毎朝仏壇に仏飯お茶湯を差し上げ、点香し経を唱える。またお寺に参り礼拝して読経する。お墓に参っては掃除して花を換え線香を灯し合掌する。月例の護摩供に参詣して、御祈願の護摩木に願旨を書き炊きあげてもらう。こうした仏事は、何をしていることになるのであろうか。なにげにしているこうしたことは何を意味しているのか。
生まれたときから家には仏壇があり、おじいさんおばあさんに連れられてお墓に参っていれば、それがどういう行為なのか、何を意味することかと改めて考えることもなくしていることであろう。ただ大事なことだと。だから仏壇などはその家の一番上に大事に据えられてもいるのではあるが。大切なものだから朝一番にお供えをし、いつもキレイにしておかねばならないと教えられるだけかもしれない。
仏壇に手を合わせ、お墓にお参りするなどのいわゆる供養というものは、誰のためにしていることなのか。こんなことを考えたことはあるだろうか。誰もがご先祖、亡くなった人のためにするものだと思っているのかもしれない。しかし、それが亡くなった人たちのためになるためには、その行為が意味のあるものでなくてはならないだろう。線香ロウソクを灯す行為がたとえば仏壇の本尊である仏様に供養を捧げる善行となり、その功徳はその善行を施した本人が手にすることになる。その行為をなす本人にとって意味のあるものであり、功徳あるものだからこそ、亡くなった人にその功徳を捧げることも出来るのではないか。
また、お寺に参り何かお願いをしたり、護摩供に参り祈願をする。その行為も、賽銭を投じたり、ロウソク線香を灯し、読経したりして功徳を施す。賽銭は自分の大切な金銭を他に施し役に立つ善行であり、線香ロウソクは仏への施し、読経は自らの心を調えその教えを改めて仏の前で唱え学ぶ一環として行われるものであろう。つまり、そうしてお参りする本人にとって意味のある功徳あることだからこそ、その結果において良い縁が生じ回り回ってその祈願がかなうであろうと思うことが出来るのであろう。
そして大切なことは、仏教で言われるところのこれらの善きこと、功徳とは何かと言えば、最終的にはそれらがすべて仏への道を前進するということに繋がる行為なのである。本人が意識するしないにかかわらず、私たちのしている善きことはすべて悟りへの行為である。人に手を貸す、助けてあげる、座席を譲る、ものを差し上げる、お供えをする、線香や燈明を手向ける、何気なくするそうした善きことは皆その人の徳となり善き来世に繋がっていく。
善き来世で教えにまみえ精進を重ねる。教えを体得しその教えに生きる。その教えを実践し心を清らかにしていく。つまりすべての善行がその本人が悟りというお釈迦様の到達された境地にほんのわずかでも近づいていくことに繋がっていくことであり、だからこそ功徳ある行為ということになる。徳を積む、たくさんの善行をして功徳を積む、何度も生まれ変わりしてさらに精進を重ねてお釈迦様のような悟りへ近づいく。そういう功徳を行為者である本人が得るからこそ、それを亡くなった親族に手向けたり、また、様々な御祈願に通ずるのだと考えることができる。
私たちが最高の存在として大切にする仏様、ブッダ、お釈迦様の所へ私たちもわずかばかりではあるかもしれないが、少しずつ前進していく。そう考え生きるのが仏教徒の生き方であろう。決して神のように私たちと超絶した存在としてただ信仰するお願いする対象としては仏を捉えない。逆に言えば神よりも仏様、ブッダの方が尊い確かな存在と仏教徒は捉える。そこへ私たちも到達すべく頑張る。
何回生まれ変わるのかは分からない。しかしそうして何度も生まれ変わりして少しずつでも近づいていこうとする。ただこうして今生まれがたき人間に生まれたからには学び行ずる好機なのだとも思わねばならない。仏教徒は、とにかく頑張って教えを学びつつ、心清める実践をしつつ、精進を重ねていく。私たちは何のために生きているのか、目標を定めそこに到達するための手立て方法がきちんと用意されてある。それが本来理性ある仏教徒としての誇りでもある。
私たちは何のために生まれてきたのかと考えることもないかもしれない。私たちは経済的に繁栄することのために生きているのではない。死ぬるときに持って行けるものは心だけである。私たちは最期のときに、どれだけ善い心を用意できるであろうか。そんなことも含め、私たちは大切なこと生きる上で大事なことを何一つ伝えられてきていない。とかく仏事は、そうした大切なことを考え生きることに繋がり、さらにそれを次代へ伝えていく大切さも教えてくれている。その意味をよくよくわきまえ、自覚して行うことが必要ではないかと思う。(月例護摩供後の法話より)
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