住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記6

2005年06月30日 13時14分44秒 | 四国歩き遍路行記
11番藤井寺のベンチで目を覚ます。さすがに身体が痛い。6時頃焼山寺へ向かい歩く。藤井寺の境内の脇から道が続いている。西国の観音様が遍路道沿いに祀られている。それが終わると白い小さな札が木々に掛けられ、赤い字で「へんろ道」と書いてあったり、「同行二人」「ひたすら歩くお大師様の道」などとあって、励まされる。民家などまったくない山の道だ。

2時間ほど歩くと道の右側に柳水庵があった。番外の札所でもある。大師堂があり、庫裏が古いが立派で、泊めてもくれるようだった。お茶を頂戴し暫し休む。一泊3500円とその時うかがった。こんな周りに何もないところで歩いてくる人を泊めようと思ったら大変なことだ。晩に遅くなってくる人もあろう。大師堂に参ると等身大ほどの大きなお大師さんがこちらをご覧になっていた。

そこからしばらく歩くと工事中の道を途中横切り、さらに先に進むと石段があった。荷物の重さがこたえる。ふと上を見るとそこに大きな笠をかぶったお大師さんがおられた。本当にお大師さんが目の前にお越しになったのかと一瞬見間違えたほど驚いた。大きな杉の木の前に祀られた、笠をかぶり錫杖を持った修行大師像だった。杉の木は天然記念物に指定されていた。石段を上がるとその先に阿弥陀堂があり、観音堂があった。

柳水庵で休んでから2時間ばかりで焼山寺の山門の前に出る。何百年もの年輪を重ねた杉の大木が出迎えてくれた。海抜800メートルもあるという。そのせいなのか建物はみな銅板葺きだ。本尊虚空藏菩薩。弘法大師が若き日に人生をかけて取り組んだ虚空藏求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の本尊さんだ。お大師さんがここで求聞持をされたか定かでないが、おそらく後の時代の修行者が焼山寺の道場でも取り組まれたのであろう。

焼山寺を歩いて降りると途中に杖杉庵がある。ここは、四国遍路の縁起話に登場する衛門三郎がむごい仕打ちをしたことを悔いてお大師さんに会うために四国を遍路して歩いて来てやっとお大師さんに出会い、息絶えたところでもある。その時お大師さんは衛門三郎が持っていた杖をお墓の上に立て供養したと言われ、後にその杖から芽が出て大きな杉の木になったと伝えられていることから杖杉庵と言うのだそうだ。

その時醍醐寺で修行された年配の坊さんがおもりされていた。本当にお大師さんが好きなのだろう、檀家もない小さな庵を一生懸命手を入れて守られていた。確かその時、いらなくなった浴槽をもらってきてやっと風呂が出来たと喜ばれていた。そんな話をしているところに九州から来たという団体さんがお参りされ、私もお接待を頂戴した。

藤井寺から焼山寺は山道だが16キロ。しかしこの先13番大日寺へは30キロもある。どうしたものかと思案しながら下山する。前屈みになりながらも信玄師に教えられたように前後ろにほぼ均等に荷物を配分しているので、楽に錫杖をつき降り下った。
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僧侶の仕事

2005年06月27日 15時24分02秒 | 仏教に関する様々なお話
よく日本では、上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)、などと言ったりする。上下というのが気になるので、内求菩提・外化衆生と言い換えたりする。高野山で布教を教えて下さった長岡秀幸師がそう言われていた。

確かにこう言い換えた方が適切に意味もよく分かる。つまり、自らにとっては悟りを求めることを第一とし、外には生きとし生けるものの教化(きょうけ)に当たるということ。これが私たち僧侶にとっての為すべきこと、これ以外にはあり得ない。為すことすべてがこのどちらか、もしくはそのどちらにも該当するものでなくてはならない。本来は、である。

法事などに呼ばれお経を読む。そのお経は、僧侶自らにとっては、その時心を澄ませ静かに心落ち着かせる修行であり、それを聞いて下さる親族など参詣者にとってはお経を聞き心安らかなひとときを過ごし、また仏教の教えを聞き学ぶ機会となる。

