住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「人生は苦なり」を改めて今の時代に

2020年09月20日 18時47分54秒 | 仏教に関する様々なお話
十四年も前に書いた文章を今改めて読むと、いまの時代を痛切に批判したものと読めてくる。
()内に少々加筆した。やや解釈に無理なところもあるが、それにより心中ご理解いただけたらありがたい。



人生は苦なり
2006年12月01日 09時39分56秒 | 仏教に関する様々なお話

みんな誰でもが幸せになりたいと思う。不幸せになりたい人などいないであろう。山中鹿之助であっただろうか、「我に艱難辛苦を与えたまえ」とのたもうたのは。しかし、それは戦乱の世の中で、どのように生きたとしても修羅場であることを観念してのことであろう。

たとえ辱めを受けたとしても今の地位、収入、立場を失いたくない。そんな価値観が根付いてしまってはいまいか。それは現代のこの国の姿勢そのものであろう。だから現代に生きる私たちは、だれもがそんな生き方を選択してしまいがちではないだろうか。(しかしそうした生き方が世の中を変えてしまい、子供たちの時代に悪影響を及ぼすものとなってはいまいか。)

しかしどんなに幸せを求め、うまく立ち回ったとしても、人から下手な生き方をしていると見られるような生き方をしていたとしても、いずれにしても、「人生は苦なり」というお釈迦様が言われたこの世の真理からは逃げることはできない。

生老病死の苦からは、いかにしても逃れようがない。たとえ不老長寿の薬が見つかったとしても、いずれはみな死ぬであろう。時間と死は誰にも平等にやってくる。しかしだからといって、お釈迦さまの教えは、もう何をしてもお手上げだということではない。諦観せよ、諦めよということでもない。

そうではなくて、その真実を知った上でいかに生きるべきかと教えてくれている。人生は苦なり、ではあるが、それを深くわきまえた上で、明るく真に幸福に生きるためにはどうすべきか。その為には智慧がいるであろう、その智慧を身につけるためにはどうすべきか。それを教えるのが仏教でなければいけない。

苦しみに出会うと誰もが嫌だと思う。人にのけ者にされたり、馬鹿にされたりしたら頭に来る。(非科学的なことをいろいろと強制され、)何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと腹が立つ。その場から居なくなりたいとも思うかもしれない。しかし、非情にも苦をもたらしたのは自分自身である。と、お釈迦様は言われる。

なぜであろうか。自分も含め人とは、そもそも未熟な存在に過ぎない。何も分かっていない。物事の道理因縁を知らない。事の起こり、物事の成り立ちを知らない。そんな者たちの言うことを真に受けて、怒り腹を立てる。それでも良く思われたい、良くありたいと思う私たちはやはり無知なるものそのものだ、だからあなた自身が問題なのだということなのであろう。

たとえ自分の親であろうと学校の先生であろうと。ましてや同級生や上級生はもちろん、学者先生と言われる知識人たちも、企業経営者にしても、(医療関係者やその道の専門家、権威といわれる人たちも、またメディアを作り操る人たちも)、また議員バッチをつけた偉い人たちにしても、(あらゆる国際機関で辣腕を振るう方々も)。みなお釈迦様の目からは欲の世界に生きる無知なるものに過ぎない。

そうした欲に生きる人たちの社会に私たちは生きているということを、まずは知るべきなのであろう。誰もが物事の本質を知らないのだと。だから、もともと様々なトラブル、人間関係からの問題、(社会的圧力による息苦しさ、不自由)に遭遇することは仕方ないのであると。それはひとえに自分自身の個人的な原因によるものではないということを知るべきなのであろう。

だから、そうした様々な問題に遭遇したとき、それに自分が心を乱され、右往左往し、悩み苦しむことこそがナンセンスなことなのだと気づかねばならない。だから、世間で、苦に感じるような場面、トラブルに出会ったとしても、それをきらう気持ちを持つことなく、冷静にその状況のみを把握する。そうですかと。それではどうしましょうかねと、どうあるべきでしょうかと(社会の風潮に流されることなく自らの頭で現実を知り、)対策を考える。

