住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

大乗仏教とは何か

2015年09月18日 15時09分23秒 | 仏教に関する様々なお話
この度、大法輪誌11月号の特集記事を書くにあたり改めて大乗仏教、特に初めての大乗経典である般若経について学ぶ機会が得られた。参考にしたのは、中公新書の「般若経」と、講談社現代新書の「さとりと廻向」、共に梶山雄一先生の著作である。大乗仏教が現れるまでの仏教は自利の教えであって利他は大乗仏教の旗印のように言われるが、お釈迦様の時代から利他という言葉ではなく慈悲という言葉で、他の者を慈しみ、苦しむ者を助け、よくあるときにはともに喜び、誰をも平等に見る「慈悲喜捨」の教えは説かれていた。

自分があるのは多くの他者のお蔭であるのだから、当然のことながら他の者たちがよくあるように生きることが求められていたのである。そうして徳を積み、何度生まれ変わっても自ら心浄めて真理を悟ることによってしか、この業報輪廻の世界から解脱することは出来ないと考えられた。だから、お釈迦様も含めて仏を崇拝し信仰するという発想さえなく、自らの行いによって徳の高い存在に近づく道を教えられた。しかし大乗仏教は信仰すれば業報輪廻から救われると説いた。

この大乗仏教としての一番の転換点とも言える、仏菩薩への信仰によって救われるとはどういうことなのか。すべてのものを平等に見る、分け隔てのないものとして見るとはいかなることなのか。上にあげた書物はこれまでにも何度も目を通し読み込んでいたつもりだったが、その肝の部分に気づかずにいた。が、この度、改めて読み返してみて、やっとこの大乗仏教の言いたいところが浮かび上がって感じられた。

部派仏教の時代となり台頭した説一切有部の教学は、三世実有、有の哲学と言われる。それに対抗して、空という鮮烈なる語を用いて、大乗を標榜する新しい宗教運動が起こった。すべてのものは空である。様々な原因と縁によって仮に存在するものであり実体なきものであるとされた。そこで、善も悪も、自も他も、迷いも悟りも、空なるものであり、実体がない、だから不二なのだという。二つであって二つでない。分け隔てできるものではないので不二だという。Aなるものに実体なく、Bなるものにも実体がないのだから、AとBはともに実体の空なるものとして区別されず、分かつことの出来ないものであり、本質的には不二であると考える。

そこで廻向という考え方が可能になるのだという。善行の果報であるこの世での幸福を悟りや極楽往生など超世間的なものに内容的に変換したり、あるいは自己の功徳を方向を変えて他者にめぐらすことを廻向と言うが、これは空の論理があって初めて成立するとする。今日、日本仏教でも廻向という言葉は日常にも使われ一般化しているが、それは読経やお供えの功徳を先祖や精霊の菩提に振り向けることなどをさす。この場合、知らず知らずに方向の転換と内容の変換という廻向が同時になされているのである。

そして、また一つここで随喜という言葉が登場するが、随喜とは、お釈迦様やその弟子たち、およびあらゆる人々の喜びや幸せを自分のことのように喜ぶこと(慈悲喜捨の喜に同じ)であり、信仰するとは対象とする仏菩薩に随喜することなのだととらえるのである。仏菩薩の優れた徳や善根に対して随喜をして、それを喜び、まるで自分のこととして受け入れ、その功徳を自分のものとすることなのだという。そしてその受け取った優れた功徳を自らの悟り、菩提のために廻向する、振り向けることによって、業報輪廻からの解放が得られるとするのである。

しかし、それを可能とするためには、心を般若波羅蜜にとどめ、すべてのものを空と見て、不二ととらえられねばならない。般若波羅蜜とは、六波羅蜜の一つでもあり、智慧の完成と訳す。なにものにもとらわれず、心とどめないこと。そのために、少し後の時代のものかもしれないが空性の瞑想がなされた。自分の体、心を分解し自分と言えるものがあるのかと瞑想し探求する。これが自分と言えるような不変の実体ある自分などどこにも無いことを悟ることを内容としているが、一般的な行としては六波羅蜜があげられよう。

六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、これらの波羅蜜、つまり完成と名付けられている。智慧波羅蜜を除く、世間における五つの俗行を波羅蜜に高めるためにはいかになしたらよいのか。六波羅蜜は単に、他者に施しをしたり、在家の戒である五戒を守ればよいというのではなく、これら五つの行いを為したなら、それらの徳をすべての者たちの菩提のために廻向する、無上菩提のために廻向することによって、崇高なる出世間の無上菩提の完成になる、つまり六行が六波羅蜜に転換されるというのである。それこそが空の働きであり、仏陀の働きであるから、菩薩の行となり、業報輪廻から解放されると考えたのであった。

さらに、空の世界に入るためには言葉の概念世界からの解放が必要であるとしているが、そのために、たとえば般若心経では最後の一行である真言、マントラこそが重要視され、真言を唱えることによって言葉の概念世界からの解放を目的とした。そして、心経はその前段階で五蘊をはじめとするお釈迦様の教説を否定するが、それも、とらわれない心にとどまり、あらゆるものに心とどめないこと、ものを認識して執着しないこと、すなわち般若波羅蜜にとどまることを述べたものにすぎず、それこそが彼らの心の支えであり、そうあれば業報輪廻からの超克が得られると考えたのである。

こうした論理によって人々を救いのない業報の束縛から解放し、恩寵と救済の宗教としての大乗仏教を形成したのである。



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