読経する者の心が別の所にあり、穏やかならず、落ち着いたお経が唱えられなければ、そのお経を聞いている人の心にもその動揺した波動が伝わるであろう。どんなにきれいな声でお経を唱えても、心ここにあらず、まったく関係のない私的な思念で一杯であれば、それを聞く人もそのお経に心一つに聞き入ることはないのではないか。そんな風に思っている。

つまり、僧侶にとってはどんなことでもその行為が悟りに向かう修行、ないしはそれにそったものになっているか。縁のあった周りの人にとってはそれが仏教という心安らぐ、もしくは幸せをもたらす教えを吸収する縁(よすが)、より所となっているかがポイントなのではないかと思う。

法事では「胡座をかいたりして、どうぞゆったり座って下さい」などとよく言ったりする。それは法事とは足の痛みをこらえる我慢大会ではないと思うからだ。なるべくゆったりとリラックスしてお経を聞いてもらい、その教えの意味するところが分からなくても、日常と違った静かな心持ちになっていただくことが大切なのではないかと思っている。

心落ち着かせ、お経に耳を澄ませ、呼吸を整え、安らぎを感じていただく。そのことが仏教で言う八正道の中の正定となり、仏教をそのまま実践することに繋がる。その後仏前勤行次第を唱えたり、法話を聞いていただくことによって、教えの何たるかを少しだけでも知っていただく。

教えの法味である智慧の一端を獲得するところとなり、短い法事の中で仏教の実践である布施・戒・定・慧の定と慧を行うこととなる。この後食事や供養の品やお布施を施され、布施を実践し、残りの戒は、その後の日常において実行されれば、それだけで立派な仏教徒としての実践が完成する。

こうした意味合いにおいて、お経の後には長く感じられるようでもその時々に応じた仏教のお話をさせていただいている。本来はお経よりも大切なものなのかもしれない。インドのベンガル仏教徒たちの法事では、お経はものの5分程度しかあげない代わりに、三帰五戒の授与や法話を長々として、食事時間がその後に続く。

弘法大師の時代には、お経を唱えた後には、延々とそのお経の講義をされたらしい。お経を上げてもらう、ないしそれを聞くのが法事というのは誤った認識なのではないかと思う。あくまで、それが僧侶にとっての修行、参詣者にとっての仏道実践、そして僧侶にとっての教化(きょうけ)となっていることが第一の要件なのではないか。だからこそその法事に功徳があり、その功徳を故人に手向ける価値があるのであろうと私は思う。
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世の中単純化していないか

2005年06月21日 11時42分06秒 | 時事問題
どうもこのところ気になることがある。この世の中何かみんな頭が単純になってはいないかと思うのだ。特にマスコミ、新聞の論調など、その傾向が濃厚なのではないか。今日の新聞にも「頭のいい人悪い人の言い訳術」という本が広告にあった。頭がいい人悪い人などとそう簡単に二つに分けられるものでも無かろう。

こういう題名にすればよく売れるという発想なのだろうが、世の中他にもこれに似たものがゾクゾクある。JRの宝塚線の脱線事故でも、加害者を非難する声は被害者以外からもものすごい高まりがあった。加害者JRを悪者に仕立て上げみんなで寄ってたかって、こてんぱんにやっつける。経営者に土下座させなければ気が済まないといった剣幕だ。

何もJRは事故を起こしたくて電車を走らせているのではない。経営サイドの怠慢もあったかもしれないが、それなりに旧態依然とした社風の中一生懸命やってきていたのではないか。様々な原因が重なり事故になった。これからは無いよう心して取り組むと言う。それでよいのではないかと思う。あまりに被害者遺族の感情に流されすぎではないか。