感情的になることなく、あくまでも冷静に対処する。そうすれば相手も退散するしかない。自分に問題があるなら改善しましょうと。そのトラブルと自分の存在とは別のものだということを忘れずに。物事はなるようにしかならない。すべては移り変わる、そのことを知るならば、良くなっても行くのだと気づくことも必要であろう。

また、しかし、もしも逆に何の問題もない人間関係がずっと続き、トラブルも一切無い社会であったとしたらどうであろうか。幸せなことだらけで、ちっとも大変なこと、嫌に思うようなことなく、毎日が良いことづくめであればどうであろうか。

私たちはその状態を幸せだと感じることもなくなるのではないか。丁度私たち日本人が今幸せとは何かを探し求め、戦争のない今のありがたさがわからなくなっているようなものである。決して戦争を起こしてはならないということは勿論のことではあるが。

嫌なこと、様々な問題、苦しみがあるからこそ、様々な学びもあり、何も問題やトラブルがない幸せ、幸せのありがたさ、他者との関係の大切さを学ぶこともできるのであろう。嫌なこと辛いことに出会うことで、自分の心の癖、弱点、性質、(社会のあり様、世界の成り立ち)を知ることもできる。

そして、苦を苦とも思うことなく、なにごとも自分にとって好きでも嫌いでも、善くても悪くても、(虚偽も真実も)、分け隔てなく一つの現象として捉えられるようになれば、何も恐れることもない。落ち着いた何ものにも依存しない幸福感が得られるであろう。そのためには、仏教の法である縁起ということを私たちは知らねばならない。

(何事にも原因があり他に依存している。今何を考え成すかによって広く未来は変化していく。すべてのことはあるべくしてある。多くの人たちが周りに流されることなく、ことの実相をありのままに知り、その上でいかにあるべきかをわきまえることが求められているのではないか、)それを頭で知るだけでなく、自らの体験の中で知る努力が必要になってくるのであろう。(そうして、しかるべき時を経て、あるべき世界に立ち戻らねばいけないのではないかと考える。)


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断捨離ということ

2020年09月06日 15時13分21秒 | 仏教に関する様々なお話
断捨離ということ



今台風10号が奄美地方に迫っている。これまでにないほどの大規模な暴風大雨による被害が予想されている。友人家族は大丈夫だろうか。何とか無事にやり過ごしてくれることを願うのみである。

ところで、この夏はまさに記録破りの猛暑。観測史上最高に暑い8月だったとか。お盆を過ぎても、つい先日まで最高気温が35度36度という日が連日続いた。その暑さに毎日何も出来ない無為な日が続いたある日、何年も片付けられずたまりに貯まった空き箱やら書類の入った段ボールの積み重なった事務所隣のタンス部屋の片付けを思い立った。空き箱を外に出し、捨てられるものは仕訳して袋に入れ、焼けるものは外で焼却し、他に移動できるものは運び出した。掃除機を掛け、畳を拭いて、丸一日かかって念願の大掃除が出来た。

その余勢を駆って、事務所の書類や本類、封筒の類いも雑然と入れてあったものを整理し不要なものを廃棄した。まだすべき所もあるが、身の回りのがきれいに整理整頓されているということはこれほどまでに清々しく軽快に感じるものかと思える。よく断捨離というが、まさにその恩恵にあずかったように思えた。

そこで断捨離という言葉について調べをしてみると、近年山下さんという主婦が提唱して話題になったものではあるけれども、この言葉自体は戦後ヨガの大家として名高い、沖正弘先生がヨガの行の一つとして教えられたものだという。断行、捨行、離行といい、断行とは入ってくるものを断つこと、捨行はすでにあるものを捨てること、離行とは執着から離れることだという。

入るものを断つとはどんなことだろう。例えば買ってきた物、そのすべてに包装なり、紙袋なり、レジ袋ももれなく付いてくる。宅配物には当然梱包材が含まれ、ついついそれらも使うこともあるかと捨てられずに貯まっていく。レジ袋が有料になり、みんなエコバッグなりマイバッグをもって買い物に出る習慣が出来たことは良いことだろう。

