。

そう考えると、私たちもこの世界から退くときには、地獄の十六倍もの苦しみを受けることになるのであろうか。頭に張り巡らしたいろいろな電波が意味をなさなくなったり、肌に心地よい服を着ても心地よさを感じず、暑くもないのに汗をかき、横になっていても目が眩み、どこにいても楽しくないということもあるであろう。まさに天人五衰のような苦しみをおぼえ現代人は最期の時を迎えるのかもしれない。

あまりにも便利で快適な何でも出来てしまうことに何の感激もなくなった私たちの末路はやはり苦しみがつきまとうのであろう。毎日当たり前のようにこの快適な世界で暮らす私たちではあるけれども、時に、そうした現代の利器を一切放棄した生活をすることも大切なことなのではないだろうか。車に頼らず歩いてどこにでも行ってみる。携帯やインターネットを使わない。テレビを見ない。音楽や映像のない自然との語らいを味わう。そうすることで日常では味わえない、安らぎを感じるということもあるのだろうと思う。そうしてこそ解脱に至る悟りということの意味もつかめることもあるのかもしれない。


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コメント (18)
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