前には三菱自動車の火を噴く事故が相次いだ。自動車事故は日常茶飯事。三菱の車の事故ばかりが新聞紙上を賑わせた。いまはJALが狙われている。その根源には、あの米国の同時多発テロに対する報復劇に至った、悪事に対する嵩にかかった勧善懲悪の発想があるように思える。悪い者には何をしても良い。そんな風潮が世の中の大勢を占めているようだ。特にマスコミにはその気風がある。恐ろしいことだ。

私たち人間は完全ではない。間違いを犯すのが人間だ。その人間が人間を神であるかの如くに裁こうとすることがいかに恐ろしいことであるか。私たちが一番よく知っているはずではなかったか。

お釈迦さまの時代。アングリマーラという凶悪残忍の輩がいた。アングリとは指、マーラとは花輪。次々に人を襲い殺した人の指を首飾りにしていた。シュラーバスティの街を托鉢して終わったお釈迦様は、アングリマーラの居るところに向かう道を一人歩いていった。そのことを知ったアングリマーラは、一人でのこのこやってくるあの沙門を襲ってやろうと剣や弓矢を持って忍び寄った。

しかし、走れど走れどゆるゆると歩くその沙門を捕らえることが出来ず、思わず「そこの沙門よ、止まれ」と声を掛けた。するとお釈迦様は私は「私は止まっている。そなたこそ止まるがよい」と言った。止まって話しかけた自分に止まれと言い、歩いている沙門は止まっているという。

その意味が分からずアングリマーラが問うと、お釈迦様は、「私は生きとし生けるものに対して害する心が止んでいる。しかるにそなたはその心のみに歩まんとしているではないか」そのように言われて、アングリマーラはその場で崩れ落ちお釈迦様にすがり、弟子となった。

直にその噂が街に溢れ、アングリマーラがシュラーバスティの坊さんたちの精舎のあるジェータ林に入ったとなれば、お坊さんたちに何かあったらいけないと心配し、お釈迦様を師と仰ぐパセーナディ王は五百の騎馬兵と共にジェータ林に駆けつけた。

「アングリマーラという残忍な兇賊を捕らえんが為に来たり」という王様に対し、お釈迦様は、「大王よ、もしその者が髭や髪をそり落とし、袈裟衣を着て出家し、殺すことなく、盗まず、過ちを語らないという自戒堅固になったとしたらいかがなすであろうか」と問うた。すると王は、「そのようなことがあれば私は彼を敬い供養し保護するであろう、がそのようなことはあり得ない」と言われた。

するとお釈迦様は、「そこにいる沙門こそあのアングリマーラである」と、変わり果てたアングリマーラを指し示した。王は「本当にそなたがあのアングリマーラか」と絶句され、誰もが恐れ捕らえることの出来なかった凶悪残忍な者を武器無くして調伏したお釈迦様を讃歎したと言う。

しかしながら、その後彼が托鉢へ街に行けば、人々から石を投げられ、衣を破かれ、棒で叩かれた。血を流しつつもそれに堪えて戻ったアングリマーラにお釈迦様は、「堪え忍ぶがよい、それはそなたが来世にわたって受けるべき報いを今受けているのだから、忍び受けるがよい」と諭され、アングリマーラも、それに良く堪え修行に励んだと言われている。

私たちは誰もが過ちを犯す人間に過ぎない。周りの人たち、様々な恵まれた環境のお蔭で罪を犯すことなく満足に生かさせてもらっていると考えた方が正しいのではないか。罪を犯したことを悔い改め改心した者には、その罪を償った後には私たちと同じ目で見守ってあげることが必要なのではないかと思う。過ちを犯した者もその非を認め改める素直な心が必要なのであろう。

私たちは、マスコミや新聞、他の人たちの考えにとらわれることなく、冷静に物事の因果因縁を捉え、より成熟した物の見方を身につけることが肝要なのだと思う。単純に何事も善玉悪玉を決めつけてしまうことは誠に危険なことなのではないかと思う。

(これは本日の護摩供後の法話に加筆校正したものです。参考文献阿含経典による仏教の根本聖典)
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四国遍路行記5 