しかし入るものは物ばかりではなく、目や耳にするもの、それこそ何気なく付けているテレビやラジオから入る音による情報や目から入る情報もすべてみんな無遠慮に私たちの中に入りこむ。本来はそれらこそ不要なものは断ち切って頭の片隅にでも入らないようにすることが必要なのかも知れない。それらが特別役に立つ場合もあるかも知れないが、ほとんどが不必要に欲をかき立てたり、不安を助長することも多いのではないか。

たとえそれらを目や耳で感覚として受け取ったとしても、それらが、記憶にとどまり、欲や怒り、不安や恐怖に結びつかないように、心とらわれないように気をつける必要がある。今年になって蔓延しているとされる感染症に関する報道もそうだろう。毎日毎日感染者数が上積みされていく報道に恐れを抱き、外出も控え、どこに行くにもマスクが離せなくなってはいまいか。平常な日常を取り戻すためには、まずはやはり入るものを断つことが必要だろう。

では、すでにあるものを捨てるとはどんなことだろう。物を捨てることは見やすい。不要な物を廃棄して、必要な物、思い出のこる品は整理してこぎれいに配置したら良い。しかし頭の中にすでにあるものを捨てるのは容易なことではない。それこそなかったことにしたくてもなくなることはなく、忘れたいのに忘れるというのも、そう簡単なものではない。いつまでも思い出されて不安な気持ちになったり、怖れを抱いたり、なぜあのときそうなってしまったのかと後悔をしてみたり、怒りが湧いてきたりというようなことは誰にでもあるだろう。

そうした記憶とどうつきあえばよいのか。そのつど例えば慈悲の瞑想※によって心を入れ替えることも出来ようし、余りにも度々思い出されるようなことであれば再度心静かに当時を振り返り、それが決して怖れるようなことではなかった、後悔するようなことではなく、また怒りを伴うことではなかった、返ってそのことがあったから今がある、それでよかったのだと冷静にその因果関係を見つめ、受け入れる機会を持つことも必要かも知れない。新型感染症に関して言うならば、怖いという思いの根源を捨てるためには、その本当の真実の実態を知ることが必要なのではないか。

最後は、執着から離れるとはどんなことだろう。物に対する執着はその人の経済状況にもより変化するであろうし、姿形に対する執着は年齢の経過と共に変わらざるを得ない。しかし、変化したとしてもその執着の根はそう簡単には無くならない。また自分の考え、習慣、嗜好に対する執着もより一層強固なものだろう。

執着していた思い出の品を捨てるようなことはたやすいが、その思い出を捨てることはそう簡単なことではない。しかし物を捨てることによって、目にする機会が薄れたことで執着が止むこともある。物が整理され生活がシンプルなものになることで好みや生き方が変わることもある。執着していることをわずらわしく思ったり、厭う心が生じるならばことは簡単だろうが、まずは執着していることに気づき、そのことによる不利益やとらわれた心による不快感や煩悶する自分に気づくことが必要だろう。そして、感染症が怖い怖いと思う自分の生きることに対する執着そのものを知ることもその思いを開放するためには必要だろう。

いずれにせよ、自分を変えるために断捨離はとても効果がある教えではないか。まずはもてる物の整理から始めてみてはいかがであろうか。


 ※慈悲の瞑想とは、7月2日投稿「いまをいかに生きるか」参照。
  「私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように 
   私の願い事がかなえられますように 私に悟りの光が現れますように」
   上記の言葉を各々3度ほど静かに念じます。
   そのあと、「私」のところに「身近な人々は」「生きとし生けるものは」、
   と入れ換えて、やはり3度ほど念じ、やさしい慈悲の心を全ての生き物たちにひろげていく。
   さらに、「自分を嫌いな人」も「自分が嫌いな人たち」も幸せでありますようにと念じていく。

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