住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

勅封心経に願う

2018年07月26日 17時19分17秒 | 仏教に関する様々なお話
7月の中国地方全域を襲った豪雨災害から3週間ほどが経過しました。皆さんの身近なところでも、報道はされなくても床下床上浸水の被害や親族や知り合いが断水で困っていたり、交通手段を失ってしまったところも多々あったことと思います。まだまだ被災地では復旧に向けて連日の猛暑の中作業が続いています。この少し前6月18日には高槻を震源とする震度六弱の地震がありました。数軒の壇家さんの家でも、ものが飛んできたり家具が倒れたりの被害がありました。

さらに、昨年もやはり7月に福岡県朝倉市を中心に大雨からの土砂災害のあった九州北部豪雨では40人もの方が亡くなり、未だ流木が取り残され復旧のめども立っていないところが多くあるとのことであります。その前の平成28年には4月に熊本地震があり、多くのボランティアによって復旧作業ははかどっているようですが、267人もの方が亡くなりました。平成26年8月には広島県安佐北南の両区に渡る土砂災害があり77名の方が亡くなったことも記憶に新しいところであります。

近年立て続けに各地で天災が相次いでいます。決して日本だけのことでもなく、この夏は猛暑で山火事が世界的に頻発したりいたしました。世界的な気候変動の中にあるのかも知れませんが、今年は干支では戊戌という年回りにあり、六十年ごとにひとまわりする十干と十二支の組み合わせであり、六十年前の戊戌の年には阿蘇山の大爆発がありました。戊戌の年は、戊(つちのえ)も戌(いぬ)も、水火木金土の五行の土の性とのことで陽も陰もともにはっきりと現れる年であり、ものごとの仕切り境となる年回りとも考えられ天災も半端なく繰り返されてきています。

今から1200年前、平安時代初期の嵯峨天皇の時代には、旱天が続き雨が降らず作物が実らず疫病が蔓延して多くの民が死に至りました。ときに、天皇は自らの徳の至らぬが故のことであるからと御所から嵯峨離宮にいたり質素倹約に努め、親しく弘法大師に相談し、一字三礼にて般若心経のお写経をなされたのでありました。同時に檀林皇后は薬師三尊像を浄書し、弘法大師は五大明王の御前にて病魔退散のご祈願をなされました。そして続いて、大師は天皇の勅命にて心経の深意をご講讃になるころには、たちまちに霊験が下り疫病が治まったと言われています。

この時、弘法大師は、「この心経とは、偉大なる般若菩薩の大きな心という真言によって深い禅定にいるための教えであり、経・律・論・般若・陀羅尼、ないし、俱舎・成実・法相・三論・天台・華厳・真言の七宗の修行の成果を一行の真言の中に含んでいる。経文には、色としての形ある世界、空としての形のない世界が一体円満なることを説く華厳の教え、すべての存在を否定しそこに生じる空の教えを説く三論の教え、意識の世界のみが真実と説く法相の教え、認識の対象とそれを観る智慧もともに滅びて空に帰するとする天台の教え、十二の因縁により迷いの生じ滅することを覚る独覚の教え、四諦という教えを聞いて覚る声聞の教えを含むものの、それらすべての成果は一行の真言に含蔵されており、心経を読誦して受持し、講義して供養するなら、苦を抜き楽を与え、深く思惟して瞑想するならば、悟りを得て神通力を得ることができるという、甚だ意味深長な教えである」などと、後に「般若心経秘鍵」として一巻の著作にまとめられる深旨を説かれたといわれています。

紺色の綾絹に金字でお書きになられた嵯峨天皇の心経は霊験あらたかと崇められ、皇室の方がご病気になられるとわずかに削り服したとも言われています。その後勅封となり、嵯峨大覚寺獅子牡丹文錦ないし菱花文錦の袋に収められ、漆の筥に収められて皇室の管理のもと大覚寺心経殿に奉安され、六十年に一度勅使により開封されて戊戌開封法会が執り行われてきました。

嵯峨天皇が民の苦しみを我が徳の薄きことに思いをいたされたことは、奈良時代に、國分僧寺尼寺を全国に配置して、都に大仏を建造なされた聖武天皇などにも同様な述懐がなされています。「このごろ田畑の稔りが豊かでなく、疾病がしきりに起こる。それを見ると身の不徳を恥じる気持ちと恐れがかわるがわる起こって独り自分を責めている。そこで、広く人民のためにあまねく大きな福があるようにしたいと思う」こう述べられて國分寺制度について詔をなされています。