2005年06月16日 15時29分27秒 | 四国歩き遍路行記
十楽寺を出て、アスファルトの道を一時間ほど歩くと8番熊谷寺。遠くからも目に付く四国で最も大きなものの一つと言われる仁王門をくぐった。が、そこからが長かった。駐車場を抜け、石段の道を上がる。なかなか本堂が見えない。もうそこだと思って歩く道ほど長く感じるものはない。まだまだ先と思って歩いていると、気がつくと着いている。そんなものだろう。

本堂で十一面観音さんを拝み、また石段を上がって大師を拝む。来た道を戻って、9番法輪寺に向かう。田んぼの真ん中にたたずみ、遠くからでも白壁で囲まれた境内が一望できる平地のこぢんまりした札所だ。本尊さんは寝釈迦。この頃からお釈迦様第一主義だった私は、お釈迦様のお前立ちならぬ寝姿を間近に見つつ、理趣経を一巻お唱えした。

お釈迦様が法輪を転じたお陰で私たちは仏教にまみえることが出来る。梵天に促され法を説かれなければ永遠にお釈迦様の悟りは封印されていたところだった。法を説き終わった安らかなお顔が目に浮かんできた。

山門前の茶店でうどんを食べる。このとき茶店のおばさんと何やら話をしたらしい。この翌年来たとき、そのことを憶えていてくれた。こちらの方が驚くほど良く憶えておられたのには感心した。

歩き出そうとしたら、自家用車で来ていた二人連れの中年男性遍路さんから話しかけられ、同乗した。愛媛の明石寺近くでスーパーを経営している方だった。東京から来たと言うと、自分は明治大学の出身で学生の頃東京に下宿していたなどという話で盛り上がってしまった。是非明石寺まで来たら寄って下さい、とのことだった。

そんな話をしている間に10番切幡寺に着いた。車で上がれるギリギリまで上がったが、大きな車だったので、下からの上がる道の中間くらいで車を降りた。それでもそこからの石段の上がりはきつかった。息を切らしながらの読経。

歩き遍路をする人の中には車のお接待を断る人もあると聞いた。確かに歩いて参ることを決めたのだから断るのも当然かもしれない。しかしお接待をしたいと思う人の中には、自分には出来ない歩いて遍路している人にお接待することで自分もその功徳にあずかりたい、そう思っておられる人もある。ただ単純に疲れているようだから近くまで乗せてあげようかと思って声を掛けてくれる人もあろう。

私の場合は、そうしてご縁のあった人の好意はすべて受けることにした。そして車内でなるべく様々な話をし、住所をうかがい遍路を終えた後、感謝を述べる葉書を送らせてもらった。そうして未だに手紙のやり取りをしている方が何人かいる。本当に四国は、特に歩いて参ると、このご縁のありがたさを感じる。

切幡寺から11番藤井寺へは10キロ以上の道のりがある。途中吉野川を渡る。手摺りのない橋を渡って、山沿いまで歩くと藤井寺だった。新しく新築された本堂の小窓から覗くとお薬師さまがお姿を見せられていた。ふっくらしたきれいなお顔。ゆっくりお経を唱えていたら、5時を過ぎていたので、売店でおにぎりを買い、そのままベンチに寝袋を広げた。明日は最難所焼山寺道だ。
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読経の功徳

2005年06月13日 20時45分06秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教の法要には読経が付きものだ。法事にしても葬儀にしても読経がその中心にある。読経しない法会もないではないが、それでも別の何か偈文であるとか、伽陀(かだ)と言われるサンスクリットの偈を節を付けて唱えるものがあったり。いずれにしても何か唱える。ただ静かに手を合わせ祈る。坐禅する。それだけでも良さそうだが、それでもその前後に必ずお唱えするものがある。

読経とはいかなるものなのか。読経の始まりはどのようなものであったのか。私たちは今中国でトウ秦の時代、唐の時代に訳された漢訳のお経を読誦する。その訳された経典はもとはインドのサンスクリット語で記された経典だった。その殆ど全てが大乗仏典だから釈迦入滅500年から1000年が経過して創作され文字に書き残されたものだ。

しかし南方上座部の経典は、お釈迦様が亡くなってすぐの安居会(あんごえ)にて釈迦直説を伝えるべく編集会議・仏典結集(けつじゅう)が行われ、編纂された。代表して侍者アーナンダが唱えそれを皆で合誦(合唱)した。この頃は文字に書き残されることなく、全てを各パート毎に分担して暗唱され、師から弟子にと伝えられてきた。これらの経典が始めて文字に記されたのは、西暦紀元前後のこと。この間4、500年は口誦伝承された。

つまり経典を読誦して暗唱し伝承された。経典は読誦されることで後世に伝えられたのだった。この世の中を普く幸せに導くお釈迦様の教えを後の世に伝える。そのとても大切な目的のために膨大な量の経典が読誦され、ひと言も漏れることなく、大切に暗記されていった。

だからこそ読経にはとてつもない功徳があるのだと思う。大切な釈迦の直説を後世に伝え、その教えを聞く誰もがその功徳に預かれる。今日ではそれは紙に印刷された経典を読むことになっているにしてもその精神は同じことなのだと思う。

ところで、南方の上座仏教でお唱えするお経の中に宝経(ラトナ・スッタ)というのがある。このお経の解説を読んでいたら、この経は、私たちの周りにいる諸霊、神々に対してお釈迦様が説法する内容になっている。霊たちに祝福を与え、人々に慈しみをたれ人々を守れと命じ、そして仏教の三宝、仏法僧を敬い、中でも優れた修行を為す僧侶たちについて述べ、そうした仏法僧を礼拝し、幸福あれという内容になっている。

経典を読誦することは、この宝経にお釈迦様自ら言われているように、私たちの目に見えない、諸霊神々へ直接法を聞聴させ供養する意味合いもあるのかもしれない。また、昔三島の臨済宗専門道場龍澤寺に坐禅に行った折、朝の勤行時に唱えた観音経、般若心経は、正に腹の底から銅鑼の鳴るような大声を出す読経であり、まさしく心身共に浄化され癒しと法悦を味わうことが出来た。

仏前勤行というと、私にとっては高野山に登る前、車の中で仏前勤行次第と理趣経のテープを聴き唱えながら東京の街を走っていたことが思い出される。知らぬ間に高揚して陶酔する自分がそこにあった。仏前勤行、お経は、その家のおばあさんないしはおじいさんの仕事と思わず、その功徳を、また科学的にも立証された癒しの効果も併せ味わっていただけらありがたいと思う。
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戒名について

2005年06月09日 18時08分10秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教では、人が亡くなると必ず戒名を付け葬儀をするのが慣例化している。そう誰もが受けとめている。以前、もうかれこれ8年ばかり前のことになるが、毎日新聞で、葬祭についてのコラムがあり、そこに「仏教で葬式をするのに戒名がいらないなんてあり得ない」そう書かれていた。

早速私は投書した。日本以外の仏教国で戒名を付けて死者を葬る習慣のある国があるのかと問うた。毎日新聞からは何の返答もなかった。私たちが当たり前だと思っている常識はやはり世界の非常識なのだ。しかしだからといって、私は戒名が意味のないものだと言いたいわけではない。

その意味するところを伝えずに習慣化し、それが結構な金銭的な負担にもなっている現実こそが問題だと思うのだ。前回引導を渡すということにも言及した。引導とは死者を仏との縁を結ぶために導くこと。この世への執着を断たせ、仏教に入門し戒を授かり、名を改めて、仏の教えを学ぶべく様々な作法を学んでいただくのが葬儀で行われる引導作法と言われるものだ。

間違いなく、来世でも仏教の教えにまみえ、心を磨いていただけるように。そうして心の修行を重ねて、生まれ変わり生まれ変わりして、ついには悟りを得て成仏して下さるようにと願うものだと私は了解している。だからこそ戒名が必要になってくる。俗世の名ではなく、仏教に入門していただくための名前なのだということになる。