今上天皇は東日本の大震災をはじめ自然災害の地には必ず足を運び、膝をつけて被災者を励まし、一日も早い復興を願われるという、そのお姿に天皇の思いがそのままあらわれているようで、そのお立場でのなされるべきことを最大になされていると思う次第であります。やはり時の権力の頂にあって、民を気づかうべき人が身を正し、民の疲弊、混乱、苦しみをわが身の不徳と感じるようであって欲しいものです。

今年10月1日からの御開封法会は二十回目の戊戌にあたり、嵯峨天皇御写経から1200年ということもあり、盛大に法要が予定され二ヶ月もの長きにわたり御開封があります。近年続く天災、世情の混乱が何よりもまず、この霊験あらたかな嵯峨天皇の宸翰心経が御開封になることによって治まりますこと、そして人々が幸せに、結婚し家を持ち子孫を残せるような人として当たり前の社会となりますことを願いたいと思います。



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玄関から寺内へ案内

2018年07月16日 11時40分12秒 | 備後國分寺の風景
玄関から寺内へ

多くの方からご心配をいただきましたが、おかげさまで國分寺は大雨の被害も特にありませんでした。多くの方がお亡くなりになり、お悔やみ申し上げます。被害のあった地区の皆様に、またボランティアで救援活動中の皆様に御見舞いを申し上げます。こちらは梅雨が明けた暑さの中、お盆に向けた準備中であります。焼けるような境内から寺内に入り、一枚目の写真は、庫裏玄関を入って上を見上げたところです。大きな梁の組み合わせた天井には昔のかまどからの煙の抜け穴があったことがわかります。二枚目三枚目は、玄関から上がった部屋に置かれた衝立ですが、この度の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを衝立にしていただきました。前回の仁王門修理の際の様子や大正四年当時の世情を書いたものです。四枚目は、客間にかかった書額で、「南山寿」戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜猊下の書となります。五枚目は、同じく客間の明治時代の國分寺の伽藍全体を書いたものです。六枚目は、客殿中之間の襖絵で、江戸時代の女流画家平田玉蘊の花鳥画です。写真にはありませんが、この絵の斜め上には山陽外史と明記された頼山陽の書額がかかっています。七枚目は、同じく中之間の床にかかる書軸で、これは明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書体も素晴らしい掛け軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 








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大雨特別警報中の今の國分寺周辺

2018年07月07日 09時38分43秒 | 備後國分寺の風景
大雨特別警報中の今の國分寺周辺

一昨日から雨が降り続いています。昨晩は一晩中ごうごうと強い雨が降り続きました。一枚目、今朝9時頃の國分寺西側の堂々川の様子です。二枚目がその上の砂留ですが、石組が見えないくらい滝のように茶色い水が落ちています。三枚目四枚目は國分寺西側の土手付近の堂々川です。普段は川床が見えるほど少ない水位が地面近くまで上がっています。五枚目は土手上から見た國分寺の伽藍ですが、今のところ建物に被害はありません。六枚目は國分寺北側の庭園上の水路に流れ込む山水です。こんなに流れ込む様子は初めて見ました。七枚目は堂々川から御領の田んぼに行く分岐点から國分寺庭園上へと流れる水路の様子です。

このまま小ぶりになってくれるとよいのですが。被災された皆さまにお見舞い申し上げるとともに、これ以上の被害が出ませんように、天候が早く好転してくれることを念じます。




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備後國分寺の風景 5

2018年07月01日 15時31分58秒 | 備後國分寺の風景
備後國分寺の風景 5

仁王門の上には「國分寺」と書かれた額がかかり、額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものと考えられています。本堂正面には「医王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺の谷内清巌門跡の字と伝えられています。寺内には、山号の唐尾山の額があり、これも清巌門跡の字となります。

もう一つ、客殿にかかる流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣、山岡鉄舟の書で、「褰霧見光」とあり、霧をかかげて光を見る、と読みます。弘法大師の著作「秘蔵寶鑰」の中の一説で、この後に、に無尽の宝あり、と続きます。この書は、福山草戸明王院の復興のためにこの地にやってきた鉄舟が福山地区の真言寺院のために書いて資金を集めたときのものです。鉄舟は、北陸の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称されますが、仏教にとりましてはピカ一の大恩人と言えるでしょう。





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