しかし、他の仏教国では、特別の名前を付けることなく、三宝への帰依と在家の戒律だけを改めて授かり、それから簡単なお経を唱えてもらうだけでおしまいになる。なぜ日本だけ、戒名を付け出家の儀礼を取り入れたのか、それが誰にもはっきりしたことが分からないようだ。それを疑問にも思っていないのであろう。

が、おそらく私が思うには、平安時代から天皇が皇位を譲ると出家し、お坊さんとして葬られたことが関係していると思う。それが時代と共に一般化したのではないか。その当時葬儀を仏教で行う習慣自体がなかったであろう。だから、当時お寺にとって大檀那であった皇室での葬儀が我が国で始めて行われ、その時葬儀次第が出来た。お葬式の作法次第として始めて創作されたのではないか。その為、その次第の中心に出家得度の儀礼を挿入した。

なぜなら坊さんになっていなかった皇族たちにとって、天皇にならい死後であっても坊さんになる儀礼をして葬って欲しかったのではないかと思われるからだ。そうした葬儀の次第が、おそらく公家や貴族たちにも用いられるようになっていった。そして鎌倉時代以降官僧から遁世した坊さんたちによって、一般の人々に対して仏式の葬儀をする際に参考にされたのが、この皇室で用いられた葬儀次第だったのではないか。そうしてどの宗派でも葬儀では出家の儀礼を執り行うことが一般化した。

だから戒名が必要になり、院号が付いている。院政というのがあるように皇位を退いた後も○○院様として政治に権力を持たれた方もあったが、その○○院というのが今日の院号の出所ではないかと思われる。一般には、お寺に対する貢献の度合いによって最初は○○信士、○○□□信女といった4文字、6文字だったものが、次第に長くなっていったのであろう。

そして、さらには庄屋など土地の有力者には「○○院□□○○居士」というような長い戒名が授けられるようになっていった。諱(いみな)と字(あざな)というのがあるように、現世での通称が道号と言われる院号の後の二文字、字であり、その次の二文字居士や大姉の前に位置する二文字がいわゆる戒名であり、諱に当たる。

そして今日では、このような9文字もの立派な戒名が普通に授けられるようになり一般化しているが、その背景には、先の戦争での英霊に対する配慮がある。敬意の念から、とにかくお国のために命を捧げられた方には、特にそれに相応しい戒名を差し上げようということから年若く逝った英霊に対して、この9文字戒名が授けられた。

そして、そうした英霊たちの親が亡くなるときには、殉死したとはいえその子供が9文字の立派な戒名で葬られているのに、親が7文字、6文字というのでは格好が付かないということになって、お寺へ相応の戒名料を差し出すことによって、この9文字の院号戒名が授けられるようになったのではないかと思う。

戒名が悪いのでもなく、葬式が悪いわけでもない。ただそのことを良く了解しないままに高い戒名をもらって、分からない葬式をしなくてはいけないと思わせてしまうことが問題なのではないかと思う。施主がよくよく納得するように、きちんとことの成り立ちを説明する責任がお寺側にはあるのではないかと思う。
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臨終に思う

2005年06月07日 15時01分42秒 | 仏教に関する様々なお話
先週末、東京で知り合いの葬儀を執り行なった。このことは前回述べたとおりではあるが、その時私の日頃の思いを十分に述べられなかったという後悔が残った。儀式そのものは厳粛に、心を込めて為し終えたのだが、ご家族にそのことの意味するところを十分に申し述べる余裕もないままに失礼してきてしまったように感じている。

備後の地元では、未だに七日毎の供養が行われることもあり、その間に様々なことをご遺族にお伝えする機会にもなっているが、東京まで駆けつけてあげられないもどかしさもある。そこで、この場を借りて私の物足りない思いを記してみたいと思う。

まずは、葬儀などの場で、誰もが成仏されますようにと念ずることの意味するものを私なりに解釈した一文を読んでいただき、人の死と葬儀について考えていただければありがたい。

 『成仏を念ずるこころ』

この世に誕生したとき、誰しも、皆違う人生を、
それぞれに与えられた環境の中で歩み始めます。
そして、両親をはじめたくさんの人々、たくさんの
生き物たちの導き助けのお陰で成長し、
世の中の役に立つことに喜びを感じ、
自らの役目をはたしてまいります。

生まれたときから一刻一刻そうして時を重ね、
心を養う営みを続けつつも、
身体は病み老いていきます。
そして、命ある者の定めとして、いずれは誰もが
その終焉を迎えます。

仏教では、人は身体と心が一つになってはじめて、
ひとつの命を生きると考えます。
身体の寿命は一人ひとり違いがありますが、
誰もが最期の時を迎えます。
しかし身体が寿命を終えても、心はしばらくの間
この世にとどまります。

日本では四十九日の間、死して後なお心は、
私たちと同じこの三次元の空間にあって、
遺族親族から回向された功徳をいただかれ、
また自身の生前の善行の功徳や様々な行い、
つまり業にしたがって、
自分に相応しい来世に生まれ変わると考えられています。

通夜、葬儀、七日参りでは、
遺族、親族、近隣の縁故者は、故人に代わり功徳を積み、その功徳を故人に手向ける、
つまり回向いたします。
その功徳によって、よりよいところへ生まれ変わりください、
そしてまた仏教にまみえ、
心の修行を重ね、
ついにはさとりの世界に
到達されますようにとの思いを込めて、
「どうぞ成仏して下さい」と
私たちは念じるのです。

葬儀において、檀那寺の住職は
引導作法を修法いたします。
これは、故人に改めて仏道に入門していただく為に
戒律を授け、名前を改め、
来世での修行の糧として様々な作法を
お授けするものです。
つまり仏教徒として仏の教えを来世でも
身につけるべく葬儀が執り行われるのです。

仏教では、死後六道に輪廻すると申します。
六道とはつまり
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界のことで、
そのいずれかの世界に死後生まれ変わると考えます。
そうして生まれ変わり生まれ変わり、
何度も生を重ねて心の修行をしていくと
教えられています。

同じ人界でも様々な境遇があり、
自ら相応しいところを選択し生まれていく。
今世を生きる私たちも
そうして自ら選択した人生を歩んでいます。
そして、どのような所に生まれ変わるかは
死ぬ瞬間の心が大切になるのです。

私たちは、自らの行いを肯定するような心を
形づくっていきます。
そのため善い行いをする人は心が浄らかになり、
悪い行いをする人は心が汚れていきます。
ですから常に善い行いを心がけ、
小さな功徳でも積む習慣が必要になります。

地獄・餓鬼・畜生・修羅界の住人のような、
他を害したり、むさぼり怠けたり、
争いばかりする心を持たぬよう
心しなければなりません。
私たち仏教徒にとってなすべき善い行いは、
仏前勤行次第に十善戒として示されています。

身近な人の死を前に、故人の来世での幸せを
願うとともに、自らの人生を振り返り、
より善い来世が得られるために
今世において、いかに生きるべきかを
考える機会にしていただければありがたいと存じます。
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私のフリーランサー時代

2005年06月01日 17時15分52秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
まだ私がフリーランサーだった頃の話をしてみたい。実際は、そんなに格好の良いものではない。下積み時代と言った方が良いかもしれない。15年ばかり前のこと、高野山から降りて世話になった放生寺を辞してから、一人で団地に住まい、四国を歩きに行ったり、インドへ行ったり。また東京にいるときには銀座の数寄屋橋と浅草の浅草寺仲店裏で托鉢をして暮らしていた。

その前くらいからお世話になっていた人にN氏が居る。何の後ろ盾もない私を誘ってくれて、時々食事をご馳走になり、色々と話す仲になった。私より7つばかり先輩だ。会うとよく「この年になって友達が出来るというのは珍しいんだよ」と言っていた。私も今思うとホントにその通りだなと実感する。N氏は学生時代、好き勝手に音楽に打ち込み、プロを目指していた。今一歩の所で、慎重になって、事業を興された。

その事業を今でも続けているが、バブル景気の時期どうだったのかは知らないが、はじけても未だに時代の波に乗って景気がよく、一人余裕を持って人生について考える、ゆとりのある人だ。私がインドを訪ねている時期にカルカッタにやってきて、一緒にカルカッタ随一のオベロイグランドホテルに一週間泊まった。

ヨーロッパから来ているとおぼしき初老のご夫婦たちの隣で、二人してプールで泳ぎ、プールサイドでラム酒を片手に語り合った。何を話したのか、話しながら二人とも涙を流していたことだけは憶えている。日本とインドの違いだったか、生き方の話だったか。とにかく一週間話詰めだった。二人でマザーテレサの教会にも寄った。がそれよりも、彼はその地区にある売春宿の女性の人生に涙していた。

国内でも、誘っくれてよくご家族と共にボートを湖畔に浮かべ遊んだこともあった。そうして私がインドにまとまった期間滞在することになった頃、ご家族に不幸があった。そんな中にもかかわらず、私は2ヶ月後にはインドへ飛び立たねばならなかった。インド僧になり、サールナートに滞在した。その数ヶ月後、N氏は仲間たちと私の母を伴ってインドにやってきてくれた。

カルカッタで出迎え、ベンガル仏教会を訪問し、寝台列車でサールナートへ。私の滞在していた法輪精舎に来て、無料中学校のために寄付を募るビデオを制作してくれた。瞬く間の一週間だったが、同じ事の繰り返しで、またヒンディ語に慣れず行き詰まっていた当時の私の心がその一週間でとても軽くなった。

それから一年後、私が日本に戻っていた時期に再婚され、私がインドの袈裟姿のままで、インドのお経をあげて儀式を執り行わせてもらった。結婚式はなかなかする機会に巡り会えるものではない。私にとっても、それはとても貴重な体験となった。

その頃からせっかく日本にいる間何か書いたらと勧めてくれて、ダンマサーラという名のB5版16ページの布教誌を発刊した。私はその内の半分程度の原稿を書くだけで、その他レイアウト、イラスト、編集、他の写真家さん作家さんとのやり取りなど、すべてN氏の好意で作って下さった。

当時は毎月200部印刷し、ページを折ったり閉じたりを私とN氏が行った。全て制作すると一緒に郵便局へ発送に行った。お互いの知り合いが殆どだった。一緒に制作に当たっていた作家さんなどと共に慰労会を催してくれたこともあった。

その後私は、インドの僧侶を辞め、日本の僧侶に復帰して、深川の小庵に住まいした。それでも隔月でダンマサーラ誌を発行し、今住まいする國分寺にやってきてからも続けていた。しかし、とうとう私自身の立場がダンマサーラというタイトルに合わなくなっていたこととインドへの憧憬だけでは原稿は書けないと思い、35号をもって廃刊となった。この間七年が経過していた。

正に、このダンマサーラ誌のお陰で、今の私があるのだと思っている。書くために勉強し考える習慣がついた。その後、膨大な量の原稿をホームぺージ「インド仏教通信・ナマステ・ブッダ」と題して整理し、6年前にインターネット上に公開した。ものを書くという習慣自体は私の中でもっと以前に芽生えたものではあるが、今のようなスタイルで書き続けられるのは正にダンマサーラ誌あってのことであり、そう思うとすべてN氏のお陰だとも言える。

実は、そのN氏の父上が亡くなられた。明日葬儀の導師として招かれ、午後の便で、東京に飛ぶ。父上も別の事業を興し、自社ビルを東京に建てられた立派な方だが、とても温厚で実直な人柄だった。心を込めて読経したいと思い、N氏との思い出をここに綴らせていただいた。
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